[1717] 景行二十七年(97)十月十三日 2005-10-12 (Wed) 日本武尊、熊襲征討に出発。
景行十二年から十九年にかけての景行天皇の親征により制圧された熊襲(く
まそ、鹿児島県地方にいた人々)はこの年八月に再び反乱を起こした。このた
め天皇はその皇子で十六歳になる小碓尊(おうすのみこと)、またの名は日本
童男(やまとおぐな)に征討を命じられた。尊は十二月に熊襲国に至り、熊襲
の首長取石鹿文(とろしかや)、またの名を川上梟帥(かわかみたける)の様
子を探ったところ。親族を集めて宴会を行うところであった。そこで尊は女装
して(古事記では叔母倭姫命(やまとひめのみこと)から服を授かっていたと
いう)剣を服の中に隠し、宴会の女人の中に紛れ込まれた。尊の容姿を愛でた
川上梟帥は尊を同席させ、酒の相手をさせた。やがて夜が更けて人も少なくな
り、川上梟帥も酔いが回ってきたのを見て取った尊は剣を取り出し川上梟帥の
胸を刺した。重傷を負った川上梟帥は尊に名を問うと、最後の願いとして自分
より強い者に初めて遇ったので自分から尊号を奉ることを乞うた。尊がこれを
許されると、「日本武皇子(やまとたけるのみこ)」と言う名を奉った。尊は
これ以降日本武尊(やまとたけるのみこと)の名で呼ばれることとなる。その
後尊は川上梟帥にとどめを刺すとその一族を滅ぼし、帰路も吉備や難波で悪神
を倒して二十八年二月一日に大和に帰って復命された。なお、今日の感覚では
このような計略を用いたことは騙し討ちに感じられるが、上代においては知略
を用いることはむしろ強さを示すものであり、賞賛の対象でさえあったらしい。
日本武尊についての日本書紀の所伝は古事記より洗練されてはいるが悲劇性
は減っており、また年齢などの矛盾・混乱も少なくない。
(日本書紀)
[1716] 戊午年(宣化三?、538)十月十二日 2005-10-12 (Wed) 仏教公伝。
志癸嶋天皇(しきしまのすめらみこと、欽明)の御世のこの日、百斉(くだ
ら)国の主明王(めいおう、聖明王)が初めて仏像、経典、僧侶などを献上し
たことにより我が国に仏教が公式に伝来した。天皇はこれらを大臣(おおおみ)
の蘇我稲目(そがのいなめ)に授けて興隆せしめた。
よく知られている仏教公伝の記述であるが、大きな問題点がある。仏教公伝
は日本書紀では欽明十三年(552)十月のこととするが、平安中期に聖徳太
子に関する古い伝記などを集成する形で成立した「上宮聖徳法王帝説」のほか、
天平十九年(747)成立の「元興寺伽藍縁起並流記資財帳」も「斯帰嶋宮治
天下天国案春岐広庭天皇(しきしまのみやにあめのしたしらしめししあめくに
おしはらきひろにわのすめらみこと、欽明)・・・七年歳次戊午十二月」とあ
って戊午年をであると伝えている。百済の聖明王(在位523−554)が伝
えた、ということ(これはいずれもが一致)から戊午年が538年であること
は明らかだが、日本書紀の所伝によれば宣化三年に相当し、欽明天皇の治世で
はないことになってしまう。また、この上宮聖徳法王帝説は「志帰嶋天皇、天
下を治めること四十一年。辛卯の年の四月に崩ず。」としており、日本書紀が
欽明の崩御を三十二年(571)辛卯のこととするのと一致するが、治世期間
が一致しない。ところが崩年から治世四十一年を逆算すると欽明の即位は継体
二十五年(531)とになるが、この年は欽明の父継体の崩御の年に当たる。
こういった記述上の矛盾から、継体の崩御の後、安閑・宣化朝と欽明朝が対立
・併存していたという見方もある。
(上宮聖徳法王帝説)
[1715] 舒明十二年(640)十月十一日 2005-10-10 (Mon) 大唐学問僧、新羅経由で帰国。
学問僧南淵漢人請安(みなぶちのあやひとしょうあん)と留学生高向漢人玄
理(たかむくのあやひとげんり)は僧旻(みん)らとともに推古十六年(60
8)、隋からの使者裴世清(はいせいせい)を送る使者(二度目の遣隋使)小
野妹子(おののいもこ)に従って隋に渡り、学問を修めた。この間推古二十六
年の隋の滅亡と唐の興隆を目にすることになる。そして留学三十二年にして二
人はこの日漸く百済(くだら)及び新羅(しらぎ)の使者に伴われて新羅経由
で帰国した。当時百済は日本と同盟関係にあったが新羅は敵対関係にあった。
とは言え、両国とも唐にとっては藩属国であり、恐らく唐王朝から二人の帰国
に便宜をはからうことを命ぜられた結果の呉越同舟、ということであろう。ま
た唐にとっても新しく成立した自王朝の隆盛を東の果てにある日本に知らしめ
ることを目的として帰国させたのだろう。この間舒明二年には最初の遣唐使が
派遣されてはいるものの、その次の遣唐使は白雉四年(653)であり、丁度
その間隙を埋めた形になった。
二人のうち、請安(清安とも)は南淵先生(みなぶちのせんじょう)と呼ば
れてその知識を尊ばれた。後に中大兄皇子と中臣鎌子(後の藤原鎌足)は彼の
所での儒学を学んだが、その往還において蘇我氏討滅についての計画を練った
と伝えられている。乙巳(いっし)の変により蘇我氏本宗家が滅亡した後で成
立した改新政権においては玄理と旻が国博士として隋・唐で得た知識を国家建
設に活かすこととなった。但し、請安についてはその名が見えないことから恐
らくはそれ以前に亡くなっていたものと思われる。
(日本書紀)
[1714] 永禄十年(1567)十月十日 2005-10-10 (Mon) 松永弾正、東大寺を焼き討ち、大仏殿炎上。
鎌倉時代に再建された東大寺は国家の守護として貴賤の信仰を集めていたが、
戦国乱世の嵐は遂に東大寺大仏にも及んだ。その立て役者は松永弾正久秀(ま
つながだんじょうひさひで)という下剋上の権化のような人物であった。彼は
阿波の戦国大名三好長慶の家老であったが、もとより三好氏自体が守護の細川
氏を圧倒し、畿内に覇を唱えた戦国大名であった。しかし、久秀はその上を行
く奸物であった。彼は向背常なく、主君の子義興を毒殺、さらに主君長慶の死
後は主家を凌駕して専横を極め、ついには永禄八年(1565)将軍足利義輝
を暗殺するに至る。義輝は剣豪塚原卜伝(つかはらぼくでん)の教えを受け免
許皆伝の腕前であったが、その時襲撃する松永軍の前に源家重代の名刀十数本
を畳に突き立て、刀が使えなくなれば次の刀に取り替え、五十人ほどを斬った
ところですべての刀を使い切って斬殺されたという。さらに彼に反発する主家
一族の三好三人衆と結んだ筒井順慶らと奈良に戦った。久秀は三好・筒井軍の
陣を次々に破り、この日ついにその本陣となっていた大仏殿に迫り、これに火
をかけて全焼させた。平家の焼き討ちは失火が原因であるが彼の場合は意図的
な放火である。これにより鎌倉再建の東大寺はほとんど灰燼に帰した。
その後織田信長の上洛により久秀は直ちに降伏したが、何度かの反乱の末、
織田信忠(信長の長子)に攻められ信貴山城において名器「平蜘蛛」とともに
墜死(爆死とも)した。かつて大仏を焼いた平清盛は熱病のため「あっち死に
(平家物語)」して仏罰と言われたが、久秀の場合、その破滅は奇しくも大仏
焼亡の丁度十年後、天正五年(1577)十月十日のことであった。
(続史愚抄、信長公記)
[1713] 天平宝字八年(764)十月九日 2005-10-09 (Sun) 淳仁天皇を廃位、淡路島に配す。
淳仁天皇は天武天皇の孫で舎人親王の子。政界を牛耳る藤原仲麻呂はかねて
より彼に目を付け、亡男真従(まより)の妻であった粟田諸姉(あわたのもろ
ね)にめあわせ、自分の邸である田村第に住まわせていた。やがて聖武天皇の
定めた皇太子道祖王(ふなどのおおきみ)が品行不方正として廃され、天平勝
宝九歳(757)四月に彼が皇太子として立てられる。皇太子まで仲麻呂の息
のかかったものとなったことを憤慨しこれを除こうとした橘奈良麻呂の乱が未
然に鎮圧された後、翌天平宝字二年(758)孝謙天皇の譲位を受けて即位さ
れた。が、やがて光明皇太后が崩御されて仲麻呂が後ろ盾を失い、また道鏡を
異常なまでに寵愛される孝謙上皇に諫言をおこなったために「恭しく従うこと
はなく、まるで田舎者が仇敵に対するように接し、言ってはならないことも言
い、してはならないこともした」と非難されるようになり、二人の間は冷却し
きっていた。そんな彼を藤原仲麻呂(恵美押勝)が滅んだ後、積極的に守る者
はいなかった。この日、孝謙上皇方の兵は天皇の御所であった中宮院を囲み、
上皇の詔を宣した。上皇は聖武天皇から「王(おほきみ)を奴(やつこ)と成
すとも、奴を王と云ふとも、汝(いまし)のせむまにまに(天皇を臣下に降し
ても、臣下の者を天皇にしてもお前の望みのままだ)」と言われたから、とし
て天皇を廃して親王とし、「淡路国の公(きみ)」(名目的な淡路島の君主)
に退けることを告げ、直ちに彼を淡路島に護送、一つの建物に幽閉した。
翌年憤死された天皇には追号も行われず、後世長らく単に「淡路廃帝」と呼
ばれた。淳仁天皇という追号が贈られたのは明治になってからである。
(続日本紀)
[1712] 宝亀元年(770)十月八日 2005-10-07 (Fri) 右大臣吉備真備、致仕を乞う。
吉備真備(きびのまきび)は地方豪族吉備一族の下道(しもつみち)氏の出
身。霊亀二年(716)入唐留学生(にっとうるがくしょう)として唐に渡り、
阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と共に我が国留学生の名を高からしめた。留学
実に十七年の後、天平七年(735)帰朝、多数の書物を献上したという。そ
してその学識によって次第に重用されたが、逆に藤原氏の凋落を恐れた藤原広
嗣(ふじわらのひろつぐ)の反乱を招くに至った。乱は鎮圧されたもののやが
て政界は藤原仲麻呂の牛耳るところとなる。仲麻呂は唐の最新知識の第一人者
を気取っていたため真備は目障りであったのであろう、天平勝宝二年(750)
筑前守に左遷され、更に同三年には遣唐副使として二度目の渡唐を命じられた。
しかし、彼は再び大任を果たし、恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱に際してはその
追討の軍事を指揮、功を挙げて再び重用され、右大臣にまで達していた。
この年九月七日、真備は高齢(この年七十六歳)などを理由に致仕(引退)
を乞うた。この日それに対する光仁天皇の返答があり、なお政務に勤めること
を求め、右大臣はそのまま留任させた。その代わり、兼任の中衛大将(ちゅう
えのだいしょう)を解任した。表面上は高齢を理由としてはいるものの、実際
には光仁天皇の即位によって既に自分の時代は終わったもの、と考えたのであ
ろう。即ち、この年八月の称徳天皇崩御の際に真備は皇位に文室浄三(ふんや
のきよみ、天武天皇皇子長親王の子)を推したが、藤原百川らの陰謀により称
徳天皇の遺勅が偽造され、白壁王(光仁天皇)の立太子が発表された。先を越
された真備はもはやこれまで、と考え引退を申し出たものと思われる。
(続日本紀)
[1711] 景行四十年(110)十月七日 2005-10-06 (Thu) 日本武尊、蝦夷征討の途中伊勢神宮に参拝。
日本武尊(やまとたけるのみこと)は先にその父景行天皇の命により景行二
十七年に西の熊襲(くまそ)などを征討した。ところがこの年今度は東国の蝦
夷(えみし)が反乱を起こした。そのために尊は再び出陣を命じられ、吉備武
彦と大伴武日(おおとものたけひ)を連れて十月二日に大和を発った。そして
この日道を枉(ま)げて伊勢神宮を参拝、叔母の倭姫命(やまとひめのみこと)
に暇乞いを行った。そこで倭姫命は日本武尊に草薙剣(くさなぎのつるぎ、三
種の神器の一つ)を授け、「慎みて、な怠りそ(慎重に、油断をしないでね)」
と言われた。この剣は八岐大蛇(やまたのおろち)の死体から得られたもので
もとは天叢雲剣(あめのもらくものつるぎ)と呼ばれたがこの時日本武尊が駿
河の焼津(やきつ、静岡県焼津(やいづ)市の焼津神社がその伝承地)で火攻
めにあった時に自然に抜けてあたりの草を薙ぎ払い、そのために助かったため
に草薙剣の名で呼ばれるようになった、という。
伊勢を出られた尊は駿河、相模を経て上総に渡海する時、馳水(はしりみず、
横須賀市の走水神社が伝承地)の海でその広さをみくびったため海神を怒らせ
て暴風に遭い、ためにその妾弟橘媛(おとたちばなひめ)が海神にその身を捧
げて漸く助かった。そして陸奥の蝦夷を鎮圧、常陸・甲斐・武蔵・上野を経て
信濃に進みここを鎮圧、尾張に帰着した。が、胆吹山(いぶきのやま、滋賀県
の伊吹山)の荒神鎮圧の際に油断して草薙剣を持たなかったため山の神に敗れ
て重病となられ、大和を目指して伊勢に入ったが、景行四十三年に遂に能褒野
(のぼの、三重県亀山市の能褒野神社が伝承地)にて崩じられた。享年三十歳。
(日本書紀)
[1710] 天平十八年(746)十月六日 2005-10-06 (Thu) 聖武天皇以下、金鍾寺行幸、燃灯供養。
紫香楽宮で開始された大仏の造営ではあったが、聖武天皇の執念をよそに宮
周辺の山々に放火と見られる火災が頻発し、さらに地震まで引き続き発生する
に至って遂に断念、紫香楽宮も放棄されて都は平城京に戻され、平城京の外京
の外れにある金鍾寺(こんしゅじ)において大仏の造営が再開されることとな
った。天平十七年のことであった。この金鍾寺は天平五年、夭折された聖武天
皇の皇子の基王の菩提を弔うために良弁(ろうべん)が建立したものがもとと
なっていると言われており、最初に建立されたのは現在の法華堂(三月堂)で
あった。良弁は法華会の創始など金鍾寺経営に尽力し、聖武天皇に勧めて大仏
をここに造営することにさせたのはこの良弁の働きかけによるものと言われ、
彼は大仏開眼の後に初代の東大寺別当に任じられている。
この日聖武天皇、元正上皇、光明皇后はその金鍾寺に行幸、盧舎那仏(るし
ゃなぶつ)に対し一万五千七百余の灯火をともす燃灯供養(ねんとうくよう)
という大規模な法要を行われた。また、夜には数千の僧侶に灯火をかかげて仏
像の周囲を三周させた。深夜にいたって平城宮に還幸された。
この段階では勿論大仏はまだ出来ていないのだが、恐らくこの時大仏の原型
(雄型)となる塑像が完成し、それに伴う行事であろう。この塑像をもとにし
て大仏の鋳造が行われたのである。実際の大仏の鋳造の開始は翌天平十九年九
月二十九日のことであったと伝えられている。
金鍾寺はやがて大養徳(やまと)国分寺・金光明四天王護国之寺(こんこう
みょうしてんのうごこくのてら)、即ち東大寺として拡大・整備されていった。
