[1570] 天平勝宝八載(756)五月十九日 2005-05-19 (Thu)

 聖武上皇を佐保山陵に葬り諡号を奉らぬことを詔する。
 この日、聖武太上天皇を佐保山南陵(奈良市法蓮町)に葬り奉った。その葬
礼の様子は仏に対するものに準ぜられ、供具として獅子座の上に乗った香、天
子の座に乗った金輪の幢(どう、旗のついた矛のようなもの)、大小の宝幢、
香幢、華縵(けまん、花輪)、蓋繖(きぬがさ、貴人などにさしかける日傘)
の類が用意された。なおこれらの供具の一部の残欠は正倉院に残されている。
また、葬列では笛人が行道(仏座の周囲を巡る儀式)の音楽を奏でた。
 この日、孝謙天皇は詔を出され、「上皇は出家して仏に帰依されたのだから
改めて諡号を奉らない」とされた。戒名があるので普通の名前はもはやつけな
い、ということになろうか。
 しかし、この異例な措置は当時の人々には受け入れられなかったのか、天平
宝字二年(758)の八月九日に即位されたばかりの淳仁天皇が詔を出され、
勝宝感神聖武皇帝の尊号と、天璽国押開豊桜彦尊(あめしるしくにおしはらき
とよさくらひこのみこと)という諡号が追上された。
 異例と言うならば、そもそも天皇が仏道に帰依したということ自体がおよそ
想定され得ない異例なことであった。聖武天皇の場合、扶桑略記によれば天平
二十一年(749)一月十四日に大僧正行基を戒師として菩薩戒を受けて出家
されたとしており、同年(天平勝宝元年)七月二日に孝謙に譲位される以前に
既に出家されていたらしい。この後出家されたまま重祚された称徳天皇、出家
されたまま立太子して悲劇的な最後を遂げた早良親王といった忌まわしい例が
続いた末、平安以降は在位中の天皇が出家される例はなくなる。
(続日本紀)


[1569] 暦仁元年(1238)五月十八日 2005-05-18 (Wed)

 鎌倉大仏の頭を挙ぐ。
 この日相模国深沢里の大仏の頭部を挙げ奉った。その周(高さか?)は八丈
(24m、但し立像の場合の高さであり座像の場合は約半分。現存の鎌倉大仏
は像高11m)であった。
 鎌倉大仏の造営については史料が非常に少なく、不明な点が多い。ここに記
されているのは最初に僧浄光の勧進(募金)によって造営された木造の大仏像
であると考えられる。この仏像は寛元元年(1243)に完成するがその後建
長四年(1253)には金銅の大仏の造営が開始されるが、これは釈迦如来像
と記録され現存の阿弥陀如来と異なる。また何故短期間に木造から金銅と仏像
が造り直されたのかについても全くの不明である。
 これらの造営については西大寺流真言律宗が関与していた可能性が高い。西
大寺を中興させたのは叡尊であるが、彼は早くから高弟忍性を東国に送ってお
り、その忍性は大仏建立の節目の度に鎌倉を訪れていた可能性が高い。特に銅
像の完成の時と見られる弘長二年(1262)には叡尊自ら鎌倉に下向してお
り、東国での布教の中心としてこの新しい大仏を位置づけていた可能性が考え
られる。叡尊は当時鎌倉幕府を実質的に牛耳っていた最明寺入道北条時頼の帰
依を受けており、何度も懇願されての下向であった。また完成後鎌倉大仏は忍
性が本拠とした極楽寺の管理下に置かれており、何らかのつながりがあったの
ではないか。
 当時は鎌倉新仏教の興隆期には当たるが、同時に唐招提寺や西大寺を中心と
した戒律復興運動など旧仏教も積極的な動きを見せていた。
(吾妻鏡)


[1568] 和銅五年(712)五月十七日 2005-05-17 (Tue)

 諸司・諸国に律令の遵守などを命ず。
 この日、中央官庁の主要官僚、及び諸国から上京してきていた朝集使たちに
次の五項から成る詔が発布された。
一.律令が公布されてから随分とたつのに未だ習熟せずに多くの過失がある。
 今後まだ違反する者があれば律によって処断する。
二.弾正台(中央の行政監察官)の役人は毎月三回、諸司を巡察し、間違いが
 あれば正させよ。もし違反者を摘発したら式部省に報告、勤務評定に反映さ
 せよ。
三.諸国から任を帯びて上京する使者は適切な人材を任命し、中央での質問に
 答えられるようにせよ。もし不適格であれば在国の担当者も含め前項の如く
 勤務評定に反映させる。
四.今後は毎年巡察使(地方の行政監察官)を派遣、地方政治を検校させるの
 で国司は隠さずにすべて報告せよ。もし隠していたことが監査により発覚し
 たなら前項の如く処断する。
五.国司は毎年官僚の勤務評定を式部省に送れ。式部省はこれを巡察使の所見
 と突き合わせて判定せよ。
 律令制下において、官僚の勤務評定は文官については式部省、武官について
は兵部省の管轄であった。ここで度々言われているように一般の官僚について
はこのような勤務評定の結果により何年かに一度昇進の機会が与えられた。但
し、五位以上の貴族については蔭位の制により最初からある程度の官位が与え
られるが、一般の役人は一生かかってもその地位に達することは難しかった。
(続日本紀)


[1567] 泰始四年(?、468)五月十六日 2005-05-16 (Mon)

 七支刀が造られる。
 日本書紀によると神功皇后摂政五十二年(252)九月十日、百済(くだら)
の近肖古王(166−213)の使者が日本の使者千熊長彦に従って来日、七
枝刀一口、七子鏡一面と種々の重宝を献上した。
 水戸藩医で国学を修めた菅政友(すがまさとも)は明治になって石上神宮の
大宮司となり、在任中に神庫にあった什物を点検しこの七支刀の存在に気が付
いた。彼はこれに銘文のあることを予想し、錆び付いた刀身を研ぎだし、予想
通り表裏にわたっての銘文があることを発見した。ただ、X線などの技術のな
かった当時、これはヤスリによる研ぎ出しであり、またその後不明確な一部の
文字を確定させるため再度研ぎ出しを試みた結果、一部の文字は永遠に失われ
てしまった。特に年号は西晋・泰始(268)、南朝・宋・泰始(468)、
東晋・太和(369)、北魏・太和(480)の各四年説等がある。失われた
部分を含め東洋史学者宮崎市定氏によって推定復元された銘文は以下の通りで
ある(同氏「謎の七支刀」による、一部同意の文字により置換)。
(表面)泰始四年五月十六日丙午正陽、百たび練りたる鋼の七支刀を造る、も
って百の兵(つはもの、兵器)を辟(さ)く、宜(よろ)しく侯王に供ふべし、
永年大吉祥(慣用の吉祥句)。
(裏面)先世以来未だこの刀あらず、百済王世子は奇しくも生まれながら聖徳
あり、故に倭王の為はじめて造る、後世に伝示せんかな
 泰始四年は日本では雄略天皇の治世である。高句麗(こうくり)の攻勢の前
に百済はこの七年後には一時滅亡、何としても日本の援助が必要な時であった。
(七支刀銘文)


[1566] 敏達元年(572)五月十五日 2005-05-15 (Sun)

 黒羽の表を王辰爾が解読する。
 この二年前、欽明三十一年の四月に高句麗(こうくり)の使者が風浪に流さ
れて越国(こしのくに、北陸地方、ここでは加賀市付近か)に漂着した。欽明
天皇の命により山背国相楽(さがらか)郡に客館を設けてここに案内したが、
翌年天皇の崩御によりこの使者は宙ぶらりんの状態になっていた。
 この年五月一日、敏達天皇は高句麗使がどうなっているかと確認、相楽館に
いると聞いて使者を派遣、献上物などを都(百済大井宮(くだらのおおいのみ
や、広陵町百済、橿原市天香具山西麓、河内長野市、南河内郡太子町など諸説
あり)に運ばせた。
 この日、高句麗からの国書を大臣(おおおみ)蘇我馬子に授けて解読を命じ
た。が、馬子が解読に当たらせた史(ふびと、書記官)たちは三日かかっても
全く歯が立たず、解読できなかった。しかし、王辰爾(おうじんに)という人
だけが解読に成功、天皇と馬子から激賞され、逆に他の史たちは「お前たちの
学んできたことは何故役に立たないのだ。お前たちは数は多くてもたった一人
の王辰爾にも及ばないではないか」と叱責された。
 この時の国書は烏の羽に書かれていた。黒い羽の上に黒字で書かれた文字を
読むことが出来なかったのだが、王辰爾はその羽に飯の湯気をあて、それを絹
布に転写して解読したという。この黒羽の国書というのが事実であったかどう
かは別にして、王辰爾は新しい渡来人と見られており、そうであれば古い時代
に日本に帰化して代を重ねた他の史たちの技術が陳腐化、新しい技術を要する
ようになったことを象徴しているのではないかと考えられる。
(日本書紀)


[1565] 霊亀元年(和銅八年、715)五月十四日 2005-05-13 (Fri)

 調・庸の納期・輸送方法を厳守させまた諸国製造の武器を整備させる。
 この日、諸国に対して次の三項目から成る詔が出された。
一.調・庸の納付期限を厳守すること。
二.庸の運搬を安易に海運業者に委ねることの禁止。
三.武器の製造に努め、毎年その見本を提出すること。
 第一項、調・庸の納付期限は国の遠近により定まっていた。毎年八月中旬よ
り納付を開始し、陸奥や薩摩のような遠国でも年内には完了しなければならな
かった。ここでは期限を越えて運送をしているために農耕にさえ支障が出てい
ることを指摘、今後このようなことがあれば厳罰に処することを告げている。
 第二項、調・庸の運送は基本的に陸路によるものとされ、海運の利用は禁止
されていた。しかし、現実には当時既に成立していたらしい海運業者に委託し
た運送も利用されていた。そもそも海運が禁止されているのは事故による海没
などを恐れていたためであった。その危惧の通り、現実に海没するものや濡れ
てしまったものなどが続出していたらしい。ここではこれ以前に出されていた
らしい海運利用を禁じる法令を遵守する事を改めて命じ、もし今後従わなかっ
た場合は処罰するばかりか結果として失われたものについては国司が弁償する
ことを命じている。現実や効率を無視してまでも令制に従うことを求めたもの
であるが、しかし実際に遠方から陸路調庸物を運搬してくる人々の苦労は大変
なものであり、現実策を模索する現地との軋轢がうかがえる。結局、航海技術
の進歩、官道の衰退、治安の悪化などを受けてやがてなし崩し的に海運は認め
られるようになっていった。
(続日本紀)


[1564] 和銅五年(712)五月十三日 2005-05-12 (Thu)

 大税借貸を悪用する国郡司らを戒む。
 この前年十一月二十二日、詔して諸国の大税(おおちから)を三年間無利息
で貸し出すことを命じた。大税は正税とも言い、蓄積された田租であり、その
内訳は毎年の田租をもとに非常時に備えてひたすら不動倉に蓄積される不動穀
と、出挙(すいこ、利息つきで貸し出し)された利息をもとに国衙の運営費等
にあてられた動用穀に分けられる。ここではその一方の柱である出挙を無利子
で行い、人々の生活の安定を図ったものである。
 ところが、この日出された詔によれば、もともとそのような意図で出された
この制度を悪用する国司・郡司がいたらしい。ここでは「今、国郡司と里長等
と、此の恩借(おんしやく)に縁(よ)りて、妄(みだり)に方便を生ず」と
するのみだが、恐らくは無利子のはずの出挙を利子を取って行い、或いは自ら
無利子の出挙を利用してその稲を又貸しすることにより私腹を肥やしていたも
のであろう。このため、「如(も)し身を潤(うるほ)さむことを顧みて、枉
(ま)げて利(くぼさ)を収めば、重(おもき)を以て論せよ。罪、不赦に在
(あ)らむ(もし私腹を肥やすために利子を取ったのであれば厳罰に処した上
で大赦などがあったとしても赦免の対象外とする)」という厳しい布告がなさ
れたのである。
 出挙は公営の公出挙(くすいこ)で3〜5割の利子、私営の私出挙で10割
という高利の利稲を取った。が、一般農民にとっては必要不可欠なものであっ
たらしい。播種期に借りれば基本的には収穫期にはその利息分以上の収入が見
込めることを考えれば必ずしも高利とは言えなかったのかも知れない。
(続日本紀)


[1563] 白雉四年(653)五月十二日 2005-05-12 (Thu)

 吉士長丹・高田根麻呂以下の遣唐使を派遣。
 この日、遣唐大使吉士長丹(きしのながに)、副使吉士駒(きしのこま)以
下の百二十一人の遣唐使を乗せた船と、同じく大使高田根麻呂(たかたのねま
ろ)、副使掃部小麻呂(かにもりのおまろ)以下百二十人の使節を乗せた船、
あわせて二隻の遣唐船が出発した。この遣唐使には中臣鎌足の長子である定恵
(じょうえ)や、唐で玄奘三蔵に師事した道昭をはじめとする多くの学問僧が
同乗し、はるかな唐の国を目指した。しかし、この時の二隻からなる遣唐使の
運命は大きく異なるものとなった。高田根麻呂以下の乗った船は七月、薩摩の
坊津を出航した後、硫黄島の東にある竹島付近で難破、乗員のほとんどは波間
に消え僅かに門部金(かどべのかね)ら五人だけが竹島にたどりつき、そこに
生えていた竹で筏を造って六日六晩飲まず食わずで漸く神島(未詳)に帰着し
た。遣唐船の遭難はほとんどが復路であるが、この時は往路での悲劇であった。
翌年二月にも遣唐使が派遣されているが、その時の記録ではこの留学僧らのう
ちで三人が海で死に、二人が唐で客死、二人が唐や新羅の船に便乗して帰国し、
使節と共に帰国したのは十二人であったことが記されている。
 吉士長丹以下の西海使は白雉五年の七月二十四日に百済・新羅の使節に送ら
れて帰国した。使節の名前がここで西海使となっていることなどから考えて、
彼らは朝鮮半島経由で唐に渡ったものと考えられ、遭難したのは直接唐を目指
した「南海使」であったのであろう。しかし、百済滅亡後は新羅との関係悪化
の結果として遣唐船は危険な南海の航路を採らざるを得なくなり、特にその帰
路に多くの悲劇をもたらすこととなった。
(日本書紀)


[1562] 和銅元年(708)五月十一日 2005-05-11 (Wed)

 銀銭を行う。
 この日、初めて和同開珎の銀銭を発行した。
 日本においては通貨発行以前、通貨の代わりになっていたものは布、米と地
金としての銀であったらしい。通貨的なものの最初の例として無文銀銭が発行
された(時期不明、近江朝頃?)が、これはおそらくその伝統に則り定量の地
金として流通を図ったものであろう。後、天武朝に富本銭が発行されても当初
禁止した銀銭の流通を三日後には認めるという経緯をたどり、その流通力の強
さを物語っている。必ずしも充分な量が生産されなかった富本銭が消えた後も
銀は依然として流通に使われていたのであろう。
 唐にならって銅貨を中心とした通貨政策を確立したい律令政府としては一気
に銅貨を発行、注通を統一したいところであったのだろうが、そのような現実
を無視することはできず、最初に発行したのはこの時の銀銭であった。従来流
通するものと同じ銀で通貨を発行することにより市場に対して通貨そのものに
対する違和感をなくすことが目的ではなかったかと考えられる。そしてある程
度の流通を待ってから三ヶ月後の八月十日、いよいよ本命の和同開珎銅銭を発
行し、さらに一年後の和銅二年八月二日には銀銭を廃止し、ここに漸く銅銭に
よる通貨の一本化が完成し、それ以降は銅銭を基本とする皇朝十二銭と呼ばれ
る通貨が天徳二年(958)の乾元大宝次々と発行されるようになる。が、日
本の鋳造技術そのものの衰退を受けて次第に品質の劣化が甚だしく、やがて流
通が盛んになる中世頃には粗悪で流通量も充分でないこれら皇朝十二銭ではな
く信頼感の厚い唐宋など渡来銭が専ら用いられるようになる。
(続日本紀)


[1561] 天平勝宝八載(756)五月十日 2005-05-10 (Tue)

 大伴古慈斐・淡海三船、朝廷誹謗の罪により禁固される。
 この日、出雲守大伴古慈斐(おおとものこしび)、及び内竪(ないじゅ、従
者)淡海三船(おうみのみふね、額田王の曾孫)の二人が朝廷を誹謗し無礼で
あった、という罪に問われて左右衛士府(えじふ)に禁固された。聖武天皇崩
御から八日後のこの事件の真相は不明であるが、この事件は当時兵部少輔(ひ
ょうぶしょうふ)の大伴家持に衝撃を与え、一族に自重を促す「族(うがら)
に喩(さと)す歌」を詠ませた。(万葉集巻二十・4465-4467、4465の長歌略)
 磯城島(しきしま)の 大和の国に 明らけき
  名に負(お)ふ伴(とも)の緒(を) 心努(つと)めよ
 (<敷島の> 大和の国に 明らかな 名高い大伴一族よ がんばろうぞ)
 剣太刀(つるぎたち) いよよ研(と)ぐべし 古(いにしへ)ゆ
  さやけく負(お)ひて 来(き)にしその名そ
 (剣太刀 いよいよ研ぎ澄ませ 昔から 清く伝えて 来たその名だから)
 が、その左注によれば古慈斐は三船の讒言によって罪に問われた、となって
いる。これは三船が政界を牛耳る藤原仲麻呂の子の藤原刷雄(よしお)と親交
があったために罪を免れ、古慈斐のみが罪に問われた、との説もあり、現に
二人とも十三日には放免されながら三船はその後特に処分されていないようで
あるのに、古慈斐は出雲守を解任され、土佐守に左遷されている。
 いずれにせよ、反藤原氏の雄、橘諸兄は既にこの二月に引退、大伴氏のこと
を高く買っていた聖武天皇も崩御され、後ろ盾を失っていた大伴氏をこの機に
叩いて自らの安泰を図った藤原仲麻呂の意図が見えるようである。
(続日本紀)


[1560] 斉明七年(661)五月九日 2005-05-09 (Mon)

 斉明天皇、朝倉橘広庭宮に入られる。
 この年一月六日、百済救援軍を自ら率いて出航された斉明天皇は三月二十五
日に娜大津(なのおおつ、博多)に至り、磐瀬行宮(いわせのかりみや、福岡
市南区三宅)に入られ、この地を「長津」と改められた。
 そしてこの日内陸の朝倉橘広庭宮(福岡県朝倉郡朝倉町)に入られた。しか
し、この時に朝倉社(あさくらのやしろ)の木を切ってこの宮を造営したため
に神が怒って殿舎を壊し、また宮中に鬼火が出た。そのために舎人(とねり、
近習)や侍者に多くの病死者が出た。
 磐瀬は西海道の駅があったところ。おそらく当初この駅館か郡司の館などに
相当する施設を行宮とされ、その間に突貫工事で宮殿を造営したものであろう
が、そのために朝倉社の鎮座される山の木まで切って使用したことを示すもの
であろう。朝倉社は「延喜式」に見える麻弖良布(まてらふ)神社と考えられ
るので朝倉宮もその近くにあったのであろう。これに対して神が怒ったという
のは恐らくは落雷があったものと考えられる。
 総力を挙げて行った百済救援戦争に大敗し、友好国百済は完全に滅亡して日
本が朝鮮半島への影響力を完全に喪失したことは当時の人々に対して大変な衝
撃であった。何故このような結果になったのか、という原因追及の中でこの事
件を始め当時は恐らく一部でささやかれただけであったと思われるようなこと
も含め、敗北の原因として追及・記録されたものと考えられる。
 それにしても、地方においてまで大規模な造営をさせた、ということはこの
斉明天皇の土木工事好きを彷彿とさせるものがある。
(日本書紀)


[1559] 欽明十三年(552)五月八日 2005-05-08 (Sun)

 新羅・高句麗、百済・任那を攻めんとしたため救援要請。
 この日、百済(くだら)、加羅(から)、安羅(あら)は使者を派遣し、高
麗(こま)と新羅(しらぎ)が連合して百済・任那(みまな)を滅亡させよう
としているので救援軍の派遣を依頼してきた。援軍によって機先を制し逆に攻
撃をかけよう、というのである。その「軍(いくさ)の多少は、天皇(すめら
みこと)の勅(みことのり)の随(まにま)に」として規模は一任された。こ
れに対し、日本から「百済・安羅・加羅と日本府(やまとのみこともち)がと
もに使者を派遣して奏上した内容は承知した。また任那と共に心をあわせ力を
一つにしなさい。もしそのようにすれば必ず天佑があって福を得、また可畏
(かしこ)き天皇(すめらみこと)の霊(みたまのふゆ)を頼(かがふ)らむ
(霊力によるご加護があるだろう)」との返答があった。
 この前年、百済は新羅と連合して高句麗と戦い、かつて高句麗に奪われた古
都を奪還した。その報復に今度は高句麗が新羅と結び反攻して来ようとするの
を察知、日本の援軍を得て迎撃しようというのが百済の戦略であった。
「日本書紀」欽明紀はその多くの記述が任那の滅亡や仏教の公伝などを含む対
外記事に割かれている。また百済聖明王の記述などは詳細を極め、任那の日本
府の官僚の内訌など、日本側から見たものではないような記事が少なくない。
これはこの巻の対外関係記事の多くが「百済本記」など現存しない百済側資料
をもとに記述されたためと考えられる。この条で記されている「可畏き天皇」
といった記述は原資料の大王を天皇に改めるような修辞は行われたとしても、
基本的には原資料によったものではないかと考えられる。
(日本書紀)


[1558] 天武五年(676)五月七日 2005-05-07 (Sat)

 下野、凶年のため民衆が子を売ることを求む。
 この日下野(しもつけの、栃木県)国司から報告があり、国内の百姓(おお
みたから、民衆)が凶作のために飢えて自分の子を売ろうとしています」と報
告があり、これを認めるよう要請があった。しかし、許可は下りなかった。
 律令制以前において、奴隷としての人身売買は必ずしも禁止されておらず、
平安時代の行政施行細則である「延喜式」には人身売買を三通りに分け、まず
持統三年(689)以前に売買が行われた場合はもとの契約通りとし、四年の
飛鳥浄御原令施行以降は奴隷に売られた者も負債のために奴隷にされた者も奴
隷身分から解放し、大宝二年(702)の大宝律令施行以降は人身売買は処罰
する、という規定がある。逆に言えば天武朝当時は慣例として人身売買が認め
られていたはずであるが、それが許可を求めていることから考えると何らかの
禁止令が出されていたのではないかと考えられる。そしてこの時許可されなか
ったことは天武朝においては人身売買に否定的であったと考えられ、それが飛
鳥浄御原令では必ずしも禁止するものではないように後退していた可能性が高
い。厳しい現実の前に理想は後退せざるを得なかったのであろう。
 技術が稚拙で生産余剰の少ない古代においてはもちろん飢饉は深刻な問題で
あり、奈良時代においても毎年のようにどこかの国で飢饉が発生している。し
かし当時は地方政治も充分に機能しており、非常に備えた不動倉と呼ばれる備
蓄があり、また周辺の飢饉となっていない地域からの穀物回送などによる賑給
(しんごう、施し)が行われたりした。この制度は律令制と共に平安時代には
崩壊、賑給も京の中だけで半ば形式的に行われるだけとなった。
(日本書紀)


[1557] 天武八年(679)五月六日 2005-05-06 (Fri)

 吉野の盟約。
 この前日、天武天皇はかつて壬申の乱の時の自分の出発点となった吉野離宮
(吉野町宮滝遺跡?)に行幸された。そしてこの日皇后鵜野讃良皇女(うのの
さららのひめみこ、持統天皇)、草壁皇子、大津皇子、高市(たけち)皇子、
忍壁(おさかべ)皇子、そして天智天皇の子である河島(かわしま)皇子、芝
基(しき)皇子の七人に詔し、「朕はお前たちとこの朝庭に誓いを立て、永遠
に変事のないようにしたい。どうだ。」と言われた。皇子たちは共に「その通
りです」とお答えし、草壁皇子以下一人ずつ「私たち(天智・天武皇子)合計
十余人はそれぞれ母を異にするとも分け隔てせずに助け合います。もしこの誓
いに背いたら命も失い子孫も絶えるでしょう。忘れじ、失(あやまた)じ」と
誓った。そして天皇は「お前たちは母は違うがこれからは同じ母から生まれた
のと同様に慈(いつく)しもう」と言って六人の皇子たちを抱き、「若し慈
(こ)の盟(ちかひ)に違(たが)はば忽(たちまち)に朕(わ)が身を亡
(うしな)はむ」と誓いを立てられた。続けて皇后も同じように誓われた。
 律令制以前、皇位継承法は固定していなかったため天武自身を含めて多くの
争いが行われた。この日天武が皇位継承候補者たる自分及び天智の皇子たちを
集めてこの誓いをさせたことは自分の後も同様の争いが起きるのではないか、
という強い危惧を抱いていたのであろう。しかもこの誓いの場に皇后を参加さ
せ、また母は違っても同母のように、と繰り返されていることはその不安の中
心にあったのが皇后の動向であったことを強く示唆する。
 天武の危惧は不幸にも的中し、この誓いの通り彼の血統は結局断絶した。
(日本書紀)


[1556] 天智七年(668)五月五日 2005-05-04 (Wed)

 蒲生野に縦猟。
 この前年四月に近江大津京に遷都された天智天皇はこの日皇太弟大海人皇子
(おおあまのみこ)以下と共に蒲生野(かもうの、滋賀県蒲生郡安土町?)に
薬草を採りに出かけられた。この時に額田王(ぬかたのおおきみ)と大海人皇
子との間で交わされた歌はあまりにも有名である。
 あかねさす 紫草(むらさき)野行き 標野(しめの)行き
  野守は見ずや 君が袖振る
 (<あかねさす> 紫草の生える野を行き 御料菜園を行って
  管理人が見ていますよ あなたが私に袖を振っているのを)
 紫草(むらさき)の にほへる妹(いも)を 憎くあらば
  人妻故に 我(あれ)恋ひめやも
 (紫草のように 匂うが如く素敵なあなたを こ憎らしいと思ったら
  人妻と知っていても 恋してしまいましょうか)
 大海人皇子は後の天武天皇。額田王はもと天武の妃であったが後にいつの頃
か天智の妃となったらしい。二人の間の娘である十市皇女(とおちのひめみこ)
は天智の子である大友皇子の妃であり、また天智の娘の大田皇女などが天武の
妃であるなど、天智と天武の間には何重もの関係が結ばれていた。
 この歌の贈答は自分のもとを離れていった額田王に天武がまだ想いを寄せて
いることを示したもの、とも考えられるが、二人の年齢は共に定かではないも
ののその子の年齢からは恐らく共に四十歳前後ではないかと見られる。であれ
ばこの歌についても必ずしも恋愛感情からのものではないかも知れない。
(日本書紀)


[1555] 延暦二年(783)五月四日 2005-05-03 (Tue)

 宇佐大神託宣し大自在王菩薩と称する。
 宇佐八幡宮(大分県宇佐市)は八幡宮の本宮であり、八幡大神などを祭る。
八幡大神は応神天皇とされるが、これが当初からのものであったかどうかは不
明。この日の託宣は道鏡を巡る事件を経てもなお桓武朝にも強い影響力を保持
し続けた宇佐八幡宮が今後とも仏教と習合することで力を得ていこうというも
のであろうと思われる。
 よく知られているように、宇佐八幡宮は大仏建立を奇貨として神でありなが
ら仏法に帰依するとの神託を下し、急速に中央に接近する。途中で偽の神託が
露見するなど紆余曲折を経てはその都度時の権力者にすり寄って勢力を扶植し
続けた。最後には道鏡に接近、これに皇位を伝えよ、との神託があった、との
騒ぎも起こしたが、これは和気清麻呂の活躍で阻止された。しかし、こういっ
た過程を経て結局八幡宮に対する朝廷の尊崇は高まり、九州第一の神社とされ
る。国分寺・大仏建立に協力した結果東大寺の傍らの手向山八幡宮を始め各国
分寺の近くに勧請されたほか、後には平安京の南に石清水八幡宮として勧請さ
れ、朝廷の手厚い保護を受ける。更にこの八幡宮を氏神とした清和源氏によっ
て鎌倉に勧請され、それが源頼朝によって鎌倉の中心をなす鶴ヶ岡八幡宮とし
て整備されると武家の守護神として全国に広まるようになる。
 現在全国に最も普遍的に見られる八幡宮や天満宮、稲荷社、金比羅宮などは
いずれも強く仏教と習合しており、また庶民の現世利益を吸収することにより
主に中世以降爆発的に広まったものであり、古来の神道信仰とは異質なもので
ある。そしてその先鞭をつけたのがこれら八幡宮に他ならない。
(扶桑略記)


[1554] 天平勝宝八載(756)五月三日 2005-05-02 (Mon)

 聖武法皇崩御に伴い三関固守、葬儀関係者任命。
 この前日、病床にあられた聖武法皇の平癒を願い伊勢神宮に奉幣が行われ、
また全国のこの年の租税が免除された。善行によって仏の加護を願ったのであ
る。しかし、そういった必死の願いも空しく、その日法皇は内裏正殿にて崩御
された。宝算五十六歳であった。そしてその遺詔により道祖王(ふなどのおお
きみ、天武天皇の孫、新田部親王の子)を皇太子とされた。
 そしてこの日、非常事態に備えて鈴鹿・不破・愛発(あらち)の東国に通じ
る三つの関所を閉じて厳守が命ぜられた。この三関(さんげん)固守は大葬な
どの際にはこれらの関所が廃止された後も形式的に実施されたが、この段階で
はもちろん三関は機能しており、混乱に乗じて反逆者が東国に逃亡しそこを拠
点に反乱を起こすことを防ぐためのものである。
 またあわせて御装束司(みよそいのつかさ、喪葬に必要な衣服・調度などを
準備する役所)、山作司(やまつくりのつかさ、陵墓造営のための役所)、造
方相司(ぞうほうそうのつかさ、方相神に扮して悪霊を払うための方相関係の
調度類調達のための役所)、養役夫司(ようやくぶのつかさ、陵墓造営などに
使役する役民を管理する役所)といった葬儀関係の臨時の官司の担当者を任命
し、六日には挙哀(こあい、声を挙げて悲しみを表す)などの儀式を経て十九
日に佐保山陵に葬った。
 大化の薄葬令以降、古来の長期に亘る殯宮(ひんきゅう、現在の通夜に近い
儀式)儀礼などが徐々に簡略化され、火葬の導入などを経て聖武天皇の場合は
大幅に仏教儀礼化しており、この方向が以降おおむね定着していく。
(続日本紀)


[1553] 和銅五年(712)五月二日 2005-05-02 (Mon)

 諸国郡郷名に好字を用いしめる。また風土記撰上を命ず。
 この日、畿内と七道の各国・郡・郷の名前は「好(よ)き字」を用いるべき
ことが命ぜられた。また、あわせてそれぞれの郡の中で産する鉱物や動植物を
網羅し、土地の肥沃の度合、山川原野の名前の由来、そして古老の伝える旧聞
・異事を史籍に記載して言上するべきことが命ぜられた。
 この前半は従来は文字数や使用する文字に特に制限がなかった地名の表記が
統一されることとなった。ここでは触れられていないが、行政施行細則である
「延喜式」民部省の条によって文字数も二文字と定められたことが知られる。
但し、「好字」の基準は不明であり、出雲国風土記によれば秋鹿(あいか)郡
伊努(いぬ)郷を伊農(いぬ)郷に改める一方、出雲郡伊農郷は逆に伊努郷と
改めているほどであり、それほど厳密ではなかったのかも知れない。この結果
例えば近淡海(ちかつあはうみ)は近江、上毛野(かみつけの)は上野、とい
う短縮が行われる一方、木(き)の国は無理に伸ばして紀伊となった。また参
河(みかわ、愛知県東部)の穂郡(ほのこおり)も同様に宝飫(ほお)の文字
が宛てられたが、余り使用されない「飫」(お)はやがて「飯」と混同され、
ついには宝飯(ほい)郡と文字に引きずられて地名まで変化してしまった。
 この日の命令の後半によって編纂されたのが「風土記」である。現存するの
は出雲の完本と常陸、播磨、肥前、豊後の抄本、後は逸文だけであるが、これ
らは上記の命令に基本的には従いつつもその目的が課税の資料とすることが明
らかであるため、土地の肥沃度や特産物は必ずしもすべてを網羅していないの
は恐らく現地による抵抗ではないかと考えられる。
(続日本紀)


[1552] 宣化元年(536)五月一日 2005-05-01 (Sun)

 那津官家を整備せしめる。
 この日、宣化天皇は詔を発して那津(なのつ)の口(ほとり)に官家(みや
け、直轄の役所、恐らく大宰府の前身、福岡市南区三宅?、博多区比恵遺跡の
説もあり)を修造し、九州の筑紫・肥・豊三国(宮崎・鹿児島を除く九州の全
域?)の屯倉(みやけ、大和朝廷直轄領)の備蓄を那津に集めさせた。また同
時に阿蘇君に河内茨田屯倉の、蘇我稲目を通じて尾張連に尾張の屯倉、物部麁
鹿火(もののべのあらかい)を通じて新家(にいのみ)連に新家屯倉(伊勢か)
の、阿倍臣を通じて伊賀臣に伊賀の屯倉の穀(もみ)を九州に運ばせた。「日
本書紀」のこの記事は「漢書」をもとに民衆の生活安定のため、という修辞を
行っているがこの措置は明らかに朝鮮半島への軍事行動のため兵糧を集積させ
るためのものと見られる。継体朝の百済への任那四県割譲に端を発し半島情勢
は激動しており、割譲に怒った新羅は大攻勢に出て任那の中心の一つ金官加羅
を滅ぼして傘下に収めるに至った。一方で日本は筑紫君磐井の反乱もあって有
効な対策が取れなかった。
 この日の措置によって集積された兵糧は翌年十月の大伴狭手彦(おおともの
さでひこ)による任那・百済の救援活動となって現れる。
 また、この日の措置でもう一つ興味深いのは大王家が直接命令を下したのは
阿蘇君のみであり、他はすべて蘇我、物部、阿倍といった朝廷を構成する有力
豪族を通じて命令が伝達されている。これは恐らく当時の大和朝廷の豪族連合
という実態をよく示すものであり、律令時代のような中央集権とも後の封建制
度とも異なるその姿を垣間見せている。
(日本書紀)