(続日本紀)
[1709] 元中九年(1392、北朝明徳三年)閏十月五日 2005-10-05 (Wed) 後亀山天皇の神器、後小松天皇の内裏に入り南北朝合一。
後醍醐天皇の崩御の後、即位された後村上天皇の時代には南朝は幕府方の内
部分裂による観応の擾乱(かんのうのじょうらん)によって一時的に盛り返し
たものの、その後は足利直義(あしかがただよし)・直冬(ただふゆ)らが殺
されるに至って幕府の基盤が固まると共にその凋落は歴然としていた。そんな
中、後村上天皇は何度も和睦を意図され、最後には妥結寸前までいったものの
結局その文言を巡って決裂してしまった。そしてその後村上天皇の崩御の後で
即位された長慶天皇は強硬派であったらしく、この間に状況は更に悪化する。
全九州を制圧していた征西将軍宮懐良親王(かねよししんのう)を奉ずる菊池
武光の大宰府征西府も陥落し、南朝の柱石であった楠木正儀(くすのきまさの
り、正成の三男)は幕府方に投降するに至った。そんな状況の中、長慶天皇は
譲位され、和平派の後亀山天皇が南朝最後の天皇として即位され、時を同じく
して楠木正儀も南朝に復帰した。
一方、軍事的には南朝を圧倒していた足利幕府も強大化した守護大名に頭を
悩ませ続けており、いつまた彼らが南朝と結んで幕府に反旗を翻すか、という
ことを恐れていた。こうして両者の和睦への機運が高まった結果、足利義満と
南朝側の間で三箇条の和睦条件が妥結した。それは(1)三種の神器は南朝か
ら北朝に譲国の儀式により譲渡する(2)皇位は旧南北両朝で交互に立つもの
とする(3)旧南朝の経済基盤として諸国国衙領を譲る、というもので、これ
に基づいて後亀山天皇は十月二十八日の吉野を出て閏十月二日に入京、この日
三種の神器は北朝の皇居に入り、ここに南北両朝は合一するに至った。
(続史愚抄)
[1708] 崇峻五年(592)十月四日 2005-10-03 (Mon) 猪献上、天皇の失言。
用明天皇の崩御の後、次期大王の擁立と仏教の受容を巡っての蘇我氏・物部
氏の戦いは蘇我氏の勝利となり、蘇我氏が擁立した欽明天皇の皇子で蘇我稲目
(そがのいなめ)の娘小姉君(おあねぎみ)を母とする泊瀬部皇子(はつせべ
のみこ)が即位された。崇峻天皇である。
崇峻四年八月、天皇は欽明二十三年(562)に新羅(しらぎ)に併合され
た任那(みまな)を再建させることを群臣に諮り、その同意を得た。十一月四
日、紀男麻呂(きのおまろ)、巨勢猿(こせのさる)、大伴囓(おおとものく
い)、葛城烏奈良(かづらきのおなら)らを大将軍とする二万余の大軍を九州
に進出させ、またあわせて吉士金(きしのかね)を新羅に、吉士木蓮子(きし
のいたび)を任那にそれぞれ派遣、任那に関することを問責させた。
畿内の有力豪族が出払った後のこの日、天皇に山猪が献上された。天皇はそ
の猪を指さして「何(いづれ)の時にか、此の猪(ゐ)の頸(くび)を断(た)
つが如く、朕(わ)が嫌(いとは)しみする人を断たむ(いつか、この猪の頸
を斬るように、いやなあいつの頸をはねてやろう)」と言われた。また多くの
武器を準備している様子は尋常ではなかったという。
これを耳にした蘇我馬子は天皇の言われた「いやなあいつ」というのが自分
ではないか、と恐れ、天皇を弑逆することを計画するに至る。崇峻天皇が実際
には誰を念頭にしてこの言葉を口にしたのか、またこれが事実なのかどうかさ
え一切わからないが、蘇我馬子が計画を実行したのはこの一ヶ月後の十一月三
日のことであった。
(日本書紀)
[1707] 仲哀九年(200)十月三日 2005-10-02 (Sun) 神功皇后、新羅征討に出発。
神託を拒絶したため熊襲(くまそ)征討に失敗、敵の矢に当たって仲哀天皇
が戦死された後、残された皇后(神功皇后)は事態の原因となった神託を改め
て問うた。すると、神託を下したのは撞賢木厳之御魂天疎向津姫命(つきさか
きいつのみたまあまざかるむかつひめのみこと、天照大神)や住吉三神などで
あったことが判明した。そこで神託に従ってその神々を祀り、熊襲を討ったと
ころあっけなく鎮圧に成功した。そして九州の制圧に成功する。
そしてこの日、皇后は和珥津(わにつ、対馬北端の鰐浦)から出航したとこ
ろ、風浪に乗ってたちまちのうちに新羅に到着した。その浪は津波となって陸
を浸したため、新羅王(しらぎのこにきし)波沙寐錦(はさむきむ、新羅第五
代婆娑尼師今)は驚愕しているところへ日本軍が来襲したため、王はすっかり
戦意を失い、白旗を掲げて降伏してしまった。皇后は降伏した者を殺すのはよ
くない、として王を許し、代わりにその子微叱己知(みしこち)を人質とし、
財宝を八十艘の船に載せてもたらした。それ以降新羅は八十艘の船で朝貢する
ことを恒例としたという。新羅の降伏を知った百済(くだら)、高句麗(こう
くり)も降り、三韓征伐は刃に血塗らずして成功した。なお、微叱己知は五年
後に葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)をだまし、新羅への脱出に成功する。
この年の実年代は栗原薫氏の半年を一年とする修正紀年によれば西紀331
年となる。高句麗好太王碑には辛卯年(391)以前に倭国が新羅を臣民とし
た記述があり、また人質派遣の記事は朝鮮側の史書の三国史記・三国遺事にも
記録されている。またこの時の新羅王の誓約は奈良時代に至っても日本側が新
羅に対する国書などでしばしば言及しており、それなりの事実があったらしい。
(日本書紀)
[1706] 朱鳥元年(686)十月二日 2005-10-02 (Sun) 大津皇子、謀反の容疑で捕らえられる。
天武天皇の諸皇子のうち、大田皇女(おおたのひめみこ、天智皇女)の子の
大津皇子は力量・人望が傑出しており、平凡な人物であったらしい皇太子草壁
皇子と好対照であった。天武天皇も草壁皇子を皇太子と定めながらも恐らくそ
の才能に飽き足らなかったのか、天武十二年(683)二月一日には大津皇子
をも朝政に参加させた。「日本書紀」や「懐風藻」が評伝で大津皇子を激賞し、
また「万葉集」にも彼に関する多くの歌が伝えられていることからも、広く人
々に支持される人物であったらしい。しかし、これが皇后(持統)を恐れさせ
ることになる。本来皇后に立つべき立場であった大津の母、大田皇女が早く亡
くなったため皇后に立ったのはその妹の菟野皇女(うののひめみこ)であった
が、彼女にとっては大津は夫の子であり姉の遺児である以前にわが子草壁の地
位を脅かす敵であった。そしてこの年九月九日に天武天皇が崩御されると大津
は二十四日、唐突に謀反を計画し、この日には発覚・逮捕され、そして翌日訳
語田(おさだ)の家で死を賜ったという。妃(みめ)山辺皇女も殉死した。
あまりにも唐突な経過、謀反の兵力動員計画の欠如、逮捕から賜死までの手
際のよさ、そして逮捕された三十余人のほとんどは十月末には無罪放免されて
いることなどから考えて、この事件は皇后(持統天皇)の陰謀であることは間
違いないであろう。享年二十四歳。彼の辞世の歌が「万葉集」に、漢詩が「懐
風藻」にそれぞれ残されている。
百伝(ももづた)ふ 磐余(いわれ)の池に 鳴く鴨を
今日のみ見てや 雲隠(くもがく)りなむ (万葉集巻三・416)
(日本書紀)
[1705] 垂仁五年(紀元前25)十月一日 2005-10-01 (Sat) 皇后、天皇暗殺に失敗し、狭穂彦王の謀反発覚。
垂仁天皇の皇后狭穂姫(さほびめ)の同母兄狭穂彦王(さほびこのみこ)は
この前年九月二十三日に皇后を訪ね、夫の垂仁天皇とこの兄とではどちらが大
切か、と訊ねた。その底意を知らぬ皇后は兄が大切だ、と答えたところ、狭穂
彦王は寵愛など一時のものでありいつまでも期待できない、いっそこの兄が皇
位に立って君臨すればいつまでも枕を高くして過ごせる、だから兄のために天
皇を弑せよ、と言って匕首(あいくち)を授けた。皇后は驚いたが今更兄が翻
意するべくもないため、その匕首を衣の中に忍ばせたまま時ばかりが流れた。
この日、天皇は来米(くめ、橿原市久米町)に行幸され、高殿で皇后の膝枕
で昼寝されていた。皇后は今日まで兄の命令を実行できなかったが今こそ兄の
期待している機会だ、と考えると涙があふれて天皇の顔の上に落ちた。それで
天皇は目を覚まされて、悪夢を見たことを語られた。それは錦色の小蛇が天皇
の頸にまつわりついたかと思うと、今度は狭穂の方から大雨が降って顔を濡ら
す夢だ、という。遂に皇后は一切を白状した。そのため、天皇は近在の兵を集
め、上毛野(かみつけの)氏の祖先の八綱田(やつなた)に狭穂彦を討たせた。
狭穂彦は稲城(いなぎ、稲藁を積み上げた城)を構えてこれを防ぎ、月がかわ
っても降伏しなかった。この時、皇后はなおも兄を慕い、その子誉津別命(ほ
むつわけのみこと)を伴い兄の城に入って兄の助命を期した。しかし、許され
るはずもなく、増強された攻撃軍は城に火を放って攻め立てた。すると皇后は
その子を伴い一度は城を出て自分の後の皇后について推薦をし、誉津別命を託
した上で兄と共に炎の中に消えていった。
(日本書紀)
[1704] 和銅元年(708)九月三十日 2005-09-29 (Thu) 造平城京司任命。
持統八年(694)に遷都された藤原京は日本で最初の本格的な都城であっ
た。これより先の白雉二年(651)に遷都された孝徳天皇の難波長柄豊碕宮
(なにわのながらのとよさきのみや)も京を伴っていた可能性はあるが詳細は
明らかではない。いずれにせよ、藤原京は明日香の地に営まれた宮都の総決算
ともいうべき大規模なもので、最近の発掘成果からその領域は平城京をも凌ぐ
雄大なものであったようである。ただ、一つ問題があるとすれば京の中心であ
るべき藤原宮が唐の長安城などとは異なり、京域の北部中央ではなく中央部の
北に位置していたことであった。従来の手狭であったため、という考えが予想
を遙かに越えて巨大であった京域が確認されたことで否定された結果、恐らく
この唐の都城との相違が理由となって僅か十数年で放棄されてしまう、という
短命の都に終わった原因と考えられている。
この日、阿倍宿奈麻呂(あべのすくなまろ)、多治比池守(たじひのいけも
り)の二人を造平城京司長官に、中臣人足(なかとみのひとたり)、小野広人
(おののひろひと)、小野馬養(おののうまかい)の三人を次官、坂上忍熊
(さかのうえのおしくま)を大匠(おおだくみ、技術上の責任者)、以下判官
(はんがん、三等官)七人、主典(さかん、四等官)四人、といった造平城京
司(ぞうへいぜいけいし、平城京建設を行う役所)の官僚を任命した。これに
よっていよいよ平城京の建設が開始されることになり、十月二日には平城京を
造営・遷都する旨を伊勢神宮に報告した。十二月五日には平城宮の地鎮祭が実
施され、そして和銅三年三月十日には遷都されることとなる。
(続日本紀)
[1703] 天平十八年(746)九月二十九日 2005-09-28 (Wed) 恭仁京大極殿を山背国分寺に施入。
藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱による聖武天皇の東国巡幸をきっかけ
に天平十二年十二月に平城京から遷都された大養徳恭仁大宮(やまとのくにの
おおみや)。この時の東国巡幸も意図は謎であり、また恭仁京遷都の意味も必
ずしも明らかではないが、確かなことは恭仁京遷都が当時の政界の中心にあっ
た橘諸兄(たちばなのもろえ)の主導のもとに行われた、ということである。
しかし、当初は平城京の官人たちを強制的に恭仁京に移住させるなどしてま
で恭仁遷都を強硬に推進したものの、やがて紆余曲折を経て紫香楽、難波と遷
都が繰り返された挙げ句に天平十七年五月には都は平城京に戻される。そして
その年の暮れには恭仁宮にあった武器類が平城宮に移されたことは実質的に恭
仁京に再びもどる可能性を否定したものではあったが、それでも宮自体は残さ
れていた。
この日、その恭仁宮の大極殿(政庁の正殿)は山背国(やましろのくに、京
都府南部、平安遷都に伴い「山城」と改称)の国分寺の金堂として寄進された。
言葉を換えれば恭仁宮そのものが山背国分寺として改築されたことになる。既
に官人や市人などの住民は恭仁京を離れており、京としての生命は終えていた
が、これによって宮としても消滅、その短い生命を終えた。なお、この大極殿
はもともとは平城京の第一次大極殿をその回廊や朱雀門などとともに移築した
ものであった。
恭仁京大極殿、即ち山背国分僧寺金堂跡は京都府相楽郡加茂町の恭仁小学校
北にあり、土壇と礎石が残されている。
(続日本紀)
[1702] 斉衡二年(855)九月二十八日 2005-09-27 (Tue) 東大寺大仏の破損状況についての報告。
この年、四月二日及び五月十日に地震があった。その影響であろう、五月二
十三日に東大寺大仏の頭部が転落する、という事件があった。何と言っても大
仏は国家の象徴であるため、事態を重視した朝廷は使者を派遣し、大仏の被害
状況を調査させた。そしてこの日結果報告があったが、それはほとんど新造に
近い大修理が必要、という衝撃的な内容であった。事実、その修理の完了は六
年後の貞観三年(861)のことであった。
但し当たり前の話かも知れないがこの段階では大仏を修理するだけの鋳造技
術を保持していたことも注意したい。皇朝十二銭と呼ばれる銭貨が後になるほ
ど品質が悪化していることに示されるように日本の鋳造技術は急速に衰退して
いった。これは寄木造の技法が完成されたことにより仏像の主流が木像になっ
ていったこと、専門技術集団であった雑戸(ざっこ)が次第に賤民身分から解
放されて一般の公民になり、逆に技術者集団が消滅していったことなどが原因
として挙げられよう。後に治承四年(1180)平重衡(たいらのしげひら)
による兵火によって大仏が焼かれて大破したときには既に自力で修復するだけ
の技術力がなく、陳和卿(ちんなけい)らによる宋の技術を導入することによ
り漸く実現させている。
なお、周知の通り大仏はその後更に永禄十年(1567)松永久秀による焼
き討ちによって再び大破してしまったため、天平の原型はほとんど失われてし
まった。当初の姿は僅かにその蓮弁などと「信貴山縁起絵巻」に描かれた絵画
資料によってうかがわれるのみとなっている。
(文徳実録)
[1701] 崇神十年(紀元前88)九月二十七日 2005-09-26 (Mon) 大彦命の聞いた童謡により倭迹迹日百襲姫、武埴安王の叛乱を知る。
この年七月二十四日に出された四道将軍発遣の詔により、九月九日に大彦命
(おおびこのみこと、崇神伯父)が北陸道、武渟川別(たけぬなかわわけ)が
東海道、吉備津彦(きびつひこ)が山陽道、丹波道主(たぬはのみちぬし)が
丹波に、それぞれ派遣された。そしてこの日大彦命が和珥坂(わにのさか、天
理市北端)に到ったところ、一人の少女が「御間城入彦(みまきいりびこ、崇
神)はや 己(おの)が命(を)を 弑(し)せむと 窃(ぬす)まく知らに
姫遊(ひめなそ)びすも」という歌を歌った。不思議に思い少女にどういう
意味か、と聞いたところ少女は何も言っていない、ただ歌っただけだ、と言い、
もう一度先の歌を歌うとたちまち姿が見えなくなってしまった。不審に思った
大彦は戻ってその有様を奏上した。すると、これを聞いた天皇の叔母(正確に
は祖父の妹)の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそびめのみこと)はこの
歌が武埴安彦(たけはにやすびこ、崇神の大叔父)の予兆であることを悟り、
これを天皇に伝えた。直ちに将軍たちは召還され、間もなくその妻吾田媛(あ
たひめ)と共に攻めてきた武埴安彦を迎撃、ついにこれを滅ぼした。
この後、倭迹迹日百襲姫は三輪山の大物主神(おおものぬしのかみ)の妻と
なったが夜しか現れないのを恨み、日中に逢うことを請うた。神は明朝に櫛笥
(くしげ、櫛箱)に入っていると言ったがそこにいたのは白蛇であった。姫が
驚いたのを恥をかかされたと怒った神はお前にも恥をかかせてやる、と告げて
去った。後悔して座り込んだ姫はその時に箸で陰部を突いて薨じてしまった。
彼女を葬るため築かれた箸墓古墳は日(ひる)は人が、夜は神が造ったという。
(日本書紀)
[1700] 天応元年(781)九月二十六日 2005-09-26 (Mon) 征東副使大伴益立の罪を責め位階を奪う。
陸奥国府多賀城を焼いた伊治呰麻呂(これはりのあざまろ)の反乱の鎮圧の
ため征東副使に任ぜられた大伴益立(おおとものましたて)であったが、積極
策を取らず、戦闘の時期を逸していたずらに兵糧を費やした、と糾弾され、こ
の日その官位を剥奪された。
しかし現地の状況は複雑であり、必ずしも積極策が良い結果をもたらすとは
限らず、強硬策を採らなかった彼の方針は恐らく現地の実情に即したものであ
ったと思われる。現にかつて多賀城を築いた大野東人(おおののあずまひと)
や、この事件の後征東将軍に任ぜられた大伴家持(おおとものやかもち)、或
いは有名な征夷大将軍坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)でさえも必ず
しも積極策を採っていない。性急に成果を求める桓武天皇ら中央の人々と異な
り、彼らは現地の実状をもとに共存共栄の道を探ったらしい。長年律令政府を
苦しめた蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)が投降したとき、田村麻呂がその助
命に奔走したのも正しくその意図に基づくものであったが、彼の主張は都の人
々の理解を得られず、結局阿弖流為は処刑されてしまった。
けれどこの時益立にとって不幸であったのは彼の上官の征東大使として赴任
してきたのが藤原小黒麻呂(ふじわらのおぐろまろ)であったという点にある。
この日の処分は小黒麻呂らが蝦夷(えみし)征討の実績があがらない責任を益
立一人になすりつけた結果である可能性が高い。益立の子野継(のつぎ)はそ
の後必死になって父の冤罪を上書して訴えた。彼の訴えが認められ、益立の汚
名がそそがれたのは半世紀以上後の承和四年(837)のことであった。
(続日本紀)
[1699] 神護景雲三年(769)九月二十五日 2005-09-24 (Sat) 輔治能清麻呂及びその姉法均尼を追放。
輔治能清麻呂(ふじののきよまろ)は和気清麻呂(わけのきよまろ)のこと。
宇佐神宮の八幡大神が「道鏡をして皇位に即(つ)かしめば、天下太平ならむ」
という神託を下した、という報告が大宰主神(だいさいのかむつかさ、大宰府
の神祇祭祀の責任者)中臣習宜阿曾麻呂(なかとみのすげのあそまろ)からも
たらされた。これはもちろん阿曾麻呂による道鏡への追従であったが道鏡を寵
愛する称徳女帝は狂喜、神託の確認のため腹心の女官である法均尼の弟、清麻
呂を派遣。しかし清麻呂は道鏡の甘言に屈せず、「我が国家(くに)開闢(ひ
ら)けてより以来(このかた)、君臣定まりぬ。臣を以(もち)て君とするこ
とは、未だ有らず。天(あめ)の日嗣(ひつぎ)は必ず皇緒(くわうしよ、皇
室に連なる者)を立てよ。無道の人は早(すみやか)に掃(はら)ひ除くべし
(我が国は建国以来君臣の別が定まっている。臣下の者を天皇に立てるなどと
言うことは今までにないことである。皇位を継ぐ者としては必ず皇族の者を立
てなさい。悪人は早く追放しなさい」と堂々と神託を告げた。
恐らく宇佐神宮の神官たちが伝えた神託は道鏡の望み通りのものであったろ
う。清麻呂はそれを排して自ら神託を得たのだろう。激怒した道鏡と称徳天皇
は神官たちの得た神託と異なるものを伝えた罪により清麻呂に先に与えた和気
の姓を除き、代わりに別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)、法均を還俗させ広
虫売(ひろむしめ)と改名させてそれぞれ大隅(鹿児島県東部)、備後(広島
県東部)に流した。しかし、その一方で神託を改めて問う、ということが何故
か行われなかったのは清麻呂の正論の前に称徳が屈したことを意味しよう。
(続日本紀)
[1698] 推古三十六年(628)九月二十四日 2005-09-23 (Fri) 推古天皇を竹田皇子陵に葬る。
この年三月七日に崩御された推古天皇は、かねて次のような遺詔を残された。
「比年(このごろ)、五穀登(みの)らず。百姓(おおみたから)、大きに飢
う。其れ、朕(わ)が為(ため)に陵(みささぎ)を興(た)てて厚く葬(は
ぶ)ること勿(なか)れ。便(すなは)ち竹田皇子(たけだのみこ)の陵に葬
るべし(近年不作が続いているために五穀が実らず、人々は飢えている。そん
な中で朕のために立派な御陵を造営するために人々を使役するには忍びない。
そのため、私に先だった竹田皇子の陵墓に私を合葬し、簡素に葬って欲しい)」
というその遺詔に従い、この日推古天皇をその子竹田皇子の眠っている墓に合
葬した。かつて並はずれた大きさの巨大古墳が造営されていたのが終息し、や
がて大化の薄葬令を機に古墳が次第に消滅して行くことを象徴するような出来
事であった。
この時に合葬されたのが昨年から発掘されている植山古墳と見られる。発掘
調査の結果は二人の人物が合葬された形跡があるものの、その後棺は移された
らしく、空墓であったことが判明した。そしてこれは文献記録とも符合する。
「日本書紀」には記述されていないものの、「古事記」は推古天皇が後に科長
(しなが)の大陵(おおみささぎ)に改葬されたことを伝えている。これは平
安時代の行政細則集「延喜式」諸陵寮の中に記載されている推古天皇陵が「磯
長山田陵」であることとも一致する。現在この磯長山田陵として宮内庁の管理
下にあるのは山田高塚古墳とも呼ばれる古墳であるが、その規模や形状などか
ら考えてもこの古墳が実際の推古天皇陵に当たることはまず確実と考えられる。
(日本書紀)
[1697] 延暦四年(785)九月二十三日 2005-09-22 (Thu) 藤原種継暗殺事件。
藤原種継(ふじわらのたねつぐ)は桓武天皇の寵臣で長岡京建設の責任者。
この夜、桓武天皇は平城京に行幸されたので彼は長岡宮の留守責任者として夜
も火を灯して工事を督励していたところ、何者かが彼を弓で射た。矢は彼の体
を貫通しており、翌日遂に絶命した。驚愕した桓武天皇は滞在中の平城京から
二十四日直ちに長岡京に向かい、すぐに責任者の探索が行われた。たちまち大
伴継人(おおとものつぐひと)、大伴竹良(おおとものちくら)らが捕らわれ、
犯人として即日処刑された。また首謀者として故大伴家持(おおとものやかも
ち)は官位を剥奪され、その子大伴永主(おおとものながぬし)は隠岐に流さ
れた。彼らの多くは皇太子早良親王の側近であり、事件の黒幕として早良親王
も乙訓寺に幽閉した。親王は無実を訴えて断食、淡路に配流される途中で亡く
なった。しかし桓武天皇はその後崩御される直前まで早良親王の怨霊に悩まさ
れ、早良親王に崇道天皇と天皇号を追贈したり事件の顛末を記した「続日本紀」
から関係記事を削除させるなどして慰霊に努めることとなった。早良親王は後
には祇園感神院(現在の八坂神社)などの御霊信仰の中心となり、また全国に
散在する崇道社、宗道社などももともとは彼を祀ったものである。
この事件は処刑までのあまりの手際の良さ、また首謀者とされた大伴家持は
事件の二十日ほど前に恐らく任地の陸奥国府多賀城(宮城県多賀城市)で亡く
なっており、早良親王も含めて、処刑された人たちに種継を除く積極的理由は
なく、恐らく種継と共に大伴氏、そして大伴氏に支えられる早良親王といった
反藤原勢力を一挙に葬るための藤原氏の陰謀と見られる。
(続日本紀)
[1696] 天平宝字八年(764)九月二十二日 2005-09-21 (Wed) 恵美押勝が改易した官号をもとに戻す。
恵美押勝(えみのおしかつ、藤原仲麻呂)は天平宝字二年(758)八月二
十五日、唐の則天武后などの例にならい、主要な政府機関や役職の名称を唐風
に変更させた。例えば、太政官(だいじょうかん、律令政府の議政機関)は乾
政官(げんじょうかん)に、太政大臣(だいじょうだいじん)は大師、左大臣
は大傅(だいふ)、右大臣は大保(だいほう)、大納言(だいなごん)は御史
大夫(ぎょしだいぶ)、紫微中台(しびちゅうだい、光明皇后の役所)は坤宮
官(こんぐうかん)、中務省(なかつかさしょう、詔勅などの発布を司る)を
信部省、式部省(人事考課などを司る)を文部省、治部省(じぶしょう、貴族
の門閥や僧尼などの統制を司る)を礼部省(らいぶしょう)、民部省(戸籍や
賦役・班田などを司る)を仁部省、兵部省(ひょうぶしょう、武官の人事を司
る)を武部省、刑部省(ぎょうぶしょう、裁判・処罰などを司る)を義部省、
大蔵省を節部省、宮内省を智部省、弾正台(だんじょうだい、警察機関)を糾
政台、図書寮(ずしょりょう、書籍の管理)を内史局、陰陽寮(おんみょうり
ょう、天文・吉凶の管理と暦を司る)を大史局などであり、そのほか武官につ
いてはそのすべてが中衛府(ちゅうえふ)を鎮国衛(ちんこくえ)のようにそ
れぞれ呼称が変更されたりした。これらの変更は例えば太政官でも議政官では
ない少納言(しょうなごん、大・中納言と異なり秘書官)は変更されないなど
仲麻呂の関心があったものに対してのみ、なされたもののようである。
押勝の滅亡により、彼の行った政策は完全否定されて行った。その一環とし
て、この日これらの名称はすべてとどめられ、もとに戻された。
(続日本紀)
[1695] 皇極元年(642)九月二十一日 2005-09-20 (Tue) 越の蝦夷数千、帰順。
蝦夷(えみし)は主に現在の東北地方に居住していた人々を指す。この蝦夷
がそれらの地方に住み着いた日本人なのか、それともアイヌ人なのかについて
は古来議論が尽きないが、恐らくは民族の差異などはあまり考慮せずにこれら
の地方に住む人々を一括して蝦夷と呼んだものであろう。後世蝦夷のうち日本
人が俘囚と呼ばれることを経てやがて他の日本人と同化していったこと結果、
専ら蝦夷(えぞ)と呼ばれる頃にはアイヌ人を専ら示すようになったらしい。
この日、越(こし)の国の辺境に住む蝦夷数千人が大和政権に帰順した。こ
の場合の越(こし)は今日の北陸地方全域で、北陸全体が一つの国であった。
越はその後天武天皇の頃に越前、越中、越後に分割されたが、このうち越後は
当初は今の新潟県の中部とそれ以北(山形県地域を含む)がその領域であった。
その越後地域はもともと蝦夷の領域であったらしく、大化三年(647)に
は渟足柵(ぬたりのき、新潟県三島郡和島村の八幡林遺跡?)、翌年には磐舟
柵(いわふねのき、新潟県村上市?)が設置されている。そして斉明四年(6
58)からは越国守(こしのくにのかみ)阿倍引田比羅夫(あへのひけたのひ
らぶ)による粛慎(みしはせ、満州地域を本拠とする部族?)や蝦夷の征討が
開始されるが、それはこれら帰順した蝦夷(俘囚)と服属しない蝦夷との争い
への介入がその端緒にあったのかも知れない。
越後にはその後越中の一部(新潟県南部)が編入されたが、一方でその北部
は和銅五年(712)に出羽国として分離された。結果として越後は佐渡とあ
わせて現在の新潟県の領域となる。
(日本書紀)
[1694] 天平宝字八年(764)九月二十日 2005-09-19 (Mon) 討賊将軍凱旋。道鏡法師、大臣禅師に任ぜらる。
専権をふるった恵美押勝(えみのおしかつ)は孝謙上皇と対立するに及んで
クーデターを計画。しかし密告により計画が漏れ、駅鈴や内印の確保にも失敗
すると、自分の勢力を扶植しておいた近江に逃亡、その子を国守にしておいた
美濃に逃れて東国の兵を確保して反攻を企んだ。しかし変を知った近江造池使
の淡海三船(おうみのみふね)は人夫を武装させて先回り、勢多橋を確保して
これを焼き落とした。このため湖東に渡ることが出来なかった押勝はやむなく
琵琶湖西岸を経て越前を目指した。彼はこの日あるを予期して美濃だけでなく
越前にも自分の子を国司として赴任させており、これらを拠点として捲土重来
を期していたのであった。けれど吉備真備(きびのまきび)に指揮された上皇
方の動きは早く、越前守の恵美辛加知(えみのからかち)は斬られ、越前に通
じる愛発関(あらちのせき)は閉鎖されていた。持ち出した太政官印を用いて
太政官符(太政官の命令書)を発行しても既に「太政官符は無効」という布告
が出されており、効果がない。やむなく湖上に逃れても天ももはや彼に味方せ
ず、強風に吹き戻されてしまい、追いつめられた挙げ句に九月十八日、押勝は
上皇方の兵士石村石楯(いわれのいわたて)に斬られた。
そうして追討に当たった藤原蔵下麻呂(くらじまろ)らはこの日平城京に凱
旋。恵美押勝の暗黒政治に苦しんでいた人々はやっと悪夢が終わったことに安
堵した・・・はずだった。
しかし、孝謙上皇はこの日自分の寵愛する僧・道鏡を大臣禅師(大臣待遇の
僧)とすることを告げた。新たな悪夢の始まりであった。
(続日本紀)
[1693] 皇極元年(642)九月十九日 2005-09-19 (Mon) 飛鳥板蓋宮造営の詔。