[1551] 天智九年(670)四月三十日 2005-04-29 (Fri)

 未明に法隆寺全焼。
 この日の未明、法隆寺に火災(原因についての言及はない)があり、「一屋
も余ること無」く全焼してしまった。
 これが有名な法隆寺炎上の記事であり、「法隆寺資財帳」など他には見られ
ない所伝であることなどから長らくこの記事の正誤を巡って法隆寺再建・非再
建論争が繰り広げられたが、その後現在の法隆寺と方位を異にする四天王寺式
伽藍配置の若草伽藍が発掘されたことによって現在の法隆寺はこの時の火災後
の再建であり、若草伽藍こそがもとの法隆寺である、ということが確認された。
 しかし、問題も残された。若草伽藍には明確な火災の跡が検出されなかった
のである。一屋も余すことなく全焼したのであれば相当激しい火災の痕跡があ
ってしかるべきであるのにそれほど激しくはなかったのである。現に全焼した
と伝えられる大官大寺や、伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の反乱によって
全焼したとされる多賀城や天慶の乱で藤原純友に火をかけられた大宰府政庁な
どには激しい火災の跡がまざまざと残されていたのであり、その点が疑問とし
て残された。そしてさらに先年法隆寺五重塔の心柱の年輪を調べた結果、この
心柱は推古二年(594)に伐採されたものであることが判明した。心柱は五
重塔の中心を貫く中心的な柱であり、焼け残った部材を再利用したなどとはま
ず考えられない。一方でその五重塔の瓦の文様などは明らかに七世紀末の再建
を示しており、法隆寺再建を巡る筋の通った説明は出来なくなってしまった。
 数多の謎を秘めて法隆寺は今日なおその飛鳥時代のままの美しい寺容をその
法灯と共に今日に伝えてくれている。
(日本書紀)


[1550] 天平神護二年(766)四月二十九日 2005-04-29 (Fri)

 聖武天皇の皇子と自称する者を配流。
 一人の男が自らを聖武天皇の皇子であり、石上志斐弖(いそのかみのしいて、
釆女(うねめ、女官)か、不詳)の子である、と称していた。調査の結果、こ
れは詐称であることが判明したため、彼を遠国へ流罪とした。
 もちろんこの聖武ご落胤という自称が正しいか、それともこの日の処断に見
られるように「天平の天一坊」であったのかは不明である。しかし、聖武は孝
謙のほかにも少なくとも三人の皇子女をなしており、「お手つき」となった釆
女などが懐妊していた可能性は否定できない。
 しかし、自らが「中継ぎ」に徹した途端にすべての権力を失うことを知って
いた称徳天皇にとって、聖武の皇子の存在(それまでの経緯からすれば無条件
で皇位継承の最大の候補者になる)は自らの存立基盤を否定し去るものであり
絶対に許容できないものであった。淳仁天皇と決裂して以降の彼女の行動を考
えるとき、彼の出自がたとえ事実であっても認められる可能性はなかった。
 仏教に深く帰依しながら夥しい人々を殺した孝謙/称徳天皇がそのような激
しい行動を取るときは決まって後継者の問題があったと言える。周囲はあくま
でも彼女を「中継ぎ」としてしか見ていないのに対して、彼女自身は恐らく我
慢がならなかったのであろう。自分を真の天皇として見てくれた恐らく唯一の
人物、道鏡への傾倒もそのためであったのではなかろうか。
 彼女の暴走はその後は皇太子制の確立もあって女帝の登場を妨げることにな
った。再び女帝が登場するのは幕府への面当てのために後水尾天皇から寛永六
年(1629)に譲位された明正天皇のこととなる。
(続日本紀)


[1549] 崇神十一年(紀元前87)四月二十八日 2005-04-28 (Thu)

 四道将軍、平定を復命。
 崇神十年九月九日、天皇は大彦命(おおひこのみこと)を北陸(くぬがのみ
ち)に、武渟川別(たけぬなかわわけ)を東海(うみつみち)に、吉備津彦
(きびつひこ)を西道(にしのみち)に、丹波道主命(たにはのみちぬしのみ
こと)を丹波に、それぞれ派遣した。そして従わない者があれば兵を挙げて伐
(う)て、と命ぜられた。これが四道将軍である。しかし、九月二十七日、武
埴安彦(たけはにやすびこ、孝元皇子、崇神の叔父)の反乱事件が起こり、彼
らはこれの鎮圧にあたったため実際の出発は十月二十二日のことであった。
 その半年後のこの日、四道将軍はそれぞれの地方を平定した旨を復命した。
 崇神朝に大和朝廷が東北地方などを除く日本の主要部を統一した、とすると
この四道将軍はまさにその統一の過程を示す伝説となる。但し、北陸・東海は
ともかく、西道は吉備津彦の名が示すとおり吉備地方までの可能性があり、ま
た山陰でなく「丹波(後の丹波・丹後・但馬、兵庫県と京都府の北部)」であ
ることは出雲や九州がこの段階ではまだ服属していなかった可能性をも示唆す
る。また彼らの派遣後具体的な戦闘の記述がないことはこれら将軍が必ずしも
武力を用いた征服ではなかったことをも示すものかも知れない。
 しかし、いずれにしても伝説の域を出なかったこの説話が一挙に現実味を帯
びたのは埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣から銘文が発見されたことによ
る。辛亥年(471?)に造られたこの鉄剣の主である乎獲居臣(ヲワケのオ
ミ)の上祖(祖先)として意富比●(●は土偏に危、オホヒコ)の名が記され
ていた。このオホヒコと大彦命はまず同一人物であろう。
(日本書紀)


[1548] 宝亀六年(775)四月二十七日 2005-04-27 (Wed)

 井上内親王・他戸王、薨ず。
 もと皇后であった井上内親王(聖武皇女)と、その子(光仁皇子)でもと皇
太子であった他戸王(おさべのおおきみ)は巫蠱(ぶこ、他人を呪術により呪
う罪)によってその地位を追われ、更に同じ罪を重ねたとして大和の宇智郡に
あった没官宅(罪などで没収された官人の家)に宝亀四年十月からの一年半の
間幽閉されていたが、この日ともに卒された。
 いくら何でも親子が同日に亡くなるというのはあまりにも不自然であり、自
殺したかまたは暗殺されたとしか考えられない。
 読者は覚えておられるだろうか。天応元年(781)二月十七日の記事にお
いて光仁天皇がその長女能登内親王が薨じられたのに対して親子の恩愛の情に
あふれる、心の底からの悲しみが伝わってくるような宣命が出されたことを。
その同じ光仁天皇が不遇時代から苦楽を共にした妻とその子に対してなしたこ
の仕打ちを考えると、その闇は果てしもなく暗い。
 人の死亡記事はその人の身分によって崩、薨、卒、死の区別がある。彼女た
ちは本来は少なくとも「薨」が用いられるべき身分であったのに無位の皇族扱
いの「卒」となっている。(同様に、事実上流罪のまま亡くなった道鏡や死後
に藤原種継暗殺事件の黒幕とされた大伴家持は「死」とされている。)この後
冤罪により流される途中で恨みを呑み絶食して亡くなった早良親王はその怨霊
を恐れた桓武天皇によって名誉回復が行われ、既に完成していた「続日本紀」
から関連記事が削除されるなどの措置が取られたが、彼女たち不幸な母子につ
いては名誉回復以外の措置はほとんど取られることがなかった。
(続日本紀)


[1547] 宝亀元年(神護景雲四年、770)四月二十六日 2005-04-26 (Tue)

 百万塔の功成り諸寺に分置。
 天平勝宝八年(756)に発生した恵美押勝(えみのおしかつ)の乱により
多数の死者を出した追善として称徳天皇は一百万基の三重の小塔を造らせ、そ
の中に「無垢浄光大陀羅尼経(むくじょうこうだいだらにきょう)」という経
典を書写または印刷させたものを収めさせた。これがこの日になって完成、十
大寺に分置された。十大寺は東大寺、西大寺、元興寺、薬師寺、興福寺、法隆
寺の六寺が記録に残るほかは恐らく大安寺、弘福寺(川原寺)、四天王寺と西
隆寺または崇福寺であろう。各寺に一万基ずつ納められたのであろうが、周知
の通り法隆寺に数千基残るほかは明治初期、廃仏毀釈の時期など法隆寺が厳し
い財政難に陥った際に流出した少数が各所に残るのみであり、他の寺には全く
残されていない。東大寺の二度に亘る全焼を始め上記いずれの寺も再三の火災
に遭っており、法隆寺だけでも残ったことは奇跡に近いであろう。また、あま
りにも数が多かったため一部の経は印刷されたものが用いられたが、これは現
存世界最古の印刷物としても知られる。
 この日あわせて常勤の関係者百五十七人に叙位が行われた。法隆寺に残る塔
の墨書には二百五十人前後の人名が残されているので末端の臨時雇いの工人な
どには叙位されることがなかった者もいるのであろう。
 続日本紀の記録では高さ四寸五分(13.5cm)、直径三寸五分(10.5cm)とさ
れ、現存するものの塔身部の高さと一致する。その上に相輪部があるので総高
は21.5cmになる。轆轤(ろくろ)を用いた木製品であり、さすがに数が多いの
で制作者による技術の差を反映するのか出来不出来があるという。
(続日本紀)


[1546] 養老六年(722)閏四月二十五日 2005-04-24 (Sun)

 太政官、良田百万町歩の開墾を計画。
 この日、太政官は次のような四項目の政策を立案、上奏して裁可を得た。そ
の内容は次の通りである。
一.蝦夷(えみし)の反乱などによって荒廃した陸奥・出羽両国(東北地方全
 域)の民衆を安定させるために、租税を軽減し、両国出身の兵士や資人(し
 にん、従者)、釆女(うねめ、官女)などを本国に帰還させる。
二.食糧増産のため良田一百万町歩を開墾する。そのため民衆を臨時に一人あ
 たり十日間使役してその間の食料は官物を用いる。また民衆が独力で開墾を
 行った場合にはその規模に応じて叙勲などの恩典を与える。
三.公私の出挙(すいこ、種籾の高利貸し)の利益は年三割とする。
四.兵営・城柵に食料を運んだ者に対して叙位を行う。
 この中でも特に第二項の百万町歩開墾計画は実に壮大な計画であり、律令制
に基づく班田収受のための口分田不足を解消するために大規模な開墾を図った
ものと見られる。平安初期の百科事典「和名抄」が伝える当時の全国の田積が
八十六万町歩余であったということからもこれがいかに大きな数字であったか
がわかる。もちろん、これは実現せず、深刻な口分田の不足はこの時の付則に
あった民衆による開墾の奨励をさらに徹底させ、翌年の三世一身法(さんぜい
っしんのほう)、そしてさらに二十年後の天平十五年(743)には墾田永年
私財法が制定され、公地公民の制度をなし崩し的に崩壊させるに至った。この
背景には口分田の偏在・不足からはるか遠方(他国の場合さえあった)の口分
田を班給せざるを得ない場合がある、といった現実があった。
(続日本紀)


[1545] 天平十九年(747)四月二十四日 2005-04-23 (Sat)

 布勢水海遊覧。
 越中守(えっちゅうのかみ、富山県と能登半島を管轄した)であった大伴家
持(おおとものやかもち)はこの年正税帳(その国の財政の収支決算書)を携
えてこの夏一時平城の都に帰ることになった。そのため、送別の宴会が何度か
開かれたほか、この日家持は越中国府周辺随一の景勝地である布勢(ふせ)の
水海(みずうみ)を遊覧した。これも送別の宴の一つであったのかも知れない
が、二日後に掾(じょう、三等官)で家持とは同族の縁もあり非常に親しかっ
た大伴池主(おおとものいけぬし)がこの時の歌に追和しているので恐らくは
都に残る妻大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)への土産話
のために帰京前に出かけたものであろうか。いずれにせよ、家持は久しぶりに
都に帰るのが嬉しくて仕方がなかったことであろう。
 布勢の海の 沖つ白波 あり通(がよ)ひ
  いや年のはに 見つつしのはむ
 (布勢の水海の 沖の白波のように しょっちゅう通って
   毎年毎年 鑑賞しましょう) (3991の長歌は略)
 但し、この歌は実際には布勢の水海に行ったのではなく、宴会の中でその風
景を思い出して詠まれたもの、とする説もある。
 布勢の水海は富山県氷見市南部にあった湖。越中へやって来た客人などもい
つも遊覧に誘うほどで非常に美しいところであったらしい。残念ながら、近世
以降の干拓事業のため、現在は完全に埋め立てられてしまい、跡形もなくなっ
てしまっている。
(万葉集巻十七・3991-3992)


[1544] 養老元年(霊亀三年、717)四月二十三日 2005-04-23 (Sat)

 僧尼統制の詔、行基集団の活動を指弾。
 この日僧尼の統制についての詔が発布された。この詔は次の三項目からなっ
ていた。
一.僧尼は政府の許可を得ず勝手に髪を切り僧の姿をすることの禁止。
二.僧尼は寺に常住し托鉢の際には許可を得ること。これに反する行基集団の
 弾劾。
三.僧尼による治療や病気平癒の祈祷なども許可のもとで一定の規定に則って
 行うこと。
 この中で特に有名なのは第二項で、これによると「小僧行基」とその弟子た
ちはちまたに群集して、因果応報の教えを説いたり、指や肱の皮を焼いて剥い
だり(何らかのまじないであろうか)、民家をみだりに訪問しては教えを説い
て喜捨を強要したり、偽って聖道と称して民衆をたぶらかしている、などとさ
れており、激しく非難されている。
 僧になると税や労役・兵役などを免除されるため困窮した農民は正規の手続
きを経ることなく仏教の知識もないまま僧になり(私度僧)、これが国家財政
にとっても次第に重大な問題になっていた。やがて政界を主導するようになる
長屋王などはこういった私度僧に厳しい姿勢を見せていたらしい。
 しかし、やがて始まる大仏造営の巨大事業には道路や橋の修理・造営などで
民衆の圧倒的な支持を集めていた行基集団の力を借りざるを得ないようになり、
この時「小僧」と蔑まれた行基が天平十七年(745)には僧としての最高位
である大僧正に任ぜられるに至る。
(続日本紀)


[1543] 天平勝宝元年(天平感宝元年、749)四月二十二日 2005-04-21 (Thu)

 陸奥守百済王敬福、黄金九百両を貢す。
 この年二月二十二日、陸奥守百済王敬福(くだらのこにきしきょうふく)が
急使を発して同国少田(おだ)郡から黄金が産出された、ということを報告し
た。折から大仏像に塗金するための金の調達に苦しんでいた聖武天皇は狂喜し、
四月一日には東大寺に行幸されて大仏の前にその慶事を報告、「天平」の年号
に記念の文字を加えて「天平感宝」と改元することやこのことを祝賀して臨時
の叙位を行うなどした。特にこの中で大伴・佐伯の両氏が古来「海行かば水漬
(みづ)く屍(かばね)、山行かば 草むす屍、王(おおきみ)の 辺(へ)
にこそ死なめ、のどには死なじ(海を行けば 水中に屍をさらそう、山を行け
ば草の中に屍をさらそう、陛下の お側で死のう、畳の上では死ぬまい)とい
う家訓をもとに忠勤に励んできたことを褒めて特別に一律に昇進させている。
このことは当時越中守として越中国府(富山県高岡市)にあった大伴家持を感
激させて先の家訓(末句が「顧みはせじ」)を歌いこんだ長歌(陸奥国に金を
出す詔書を賀す歌、巻十八・4094)などを詠ませている。
 この日、百済王敬福自身が入京して産出された黄金九百両を献上した。この
黄金を用いて大仏に鍍金が行われたのであるが、大仏の全身に鍍金するために
必要な黄金の総量は一万四百四十六両であり、三年後の大仏開眼の際にもその
尊顔の周辺の一部しか鍍金はされていなかったとされる。
 百済王敬福はもと百済の王族の子孫で、彼らに従う百済からの亡命技術者た
ちの先進技術がこの黄金産出につながったのであろう。この時の産出地は宮城
県遠田郡涌谷町の黄金山(こがねやま)神社の一帯と考えられている。
(続日本紀)


[1542] 天平二十年(748)四月二十一日 2005-04-20 (Wed)

 元正上皇崩御。
 この日、元正太上天皇が内裏の正殿で崩御された。宝算六十九歳。
 文武天皇の崩御により急遽「つなぎ」として皇位に立ったその母の元明天皇
からさらに位を譲られたのが文武天皇の姉に当たる元正天皇であった。その即
位はそれまでの常識では考えられないものであった。即ち、天皇になるのは成
年皇族男子であり、それ以外では皇后(皇太后)が次の天皇までの中継ぎとし
て皇位を継ぐことはあっても、それ以外の事態は全く想定されていなかったの
である。しかし、文武崩御という非常事態の際には文武には皇族の皇后はなく、
また聖武の母である夫人の藤原宮子は精神に異常を来していたらしく、結果と
して実際には自身即位していない文武の父の草壁皇子の妃であった元明天皇は
その夫草壁(岡宮天皇)が即位したものとみなされ、文武の遺詔を受けた形に
して皇位を継いだのであった。更に元明から譲位された元正に至っては未婚の
皇女であり、あらゆる点で前例のない事態であった。但し、古くは清寧天皇崩
御の後、顕宗・仁賢両天皇の譲り合いの間、二人の姉の飯豊皇女が皇位を代行
した、という伝承があり、恐らくこれを根拠としたものであろう。
 元明が元正に譲位された理由も本当に身体の不調が理由であれば既に文武の
即位時の年齢を超えていた聖武に譲位すればよかったのであり、やはりこれは
藤原氏の露骨なやり方に嫌気がさして藤原氏との関係が薄い娘に後事を託した
のではないかと考えられる。現に元正天皇は長屋王、そして橘諸兄の後ろ盾と
なって藤原氏に対抗してきたのであった。彼女の崩御によって藤原仲麻呂ら藤
原氏を抑えることが出来る者はもはやいなくなってしまった。
(続日本紀)


[1541] 霊亀二年(716)四月二十日 2005-04-19 (Tue)

 貢調脚夫の疲弊を見て国司治政の良否を判断させる。
 日本の律令制では税は地方から納税者が京まで自分で運搬して収める、とい
うのが原則であった。もちろんその往復の旅費も自分で負担せねばならず、公
用旅行者のための施設である駅や馬が使用できるわけではなく、また難破の危
険があることから海路の運送も禁止されていた。例えば陸奥国の場合、平安初
期の「延喜式」の規定によれば往路五十日、復路二十五日であるから往復で七
十五日以上もの間の自分の食料を運搬する税のほかに持参しなければならなか
った。これはどう考えても無理があった。
 この日の詔ではそうして納税のため上京してきた脚夫(きゃくぶ)が入京し
たら関係部署が彼らの携行した食料を調査することを命じている。即ち、帰り
の分の食料も携行してきているかどうかを調べさせ、もし充分でなければその
国は苛斂誅求のために民衆が苦しんでいるものと判断し、それによって国司を
処罰することを告げている。
 この詔の後半では入京する人夫がぼろぼろの服を着ている様子が描かれ、そ
こまで民衆を苦しめて数字だけ整えている現状を憂えている。これからは民の
痛みを憐れんで政治を行うように、ということが述べられてはいる。大宝律令
を制定してから十五年ほどでその重大な問題点に気がつきながら、結局精神論
で逃げているのはこの時代の限界だろうか。このような無理が続くわけがない
ことが結局律令制崩壊の一因であった。平城京の繁栄を支えた遠隔地の民衆は、
弥生時代同様の竪穴式住居に住んで「貧窮問答歌」に描かれたような悲惨な生
活を送っていた。
(続日本紀)


[1540] 霊亀二年(716)四月十九日 2005-04-18 (Mon)

 河内国の三郡を割き和泉監を設置。
 大化改新で定められた畿内の範囲はもともとの大和朝廷の直轄地を示すもの
であったが、令制でこれが大倭、河内、摂津、山背の四畿として固定され、畿
内の住民は税の優遇などの恩典が与えられた。もっとも代わりに宮殿造営など
の労役に従事する必要があり、建前としては必ずしも地方に比べて優遇されて
いたとは言えない。が、奈良時代において畿内の住居はほとんどが掘っ建て柱
・板壁の住居であり、依然として竪穴住居を主体とする地方の住居とは顕著な
差異が認められるのはこの優遇の結果であろうか。
 畿内のうち、大和国には平城京は含まれず、左右の京職(きょうしき)の管
轄、副都である難波宮があった摂津も国でなく一段階上の摂津職(せっつしき)
という役所が置かれた。そしてこの日河内の南部、離宮である珍努宮(ちぬの
みや、大阪府和泉市?)が置かれた地域を中心に大鳥・和泉・日根郡(堺以南
の大阪府南部沿岸)を割いてこの日新たに「和泉監(いずみのげん)」が設置
された。同様に大和の南部、吉野地域には恐らく同じ頃に「芳野監(よしのの
げん)」が設置された。ここに畿内は「四畿」から「四畿二監(しきにげん)」
となった。この頃は国や郡の設置・再編が積極的に行われており、その一環と
して離宮のある地域についても特別行政機関となったものであろう。
 この後橘諸兄政権での財政緊縮策の一環として和泉・芳野二監は廃止されて
しまうが、その後天平宝字元年(757)に和泉のみ同じ地域が和泉国として
再び設置される。「五畿七道」というように畿内が五ヶ国と固定するのはそれ
以降のこととなる。
(続日本紀)


[1539] 天武四年(675)四月十八日 2005-04-17 (Sun)

 麻続王、罪を得て流罪となる。
 麻続王(おみのおおきみ)は伝未詳。恐らく天武天皇の中央集権政策に異を
唱えたため罪に問われたものであろう。天武朝には反対派を次々と処断したよ
うな記録が散見される。この結果として「大君は 神にしませば」という歌に
見られるように天皇の絶対的な権威を確立することに成功した。日本書紀の記
録では彼は因幡(いなば、鳥取県西部)に流され、その子の一人は伊豆島(伊
豆大島?)に、もう一人は血鹿島(ちかのしま、長崎県五島列島)にそれぞれ
流された、と伝える。
 一方、万葉集には彼が伊勢の伊良虞(いらご)の島(愛知県伊良湖岬沖合の
神島?)に流された時に人が哀傷して作った歌
 打麻(うちそ)を 麻続王 海人(あま)なれや
  伊良虞の島の 玉藻(たまも)刈ります (巻一・23)
及びそれに彼が唱和した歌が残されている。
 うつせみの 命を惜しみ 波に濡れ
  伊良虞の島の 玉藻(たまも)刈り食(は)む (巻一・24)
 万葉集の左注でも歌辞によって後の人が誤ったか、としているが、一方では
「常陸国風土記」の行方(なめかた)郡板来(いたく)村(茨城県潮来町)の
板来駅家の記述に「飛鳥の浄御原の天皇の世に、麻続王を遣(やら)ひて、居
(す)まはせたまひし処なり」という記述がある。三者三様の記述が何の故で
あったのか、実際はどうだったのかは不明だが、いずれにせよ伝説化するほど
強烈な印象を当時の人に残した事件であったらしい。
(日本書紀)


[1538] 天武四年(675)四月十七日 2005-04-17 (Sun)

 狩漁と食肉の制限を命ず。
 この日天武天皇は狩漁や食肉に関する詔を出された。それは
(1)動物を捕らえる罠や落とし穴、武器を用いた仕掛け設置の禁止。
(2)四月一日以降九月三十日以前に梁(やな、遡上する魚を捕らえる罠)を
  設置することの禁止。
(3)牛・馬・犬・猿・鶏の肉を食することの禁止。
といったことからなり、違反者は処罰する、とした。
 このうち、罠などの禁止はそういった罠などに誤って人がかかって死傷する
ことを防ぐためであり、次の梁の禁止は資源の保護を意図するものであろう。
 最も有名なのは食肉の禁止であり、農耕・運搬に従事する牛、運搬・軍事に
従事する馬、番犬や狩猟に従事する犬、人に近い猿、時を告げる鶏、これらの
主に有用な動物の肉を食することを禁止したものであり、結果的にはこの時の
禁令がその後の日本人の肉食忌避を方向付けたと言えるかも知れない。
 但し、この時の禁令は牛馬犬猿鶏だけであり、それ以外は禁止しない、とし
ている。従って当時の主要な食肉であった猪や鹿や雉などは禁止の対象になっ
ておらず、肉食全般を禁止したものではない。しかし、これがどれだけ直接の
効果があったかは疑問であり、その後も江戸時代初期まで犬はしばしば食用に
されたらしい。長屋王家跡から出土した木簡からは犬を食用、または鷹狩りの
鷹の餌としていた可能性が指摘されている。
 なお、上記の生物の中に猫がいないことから当時は猫はまだ日本に渡来して
いなかったか、極めて少数しかいなかったものと見られる。
(日本書紀)


[1537] 和銅六年(713)四月十六日 2005-04-15 (Fri)

 新格と権衡・度量を諸国に頒つ。
 この年二月十九日、度量や調庸(税)などについての格(きゃく、律令の補
足法)が出された。その内容はそれまで土地などを測るときに用いられていた
大尺(高麗尺、一尺は約36cm)を小尺(唐尺、一尺は約30cm)に改めたことな
どが知られる。この日諸国に頒布されたのはその格と、調庸として収めさせる
布の大きさを一定の規格に基づいたものとするための度量衡の基準であろうと
考えられる。
 先の格によれば成人男子二人の出す庸の布を一段とし、一人分の長さは一丈
三尺(約3.9m)と定められていた。大宝令の規定は二丈六尺であるから半減さ
れたことになる。但し、この一段では一人分の衣料として少し不安があったの
か、この後慶雲三年(706)二月十六日には一人一丈四尺(約4.2m)に再度
改訂されている。租庸調のうちで租として徴収される米は重いために基本的に
は収められた諸国に留められ、不動倉に収められて飢饉などの非常事態に備え
られたり高利貸しの出挙(すいこ)の原資に充当されたりしたため、中央に納
入される税はこれら布やその地方の特産物が中心であった。この布が官人に配
布されて衣料となり、或いは外国との交易に用いられた。頻繁に遣日本使を派
遣して来た渤海国も日本との通交の大きな目的はこれら布製品であったらしい。
 奈良時代の定規はいくつか出土しているが、その長さは今日の感覚ではかな
りいい加減なもので、一割程度の誤差があったりする。まして地方では大きな
差違があったものであろう。用いた者の立場にもよるであろうが、こういった
事態をなくす目的で諸国に基準を頒布したものと考えられる。
(続日本紀)


[1536] 天武十二年(683)四月十五日 2005-04-15 (Fri)

 銅銭を用い銀銭を停止するよう詔。
 この日、天武天皇は次の詔を発された。
「今より以後、必ず銅銭を用ゐ、銀銭を用ゐること莫(なか)れ」と。
 長い間ここでの詔の意味は不明であり、多くの説が立てられた。しかし、飛
鳥池遺跡の発掘によって大量の富本銭とその鋳型が発掘されたことにより一挙
にその謎が解決された。この詔こそが新たに発行された初の公式銭貨である富
本銭の発行に伴い、通貨を富本銭に一本化するための詔にほかならなかった。
 ここで使用を禁止された銀銭は無文銀銭のことと考えられる。無文銀銭は銭
貨の形態をした銀貨であり、重量を一定にするためか小さな銀片を貼付したも
のが多く、その名の通り銘も有しない。恐らくは貨幣と言うよりも銀としての
価値により流通したものと考えられる。
 この日禁止された銀銭ではあったが、僅か三日後の十八日には早くも使用禁
止が撤回され、富本銭と無文銀銭が並び用いられることとなった。これは恐ら
く既に流通していたものを急に停止するのが現実的ではなかったことと共に、
富本銭そのものの絶対量が不足したこともあるのであろう。その後の和同開珎
に比べて富本銭の出土絶対量は極めて少なく、そのために江戸時代には既に存
在が知られながら貨幣ではなく、現在も一部の寺社などで頒布されているよう
なお守りの類の絵銭と理解されていた。一部にあった、その材質等が和同開珎
に近いことからこの条文に記載された貨幣だったのではないか、という説はそ
のために少数派にとどまり、長い間本格的な貨幣としての認識をされることは
なかった。
(日本書紀)


[1535] 神護景雲元年(天平神護三年、767)四月十四日 2005-04-14 (Thu)

 東院の玉殿完成。
 この日新たに平城宮東院の玉殿(ぎょくでん)が完成し、群臣が参会して完
成披露を行った。この玉殿は瑠璃(るり)色の瓦で屋根を葺き、柱や壁には藻
績(そうき、水草)の文様が描かれており、人々はこれを「玉(たま)の宮」
と呼んだという。
 平城京は北一条大路から九条大路まで東西に通じる十本の大路、中央を走る
朱雀大路を中心に東西それぞれ一坊から四坊までの九本の南北道、そして南一
条から五条までの部分には東に張り出した外京(げきょう)があり、ここには
五坊から七坊までの南北の大路が通っていた。何故この外京が設置されたかに
ついては記録がない。その平城京の中心となるのが現在で言えば皇居と官庁街
に相当する平城宮である。藤原京では京域の中心部北よりに設置された宮域は
平城京では唐の都城にならって中央北端に置かれた。その位置は平安京と同様
に南北は京極の北一条大路から二条大路まで、東西はそれぞれの一坊大路まで
の方形の区画と考えられて来た。しかし、発掘調査の結果は宮跡の東の端、東
一坊大路が通っていると想定された場所に道路の遺構はなく、平城宮は部分的
に東に張り出したいびつな形をしていたことが判明した。これによってそれま
では離宮と考えられていたこの「東院」がこの張り出し部分に存在することが
想定され、やがてその南半部にには庭園遺構が発見された。またこの記事にあ
る通り緑釉(りょくゆう、緑色の釉薬)の瓦も発見されている。ここに記録さ
れた玉殿を含む中心部分は現在宇奈多利神社のある台地上(未発掘)にあった
ものと考えられている。
(続日本紀)


[1534] 持統三年(689)四月十三日 2005-04-12 (Tue)

 皇太子草壁皇子薨ず。
 律令制が確立する以前の皇位は基本的に成人男子の皇族の間で受け継がれ、
終身その位にあった。適切な男子の皇位継承者がなかった場合は皇后などが
「中継ぎ」として皇位に立つことによって継承権者の成人を待った。
 天武天皇の崩御後、愛児草壁皇子を皇位に即けるため実姉の子大津皇子を謀
殺した皇后(持統)はしかし激しい非難を浴びたためか、草壁皇子を直ちに皇
位に据えることができなかった。日本書紀によれば草壁皇子は天武天皇の在世
時から皇太子とされたこととなっているがこれが事実かどうかは不明。逆にも
し事実であったのであればすぐに即位しなかったことは余りにも不自然である。
 結局持統は自ら皇位に即くこともせずに臨朝称制(皇位代行)を続け、また
草壁を即位させることも出来ないまま、やがて草壁が成長してその即位を周囲
も納得するまで待つこととなった。しかし、この日当の草壁皇子が薨じたこと
によってすべての計画が頓挫し、やむなく翌年自ら即位し、大権を行使して皇
位を草壁の遺児軽皇子(かるのみこ、文武)に伝えることに腐心するに至った。
しかし、それさえも難航し、藤原不比等に事実上の後見役を委ねて後事を託し
たり、また十市皇女と大友皇子の遺児葛野王を抱き込んで皇族の会議を誘導さ
せたりすることとなった。結果的に極端なまでに選択肢を制限したことがその
後の度重なる奈良朝の政変の原因とさえなった。
 草壁皇子は享年二十八歳。天武の崩御段階で既に即位可能な年齢であったと
見られ、実際に天武天皇が後継を草壁皇子と指名していたのであればその即位
を阻む者はなかったはずであった。
(日本書紀)


[1533] 大宝元年(701)四月十二日 2005-04-12 (Tue)

 遣唐使拝朝。
 この年一月二十日、粟田真人(あわたのまひと)を遣唐執節使、高橋笠間
(たかはしのかさま)を大使、坂合部大分(さかいべのおおきだ)を副使とす
る遣唐使人事が任命された。この場合、大使ではなく執節使がこの遣唐使の中
心人物である。この日一行は出発の挨拶を行って遙かな唐を目指した。
 しかし、この遣唐使は筑紫(九州)出航後に暴風に遭い渡唐できず、翌年六
月二十九日に改めて出発、唐に至った。しかし、到着後、日本からの使者であ
ることを告げ、到着した場所の名前を確認したところ、(唐ではなく)周の楚
州塩城県(現在の江蘇省)である、と告げた。驚いた日本側が確認すると、唐
の高宗皇帝の崩御後、実権を握ったその皇后(則天武后)が唐朝を簒奪して国
号を周としていたことが判明した。唐の人は続けて遣唐使に対して「よく聞く
話に『海の東に倭国がある。これを君子の国と謂う。人民は豊かであり礼儀が
厚く行われている』というのがあるが、今使者の様子を見ると大変立派である。
あの話は本当らしい。」と告げた。
 もちろんこれは則天武后による国家簒奪という異常事態にある自国の状況を
暗に批判したこともあろうが、大使の粟田真人は旧唐書、新唐書の二種類の唐
の正史が共にその人柄を激賞しており、唐側の記録にも残るほど好印象を残し
たらしい。真人らはその翌々慶雲元年(704)帰国するが坂合部大分は何故
か十四年も唐にとどまり、養老二年(718)にやっと帰国している。
 なお、この時の使節の少録(四等官末席)として万葉歌人として知られる山
於憶良(やまのうえのおくら、山上憶良)も渡唐している。
(続日本紀)