舒明天皇の崩御後、順当に行けば皇位が回って来るのは山背大兄王(やまし
ろのおおえのみこ、聖徳太子の子)であった。しかし、舒明天皇即位の時のよ
うな混乱も見られないまま今度も山背大兄が即位することはなく、推古天皇に
次ぐ二人目の女帝として舒明天皇の皇后宝皇女(たからのひめみこ)が即位さ
れた。皇極天皇である。皇極天皇は当初は夫の舒明天皇のいた飛鳥岡本宮にあ
ったが、この日大臣(おおおみ)蘇我蝦夷(そがのえみし)に、今月から起工
し十二月までに新しい宮殿を築くことを命じた。その人夫は東は遠江(静岡県
西部)、西は安芸(広島県西部)までの地域から徴発された。これが後の飛鳥
板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)であり、場所としては岡本宮や後の飛鳥浄
御原(きよみはら)宮と同じ地にあったと考えられている。名前だけが変更さ
れたのではなく、この頃までは皇居は一代限りであったため、伊勢神宮の御遷
宮に見られるようにもとの宮と隣接した場所に新たな宮を造営してそれに新し
い名称を付したものであろう。但し、皇極自身は「後の飛鳥の岡本宮」の天皇、
と呼ばれており、飛鳥板蓋宮はこの名でも呼ばれていたのかも知れない。
結局飛鳥板蓋宮は十二月には完成しなかったのか、この年十二月二十一日に
皇極は小墾田宮(おはりたのみや、もとの推古天皇の宮)に移られ、翌年四月
二十八日に飛鳥板蓋宮に移られた。なおこの少し前、九月三日には百済大寺
(くだらのおおてら)建立を近江(滋賀県)と北陸の人夫により行うことを命
じており、同時に並行しての宮と寺の造営は土木工事を好まれたという女帝の
面目躍如たるものがある。
(日本書紀)
[1692] 和銅四年(711)九月十八日 2005-09-18 (Sun) 元明天皇、太安万侶に古事記撰述を命ず。
これより先、天武天皇は諸家に伝えられる歴史が真実を伝えず、虚偽を加え
ている、としてこれを整理して正史を撰述することを命じられた。日本書紀が
天武十年(681)三月に川島皇子以下に命じて帝紀と上古の諸事を記し定め
させた、と伝える記事がこれであろう。このため、舎人(とねり、侍従)であ
った稗田阿礼(ひえだのあれ)という二十八歳の青年に「帝紀日継(すめろき
のひつぎ)」と「先代旧辞(さきつよのふること)」の暗唱が命じられた。し
かし、運命が移り世が異なって修史事業は頓挫したままになっていた。(但し、
先の日本書紀の記事には稗田阿礼も太安万侶もその名は記されていない。)
このことを惜しまれた元明天皇はこの日、太安万侶(おおのやすまろ)に対
して「稗田阿礼が誦(よ)める勅語(みことのり)の旧辞(ふること)を撰
(えら)ひ録(しる)して献上(たてまつ)れ」と命じられた。ここに安万侶
によって「古事記」の撰述が開始された。
しかし、その作業は大変な困難が伴った。まだ仮名文字のなかった日本で漢
字のみによって日本語を伝える、ということは困難を極めたのである。しかし、
安万侶はある時は漢文で、ある時は漢字を表音文字として、さらに注を交える
などの工夫を重ね、天地開闢から推古天皇までの歴史を「古事記」三巻にまと
めて翌和銅五年正月二十八日に元明天皇に献上した。
そのため、古事記は正史の形態にはこだわらず、歌謡などを積極的に取り入
れるなど独特な形式の歴史書となった。結果的に最も古い日本語の資料となっ
ており、「万葉集」の時代には既に消滅した発音なども見られる。
(古事記・序)
[1691] 天平十七年(745)九月十七日 2005-09-16 (Fri) 聖武天皇、重病に陥る。
聖武天皇はこの年正月を紫香楽宮(しがらきのみや、滋賀県甲賀郡信楽町)
で迎えられた。遷都の宣言こそなかったがこの時点で既に紫香楽は皇都とされ
ていたのだが、宮室が未完成のため朝賀の儀式は実施されなかった。平城京か
ら恭仁京への遷都に続き、今度は紫香楽、とめまぐるしく遷都が繰り返された
のだが、さすがに人々の拒否反応が出てきたらしく、この年四月からは紫香楽
周辺の山で放火と見られる火災が相次ぎ、更に地震も頻発するに及びとうとう
恭仁を経て五月十一日、平城京に還幸される。
しかし、聖武はそれでもなお落ち着くことなく八月二十八日には今度は難波
宮へ行幸される。そしてその難波宮で発病されたらしい。病名は不明だが、十
五日に三年間の殺生禁断が命ぜられたのに続き、この日には自らが病であるこ
とを発表、そのために大赦を発令した。しかしそれでも病状は好転しなかった
らしく、十九日にはとうとう覚悟されたのか、主要皇族全員を難波宮に召集し
たばかりか平城京にあった駅鈴や天皇印を難波宮に運ばせ、平城・恭仁の宮を
厳重に警備させた。一方では賀茂・松尾などの神社への奉幣、畿内の諸寺での
法要とあわせて鷹狩り・鵜飼いの鷹や鵜を放たせ、また三千八百人という多く
の出家を認めるなど必死の祈りが続けられた。その甲斐があったのかこの月の
下旬には漸く病状は好転したらしく、二十五日には難波宮を後にして平城京へ
還幸された。そしてここに漸く藤原広嗣の乱以来の放浪に終止符が打たれ、平
城京が再び都となることにつながって行った。この年十二月十五日、恭仁宮の
武器を平城京に運ばせたことは恭仁京の放棄を意味するものであった。
(続日本紀)
[1690] 延暦十年(791)九月十六日 2005-09-16 (Fri) 平城宮の諸門を長岡宮に移建。
延暦三年、長岡京に遷都された後も新京の建設はなかなか進まなかった。工
事を急ぐため、この日、越前、丹波、但馬、播磨、美作、備前、阿波、伊予と
いった畿内周辺の国に命じて、平城宮の諸門を解体し、長岡宮に移築せしめた。
もともと長岡宮は平城宮の遷都先、というよりは副都であった難波宮の代わ
り、ということで建設されたようである。現に政府の中心施設である朝堂院な
どは難波宮と同一であり、これらの施設が難波宮から移建されたことを物語っ
ている。もちろん、淀川の水運を利用できることも移築の重要な要件ではあっ
ただろうが、財政的見地からも遷都は容易な事業ではなかった。また遷都に反
対する勢力が存在したことは造営の責任者であった藤原種継(ふじわらのたね
つぐ)が暗殺されたことでも明らかである。この暗殺事件に対する桓武天皇の
怒りは事件そのものが桓武自身への批判であることを強く感じ取ったからでも
あろう。しかし、責任者の死は造営事業そのものをますます停滞させてしまう。
この段階で既に長岡遷都から七年を経ており、それでも門も整っていない状況
はいかにこの遷都事業が困難なものであったかをも物語っていよう。藤原京以
来の相次ぐ造都・造寺事業の数々は財政だけではなく、畿内各地を覆っていた
森林資源を枯渇させるに至っていたものであろう。
この日の措置はそれでも長岡京造営を強行すると共にもう平城京に都を戻す
ことはない、という明確な意思表示でもあった。しかし、一年五ヶ月後の十二
年一月十五日には新京の地が調査され、十三年十月二十二日にはその平安京へ
の遷都が行われ、長岡京も放棄されてしまうのであった。
(続日本紀)
[1689] 慶雲二年(705)九月十五日 2005-09-15 (Thu) 膳広国冥界を経巡る。
膳広国(かしわでのひろくに)は豊前国京都(みやこ)郡(福岡県京都郡)
の郡庁の次官であった。この日突然この世を去ったが、あしかけ三日後の九月
十七日に生き返った。そして冥界での経験を語った。
彼は大人と子供、二人の使者に連れられて大河にかかる橋を渡り、度南(と
なん)の国という所に行った。そこで八人の役人に武器で追い立てられて黄金
の宮殿に行くと、黄金の玉座の上に閻魔(えんま)大王が座っておられた。王
は彼に「今お前を呼びだしたのはお前の妻の訴えによるのだ」と語った。そこ
へ連れられてきた女は確かに死んだ先妻であった。頭のてっぺんから尻に鉄釘
が突き抜け、また額から後頭部にも釘が突き通っている。彼女がかつて自分が
家を追い出されたのを恨んで広国を呼んだのだという。しかし、調べたところ
広国には非はなかった、ということで放免されたが、その時冥界でのことを不
用意に人に語ることを禁じられ、また父親に会いたければ南に行け、と言われ
た。それに従って行くと、確かにその父が三十七本の鉄釘をその身に打ち立て、
灼熱した鉄柱を抱かされていた。父の語るところによると、彼は生活のため生
き物を殺し、暴利をむさぼって商売をし、他人の物を盗み、他人の妻と不倫を
し、親孝行はせず、目上の者を敬わず、他人を侮ったといった罪でこうやって
毎日朝昼晩、三百回ずつ合計九百回、鉄の棒で打たれるのだということであっ
た。そしてこの苦しみを和らげるために仏像を造り写経をすることを頼んだ。
更にさまよっていると子供が一人来て門に導き、「速やかに帰りなさい」と
言った。その子供こそは彼が幼い頃に書写した観音経だったのだという。
(日本霊異記 上・三十)
[1688] 天智七年(668)九月十四日 2005-09-14 (Wed) 高句麗滅亡。
隋(ずい)帝国の総力をあげた四度に及ぶ侵略をしのぎ、ついに遠征に失敗
した隋を内部崩壊させた高句麗であったがその隋を倒した唐もまた高句麗征討
を継続した。この時、高句麗の宰相伊梨柯須弥(いりかすみ、本名の淵蓋蘇文
(えんがいそぶん)の音を写したもの、泉蓋蘇文)は栄留王と不和になったた
め遂に王と重臣たちを謀殺、王の甥の宝蔵王を擁立して自ら全権を掌握、国内
を一つにして唐の侵略に対処。その卓抜した指揮により唐の侵攻を撃退し続け
た。王を弑殺したことから「三国史記」などは蓋蘇文を悪く描いているが彼な
しにこの難局を乗り切ることは難しかったであろう。しかし、その蓋蘇文が天
智三年十月(日本書紀による)に薨ずると彼の三人の子供たちの間に内紛が発
生してしまった。弟男建(だんけん)・男産(だんさん)たちに追われた長男
の男生(だんせい)はあろうことか唐に救援を求めたのである。絶好の機会に
唐は再び大軍を派遣、新羅(しらぎ)も軍を派遣して挟撃した。やがて唐軍は
男生の案内で首都平壌を囲んだ。以前であれば新羅を背後から牽制したはずの
(高句麗とは犬猿の仲であったとは言え)百済(くだら)は既に滅びてしまっ
ており、また同盟関係にあった日本も百済救援軍の壊滅により既に半島から手
を引いている。絶望的状況のもと、遂に高句麗は唐の将軍李勣(りせき)に降
伏するに至った。なお日付には諸説あり、「日本書紀」は天智七年十月、「三
国史記」新羅本紀は文武王八年九月二十一日、同高句麗本紀は宝蔵王二十七年
九月、「旧唐書」は総章元年九月十二日、「唐会要」はここに用いた同九月十
四日とする。(なお、年はいずれも同じ年を指す。)
(三国史記・高句麗本紀、唐会要)
[1687] 安閑二年(535)九月十三日 2005-09-13 (Tue) 難波大隅島と媛島で牛を放牧。
この日安閑天皇は大連(おおむらじ)大伴金村(おおとものかなむら)に命
じて難波の大隅島(おおすみのしま、大阪市東淀川区大隅付近?)と媛島松原
(ひめしまのまつばら、大阪市西淀川区姫島付近?)に牛を放ち、名を後世に
残すことを命じられた。「名を後に垂れむ」というのは恐らくこれが名代(な
しろ、天皇の名などを冠した皇室の私有民)などのように安閑天皇の名前を冠
した朝廷直轄の牧場であったのであろう。そしてこれが恐らく最初の牛を放牧
した牧(まき)の記録であり、牛乳の飲用や蘇(そ)の調製もこの頃から始ま
ったものかも知れない。なお、これら二つの牧は霊亀二年(716)二月二日
に廃止され、その土地を耕作に用いることが許されている。
この安閑紀には屯倉(みやけ、大和朝廷の直轄地)の設定記事が集中して見
られる。二年五月九日の条に二十六箇所の屯倉設置の記事がそれであり、恐ら
くこの頃設置とされるものを一括して記録したものであろう。
またそういった屯倉設置の契機の一つとなった武蔵の国造を巡る争いの記事
が見られるのも安閑朝である。武蔵の国造の地位を巡り笠原使主(かさはらの
おみ)と同族の小杵(おき)が争い、小杵は東国最大の豪族であった上毛野小
熊(かみつけののおくま)の援助を得て使主を殺そうとしたため使主は大和朝
廷に訴え、朝廷の裁定によって使主が国造となり小杵は誅された。使主は小杵
の旧領と見られる横渟(よこぬ、埼玉県吉見町付近)、橘花(たちばな、川崎
市)、多氷(多末か、たま、東京都の多摩地方)、倉樔(倉樹か、くらき、横
浜市東部)の屯倉を献上したという。朝廷の支配力の浸透をも窺わせる。
(日本書紀)
[1686] 大化元年(645)九月十二日 2005-09-12 (Mon) 密告により古人大兄皇子の反乱鎮圧。
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)はもともと蘇我蝦夷(そがのえみ
し)たちによって次期天皇として擁立されようとしていたらしい。しかし、皇
極四年(大化元年)六月十二日の乙巳(いっし)の変で蘇我蝦夷・入鹿(いる
か)が滅亡したことは彼の運命を急転させた。事件の時、私邸に逃げ込み、堅
く門を閉ざした古人大兄はその後軽皇子(かるのみこ、後の孝徳天皇)に即位
を打診された時に固辞、飛鳥寺で出家して吉野に引退された。なお、後に天智
天皇の譲位の打診を辞退し、吉野に引退した大海人皇子(おおあまのみこ、後
の天武天皇)の行動はこの時の古人大兄にならったものであろう。
しかし、その後古人大兄は九月三日には蘇我田口川堀(そがのたぐちのかわ
ほり)・物部朴井椎子(もののべのえのいのしい)・吉備笠垂(きびのかさの
しだる)・朴市秦田来津(えちのはだのたくつ)らと謀反の謀議を巡らせたと
いう。この日になってこのうち吉備笠垂が謀反の計画を中大兄皇子に密告、中
大兄は菟田朴室古(うだのえのむろのふる)・高麗宮知(こまのみやしり)ら
に兵を率いさせて古人大兄を討ったという。なお日本書紀はこのほか十一月三
十日に中大兄が阿倍渠曾倍(あへのこそへ)・佐伯部子麻呂(さえきべのこま
ろ)らに討たせたという異伝も残している。
古人大兄は蘇我氏が擁立しようとした経緯から、大化改新政権にとっては非
常に危険な存在であった。実際に謀反の計画があったかどうかよりともかく討
伐の理由が欲しかったのであろう。なお、古人大兄や中大兄の「大兄」は皇太
子制確立以前の皇位継承候補者の称号と見られる。
(日本書紀)
[1685] 天平宝字八年(764)九月十一日 2005-09-11 (Sun) 恵美押勝の乱勃発、鈴印の争奪。
自分の庇護者であった光明皇太后の崩御後、次第に道教を寵愛する孝謙上皇
との関係が険悪化し、焦りの色を深めていた恵美押勝(えみのおしかつ、藤原
仲麻呂)は、ついに兵を挙げることを計画するに至った。しかし決起すること
の吉凶を相談された陰陽師(おんみょうじ)の大津大浦(おおつのおおうら)
や、彼が密かに公文書を改竄して兵の確保を図っていることを知った大外記
(だいげき、書記官)高丘比良麻呂(たかおかのひらまろ)などが次々に密告
し、その計画は孝謙上皇側の知るところとなった。そこで上皇は先手を打って
少納言(しょうなごん、秘書官)山村王(やまむらのおおきみ)を派遣、淳仁
天皇の御所である中宮院から駅鈴(官馬・宿駅の利用証明)及び内印(天皇印)
を接収させようとした。駅鈴があれば関所も含めて官道の通行は自由となり、
また内印があれば詔勅の作成が可能であるため。これらの確保はそのまま政府
機関を掌握することにつながった。また同時にこの措置は淳仁天皇の全権を剥
奪するものでもあった。これを知った恵美押勝は息子の訓儒麻呂(くずまろ)
を遣わしこれを阻止させようとした。しかし、彼は上皇方の武官、坂上苅田麻
呂(さかのうえのかりたまろ、後の征夷大将軍坂上田村麻呂の父)・牡鹿嶋足
(おしかのしまたり)らにより射殺されたため、今度は腹心の武将谷田部老
(やたべのおゆ)に完全武装させて派遣したが、これも上皇方の紀船守(きの
ふなもり)に射殺され、ついに鈴・印の確保を諦めざるを得なくなった。その
ため、押勝はこれ以前に掌握していた外印(太政官印)を持ってこの夜かねて
から勢力を扶植していた近江に向けて逃走した。
(続日本紀)
[1684] 大同五年(弘仁元年、810)九月十日 2005-09-09 (Fri) 藤原薬子の変。嵯峨天皇、藤原薬子らの追討を命ず。
藤原薬子(ふじわらのくすこ)の変もいよいよ最終段階になった。この日つ
いに嵯峨天皇側は先手を打って鈴鹿・不破・愛発(あらち)の三関(さんげん、
東国へ通じる関所)を閉鎖、先に平城上皇の命により平城宮を改めて造営する
ための造宮使にすると見せかけて派遣していた坂上田村麻呂(さかのうえのた
むらまろ)らを追討軍として編成した。またこの日薬子を解任してその追放を
命じ、また平安京にあった薬子の兄藤原仲成(なかなり)を拘束し、それらを
桓武天皇陵に報告した。仲成は翌日になって処刑される。
翌十一日、これらの措置を知った平城上皇は激怒、東国の兵を動員して平安
京の嵯峨の朝廷を倒そうと遷座された。しかしその行動は嵯峨の予想したとこ
ろであり、進路を田村麻呂に遮られた上皇は既に万事窮したことを知った。遂
に進退窮まった上皇は十二日にはやむなく平城宮に還幸して剃髪、出家された。
もはや逃げ場がなくなった薬子は毒を仰いで自殺し、ここに薬子の変は平安京
の嵯峨天皇の圧勝のうちにあっけなく幕を閉じ、以後平城上皇は平城宮で静か
に余生を送られた。そして平城京そのものもこれ以降二度と表舞台に登場する
ことはなく、平城宮の地は上皇の崩御後にその子で薬子の変によって皇太子を
廃された高岳(たかおか)親王(出家されて真如法親王)に与えられた。
以上のように薬子の変については事件は終始薬子の主導によってなされたよ
うに記録されているが恐らくはこれも兄を悪者にしないための嵯峨天皇の思い
やりであり、実際にはこれらの行動には終始平城上皇自身の意志があったこと
は間違いないであろう。
(日本後紀)
[1683] 朱鳥元年(686)九月九日 2005-09-08 (Thu) 天武天皇崩御。皇后臨朝称制。
かねてご不予(ご病気)であられた天武天皇はこの日飛鳥浄御原(あすかの
きよみはら)宮の正宮(皇居)で崩御された。壬申の乱に大友皇子を倒して即
位、中央集権による古代律令国家の完成を目指して十四年、業半ばにしての崩
御であった。宝算については日本書紀以下記載はない。
五月二十四日に発病(病名不明)されて以降、諸寺に読経・燃灯供養(多数
の灯火をともしての法要)などを行い、広く大赦を実施し、税の減免を行い、
飛鳥の四つの神社(飛鳥坐神社、飛鳥山口坐神社、飛鳥川上坐宇須多伎比売神
社、加夜奈留美命神社の四社か)や紀伊の国懸(くにかかす)神社(和歌山市
の日前国懸(ひのくまくにかかす)神宮)、摂津の住吉大社(大阪市住吉区)
を始め土佐坐(とさにいます)神社(高知市)などの神社に奉幣したが効果な
く、また占いによるとその病は草薙剣(くさなぎのつるぎ、三種神器の一)の
祟(たた)りと出たので天智七年(668)、新羅僧に盗まれたがそれを取り
押さえて以来宮中にあった草薙剣を急いで熱田神宮(名古屋市熱田区)に返し
たりしたが、結局、各地に火災の頻発する不気味な情勢の中、この日ついに崩
御された。直ちに皇后(持統天皇)が臨朝称制(臨時に政権を掌握)された。
天皇崩御後一時的に皇后が大権を代行するのはこれ以前からの伝統に基づく。
崩御の後、最初に壬生(みぶ、皇族の養育に関する役職)についての誄(し
のひこと、弔辞)を奉った人物が大海蒭蒲(おおしあまのあらかま)という人
であることから、天武天皇(大海人皇子)の養育に当たったのがこの大海氏で
あったことがわかる。蒭蒲は恐らくは乳母子(めのとご)であろう。
(日本書紀)
[1682] 天平十三年(741)九月八日 2005-09-07 (Wed) 恭仁京遷都を正式に宣言。
天平十二年十月二十九日、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱を契機に東
国行幸を開始された聖武天皇は伊賀を経て伊勢に至り、関宮(三重県一志郡白
山町川口)の行宮で広嗣らの斬殺によって乱が鎮圧されたことを聞かれた。し
かし、それでも行幸は続けられ美濃を経て近江に入られた。そこで先発した右
大臣橘諸兄(たちばなのもろえ)は山背(やましろ)の恭仁(京都府相楽郡加
茂町)に入り、ここに都を遷す準備を行った。この地にはもともと甕原離宮
(みかのはらのとつみや)が設置されていたが、今度はここに本格的な都城を
建設しようとしたのである。そして十二月十五日、いよいよ聖武天皇が行幸、
後に元正上皇と光明皇后も合流された。そして翌天平十三年正月には伊勢神宮
など諸社に遷都を報告、また閏三月には五位以上の官僚の平城京在住を禁止し、
八月末には平城京の東西市(官営市場)を恭仁京に移設するなど着々と実質的
な遷都を行って来た。その上でこの日、遷都を理由に大赦の詔が出された。公
式に遷都を宣言したのはこれが最初。あわせて智努王(ちぬのおおきみ)、巨
勢奈弖麻呂(こせのなでまろ)の二人を造宮卿に任じ、新京建設に当たらせた。
建設を急ぐため、大極殿(正殿)や朱雀門などは平城京より移築された。逆に
言えばこの段階ではこれらの主要建物さえ未完成の状態であった訳で、この年
正月の朝賀の儀式も幔幕で囲っただけの状態で行われた。なお近年平城宮跡に
再建された朱雀門はこの時に恭仁京に移築されて以降平城京には再建されなか
ったらしい。
恭仁京はその後天平十五年末までに造営は停止され、十六年二月、難波宮が
皇都と定められるに及んで都としての短い命を閉じた。
(続日本紀)
[1681] 天智二年(663)九月七日 2005-09-06 (Tue) 再興百済滅亡。
唐・新羅(しらぎ)連合軍によって滅亡した百済はその遺臣鬼室福信(きし
つふくしん)らによる再興運動により一時は各所に唐の駐屯軍を破り、日本に
あった王族の扶余豊璋(ふよほうしょう)を王として迎え、日本から救援の大
軍が派遣されるなどかつて高句麗(こうくり)に王都を奪われ滅亡してから二
度目の復興も目前にあるかに見えた。しかし、恐らく最大の誤算は王として迎
えた豊璋がそういった困難な状況に対処できない暗君であったことであった。
王族とは言え、日本に人質として送られるだけのことはあったのである。彼は
防衛に不利な平地への遷都を行って軍事力を消耗させてから再び奥地の州柔城
(つぬのさし)に遷都、そればかりか再興の英雄福信をも讒言から殺してしま
う。そうして救援の日本軍が白村江(はくすきのえ)で壊滅した後、彼は単身
逃亡して高句麗に亡命してしまった。それ以来州柔城は孤立無援の中、唐・新
羅連合軍の重囲の下にあった。が、この日遂に再興百済政権は唐に降伏した。
降伏を潔しとしない余自信(よじしん)、木素貴子(もくそきし)、谷那晋首
(こくなしんす)、憶礼福留(おくらいふくる)ら旧百済貴族たちに率いられ
た百済の遺民は敗残の日本水軍とともに弖礼城(てれのさし、韓国慶尚南道南
海島か)を経由、二十五日に日本へ亡命するため祖国を後にした。
百済の地はその後唐の直轄領となった。しかし、高句麗も滅亡すると新羅は
やがてその地を蚕食していく。一方で唐に対しては表面上恭順を装い、極端な
唐風政策のもと、やがて自らの姓名さえも民族名を捨てて唐風のものに改めら
れるなど徹底的な「小中華」化政策が行われていった。
(日本書紀)
[1680] 大同五年(弘仁元年、810)九月六日 2005-09-06 (Tue) 平城上皇、平城京への遷都を命じる。
生来病弱であられた平城(へいぜい)天皇は大同四年四月一日に退位され、
弟の神野親王に位を譲られた。嵯峨天皇である。当時は上皇の御所が一定して
いなかったため平城上皇は平安京の中を転々とした後、旧平城宮に御所を建て
ることとなり、側近のものと共に平城宮に遷られた。嵯峨天皇は兄を尊び皇太
子には兄の子高岳(たかおか)親王を立てたほか、兄の希望は何でもかなえる
ようにした。こうして最初のうちは表面上平穏に見えた。
ところで平城上皇は延暦十七年(798)頃に妃としてかつて長岡京造営の
責任者であった藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の孫娘を迎えられた。その時
娘と共に皇太子に近づいたのが藤原薬子(ふじわらのくすこ)であった。その
妃以上に薬子を寵愛する有様を嫌った桓武天皇により彼女は放逐されたが平城
の即位と共に呼び戻され、その寵愛を独占する状態であった。
平城京に遷られた後も上皇のお側には薬子があり、何もかも思い通りになる
状況であった。嵯峨天皇もこれを何とかしたいと思いながらも兄への遠慮から
結局はなすがままになっていた。まるで平城上皇のいる平城京と嵯峨天皇のい
る平安京の二箇所に朝廷がある状態であった。
そうして薬子の野望はいよいよとどまることなく、彼女の勧めによって平城
上皇は父の開いた平安京から平城京へ再び遷都することを命ずるに至った。こ
こに至って嵯峨天皇も遂に覚悟を決め、平城京を再び造営するため、と称して
坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)らに「人夫」を与えて派遣した。藤
原薬子の乱の勃発であった。
(日本後紀)
[1679] 仲哀八年(199)九月五日 2005-09-04 (Sun) 熊襲征討を議す、新羅征討の神託。
仲哀二年三月、熊襲(くまそ、現在の鹿児島県周辺に居住した土着民)が反
乱を起こした。そこでその征討のため天皇は角鹿(つぬが、福井県敦賀市)に
あった皇后(神功皇后)を呼び寄せて八年一月四日、筑紫に行幸され、橿日宮
(かしひのみや、福岡市東区香椎、その跡に香椎宮(神社)が創建される)に
滞在された。そしてこの日、熊襲征討のための軍議を行った。ところがこの時、
皇后が神懸かりして神託を告げた。「天皇よ。どうして熊襲が帰順しないこと
を憂えるのか。熊襲など膂宍(そしし)の空国(むなくに、動物の背中のよう
に肉の少ない不毛の地)ではないか。兵を挙げて討つにも値しない地である。
この国より優れて宝のある国、譬えて言えば処女(おとめ)の眉引(まよびき、
眉墨で描いた眉)のような向かいの国がある。目にもまばゆい金・銀や美しい
宝がその国には多くある。これを栲衾(たくぶすま、枕詞)新羅(しらぎ)の
国という。もし私を丁重に祀ってくれれば全く刃を血塗らずにその国を従わせ
ることが出来よう。また熊襲も服従するだろう」と。しかし、天皇はこれを疑
い、高い岳に登って遙か彼方を見やったが海原が続くばかりで国など見えない。
そこで神に「見てみたが海のみあって国などない。空の上に国があるというの
か。それに皇室では代々天神地祇をことごとく祀ってきた。祭祀に漏れている
神などおりますまい」とお答えした。神は再び神託を下して「何故私が見下ろ
して見ている国をない、などと言って信じないのか。それではその国を得るこ
とは出来ない。が、皇后の腹にある子がその国を得ることはあるだろう」と。
そして神託を無視した天皇は熊襲征討に失敗。戦死されたともいう。
(日本書紀)
[1678] 持統五年(691)九月四日 2005-09-04 (Sun) 音博士に銀を賜う。
推古朝以来、大陸との直接交渉を再開した日本であったが、通訳の問題は大
きな課題であったらしい。文書外交は基本的には帰化人が担当してはいたが、
彼らも帰化してから世代を重ねており、その翻訳技術には問題が生じていたら
しい。現に聖徳太子が遣隋使に託したとされる「日出づる処の天子、書を日没
する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」という国書は対等を目指したと
いうその姿勢以前に当時の外交文書の形式をなしておらず、煬帝(ようだい)
を怒らせたのも無理ないところであった。
この状態は大化改新を経て律令国家を建設しようとする段階になってもあま
り変わらなかったらしい。そんな時に発生したのが百済救援戦争である。鬼室
福信(きしつふくしん)らは百済再興のための戦闘で得た唐の捕虜を日本へ救
援を求めた際に献上したのである。そうした一人として斉明七年(661)十
一月に続守言(しょくしゅげん)が来日した。来日の時期についての記録はな
いが薩弘格(さつこうかく)も恐らく同じ頃に来日したのであろう。唐の本土
から来日したこの二人の文人はやがて音博士(おんはかせ、外国語教授)に任
ぜられた。その文才を買われて唐音を教える博士として重用されたのである。
この日、この二人に銀が下賜されたのもその一つで、二人は律令の撰定や日本
書紀の述作に従事したらしい。
彼らが帰国を望んだかどうかは明らかではないが、希望すればその機会はあ
ったであろう。恐らく遠い異国の地へ兵士として動員する祖国より自分の文才
を最大限評価してくれる国で国家建設の一翼を担う方を選んだのであったろう。
(日本書紀)
[1677] 天平十二年(740)九月三日 2005-09-03 (Sat) 藤原広嗣征討軍派遣。
この年八月二十九日に大宰少弐(だざいのしょうに)藤原広嗣(ふじわらの
ひろつぐ)が吉備真備(きびのまきび)らの排除を求めて上表するとともに大