[1532] 天平十七年(745)四月十一日 2005-04-12 (Tue)

 紫香楽宮周辺の山で火災。天皇、大丘野行幸を図る。
 前年二月から紫香楽宮に滞在された聖武天皇はこの年正月の朝賀の儀式では
紫香楽宮に大楯・槍(ほこ)を樹(た)てて事実上紫香楽を都と定められた。
が、この楯・槍を樹てるのは本来は物部(もののべ)一族がその職掌としてい
たものであったのだが、あまりにも急に決定されたために物部一族の石上(い
そのかみ)・榎井(えのい)両氏を呼び寄せることができず、代わって物部氏
同様に古くからの軍事氏族である大伴・佐伯両氏に代行させている。大伴氏は
大王家の親衛隊のような立場にあり、また宮都においては本来は宮城正面の大
伴門(後の応天門)、またその同族佐伯氏は宮城西面中央の佐伯門(後の藻璧
門(そうへきもん))と自らの氏族名のついた門を守衛する門号氏族であった。
 しかし、怪事が連続する。四月一日には市の西の山、三日には甲賀寺の東の
山、八日には紫香楽の南、伊賀の真木山(三重県阿山町の槇山)でそれぞれ火
災が発生、特に真木山の火災は三四日消えず、山背・伊賀・近江の諸国に消火
を命じている。そしてこの日には皇居の東の山に火災が発生した。住民たちも
これはもうだめだと思ったのか、先を争って川に行って財物を埋め、聖武天皇
自身も危険を感じられたのか大丘野(滋賀県水口町)への行幸を準備された。
幸い、十三日の夜になって雨が降ったためこの火事は鎮火、行幸は中止になっ
たらしい。これらは恐らくは遷都を望まぬ人々による放火の可能性が強いが、
更に二十七日から三日三夜にわたって地震が続いたのを皮切りに今度は地震が
頻発した。ここにとうとう聖武天皇も紫香楽宮を諦められたのか、五月五日に
は終日の地震の中、慌ただしく恭仁京に還幸される。
(続日本紀)


[1531] 推古元年(593)四月十日 2005-04-10 (Sun)

 厩戸皇子立太子し摂政となられる。
 正式に即位した初の女帝であられた推古天皇の皇太子としてこの日厩戸豊聡
耳皇子(うまやどのとよとみみのみこ、聖徳太子)が立太子された。
 厩戸皇子は用明天皇の皇子。その母穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとの
ひめみこ)が臨月の時、禁中を巡察しておられて馬官(うまのつかさ、後の馬
寮か)のところで産気づいて皇子を産まれた、ということからその名があると
いう。すぐに言葉を話し、一度に十人の人の訴えを聞いても間違えずに聞き分
けることができ、またよく未来を予知された。父の用明天皇は特に皇子を寵愛
され、皇居の南の上殿(うえのみや)に住まわせられたため上宮厩戸豊聡耳太
子(うえのみやのうまやとのとよとみみのひつぎのみこ)と呼ばれた。
 律令制成立以前、皇位継承法ははっきりとしたものではなかったらしい。同
じ世代に属する血統の濃い成人男子皇族のうちから有力な者が順次皇位につき、
その世代が尽きた時に次の世代に皇位が伝えられたらしい。この時、まさにそ
の世代交代の時期にあり、血統の濃さからも聖徳太子が皇位につくことが予定
されたものの、敏達三年(574)出生という所伝が正しければ当時太子はま
だ十九歳の未成年であり、この時点では即位は出来ない。一方既にその父の世
代の皇位継承権者がいなくなっていたため、太子成人までの「つなぎ」として
敏達天皇の皇后であった推古天皇が皇位につき、聖徳太子の成人を待ったもの
と考えられる。しかし、当時は天皇が崩御することなく退位する、という前例
がなかった。そして推古天皇が長生きをされたことから予定が狂い、推古天皇
の崩御時には既に聖徳太子の世代も亡く、結局皇位継承の混乱を招いてしまう。
(日本書紀)


[1530] 天平勝宝四年(752)四月九日 2005-04-08 (Fri)

 東大寺大仏開眼供養。
 古代国家の総力を挙げて造営が進められた東大寺の盧舎那(るしゃな)大仏
の像が完成し、この日盛大な開眼供養が挙行された。儀式は正月元日の儀式に
準ずる、朝廷行事としては最大規模のものとされた。
 朝から聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇が東大寺に行幸、東大堂布板殿に座
され、文武百官が盛装して並ぶ。続いて有位の僧たちが南門から、開眼を行う
天竺(インド)僧菩提僊那(ぼだいせんな)が東門から、講師の隆尊律師が西
門から、読師の延福法師が東門から、それぞれ輿に乗って入場した。開眼は文
字通り大仏像に筆で眼を描き入れる儀式であるが、菩提僧正が筆を執ってこれ
を行った。この筆には縄をつけてその先に聖武上皇・孝謙天皇を始めとする人
々が手を添え、参列者がこの開眼の功徳を分け合うことが出来るようにされて
いた。その後講師と読師が高座に登って華厳経の教えを説いた。
 その後南門から招かれた総勢一万人にも及ぶ僧侶が参入し、大安・薬師・元
興・興福の四寺から珍宝が献じられ、内外の楽曲が華やかに演奏された。「作
(な)すことの奇(くす)しく偉(たふと)きこと、勝(あ)げて記すべから
ず。仏法東に帰(いた)りてより、斎会(さいゑ)の儀、嘗(かつ)て此(か
く)の如く盛(さかり)なるは有らず」と記される国を挙げての盛大な儀式で
あった。
 この時用いられた筆を始めとする多くの品々はその後正倉院に収められ、今
日まで伝えられていることは周知の通りである。

(続日本紀)


[1529] 文治二年(1186)四月八日 2005-04-08 (Fri)

 静、鶴岡若宮にて源義経を慕い舞う。
 この日鶴岡八幡宮に参詣した源頼朝とその妻北条政子はその回廊に鎌倉に連
行された源義経の愛妾静を招き、舞を所望した。最初は病と称して参上を拒ん
でいた静も結局しぶしぶ召しに応じてやって来たものの、舞については辞退し
た。しかし再三の要請に遂に断りきれずに工藤祐経が鼓を打ち、畠山重忠が銅
拍子をつける中、まずこの歌を吟じた。
 よし野やま みねのしら雪 ふみ分て いりにし人の あとぞこひしき
続いて別の曲を歌った後、更に
 しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
「誠に是社壇の壮観、梁塵殆ど動くべし(天井の埃さえも感動するほどだ)」
という情景の中で一座が静粛に包まれた中、頼朝の声が響いた。「八幡宮の神
前においては鎌倉幕府の万歳を祝すべきなのに反逆者義経を慕う歌を歌うとは
何事か」と。しかし、ここで政子が取りなした。「かつて流人のあなたと引き
裂かれそうになったとき、またあなたが挙兵した時、私は一人でどんな不安な
思いをしたことか。彼女が多年愛してくれた義経を慕って歌うのは貞女という
べきでしょう。曲げて賞翫して下さいな」と。暫くして頼朝は御簾の下から着
物を引出物として出し静に賜ったという。
 当時は鶴岡八幡宮は山上にある現在の本宮はなく、現在その手前右側に鎮座
される若宮が社殿であり、その回廊(寛永の再建時に省略された)にて舞が行
われた。現在も毎年四月第二日曜日に行われる鎌倉祭りで彼女を偲び舞殿にて
静の舞が奉納される。
(吾妻鏡)


[1528] 天武七年(678)四月七日 2005-04-08 (Fri)

 十市皇女が急病で薨じたため祭祀を中止。
 この年の春、天武天皇は天神地祇(高天原の神々と土着の神々)を祀ろうと
大祓(おおはら)えを行い、斎宮(いわいのみや、神事のための宮殿)を倉梯
(くらはし)の河上(かわかみ、桜井市)に建てられた。四月一日に占いを行
い、七日が吉日と出たのでこの日未明に行幸となり、百官を引き連れて出発さ
れた。しかし、未だ飛鳥浄御原(あすかのきよみはら)京を出ないうちに急報
が届いた。十市皇女が急病により薨じられた、ということであった。急遽行幸
も祭祀も中止された。そして彼女は十四日に赤穂(あかお)に葬られた。
 十市皇女は天武天皇と万葉歌人として知られる額田王(ぬかたのおおきみ)
との間の皇女。天智天皇は弟の天武を恐れたのか、兄弟でありながら二人の間
には何重にも婚姻関係が結ばれた。その一つとして彼女は天智天皇の皇子であ
った大友皇子(おおとものみこ、弘文天皇)の妃となった。しかし、運命の壬
申の乱によって、彼女の夫は父と戦い、その軍勢によって死に追い込まれる。
同様に父のもとを去って天智天皇の後宮にあった母とともに天武のもとに引き
取られたと見られる彼女だが、その後は天武四年に伊勢神宮に行かれた以外の
事跡は伝わらない。そしてこの日のあまりにも急な死。日本書紀は単に急病で
あったと伝えるのみであるが、彼女の置かれた境遇などから実際にはこれは自
殺ではなかったか、という見方も強い。
 赤穂は桜井市東南部の鳥見山と忍阪山の間にある赤尾ではないかとされる。
舒明天皇陵や鏡女王(額田王の姉)の墓も近く、であればおそらく記録にない
額田王の墓所もその付近であろう。
(日本書紀)


[1527] 宝亀三年(772)四月六日 2005-04-05 (Tue)

 下野国、道鏡の死を報じる。
 この日、下野国(しもつけののくに、栃木県)から前年造薬師寺別当道鏡が
死んだ、との報告があった。薬師寺は下野薬師寺で、後に東大寺、大宰府の観
世音寺と並んで僧侶受戒のための戒壇が設置された当時東国では最大規模の寺
であったが現在は廃寺となっている。
 道鏡は弓削(ゆげ)氏の出身。仏典の原典である梵語(サンスクリット、印
度古代文字)に精通し、後世の禅宗で行うような修行で名を挙げ、そのため宮
中に召し入れられた。天平宝字五年(761)、保良宮行幸の際に孝謙上皇の
看病の祈祷を行って効果があったのをきっかけに上皇の寵愛を得るようになる。
その溺愛ぶりは目に余るものがあったらしく、苦言を呈した淳仁天皇と孝謙上
皇との関係は決裂し、恵美押勝の乱の後彼女は淳仁を廃して淡路に幽閉、自ら
重祚(ちょうそ)して称徳天皇となり、ますます露骨に道鏡を偏愛するに至る。
遂に皇位を窺うに至った道鏡の野望(彼自身の希望であったかどうかは不明と
するしかないが)は和気清麻呂(わけのきよまろ)によって阻止されたものの
弟の弓削浄人(ゆげのきよひと)がたった八年で無位から従二位大納言に進ん
だのを始め一族で五位以上の貴族になった者は十人にも及んだ。しかし称徳天
皇の崩御によってすべては無に帰した。が、一人称徳天皇の御陵を守る道鏡を
さすがに政府も処刑するには忍びず、造薬師寺別当という名目で流罪とするに
留めた。亡くなったときには庶民として葬られたという。
 称徳天皇と彼との間に「特別な関係」があった、とする見方はその同時代を
生きた僧景戒の「日本霊異記」に既に見られるが、事実かどうかは永遠の謎。
(続日本紀)


[1526] 天平五年(733)四月五日 2005-04-05 (Tue)

 交替する国司に解由の制を励行させる。
 解由(げゆ)は国司などの交替の際に前任者と新任者との間での事務引き継
ぎの完了証明とでもいうべき性質の書類であり、前任者はこれを一定期間内に
太政官に提出し、懈怠なく勤務を満了して引き継ぎする官物に不足等がないこ
との証拠としたものである。しかし、この日出された詔によれば、新任の国司
が着任する前に帰京してしまったり、或いは事務引き継ぎが完了しているにも
かかわらず新任の国司が解由状を発行しないため、前任者は太政官に提出でき
ず、次の官職を与えてもらえない、といった状況が生じており、そのために天
平三年に既に解由の徹底を命じたにもかかわらずまだ守られない、という実態
が生じていたという。そこでこの日の詔によって改めて解由状を発行して前任
者から太政官に申告するように命じたものである。しかし、この後も国司交替
にまつわる規定は次第に厳格なものとなり、延暦元年(782)には百二十日
経過しても解由を得られない者は懲戒免職に相当する厳しい措置を取ることな
どが定められ、延暦二十二年にはそういった国司交替の際の手続きを定めた延
暦交替式が制定されている。
 しかし、手続きの厳しさとそれが守られるかどうかは別問題であったのか、
例えば後年讃岐守として赴任した菅原道真公までもが後任を待たずにさっさと
帰京してしまっている。さらに後になると地方政治・国府の機能の崩壊により
すべては単なる形式と化し、引き継ぎが行われるべき官物、正倉や非常時の備
えのはずの不動穀、国府の建物に至るまで「無実」、帳簿上のみに存在し実態
は失われたまま引き継ぎが行われるようになっていった。
(続日本紀)


[1525] 雄略十二年(468)四月四日 2005-04-03 (Sun)

 身狭青らを呉に派遣。
 他人を信用せず、多くの人を殺したため「大悪天皇」とまで呼ばれた雄略天
皇は史部(ふひとべ、文官?)の身狭青(むさのあお)と檜隈民使博徳(ひの
くまのたみのつかいはかとこ)の二人だけは寵愛された。そして帰化人と見ら
れるこの二人は外交で活躍する。
 まず九年二月、二人は呉国(くれのくに、南朝の宋)に派遣された。彼らは
十年九月四日に帰国し、この日再び使いに出た。前回の使節では鵞鳥を将来し
たことが記されるのみであるが、今回の使節は十四年一月十三日に技術者多数
を連れて帰国したことが記されている。
 周知の通り、雄略天皇は倭の五王のうちの武に相当することは確実と見られ、
「宋書」順帝昇明二年(478)に倭王武が遣使朝貢した記事が恐らくこの使
節であろうと考えられる。
 当時朝鮮半島では高句麗(こうくり)が大攻勢に出ておりこの後雄略二十年
には七昼夜に及ぶ猛攻の末、遂に首都漢城を落とし、百済が一時滅亡するに至
る。この時は雄略天皇が久麻那利(こむなり)を百済に割譲して国を再興させ
るが、こういった高句麗の動向を睨み、高句麗と戦うための大義名分を得て国
際的に有利な地位を得よう、という意図から遣使したものであろう。 しかし、
結果的には当初の目的を果たすことは出来なかった。当の宋がそもそも弱体化
しており、先の遣使の翌年、昇明三年には滅亡してしまったのである。それ以
降倭国から南朝への遣使の記録がなくなるのは恐らく日本側で頼りにならない
南朝を見限り、独力で対処することとしたためであろう。
(日本書紀)


[1524] 推古十二年(604)四月三日 2005-04-03 (Sun)

 聖徳太子、憲法十七条を制定。
 この日聖徳太子は憲法十七条を制定された。
一.和を以て貴しとし、忤(さか)ふること無きを宗とせよ。
二.篤(あつ)く三宝(仏・法・僧)を敬へ。
三.詔を承りては必ず謹(つつし)め。
四.群卿百寮(群臣や官僚)、礼を以て本(もと)とせよ。
五.むさぼりを絶ち欲を捨てて、明(あきらか)に訴訟を弁(わきた)めよ。
六.懲悪勧善は古(いにしへ)の良典なり。
七.人各任有り。掌(つかさど)ること濫(みだ)れざるべし。
八.群卿百寮、早く朝(まゐ)りて晏(おそ)く退(まか)でよ。
九.信は是義の本なり。事毎に信有るべし。
十.忿を絶ち瞋(しん)を捨てて、人の違(たが)ふことを怒らざれ。
十一.功過を明察して、賞罰は必ず当てよ。
十二.国司・国造、百姓(はくせい、庶民)に斂(をさめと)ることなかれ。
十三.諸の官に任(よさせ)る者(ひと)、同じく職掌を知れ。
十四.群臣百寮、嫉妬有ること無(なか)れ。
十五.私(私利私欲)を背きて公に向(ゆ)くは、是臣の道なり。
十六.民を使ふに時を以てするは古(いにしへ)の良典なり。
十七.夫(そ)れ事は独断すべからず。
 官僚たちへの倫理綱領といった内容であるが、一読して現代でも充分通用す
る、或いはむしろ現代にこそ必要な内容ではないだろうか。
(日本書紀)


[1523] 用明二年(587)四月二日 2005-04-02 (Sat)

 用明天皇の仏教への帰依を巡り物部・蘇我両氏対立。
 この日新嘗祭(本来毎年秋に行われる新穀の収穫を感謝する儀式だが、ここ
は天皇即位後最初のものなので大嘗祭であろう、大嘗祭は天皇即位後の通常秋
に行われる一世一代の盛儀)を行った用明天皇は発病されたために仏教に帰依
しようと考えられ、群臣に諮問した。物部守屋(もののべのもりや)と中臣勝
海(なかとみのかつみ)は「どうして国内の神に背いて他国の神を崇めるので
すか。こんなことは前代未聞です」と言って反対したのに対し、蘇我馬子(そ
がのうまこ)は「お言葉に従うべきです。誰も異議などあるはずがありません」
として賛成、意見は真っ二つに分裂した。そこに天皇の弟の穴穂部皇子(あな
ほべのみこ)が豊国法師という僧を連れて内裏に入ってきた。守屋は彼らを睨
みつけ激怒したが、そこへあわててやって来た押坂部毛屎(おしさかべのけく
そ)に「今群臣たちがあなたの退路を断とうとしている」と密かに告げた。守
屋は急いで阿都(あと、大阪府八尾市)に退き軍勢を集めた。勝海も兵を集め
て守屋に従ったが、途中で暗殺されてしまった。
 守屋は馬子に使者を送り、「私はみんなが私を陥れようとしていると聞いた
ために退いたのだ」と告げた。馬子はその言葉を大伴毘羅夫(おおとものひら
ふ)に伝えて救援を乞い、大伴氏は蘇我氏側について馬子の家を昼夜守護した。
 風雲急を告げる中、天然痘と見られる天皇の病状はいよいよ悪化され、九日
にはとうとう崩御されてしまった。
 この両氏を中心に仏教の受容と後継の天皇を巡って朝廷を二分した戦闘が行
われるのはこの後七月になってのことであった。
(日本書紀)


[1522] 雄略十四年(470)四月一日 2005-03-31 (Thu)

 根使主の旧悪露見し討滅。
 これより先、安康元年(454)二月一日、安康天皇は大草香皇子(おおく
さかのみこ、仁徳皇子)の妹の幡梭皇女(はたびのひめみこ)を弟の大泊瀬皇
子の妃として迎えようとし、根使主(ねのおみ)を大草香皇子のもとに遣わし
て請わしめた。折しも病気で余命いくばくもないと感じていた皇子は気がかり
であった妹の嫁ぎ先が決まった、と喜び、婚約の印として重宝の押木玉縵(お
しきのたまかずら、玉飾りのついた冠)を差し出した。ところが、受け取った
根使主はその余りの見事さに心を奪われ、玉縵を隠して天皇に大草香皇子は申
し出を拒絶した、と復命した。激怒した安康天皇は軍を派遣し大草香皇子を殺
した。そして彼の妻の中●姫(なかしひめ、●は草冠に帝)を自らの妻とし、
皇后に立てると共に幡梭皇女を大泊瀬皇子の妃とした。しかし、その二年後安
康天皇は大草香皇子の遺児の眉輪王(まよわのおおきみ)のために弑されてし
まう。その混乱を他の皇子たちを殺し、眉輪王を倒した大泊瀬皇子が制して皇
位に即かれた。雄略天皇である。雄略は幡梭皇女を皇后に立てたられ。
 この日呉人(南朝の宋の使者であろう)の饗応を行う適任者を諮問したとこ
ろ、群臣は根使主を推挙したので彼に饗応を行わせ、密かに舎人(とねり、側
近)を遣わして様子を見させたところ、彼が見事な冠をつけており、前回もそ
れを用いていたことが判明。そこで天皇はそれを見ようと饗宴の服装で群臣を
集めた。その冠を見た皇后は慨嘆されて号泣、あれは兄が婚約の印に安康天皇
に差し出したはずのものだ、と天皇に告げた。驚いた天皇に詰問された根使主
は容疑を認めたものの逃亡、追討軍により敗死した。
(日本書紀)


[1521] 垂仁三年(紀元前27)三月 2005-03-31 (Thu)

 新羅王子天日槍来朝。
 この月、新羅(しらぎ)の王子と称する天日槍(あめのひぼこ)が羽太玉
(はふとのたま)一箇、足高玉(あしたかのたま)一箇、鵜鹿鹿赤石玉(うか
かのあかしのたま)一箇、出石小刀(いずしのかたな)一口、出石桙(いずし
のほこ)一枝、日鏡(ひのかがみ)一面、熊神籬(くまのひもろぎ)一具の合
計七種の神宝を携えて来日した。播磨国宍粟(しさわ)郡(兵庫県)に到着し
た天日槍は居住を許された後近江、若狭を経て、但馬に至り、そこに居を定め
た。先の神宝は出石神社の神宝となるが、垂仁八十八年になって天皇はこれを
見たい、と言われて天日槍の曾孫清彦(きよひこ)に献上させた。清彦は神宝
のうち出石小刀だけは惜しんで献上せずにおこう、と自分の衣の内に隠したが
偶然に見つかってしまったため結局これも献上した。しかし、これらを収めた
石上神宮の神府(宝庫)から小刀のみ忽然と消え、後に淡路島に出現したため
ここで祀られるようになった、という記事がある。
 この天日槍についての記述は非常に示唆的で背景にあった史実がどのような
ものかについては多くの説がある。一方、播磨や但馬などには兵主神社という
名称の古社がある。その最大の社は大和朝廷発祥の地と思われる巻向の近くに
鎮座される穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)である。正し
く大和朝廷の発祥の地に鎮座されるこの神社は果たして天日槍と何らかの関係
があったのであろうか。なお、常世(とこよ)の国に渡って非時香菓(ときじ
くのかくのみ、蜜柑)を求めてきた、ということで知られる田道間守(たじま
もり)は天日槍の子孫で清彦の兄と伝えられる。
(日本書紀)


[1520] 敏達十四年(585)三月三十日 2005-03-29 (Tue)

 物部守屋、蘇我馬子の寺を破壊し仏像を捨てる。
 この年三月一日に仏教禁断の勅許を得た物部弓削守屋(もののべのゆげのも
りや)はこの日蘇我馬子の寺に至り、その塔を切り倒して火をつけて焼き、あ
わせて仏像と仏殿を焼いた。そして焼け落ちた仏像を回収して難波の堀江に捨
てさせた。また馬子とこの寺にいた修行者を罵倒し、日本最初の僧であった善
信尼を召した。馬子は嘆き悲しみながらも勅命に逆らうことが出来ず、彼女ら
を引き渡した。官憲に引き渡された彼女は法衣を奪われて海石榴市(つばきち)
の駅でむち打たれた。
 この寺はこの前年に馬子が石川の家を仏殿とした記事、またこの年二月十五
日に塔を大野丘の北に建てた記事があり、これを指すのであろう。難波の堀江
(大阪市の大川)は畿内の外港であり、ここに捨てたということは国外に追放
するという意味を持つ。海石榴市の駅は市に併設された公用旅行者のための施
設であろう。海石榴市は上代から栄えた市として有名である。桜井市金屋に海
石榴市(つばいち)観音があるがこれは平安時代に土石流のためにもとの海石
榴市の町が壊滅した後、町が初瀬川の対岸に遷って以降のことであり、本来の
海石榴市は初瀬川南岸、桜井市粟殿(おうどの)付近にあったと見られる。
 なお現在では物部氏も氏寺を有していたと見られており、蘇我氏・物部氏の
争いは仏教を受容するかどうかという単純なものではなかったと思われる。
 また、「善光寺如来縁起」によればこの時難波堀江に捨てられた仏像が推古
十年(602)四月八日に信濃国伊那郡の人本多善光(ほんだよしみつ)によ
って拾い出され、これを本尊として祀ったのが皇極朝創建の善光寺だという。
(日本書紀)


[1519] 天平二年(730)三月二十九日 2005-03-29 (Tue)

 薬師寺東塔建立。
 現在に残る天平建築の傑作薬師寺東塔がこの日建立された。
 もともと天武九年(680)に天武天皇が皇后(後の持統天皇)の病気平癒
を祈願して発願された薬師寺はその皇后のご病気は癒えたものの当の天武天皇
が朱鳥元年(686)崩御されてしまう。そのため、今度はその天武天皇の追
善供養のため持統天皇によって藤原京に造営され、文武二年(698)に至っ
て漸く完成した。橿原市城殿町に遺跡を残すこの寺は区別のため本薬師寺(も
とやくしじ)と呼ばれる。さらに都が平城京に遷都されると養老二年(718)
この薬師寺も新京の地に移築されることになる。この時純粋な移築ではなくも
との寺も残されたらしく、発掘調査の結果では本薬師寺には平安時代まで建物
が維持されたことがわかっている。一方薬師寺はその後も造営が継続され、こ
の年になって東塔が建立された。なお西塔は建立年代の記録はないが恐らく東
塔と同じ頃であろう。いずれにせよ、天平初年には金堂を中心とする部分と東
西に並び立つ塔、という薬師寺式伽藍配置の偉容が完成していたことになろう。
天平感宝元年(749)には聖武天皇が薬師寺宮に入られており、この時出家
されたのではないかと考えられている。
 その後薬師寺は天延元年(973)、金堂と東西両塔を残して全焼し、さら
に享禄元年(1528)には残った金堂と西塔も焼け落ち、ただ一基残ったこ
の東塔は今日もなおその美しい姿を西の京に見せてくれる。近年の寺側の精力
的な活動により天平の昔を彷彿させる寺容の復興が着々と進められているのは
嬉しい限りである。
(扶桑略記)


[1518] 天平十一年(739)三月二十八日 2005-03-27 (Sun)

 密通により石上乙麻呂・久米若売を配流。
 この日石上乙麻呂(いそのかみのおとまろ)と久米若売(くめのわくめ)が
不倫をしたというかどで乙麻呂は土佐(高知県)に、若売は下総(千葉県北部)
にそれぞれ配流された。流刑になった地名は記録されていない。この後若売は
翌十二年六月には早くも許されて帰京したが、乙麻呂の方はその時点ではまだ
許されず、少なくとも四年後の天平十五年頃まで流刑されたままであったらし
い。なお、この配流の時の乙麻呂の漢詩四首が「懐風藻」に残るほか、万葉集
にも次の歌など四首が残されている。
石上(いそのかみ) 布留(ふる)の尊(みこと)は たわやめの
惑(まと)ひに因(よ)りて 馬じもの 縄取り付け 鹿(しし)じもの
弓矢囲(かく)みて 大君の 命恐(みことかしこ)み 天離(あまざか)る
夷辺(ひなへ)に罷(まか)る 古衣(ふるころも) 真土(まつち)山より
帰り来ぬかも (巻六・1019)
(訳:石上の 族長の私は 女性に 惑わされて 馬のように 縄を打たれ
鹿のように 弓矢で囲まれて 大君の 命令で <天離る> 遠くに流される
<古衣> 大和の外れの真土山から 早く帰って来たい。
 石上乙麻呂は当時左大弁(筆頭書記官)。石上氏はもとの物部氏であり、あ
るいは石上氏排撃を狙った陰謀があったのかも知れない。一方の久米若売は藤
原宇合(うまかい)の未亡人で百川(ももかわ)の母であった。つまり、この
時点で未亡人であった彼女と通じたことを密通として処罰したところにこの事
件の裏側にあったどろどろした政争を感じ取ることが出来る。
(続日本紀)


[1517] 天武十四年(685)三月二十七日 2005-03-27 (Sun)

 家毎に仏像・経典を置く詔。
 この日天武天皇は「諸国(くにぐに)の家毎に、仏舎(てら)を作りて、乃
(すなは)ち仏像と経を置きて、礼拝供養(らいはいくやう)せよ。」という
詔を出された。これをこのまま受け取ると現在の仏壇のようなものを家ごとに
用意するように、ということになるが、恐らくここで命ぜられているのは「諸
国の家」即ち国府、或いは国造などの諸豪族の家に仏像・経典を置くことを命
じたものであろう。現実にこの後豪族たちは自分たちの私寺を競って築くよう
になる。現在も各地に「○○廃寺」の名称で遺跡が残る文献に記録の残らない
白鳳期の地方寺院は正しくこの詔に応じて豪族たちが建立した氏寺であり、後
には郡寺になったものであったと見られている。また有力豪族によって都の中
にもこれら氏寺が建立されたことが例えば平城京の葛城寺や紀寺などの存在に
より知られる。また、この日の詔の内容を更に大規模化したものが聖武天皇に
よる国分寺造営であり、恐らく聖武天皇の意識の中には偉大なる曾祖父天武天
皇の出したこの時の詔があったことであろう。しかし、財政の裏付けのない国
分寺造営は難航を極め、結果的には豪族の造営したような寺を国分寺に昇格さ
せたものもあったらしい。
 現在につながる家庭用の仏壇は近世になって漸く出現したものであり、中世
以前には見られなかった。鎌倉・室町時代には自宅とは別に持仏堂を建ててお
り、これがその人の死後に寺院になるのが中世によくある例(例えば源頼朝の
大蔵薬師堂、北条時頼の最明寺(禅興寺)など)である。逆に言えば現在のよ
うな仏壇の登場は仏事の場を一気に一般民衆の家庭にまで広げたことになる。
(日本書紀)


[1516] 大化五年(649)三月二十六日 2005-03-26 (Sat)

 蘇我倉山田石川麻呂一族殉死。石川麻呂の死体を斬首。
 この年三月二十四日、右大臣蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのい
しかわのまろ)の異母弟である蘇我日向(そがのひむか)は皇太子の中大兄皇
子(なかのおおえのみこ)に兄があなたの暗殺を計画している、と密告した。
これを信じた皇子は大伴狛(おおとものこま)以下を遣わして尋問したところ、
「孝徳天皇に直接申し上げる」と答え、天皇の使者にも同様に答えた。ここに
天皇は軍を派遣したところ麻呂は山田寺に逃れ、長子興志(こごし)が一戦を
主張するのを退け、三月二十五日に「この山田寺は自分のためでなく陛下のた
めに建立したものである。讒言されて横死するのはいやだからせめて忠義の心
のままあの世へ旅立ちたい。寺に来たのは安らかに死ぬためである」と言い残
し、頸をくくって自殺した。続いて妻子八人も殉死した。
 二十六日になっても麻呂の一族は次々に殉死した。その夕方、寺を囲んだ蘇
我日向以下の軍兵は麻呂の亡骸を斬首した。さらに三十日には連坐した者二十
三人が死罪、十五人が流罪に処された。しかし没収された麻呂の遺品はよいも
のにはすべて「皇太子の物」と書かれてあったため、その冤罪を知った中大兄
皇子は悔いて恥じ、讒言した日向を筑紫大宰帥に左遷した。 乙巳の変の功臣
蘇我倉山田石川麻呂の悲劇的な最後である。しかし、この記録の随所に出て来
る「皇太子」の記述はこれが中大兄皇子の陰謀であったことを窺わせる。石川
麻呂が直接弁明したかった孝徳天皇は恐らくは何も知らされなかったのではな
いだろうか。こうして孝徳は手足をもがれていったが、逆に中大兄のために涙
を呑んだ蘇我(石川)氏や大伴氏などは大海人皇子に期待を寄せるようになる。
(日本書紀)


[1515] 天武十四年(685)三月二十五日 2005-03-24 (Thu)

 山田寺仏像開眼。
 山田寺は浄土寺とも言い、乙巳(いっし)の変の功臣、蘇我倉山田石川麻呂
(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)の発願により舒明十三年(641)
に造営が開始された。皇極二年(643)には金堂が完成したが、大化五年
(649)には石川麻呂が謀反の疑いをかけられてこの寺で自殺する、という
悲劇があった。
 それを乗り越えて天武二年(673)に塔の心柱が建てられたのは恐らく天
智政権を倒した天武天皇によって孝徳天皇の再評価がなされるようになったた
めその一環として山田寺にも援助が与えられたのではないだろうか。そもそも、
皇后(持統天皇)は石川麻呂の孫にあたる。そして天武五年には露盤(ろばん、
塔の頂上に立てる相輪を受ける部分)を上げているのでこの頃に塔が完成した
のであろう。天武七年には本尊薬師如来の丈六の仏像の鋳造が開始され、この
日になって開眼供養がなされたのであった。丁度三十六年前のこの日に石川麻
呂が自殺しているのでその追善供養を兼ねたものであろう。
 その後、山田寺は国家の保護を失い、次第に衰微して行ったがやがて決定的
な事件が起こる。平家の焼き討ちによって焼亡した興福寺の僧兵たちはその復
興のため衰微していたこの寺に目を付け、文治三年(1187)に山田寺に乱
入、この仏像を強奪し、東金堂の本尊とした。幾多の悲劇を味わったその薬師
如来の頭部のみが深い憂いを秘めて現在も興福寺に残されている。
 なお、昭和五十七年の発掘調査ではこの山田寺の回廊が当初の部材のまま
発掘され、注目を集めたことは記憶に新しい。
(上宮聖徳法王帝説裏書)


[1514] 天平十三年(741)三月二十四日 2005-03-23 (Wed)