宰府管内の兵力に動員をかけたことを知った政府の対応は素早かった。この日、
大野東人(おおののあずまひと)を大将軍、紀飯麻呂(きのいいまろ)を副将
軍に任じ、東海・東山・山陰・山陽・南海の五道の兵一万七千を集めて率いさ
せた。北陸道が抜けていることから恐らく東国は伊賀・伊勢・近江程度で後は
途中で西国の兵を合流させながら進んだものであろう。また、翌四日には服属
儀礼のために京にいた隼人(はやと、薩摩・大隅方面に居住していた土着民)
二十四人に位を与えて派遣している。広嗣の軍の中核に隼人の部隊があったた
め、これへの説得・通訳を期待されたものであろう。さらに二十一日には帰国
した遣新羅使が長門にあったことを知り、東人に対して船の荷物を国府に収め、
遣新羅使の中でこれはという人物は将軍として取り立てるように命じている。
空になった船は軍船として使用したのであろう。東人は二十四日の報告で豊前
(福岡県西部)方面の敵を破り多数の捕虜を得たことを告げており、更に二十
五日には広嗣軍が続々と投降してきたことを報じている。十月九日の報告では
板櫃川での対陣で広嗣は叛乱の意図はない、と勅使に答弁したが兵を動員した
責任を問われて返答に窮し、この様子を見て広嗣軍はあっけなく崩壊する。
大野東人はそれまで陸奥按察使(むつあぜち)・鎮守将軍として東北地方の
経営に当たり、その過程では必ずしも武力によらず、現地の実状に即した統治
を行っていた能吏であった。
(続日本紀)
[1676] 霊亀元年(715)九月二日 2005-09-01 (Thu) 元明天皇譲位、元正天皇即位。
自らの子草壁皇子の子孫を皇位に、という持統天皇の執念は文武天皇の即位
によって漸く実現した。それを見届けた持統が安心して崩じた五年後、今度は
その文武天皇が二十五歳で崩御された時にかつての持統の役割を果たす立場に
なったのは文武の母(草壁皇子の妃)元明天皇であった。彼女は孫の首親王
(聖武)の成長までの間をつなぐ目的で即位することとなったのである。当時
の皇位継承法からすれば夫が天皇でない者の即位は極めて異例の事態であった
が草壁皇子に天皇号を追号するなどの措置により何とか形を整えた。
しかし、その元明天皇も激務のためにとうとう音を上げてしまった。持統天
皇の信任を背景として専権の色を深めつつあった藤原氏が次第に押さえられな
くなって来ていたこともあったであろう。結局元明はまだ十五歳の聖武への譲
位ではなく、娘(文武の姉)の氷高内親王(元正)に即位を懇願、後事を託さ
れた。二代続けての女帝はこれが最初で最後であり、また未婚の皇女の即位と
言うのは空前のことであった。かつて顕宗・仁賢両天皇の譲り合いの間皇位を
代行された飯豊青皇女(いいどよのあおのひめみこ)はあったが即位はされな
かったとされる(実際には即位していたものと推定され、平安時代から中世に
かけては歴代天皇に数えられていた)。いずれにせよ、元明の段階で例外中の
例外を強行した以上もはや例外は例外でさえなくなっていたのであろうか。
即位された元正天皇は律令国家の基礎を築く重要な役割をよく果たし、譲位
後も橘諸兄(たちばなのもろえ)とともに藤原氏の専横を食い止めるべく奔走
された。また、この日、あわせて和銅八年を改め霊亀元年と改元された。
(続日本紀)
[1675] 仁徳四十三年(355)九月一日 2005-09-01 (Thu) 倶知を得て鷹狩りを始める。
この日、依網屯倉(よさみのみやけ、大阪府松原市北西?大阪市住吉区南東
部?、屯倉は大和朝廷の直轄領)の阿弭古(あびこ)と言う者が変わった鳥を
捕らえて天皇に献上した。「私はいつも網を張って鳥を捕らえていますがこん
な変わった鳥は今まで見たこともありません。それで不思議に思って献上いた
しました」ということであった。
そこで天皇は酒君(さけのきみ)を呼び、その鳥を示して「これはどんな鳥
か」とご下問になった。酒君は「この鳥の仲間なら百済(くだら)に沢山おり
ます。飼い馴らせば人によくなつき、また速く飛ぶのでいろんな鳥を捕まえる
こともできます。百済ではこの鳥のことを倶知(くち、鷹の古代朝鮮語)と呼
んでおります」とお答えした。そこで、この鳥を酒君に与えて飼い馴らせるこ
ととした。酒君はその鳥を飼い馴らし、その足には革ひもを、尾には小さな鈴
をつけ、腕の上に据えて天皇に再び献上した。そこで天皇は百舌鳥野(もずの、
大阪府堺市、後に仁徳天皇陵が築かれた)に行幸されて狩りを行われたところ、
雌雉が沢山飛び立った。そこで先の鷹を放って多くの雉を得た。
そこでこの月に初めて鷹甘部(たかかいべ、鷹を飼い馴らして鷹狩りに従事
する職能集団)を定めた。人々は鷹を飼っている所のことを鷹甘邑(たかかい
のむら、大阪市東住吉区鷹合?)と呼んだ。
鷹狩りについての始源伝説であり、鷹狩りの技術も朝鮮半島から伝来したも
のであることを示している。鷹狩りは貴族の道楽として古代には広く楽しまれ
ていたことが長屋王家木簡や万葉集の越中での大伴家持の歌により窺える。
(日本書紀)
[1674] 欽明二十三年(562)八月 2005-08-30 (Tue) 大伴狭手彦を遣わして高句麗を討つ。
欽明朝の任那(みまな)復興作戦の一つとして、この月、大伴金村(おおと
ものかなむら)の子、大伴狭手彦(おおとものさでひこ)に数万の兵を率いさ
せて北方の高句麗(こうくり)を攻めさせた。当時日本と友好関係にあった百
済(くだら)と高句麗はもともとは同族であったが、互いの首都を陥落させる
など長年宿敵の関係にあり、激しい戦いを繰り返していた。恐らくこの出兵も
百済の要請に基づくものであったろう。任那が事実上滅亡してしまった当時、
日本としても半島唯一の友好国の要請を拒むことは出来なかったであろう。
この時、狭手彦は百済側の立てた作戦に従って高句麗を大いに破り、その都
を抜いた。高句麗王は垣根を越えて単身逃亡した。狭手彦は勝ちに乗じて高句
麗王都の宮殿に入り、珍宝を奪って帰ったという。但し、この戦闘については
「三国史記」など朝鮮側の史書には記録されていない。
大伴狭手彦は大伴家持らの先祖に当たり、これより前、宣化二年(537)
にも新羅が任那に侵攻したため、その救援のため任那に渡ってこれを鎮圧、あ
わせて百済を救った。また、この時に狭手彦は篠原村の弟媛(おとひめ)に求
婚し、その弟媛(肥前国風土記)、または松浦佐用姫(まつらさよひめ、万葉
集)が別れに際して領巾●嶺(ひれふるみね、●は糜の米を毛に、唐津市東方
の鏡山)からからいつまでも去りゆく船に領巾(ひれ、肩に掛けた布、呪力が
あると信じられた)を振り続けた、という松浦佐用姫伝説も残されている。
松浦潟(まつらがた) 佐用姫の児(こ)が 領巾(ひれ)振りし
山の名のみや 聞きつつ居らむ (万葉集巻五・828、山上憶良)
(日本書紀)
[1673] 長禄二年(1458)八月三十日 2005-08-29 (Mon) 長禄の変終結、南朝残党に奪われていた神璽入京。
元中九年(1392、北朝明徳三年)に足利義満の和睦提案に応じて南朝の
後亀山天皇は吉野を出、入京した。南北朝の合一である。しかし、当初からの
危惧の通り和議の条件は全く実行されず、北朝系統の天皇が続くに至り、南朝
の皇胤の不満は高まり、しばしば実力行使が行われるに至った。その最大のも
のが禁闕の変である。
嘉吉三年(1443)九月二十三日、蜂起した南朝残党は御所を襲撃、三種
の神器の一つ、神璽(勾玉)と宝剣を奪って比叡山に立てこもり、山門の大衆
に蜂起を呼びかけた。しかし、僧兵たちはこれに応じなかったためこの禁闕の
変はあっけなく鎮圧されてしまった。だが、宝剣は発見されたものの奪われた
神璽は行方がわからないままであった。
後にその神璽が吉野の奥、北山にあった南朝皇胤のもとにあることが判明し
た。嘉吉の乱で将軍足利義教を暗殺、討伐軍によって滅ぼされた赤松氏の遺臣
たちはこれを知ると神璽奪還を条件に主家再興を認めてもらう算段を行い、北
山に潜入し、偽って南朝皇胤の一宮・二宮兄弟に仕えた。そして長禄元年十二
月にこの兄弟の御所を襲撃、二人を暗殺した。更に二年三月には両宮の母の在
所に押し入り、遂に神璽を奪い取ることに成功した(長禄の変)。
幕府との交渉で予定通り主家再興の見通しを得た赤松遺臣たちはこの日漸く
神璽を奉じて入京した。一方の南朝皇胤はその後応仁の乱で西軍に奉じられた
ことを最後に歴史の表舞台からは姿を消す。
(続史愚抄)
[1672] 天平十二年(740)八月二十九日 2005-08-28 (Sun) 藤原広嗣上表し玄ぼう・吉備真備らの排除を求む。
藤原不比等(ふじわらのふひと)の没後も藤原氏はその四人の子、武智麻呂
(むちまろ)・房前(ふささき)・宇合(うまかい)・麻呂の四人がその権力
を受け継ぎ、依然として隆盛を極めていた。しかし、九州に上陸した天然痘が
天平九年に平城京を襲ったとき、この四兄弟は相次いで病に倒れ、帰らぬ人と
なった。伝染病への知識がなかった当時、病気の肉親を見舞った兄弟愛が招い
た悲劇であった。そしてこのために藤原氏の勢力は大きく後退し、代わって唐
に留学して新しい知識を得て来た吉備真備(きびのまきび)や僧玄●(げんぼ
う、●は「日」偏に「方」)などが重用されるに至った。
これを不満に思っていたのが宇合の嫡子、藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
であった。もともと粗暴であった彼は天平十年十二月、藤原一族の者に誹謗中
傷を加えた、ということで大養徳守(やまとのかみ)から格下の大宰少弐(だ
ざいのしょうに、大宰府の第二次官)に左遷され、九州にあった。が、当時大
宰府は帥(そち、長官)が空席、大弐(だいに、第一次官)は平城京にいたた
め彼が長官の職を代行していた。そのため大宰府の兵を彼の一存で動員するこ
とが出来た。そのことに気づいた彼は短絡的な行動を起こしてしまう。即ち、
この日政府に上表文を提出して時の政治を批判、吉備真備と玄●の排除を求め、
そのために大宰府管内の兵を動員するに至る。藤原広嗣の乱の発端である。
しかしもともとが短絡的な行動であったために中央政府が迅速に対応、九月
三日には征討軍を派遣すると板櫃川で対陣しただけでその軍は瓦解、十一月一
日に広嗣の斬首で乱はあっけなく終息する。
(続日本紀)
[1671] 文治元年(1185)八月二十八日 2005-08-28 (Sun) 東大寺大仏再建、開眼供養。
治承四年(1180)十二月に平家の焼き討ちによって東大寺の大仏が失わ
れたことは当時の人々に上下を問わず大変な衝撃を与えた。直ちに勧進僧重源
(ちょうげん)のもと、再建を急がれた大仏のため人々は競って寄進を行った
のである。当時は源平の合戦のため戦乱が絶えず、また時を同じくして襲った
飢饉のため生活するだけでも大変な時代であった。さらにこの前月には大地震
が発生している。そういった悲惨な状況は鴨長明による「方丈記」に書き留め
られている、そんな時代であった。にもかかわらず、或いはであるからこそ人
々は大仏再建に救いを求めたのであった。
そしてこの日漸く大仏本体の開眼供養が行われるに至った。この段階ではま
だ仕上げが行われておらず、完成にはほど遠い状態であったが、それでも開眼
供養が強行されたのはそういった民衆の熱狂を更に盛り上げ、大仏殿を始めと
する伽藍の復興事業へとつなげていこうという重源の深い読みがあったのであ
ろう。開眼供養の式次第は天平のそれに準じて左大臣藤原経宗が起草した。彼
は天平の開眼が婆羅門僧正によってなされたことから、実際の開眼を行うのは
僧侶を想定していたが、重源はこれを最高権力者後白河法皇に依頼した。周囲
の反対はあったが法皇自身が強く望み、結局夥しい貴賤の群衆が境内を埋め尽
くす中、実際に法皇自身の手によって開眼が行われた。
なお、源頼朝は当時背後には奥州藤原氏が健在であり、また平家を滅ぼした
弟の源義経は京都にあって既に決定的に対立しており、この段階ではまだ大仏
再建にほとんど協力していない。恐らくそれどころではなかったであろう。
(百錬抄)
[1670] 天智二年(663)八月二十七日 2005-08-26 (Fri) 白村江の戦い。
この年三月、百済再興を支援する日本は前将軍上毛野稚子(かみつけののわ
くご)・間人大蓋(はしひとのおおふた)、中将軍巨勢神前訳語(こせのかむ
さきのおさ)・三輪根麻呂(みわのねまろ)、後将軍阿倍引田比邏夫(あへの
ひけたのひらぶ)・大宅鎌柄(おおやけのかまつか)以下二万七千の大軍を派
遣した。この数字が誇張でないことは朝鮮側の記録にも「倭船千艘」(三国史
記)とされていることからも窺える。古代日本空前の大軍であった。日本側は
北方の高句麗(こうくり)とも連携し来る決戦に備えたが六月には再興百済王
豊璋(ほうしょう)は百済再興の英雄鬼室福信が謀反を企てていると疑い、こ
れを斬首してしまった。これを知った新羅軍は八月十三日、軍を発して十七日
には王城の州柔(つぬ)を包囲、一方唐軍は戦船百七十艘を率いて白村江(は
くすきのえ、錦江河口?)に陣取った。
そしてこの日、日本軍のうちまず白村江に達した部隊は直ちに唐軍と戦闘を
開始したが、日本軍は利なくして退却した。翌二十八日、日本軍主力が到着、
偵察も行わないまま「我ら先を争はば、彼自(おの)づからに退くべし(わが
軍が突撃すれば敵は逃げるだろう)」と陣形も整えないままに鉄壁の陣を布い
た唐軍に突入、あっという間に包囲された。船の左右を唐の船に挟まれた日本
側は行動の自由を奪われ退却もできずに火をかけられ、軍船四百艘を焼かれて
潰滅、煙は天に満ち天に沖する炎は海水を真っ赤に染める中、多数の将兵が溺
死した。この状況を見た百済王豊璋(ほうしょう)は数人の側近と船に乗り、
王城と国民を見捨てて高句麗に亡命してしまった。
(日本書紀)
[1669] 天平十年(738)八月二十六日 2005-08-26 (Fri) 諸国に国郡図を奉らせる。
大化改新以前の大和朝廷の支配範囲は基本的に内国(うちつくに)、後の畿
内に限られ、それ以外の地方は在地の豪族を通じた間接的な支配でしかなかっ
た。改新の詔によって公地公民の制度が打ち出された後も現実には状況にあま
り変化はなかったらしい。しかし、天武朝頃には律令の整備と共に公地公民も
強力に推進されていった。そしてその仕上げの一つが「風土記」の撰進であっ
た。風土記には各地の特産物などのほか、土地の状況を郷ごとに上の上から下
の下までの九段階で評価させて報告させたのである。但し、現実にはこのよう