 国分寺造営の詔。
 天平九年三月、諸国に丈六の釈迦三尊像造営と大般若経の書写を命じられた
聖武天皇はこの日さらにそれを発展させた国分寺建立の詔を出された。それは
具体的には諸国に七重塔一区を建立し、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経
各一部を書写、また国分寺には僧二十人を置き、「金光明四天王護国之寺(こ
んこうみょうしてんのうごこくのてら)」と名づけ、国分尼寺には尼僧十人を
置き「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」と名づけること、そして国分
寺には封戸(ふこ、寺領)五十戸、水田十町を、国分尼寺には水田十町をそれ
ぞれ施すことを命じている。さらに毎月八日にはその僧尼は最勝王経を読経し、
月の半ばには戒羯磨(かいかつま、経典名)を読経するよう命じると共に、毎
月の六斎日(八・十四・十五・二十三・二十九・三十日)には公私ともに漁労
や狩猟を禁じる、というものであった。
 今回の詔は最勝王経の教義に基づくものであり、金光明四天王護国之寺とい
う名称に現れている通り、はっきりと鎮護国家を目指すものであった。この経
典を信じて読経する国は四天王が守護する、といった内容が最勝王経には記さ
れているのに応じたものである。一方、国分尼寺の準拠する妙法蓮華経(法華
経)にはこの経典を信じた竜王の娘が忽ち男となって悟りを開いた、という記
述があり、罪深いとされた女性救済を目指したものであったと考えられる。
 なお「続日本紀」はこの詔が出された日付を三月二十四日とするが、他の史
料はおおむね二月十四日のこととなっており、日付については続日本紀の誤り
であるかも知れない。
(続日本紀)


[1513] 嘉禎四年(1238)三月二十三日 2005-03-22 (Tue)

 鎌倉大仏堂造営開始。
 東大寺大仏の再建は東国の人々にも強烈な印象を残した。衆生済度の象徴
たる大仏を東国にも、という思いはやがて浄光という僧の勧進(寄付募集)に
よって結実し、鎌倉の深沢の里にこの日大仏殿の建立を開始する。恐らく大仏
本体の造像もこの頃に開始されたのであろう。やがて寛元元年(1243)
六月十六日、阿弥陀如来像と大仏殿が完成する。しかし、この時の大仏は木造
であり、建長四年(1252)八月十七日に改めて金銅の大仏像の造営が開始
される。現存する鎌倉大仏であり、その完成は恐らく弘長二年(1262)の
ことであろうと考えられている。完成後、鎌倉大仏は大和西大寺流真言律宗の
高僧、忍性(にんしょう)が本拠とした鎌倉の極楽寺の管轄下に置かれる。
 この時建立された大仏殿は建武二年(1335)に大風で倒壊する。折しも
大仏殿には雨宿りのため中先代の乱の北条時行軍の兵たちがおり、多数の圧死
者を出すという悲劇に見舞われた。再建後、応安二年(1369)にも大風で、
さらに明応七年(1498)には津波で倒壊、以後は再建されず露座となり
今日に至っている。幸い火災にはあわなかったため大仏本体は無事であった。
 この大仏の近くには(新)長谷寺も建立された。天平八年(736)の創建
という伝承は恐らく大和長谷寺にならったものと考えられ、実際の創建時期は
不明であるが、恐らく大仏建立と近い時期に創建されたのであろう。長谷寺の
影響で深沢のうち、大仏や長谷寺のある場所はやがて「長谷」という地名で
呼ばれるようになる。この一帯には民間の信仰を集めた大和の名刹の「分家」
が集中したことになる。
(吾妻鏡)


[1512] 宝亀十一年(780)三月二十二日 2005-03-21 (Mon)

 伊治呰麻呂叛し按察使紀広純を殺す。
 伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)は陸奥国(みちのおくのくに、福島・宮
城県)の俘囚(ふしゅう、律令政府に服属した蝦夷(えみし))で上治郡(伊
治郡?)の長官に任ぜられていた。呰麻呂はあることがきっかけで按察使(あ
んせちし/あぜち、広域の行政監察官)紀広純(きのひろずみ)を恨んでいた
がその気持ちを隠して彼に媚び仕えていた。一方、広純はその底意に気づかず
これを重用した。また牡鹿郡の長官であった見られる道嶋大楯(みちしまのお
おたて)は呰麻呂を日頃から俘囚俘囚と呼び馬鹿にしていた。
 この時広純は新たに覚●柵(かくへつのき、●は幣の巾を魚に、宮城県古川
市?)を築き、本拠地である陸奥国府多賀城(宮城県多賀城市)を遠く離れた
この新しい城に呰麻呂と大楯を伴い赴いた。好機到来、と見た呰麻呂はまず大
楯を殺し、次いで兵を率いて広純を攻めてこれも殺害した。しかし、広純に従
っていた陸奥介(次官)の大伴真綱(おおとものまつな)は逃がして多賀城に
護送した。多賀城周辺の住民は多賀城防衛のために集まったが、肝心の指揮を
執るべき大伴真綱と掾(じょう、三等官)の石川浄足(いしかわのきよたり)
は後門より逃亡した。このため、人々もやむなく散会し、もぬけの殻となった
多賀城に至った呰麻呂の軍は城の中の貴重品をことごとく略奪し、その後多賀
城に放火、これを全焼させた。
 その経緯から陸奥の在地人同士の確執・私怨が直接の原因であったのではあ
ろうが、この事件を機に比較的順調に推移していた対蝦夷政策は一転して激し
い対立を呼び、この後律令政府と蝦夷は事実上全面戦争に突入する。
(続日本紀)


[1511] 宝永六年(1709)三月二十一日 2005-03-21 (Mon)

 現存東大寺大仏殿落慶供養
 元禄四年(1691)二月三十日には大仏の修理が完成したが、公慶上人に
はそれ以上に困難な事業が待ち受けていた。大仏殿の再建である。天平の創建
はもちろん国家財政を傾けて行われ、建久の再建もまた朝廷と幕府の全面的な
支援のもとで漸く行われたものであり、一般の勧進だけでは限界が予想された。
大仏再建に積極的でなかった幕府であったため、困難が予想されたが、上人の
相談を受けた将軍徳川綱吉の護持僧隆光は将軍の母桂昌院との接触を勧めた。
元禄八年十月八日、上人と面会した桂昌院はその熱意に感動、即座に金五百両
を喜捨、その後も積極的な支援を続けることになる。そして桂昌院が動いたこ
ついに幕府も全面的な支援を開始するに至った。ここに幕府が五年間造営費用
を援助するだけでなく諸大名にも費用は割り当てられ、工事は奈良町奉行の大
岡忠高(忠相の父)の監督のもとに続けられることとなった。
 費用の面では大幅に進展した再建事業もその用材の確保は困難を極め、上人
は自ら九州に赴いて用材を確保、日向から半年がかりで多くの人々の協力のも
とで漸く運ぶなどした。当然ながら上人は天平以来の規模での再建を期待した
が、用材・費用の面から結局縮小を余儀なくされ、高さと奥行きはほぼ創建時
のままではあるが、正面の大きさが十一間(約86m)から七間(約57m)とおよ
そ2/3に縮小しての再建となってしまった。また、建築様式も創建時の姿で
はなく、鎌倉時代に再建された大仏様と呼ばれる様式に準じている。
 そしてこの日漸く完成した大仏殿の落慶供養が四月八日まで行われた。しか
し、上人自身は過労のためこの盛儀を見ることなく四年前に示寂されていた。
(続史愚抄)


[1510] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)三月二十日 2005-03-20 (Sun)

 天皇の寝殿に「天下太平」の文字が生じる。
 この日、孝謙天皇の寝殿の承塵に「天下太平」という文字が現れた。承塵は
屋根裏からの塵を防ぐため部屋の上部に張った板や布で、現在の天井板に相当
する。当時の建築にはまだ天井がなかったためである。
 この前年五月二日に聖武上皇が崩御されたのに続き、この年一月六日には前
左大臣橘諸兄が薨じていた。もう既に仲麻呂の行動を押さえる者はどこにもい
なかった。「天平」の元号のもとになった亀の甲羅の上に現れた文字もそうだ
が、今回の事件についてもあまりにも見え透いた作為の跡が歴然としている。
もちろんこの時点ではこんなことをするのは藤原仲麻呂以外に考えられないが、
恐らくおつきの女官などを買収したか、もともとそういう人物を送り込んでい
たか、ということになる。そんな彼の企みのまま、三月二十九日には聖武天皇
によって立てられた皇太子道祖(ふなと)王が廃され、四月四日には仲麻呂の
推挙によって大炊(おおい)王(後の淳仁天皇)が代わって皇太子となる。彼
は事実上仲麻呂の娘婿であり、それ以降は仲麻呂の邸で起居していたほどであ
ったため、彼にとっては完全な傀儡に過ぎなかった。仲麻呂は更に五月二十日
に紫微内相(しびないしょう)に任じられる。これは紫微中台(しびちゅうだ
い)の長官であり、この時事実上皇権を手中にしていた光明皇太后の家政機関
の長である。彼は叔母である光明皇太后の権威を背景に専権をふるって行く。
そしてこの年七月の橘奈良麻呂の変を未遂のうちに鎮圧した後、出現した文字
を記念した「天平宝字」への改元が行われるのであった。
(続日本紀)


[1509] 天智六年(667)三月十九日 2005-03-18 (Fri)

 近江大津京遷都。
 白村江(はくすきのえ)の戦いに大敗した日本は今度は開闢以来初めて中華
帝国による侵略の恐怖に直面することになる。この危機に天智政権は九州や西
日本に大野城(おおののき)、基肄城(きいのき)、水城(みずき)、屋島城
(やしまのき)、高安城(たかやすのき)など百済(くだら)の技術者を動員
した本土防衛のための城塞群を次々と築き上げる。神籠石(こうごいし)と呼
ばれる遺跡もこの時に築かれたものと考えられている。しかし天智は結局は外
港である難波から近い大和を捨て、この日ついに近江大津宮に遷都された。け
れど人々は遷都を願わず、政府の批判をする者が多く、また批判的な童謡が流
行した。それどころか日々夜々に各地に失火があった。恐らく遷都に批判的な
勢力の放火によるものであろう。この時の「日本書紀」の記録は具体例を欠く
が、後に聖武天皇が紫香楽(しがらき)に遷都された時の「続日本紀」の記録
は周囲の山々で連日不審火があったこと、また役所などでも失火があったこと
を記しており、この時も恐らく同じような状況だったのではないか。
 大化改新で畿内の範囲が定められたように、古代人にとって畿内(うちつく
に)は特別の意味をもっていた。畿内の外への遷都を悲しむ当時の人々の心を
代表するような額田王(ぬかたのおおきみ)の歌が「万葉集」に残されている。
三輪山を 然(しか)も隠すか 雲だにも
 心あらなも 隠さふべしや (巻一・18)
 人々の批判をよそに強引な施策を続ける天智政権に人心がなびく訳もなく、
これらのことはやがて壬申の乱で近江方の敗北をもたらすことになる。
(日本書紀)


[1508] 天智八年(669)三月十八日 2005-03-17 (Thu)

 耽羅王に五穀の種を賜う。
 耽羅(たんら)は韓国の済州島にあった国。百済(くだら)の文周王二年
(476)から百済に朝貢・服属していたと伝えられる。しかし、その百済の
滅亡により新羅(しらぎ)に服属を余儀なくされた。日本との関係では斉明七
年(661)に帰国途中の遣唐使がこの島に漂着したことによりこれに便乗し
て王子阿波伎(あわき)らを筑前朝倉の斉明天皇の行宮に遣わしたことが最初
の記事として伝えられている。滅亡した百済に代わってその宗主国を自認して
いた日本との接近を意図したものであろうか。その後、天智四年、五年、六年、
と使いを遣わしており、新羅との関係はあまり歓迎していなかったためにその
対抗上日本の支援を期待したのかも知れない。この年も三月十一日に王子久麻
伎(くまぎ)らを派遣、朝貢した。
 この日、耽羅王に対して五穀の種が下賜された。王子久麻伎らの使節に対す
るものであり、恐らく耽羅王から依頼があったのであろう。少なくとも済州島
には通常考えられているのとは逆の流れで日本から農業が伝えられたことにな
る。そうして耽羅王子たちはこの五穀を手に帰国した。たった八日の滞在なの
で恐らく大津の都に来たのではなく、大宰府で対応がされたものであろう。後
の「高麗史」の伝える耽羅建国の伝説によると、地中から出現した三神人が浜
辺に流れ着いた箱を開くと青衣の三人の処女と諸駒、犢(こうし)、そして五
穀の種が入っていた。その処女は日本の国王が耽羅の神子に配偶者として賜っ
たものであったという。この時に日本から五穀の種をもらったことがその後も
伝説として長く伝えられたものであろうか。
(日本書紀)


[1507] 延暦二十五年(806)三月十七日 2005-03-16 (Wed)

 早良親王事件関係者の名誉を回復し桓武天皇崩御。
 三月十五日頃からいよいよ危篤状態となられた桓武天皇は十六日には氷上川
継(ひかみのかわつぐ)の乱で流罪とされた川継らの官位をもとに戻したのに
続き、この日には藤原種継暗殺事件に連坐した者たちを「今思ふ所あり、存亡
を論ぜず(生死にかかわらず)」もとの官位に戻す、という詔を出された。
 その対象となったのは「万葉集」の最終的な編者と目される大伴家持とその
嫡子永主、真っ二つになった遣唐船の船尾に乗って漂流、藤原清河の遺児喜娘
などとともに九死に一生を得て帰還した大伴継人などであった。
 彼らは桓武天皇の寵臣藤原種継暗殺事件の犯人とされ、殺されたり流罪とさ
れたり、或いは家持のように既に亡くなって一ヶ月も経っていたのに罪人とさ
れたりした者たちであった。そもそもこの事件の首謀者とされた早良親王は皇
太子の位を奪われて流されることになったが、冤罪を訴えて食を断ち、恨みを
含んで亡くなった。しかしその後皇太子安殿(あて)親王(平城天皇)の病気
の原因を占ったところこの早良親王の怨霊のため、ということが判明し、その
後桓武天皇は終生この早良親王の怨霊に悩まされることになった。既に早良親
王自身は名誉を回復されて崇道天皇の諡号も贈られたが、連坐した者はそのま
まであった。この日のいまわの際になってのこの措置で漸く早良親王事件の清
算を成し遂げたことになる。
 この後更に桓武天皇は毎年二月と八月に崇道天皇のため七日間に亘って諸国
国分寺で金剛般若経を読経するよう命じられた。そうして間もなく息を引き取
られたという。宝算七十歳。
(日本後紀)


[1506] 天平十九年(747)三月十六日 2005-03-15 (Tue)

 大養徳国を大倭国に戻す。
 天平九年十二月二十七日に大倭国(やまとのくに、奈良県)は大養徳国と改
称された。これは当時流行した伝染病を天の怒りととらえ、これに対して天子
が徳を養うことにより天の怒りを鎮めるという意図を有したと考えられている。
しかし、大養徳という名称は国郡郷名の原則が二字の好字を用いる、となって
いるのに反して三字であり、敢えてそのような名称を選んだ理由が明記されて
いない以上真意は不明とするしかない。
 この日再び大養徳国から大倭国に改称されたことは、これによってかつて橘
諸兄(たちばなのもろえ)が主導して遷都した恭仁宮を大養徳恭仁大宮(やま
とのくにのおおみや)と称したその大養徳の否定であり、恐らく背後には藤原
仲麻呂の暗躍があったものと思われる。
 その後、天平宝字二年頃に大倭国は今度は大和国と再び文字だけ改称され、
それ以降固定するようになる。
 全国の国は橘諸兄政権下で財政緊縮のためか一時的に抑制が図られ、例えば
養老二年(718)に越前国から分置された能登国は天平十三年(741)に
今度は越中国に併合された。ちょうど大伴家持が越中守として赴任していたの
はこの時期になり、家持は能登の各地まで足を運んでいることが万葉集により
知られる。しかし、諸兄が失脚して藤原仲麻呂の政権下となると国の数は再び
増加し、先の能登の例では天平宝字元年(757)に再び分置される。国の数
の固定はだいたいこの時期に行われたもので、それ以降は弘仁十四年(823)
に越前から分割・設置された加賀を例外として明治まで固定する。
(続日本紀)


[1505] 天平宝字五年(761)三月十五日 2005-03-14 (Mon)

 帰化人百八十八人に賜姓。
 この日百済(くだら)系帰化人百三十一人、高句麗(こうくり)系帰化人二
十九人、新羅(しらぎ)系帰化人二十人、大陸系帰化人八人の合計百八十八人
に賜姓が行われた。与えられた姓は百済王族に与えられた百済を除き、中山、
楊津(やなぎつ)、朝日、豊原、清住(きよすみ)、狩高(かりたか)、雲梯
(うなで)などおおむね居住していた地名によったらしい。
 これより先、天平宝字元年四月四日に出された詔の中で、高麗・百済・新羅
などから渡来してきた人々が日本に帰化し日本の姓を望むのであればすべて許
可する、という項目があり、これに応じて続々と出された賜姓の記事の中でも
最大のものがこの日の人々。これを含めて記録されるだけでも五十余氏、合計
二千人ほどの帰化人に賜姓が行われた。これは百済や高句麗の滅亡、その後の
唐と新羅の戦争による旧百済地域に駐屯していた唐の人々、そして新羅国内の
政変などを逃れた人など多数の半島や大陸の人たちが日本へ亡命して来たこと、
そしてその後の統一新羅による半島支配の確立に伴い帰国する望みを絶たれた
彼らはもはや日本を永住の地とする以外に住むべき所はなかった。日本側とし
ても彼らの多くは技術を持たない一般民衆であり渡来当初は食料などを支給し
て養っていたもののそういった特別扱いを永遠に続けることは出来ず、一般民
と同じ扱いとすると共に、彼らを新天地としての東国に配置してその開拓に当
たらせる、ということを新たに方針にするようになった。特別な技能を持って
いなくても彼らの多くは農業技術者としては進んだ技術を有しており、開発の
遅れていた東国では特に貴重な開拓の原動力となっていった。
(続日本紀)


[1504] 貞観三年(862)三月十四日 2005-03-14 (Mon)

 東大寺大仏修理成り開眼供養。
 斉衡二年(855)に地震の影響からか、そのお首が折れてしまい、転落・
大破した東大寺の大仏の修理もこの日漸く完成した。賀陽親王、時康親王(後
の光孝天皇)、本康親王、在原行平(ありわらのゆきひら、在原業平の兄)、
伴善男(とものよしお、もとの大伴氏)などの人々が参列する中、盛大な開眼
供養の行事が行われた。
 大仏殿の柱は錦で飾られ、唐・高麗(こま、ここでは渤海か)・林邑(りん
ゆう、カンボジア)の音楽が奏でられ、また大仏殿の一層目の部分には特設舞
台が設けられて天人天女の舞が披露された。そうして厳かに文章博士(もんじ
ょうはかせ)菅原是善(すがわらのこれよし、道真の父)によって願文が捧げ
られた。その願文は欽明天皇の代に仏教が伝えられて以来二百年でこの大仏が
造営され、百年でこの事故はあったものの広く人々の寄付を集めて今回の修理
が成ったこと、この功徳によって塵区(汚れた現世)を出て智岸(浄土)に迎
えて欲しい、といったことが述べられた。
 この時、ほとんど新造に近い、と言われながらも何とか七年かけて独力で修
理を成し遂げたのであったが、三百年余後の平家によって焼かれた修理の時に
は既に日本には鋳造技術が失われており、宋の技術導入により漸く完成する。
鋳造技術の衰退は皇朝十二銭と言われる銭貨が和同開珎から後になるほど逆に
品質が低下することに如実に現れている。少なくともこの段階では技術はまだ
地に落ちていなかったのだが、一方願文では鎮護国家よりも個人の救済が願わ
れており、仏教に対する意識・受容の変化がうかがわれる。
(三代実録)


[1503] 宝亀四年(773)三月十三日 2005-03-13 (Sun)

 祈雨のため黒毛馬を丹生川上神社に奉納。
 丹生川上(にうかわかみ)神社は古来有名な祈雨・止雨の神として知られる。
雨を乞う時には黒毛の馬を、そして止雨を祈るときには白毛の馬を奉納した。
現在丹生川上神社は吉野郡川上村、東吉野村、そして下市町にそれぞれ上社、
中社、下社があるがこのうちどれがこの時馬を奉納された神社かは不明。これ
らはいずれも日本一の多雨で知られる大台ヶ原の水を受ける位置にあるため、
古来から雨の神として知られ、特に「丹生川上雨師神社」とも称されたりした。
 祈雨・止雨は農業にとって死活問題であったため、あらゆる方法でこれを祈
ることが古代国家の重要な役割であった。天武天皇の時代には毎年のように風
神である竜田神社と共に水神としての広瀬神社に参拝が行われており、おそら
くこの頃は広瀬神社が祈雨・止雨の対象であったと考えられる。
 丹生川上神社が初めて祈雨・止雨の対象として登場するのは天平宝字七年五
月二十八日の条からであり、恐らく雨について霊験あらたか、という話が浸透
していった結果であろう。平安時代に国家祭祀を受けた神社を列挙する「延喜
式」神名帳では吉野郡に「丹生川上神社 名神大、月次、新嘗」となっている。
これは本来は現在のような上・中・下の三社ではなく一社であったことを示す。
この国家祭祀に預かったいずれかの神社が馬を奉納された、ということになる。
また、主要祭祀のうち相嘗(あいなめ)祭の対象とされていないが、この祭祀
は起源が非常に古いけれども平安朝には既に衰退していたと見られており、そ
の対象ではないことからは朝廷から重要視されるようになったのが少し遅れる
ことを示すものであろう。
(続日本紀)


[1502] 建久六年(1195)三月十二日 2005-03-12 (Sat)

 東大寺大仏殿落慶供養。
 この日朝から雨で午後からは雨足も激しくなり、また地震まで起きるという
最悪の天候であったが予定通り大仏殿の落慶供養が挙行された。風雨について
も天神地祇までもが降臨されてこの盛儀に立ち会ったためと理解された。未明
から和田義盛、梶原景時らが数万の兵士を率いて厳重に警護する中、日の出の
後頼朝も大仏殿に入り、いよいよ落慶供養が行われた。
 この時、集まった群衆と僧侶たちも中に入ろうとして警護をしていた武士た
ちにとどめられ、また彼らに梶原景時が無礼を働いたということで暴動が起こ
りそうになったがあわてて頼朝が遣わした小山朝光が諄々と今日の盛儀は頼朝
公のおかげであり、と理を説くことによって漸く沈静化された。大仏の開眼供
養の時と異なり、一般庶民の参列は許されなかったのであり、これは関白九条
兼実(くじょうかねざね)の要請であったことが知られる。またここでも騒ぎ
の元となっているのは源義経を讒言によって陥れたとされる梶原景時である。
後白河法皇こそ既にこの三年前に崩じられていたが、朝幕の貴顕が列席する中、
こうして中世の民衆を熱狂させた東大寺大仏殿の落慶供養は無事終了した。
 その翌日、頼朝は大仏再建を技術面で支えた宋人の陳和卿(ちんなけい)に
面会を求めたが和卿は合戦によって多くの人命を奪った罪業の深い人とは会い
たくない、と拒否。が、逆にその言葉に感激した頼朝は奥州征伐に使った甲冑
・馬具を金銀と共に馬に乗せて贈った。しかし和卿は金銀と武具・馬具を東大
寺に寄進し、馬はそのまま頼朝に送り返したという。
(吾妻鏡)


[1501] 敏達四年(575)三月十一日 2005-03-11 (Fri)

 任那復興の詔。
 この日百済(くだら)より朝貢があった。しかしその朝貢物は例年より多か
った。これは恐らく次第に勢力を強めつつあった新羅(しらぎ)に対して日本
の積極的な関与を期待してのものであろう。
 ここに敏達(びだつ)天皇は先に欽明朝において新羅が占拠したまま失われ
てしまっている任那(みまな)の復興を求め、皇子(長男の押坂彦人大兄皇子
(おしさかのひこひとのおおえのみこ)か)と大臣(おおおみ)の蘇我馬子に
対して「任那のことに、な懶懈(おこた)りそ(任那復興の努力を決して怠っ
てはならない)」との詔を発された。
「日本書紀」は任那に日本府があったことを伝えるが、現在「日本」という国
号は推古朝以前に遡ることはないと考えられており、少なくとも「日本府」が
なかったことは確実であるが、「やまとのみこともちのつかさ」という日本語
名称の機関に「日本府」の文字を宛てたとすれば矛盾はなくなる。但し、いず
れにしても日本の領国化していたのではなく、あくまで任那地域にあった群小
諸国が連合し、その盟主として日本を仰いだのであり、定期的な進調(貢納物
の献上)は別にして国家としての独立性は高かった。また、後に「大宰(みこ
ともちのつかさ)」或いは総領などと呼ばれる行政機関らしきものはは国内に
も後の大宰府だけでなく吉備や伊予などにも置かれていた。恐らくはこれらの
地域の首長も同様に大和朝廷に対してもともとはゆるやかな同盟を結んでいた
ものと見られる。特に吉備地方については大和の王権に匹敵するほどの巨大古
墳を残しており、強い自主性を有したことが遺跡面からも推測される。
(日本書紀)


[1500] 天長六年(829)三月十日 2005-03-10 (Thu)

 神託により飛鳥坐神社を遷座。
 この日神託によって大和国高市郡賀美郷の甘南備(かんなび)山にあった飛
鳥社を同じ郷内の鳥形山に遷座申し上げた。
 明日香村の飛鳥坐(あすかにいます)神社の遷座の記録であり、鳥形山が現
在飛鳥坐神社の鎮座される山であるにしても甘南備山については不明。或いは
甘橿丘か。またどのような経緯でどんな神託があったのかも伺い知ることは出
来ない。恐らくそれらの内容も含めて正史である「日本後紀」には詳細に記録
されていたのであろうが、残念ながら「日本後紀」は戦国時代に散逸してしま
い現在は僅か1/4ほどが伝わるのみであるため、その記録も失われてしまっ
た。失われた部分には平安京遷都や坂上田村麻呂の蝦夷(えみし)征討に関す
る部分なども含まれており、これらは僅かに平安末期に正史を抄録した「日本
紀略」によってそのような事実があったことが知られるのみである。
 延長五年(927)に完成した行政細則集の「延喜式」の当時の国家祭祀に
預かる神社を列記した部分(神名帳)には大和国高市郡の二番目に
飛鳥坐神社四座 並名神大、月次、相嘗、新嘗
と記載されており、全国の殊に霊験あらたかな神を祭る名神祭など、国家の重
要祭祀にはいずれも対象とされる神社であったことが知られる。ここに記載の
ある神社を特に「式内社」と呼び、その多くは有史以前からの信仰を集めた神
社である。その内容は天平時代にほぼ現在の形にまとめられたと考えられてお
り、その後に追加されたものを含めて宮中から五畿七道まで全部を合計すると
二千八百六十一社(うち大和は二百六社)、その大半は今も祀られ続けている。
(日本紀略)


[1499] 天平勝宝四年(752)閏三月九日 2005-03-08 (Tue)

 遣唐使に節刀を賜い、大使以下に叙位。
 この日、孝謙天皇は遣唐使の副使以上を内裏に召し、詔して節刀を賜い、あ
わせて叙位を行った。
 この時の遣唐大使は藤原清河(ふじわらのきよかわ)、副使は当初大伴古麻
呂(おおとものこまろ)だけであったが後にと吉備真備(きびのまきび)が追
加で任命されている。真備は二度目の渡唐となる。ほかに留学生(るがくしょ
う)として藤原刷雄(よしお、藤原仲麻呂の子)もこの場にいた。
 この時賜った節刀は天皇の大権の一部を委譲することを象徴するものであり、
遣唐使や将軍などに与えられた。軍事や外交を天皇に代わって現地で実施する
とともにその部下に対する処罰などをも認められていた。持節将軍や持節大使
と言った場合はこの節刀を有していることを示す。
 この節刀を受け取った以上は即刻(家にも立ち寄らず)出発する必要があり、
彼らは退出したその足で遣唐船の待つ難波の港に向かったものと思われる。
 周知の通り、この時の遣唐使が最も有名な使節であり、鑑真大和上の招聘、
新羅との間の朝賀の席次争い、大使清河ともと留学生阿倍仲麻呂の遭難と唐で
の客死、といった多くの逸話を残すことになる。なお、光明皇太后と清河の出
発を前にしての歌が「万葉集」に残されている。
大船(おほぶね)に ま梶(かぢ)しじ貫(ぬ)き この我子(あご)を
 唐国(からくに)へ遣(や)る 斎(いは)へ神たち (光明皇太后)
春日野(かすがの)に 斎(いつ)く三諸(みもろ)の 梅の花
 栄えてあり待て 帰り来るまで (藤原清河) (巻十九・4240-4241)
(続日本紀)


[1498] 元禄五年(1692)三月八日 2005-03-08 (Tue)

 東大寺大仏元禄再建開眼供養成る。
 戦国時代、永禄十年(1567)に松永弾正久秀の兵火により焼失した東大
寺の大仏は戦乱の中でも直ちに再建に着手され、炎上の翌年から大和の土豪、
山田道安が私財をなげうって尽力、元亀三年(1572)にはともかくも一応
の修理を終えた。ただ、これはあくまでも応急修理のようなもので、その尊顔
は銅板をもってあてたものであった。そしてこの後も痛んだ箇所の修理は断続
的に行われていた。
 江戸時代に入り東大寺で出家された公慶上人は露座の大仏を見て慨然とし、
生涯をその再建に捧げることを誓った。貞享元年(1684)には幕府の許可
を得ていよいよ大仏再建の勧進を開始、重源上人の旧例を慕い、その鉦鼓を持
ち出して全国を回り、勧進を行った。幕府の協力は消極的なものであったが難
波の豪商北国屋治衛門をはじめ多くの人々の協力を得て元禄三年(1690)
四月八日には仏頭が完成、さらに胎内の柱の取り替えなどを行い、この日つい
に悲願の大仏再建開眼供養が行われた。導師は東大寺別当済深法親王、宮中か
らも勅使として蔵人頭(くろうどのとう)勧修寺輔長(かじゅうじすけなが)
が派遣され、舞楽が奏でられる中、天平の開眼に使われた筆が文治の再建に続
き三度用いられ、ここに現存する東大寺大仏が完成した。そしてこの日から三
十日に亘り万僧供養の法要が繰り広げられ、あわせて東大寺に残る聖武天皇以
来の寺宝が一般にも公開された。この間参加した僧侶は一万二千名に達し、一
般の参列者の数は実に二十万五千三百人にのぼり、大坂より生駒山を越え、闇
峠を過ぎて参拝する人々が連日列をなしていたという。
(続史愚抄)


[1497] 雄略六年(462)三月七日 2005-03-06 (Sun)

 養蚕奨励、少子部賜姓。
 この日雄略天皇は皇后に親しく養蚕を行わせることで天下に養蚕を奨励しよ
うと思われた。そこで側近の栖軽(すがる)という者に蚕(こ)を集めること
を命じたところ、勘違いした栖軽は子、つまり子供たちを集めて献上した。そ
こで天皇は笑って栖軽にその子供たちの養育を命じ、あわせて少子部(ちいさ
こべ)という氏を賜った。
 少子部は本来天皇側近の童子たちを養育する氏族。その少子部氏の創氏説話。
栖軽は「日本霊異記」の冒頭の説話では雷の鳴る日、皇后と休んでおられた雄
略天皇の寝室に迷い込み、天皇から(テレ隠しに)雷を捕らえることが出来る
か、と問われたためかしこまって「雷神よ、天皇がお召しだ」と呼ばわりなが
ら御所のあった泊瀬(はせ)から軽の諸越(もろこし、畝傍山東南)にまで走
り回ったところ、豊浦寺(とゆらでら、蘇我稲目の建立した寺、現在の広厳寺、
但しその建立はこれよりずっと後)と飯岡(いいおか、不詳)の間に雷神が落
ちていた。そこでそれを捕らえて天皇にお目にかけた。光り輝く雷神を見て天
皇は恐れて幣帛を捧げ、落ちていたところにお返しした。それで後にそこを電
(いかづち)の岡と呼ぶようになった。後、栖軽が亡くなった後その場所に墓
を建てて「電を捕らえた栖軽の墓」と書いたところ、雷神が怒りその碑を蹴り
割ったが、裂け目に挟まれて再び捕らえられてしまった。そこで天皇は「生き
ていた時も死んでからも電を捕らえた栖軽の墓」と改めて碑を建てたという。
 なお、栖軽は「日本霊異記」の用字であり「日本書紀」では●贏(●は虫偏
に果)と記す。古代には発音が同じなら用字にはこだわらなかった。
(日本書紀)


[1496] 推古三十六年(628)三月六日 2005-03-06 (Sun)

 推古天皇危篤、田村皇子・山背大兄皇子に遺詔。
 この年二月二十七日、発病された推古天皇は次第に病重くなられた。折しも
三月二日には皆既日食があり、人々もいよいよ、の思いを抱くうち、この日と
うとう危篤状態になられた。天皇はまず田村皇子(たむらのみこ、敏達天皇孫、
後の舒明天皇)を呼ばれ、皇位に即いて統治し、人々を養育することは「もと
より輙(たやす)く言ふものに非ず。恒(つね)に重みする所なり。故(かれ)
汝(いまし)慎みて察(あきらか)にせよ(言動に特に注意を払いなさい)。
輙(たやす)く言ふべからず」と遺詔を残された。次いで山背大兄皇子(やま
しろのおおえのみこ、用明天皇孫、聖徳太子の子)を呼ばれ、今度は「汝(い
まし)は肝稚(きもわか)し(未熟者だ)。若(も)し心に望むと雖(いふと)
も諠言(けんげん、公言)すること勿(なか)れ(心に皇位を望んでもそれを
口にしてはならない)。必ず群言(まへつきみたちのこと、群臣の言葉)を待
ちて従ふべし(豪族たちの決定に従いなさい)」と遺詔された。
 そして翌七日に小墾田宮(おはりたのみや)に崩御された。宝算七十五歳。
聖徳太子即位までの中継ぎとして古代初の女帝として立てられながら、その長
寿は皮肉なことに皇位継承を更に混乱させることになる。
 当時は皇位継承についての原則が固定しておらず、そのため同じ世代に属す
る皇位継承権者たちの間で皇位が争われることになる。聖徳太子を始め推古天
皇の次の世代が既に亡く、一世代飛ばした形になったために自分の亡き後の混
乱を恐れた推古天皇が苦しい息の下で残した遺詔ではあったが、結果的には諦
めきれない山背大兄皇子の活動によって恐れていた混乱が起こることになった。
(日本書紀)


[1495] 敏達七年(578)三月五日 2005-03-05 (Sat)

 菟道皇女を伊勢神宮に奉仕させるも事件により罷免。
 この日菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ、敏達皇女)を伊勢の祠
(まつり)に侍(はべ)らせた。しかし、池辺皇子と関係をもってしまったた
めにその任を解かれた。
 伊勢神宮の斎宮は垂仁天皇の頃の倭姫命(やまとひめのみこと)に始まると
されるが、確実にたどれるのは天武天皇の皇女である大伯皇女(おおくのひめ
みこ)以降である。壬申の乱において東国への脱出行の途次、伊勢神宮を遙拝、
戦勝を祈願されて勝利を得た天武天皇によって神宮祭祀が整備されたためであ
ろう。しかし、ここに登場する菟道皇女などの存在は恐らくそれよりももっと
以前から(どの程度制度化されていたかは別にして)斎宮に相当するものが存
在していたことを示唆する。これは古くは邪馬台国の女王卑弥呼とその弟、或
いは崇神天皇と倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそびめ)の関係に見られる
ように政治を行う男王と祭祀を行う女王のような組み合わせがあったことがそ
の源流になっているものと考えられる。後の斎宮(斎王)は伊勢神宮の祭祀の
ために未婚の皇女(天皇の娘、または近い血縁者)が三重県多気郡明和町にあ
った斎宮に小さな「皇居」を構えて祭祀の都度伊勢神宮に奉仕した。神妻であ
るため一般人と関係を持つことは許されず、そのような事実が発覚すればこの
例のように罷免された。しかし世間と隔離された彼女たちのさみしさにつけこ
む男はこの後も出て、在原業平(ありわらのなりひら)もその一人として知ら
れる。なお、このように「神妻」があったことなどから伊勢神宮に祀られてい
た神は本来男神であったとする説もある。
(日本書紀)


[1494] 養老四年(720)三月四日 2005-03-03 (Thu)

 征隼人持節将軍を任命。
 二月末に大宰府から急報のあった隼人(はやひと/はやと)の反乱を平定す
るため、鎮圧軍が派遣されることになり、この日大伴旅人(おおとものたびと)
が征隼人持節大将軍、笠御室(かさのみむろ)、巨勢真人(こせのまひと)が
副将軍に任ぜられた。「持節」とは節刀を保有するという意味であり、これは
天皇の大権の一部である治罰の権利の委譲を受けたことを示す。節刀は遣唐使
などにも与えられ、任を終えると返却された。
 征討軍は六月十七日にはおおむね鎮圧に成功したらしく慰労の詔が出されて
いる。なお、この後大宰帥時代には「万葉集」巻五を中心に多くの歌を残した
大伴旅人だがこの時の軍旅での歌と確認できる作品は知られていない。
 大伴旅人はこの後陸奥の蝦夷(えみし)の鎮圧にも活躍しており、武人とし
て当時の日本の東西の果てまでも赴いたことになる。もともと大伴氏は同族の
佐伯氏と共に久米部と呼ばれた戦闘集団を率い、天皇家直属の親衛隊的立場に
あった。特に大伴金村が武烈天皇崩御の後に北陸から継体天皇を擁立したこと
によりその発言力は圧倒的なものとなった。しかし、同じ金村が任那問題での
失策が原因で失脚、雌伏の時を迎える。この間、物部・蘇我両氏の滅亡などを
経て壬申の乱で安麻呂らが一族を挙げて天武天皇を支持し、その勝利に大きく
貢献したことによって再び政権中枢に返り咲いた。旅人は安麻呂の子であるが、
不比等以降急速に勢力を伸ばした藤原氏のため大伴氏は長期低落傾向となり、
橘奈良麻呂の乱や藤原種継暗殺事件等で大打撃を受けた後、伴氏と改めた伴善
男が応天門の変で失脚したのを最後に中央から姿を消してしまった。
(続日本紀)


[1493] 天平九年(737)三月三日 2005-03-03 (Thu)

 国毎に釈迦仏の造像・大般若経の書写を命ず。
 この日次のような詔が出された。「国毎(くにごと)に、釈迦仏の像一体、
挟侍(けふじ、脇侍)の菩薩二躯を造り、兼ねて(あわせて)大般若経一部を
写さしめよ」と。釈迦仏は釈迦如来であり、如来(にょらい)とは悟りを開き、
生死を超越した存在で、狭義の仏でもある。この如来になるための最後の修行
を行っているのが菩薩(ぼさつ)。脇侍は中心にある如来像の両脇にある菩薩
像で、釈迦如来の場合は文殊(もんじゅ、通常獅子に乗る)・普賢(ふげん、
通常象に乗る)両菩薩になる。同様に阿弥陀如来には観音・勢至、薬師如来に
は日光・月光両菩薩が脇侍というように、通例その組み合わせは一定している。
また、この日書写を命じられた大般若経は六百巻に及ぶ大部な経典であり、災
害を除くなどの目的でこれ以前にもことあるごとに宮中などで読経が行われて
いる。ここで特にこの経典が選ばれているのも恐らく同じ目的からであろう。
なお、有名な般若心経はこの膨大な大般若経の理念を凝縮した経典とされる。
 この詔においては寺の造営を指示したのではなく仏像と経典のみの指示であ
り、寺院の造営ではない。この段階では国府などに安置する意図を持ったので
あろうか。その後、天平十三年にはこの詔をもとに発展させた国分寺造営の詔
が出された。その詔にはこの時の仏像の大きさを一丈六尺(約4.8m)としてお
り、いわゆる丈六(じょうろく)の仏像であったことが知られる。この丈六以
上の身長の仏像を大仏と言うが、座像の場合はその半分の高さとなる。また、
この時の仏像が東大寺大仏(毘盧舎那仏)と異なって釈迦如来であることは後
の国分寺と異なって最勝王経や華厳経の理念に基づくものではないことを示す。
(続日本紀)


[1492] 宝亀三年(772)三月二日 2005-03-02 (Wed)

 皇后井上内親王を廃す。
 この日、光仁天皇は自分の皇后であった井上(いのうえ/いがみ)内親王か
ら皇后の位を奪った。井上内親王は聖武天皇の皇女であり、もともと彼女の存
在があればこそ光仁天皇は皇位に即くことができたのである。しかし、この日
彼女は巫蠱(ぶこ)の罪に問われてその地位を追われた。さらに五月二十七日
には彼女の子、他戸(おさべ)親王も皇太子の位を奪われ、庶民とされた。こ
こに天武皇統の断絶が女系においても確定してしまったことになる。
 巫蠱とはまじないを用いて他人を呪(のろ)う罪であり、この日の処分は裳
咋足嶋(もくいのたるしま)という人物の自首に基づく。自首した足嶋は罪を
免じられたばかりか一挙に七階級の昇叙を受けたが、容疑を否認した粟田広上
(あわたのひろかみ)と安都堅石女(あとのかたいしめ、いずれも皇后おつき
の女官か)は流罪とされた。この日の詔には何故か井上内親王の皇后の位を退
いた後の処遇について言及がなく、事件の背景は今ひとつはっきりしない。も
のが「まじない」に属するため目撃証言が唯一の証拠とされたのであり、かつ
ての長屋王の時と同様、到底事実とは考えられない。しかし、彼女の存在によ
って光仁天皇の即位が実現したことを思うとき、彼女に頭が上がらないという
光仁天皇の立場が徐々に不満を鬱積させていった可能性は少なくない。後世の
史料には彼女と他戸親王が光仁天皇と不和であったことを示すものもあり、こ
の夫婦・親子の間のすきま風を利用して陰謀があった可能性が強い。その陰謀
を巡らせたのは恐らく光仁天皇を即位させた功臣でもあった藤原百川(ももか
わ)であろう。奈良時代は最初から最後まで藤原氏の陰謀に彩られていた。
(続日本紀)


[1491] 敏達十四年(585)三月一日 2005-03-01 (Tue)

 物部守屋・中臣勝海、仏教禁断を奏し裁可。
 これより先、欽明十三年(552)十月に百済(くだら)の聖明王から仏像
と経典が伝えられた(仏教公伝)時、天皇は群臣に礼拝すべきかどうかを下問
された。この時大臣(おおおみ)の蘇我稲目(そがのいなめ)は西方の諸外国
も崇めているのに日本だけ逆らうわけにいかないでしょう、と受容を進言、こ
れに対して大連(おおむらじ)物部尾輿(もののべのおこし)・連(むらじ)
中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌足とは同名の別人)らは日本古来の
神々が怒るだろうから、反対した。結局仏像は蘇我稲目に与えられ、試みに礼
拝させることとなった。稲目は向原(むくはら)の家を桜井道場(後の豊浦寺、
廃寺)として仏像を安置し、崇めた。しかしまもなく起こった伝染病は仏像を
祀ったため祟りが起きた、とする尾輿・鎌子の主張によりその仏像は難波堀江
に捨てられてしまった。
 時は流れてこの年二月二十四日、蘇我馬子が自分の病気の原因を占ったとこ
ろ、父の時のその仏像の祟り、と出たため占いの結果を奏上し許可を得て再び
前年百済より伝えられた弥勒菩薩などの仏像を礼拝した。ところが、再び伝染
病が流行、多数の死者が出た。ここに大連の物部弓削守屋(もののべのゆげの
もりや)と中臣勝海(なかとみのかつみ)は何故私たちの意見を聞かないのか、
このままでは神々の祟りであるこの伝染病により国民が死に絶えてしまう、と
改めて仏教禁止を建言、敏達天皇も再度の伝染病の蔓延に「灼然(いやちこ、
歴然としている)なれば仏法を断(や)めよ」という詔を出された。
 かくて仏教受容を巡って二大豪族が激しく対立してゆく。
(日本書紀)


[1490] 天武十三年(683)二月二十八日 2005-02-27 (Sun)

 畿内と信濃に使者を派遣し地形を視察させる。
 この日天武天皇は広瀬王(ひろせのおおきみ)、大伴安麻呂(おおとものや
すまろ)以下、陰陽師(おんみょうじ、後世の安部晴明のように呪術等を専門
とする者)や工匠等を畿内に派遣、都を築くべきところを視察させた。
 恐らくこれが藤原京の建設の開始であり、藤原京は天武天皇の崩御による中
断を経て持統八年(694)、夫の遺志を継いだ持統天皇により遷都された。
 またこの日、三野王(みののおおきみ)、釆女筑羅(うねめのちくら)らを
信濃(長野県)に遣わしてその地形を調べさせた。
 このことの意味については「日本書紀」編纂当時既に謎となっていたらしく、
「是の地(ところ)に都つくらむとしたまへるか(この地に都を造られようと
されたのであろうか)」という推測が記されている。
 もしこの推測が事実とすれば畿内近国以外への初めての遷都計画ということ
になる。それにしても東国の、遙か信濃というのはどのような意図があったの
であろうか。既に新羅(しらぎ)は唐との緊張関係が続いており、日本を攻め
るどころの騒ぎではなくなっている。近江遷都の時のような状況ではもうない
この段階での真意はどこにあったのであろうか。
 この後、同年閏四月十一日に三野王は信濃の地図を献上している。
 信州戸隠には鬼女紅葉の伝説が残されている。それによれば、この地に住み
着いた紅葉という鬼女がここを京都に見立てて都を造り、都からやって来た追
討軍と戦って最後には殺される、というものだが、こういった伝説もこの時の
都を造る、という噂が残ったことから出来た話かも知れない。
(日本書紀)


[1489] 天武二年(673)二月二十七日 2005-02-26 (Sat)

 天武天皇、飛鳥浄御原宮に即位。
 壬申の乱に勝利された大海人皇子(おおあまのみこ)は天武元年九月十二日、
倭京(やまとのみやこ)に入京、島宮(しまのみや、もと蘇我氏の邸宅のあっ
た地に営まれた宮殿か)に入られ、十五日には岡本宮(おかもとのみや、恐ら
く斉明天皇の都のあった飛鳥板蓋宮と同じか)に遷られた。年が明けてこの日
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位され、天武天皇となられた。
 伝飛鳥板蓋宮跡の発掘調査の結果、飛鳥浄御原宮、飛鳥板蓋宮、飛鳥岡本宮
は同じ場所に営まれた可能性が高いことが判明した。上述の通り、「日本書紀」
の記述もそうであれば前年に入られた岡本宮の地に建てた宮殿を新たに飛鳥浄
御原宮と呼んだだけ、と言うことになり矛盾しない。
 天武天皇は皇后(持統、天智女)との間に草壁皇子、その姉大田皇女との間
に大来(おおく)皇女と大津皇子、その妹・大江皇女との間に長(なが)・弓
削(ゆげ)皇子、同・新田部(にいたべ)皇女との間に舎人(とねり)皇子、
氷上娘(ひかみのいらつめ、藤原鎌足女)との間に但馬皇女、その妹五百重娘
(いおえのいらつめ)との間に新田部皇子、大○娘(おおぬのいらつめ、○は
草冠に豕+生、蘇我赤兄(そがのあかえ)女)との間に穂積(ほずみ)皇子、紀
・田形皇女、額田王(ぬかたのおおきみ、宣化皇孫?)との間に十市(とおち)
皇女(大友皇子妃)、尼子娘(胸形徳善(むなかたのとくぜん、九州・宗像豪族)
女)との間に高市(たけち)皇子、●媛娘(かじひめのいらつめ、●は木+穀、
宍人大麻呂(ししひとのおおまろ)女)との間に長壁(おさかべ)・磯城(しき)
皇子、泊瀬部(はつせべ)皇女、託基(たき)皇女の十男七女があった。
(日本書紀)


[1488] 正平七年(1352、北朝観応三年)二月二十六日 2005-02-25 (Fri)

 後村上天皇、賀名生を発し京都に向かう。
 この前年末、足利尊氏とその弟足利直義(ただよし)の不和から武家内部で
内訌が繰り返される中、京都では主力部隊が尊氏とともに東国方面に出払って
おり、防衛に不安を感じた足利義詮(よしあきら)は時間稼ぎのために吉野に
あった南朝に和睦を申し入れた。南朝側も和睦を受け入れたが、これはその重
鎮北畠親房(きたばたけちかふさ)の策謀によりこの機を利用して京都を奪還
するため最初からだまし討ちを目論んだものであった。当初はその意図を隠し
ながらも後村上天皇はこの日吉野の奥地賀名生(あのう)を出て河内東条(大
阪府富田林市)を経て翌日住吉大社に入られた。更に閏二月十五日四天王寺に、
十九日には石清水八幡宮に到着された。ここで一気に牙をむき、二十二日から
南朝側は京都への総攻撃を開始、激戦の末遂に京都は南朝の手に落ちた。
 京都を制圧した南朝は北朝側の奉じていた三種神器をこれは偽物、と宣言し
没収し、また北朝の三人の上皇(光厳上皇、光明上皇、南朝に退位させられた
崇光天皇)と皇太子直仁親王を拉致、賀名生(あのう)に幽閉した。
 結局南朝はこのように一時的には京都を回復したのだが尊氏が直義を毒殺し
て戻ってくると忽ち再び京都を追われた。しかし、尊氏にとっても深刻な問題
となったのは主要皇族がすべて南朝に囚われの身であったため、北朝そのもの
が消滅した形となっていたことであった。無理に無理を重ねて三種神器の入っ
ていた箱に中身があるものとみなし、後伏見天皇の中宮であった広義門院に上
皇の代行をさせてやっと見つけた光厳天皇の末子弥仁王(いやひとおう)を即
位させて(後光厳天皇)何とか形を保つことに腐心することとなった。
(太平記巻二十九・羽林八座と南朝御合体の事)


[1487] 天武十年(681)二月二十五日 2005-02-24 (Thu)

 律令撰定の詔。草壁皇子立太子。
 この日天武天皇は皇后(後の持統天皇)と共に飛鳥浄御原宮の大極殿にあっ
て律令を定めて法式を改めることを告げた。但し、これに今全力を尽くした場
合は日常業務がおろそかになるから、という理由で日常業務を行うものと律令
の撰定に当たるものとを分けてそれぞれで分担させることとした。またこの日
草壁皇子を皇太子とし、国政に当たらせた。
 この時の命により撰定されたのが後、持統三年(689)六月二十九日に完
成する飛鳥浄御原令(あすかのきよみはらりょう)である。しかし、律令とは
刑法に当たる律と行政法に当たる令からなるが、律については完成の記録がな
く、恐らく未完成のまま終わったものと思われる。
 同じ日に草壁皇子が皇太子になって国政に当たるようになった、ということ
であるが、これが事実であるかどうかは不明とするしかない。そうなるともう
一人の有力皇子である大津皇子は或いはこの時には律令の撰定に参画したのか
もしれない。しかし、現実の問題としては天武天皇の親政はその後も続く。そ
れどころか、天武はその後十二年二月一日になって大津皇子も国政に参画させ
ている。聡明・剛毅で人望も高かった大津皇子に比し、草壁皇子は凡庸な人物
であったらしく、或いは天武天皇自身はこの段階では草壁皇子の実力にもう見
切りをつけていたのかも知れない。それが大津皇子を後継とする意図であった
のか、大津皇子に今後も草壁皇子の補佐を期待したのかは不明であるが、結果
的にはこの措置が我が子草壁を皇位に建てることを悲願とする皇后(持統天皇)
の恐怖を招き、結局期待された大津皇子に破滅をもたらすことになった。
(日本書紀)


[1486] 天平十六年(746)二月二十四日 2005-02-23 (Wed)

 聖武天皇、紫香楽宮行幸。元正上皇らは難波にとどまる。
 都は恭仁か、難波か、平城か、という騒動は諸司を難波に移したことにより
漸く決着したかに見えた。
 ところが、ここから聖武天皇がまた不思議な行動を取られる。難波宮に落ち
着かれることなく十日、和泉宮(いずみのみや、泉佐野市日根野付近にあった
と見られる離宮)に行幸され、十二日に戻られると二十二日に今度は安曇江
(あずみのえ、大阪市北区?)に行幸される。そして戻られて間もないこの日
難波宮を後にして紫香楽宮(しがらきのみや、滋賀県信楽町)に行幸されてし
まう。しかもこの間必死に難波を新たに都として定めようと数々の施策を行っ
ていた政権首班の左大臣橘諸兄はこの行幸に従わず、元正上皇を奉じて難波に
残り、二十六日には元正上皇の勅を発して難波を都とする、と宣言する。皮肉
なことに恭仁京遷都を推進したのも諸兄なら今また恭仁を捨てて難波に遷都し
ようとしているのも諸兄、そして聖武天皇はこのどちらの都にも背を向けて一
人大仏を造営しつつある紫香楽宮に固執していたのであった。
 この後聖武天皇は独自に紫香楽にあって大仏建立に邁進し、政府そのものは
難波にあって国政を行う、という変則的な状態がこの年十一月十七日になって
元正上皇が紫香楽宮に入られて聖武天皇と合流されるまで九ヶ月も続く。
 こういった聖武天皇の不可解な行動の影にどのような理由があったのかはわ
からないが、或いはこの前の閏一月十三日、十七歳になられたわが子安積親王
(あさかのみこ)を急病により失われた悲嘆の余り遁世して仏門に帰依したい、
というような心境にでもなられていたのであろうか。
(続日本紀)


[1485] 宝亀元年(神護景雲四年、770)二月二十三日 2005-02-22 (Tue)

 西大寺東塔心礎を破却。
 称徳天皇は東大寺に匹敵する大寺として西大寺の造営を行った。道鏡の勧め
もあったのか、大仏はともかくそれ以外は東大寺に優るとも劣らぬものを、と
いうことであろうか、特にその東西の塔は東大寺にそびえ立っていた四角七重
塔をしのぐほど立派なものを、という意図があったらしい。その結果計画され
たものは我が国初の八角七重塔であった。そしてその中心となる心柱の礎石を
東大寺の東の飯盛山から運んできた。しかし、その運搬は困難を極め、一日に
数歩しか進まず、また時には不気味な音を発したりした。人夫を増員して漸く
運び、整形して基壇に据えたが、巫女たちがこの石には祟(たた)りがある、
と騒ぎ、とうとう柴を積んで焼き、さらに三十余石の酒を注いで割り、粉々に
して道に捨てたのであった。しかしその後も称徳天皇の不予(ご病気)の際、
原因を占ったところこの石の祟り、ということになり、あわてて石の破片を拾
い集めて西大寺の東南の隅に安置し、人馬に踏まれないようにした。
 この二年後の宝亀三年四月二十八日には西大寺西塔に落雷があり、その原因
は占いにより近江の小野神社(滋賀県志賀町)のご神木を切って用材としたた
めに祟りがあった、ということが判明している。恐らく造営を急ぐ余り礎石も
用材も信仰の対象であったものまで手を付けたのであろう称徳天皇の焦りが伝
わって来るかのようである。しかし焦れば焦るほど造営は遅れ、結局この塔は
称徳天皇の崩御もあってか計画を縮小、通常の五重塔として完成することにな
る。なお、八角の塔としては長野県上田市の安楽寺八角三重塔が唯一の現存例
だが、かつて平安京の東には法勝寺の八角九重塔が偉容を誇っていた。
(続日本紀)


[1484] 推古三十年(622、法興三十二年)二月二十二日 2005-02-22 (Tue)

 聖徳太子薨ず。
 この前年十二月に母穴穂部間人女王(あなほべのはしひとひめみこ)を亡く
された聖徳太子はこの年正月二十二日に重病になられた。その妻の一人膳部菩
岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)もまたご病気になられて共に床
についておられた。このため、お二人は釈迦如来の仏像を造営し奉るのでその
功徳によって病気を平癒させるか、もしこれが定められた寿命であれば浄土に
迎えていただくよう、と誓願を立てられた。
 しかし結局これは天寿ということであったのだろうか、お釈迦様のご加護は
得られず、二月二十一日に菩岐々美郎女が亡くなり、翌日のこの日、太子もま
た薨じられた。 先の誓願によって翌推古三十一年三月に釈迦如来と脇侍の三
尊像が造像され、法隆寺に安置された。これが現在にまで伝わる法隆寺金堂の
本尊である釈迦三尊像だという。
 太子の死後、人々の泣き悲しむ声は行路に満ちた、という。また太子の師で
ある高句麗(こうくり)の慧慈(えじ)法師は既に帰国していたが太子の死を
伝え聞いて嘆き悲しみ、明年の同月同日に死んで太子にお目にかかりたい、と
願を掛け、その通りにちょうど一年後に亡くなったという。
 この年は法興三十二年という所伝もあるが、「法興」は恐らく法興寺(飛鳥
寺)建立を記念しての私年号であろうと考えられており、日本書紀以下の史書
には記録されていない。もし公式の年号であれば大化に先立つ日本最初の年号
ということになる。また、「日本書紀」は太子は推古二十九年二月五日に薨じ
られた、とする。
(上宮聖徳法王帝説)


[1483] 天平十六年(746)二月二十一日 2005-02-20 (Sun)

 恭仁京人民の難波移住を許す。
 恭仁京(くにのみやこ、京都府相楽郡加茂町)はもともと天平十二年、藤原
広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱によって聖武天皇が平城京を後にして伊勢な
ど東国に行幸されたまま、平城京には戻らずに橘諸兄(たちばなのもろえ)の
主導のもと、急遽造営・遷都された都であった。何故それほど急いで遷都が行
われたのかは明らかではないが、藤原四兄弟の病死に続き、広嗣の乱で一挙に
藤原氏が勢力を失った機にその影が濃厚な平城京でなく新しい都で新しい政治
を行おうとしたものであろうか。しかし、性急な遷都は混乱と反発を招くこと
になってしまった。結局この年閏正月一日に官僚たちに、更に四日には恭仁京
の市で庶民たちに都を恭仁京にするか、難波京にするか、それとも平城京に戻
るかについて意見を問い、その結果多数意見である恭仁京をそのまま都とする
のかと思われたが、その僅か七日後の閏正月十一日に聖武天皇は恭仁宮を出て
難波宮に入られた。さらに二月一日には恭仁京にあった駅鈴や天皇印・太政官
印を難波に運ばせ、また官僚たちを難波に移動させた。この時点で恭仁京は都
としての機能を失い、そのまま難波京が都の機能をもつようになる。
 そしてこの日、恭仁京に住む人々に対し、希望があれば難波京に移住しても
よい、と布告された。当時は都に住むには許可が必要であり、誰でも自由に転
入できるわけではなかったため、これは旧都の住民の救済策でもあった。
 この後二十六日には難波宮を皇都とすることが宣言され、漸く決着するかに
見えた遷都問題であったが、この三日後の二十四日からの聖武天皇の行動によ
って遷都問題はますます混迷の度を深めていくことになる。
(続日本紀)


[1482] 己未年(紀元前662)二月二十日 2005-02-19 (Sat)

 神武天皇、大和を平定。
 甲寅年(前667)十月、日向から東征の途につかれた神武天皇は翌年三月、
吉備で戦備を整えられ、戊午(前663)、いよいよ大和を目指し河内から胆
駒(いこま)を越えようとするがここで長髄彦(ながすねひこ)に遮られて二
人の兄を失って敗退、方向を変えてはるか熊野から吉野を経て長駆大和に向か
い、途中で兄猾(えうかし)や八十梟帥(やそたける)、兄磯城(えしき)な
どを倒していよいよ長髄彦との決戦に臨み、金鵄の助けを得てこれを破った。
長髄彦の主である櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと)は長髄彦を殺
して帰順した。翌年のこの日には大和にあってなお帰順しない土豪の新城戸畔
(にいきとべ)、居勢祝(こせのはふり)、猪祝(いのはふり)、さらには土
蜘蛛(つちぐも)などを滅ぼし、ここに漸く神武天皇による大和の平定が完成
した。そして三月には八紘一宇の命令を発して橿原宮を造営し、神武元年(前
660)の一月一日に橿原宮で即位され、神武天皇となられた。この一月一日
が現在の暦に換算して二月十一日に相当するため、明治になってこれを紀元節
(戦後は建国記念の日)と定められたのである。
 ここで大和平定から即位まで二年の間隔があるように上代の記録は何故か二
年単位であることがしばしば見られる。また、「魏志倭人伝」には当時の日本
人は非常に長寿で百歳を越える人もよくいる、とされている。これらのことか
ら上代の日本の暦は現在の一年が二年に相当するものであったとする説があり、
この考えに立てば少なくとも倭の五王以降の「日本書紀」の記事は外国史料と
も非常によく一致する。
(日本書紀)


[1481] 文武四年(700)二月十九日 2005-02-19 (Sat)

 石船柵を修理させる。
 この日、越後(こしのみちのしり)・佐渡両国に命じて石船柵(いわふねの
き)を修理させた。
 石船柵は当時日本海側で大和朝廷の支配下にある最北の地で、恐らく新潟県
村上市の石船神社が鎮座される付近と考えられているが、遺構はまだ発見され
ていない。磐舟柵は大化五年(649)に蝦夷(えみし)に備えて設置され、
越(こし)と信濃の民を選んで柵戸としたという記事が初見である。「越」と
は日本海側の地域全体で、後に越前・越中・越後に分けられた。その段階では
越前は福井県東部から石川県、越中は富山県と新潟県西部、越後はそれ以北の
日本海側全域であった。この時石船柵を修理した越後はこの段階のものである
が、わざわざ修理のことを記すのが暫く放棄されていたのか、蝦夷の襲撃など
の事件があったのか、などの理由は記録にない。いずれにせよ、佐渡もこの修
理に参加させられていることからかなり大規模なものであったのだろう。なお、
この翌々大宝二年(702)に新潟県西部が越中から所属替えで越後となり、
和銅五年(712)の出羽国設置でほぼ新潟県に相当するその領域が確定した。
 北方との接触で古代国家は北の海の特産品を入手するようになる。その一つ
は比呂女(ひろめ、昆布)である。但し当時は極めて限られた量を得られただ
けであったため、めったなことでは口に出来ず、ましてだしに使うようなこと
はなかったと思われる。もう一つは佐介(さけ、鮭)である。はるばる越後な
どから都に送られる鮭は市で二十文という価格で取り引きされていた。一日の
賃金が三〜五文の時代であるから相当な高級品であった。
(続日本紀)
◎筆者の友人が越後村上で創業二百年の魚屋さんを継いでいます。平城京の人
 々も好んだ伝統の鮭をはじめとする商品を是非一度ご賞味下さい。インター
 ネットからご利用いただけます。 越後村上うおや http://www.uoya.co.jp/


[1480] 天徳五年(961)二月十八日 2005-02-17 (Thu)

 東大寺戒壇和上明祐、往生する。
 東大寺で戒壇での受戒の儀を執行する高僧明祐(みょうゆう)は一生の間戒
律を破ることなく、毎夜仏堂に参籠して宿坊に帰ることない生活を続けていた
ため、人々の尊敬を集めていた。
 この年二月、彼は体調が優れずまた食ものどを通らないため、もう寿命が来
た、とは思いながら、折しも東大寺は恒例の仏事である修二会(しゅにえ)、
つまりお水取りの真っ最中であった。これが終わるまでは死ぬわけにはいかな
い、と気力を振り絞って勤め上げた。そしてお水取りも終わった二月十七日の
夕方、弟子たちが彼のために阿弥陀経を読経したところ、明祐はもう一度読経
するように命じ、自分には今音楽が聞こえる、と告げた。弟子たちが音楽など
どこにも聞こえない、何をおっしゃるのですか、と言うと、彼はわしは気は確
かだ、間違いなく音楽の音が聞こえる、と伝えた。弟子たちは不思議に思って
いたが、翌十八日、明祐は意識もはっきりしたまま念仏を唱えて亡くなった。
 当時は阿弥陀如来が西方極楽浄土から来迎図(らいごうず)にあるように菩
薩たちを従えて迎えに来るとき、微妙(みみょう、ありがたい)な音楽が流れ
る、と信じられており、このように死に臨んで音楽が聞こえた、というのは阿
弥陀仏に迎えられて極楽浄土に往生したものと信じられた。
 戒壇は鑑真の来日によって漸く行うことが出来るようになった僧侶に戒律を
伝える儀式の場であり、東大寺のほか下野薬師寺と筑前観世音寺に設置された
が、後には比叡山延暦寺にも設置され、設置を求める園城寺(三井寺)と延暦
寺との激しい争いを招くもとともなった。
(今昔物語集巻十五・三)


[1479] 天応元年(781)二月十七日 2005-02-16 (Wed)

 能登内親王薨ず。
 能登内親王(のとのひめみこ)は光仁天皇の長女。享年四十九歳。年老いて
皇位に即いた光仁天皇はこの日娘に先立たれた悲しみを次のように述べられた。
「この月頃の間、身(み)労(つから)すと聞(きこ)しめして、いつしか病
(やまひ)止(や)みて参入(まゐい)りて、朕(わ)が心も慰めまさむと、
今日かあらむ明日かあらむと念(おもほ)しめしつつ待たひ賜ふ間に、あから
めさす事(一瞬の出来事)の如く、およづれかも(虚報ではないのか)年高く
もなりたる朕(われ)を置きて罷(まか)りましぬ(亡くなった)と聞こしめ
してなも、驚き賜ひ悔(くや)しび大坐(おほま)します。如此(かく)あら
むと知らませば、心置きても談(かたら)ひ賜ひ、相見てまし(会いたかった)
ものを、悔(くや)しかも哀(かな)しかも、云(い)はむすべ知らにもしあ
るかも(言うべき言葉もない)。朕(われ)は汝(みまし)の志をば暫(しま
ら)くの間(ま)も忘れ得(う)ましじみなも(あなたのことを片時も忘れる
ことができずに)悲しび賜ひ、しのび賜ひ大御泣(おほみね)哭(な)かすと
て大坐(おほま)します(悲しみ偲んで泣き暮らしています)。<中略、遺児
たちの処遇を述べる>罷(まか)りまさむ道は平(たひら)けく幸(さき)く
つつむ(支障ある)事無く、うしろも軽く安(やすら)けく通らせ(後のこと
は心配せずどうか心安らかにあの世へと旅立って下さい)」
 子を思う親心、そして子に先立たれた悲しみがひしひしと伝わってくるこの
詔。すっかり気落ちされた光仁天皇が「余命幾(いくばく)もあらず」と皇太
子山部親王(桓武天皇)に譲位されるのは一月半後、四月三日のことであった。
(続日本紀)


[1478] 天平宝字三年(759)二月十六日 2005-02-16 (Wed)

 渤海使、迎入唐大使使を伴い帰国。
 この前年九月十八日に渤海から帰国する遣渤海使の小野田守(おののたもり)
とともに来日した楊承慶(ようしょうけい)以下の渤海遣日本使一行はこの年
正月に淳仁天皇のもとでの朝賀の儀式に参列した後、二月一日には国王に対す
る国書などを賜った。
 折しも日本にとっては帰国できずに唐に留まっている藤原清河をどうするか、
ということが懸案になっていた。そこへやって来た唐とも関係良好な友好国の
渤海の使節だが、彼らは先述の通り遣渤海使の帰国に便乗して来たため、船を
持っていなかった。これは渤海の通交の目的が何と言っても日本との貿易にあ
るため、日本側が通交を制限しようとしていたにもかかわらずあらゆる機会を
利用して日本への使節を派遣してきたためであるが、それでも宗主国を自任す
る以上、日本としては彼らを放置するわけにはいかなかった。そのため、彼ら
を帰国させる船に彼らを本国に送り届ける送使をはじめ船員たちを派遣するこ
ととなっていた。そこでその送使にそのまま渤海経由で唐に赴かせ、清河等を
迎えさせよう、と言うことになり、国書の中で特に仲介の労を取ってもらえる
よう要請が行われた。こうして任命された迎入唐大使使(げいにっとうたいし
し)高元度は渤海の使節団と共にこの日出発した。
 結局この時の使節は渤海側が唐王朝が内乱の渦中にあることから大使以下の
一部のみを唐に送り、元度は無事唐に達して清河らの帰国を要請、内乱が鎮圧
された段階ですぐ帰国させる、という約束を得て無事帰国した。しかし、遂に
この約束は果たされることがなかった。
(続日本紀)