に指導したにも関わらず、現存の風土記では「播磨国風土記」以外は土地の評
価は記されていない。これは恐らく詳細な土地の状況まで中央政府に把握され
ることを嫌った現地の抵抗であろう。また播磨国風土記にしても記されている
のは最高でも「中の上」までであり、これもささやかな抵抗であるのかも知れ
ない。なお、その相対的な土地の生産力は明治期の調査と基本的に一致する。
この日天下諸国に国郡図を提出させたことはこれを更に一歩進めたものであ
ろう。現存風土記においても「出雲国風土記」などは記載のもととなった地図
のようなものの存在が推定されており、こういった原図をもとにして作成・提
出させると共に国や郡の分割・新設・併合などのための資料としたものであろ
う。この地図は平安京への遷都後の延暦十五年(796)に更新が命じられて
おり、恐らくは適宜更新することによって中央政府による地方支配のための基
礎資料の一つとされたのであろう。この国郡図は恐らく後の荘園図などのよう
に地理的な大きさよりも目印などを重視した絵図であったのではなかろうか。
(続日本紀)
[1668] 元弘元年(1331)八月二十五日 2005-08-24 (Wed)
元弘の乱、後醍醐天皇東大寺東南院に行幸。
後嵯峨天皇の二人の皇子、後深草天皇(持明院統)と亀山天皇(大覚寺統)
のどちらの皇統に皇位を伝えるか、という問題は鎌倉幕府まで巻き込んだ末、
両統迭立(りょうとうてつりつ)、即ち両方の皇統を原則として交互に皇位に
つけるという妥協により運営されて行った。
正安三年(1301)、大覚寺統から即位された後二条天皇は延慶元年(1
308)、二十四歳の若さで崩御、皇統は持明院統の花園天皇に受け継がれた
が、その皇太子として立てられたのは後二条の弟の尊治(たかはる)親王であ
った。彼は幼少の後二条天皇の皇子の成長までのつなぎ、としての存在でしか
なく彼の子孫に皇位は伝えられる予定はなかった。文保二年(1318)即位
された尊治親王(後醍醐天皇)はこれを不満としてそういった両統迭立なども
含めた現体制すべてを破壊し、自らの子孫に皇位を伝えるため倒幕を企てる。
その最初の正中の変に続く二度目の倒幕計画が鎌倉幕府に漏れ、八月二十二
日には幕府の使者が大軍を率いて上洛。二十四日になってその使者の目的が後
醍醐天皇の配流と大塔宮(おおとうのみや)の死罪にあると知った宮の急報を
受け、同日夜、後醍醐天皇は中宮(お后)が実家に帰るのを装って宮中を脱出、
南都の東大寺・興福寺の僧兵を頼るべくこの日東大寺東南院に入られた。
しかし、東大寺の子院の中には幕府に心を寄せるものもあったため南都の協
力を得ることは出来ず、翌日鷲峯山金胎寺(じゅぶせんこんたいじ、京都府相
楽郡)に入られた。しかしここはあまりにも不便であったためさらに二十七日
になって笠置山(京都府相楽郡)に移られた。
(太平記巻二・天下怪異事)
[1667] 天平元年(729)八月二十四日 2005-08-23 (Tue) 光明子立后についての詔。
この日、五位以上の貴族と諸司の長官が内裏の正殿(後の紫宸殿)の前庭に
集められた。そして知太政官事(ちだいじょうがんじ、大臣格)の舎人親王が
聖武天皇の詔を公布した。内容は聖武天皇は在位足かけ六年になり、この間に
皇太子も生まれた、だからその母である藤原夫人(光明皇后)を夫人(側室)
から昇格させて皇后とする、その理由はこのように年月を経ても皇后を立てな
いことはよくないことであり、天下の政治も一人だけで行うべきでないことは
天に日月があり、地に山川があるのと同様である、またこのように定めること
が遅くなったのはこの六年間試み選んだ結果であること、そしてこれは祖母で
ある元明天皇が「女なら誰でもいいから光明子を妃にせよというのではない、
彼女の父藤原不比等(ふじわらのふひと)が忠誠を尽くしたのを忘れられない
からだ、もし彼女に過ちなく罪無くあらば、捨てますな、忘れますな」という
詔をいただいたのでこの六年の間試みた結果今回皇后の位を与えるのである、
それに(臣下から皇后を立てるのは)初めてのことではなく、昔仁徳天皇の時
代にも葛城曾豆比古(かつらぎのそつひこ)の娘である伊波乃比売命(いわの
ひめのみこと)を皇后に立てて政治を行ったことがあり、珍しいことではない
のだ、というものであった。一見してわかる通り、その内容は終始弁解に満ち
ており逆にそれがいかに異例のことであったかを物語る。皇太子基王(もとい
のおおきみ)は既に最初の誕生日を迎えることなく世を去っている一方彼女の
出生でない安積親王(あさかのみこ)は健在である。この日のために反対する
と思われた長屋王を抹殺してまで強行した藤原氏の焦りが伝わって来るようだ。
(続日本紀)
[1666] 天平十七年(745)八月二十三日 2005-08-23 (Tue) 東大寺大仏造営開始。
神亀五年(728)十一月三日、造山房司長官の任命記事が続日本紀に記録
されている。恐らくこの「山房」が金鍾寺(こんしゅじ、金鐘寺とも)を指す
ものであると考えられる。この年九月には生まれて一年に満たずして皇太子の
基王(もといのおおきみ)が薨じており、恐らくその追善のために聖武天皇が
建立したものであろう。天平十五年一月には「金光明寺」として見えるのは恐
らくこの金鍾寺が国分寺建立の詔によって大養徳(やまと)国分寺(金光明四
天王護国之寺:こんこうみょうしてんのうごこくのてら、国分寺の正式名称)
とされたものであろう。なお、大和(大倭)国はこの当時一時的にその用字を
「大養徳」とされていた。
天平十五年十月十五日、紫香楽宮にあった聖武天皇により大仏建立の詔が出
された。この大仏は紫香楽の甲賀寺で造営が開始されたものの、結局多くの問
題があってその地での造営は諦められた。藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の
乱以来、平城京を捨てて恭仁、紫香楽、難波と変転を重ねた都も結局平城京に
戻ってきたことで、この日いよいよ舞台を金鍾寺に遷して大仏の建立が再開さ
れたのである。この時、まず聖武天皇が自ら袖に土を入れて運び、その後集め
られた各氏族の人々が土を運び、大仏の台座となる部分を突き固めた。
金鍾寺が東大寺と改名された時期は明らかではないが、恐らくはそれもこの
頃のことであろう。この後天平十九年には大仏の鋳造も開始され、やがて天平
勝宝四年(752)の大仏開眼供養を迎えることとなる。最盛期の東大寺は金
堂(大仏殿)のほか東西の七重塔など多くの堂塔が偉容を誇っていた。
(扶桑略記)
[1665] 天武十一年(682)八月二十二日 2005-08-21 (Sun) 宮中儀礼・考課などについての詔。
今日の国際儀礼は基本的には西欧の儀礼体系がもととなっている。これはも
ちろん近代社会を成立させ、世界を席巻したのが西欧文明であるためでこれに
合致しないものは退けられた。しかし、近代以前においてはもちろんそれぞれ
の地域で独自の儀礼が成立していた。東アジアにおけるそれはもちろん中華帝
国であった。しかし、そんな中にあって日本だけは必ずしも地域の標準に従わ
ず、独自のものを守っていたらしい。拍手や跪伏の礼もそうであるが、外交に
おいて文書を用いず、口頭の伝達を基本としたらしいことが後年の新羅(しら
ぎ)の申し出によって窺われる。言葉の有する霊力、「言霊(ことだま)」を
重視した古代日本ならではのことであった。しかし、長らく分裂していた中原
に隋・唐といった強力な中央集権の中華帝国が成立するに及び、日本ももはや
独自の立場を守ることは出来なくなった。特に白村江(はくすきのえ)の戦い
でその圧倒的な力を見せつけられては情勢の変化を悟らざるを得なかった。
この日、「礼儀・言語之状」についての詔が出された。その具体的な内容に
ついては触れられていないが、これはこの頃から次々と出される旧来の風習を
改める詔同様、儀礼に唐風を取り入れるものであったろう。また、官僚の考課
については、本人の行状・能力だけではなく、氏族をも考課対象とし、氏族が
はっきりしない者についてはたとえ優秀であっても採用しない、という詔があ
った。逆に言えば科挙(官僚登用試験)については否定的立場を貫くことを宣
言したものでもあった。礼儀や官僚の考課については令制の式部省、この当時
の法官であり、これらは同時に法官についての令の完成を示すものだろう
(日本書紀)
[1664] 宝亀元年(770)八月二十一日 2005-08-21 (Sun) 道鏡らを左遷。
天平宝字六年(762)、近江保良宮(ほらのみや、滋賀県大津市)にあっ
た孝謙上皇の看病にあたって効験あり、それから急速に孝謙上皇の寵愛を得る
に至った怪僧道鏡は恵美押勝(えみのおしかつ、藤原仲麻呂)が叛乱に失敗、
滅亡したのと入れ替わりに大臣禅師、太政大臣禅師と律令官制の最高職を得た
ばかりか、天平神護二年(766)には法王と遂に天皇に並ぶ地位にまで達し
た。更に皇位さえも窺うに至り、宇佐八幡宮の神職団と結託して神託事件を起
こしたがこれは和気清麻呂(わけのきよまろ)の決死の直言で失敗した。しか
しそれでも称徳天皇(孝謙重祚)の寵愛は衰えることなく、その弟の弓削浄人
(ゆげのきよひと)を始め一族は栄華を極めるに至った。
しかし、その専権はすべて称徳天皇の異常なまでの寵愛の結果でしかなかっ
た。表面上彼に忠誠を誓う藤原氏を始めとする官僚たちの怨念を彼は恐らく理
解してはいなかった。そのため称徳天皇の崩御によって自らの権力基盤が全く
崩壊、人々の積年の恨みが自分に向かっていることを悟らなかった彼は何ら有
効な対策を打てないまま称徳天皇の山陵の傍らで菩提を弔う姿勢をとっていた
のであった。
この日、皇太子白壁王(光仁天皇)は令旨(りょうじ、命令)を下し、道鏡
法師を造下野国薬師寺別当に左遷し、即日出発を命じた。また道鏡に取り入り、
彼を皇位につけよ、という偽の神託をお膳立てした中臣習宜阿曾麻呂(なかと
みのすげのあそまろ)を種子島守に左遷し、翌二十二日には道鏡の弟弓削浄人
らを土佐に配流した。
(続日本紀)
[1663] 天武二年(673)八月二十日 2005-08-19 (Fri) 再興高句麗、遣使。
高句麗(こうくり)は北方騎馬民族の扶余族が朝鮮半島北部を中心に建国し
た国で広開土王(好太王、在位392−413)の時最盛期を迎え、朝鮮半島
南部に成立した同じく扶余族の百済(くだら)や朝鮮族の新羅(しらぎ)を圧
迫、これを支援する日本とも激しく戦った。しかし、中原に統一政権が成立す
ると直接その背後に脅威を受けるようになり、遂に嬰陽王(えいようおう)九
年(597)、隋の文帝は三十万の大軍を派遣して高句麗侵攻を開始した。名
宰相泉蓋蘇文(せんがいそぶん)の指揮下、伝染病の流行などの僥倖にも恵ま
れて高句麗は隋の再三にわたった侵攻を食い止め、遠征に失敗した隋王朝その
ものが崩壊してしまったが、この侵攻政策は唐にも引き継がれ、蓋蘇文亡き後
の兄弟の内紛につけ込まれ、宝蔵王二十七年(668)遂に唐・新羅(しらぎ)
連合軍の前に滅ぼされてしまった。
先に百済が滅亡していたためこれで朝鮮半島は新羅のみが生き残ることにな
った。が、もともと唐に従順を装ってその軍の派遣を乞うた手前、露骨に半島
支配を行うことは憚(はばか)られ、旧百済領(当時は唐の直轄支配領域)の
中に高句麗の遺臣たちにより高句麗を再興させ、自らの保護下に置いた。形は
どうあれ、高句麗の遺臣たちにとっては祖国が再興できたわけで、その生き残
りのため新羅に従いながらも東の大国日本へ熱い視線を送ることになる。この
日新羅の監視役と共に来日した大使邯子(かんし)も日本で言えば従三位とい
う非常な高官であり、高句麗の必死の姿勢がわかる。
彼らの願いも空しく、この十一年後、再興高句麗は新羅に吸収されてしまう。
(日本書紀)
[1662] 文武二年(698)八月十九日 2005-08-18 (Thu) 藤原不比等を除き旧中臣氏を中臣に復帰させる。
中臣(なかとみ)氏はもともと神祇祭祀に携わった氏族で河内一宮枚岡(ひ
らおか)神社(東大阪市出雲井町)を氏神とし、その付近が本拠であったと見
られる。神功紀に見える中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)を初出と
し、欽明朝の鎌子(かまこ、鎌足の最初の名と同じ別人)、敏達・用明朝の勝
海(かつみ)などはそれぞれ物部尾輿(もののべのおこし)、物部弓削守屋
(もののべのゆげのもりや)と結び排仏を主張して蘇我氏と対立した。もとも
と物部氏と深い関係を有する一族であったらしい。しかし、物部本宗家が滅亡
した後も推古・舒明朝に弥気(みけ、御食子(みけこ)とも)などが頭角を現
し朝議にも参加するようになった。更にその子鎌足(かまたり、初名鎌子)に
至って孝徳天皇、次いで天智天皇に接近し蘇我氏討滅を主導するなど大化改新
に於いて急速に枢要な地位を占めるようになった。そしてその死に臨んで天智
天皇から藤原の姓を与えられ、これは彼の直系のみではなく近い親族にも及ん
だらしい。例えば天武・持統朝に活躍した藤原大島(ふじわらのおおしま)は
鎌足の従兄弟にあたったが同様に藤原氏を称している。
しかし、この日出された詔で藤原氏のうちでも鎌足直系の不比等とその子た
ちのみに藤原氏を称することとし、それ以外の旧中臣一族は再び中臣姓に復帰
して神事に仕えるべきことが命じられた。
この頃からはっきりと不比等など藤原氏の特別待遇が始まるその第一段階と
して鎌足直系、と言うよりは不比等とそれ以外の一族を峻別することになった
ものである。
(続日本紀)
[1661] 天平宝字元年(757)八月十八日 2005-08-17 (Wed) 天平勝宝九歳を改め、天平宝字元年と改元。
この年八月十三日、駿河国益頭(やきづ)郡(静岡県焼津市周辺)の人、金
刺麻自(かなさしのまじ)が蚕が文字を織り出したものを献上した。その文字
とは「五月八日開下帝釈標知天皇命百年息」というものであった。学者たちに
その意味を調べさせたところ、五月八日は聖武天皇の一周忌の法要の最終日に
あたっており、これを機に帝釈天(たいしゃくてん、仏法守護の神)が孝謙天
皇と光明皇太后の誠意に感動して天の門を開き、天皇に百年の治世を与えたこ
とを示すものだ、と報告された。
この年の三月二十日には孝謙天皇の寝室の天井裏に「天下太平」という文字
が現れる、という瑞祥現象が発生しており、これらはすべて橘奈良麻呂の叛乱
を未然に防いだことによって今後天下太平がいつまでも続くことを天が教えた