[1477] 白雉元年(650)二月十五日 2005-02-14 (Mon)

 白雉改元。
 この年二月九日、穴戸(あなと、後の長門、山口県北部)国司草壁醜経(く
さかべのしこふ)が白い雉を捕らえた、として孝徳天皇に献上した。孝徳天皇
はこのことの意味を百済君豊璋(くだらのきみほうしょう、後の再興百済王、
当時百済の人質として日本にいた)や僧みん(「みん」は「日」の下に「文」)
らに問うたところ、一様に中国の故事からこれは瑞祥現象(大変めでたい印で
ある)と答えた。
 これをもとにこの日朝賀の儀式(元旦の儀式であり、朝廷の最大の儀式であ
った)のような盛大な儀仗を整え、左大臣巨勢徳陀古(こせのとこだこ)、右
大臣大伴長徳(おおとものながとこ)以下の百官が四列に整列する前をこの白
雉を乗せた輿を宮門の中に入れ、続いて左右大臣、百済君豊璋を始めとする百
済・高句麗(こうくり)・新羅(しらぎ)の人々に至るまで朝堂に参入、天皇
と皇太子(中大兄皇子)にこの白雉をご覧いただいた。百官を代表した巨勢徳
陀古の慶賀の言葉に応え、天皇はこの瑞祥現象を記念して大化六年を改めて白
雉(はくち)元年と改元することを告げ、またその雉を産した穴戸の住民の調
(税)・労役を三年間免除した。
 日本最初の公的年号である大化に続く二番目の元号「白雉」はこうして白雉
が出た、という瑞祥現象を記念して制定された。こういった現象を記念しての
改元は奈良時代を中心にこれ以降もよく見られるようになる。ただ、元号その
ものはこの孝徳天皇の崩御によって白雉以降、天武天皇の朱鳥(あかみとり)
まで暫く途絶えることになる。
(日本書紀)


[1476] 建久六年(1195)二月十四日 2005-02-13 (Sun)

 源頼朝、東大寺大仏殿の落成式典参列のため鎌倉を発す。
 治承四年(1180)十二月二十八日、平重衡(たいらのしげひら)の焼き
討ちによって全焼した東大寺の大仏は勧進僧重源(ちょうげん)を中心に再建
が進められ、文治元年(1185)六月に当の重衡が斬首された後、八月には
大仏本体が完成、後白河法皇自らの手で開眼供養が行われた。これに続いて大
仏殿も再建成り、いよいよこの年三月に落成の式典が行われることとなった。
これに全面的に協力した源頼朝は落成式典に出席するためこの日妻北条政子や
その子供たちを伴って鎌倉を出発した。
 行列の先頭に立ったのは鎌倉武士の鑑とも言われる畠山重忠であり、そのほ
か稲毛重盛(いなげしげもり)、小山朝政(おやまともまさ)、和田義盛、三
浦義澄(みうらよしずみ)、梶原景時(かじわらかげとき)、佐々木定綱、北
条義時、下河辺行平(しもこうべゆきひら)、武田信光、比企能員(ひきよし
かず)、中原(大江)広元、といった錚々たる面々が付き従って行ったらしい。
これは恐らく京都にある、頼朝をして「日本一の大天狗」と言わしめた治天の
君、後白河法皇に対する示威行動の意味もあったであろう。
 一行は三月四日には勢多橋を渡って京都に入り、六波羅の屋敷に入った。以
前の平家の屋敷、後の六波羅探題の前身である。その後、九日には源氏の守り
神であり、鎌倉に祀った鶴ヶ岡八幡宮の本社でもある石清水八幡宮に参拝・通
夜し、その後十日に奈良に到着、東大寺東南院に入った。十一日には千匹の馬、
米一万石、黄金一千両、上絹一千疋を東大寺に奉納、その絶大な財力を見せつ
けて翌日の式典に臨むことになる。
(吾妻鏡)


[1475] 延暦十六年(797)二月十三日 2005-02-13 (Sun)

 続日本紀成る。
「続日本紀(しょくにほんぎ)」は文武天皇即位(697)から桓武天皇の延
暦十年(791)までの歴史を記述した正史。
 複雑な過程を経て成立したその最初は淳仁天皇の頃、「日本書紀」を継いで
文武元年から天平宝字元年(757)までの六十一年間の歴史書として石川名
足(いしかわのなたり)、淡海三船(おうみのみふね)らによって進められた
編集は当時の政界を牛耳っていた藤原仲麻呂(恵美押勝)が事実上監修してい
たものであろう。しかし、これは完成を目前にして恵美押勝の乱により頓挫、
草稿のまま残されることとなる。但し、その最後の部分、天平宝字元年には橘
奈良麻呂の乱があった。藤原仲麻呂の主張のみを一方的に採用した記述は破棄
され、そのためこの原「続日本紀」は最後の一年分を欠くものとなってしまっ
た。そして光仁朝頃に今度は菅野真道(すがののまみち)、秋篠安人(あきし
ののやすひと)らによって修史が再開された。今度は天平宝字二年以降宝亀八
年(777)までの歴史が叙述され、さらに桓武朝に延暦十年までの部分が追
加され二十巻になると共に、先に頓挫した草稿を抄録、天平宝字元年の記事を
新規に加えて二十巻とし、合計四十巻の歴史書としてこの日完成した。こうい
った複雑な経緯のため、抄録された文武元年から天平宝字元年の部分の記述は
非常に粗く、また桓武天皇とその父光仁天皇の治世の出来事については現代史
であるため、桓武の目を気にしたものとなっている。後には早良親王の怨霊を
恐れた桓武天皇の命により早良親王関連記事が削除されてしまった。いずれに
せよ今日奈良時代の詳細な歴史が知られるのも先人の偉大なる遺産の賜である。
(日本後紀)


[1474] 天平元年(神亀六年、729)二月十二日 2005-02-11 (Fri)

 長屋王の変、長屋王に自尽させる。
 この二日前の二月十日、漆部君足(ぬりべのきみたり)、中臣宮処東人(な
かとみのみやこのあずまひと)らが「左大臣長屋王が私(ひそ)かに左道(さ
どう、邪法)を学びて国家を傾けむと欲す」という密告を行った。これにより
直ちに関所を閉じて厳戒態勢を布き、藤原宇合(うまかい)らに兵を率いて長
屋王邸を囲ませた。そして翌日、舎人親王(とねりのみこ)・新田部親王(に
いたべのみこ)らを長屋王の邸に遣わし、その罪を窮問させた。そうしてこの
日、長屋王に自殺を強いた。妻吉備内親王(きびのひめみこ)をはじめその子
膳夫王(かしわでのみこ)、桑田王、葛木王、鉤取(かぎとり)王らも王の後
を追って自ら首をくくり、また彼に仕えていた人々まで拘束された。
 権勢を誇っていた長屋王のあっけない最後である。理由とされたのは左道、
即ちまじないなどの邪法であり、例えば道教の関係の書物などがあっただけで
も簡単に理由とすることが出来る。現実に天平十年七月、密告者の一人東人が
大伴子虫(おおとものこむし)に斬殺された記事の中で正史である「続日本紀」
さえもがこの事件を誣告(ぶこく、冤罪)であったと記している。
 長屋王は高市皇子の子であり、厳しい人物であったらしい。そのため光明子
を皇后に、と企む藤原氏にとっては確実に立后に反対するであろう「邪魔」な
存在であり、また有力な皇位継承の候補者ですらあったらしい。その妃吉備内
親王は草壁皇子の皇女であることを考えればその地位も明らかであった。この
前年末、皇太子基王(もといのみこ)を生まれて一年足らずで失って悲嘆にく
れる聖武天皇は簡単に陰謀に乗せられてしまったのであった。
(続日本紀)


[1473] 持統六年(692)二月十一日 2005-02-10 (Thu)

 持統天皇、伊勢行幸を発表、諸臣に準備を命ず。
 この日、持統天皇は諸官に詔し、三月三日から伊勢に行幸するのでそのため
の衣服を用意するように、と告げられた。
 しかしこれは思わぬ波紋を呼んだ。十九日になって中納言三輪高市麻呂(み
わのたけちまろ)が上表、この時期の行幸は農耕の妨げになるから、と再考を
促した。これは行幸先では行宮の造営や道路の清掃・整備などに多くの労力を
要し、これは結局行幸先、及び途次の民衆の臨時労役によってなされる。この
年の三月三日は現在の暦で三月二十九日であり、農作業にとって重要な時期で
あった。しかしそれでも準備は進められ、三月三日には行幸中の都を守る留守
官が任ぜられる。ここに高市麻呂は「その冠位を脱(ぬ)き」即ちその職を賭
して重ねて行幸を諫止した。けれど持統天皇は結局これを無視、三月六日から
伊勢行幸を強行された。そして高市麻呂の名はこの後十年後の大宝二年(70
2)まで正史から消える。恐らく実際に罷免され遠ざけられたものであろう。
 民を思う高市麻呂の誠意は踏みにじられた形とはなったが、この事件は人々
に強烈な印象を残したらしい。「日本書紀」自体がこの事件を詳細に記録した
ばかりか、「万葉集」でも「日本書紀」のこの箇所が内容的には関係が薄いに
もかかわらず引用され、平安初期に成立した最古の説話集である「日本霊異記」
でも激賞され、やがて伝説に尾鰭が付いたのか、平安末期に成立したと見られ
る「今昔物語集」ではとうとう彼の諫言によって行幸が中止されたことにさえ
なっている。結局は報いられなかったとは言え、民のことを思った誠意の人に
対する人々の視線はこの上なく暖かい。
(日本書紀)


[1472] 延暦二十四年(805)二月十日 2005-02-09 (Wed)

 石上の器仗を石上に戻す。
 石上(いそのかみ)神宮は軍事氏族である物部(後に石上と改姓)氏の祀る
神であり、朝廷の武器庫でもあったらしい。都が大和を離れて平安京になり、
離れているのは不便、との理由でこれらは山城国葛野郡に遷された。しかしそ
の後鏑矢のような音が響いたり、新しく神宝を収めた蔵が倒壊したりし、さら
に新しい蔵に遷したところ今度は桓武天皇が不予(ご病気)となられた。また
平城旧京に住む巫女に神託が降り、代々尊崇されてきたのに今になって神宝を
遷されたのは不当であるから神罰として病を与えた、ということを告げた。
 桓武天皇にとっては謀殺した弟早良親王や義母井上皇后の怨霊に加え、更に
神罰、と言うことに恐れおののいてこの日勅使を派遣、これら神宝を石上神宮
に返却することとなった。
 石上神宮は天理市に鎮座されるが、その楼門・拝殿・本殿はほぼ一直線に並
んでいる。国宝の拝殿は永保元年(1081)に白河天皇が宮中の神嘉殿(し
んかでん)を移築したと伝えられるが、本殿は大正二年(1913)に新設さ
れたものである。そして本殿と拝殿の間には禁足地が設けられており、古くは
この禁足地が本殿に相当していたことになる。明治七年(1874)、当時の
大宮司菅政友(かんまさとも)らによってこの禁足地が発掘され、勾玉や管玉、
四つに折れた鉄剣などが出土している。これらからこの禁足地は古墳時代中期
には成立していたものと考えられる。またそのほかに宝物として伝世されたも
のに五世紀のものと考えられる鉄盾二つ、そして有名な七支刀(しちしとう)
がある。七支刀も菅政友によって銘文が発見されたのである。
(日本後紀)


[1471] 天智三年(664)二月九日 2005-02-08 (Tue)

 官位二十六階、氏上のことなど制定。
 推古十一年(604)、聖徳太子によって定められた冠位十二階は大徳を筆
頭に徳・仁・礼・信・義・智それぞれに大・小があった。これは隋や百済(く
だら)・新羅(しらぎ)などの制度にならったものと見られる。その後大化改
新後、大化三年(647)・大化五年の改訂を経て十九階の冠位となった。こ
の日天智天皇は大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)に命じてこれを
さらに改訂させ、二十六階とした。その内訳は大織を筆頭に織・縫・紫の冠位
にそれぞれ大・小があり、その下に大錦上など錦・山・乙それぞれに大・小及
び上・中・下にわかれている、というものであり、更に最も下には大建・小建
があり、合計二十六階となる。最上位の大織冠はその後藤原鎌足が薨ずるとき
に与えられたのみなので鎌足の異称ともなっている。その後、これはさらに天
武十四年(685)の浄御原令を経て、大宝元年(701)の大宝令により皇
族は一品から四品、諸臣は正・従一位から三位、正四位上から従八位下、大・
少初位上・下、という単純なものになって以降固定した。
 またこの日あわせて氏上(うじのかみ)の制度を定めた。これは大化前代は
大和朝廷はあくまで豪族連合であり、基本的には各豪族の代表が出仕したもの
であったが、新制度の下でこれが崩れ、そのためにその氏族の代表者を申告す
るか、朝廷が認定するものとしたもの。あわせて民部(かきべ)、家部(やか
べ)をも制定したが、これらはそのまま受け取れば私有民の認定であり大化改
新の理念に反する。或いは大化改新を主導したとされる天智天皇は実際には孝
徳天皇の政策否定の結果実際には改新の破壊者であった可能性が濃厚である。
(日本書紀)


[1470] 天平元年(神亀六年、729)二月八日 2005-02-07 (Mon)

 元興寺に大法会を行う。
 この日聖武天皇は元興寺において大規模な法要を行い、太政大臣(実際は左
大臣)長屋親王に命じて僧侶の接待をさせた。その時に一人の僧が厨房に入っ
てきて鉢を差し出し、食事を乞うた。これを見た親王は象牙で出来た笏でその
僧の頭を打った。僧は頭から血を流し、恨めしげに泣きながら去り、そのまま
行方がわからなくなった。その様子を見た人々は不吉なことだ、とささやきあ
ったが、果たしてその二日後に親王は讒言にあって兵に囲まれ、遂に自殺を強
いられたのであった。
 これは「日本霊異記」の伝える説話であり、どこまで史実なのかはわからな
い。実際には長屋王は仏教を非常に尊び、その噂は海外にまで名高く、後年鑑
真が来日を決意するときも長屋王という大変熱心な仏教徒がいる、と聞いたこ
とを一つの理由としている。が、その一方で彼は厳格な人であったらしく、も
し正規の僧侶でない私度僧(納税などを逃れるため勝手に僧になった者)が公
式の場所に現れたのを見た場合、厳しい態度を示したことは充分にあり得る。
 もう一つ、この説話では彼の名前を「長屋親王」と伝えており、実際にも長
屋王邸跡から発掘された木簡の中に「長屋親王」と記されたものが発見されて
いる。彼の父は天武天皇の長子高市皇子(たけちのみこ)、母は御名部内親王
(みなべのひめみこ、天智皇女、元明同母姉)、その妻吉備内親王はは草壁皇
子と元明天皇との間の娘(文武・元正妹)という超一級の家系であった。実際
に彼はこの説話の伝える通り「親王」の待遇とされ、皇位継承の有力候補者で
あったため「消された」可能性は充分に考えられる。
(日本霊異記 中巻・一)


[1469] 養老二年(718)二月七日 2005-02-06 (Sun)

 美濃の醴泉に行幸。
 この前年霊亀三年九月十一日、美濃の不破(ふわ、岐阜県関ヶ原町)に行幸
された元正天皇は十八日に美濃に到着、二十日には更に当耆(たぎ)郡(岐阜
県養老郡・海津郡)に行幸され、多度山の美泉をご覧になった。この時の「美
泉」は養老の滝(岐阜県養老町)と考えられる。そして同年十一月十七日には
詔を出されて同年を養老元年と改元された。その詔によるとこの時、元正天皇
がこの美泉で顔や手を洗われたところ、皮膚がなめらかになり、痛いところを
洗ったら痛みが引いた、また従駕した者でこの水を飲み、浴びた人も或いは白
髪が黒くなり、薄くなった毛が生え、弱った視力が回復したりした、という。
この改元はこのような醴泉(れいせん)発見を記念したものであった。
 そしてこの日元正天皇は再びこの醴泉への行幸に出発された。今回は具体的
な行動の記述はないが、帰京されたのは三月三日のことであった。
 なお、鎌倉時代の説話集「古今著聞集」巻八・孝行恩愛の部には美濃に住む
貧しい男が老父を山の木草を取って売ったお金で養っていたが、この父がたい
そうな酒好きであったためいつも腰に瓢箪をつけ、酒屋へ行っては酒を乞うて
父に与えていた。ある日苔深い石に滑って転んだところ、酒の匂いがするので
あたりを見ると石の中から水が流れており、その色が酒に似ていたのでくんで
嘗めてみると美酒であったため、それ以降は毎日これをくんで父に与えていた。
それを聞いた元正天皇が行幸され、親孝行が天に通じてこのような奇跡が起き
たのだ、と男を美濃守にし、酒の出るところを養老の滝と名づけた、という話
が記載されている。
(続日本紀)


[1468] 宝亀四年(773)二月六日 2005-02-06 (Sun)

 下野の正倉火災。
 この日下野国(しもつけののくに、栃木県)の正倉に火事があり、正倉十四
棟、米と糒(ほしいい)の合計二万三千四百余石が焼けた。当時の一石はおよ
そ現在の四斗であり、換算すると九千三百六十石が失われたことになる。江戸
時代、武士は一日一人五合の米を食べたというが、その計算でいくとこれは実
に五千百人以上の一年分の食糧に相当する。生産量の小さかった古代において
これがどれほどの数字であったのか察するに余りある。
 これは神火と称され、特に奈良時代後期と平安時代初期に頻繁に発生した。
正倉は税として集めた米を収納する倉庫であり、国衙や郡衙の近くに防火上の
配慮から一定以上の間隔を空けて建てられていた。本来火の気が無く、防災の
配慮もされていた(はず)の正倉に突然火災が発生したことを何らかの神罰の
ため、と考えられたため神火と呼ばれるようになったのである。
 しかし現実には神罰どころかそのほとんどが放火であったと見られる。これ
は郡司などの地位を巡る争いから現在の郡司を陥れようとするものであったり、
あるいは官物を着服していることが後任者との引き継ぎで発覚することを恐れ
て前任の国司が証拠隠滅を図ったものであったりしたようである。
 当初は何かの祟(たた)りなどではないかと考えて近辺の神社で祭祀を行っ
たりした当時の政府もじきにこれがそういった人災であることに気づき、厳罰
などの対策を講じたりしたが、これらの「神火」が発生したのが東国に集中し
ていることは蝦夷(えみし)との戦いなどによる東国の民衆の負担増大とその
結果としての社会不安が原因にあるのであろう。
(続日本紀)


[1467] 天平十四年(742)二月五日 2005-02-04 (Fri)

 新羅使を大宰府で饗応。恭仁宮東北の道を開き近江甲賀郡に通じさせる。
 この前年、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)が大宰府の兵を動かして反乱を
起こしたことに懲りた政府はこの年一月五日、大宰府を廃止してその官物を大
宰府の所在した筑前国司に管轄させ、また大宰府の担っていた対外窓口の役割
も筑前国に行わせることとした。ところが、早速二月三日には新羅(しらぎ)
の使者金欽英(こんこんよう)以下百八十七人が来日した、という報告があっ
た。ところが、彼ら使者を呼ぼうにも遷都したばかりの恭仁宮はまだまだ未完
成であった。この年正月の朝賀の儀式も大極殿が未完成であるために仮に四阿
殿(あずまやどの)を建て、ここで行ったほどである。当時の外交は何よりも
形が重要であり、未完成の宮殿での外交使節引見など考えられなかったため、
せっかくやって来た新羅(しらぎ)の使者であったが、結局都には招かず、大
宰府で饗応させることとなった。
 またこの日近江の甲賀郡に達するように恭仁京の東北の道を開いた。近江の
甲賀郡にはやがて紫香楽宮・甲賀寺が造営される地であり、この日道を開いた、
ということは恭仁宮が未完成のまま紫香楽宮の造営に着手されたということを
意味するものかも知れない。この年八月十一日には紫香楽村行幸が発表され、
その日から離宮の造営が行われた。そして二十七日には紫香楽宮行幸、という
ことなのでこの日の道の開通記事はやがて来る紫香楽での大仏建立や遷都への
序曲、と言うことになる。
 なお、早速現実のものとなった大宰府廃止による弊害に気づいた政府により
翌十五年十二月の鎮西府設置に続き、十七年六月には大宰府が再置された。
(続日本紀)


[1466] 神亀元年(724)二月四日 2005-02-03 (Thu)

 元正天皇、聖武天皇に譲位。神亀改元。
 文武天皇の遺児である首(おびと)親王の成長を待つための「つなぎ」とし
て皇位に即かれた元明天皇と元正天皇であったが、親王がもう二十四歳にもな
られたため、そろそろ、と思われたのか、この日譲位された。聖武天皇である。
あわせて養老八年を改めて神亀元年と改元された。
 この即位は天智天皇の定められた「不改常典」を根拠にされたのであるが、
この謎の法はその後も奈良時代の政治動向を左右するものとなった。その内容
は恐らく嫡子による皇位継承を定めるものであろうが、これを天智が定めたと
するのは示唆的である。そもそも嫡子相承を唱えうるのは天智以外にはあり得
ず、これは実際には改新政権を倒した天智が自らの即位を正当化し、孝徳天皇
の在位をも否定するために定めたものと理解するべきものであろう。大化改新
の功臣とされながら孝徳朝にはほとんど見えず、斉明朝以降に活躍の見える藤
原鎌足の功績も恐らくはこれに対する協力であったろう。そしてその手法は藤
原不比等(ふじわらのふひと)らその子孫に受け継がれて行く。
「国家珍宝帳」とは正倉院に納められた宝物の内容を記す目録であるが、この
中に「黒作懸佩刀(くろづくりかけはきのたち)」についての記述がある。こ
の刀自体は恵美押勝(えみのおしかつ)の乱の際に正倉院所蔵の武器が押勝追
討のため持ち出された時に使用されたのか現存しないが、その記録によればこ
の太刀はかつて草壁皇子から不比等に託され、その後文武の即位に伴って不比
等から文武天皇に献上、さらに文武は再び不比等に託し、そして最後には聖武
天皇に献上されている。こういった皇位の保証こそが藤原氏躍進の鍵であろう。
(続日本紀)


[1465] 養老三年(719)二月三日 2005-02-02 (Wed)

 右襟と把笏を命じる。
 現在では着物を「左前」に着ることは不吉とされるが、上代においてはこれ
が普通であった。これは恐らく古くは貫頭衣であったものが発展した時、左を
上位とする日本古来の伝統によったものであろう。
 この日、天下の民衆にすべて右襟を用いることが命じられ、また主要な官僚
に笏(しゃく、神職や雛人形が持つ細長い板)を持つことが命じられた。
 これは、この前年十月二十日、多治比県守(たじひのあがたもり)以下の遣
唐使が帰国しており、恐らく彼らが唐においてその左襟の風俗を未開人、と笑
われ、また唐の百官がすべて笏を持っていたことを報告したため、当時の国際
儀礼であった唐の風俗にならったものであろう。
 この後もしばらくの間左襟は残ったようであるが、やがて消滅してしまい、
今日にまで至ることになる。
 当時の服装は聖徳太子の肖像に描かれるような服装が朝服(礼装)であった
らしいが、絵画資料なども乏しく詳細は不明。同像は飛鳥時代の服装を示すも
のではなく、笏を持っていることからもこの頃以降の画像であろう。現在も宮
中の一部の儀礼や神職などが使用する衣冠束帯などは平安以降の服制である。
これが神職の正装とされるようになったのは明治以降、平安朝の服制をもとに
したもの。同様に巫女の正装も明治になって定められたものだが、こちらは更
に時代は降り、室町時代から戦国時代にかけて出現した服装らしい。それ以前
においては神職・巫女が特別な服装をすることはなかった。それでも今日、古
代の服装に身近に日常的に接することが出来る唯一の貴重な機会ではある。
(続日本紀)


[1464] 天平勝宝元年(天平二十一年、749)二月二日 2005-02-01 (Tue)

 大僧正行基、遷化する。
 行基は天智七年(668)、河内国大鳥郡(後に和泉国、堺市付近)の生ま
れで俗姓は高志(こし)氏。高志氏は西文(かわちのあや)一族の渡来系氏族
であり、早くから当時としては進んだ文物に触れる環境にあった。天武十一年
(682)に同郷の道昭(最初の火葬で知られる僧)を師として出家し、やが
て薬師寺に止宿したらしい。が、当時の仏教のあり方に飽きたらず、民衆の中
に入って各地に遊行した。あわせて道路や橋、港、池の築造といった社会事業
に邁進し、造ったものは「僧院三十四、尼院十五院、橋六所、樋三所、布施屋
(貧民救済施設)九処、船息(港)二所、池十五所、溝七所、堀川四所、直道
一所」に達したという。彼を慕って付き従う僧俗は千人にものぼり、そのため
霊亀三年(717)には政府は彼を名指しで非難して弾圧を加えた。しかしそ
れでも行基はその姿勢を改めることなく、民衆教化と社会事業を続けた。やが
て大仏造営という大事業の前に、行基の行っている人々を導いて事業を成し遂
げようというその姿が国家と国民全部の力を結集して建立しようとしている大
仏造営の事業と重なることに気づいた聖武天皇は彼と和解、天平十七年(74
5)には僧としての最高位である大僧正の位を授けた。彼も大仏建立の意義を
理解し、紫香楽での大仏造営に当たっては弟子たちを率いて全面的に協力する
に至った。しかし大仏造営が平城京に戻ってからは彼の協力は記録されていな
いのは高齢のためであろうか。平城京の右京にあった菅原寺で発病、後に行基
四十九院と言われる寺々(上記の僧院三十四、尼院十五院)を弟子の光信に託
し、大仏の開眼を見ることなくこの日遷化(死去)された。享年八十二歳。
(続日本紀)


[1463] 推古十年(602)二月一日 2005-01-31 (Mon)

 来米皇子以下の新羅征討軍を派遣。
 これより二年前の推古八年二月に新羅(しらぎ)と任那(みまな)が戦った。
任那諸国はすでに実態としては新羅の範疇に併呑されていたが、ここでは新羅
に対して反乱を起こしたということかも知れない。いずれにせよ、日本は直ち
に新羅征討軍を派遣、新羅の五城を抜いた。新羅王はこれら五城を割譲し降伏、
長く日本に臣従・朝貢することを約した。しかし、新羅は日本が兵を引いた途
端に再び任那に出兵した。
 恐らくこれによって新羅を徹底的にたたく必要を感じたものであろう。翌九
年三月五日、大伴囓(おおとものくい)を従来宿敵とも言える関係にあった高
句麗(こうくり)に、坂本糠手(さかもとのぬかで)を百済(くだら)に派遣
し、任那救援を命じた。これは同族でありながら永年争っていた高句麗と百済
が日本と共に三国同盟を結び、新羅に当たることを約したものと考えられる。
 そしてこの日、来米皇子(くめのみこ、聖徳太子の弟)を大将軍に任じ、諸
豪族の連合軍、二万五千という大軍を一挙に渡海させようとした。正しく乾坤
一擲の勝負によって半島の主導権を握ろうとしたと思われる。
 来米皇子は四月一日には九州に達し、渡海の準備を整えた。六月三日に大伴
囓、坂本糠手が帰国、いよいよ出陣、という時、来米皇子が病に臥し、渡海で
きないまま翌年二月四日に薨じた。後任とされた当麻皇子(たぎまのみこ)も
妻の死により渡海せず、結局征討計画そのものが頓挫する間に、存亡の危機に
立った新羅の画策などから隋・唐の介入を経て結局朝鮮半島南部は新羅によっ
て併呑されることになって行く。
(日本書紀)


[1462] 天平五年(733)二月三十日 2005-01-30 (Sun)

 出雲広嶋、風土記を撰上。
 和銅六年(713)五月、四畿七道に対し、国・郡・郷の名称はよい文字を
選んで名づけること、またその土地の産物・伝承・土地の状況などについて記
したものを本にして差し出すように、という詔が出される。これに応じて諸国
で今日「風土記(ふどき)」と呼ばれるものが編纂された。これはあくまでも
各地の地誌を報告することを主眼とするものであり、記録を意図するものでは
必ずしもなかった。冒頭部分が現存する常陸国風土記に「常陸の国司解(げ、
解とは上位官庁への報告を指す)す、古老の相伝ふる旧聞を申す事」とあるの
はそのためである。しかし、中央にとっては参考であっても地方にとっては大
切な土地の記録であり、国府などで大切にされたらしい。後に中央でもその重
要性に気づき、延長三年(925)に再度作成・提出が求められたが、いずれ
にせよそのほとんどは散逸し、今日伝わるのは常陸、播磨、出雲、豊後、肥前
の五ヶ国だけである。しかも出雲を除く四風土記は抄本であり、しばしば省略
や欠落が見られる。唯一、完全な形で伝わるのが出雲国風土記である。
 出雲国風土記の巻末記によると秋鹿(あいか)郡(松江市北西部・平田市北
東部)の人神宅金太理(みやけのかなたり)が著し、国造(くにのみやつこ)
の出雲広嶋が監修し、この日完成したということである。
 これによって奈良時代初期の出雲の産物・伝承などが詳細にわかるが、そこ
に八岐大蛇(やまたのおろち)を始め記紀に伝える神話は伝えられておらず、
逆に国引き伝承など多くの独自の神話を伝えており、大和の伝承と大きく異な
る神話伝説が出雲にはあったことをうかがわせる。
(出雲国風土記)
(注:現在の暦では二月三十日は存在しないため代わりに一月三十一日に記載)


[1461] 天平勝宝六年(754)一月三十日 2005-01-30 (Sun)

 大伴古麻呂、唐朝で朝賀の席次を新羅と争ったことを報ず。
 唐僧鑑真を招いた殊勲の遣唐副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)がこの日
帰京し、帰朝報告を行った。
 唐の天宝十二載(753、天平勝宝五年)の元日、唐の長安城蓬莱宮含元殿
において朝賀の儀式が行われた。この時、日本は西列第二吐蕃(とばん、チベ
ット)の次の席次で、新羅(しらぎ)は東列第一大食(たいじき、アッバース
朝イスラム帝国か)の上の席次であった。これを見た古麻呂は怒って「新羅は
古来久しくわが日本に朝貢する国である。ところがその新羅が東列で上位にあ
り、日本は下位にある。こんなことは承伏できない」と強硬に抗議した。これ
を聞いた将軍の呉懐実は古麻呂が引き下がりそうにないのを見て日本と新羅の
席次を入れ替えた、ということであった。
 武人古麻呂の面目躍如たるものがあるが、この結果新羅との関係は緊張の度
を加えることになった。また、新羅は毎年唐に使節を送り、唐の暦などを受け
入れている属国であるのに日本はたまに遣唐使を送りはするものの対等外交を
標榜しており、唐を中心とした中華秩序に属していない。従って唐にとっては
新羅の方が上位にあるのは当然であり、恐らく国書においてはその非礼が非難
されていたのであろう。後、宝亀七年(776)の遣唐使が出発するときに特
に「驚(おどろおどろし)きこと、なせそ(おぞましいことをしてくれるな」
という詔が出されたことは正しくこの事件を指すのであろう。この時、遣唐使
の一員としてこの詔を聞いた古麻呂の子、大伴継人(おおとものつぐひと)は
これをどういう気持ちで聞いたのであろうか。
(続日本紀)


[1460] 天平十二年(740)一月二十九日 2005-01-29 (Sat)

 遭難の渤海使胥要徳らに贈位。
 天平五年四月三日、多治比広成(たじふのひろなり)を大使とする四隻の遣
唐船が難波津を出航した。一行の中には判官(第三等官)として平群広成(へ
ぐりのひろなり)の姿もあった。この時の遣唐船は帰路に留学生(るがくしょ
う)下道真備(しもつみちのまきび、吉備真備)を便乗させて翌年十一月二十
日に無事帰国した。しかし、帰国した中に平群広成の乗った船はなかった。
 彼は天平六年十月、他の三船と共に蘇州(江蘇省)から出航、日本を目指し
たのだが、彼の乗った船は逆風のため崑崙(こんろん、ベトナム南部)国に漂
着してしまった。百十五人の乗員の多くは殺され、或いは逃亡し、残ったうち
の九十余人は病死、生き残った平群広成ら四人だけが崑崙王に謁見、食糧を与
えられたが依然拘束され続けた。天平七年になって唐に帰伏した崑崙人の手引
きを得て漸く脱出、唐に逃げることができた。唐では阿倍中満(あべのなかま
ろ、阿倍仲麻呂)の口ききで渤海経由での帰国が許され、天平十年三月に登州
(山東省)から出航し渤海に到着した。折しも渤海王は日本に使節を派遣しよ
うとしていたため、これに便乗、日本を目指した。ところがまたもや波浪が彼
らを襲った。今度は広成が乗った船は無事であったがもう一隻は転覆、大使胥
要徳(しょようとく)ら四十人は波に呑まれてしまった。再び九死に一生を得
た広成は天平十一年七月に出羽(山形県・秋田県)に漂着、十一月に入京した。
 副使己珎蒙(きちんもう)以下の渤海使らは十二月に国書を捧呈、無事使命
を果たした。この日客館にあった彼らのもとに使者が派遣され、亡くなった大
使胥要徳らに位が追贈され、あわせて弔問の品が贈られた。
(続日本紀)


[1459] 和銅五年(712)一月二十八日 2005-01-28 (Fri)

 太安万侶、古事記を撰上。
 天武天皇の命により、「帝紀(天皇の事跡の記録?)」及び「旧辞(古い事
象の記録?)」を整理、歴史書を編纂するべく舎人(とねり、近従)の稗田阿
礼(ひえだのあれ)にそれらを誦(よ)み習わせたにもかかわらず、天皇の崩
御などによってか修史事業が頓挫しているのを惜しんだ元明天皇は和銅四年九
月十八日、太安万侶に修史事業の完成を命じられた。
 編纂時、日本の言葉を漢字を用いて表現することは困難を極め、安万侶はあ
る時は一つの言葉の中で音訓を併用し、あるときは漢字を音仮名(万葉仮名)
として用い、またある時は読みの注釈を用いるなど大変な苦労と創意を重ね漸
く三巻から成る歴史書を完成、「古事記」としてこの日元明天皇に奉献した。
 その上巻は序文と神代、中巻は神武天皇から応神天皇まで、下巻は仁徳天皇
から推古天皇までの歴史を記すが、基本的には日付は記さず、また仁賢天皇以
降は系譜のみの記述に止まり事跡は記載されていない。また、日本書紀のよう
な「一書」の並記はなく、単一の所伝を伝えるのみである。日本書紀の一書の
中には古事記の伝承と近いものもあり、古事記の原資料はその後日本書紀編纂
のための史料の一つとして使用されたらしい。古くは万葉集に引用された古事
記だが長らく日本書紀の陰に隠れた形となっており、本居宣長(もとおりのり
なが)が「古事記伝」で称揚するまではあまり注目されなかった。
 安万侶の試みた日本語表記は古事記のほか日本書紀や万葉集に受け継がれ、
数多くの和歌を残した。そして次第に完成されていった表記方法による日本語
表記は平安初期には平仮名・片仮名を作り出すに至った。
(古事記・序)


[1458] 神亀元年(養老八年、724)一月二十七日 2005-01-26 (Wed)

 出雲広嶋、神賀の辞を奏する。
 出雲広嶋(いずものひろしま)は出雲の国造(くにのみやつこ)。国造は律
令制以前においては地方の広域の在地支配者の称号であった。後の国よりもも
う少し小さな範囲の首長であったらしい。平安時代の初期に物部氏の関係者に
よって書かれたと考えられている「先代旧事本紀(せんだいくじほんぎ)」の
巻十はこれら国造を列挙しており、特に「国造本紀」とも呼ばれる。律令制に
なった後、国造は律令の国単位にその国の祭祀の責任者の形で存続した。
 国譲りの神話にも残っているが、出雲にあった勢力が大和朝廷に服属する過
程を反映して出雲国造の存在は特に重視され、国造の交替や天皇の代替わり度
神賀の辞を奏するなどの儀式を行った。これは恐らく「国譲り」の際の古い契
約に基づき、服属儀礼としてその都度再確認することが繰り返されたものであ
ろう。もちろん、このような儀礼があるのは出雲だけである。この日も間もな
く行われる聖武天皇への譲位による恒例の儀礼が行われた。なお、出雲広嶋は
天平五年(733)二月三十日には「出雲国風土記」を撰上している。
 この出雲国造はもちろん出雲大社(島根県大社町)の祭祀に携わって今日に
至っている。出雲大社は杵築(きづき)大社とも呼ばれ、古代には高さ十六丈
(約48m)という見上げるばかりの高さがあった(江戸時代再建の現在の御社殿
はその半分の八丈)が、祭祀は何故か同国内の熊野大社(島根県熊野町)の下
にあった形跡がある。或いは大和朝廷と結んだ熊野の勢力に出雲の勢力が屈し
たことを示すものかも知れない。多彩な神話や四隅突出型古墳、大量の銅鐸・
銅剣の出土など、出雲の地には大和に匹敵するほどの文化が栄えていたらしい。
(続日本紀)


[1457] 天平二年(730)一月二十六日 2005-01-25 (Tue)

 蝦夷の申請により陸奥の田夷村に郡家を建てる。
 この日、陸奥国(みちのおくのくに、当時は福島・宮城県)から申請があっ
た。それによれば、管内の田夷村(たいむら)に住む蝦夷(えみし)たちが今
はもうおとなしく農耕定住生活を営んでいるので郡を立てて(蝦夷でなく)一
般の人民として統治して欲しい、という願い出を行ったとのことであった。直
ちに許可がおり、申請通り郡が置かれることになった。これによって彼らは朝
貢を行う蝦夷ではなく、租庸調を納める公民として位置づけられることになる。
 田夷は農耕生活を営む蝦夷であり、一方には狩猟を中心として生活する山夷
と呼ばれる人たちもいた。蝦夷との関係では彼ら田夷はむしろ進んだ技術を受
け入れて同化していったと見られるのに対し、山夷はしばしば抵抗を示し、特
に光仁・桓武朝には大規模な戦いが律令政府との間に繰り広げられた。しかし、
その一方では農耕を営む蝦夷たちにとってはむしろ政府の保護を求めたと考え
られ、この日の申請もそんな一つであったろう。蝦夷と律令政府の関係をを被
害者と侵略者、という類型化したものとしてとらえるのは正しくない。
 この時新設された郡は不明だが、このように徐々に律令政府の支配は北に延
びていった。特に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らの活躍により胆
沢(いさわ)地方が制圧されてここに胆沢城(岩手県水沢市)が設置され、軍
事拠点である鎮守府が多賀城からここに移されるに及び、漸く情勢も安定した。
最北の郡としては平安初期に設置されたと見られる斯波(しわ)郡が現在の盛
岡市あたりまで含んでいたと見られるが、これは早くに廃止されたらしい。奥
六郡と呼ばれたこれ以北は律令政府の支配のもとに置かれることはなかった。
(続日本紀)


[1456] 慶雲元年(705)一月二十五日 2005-01-24 (Mon)

 跪伏の礼を停止。
 跪伏(きふく)の礼はひざまづき、両手を土につける礼式。「魏志倭人伝」
にも「大人(たいじん)の敬はれる所を見るに、但(ただ)、手を搏(う)ち、
以て跪拝(きはい)に当(あ)つ」と記録される日本古来の礼法であった。推
古十二年(604)、宮門を入るときにこの跪伏の礼を行うことが定められた
が、孝徳朝に至ってこれを禁止、立礼を用いることとなった。しかし、もとも
との習慣に基づくものであるだけに容易に改まらず、天武十一年に再び跪伏礼
を禁止する詔が出され、さらにこの日再度徹底が求める詔が出された。
 もう一つの礼式である拍手(はくしゅ、「かしわで」は誤記(柏手)による
慣用語)はその後も残ったが、外国使節の参列する行事などではこれを行わな
いようにした。国際的には中華風の礼式が通用したのでそれに合わせたもので
ある。古来の風習を尊重しながらも、そういった土俗の習俗を未開のものとし
て蔑む中華思想によって低く見られることを嫌った妥協策であるが、こういっ
た二律背反的なものを併存させることは日本文化の一つの特徴である。寺院建
築など大陸的な建築技法が伝わった後も神社建築では掘っ建て柱・切妻屋根に
千木・鰹木を乗せた形式がやがて多くは形式化しながらも残ったし、平城宮や
平安宮でも大極殿や朝堂院などは大陸式の壮大な建築としながらも、天皇の日
常の御所である内裏は檜皮葺きの日本建築とされていた。
 今日、拍手は神社参拝の礼式として残るが、一般的な二拝二拍手一拝の作法
は明治になって定められたもの。最高の礼式としての八開手(やひらで)は跪
伏の礼を含み伊勢神宮などで今日も行われている。
(続日本紀)


[1455] 継体元年(507)一月二十四日 2005-01-23 (Sun)

 継体天皇、樟葉宮に至る。
 王権を巡る激しい争いの末、大王家が断絶してしまった大和朝廷は残された
群臣による協議の結果、大伴金村(おおとものかなむら)の主導で遠く越前の
三国(みくに、福井県坂井郡三国町が遺称地)にあった応神天皇五代の子孫、
男大迹王(おおどのおおきみ)を後継の大王として迎えた。しかし、男大迹王
はすぐには大和には入らず、この日まず樟葉宮(くずはのみや、大阪府枚方市
楠葉)に宮を構えられた。そしてこの宮で二月四日に即位され、継体天皇とな
られる。この後五年十月には山背筒城宮(やましろのつつきのみや、京都府綴
喜郡)に宮を遷され、さらに十二年三月には弟国宮(おとくにのみや、京都府
長岡京市・向日市付近)に遷られる。大和に入られたのは漸く二十年九月にな
ってからのことで、磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや、桜井市・橿原市付近)
に皇都を置かれた。
 このように継体天皇は擁立されてから大和にはいるまで実に二十年を要して
おり、それまでの間は大和の周辺を転々とされている。これは恐らく継体天皇
の擁立に反対する勢力が大和にあり、容易に政権を掌握することができなかっ
たからではないかと考えられている。恐らく、任那(みまな)四県の百済への
割譲やその滅亡、あるいは筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)の
反乱も中央の混乱に乗じて発生した事件と言うことであろう。
 継体天皇の系譜は日本書紀に正確には記されていないため、その系譜を疑う
説もあるが、日本書紀には別巻の系図があった(現存しない)ため、系譜につ
いては系図に譲ったため、と考える方が自然であろう。
(日本書紀)


[1454] 養老五年(721)一月二十三日 2005-01-23 (Sun)

 佐為王、山上憶良らを東宮に侍せしむ。
 この日皇太子(後の聖武天皇)の教育のため、当時一流の文化人であった十
六人が公務を終えた後に東宮(皇太子の御所)に伺候することが命じられた。
十六人は佐為王(さいのおおきみ、後の橘佐為、諸兄の弟)、伊部王(いべの
おおきみ)、紀男人(きのおひと、万葉集に歌一首、懐風藻に漢詩三首)、日
下部老(くさかべのおゆ)、山田三方(やまだのみかた、懐風藻に漢詩三首)、
山上憶良(やまのうえのおくら、万葉集に歌・詩文多数)、朝来賀須夜(あさ
このかすや)、紀清人(きのきよひと、万葉集に歌一首)、越智広江(おちの
ひろえ、懐風藻に漢詩一首)、船大魚(ふねのおおうお)、山口田主(やまぐ
ちのたぬし、暦算の第一人者)、楽浪河内(ささなみのこうち、後に高丘河内、
万葉集に歌二首、播磨国風土記の編纂に関与?)、大宅兼麻呂(おおやけのか
ねまろ)、土師百村(はじのももむら、万葉集に歌一首)、塩屋吉麻呂(しお
やのきちまろ、明法の大家、懐風藻に漢詩一首)、刀利宣令(とりのせんりょ
う、万葉集に歌二首、懐風藻に漢詩二首、経国集に漢文二篇)である。
 彼らは位階は最も高くても正五位上、低いものは従七位下であり、本来であ
れば皇太子に近侍するようなことは考えにくい者も多く含まれるが、特にその
学識や詩文などの才能を評価されたものであろう。その多くが上記の通り万葉
集や懐風藻に和歌・漢詩を残しており、また遣唐使や留学生として在外経験の
ある者も少なくない。なりふり構わぬ強引さで皇位を伝えることが予定されて
いる聖武天皇に対して身分や門閥を越えた英才教育が行われたのであった。ま
た、ここに藤原氏が一人も含まれないことも注意すべきであろう。
(続日本紀)


[1453] 神亀二年(725)閏一月二十二日 2005-01-22 (Sat)

 征夷将軍以下に受勲。
 この前年の三月二十五日、陸奥国からの急使は太平洋側の蝦夷(えみし)が
反乱を起こし、大掾(だいじょう、国府の三等官)佐伯児屋麻呂を殺した、と
いうことを報じた。これに対し、四月七日、藤原宇合(ふじわらのうまかい)
を大将軍、高橋安麻呂を副将軍とした大規模な征討軍が派遣された。兵員の数
は明らかでないが、四月十四日には坂東諸国の兵士三万人の訓練を行ったこと
が記録されており、あるいはこれかも知れない。さらに五月二十四日、今度は
日本海側の蝦夷征討のため小野牛養(おののうしかい)を鎮狄将軍(ちんてき
しょうぐん)とした軍も派遣された。その後、藤原宇合や小野牛養らは十一月
二十九日に帰京、復命した。
 この日征夷将軍以下千六百九十六人の人々に受勲が行われた。その人数だけ
でもこの征討軍の規模がうかがわれる。特に鎮守府将軍であった大野東人(お
おののあずまひと)は三階級特進とされており、大変な活躍であったことが窺
われる。彼は後には藤原広嗣の乱も鎮圧している古代屈指の名将であった。
 この日の受勲は征夷将軍以下であって鎮狄将軍は受勲されていない。こちら
は特に成果がなかったのかも知れない。なお、この時の名称のように、征夷・
征東(大)将軍は東北のうちでも特に東海道・東山道側を管轄としており、北
陸道側は鎮狄(ちんてき)将軍の名でと呼ばれた。中華思想の中で「夷」は東
方の、「狄」は北方の異民族を指したためである。後年木曽義仲が後白河法皇
を幽閉・強要して征夷大将軍に任ぜられたが、それは太平洋側にあった源頼朝
の存在を真っ向から否定・対決するものであった。
(続日本紀)


[1452] 天平十七年(745)一月二十一日 2005-01-20 (Thu)

 行基、大僧正に任ぜらる。
 古代において仏教は国家の厳しい統制の下にあった。しかし、仏教の受容が
進むとそれに飽き足りず、国家の統制の枠外で民衆に接するようになる宗教者
が出現した。行基はそんな先駆者であり、多くの弟子たちを従えながら畿内各
地を放浪、布教や社会事業を行った。彼らに対して当初は律令政府は厳しい禁
圧を行ったが、やがて大仏建立という大事業を行うに及び方針は転換され、同
時に行基自身もその事業に共鳴、協力するようになる。天平十五年十月、紫香
楽(しがらき)に大仏建立の寺地が開かれた際には行基は弟子たちを率いて協
力、これに対し聖武天皇は天平十六年には封戸(ふこ、領地)九百戸を施し、
さらにこの日になっていきなり大僧正(だいそうじょう)という僧官としての
最高の地位を与えた。また、この日あわせて四百人の出家が許された。出家す
ると税や労役などの負担を免除されるため、出家自体が国家の統制の下にあっ
たのだが、この日認められた四百人の出家というのは恐らく行基に従っていた
多くの私度僧尼(国家の承認を受けずに勝手に出家したもの)たちを一括して
事後承諾したものであろう。
 大僧正は僧尼の監督・統制に当たる僧綱(そうごう)の最高位であり、この
ほか僧正・大僧都(だいそうず)・少僧都・律師(りっし)といった位があっ
た。平安時代には僧正は従二位、僧都は正三位、律師は従三位相当とされたが、
やがてこれらの僧階は実質的な意味を失い、仏師や経師、医師、連歌師などに
も授与されるようになった。明治六年(1873)に朝廷の僧階が廃止された
後は各宗派で独自に僧階を定めるようになり、今日に至っている。
(続日本紀)


[1451] 養老六年(722)一月二十日 2005-01-20 (Thu)

 多治比三宅麻呂、穂積老、死罪一等を減じ配流。
 多治比三宅麻呂(たじひのみやけまろ)は謀反を誣告(むごう/ぶこく、無
実の罪で訴える)し、また穂積老(ほづみのおゆ)乗輿を指斥(ししゃく、乗
輿とは天皇の乗られた輿であるためここでは天皇を非難することを指す)した
ことにより共に斬罪に処されることとなった。ところが、これを聞いた皇太子
(後の聖武天皇)の願いにより、罪一等を減じ、それぞれ伊豆、佐渡に配流さ
れることとなった。
 例によって具体的な記述がないため、詳細は不明であるが、この段階での懸
案事項となるとやはり皇位継承であり、聖武天皇に皇位を伝えるために元明・
元正二代の女帝を次々に立てるなどなりふりかまわぬ強引な手法を繰り返して
いることに対する非難であった可能性が強い。同様に、誣告した、というのは
それを裏で糸を引いていた策士藤原不比等に対するものであった可能性が高い。
また、この前年十二月七日に元明上皇が崩御されているので社会不安を押さえ
るために「見せしめ」を兼ねて不穏な噂だけでも厳罰に処する、という姿勢を
みせた、という側面もあったのかも知れない。
 この二人が皇太子の願いにより減刑されたことは、結果的には二人の行動は
逆に聖武天皇の人徳を示すことになり、既定路線を確実にさせる効果をもたら
した。ここまで含めて計算ずくのことであったのかも知れない。
 その後天平十二年(740)六月に穂積老は恩赦により入京を許されている
が三宅麻呂は既に死亡していたらしい。代わりに多治比祖人(おやひと)・名
負(なおい)・東人(あずまひと)が許されているのはその遺児たちであろう。
(続日本紀)


[1450] 元弘三年(1333)一月十九日 2005-01-18 (Tue)

 吉野山落城、護良親王脱出。
 後醍醐天皇を隠岐に配流したことで決着するかと思われた元弘の変は後醍醐
天皇の皇子大塔宮護良親王(おおとうのみやもりよししんのう)が吉野山に、
楠木正成が千早城にそれぞれ挙兵することで第二段階を迎えた。吉野の鎮圧の
ため、幕府は二階堂道蘊(にかいどうどううん)以下六万の大軍を派遣、この
月十六日に布陣した。十八日、両軍の間に激戦が行われたが、吉野側の抵抗は
頑強で容易に陥落しそうになかった。その様子を見て、幕府側に立っていた吉
野金峰山寺の執行(しぎょう、長官)岩菊丸はその夜、背後の金峰山を越えて
吉野に入り潜伏。この十九日、再び両軍の間で死闘が繰り広げられた時に蜂起、
堂塔に火をかけて鬨の声をあげた。挟み撃ちにされた吉野軍は総崩れとなり、
護良親王はもはやこれまでと蔵王堂で最後の酒宴を行った。しかしこの時二の
木戸で防戦にあたっていた村上義光(むらかみよしてる)がその酒宴に気づき
参向、親王に脱出をお勧めすると共に宮の着用されていた武具の拝領を願い出
た。結局親王は彼の意見に従い、鎧直垂を彼に与えて勝手明神の前を南を指し
て脱出された。義光は親王が充分に遠くまで行かれたのを見届けると二の木戸
の高櫓に登り大音声で自らを護良親王と名乗り、「只今自害する有様見置いて、
汝等が武運忽ちに尽きて、腹を切らんずる時の手本にせよ」と呼ばわり、腹一
文字にかき切ると自分の腸をつかみだして櫓の壁に投げつけた上、太刀を口に
くわえて突っ伏し、壮烈な戦死を遂げた。幕府軍がこれに圧倒され、また親王
が自決されたものと安心している間に、護良親王は天川を経て、今度は義光の
子義隆が奮戦の末戦死するという犠牲を払いながらも高野山に落ち延びられた。
(太平記巻七・吉野城軍事)


[1449] 持統三年(689)一月十八日 2005-01-17 (Mon)

 吉野離宮行幸。
 この日持統天皇は吉野の離宮に行幸され、三日後の二十一日に還幸された。
 持統天皇はこれ以前天智十年(671)に引退された夫(天武天皇)に従っ
て暫く吉野離宮に住まわれた後、天武八年(679)には吉野の盟約で知られ
る行幸に従われたが、この日の行幸は即位後最初の行幸である。この日を皮切
りに、同年八月、四年二月・五月・八月・十月・十二月、五年一月・四月・七
月・十月、六年五月・七月・十月、七年三月・五月・七月・八月・十一月、八
年一月・四月・九月、九年閏二月・三月・六月・八月・十二月、十年二月・三
月・六月、十一年四月とご在位中の九年間に「日本書紀」に記録されるだけで
も実に三十一回もの行幸を繰り返された。即位前には天智十年(671)十月
に夫大海人皇子(天武天皇)の吉野引退に従われた時と、「吉野の盟約」で知
られる天武八年五月、天武天皇と天武・天智の皇子たちと共に行幸された二回
が知られているほか、上皇となられてからも大宝元年(701)六月の一回だ
けであるが行幸が記録されている。これら全部を合わせると実に三十四回もの
行幸を繰り返されたのは何故であったのだろうか。夫天武天皇の即位への原点
となった思い出の地、というだけではあまりにも頻繁である。そして崩御の直
前に行われた、壬申の乱での夫の足跡をたどるかのような東国巡幸。気丈な彼
女ではあっても、その脳裏には常に夫の面影があったのかも知れない。
 吉野離宮は吉野町宮滝の宮滝遺跡ではないかと考えられている。この離宮は
その後も聖武天皇まで行幸が繰り返されたが、天武皇統の断絶もよってそれ以
降は利用されることなく、想像で歌に詠まれる歌枕と化していった。
(日本書紀)


[1448] 天平宝字七年(763)一月十七日 2005-01-16 (Sun)

 渤海使らを饗応、渤海使より唐の情勢報告。
 この日淳仁天皇は大極殿院の南門に出御され、朝堂に五位以上の高級官僚、
前年十月に来日した渤海からの使節、そして各役所の主要職員たちを饗応した。
また吐羅(とら、中央アジアにあったトカラか)・林邑(りんゆう、ベトナム)
・東国(あずまのくに、ここでは神楽の東遊(あずまあそび)か)・隼人(は
やひと、鹿児島県地方にいた部族)などの音楽を演奏し、踏歌(とうか、足を
踏みならして歌い舞う舞踊)が渤海使と共に踊られた。その後、踏歌に参加し
た渤海使を含む人々に布が与えられた。
 この後、渤海の大使王新福(おうしんぷく)が当時の唐の最新情勢を伝えた。
唐王朝を一時滅亡の瀬戸際まで追い込み、楊貴妃を自殺させた安禄山の反乱は
漸くのことに鎮圧されたが、その一方で玄宗、粛宗皇帝が相次いで崩じたため、
続いて代宗が立ったものの、国内には戦乱の影響もあって飢饉が続き、人肉を
食うほどの状態になっていた。また、安禄山と共に反乱を起こした史思明も内
紛からその子朝儀に殺されたが、今度はその朝儀が聖武皇帝と称していた。彼
は性格も寛容であったために人々の支持を集め、またその軍は非常に強く、向
かうところ敵なしの状態であった。そうして大陸の多くを占有、唐朝の威令は
わずかに江南の一帯にしか及ばないという惨状にあった。そのため、唐との修
好の道も往来が非常に困難なものとなっている、ということであった。
 これらの情報は「旧唐書」「新唐書」など唐の歴史書の記載とは必ずしも一
致しないが、貴重な同時代の証言(先の正史はいずれも唐王朝滅亡後の編纂)
であり、恐らくは実際にそのような情勢になっていたのであろう。
(続日本紀)


[1447] 天平勝宝六年(754)一月十六日 2005-01-16 (Sun)

 唐僧鑑真・法進らの来日が報告される。
 この前年十二月二十日、遣唐副使大伴古麻呂(おおとものこまろ)に伴われ
て薩摩に来航した唐の高僧鑑真(がんじん)は大宰府に向かった。大宰府に到
着後、古麻呂は一月十二日、平城京に鑑真が到着したことを知らせる書状を発
し、それがこの日到着した。待望の戒律を伝える最高の人物の来日は聖武上皇
以下の人々を歓喜させたであろう。
 当時は駅馬の制度が整備・高度に機能していた。諸国の国府などを結ぶ七道
と呼ばれた東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道などは
いずれも二〜四丈(6〜12m)の道幅を有し、さらに各郡衙(ぐんが、郡の役所)
を結ぶ道や支路でさえ二丈(6m)前後の道幅をもっていた。これらは直線道路
という特徴ももっており、両側に側溝を伴いながら山を削り谷を埋めて地の果
てまで続くかのようなこれら官道は三十里(約16Km)ごとに駅と呼ばれる施設
があり、この駅が官馬を備え、また公用の旅行者に対しては宿泊施設ともなっ
た。この時も大宰府から出された文書は出発から僅か四日後に平城京に到着し
ている。これら文書はそれぞれの駅の間を駅馬によって逓送されたため、この
ように驚くほどの速さで到着したのだが、これより早い到着例さえあった。つ
まり、交通の制度は明治以前のいずれの時代よりもはるかに進んだものがあっ
た。特に大宰府と京を結ぶ山陽道は外国使節が通過することに備え、駅の施設
も瓦葺きの立派な建物が備えられていた。しかし、必要性を越えた交通網の維
持は困難を極め、特に駅の負担はあまりにも過大であった。このため、この交
通網は平安時代になると急速に衰退、やがて放棄されてしまった。
(続日本紀)


[1446] 天平十三年(741)一月十五日 2005-01-14 (Fri)

 藤原氏、故藤原不比等の食封返上を乞う。
 この日、藤原家は五千戸にも及ぶ藤原不比等に与えられた食封(じきふ)の
返上を願い出た。食封はその家からの税収をそのまま与えられる一種の私領で
本来は一代限りであったが藤原不比等の場合特に代々相続を認められていた。
この日の申請は恐らくこの前年に一族(不比等の孫)の藤原広嗣が反乱を起こ
したことに対する贖罪のためと思われる。
 これに対し、うち二千戸は藤原家に返し与えられ、残り三千戸は諸国の国分
寺に割り振られ、本尊の丈六(高さ一丈六尺、4.8m)の仏像を造像する財源と
した。折しもこの前年、各国でその大きさの釈迦如来像の造像が命ぜられてお
り、結果的にはこの措置により国分寺の造営が進展することとなった。仏教で
は釈尊の身長が一丈六尺あったという伝承があり、この大きさが仏像の基準で
あった。特にこの丈六の大きさ以上のものを大仏と称した。
 それにしても五千戸という食封はあまりにも膨大である。例えば壬申の乱に
おける功臣たちに与えられた功封は最大の村国男依(むらくにのおより)でも
百二十戸、一族を挙げて天武を助けた大伴氏でさえ望多(まぐた)と御行(み
ゆき)の二人にそれぞれ百戸が与えられたに過ぎず、壬申の乱当時近江にあっ
て一族の恐らく氏上であった中臣金(なかとみのかね)は近江側の中心人物で
あった藤原氏にこれほどの食封が与えられるのは過大を通り越して余りにも不
自然である。大伴氏などが命を的に戦って得た功封をはるかに凌駕する食封が
与えられた理由として考えられるのは持統による草壁皇子・文武天皇への皇位
継承に全面的に協力した見返り、と考えるのは穿ちすぎであろうか。
(続日本紀)


[1445] 斉明七年(661)一月十四日 2005-01-13 (Thu)

 百済救援軍、伊予熟田津に到着。
 斉明天皇を奉じた百済救援軍の大船団はこの年一月六日に難波津を出航し、
一月八日には大伯海(おおくのうみ)に至った。大伯海は岡山県邑久(おく)
郡付近の海で恐らく鞆の浦(岡山県福山市)のあたりであろう。この時ここで
大海人皇子(おおあまのみこ、天武天皇)と大田皇女(おおたのひめみこ、天
智皇女)の間に生まれた皇女が大伯皇女(おおくのひめみこ)である。さらに
進んでこの日、伊予の熟田津(にきたつ)に到着、天皇は石津(いわつ)行宮
に滞在された。ここを出航するときに額田王(ぬかたのおおきみ)によって詠
まれたのがあまりにも有名な次の歌である。
 熟田津に 船乗りせむと 月待てば
  潮もかなひぬ 今は漕ぎ出でな (万葉集巻一・8)
 熟田津の場所は現在のどこにあたるかは諸説あって定説を見ない。伊予温湯
(いよのゆ、道後温泉)が天武十三年(684)の白鳳南海地震により埋没し
たと伝えられるので、熟田津や石津行宮も恐らくはその時に埋没したのであろ
う。いずれにせよ、愛媛県松山市内にあったと考えられている。
 なお、大三島にある大山祇(おおやまつみ)神社にはこの時斉明天皇が奉納
されたと伝えられる古鏡が残されている(但し鏡の実年代はもう少し降る)。
 この後、百済救援船団は三月二十五日に娜大津(なのおおつ、博多港)に到
着、天皇は磐瀬行宮(いわせのかりみや)に滞在され、娜大津を長津と改名さ
れ、さらに五月九日には朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや、
福岡県朝倉郡朝倉町)に遷られた。
(日本書紀)


[1444] 天平十六年(744)閏一月十三日 2005-01-12 (Wed)

 安積親王薨ず。
 安積親王(あさかのみこ)は聖武天皇の皇子。この時十七歳というから神亀
五年(728)の生まれ。母は県犬養広刀自(あがたいぬかいのひろとじ)で
あり、聖武天皇の次男にあたる。彼の生まれた年に兄で光明皇后の産んだ基王
(もといのみこ)が最初の誕生日を迎えることなく亡くなっており、この時点
では唯一の聖武天皇の皇子であった。しかし、光明皇后の子ではなかったため
か皇太子には聖武の娘の高野内親王(孝謙/称徳)が立てられた。女帝は古代
においてはあくまでも「中継ぎ」が原則であり、恐らく彼女が即位するにせよ
しないにせよ、光明皇后が別の男子を産むことを期待してのものであったと思
われる。また正史である「続日本紀」は安積親王についての記事のほとんどを
欠き、まるで触れてはならない存在であったかのようである。それだけ藤原氏
(を代表する光明皇后)から恐れられていたのかも知れない。しかし、いずれ
にせよ光明皇后が皇子を出産する可能性は既にほとんどなくなっており、早晩
孝謙から安積親王への譲位を予定せざるを得ない状況にあった。藤原氏の恐れ
たその事態は結果的に当の安積親王が薨じたことで解消されたのだが、それは
同時に聖武天皇の直系の断絶がほぼ確定したことを意味し、皇位継承は混沌と
することになった。なお、この十一日に桜井頓宮(さくらいのかりみや、東大
阪市?)から足の病気のため帰京、わずか二日で亡くなるというのは不自然で
あり、藤原仲麻呂などが藤原氏以外の出身の天皇の出現を阻止するために毒を
盛った可能性を指摘する説もある。いずれにせよ、これは安積親王に強い期待
を抱いていた橘諸兄や大伴家持ら反藤原勢力にとって大変な痛手となった。
(続日本紀)


[1443] 宝亀元年(神護景雲四年、770)一月十二日 2005-01-11 (Tue)

 由義宮に宅地の入る人民にその値を酬給。
 この日、由義宮(ゆぎのみや)造営予定地に家があった人々に対してその対
価が支払われた。対象とされたのは宅地であったが、田地については当然代替
地が口分田として班給されたものであろう。この時代においても有無を言わせ
ず宅地を接収したものではなかった。
 由義宮は奈良時代に繰り返されし造営された宮都・離宮の最後を飾るもので
あり、弓削(ゆげ)氏出身である僧道鏡の故郷に営まれたものであった。もと
もと称徳天皇が営まれた行宮であったらしく、天平神護元年(765)に称徳
天皇が紀伊行幸の帰路滞在されたのが初出である。それが、この前年の神護景
雲三年十月三十日、これを平城京と並ぶ都、西京とする詔が出されている。恐
らくは寵愛する道鏡のためにその出身地であるこの地にあった行宮を発展させ
て本格的な都として拡張・整備することを図ったものであろう。この日の措置
はこうした由義宮の大幅な拡張の結果、その家が新京の中に入ってしまう人た
ちに対してその対価が支払われたことを示すが、その対象となったのは河内国
大県郡・若江郡・高安郡の三郡に及んでおり、壮大な規模の造営が意図された
ものであったことを推測させる。こういった準備にもかかわらず、結局由義宮
は未完成のまま放棄されてしまった。その原因はもちろんこの年九月の称徳天
皇の崩御である。造営がどこまで進んでいたかは不明だが、西大寺造営が難航
していることからも恐らくはあまり進展しなかったのではないだろうか。この
ため、由義宮は大阪府八尾市にあったと推定されるが、その遺構と推定できる
遺跡は現在はまだ見つかっておらず、その位置や規模も不明である。
(続日本紀)


[1442] 延暦元年(天応二年、782)閏一月十一日 2005-01-10 (Mon)

 氷上川継の変。
 氷上川継(ひかみのかわつぐ)は氷上塩焼(ひかみのしおやき)の子。塩焼
はもと皇族、塩焼王(しおやきのおおきみ)で天武天皇の孫、新田部親王(に
いたべのみこ)の子にあたる。かつて橘奈良麻呂の乱の時、奈良麻呂らは孝謙
天皇に替えてこの塩焼王を皇位につけようとしていたらしい。そのため、事件
発覚後は連坐したが本人が直接関与したとは言えなかったため許され、臣籍に
降って氷上真人(ひかみのまひと)の姓を賜った。しかし、後に恵美押勝(え
みのおしかつ、藤原仲麻呂)の乱の時、今度は押勝が逃亡の際に彼を伴い、こ
れを皇位に擬して今帝と称した。そのため、結局は斬殺されてしまった。そん
な経緯はあったにせよ、塩焼王の妻は聖武天皇の皇女不破内親王であり、その
二人の子の川継は従って天武皇統を強固に伝えていたため、依然として当時超
一流の皇位継承資格者であったと言える。
 その川継の資人(従者)の大和乙人(やまとのおとひと)が武器を帯びて宮
中に侵入して捕らえられた。尋問の結果川継がこの月十日夜に蜂起して謀反を
起こそうとしていることを自白した。直ちに彼を捕らえようとしたが川継は既
に逃走していた。結局十四日になって葛上(かずらぎのかみ)郡で彼は捕らえ
られ、死罪とされるべきところを折しも光仁天皇の諒闇(りょうあん、天子の
喪中)であったため伊豆の三島に配流された。この事件も実際に謀反の計画が
あったかどうかは不明だが、処断までの時間の短さや桓武天皇をしのぐほどの
川継の血統などを考えたとき、やはり背後に暗い陰謀を感じざるを得ない。
 なお、川継は延暦二十四年に恩赦されるがその最後は明らかではない。
(続日本紀)


[1441] 正平三年(1348、北朝貞和四年)一月十日 2005-01-10 (Mon)

 高師直、吉野を攻める。後村上天皇、賀名生に遷御。
 高師直(こうのもろなお)は足利尊氏の執事。本姓は高階だが代々高氏を称
した。楠木正成、新田義貞を始めとする武将を相次いで失い、また後醍醐天皇
も崩御されて急速に衰えていた南朝にとどめを刺すべく大軍を擁して出陣した。
南朝の重鎮北畠親房にこれの迎撃を命じられた楠木正成の遺児正行(まさつら)
は死を覚悟して前年末頃、吉野の如意輪堂の扉に辞世の歌
 かへらじと かねて思へば 梓弓(あづさゆみ)
  なき数に入る 名をぞとゞむる
を鏃の先で刻み残し(現存)、一月五日、四条畷の野(大阪府四條畷市)に高
師直軍を迎撃、その本陣をおびやかしたが師直は家臣の身代わりによって九死
に一生を得た。大魚を逃した正行は遂に衆寡敵せず自決した(四条畷の戦い)。
 この日師直はさらに進んで吉野の麓に着陣した。楠木軍の壊滅によって防衛
の手段を失った吉野は高師直軍に蹂躙され、全山が灰燼に帰した。後村上天皇
はやむなく吉野を捨ててさらに奥地の穴生(あのう、奈良県吉野郡西吉野村)
に避難され、いつか捲土重来、京都を奪回することを願ってその文字を「賀名
生」と改められた。
 大打撃を受けた南朝は苦境に立ったが、幕府側にもこの事件は大きな影響を
与えた。大勝によって高師直の声望が高まったために尊氏と二頭政治を行って
いた弟足利直義(あしかがただよし)との確執が激化、やがて尊氏と直義の対
立に発展、日本全国を巻き込んだ観応(かんのう)の擾乱(じょうらん)と呼
ばれる南朝・尊氏・直義の三つ巴の戦乱へとつながっていったのである。
(太平記巻二十五・芳野炎滅蔵王霊験の事)


[1440] 天平十六年(744)閏一月九日 2005-01-09 (Sun)

 恭仁京諸寺・人民に舎宅を作らせる。
 天平十二年十二月十五日、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱を機に東国
に行幸された聖武天皇は結局平城京には戻らず、甕原(みかのはら)離宮のあ
った付近に新たに都を置くこととなった。恐らくこれには藤原氏の影響のしみ
込んだ平城京でなく、新たな都で新しい政治を、という橘諸兄(たちばなのも
ろえ)の強い影響があったことであろう。この恭仁京(くにのみやこ、京都府
加茂町)はしかし手狭なため、京域は東西に分断された変則的な都であった。
 この年閏正月一日、恭仁京で官人に恭仁・難波のうちどちらを都とすべきか
を問うたところ、五位以上の高級官僚はそれぞれ二十四人と二十三人、六位以
下は百五十七人と百三十人、いずれもわずかに恭仁京を支持する人が多かった。
四日には市(公設市場)で同じ問いを発したところ、難波、平城がそれぞれ一
人いたほかはすべて恭仁を都とすることを願った。もっとも、これは問われた
側としてははっきり言って「いい加減にして欲しい」であったろう。彼らはも
ともと天平十三年八月二十八日に平城京から移転させられた人々であった。た
だ、この時に官人だけでなく市での商人(庶民と言ってもよい)たちの意見も
集められていることは注目するべきであろう。
 前年造営が停止された恭仁京であったが、この結果を受けてこの日京職(京
を管轄する行政組織)に命じて諸寺や人民に恭仁京に家を建てさせた。
 しかし、これらの結果や措置にもかかわらず、十一日には聖武天皇は難波宮
に行幸、恭仁に戻ることはなく、二月二十六日には難波宮を皇都とすることが
宣言され、恭仁京は結局廃されることとなってしまう。
(続日本紀)


[1439] 綏靖元年(紀元前581)一月八日 2005-01-07 (Fri)

 綏靖天皇、即位。
 綏靖(すいぜい)天皇は第二代の天皇で神武天皇の子。この四年前の神武天
皇崩御の後、庶兄手研耳命(たぎしみみのみこと)の反乱を鎮圧し、次兄神八
井耳命(かむやいみみのみこと)の譲りを受けてこの日葛城高丘宮に即位され
た。手研耳命は「久しく朝機を歴(長らく政務に携わっていた)」とされてお
り、反乱と言うよりは王権を巡る争いがあった可能性が高い。
 この反乱伝承以降、綏靖天皇から安寧(あんねい)、懿徳(いとく)、孝昭、
孝安、孝霊、孝元天皇を経て第九代の開化天皇までの八代の天皇は欠史八代と
呼ばれ、系譜・皇后・宮都・山陵などを除き、いずれも事跡がほとんど伝えら
れていない。これは「古事記」編纂のための原史料として見える帝辞・旧辞の
うち、帝辞にしか記録がなかったということであろう。また、神武天皇が始馭
天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と伝えられる一方で第十代の崇神
天皇も同様に御肇国之天皇(はつくにしらすすめらみこと)とされており、こ
れらの点からこの欠史八代については後世になって創作された、と言う説も強
い。しかしその一方、一時点で創造されたにしてはその名前、宮都の位置など
が多様で一貫性を欠いている。また、皇后の系譜についてはその多くは皇族ど
ころか磯城県主(しきのあがたぬし)など大和の地方豪族の娘と伝えられる例
が多く、それ以降とは大きく異なっている。また神武天皇崩御・綏靖天皇即位
の間の空白を始めその紀年にいくつもの矛盾もあるのは複数の伝承が存在して
いたことを示している。これらのことからはむしろ創作されたのではなく逆に
何らかの伝承が存在したことを物語るものかも知れない。
(日本書紀)


[1438] 天平神護元年(765)一月七日 2005-01-06 (Thu)

 天平神護改元、恵美押勝乱の有功者に叙位。
 政敵橘奈良麻呂を挑発の末滅ぼし、自らの擁立した淳仁天皇のもとで権勢を
誇った恵美押勝(えみのおしかつ、藤原仲麻呂)であったが、やがて庇護者で
あった光明皇后が崩じられた後、道鏡を寵愛する孝謙上皇との関係は次第に抜
き差しならないものになっていった。覚悟を決め、政変を起こす準備を行った
押勝であったが、そこには大きな誤算があった。傍若無人な彼には余りにも敵
が多かったのである。このため反乱計画は次々と漏洩、後手後手に回った押勝
はこの前年天平宝字八年九月十一日、近江に逃れ東国を目指したが既に勢多橋
が焼き落とされていたため湖西に回って船に乗り越前に通ずる湖北の塩津を目
指した。しかし、折しも起こった逆風により吹き戻され、追討軍と戦った結果
与党は潰滅、更に妻子らと船で逃れようとした押勝は勝野(滋賀県高島町)付
近で捕らえられ、斬殺された。
 年が明けたこの日、恵美押勝の乱が鎮圧されたのを受け、人心を一新するた
めに天平宝字九年を改めて天平神護元年と改元された。「神護」は乱に際し、
逆風が吹いて鎮圧に成功したことを「神風」と見なしたことによる。このため、
各地の神職に対して一律に位階一階が加えられた。
 この日更に詔があり、乱に際して身命を賭して尽力した人々に対し大規模な
論功行賞が行われた。ただ、その中に弓削氏一族(道鏡の縁者)が含まれてい
るのは「どさくさ」の印象が強い。翌日には戦場となった近江の高嶋郡には二
年分の、滋賀郡・浅井郡には一年分の調・庸の免税措置が行われ、押勝から没
収した私財により施しを行い、ここに漸く恵美押勝の乱の事後処理も完了する。
(続日本紀)


[1437] 承和二年(835)一月六日 2005-01-05 (Wed)

 平城旧京の水陸地を高岳親王に施入。
 桓武天皇の嫡子安殿(あて)親王は病弱であった。桓武天皇はその病気は自
分が謀殺した弟の早良(さわら)親王の怨霊のなせるところと信じ、生涯その
怨霊におびえ続けられた。しかし、病弱ながらも安殿親王は成長し、延暦二十
五年(806)、桓武天皇の崩御によって登極された。平城(へいぜい)天皇
である。積極的に政治を行われた平城であったが結局病のために大同四年(8
09)に同母弟の神野親王に譲位された。嵯峨天皇である。兄から譲位された
嵯峨はそんな兄を尊び皇太子としては兄の子である 高岳(たかおか)親王を
立てられた。本来であればやがて皇位は高岳親王に伝えられるはずであったが、
彼には歴代の皇族の中でも最も数奇な運命が待っていた。弘仁元年(810)、
父の寵姫藤原薬子は平城上皇の重祚を画策、上皇を動かして平城京への遷都を
命じさせた。しかし嵯峨天皇側の迅速な対応により事件はあっけなく鎮圧され、
薬子は毒を仰いで自殺、上皇は出家された。そしてこの事件に連坐して高岳親
王は皇太子を廃され、仏門に入り弘法大師空海の弟子になられた。
 この日、高岳親王(真如入道親王)に対してその父平城上皇が天長元年(8
24)に崩御されるまで住まわれた平城京の土地が与えられた。遺産相続の形
であろう。但し、宅地としてではなく、やがて田地とすることが前提となって
おり、事実この後平城京の地は急速に耕地と化していく。
 この後、真如入道親王は釈尊の聖地印度に憧れて渡航を志し、貞観三年(8
61)に入唐され、さらに印度を目指されたが夢半ばにして現在のシンガポー
ルで虎に襲われて最期を遂げるという数奇な人生を歩まれた。
(続日本後紀)


[1436] 仁賢元年(488)一月五日 2005-01-05 (Wed)

 仁賢天皇即位。
 雄略天皇の後、皇位継承者がほとんどいなくなってしまった中、播磨の赤石
(あかし、明石)に隠れていた市辺押磐皇子(いちのへのおしわのみこ)の遺
児、億計(おけ)、弘計(をけ)の兄弟は清寧天皇に見いだされ皇位を継ぐも
のとして迎えられた。清寧天皇崩御の後、兄弟が皇位を譲り合う間、姉の飯豊
青皇女(いいとよあおのひめみこ)が皇位を代行した。これは事実上の女帝で
あったが、僅か半年で彼女が崩ずると兄の億計王は身分を明かし清寧天皇に迎
えられるきっかけを作った弟の弘計王に皇位を譲り、弘計王は顕宗元年(48
5)一月一日、即位された。顕宗(けんぞう)天皇である。その崩御の後、こ
の日億計王は石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)で即位された。
 弟に皇位を譲った挿話のほか、「古事記」の伝える父の仇である雄略天皇へ
の報復の話に彼の人となりを知ることが出来る。顕宗天皇は復讐のため雄略天
皇陵の破壊を命じる。億計王は自分が実行して復命する。しかしあまりにもそ
の帰還が早いことをいぶかしんだ顕宗天皇はどのように破壊したかを問われた。
億計王はその傍の土を少し掘りました、と。天皇は復讐のために御陵を完全に
破壊しようとしたのに、少し掘ったとは何事か、と問われたのに対し、彼は父
の魂に報いるにはこれで充分だ、雄略天皇は父の仇ではあるが同時に父の従兄
弟であり、また仮にも天皇の位にあった人である、それを今父の仇と言うだけ
で皇位にあった人の御陵を破壊すれば必ず後世の人の非難を招く、しかし父の
仇を取らないわけにもいかない、だから御陵の傍の土を掘って雄略天皇をはず
かしめた、これで充分ではないか、と諭された、という。
(日本書紀)


[1435] 舒明元年(629)一月四日 2005-01-04 (Tue)

 舒明天皇即位。
 この前年、後継者を定めぬまま推古天皇が崩御された。当時は皇太子の制度
が未成立であり、皇位は天皇またはそれに準ずる者の皇子で同世代の成人の間
で受け継がれていたらしい。推古天皇の時点で本来即位するはずであった聖徳
太子が未成年であったために「中継ぎ」の推古天皇が立てられたのだが、天皇
位は終身であったためその推古より先に聖徳太子が薨じてしまい、太子の世代
はすでに残っていなかった。当時有力な後継候補としては田村皇子(敏達天皇
の孫)と山背大兄皇子(やましろのおおえのみこ、聖徳太子の子、用明天皇の
孫)の二人がいた。推古天皇は臨終に及んで田村皇子には「天皇の位は大任で
あり軽々しく口にすべきではない。よく考え、怠ってはならない」、また山背
大兄皇子には「一人であれこれ言ってはならない。群臣の意見に従い、違うこ
とのないように」とそれぞれ遺言を残されていた。この遺言から大伴鯨(おお
とものくじら)以下五人はこれは田村皇子に皇位を、と言うご意志であると主
張したが許勢大摩呂(こせのおおまろ)以下三人は山背大兄皇子を推し、意見
が一致しなかった。そこで政界の中心にあった蘇我蝦夷(そがのえみし)に事
実上一任されることになった。そのため山背大兄皇子は再三彼に働きかけを行
ったが、結局蝦夷は推古天皇の遺言を尊重し、田村皇子を皇位に推すこととな
った。なおも強硬に山背大兄皇子を推す蘇我一族の境部摩理勢(さかいべのま
りせ)を攻め滅ぼした末、漸く田村皇子の擁立が確定、この日の即位となった。
 舒明天皇の皇后は後に皇極・斉明天皇となる宝皇女(たからのひめみこ)。
その子には葛城皇子(天智)や大海皇子(おおあまのみこ、天武)らがある。
(日本書紀)


[1434] 天智七年(668)一月三日 2005-01-03 (Mon)

 天智天皇、即位。
 斉明天皇崩御から六年余り、即位せずに称制、即ち皇太子のまま天皇の職務
を代行し続けていた中大兄皇子はこの前年三月に近江大津宮に遷都した。そし
てこの日、大津宮でついに即位し、天皇の位に登った。即位時四十三歳。
 天智天皇は舒明天皇と皇極(斉明)天皇との間の長子。はじめ葛城皇子(か
ずらきのみこ)と言った。舒明天皇の崩御の時東宮(皇太子)として誄(しの
ひごと、弔辞)を読まれたとあるが当時皇太子という制度が確定していたとは
考え難く、また十六歳という年齢からもこれ自体が後の天智の即位を正当化す
るための修文であろう。皇極四年(645)の乙巳(いっし)の変で蘇我入鹿
(そがのいるか)を暗殺、蘇我本宗家を滅ぼして改新政治を主導したとされる
天智であるがそれが事実であればその時点で即位しなかったのは不審である。
恐らく改新政治を主導したのは孝徳天皇であり、天智は孝徳を倒し改新政治を
否定することで政権を手に入れたと考えられる。であれば斉明天皇の重祚は前
代の孝徳天皇を否定するためであり、天智が定めたとされる「不改常典」は天
智自身が自らの即位を正当化するために嫡子相承を定めたものであろう。そう
であればこれほど長い期間即位しなかったのも結局は即位がなかなか周囲の合
意を得られなかったためであろう。また、称制早々に起こった白村江の戦いの
惨敗により国家そのものが重大な危機に直面した。天智にとって皮肉なことに
その結果国家再建のためには自らが否定したはずの改新政治を再開せざるを得
なかった。そしてそのことが四年後の壬申の乱で近江朝廷側が畿内の豪族さえ
掌握することが出来ずに敗れ去る直接の原因でもあった。
(日本書紀)


[1433] 宝亀五年(774)一月二日 2005-01-02 (Sun)

 尚蔵吉備由利薨ず。
 尚蔵(後宮の高官、称徳は女帝であったため後宮の職員が近侍したらしい)
吉備由利(きびのゆり)は吉備真備(きびのまきび)の一族(娘?姉妹?)。
称徳天皇の信任厚く、称徳天皇が死の床についた時、すべての官人の面会が拒
絶されたにもかかわらず彼女ただ一人は出入を許可され、群臣の奏上や称徳の
意思の伝達はすべて彼女を通してなされた。即ち、称徳天皇の最後を知る(道
鏡を除けば)唯一の人物であった。この時、左大臣藤原永手(ふじわらのなが
て)と右大臣吉備真備に軍事権が与えられたのはもはや目前に迫った「その時」
に備えて、道鏡の動きを封じるために吉備真備と彼女が仕組んだ布石であった
のであろう。称徳天皇崩御の後、光仁天皇擁立までの動きの中では沈黙を守り、
文室浄三(ふんやのきよみ)の擁立に失敗した吉備真備が引退に追い込まれる
中、彼女はその後も昇進しているのはその「沈黙」に対する報酬であったのか
も知れない。彼女の死と共に、その間の事情も称徳天皇と道鏡との関係も永遠
の謎となってしまった。
 吉備氏は岡山県周辺に蟠踞した有力な地方豪族。単一の氏族ではなく、下道
(しもつみち)・上道(かみつみち)・香屋(かや)・三野(みの)・笠・苑
といった部族の連合であったらしい。造山古墳や作山古墳といった大和の大王
墓に匹敵するような巨大古墳を残しており、西国屈指の大豪族であったが雄略
天皇の頃に何度かの反乱・鎮圧記事がある。恐らくかつて大和朝廷にとっては
対等に近い同盟国であったものがこの頃に完全に従属するようになっていった
ことを示すものであろう。なお、真備や由利はこのうち下道氏の出身であった。
(続日本紀)


[1432] 大化二年(646)一月一日 2005-01-01 (Sat)

 改新の詔を発布。
 前年の乙巳(いっし)の変で蘇我氏を倒した孝徳天皇を中心とする改新政権
はこの日恒例の賀正の礼が終わった後、改新政治の基本理念を述べた改新の詔
を発布、古代国家の完成を目指された。この改新の詔は以下のような四つの項
目から成る。
(1)子代(こしろ、皇子養育のための領地と民)や屯倉(みやけ、大和朝廷
の直轄領)、部曲(かきべ、各氏族の私有民)、田荘(たどころ、各氏族の私
有地)をはじめとする私地私民を廃止し、公地公民の制度を開始する。
(2)京・諸国・郡などよりなる地方制度を定め、畿内の範囲を東は名墾(な
ばり、三重県名張市)の横河、南は紀伊の兄山(せのやま、和歌山県かつらぎ
町)、西は赤石(あかし、兵庫県明石市)の櫛淵、北は近江の合坂山(おうさ
かやま、京都市と大津市の境界)とし、駅制を定める。
(3)戸籍・計帳(税務台帳)・班田収受の法を制定し、租税の制を定める。
(4)庸(人頭税)、調(労役またはその代納の税)及びその副物(そわつも
の、ここでは税としての塩)・贄(にえ、各地の特産品の貢納物)、馬、兵士
の自弁する兵器、仕丁(朝廷に対する役務)、釆女(官女)等の規定を定める。
 従来は大和朝廷は豪族連合であった経緯から実際の地方の支配はそれぞれの
豪族に委ねられていた。しかし、これらの施策によって中央集権による朝廷の
全国の直接支配が目指されることになった。この詔には後の用語などが含まれ
るため、存在を疑問視する説もあるが、実際の詔は宣命(和文の命令)で出さ
れ、「日本書紀」編纂時点で後の用語を用いた漢文にしたものであろう。
(日本書紀)


[1431] 大化二年(646)十二月晦日 2004-12-31 (Fri)

 道登に救われた髑髏、恩返しをする。
 この年、元興寺の僧道登は宇治川に架橋しようと行き来するうちに、奈良山
の谷に髑髏(ひとかしら、しゃれこうべ)があって往来の人に踏まれているの
を見つけ、気の毒に思い従者の万侶(まろ)にこれを木の上に置かせた。
 その年のおおみそかの日、万侶のところに一人の人が訪ねて来た。その人は
「道登様のおかげで楽になりました。けれど、今日でなければ恩返しが出来な
いのです」と言って万侶を連れてその人の家に行き、戸の閉まった家にそのま
ま入り、そこにあったお供えの食べ物を万侶に与えて一緒に食べた。朝四時頃
になって「私を殺した兄が来るから早く帰りましょう」と言う。不審に思って
事情を聞くと、昔その人は兄と一緒に商売をしてずいぶん儲けたが、金に目が
くらんだ兄に殺されて金を奪われたのだという。それからずっと人や獣に踏ま
れ苦しんでいたのがお陰様で楽になったそのご恩を今夜お返ししました、と。
 そこへその人の母と兄が来て、万侶を見て驚いて事情を問うた。万侶が死霊
に聞いた話をすると、母親は兄に「あの子を殺したのはほかの誰でもない、お
前だったのね」と泣き叫んだ。そして万侶を尊び、更に饗応したという。
 現在でも日本ではお盆やお彼岸には故人が帰ってくる、と信じられている。
が、仏教の教義においては死者は死後七日毎に閻魔王など十王による裁きを受
け、その七回目(四十九日)には次に生まれ変わる世界が決まり、七十日目に
次の生へと輪廻転生するはずである。現在の風習はこの説話に見られるように
上代において大晦日はこの世とあの世がつながる時であった風習が仏教と習合
し、やがてその時をお盆やお彼岸に移して脈々と受け継がれたものである。
(日本霊異記)


[1430] 天平勝宝八歳(756)十二月三十日 2004-12-30 (Thu)

 皇太子道祖王らを諸寺に遣使。
 この日、孝謙天皇は皇太子道祖王(ふなどのおおきみ)、巨勢堺麿(こせの
さかいまろ)を東大寺に遣わしたほか、大安寺、外嶋坊(そとしまぼう、法華
寺の中にあった)、薬師寺、元興寺、山階寺(やましなでら、興福寺)にも使
者を派遣して梵網経(ぼんもうきょう、大乗仏教の菩薩戒について説いた経典)
の講師六十二人を招かせた。この六十二人は当時の四畿七道諸国(全部で六十
二国)に派遣され、諸国でこの経典の教えを説法することになる。聖武天皇の
一周忌の法要とあわせて行われたものであろう。
 皇太子道祖王は天武天皇の孫、新田部親王の子。聖武上皇の遺詔によりこの
年五月に孝謙天皇の皇太子に立てられた。しかし、翌天平勝宝九歳三月、孝謙
天皇は彼を諒闇中(聖武天皇の喪中)であるにもかかわらず「志、淫縦(いん
しょう)にあり」また教勅を加えても改悛しない、として皇太子の位を追われ
て王の身分に戻されてしまう。恋愛事件などを起こして不謹慎とされたのかも
知れない。翌月には藤原仲麻呂子飼いの大炊王(おおいのおおきみ、淳仁天皇)
が代わりに皇太子に立てられていることを考えると裏で仲麻呂の暗躍があった
のかも知れない。さらにその七月には橘奈良麻呂の乱が発覚し、その自供によ
って彼が奈良麻呂が擁立を図った皇族の一人であったことから捕らえられ、そ
の名を麻度比(まどい、迷い)と改められたがその前に既に拷問によって殺さ
れていたらしい。孝謙天皇は自分の位を脅かす者に対しては異様なまでの峻烈
さで対処しており、彼もその犠牲者の一人であった。
 そんな彼にとってこの時の使者の役は束の間の華やかな時であった。
(続日本紀)


[1429] 文武二年(698)十二月二十九日 2004-12-29 (Wed)

 多気大神宮を度会に遷す。
 この日、多気大神宮を度会郡に遷す、という簡単な記事が続日本紀に残され
ている。解釈の難しい記述であるが、次のような三通りの解釈がなされている。
(1)現在の瀧原宮(三重県度会郡大宮町)に祭られていた伊勢神宮をこの時
 に現在の内宮に遷座した。瀧原宮は現在も皇太神宮の別宮として神宮に準ず
 る扱いを受けているがそもそもの御鎮座の由来は必ずしも明らかでない。た
 だ、ここは五十鈴川の川上ではないので垂仁朝に倭姫命(やまとひめのみこ
 と)が五十鈴川の川上に祀った、という伊勢神宮の創建伝承とは合致しない。
(2)異本に「多気大神宮寺」(寺は原文ではまだれがつく:「床」の「木」
 の部分を「寺」に)とあることから、神仏習合による神宮寺を移建した。こ
 の時代に始まる神仏習合は神を仏の下位に置くものであり、主要神社に対し
 て神宮寺と呼ばれる寺院を設置、神をも仏の加護を受けさせようとした。後
 に仏教を忌み言葉などを用いて忌避する伊勢神宮にも神宮寺は置かれたが、
 神宮側の激しい反撃によりこの寺を神宮を遠く離れた山中に移建せざるを得
 なくなったという考え。
(3)伊勢神宮を管理する役所を斎宮司の置かれた多気郡から神宮の鎮座され
 る度会郡に遷した。斎宮そのものも一時多気郡から度会郡に遷されていたこ
 とが記録に残っている。そもそも斎宮は伊勢神宮に奉仕する天皇の名代とし
 ての皇女であり、斎宮司(遺跡は三重県多気郡明和町、斎宮歴史資料館とし
 て整備されている)はそれに仕える組織であるが、その立地は必ずしも神宮
 に近いわけではなく、ここに設置された事情は明らかではない。
(続日本紀)


[1428] 治承四年(1180)十二月二十八日 2004-12-28 (Tue)

 平重衡の兵火により東大寺・興福寺焼亡。
 この年五月、以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒の旗を揚げた源三位
頼政(げんざんみよりまさ)の挙兵は失敗に終わったが、これが口火となって
源頼朝や木曽義仲らが続々と反平家の旗揚げの急報が届いた。対応に追われる
平家は以仁王挙兵の際にこれに呼応した近江の三井寺や奈良の興福寺も平家に
攻められるという風評が立った。これに怒った興福寺の僧兵が蜂起、これを鎮
撫しようと平清盛は腹心の瀬尾太郎兼安(せのおのたろうかねやす)らを僧兵
への手出しを禁じて派遣、懐柔しようとした。しかし、僧兵らはそうとは知ら
ずこれを攻撃、平家側に多数の戦死者が出た。激怒した清盛は平重衡(たいら
のしげひら)以下四万余騎の兵を派遣、この日ついに平家軍と僧兵との間に激
しい戦闘が繰り広げられた。数にまさる平家の優勢の内に戦闘は夜になり、明
かりを取るために平家方が民家に放火したところ、折からの強風にあおられ火
はたちまち堂塔に飛び火した。高僧たちや女子供は戦火を逃れて大仏殿の二階
や興福寺の金堂に入っており、大仏殿では平家軍の攻撃を恐れて梯子をはずし
ていた。そこへ襲った猛火はこの世の地獄を現出、大仏と共に千七百人以上の
人々が焼死、興福寺金堂でも八百余人、焼死者の総計は三千五百人以上に達し
たという。東大寺・興福寺はこのとき堂塔・仏像・経典などもほぼ全焼してし
まい、東大寺に残ったのは法華堂や転害門などだけであった。
 意図した放火ではなかったとは言え、この悲報は朝廷だけでなく一般民衆や
鎌倉の頼朝なども激怒させ、反平家の嵐の中、翌年閏二月四日に謎の熱病で亡
くなった平清盛を時の人は仏罰と噂しあった。
(平家物語巻五・奈良炎上)


[1427] 大宝元年(701)十二月二十七日 2004-12-27 (Mon)

 大伯内親王、薨ずる。
 大伯内親王は天武天皇の皇女で母は天智天皇の皇女で持統天皇の同母姉の大
田皇女。斉明七年(661)、百済救援戦争への遠征の途次、大伯海(おおく
のうみ、岡山県邑久(おく)郡、鞆の浦付近)の船上で生まれたため大伯皇女
と名づけられたという。大津皇子は同母弟。
 天武二年(673)四月、前年の壬申の乱において伊勢神宮を遙拝されその
ご加護を祈った天武天皇は即位後にその奉賽のために伊勢神宮の斎宮として彼
女を卜定(ぼくじょう)、泊瀬斎宮に入られた。翌年十月に伊勢神宮に向かわ
れている。派遣記録がある実在確実な最初の斎宮である。神に仕える日々を送
った彼女であったが、朱鳥元年(686)、突然彼女のもとを訪ねてきた弟の
大津皇子の姿に彼女は驚愕、激しい不安に襲われながらも弟を帰京させた。し
かし、彼女の不安は的中、大津皇子は謀反の汚名を着せられて帰らぬ人となっ
てしまった。事件後、彼女も斎宮を解任され、帰京する。帰京後の彼女の動向
は万葉集に残された六首の弟の死を悼む歌のほかには何も伝わらない。恐らく
結婚したのであろうが、記録は一切残されていない。享年四十一歳。
 うつそみの 人なる我(あれ)や 明日よりは
  二上山(ふたがみやま)を 弟(いろせ)と我(あ)が見む
 磯の上に 生(お)ふる馬酔木(あしび)を 手折(たお)らめど
  見すべき君が ありと言はなくに (万葉集巻二・165-166)
 なお、飛鳥宮跡から「太来」と書かれた木簡片が出土しているのは彼女に関
するものであろうか。
(続日本紀)


[1426] 大宝三年(703)十二月二十六日 2004-12-25 (Sat)

 持統上皇を天武陵に合葬する。
 この月十七日に火葬された持統天皇の遺骨はこの日夫である天武天皇の眠る
大内山陵に合葬された。
 大内山陵は後、鎌倉時代の文暦二年(1235)に盗掘された。その時の記
録によると天武天皇の棺は乾漆、火葬された持統天皇の骨壺は銀製であったと
いう。この記録により大内山陵の内部構造や当時の外観などが詳細に知られ、
それは同時に現在の天武・持統陵が古墳編年の基礎となることにもつながった
貴重なものとなっている。また、これによってその形状は上円下方墳と理解さ
れたため、明治天皇以降、昭和天皇に至る天皇陵もその形式を上円下方墳とい
う形状とされた。が、現在では築造時の墳丘形式は八角墳であったということ
が明らかとなっており、これは当時の天皇陵だけに許された墳丘形式であった。
 かつては大仙陵古墳(仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(応神天皇陵)のよう
にその大きさによってその力を誇示した前方後円墳などの古墳はやがてその規
模を縮小させていった。古墳築造の情熱が冷めていったことについては多くの
説があるが、既に「もの」によって示さずとも大和朝廷の力は隔絶したもので
あった。その一方地方勢力の古墳築造熱に対しては結局規制が加えられること
となった。それが大化二年(646)に出された薄葬礼である。それにより墳
丘の大きさは王(皇族)以上は方九尋(ひろ、一尋は約1.8mなので16.2m四方)
高さ五尋(9m)、上臣(大臣級か)は方七尋(12.6m)高さ三尋(5.4M)、下臣
(冠位十二階の上位二階)は方五尋(9m)高さ二尋半(4.5m)、それ以下の者
については墳丘を築造することさえ認めない、というものであった。
(続日本紀)


[1425] 延暦二十三年(804)十二月二十五日 2004-12-25 (Sat)

 桓武天皇不予、平城七大寺にて誦経。
 桓武天皇はこの日急病になられた。そのため、使者を派遣して綿五百六十斤
を布施として平城京の七大寺で病気平癒を祈って読経を行わせた。また、あわ
せて平城旧京の貧しい人々に賑恤(しんじゅつ、施し)を行った。
 七大寺は平城京及びその周辺にあった東大寺、興福寺、西大寺、元興寺、大
安寺、薬師寺、法隆寺を指す。平安京では当初造寺は行われず、また藤原京や
平城京の時と異なり旧都の寺院の移建も行われなかったため、このように祈祷
などの法要は平城京の諸寺が実施した。後に王城鎮護の寺となる比叡山はまだ
最澄の草堂に過ぎず、比叡山寺と称していた。これが官寺となり延暦寺という
寺名が与えられるのは弘仁十四年(823)である。また同年には教王護国寺
(東寺)が空海に与えられている。延暦二十三年というのは丁度この二人を含
む遣唐使が渡唐した年であり、最澄は翌二十四年、空海は翌々大同元年に帰国
している。天台・真言といった新宗教が未成立の当時、まだまだ仏教界の中心
は平城京にあった諸寺が担っていた。
 布施として用いられた綿とは楮(こうぞ)の樹皮を用いて作られた布であり、
古代の最も一般的な布であった。現在の木綿(もめん)が伝来するのは中世で
あり、古代にはまだ存在しなかった。また、賑恤は飢饉などの際に窮民救済の
ため例えば国単位で行われるものが本来であったが律令制が弛緩した平安時代
になると形式的に平安京内で行われるのみとなった。
 結局桓武天皇はこの時の病が平復することなく、自らが死に追いやった弟の
早良親王の怨霊におびえながら二年後の延暦二十五年三月十七日に崩御された。
(日本後紀)


[1424] 斉明六年(660)十二月二十四日 2004-12-23 (Thu)

 難波行幸、百済救援の準備。
 この年七月、唐・新羅(しらぎ)連合軍の攻撃の前に百済(くだら)の義慈
王は降伏、ここに百済は滅亡した。しかし、その遺臣鬼室福信(きしつふくし
ん)らは各地に挙兵、百済再興を図った。福信は十月、貴智(きち)らを日本
に派遣し唐軍の捕虜百余人を献上し、援軍を要請、あわせて人質として日本に
あった王族扶余豊璋(ふよほうしょう)を国主として迎えることを乞うた。こ
れを受けて大和朝廷は救援軍の派遣を決め、また豊璋を百済王に、その叔父塞
城忠勝(さいじょうちゅうしょう)をその補佐に任じて礼を尽くして故国に発
遣した。そして自らも筑紫(九州)に行幸して百済救援軍を指揮するべく、こ
の日まず難波宮(なにわのみや、孝徳天皇の宮都、大阪市中央区法円坂)に行
幸され、ここでまず兵器などを整えられた。
 この年、駿河国(静岡県中部)に命じて軍船を建造させた。ところがこの船
が完成、続麻郊(おみの、三重県明和町)まで曳航してきたところ、一夜にし
て停泊中のその船の前後が逆になっていた。また科野(しなの、長野県)から
はおびただしい蠅の群が西の方に飛び去ったことが伝えられた。これらによっ
て人々は今度の戦は負け戦ではないか、と感じていた。その一方、次のような
不気味な童謡が流行していた。
 まひらくつのくれつれをのへたをらふくのりかりがみわたとのりかみをの
 へたをらふくのりかりが甲子とわよとみをのへたをらふくのりかりが
現在に至るも意味を明らかにし難いこの童謡も救援軍の不吉な前途を暗示する
ように人々には思われたのであった。
(日本書紀)