ものと理解され、孝謙天皇を喜ばせた。
これらを受けてこの日、天平勝宝九歳を改めて天平宝字元年と改元すること
が告げられた。これによって年数を示す「歳」という用字も三年で終わり、再
び「年」という表記に戻った。
いずれにせよ、一見してわかるようにこれらの現象は藤原仲麻呂の工作によ
るものであろう。現に金刺麻自は彼の配下である中衛府(ちゅうえふ)の役人
である。こういった露骨な方法を用いても奈良麻呂の乱で反対派を一掃し、そ
の兄をも追放して名実共に政権を掌握した仲麻呂を表だって批判するような勢
力は既に存在しなかった。そしてこのこの天平宝字年間は正しく彼の全盛から
破滅までの期間にあたるのであった。
(続日本紀)
[1660] 天平四年(733)八月十七日 2005-08-16 (Tue) 遣唐使・諸道節度使任命。
唐の介入を得て百済(くだら)・高句麗(こうくり)を滅ぼすことに成功し
た新羅(しらぎ)はその後旧百済領域を併呑してしまう。これに怒った唐は出
兵して新羅を討ったが新羅はこれを撃退した。しかし、新羅の朝鮮半島領有を
認めない唐と新羅の関係は当然非常に緊張したものとなった。そんな新羅にと
って背後の日本との関係修復は重要な課題であった。そのため、天武朝から神
亀三年(726)まで新羅は日本に対する朝貢を事実上受け入れ、従属的な関
係を維持することによって平安を保った。
しかし、高句麗の遺臣などによって朝鮮半島北部から満州南部にかけて渤海
が成立し、これが唐と対立するに及んで状況は一変した。渤海を牽制するため
に唐はついに新羅の半島領有を認めたのである。これによって新羅と唐との緊
張関係は解消され、新羅の国際的地位も大きく上昇した。逆にそのために無理
をしてまで日本の歓心を得る必要もなくなったのである。
この年二月、新羅に派遣された遣新羅使は八月十一日に帰朝した。恐らくこ
の遣新羅使一行は新羅の対応の変化を肌で感じてそれを報告したのであろう。
そしてこの日、多治比広成(たじひのひろなり)を大使、中臣名代(なかとみ
のなしろ)を副使とした遣唐使が任命された。また、藤原房前(ふじわらのふ
ささき)を東海道・東山道、多治比県守(たじひのあがたもり)を山陰道、藤
原宇合(ふじわらのうまかい)を西海道の、それぞれ節度使に任命した。節度
使は方面軍司令官と見られる。これらは唐の状況確認のための遣唐使と新羅と
の緊張に備えての軍事態勢の強化を目的とするものであったと見られる。
(続日本紀)
[1659] 延元四年(1339、北朝暦応二年)八月十六日 2005-08-15 (Mon) 後醍醐天皇、吉野に崩御。
延元元年十二月、京都を脱出し吉野に移られた後醍醐天皇であったが、その
強気の姿勢とは裏腹に情勢は日に非であった。湊川の合戦に楠木正成を失った
のを始め京都・比叡山での合戦に名和長年、結城親光、千種忠顕(ちぐさただ
あき)といった三木一草と称された股肱の臣を既に失っており、また皇位を譲
り三種の神器を与えて北国に落とした恒良親王(つねよししんのう)は延元二
年に越前金崎城の落城により捕らえられ毒殺されてしまう。奥州から長駆駆け
つけた北畠顕家も延元三年五月、和泉石津の戦いで敗れて戦死、頼みの新田義
貞も同年閏七月に越前藤島の戦いで戦死するという状況であり、全くの閉塞状
況にあった。
この年八月九日よりご不予(ご病気)であられた天皇は次第に重態となられ、
この日丑の刻(午前二時頃)、左手には法華経を、右手には剣を持って吉野の
行宮で崩御された。その臨終に当たって第八皇子義良親王(のりよししんのう、
後村上天皇)を即位させることなどと共に、「朝敵を悉(ことごと)く亡ぼし
て四海を泰平ならしめん・・・(中略)これを思う故に、玉骨(遺骨)はたと
ひ南山(吉野の行宮)の苔に埋(うづも)るとも、魂魄は常に北闕(ほくけつ、
京都の御所)の天を望まんと思ふ。もし命を背き義を軽(かろ)んぜば、君も
継体の君に非ず(天皇であっても天皇でない)、臣も忠烈の臣に非じ」という
強烈な遺言を残された。宝算五十二歳。
そしてこの遺言こそがその後南朝の人々を呪縛し続け、南北朝の内乱を半世
紀以上に及ぶものにしたのであった。
(太平記巻二十一・先帝崩御事)
[1658] 景行十二年(82)八月十五日 2005-08-14 (Sun) 景行天皇、筑紫行幸。
この年七月、熊襲(くまそ、九州南部の種族)が叛し、朝貢を怠った。その
ためこの日景行天皇は自ら九州征討の軍旅に出発された。
九月五日、周芳(すわ、周防)の娑麼(さば、山口県防府市佐波)に達して
鼻垂(はなたり)以下の賊を謀殺し、豊前の長峡県(ながおのあがた、福岡県
北九州市小倉南区?行橋市?)に進んで行宮を建てた。そのためその地を京都
(みやこ)郡と呼ぶようになった。
十月には碩田(おおきた、大分市)、十一月に日向に達して高屋宮(たかや
のみや、不詳)を造営、十二月五日にはいよいよ熊襲征討の軍議を行った。熊
襲の長、熊襲梟帥(くまそたける)の娘を高価な贈り物で釣って入内させ、そ
の様子を聞き出してから討つ、という作戦が決まり、その娘、市乾鹿文(いち
ふかや)・市鹿文(いちかや)の姉妹を召し入れた。天皇の寵愛を受けた市乾
鹿文は自ら父を討つことを願い出、その父を謀殺した。が、天皇は親殺しの不
孝を憎み彼女を誅し、妹の市鹿文を火国造(ひのくにのみやつこ、九州西部の
首長)に賜った。そうして十三年五月には襲国(そのくに、鹿児島県曽於郡を
中心とする地域)を平定した。が、なお高屋宮に滞在を続けられた。
十八年三月、帰京の旅につかれ、熊県(くまのあがた、熊本県球磨郡・人吉
市)、葦北(水俣市周辺)、八代県(やつしろのあがた、八代市周辺)、高来
県(たかくのあがた、島原半島)、阿蘇、御木(みけ、福岡県三池郡・大牟田
市)、八女県(やめのあがた、八女市・筑後市周辺)、的邑(いくはむら、福
岡県浮羽郡)などを経て十九年九月二十日に還幸された。
(日本書紀)
[1657] 天平宝字八年(764)八月十四日 2005-08-14 (Sun) 大和など八国に池を築かせる。
前年来の旱魃に対する備えとして大和・河内・山背・近江・丹波・播磨・讃
岐の諸国に使者を派遣、ため池を築かせた。
古代においてはその技術的な限界から灌漑は大河川からの直接の取水は出来
ず、その支流を対象とするものであった。従って旱魃などが発生すると早くに
その影響を受けてしまう。このためため池の築造は早い段階から記録に見える。
実際にこのうち讃岐についてはこの年四月に賑給(しんごう、飢えた民衆への
炊き出し)が行われており、実際に深刻な旱魃が発生していたのであろう。よ
く知られているように讃岐には弘法大師空海によって満濃池が築かれるが、も
ちろんこの時には完成していない。
この時近江には造池使として淡海三船(おうみのみふね)が赴任し、ため池
の造営に当たった。ところが、九月十一日になって恵美押勝(えみのおしかつ、
=藤原仲麻呂)の乱が発生したとき、このことは決定的な意味を持つこととな
った。天皇印の奪取に失敗した恵美押勝はかねて地盤を固めてあった近江に脱
出、これも一族で固めていた美濃や越前を経て東国に赴こうとしたのである。
近江にあった三船は押勝の動向を知らされるや、直ちに兵を率いて勢多を抑え、
橋を落としてしまったのである。そのため、押勝は湖東へ渡ることが出来ず、
湖北を経て越前に逃れるべく北上を余儀なくされた。
ため池を造る人夫は武器を与えればそのまま兵士になるのであり、故意か偶
然かはともかく、結果的にはこの時に造池使を派遣した措置が恵美押勝の命取
りになったのであった。
(続日本紀)
[1656] 持統五年(691)八月十三日 2005-08-12 (Fri) 十八氏族に墓記を上進させる。
この日、大三輪・雀部(さざきべ)・石上(いそのかみ、もとの物部)・藤
原(ここでは中臣氏を含むであろう)・石川(もとの蘇我氏)・巨瀬(こせ)
・膳部(かしわで)・春日・上毛野(かみつけの)・大伴・紀伊(き)・平群
(へぐり)・羽田(はた)・阿倍・佐伯・釆女(うねめ)・穂積・安曇(あず
み)の十八氏族に詔してその墓記を提出させた。
墓記とは恐らく先祖の事績を記した各氏族の歴史書であろう。後に「日本書
紀」として結実する修史事業の史料としてこれらの氏族に自らの伝承を提出さ
せたものと見られる。もちろん、これらの伝承はそれぞれが必ずしも一致せず、
それを受けた日本書紀でも前後で矛盾をはらんだり、複数の伝承を併記したり
した上でどれが正しいかは読んだ人が判断して欲しい、と敢えて一歩引いた記
述にとどめたような箇所が随所に見られる。
日本書紀にはこのほか「百済本記」など百済側の歴史書(亡命百済人が書い
たものも含まれよう)、「伊吉博徳(いきのはかとこ)書」など外交や壬申の
乱に従軍した個人の記録などもその資料として随所に利用されており、その結
果壬申の乱の記述などは非常に生々しいものとなっている。
日本書紀については皇室や藤原氏に都合のよいことを編纂時に創作したとい
うような極端な見方をする人もあるが、例えば藤原氏とその同族中臣氏に激し
く憤った斎部広成(いんべのひろなり)が平安初期に斎部氏の伝承をまとめた
「古語拾遺」や物部氏側の伝承を多く伝える「先代旧事本紀」なども大筋では
日本書紀と異ならず、その内容が広く受け入れられたことを物語っている。
(日本書紀)
[1655] 天平宝字五年(761)八月十二日 2005-08-12 (Fri) 迎入唐大使使高元度、唐使を伴い帰国。
沖縄まで到着しながら暴風に吹き戻されてベトナムに漂着、帰国できないま
ま唐にとどまって高官となっていた遣唐大使藤原清河(ふじわらのきよかわ)
を何とか帰国させようとする日本は天平宝字三年一月三十日に高元度(こうげ
んど、帰化した高句麗の王族の子孫)を迎入唐大使使(げいにっとうたいしし)
に任命し、折しも訪日中であった渤海の遣日使、楊承慶(ようしょうけい)ら
が帰国するのにあわせて渤海経由で唐へと派遣した。日本と友好関係にあった
渤海は自国の賀正使、楊方慶(ようほうけい)に元度らを同道させて唐朝に至
らせた。この時元度は甲冑や刀槍などの武器の見本を与えられ、また特進(日
本の正二位相当)秘書監(秘書省の長官、唐朝でも相当な高官)になっていた
藤原河清(ふじわらのかせい、清河は唐では河清と名乗った)の帰国をも許さ
れた。但し、当時の唐は安禄山や史思明の乱の余波で国内の治安が乱れている
ため、清河は安全が確認されてから帰国させるので先に南路を取って日本に帰
り、復命しておくように、とのことであった。そのため元度らは蘇州に向かい、
そこで船を造ってもらって当地の武官、沈惟岳(しんいがく)らに送られて帰
国、この日大宰府に到着したものであった。
しかし、結局この時の約束は果たされることなく清河は唐で客死することに
なってしまった。また逆に沈惟岳らも帰国に二度失敗、遂に日本に帰化してし
まった。一方この時元度に渡された武器の見本は唐朝からの依頼であった。内
乱のため武器が不足した唐は遙か日本に武器の供給を求めたのであった。これ
に応じてこの年十月には弓の材料として牛角7800が集められている。
(続日本紀)
[1654] 天武十一年(682)八月十一日 2005-08-11 (Thu) 円盤状の物飛翔。
この日、「物」があり、形は円盤状で火の色をしていた。それは空に浮かん
で北に流れて行った。「国毎(ごと)に皆見ゆ」とあり、非常に広範囲で目撃
されたらしい。或いは越(こし)の海、つまり北陸地方の日本海に入ったとも
いう。またこの日、白い靄(もや)状の物が東の山におこった。その大きさは
四周するほどであったという。
現代風に言えば未確認飛行物体、空飛ぶ円盤の記事である。現代でも空飛ぶ
円盤の目撃談は世界中にあるが多くの場合その目撃される範囲は限定されてお
り、多数の人が同時に目撃するというものでも必ずしもない。しかし、ここで
の記述は極めて具体的でしかも目撃者が多数あったこと、その航跡をたどるこ
とができたことなどがうかがわれる。航空機も光学機器も存在しない当時、そ
のように多くの人々に錯覚を起こさせるものがあり得たのであろうか。錯覚で
ないならば目撃された物は何であろうか。
後半の靄も含めて不思議な現象は積極的に記録された。これは何かの前兆で
あるか、瑞祥現象(名君の治世を祝って出現するめでたい象徴)として理解さ
れたからである。しかし、少なくとも奈良時代に至るまで、管見の限りではこ
れほど具体的な空飛ぶ円盤についての記録はない。その代わりなのか、空飛ぶ
人の記録は散見される。これは道教の仙人の思想が移入されたためであろう。
その延長として日本最初の仙人として位置づけられる役行者(えんのぎょうじ
ゃ)が登場、伊豆大島に流されながら夜は富士山に通ったという伝承が徐々に
成立していった。
(日本書紀)
[1653] 和銅元年(708)八月十日 2005-08-09 (Tue) 初めて銅銭を行う。
近年「富本銭」が最古の貨幣としてほぼ確定、その地位を譲ったかに見える
「和同開珎(わどうかいちん/わどうかいほう)」であるが、その発行は通常
ここに見える「始めて銅銭を行う」という記事に対応したものと見られる。但
し、銅の発見を記念してつけられた元号が「和銅」であるのに対してこの貨幣
は「和同」銭であり、必ずしもこの記事が和同開珎の発行を示すものではない、
という見方もある。この和同開珎は唐の「開元通宝」を手本に作られたとされ
るが、本格的に流通した貨幣としてはやはり画期的なものであった。その後も
皇朝十二銭と言われる銅銭が次々に発行されたが、物価の基準とされたのは新
しい貨幣ではなく和同開珎であった。
平城京の東西に設けられた市では官営市場の性格からも広くこの貨幣による
流通が行われた。長屋王邸跡出土の木簡によれば、宴会のための料理の出前と
見られる物さえも銭貨で取り引きされていたことがわかる。残念ながらこの市
の遺跡は発掘されていない。平城京西市は開発業者が発掘調査を妨害する目的
で根こそぎ破壊したため永遠に失われてしまった。将来の残る部分の発掘に期
待するしかない。
しかし都での流通に対して地方ではほとんど利用されなかったらしい。九州
から故郷の東国に帰る防人(さきもり)が途次支給されたこの銭で食料を買お
うとしても売ってもらえない、など深刻な事態となっていた。和銅四年発布の
銭を貯えたものに褒賞として官位を与えるという蓄銭叙位令は銭貨の流通を図
る意図と裏腹に貨幣の流通を妨げる結果となっていた。
(続日本紀)
[1652] 安康三年(456)八月九日 2005-08-08 (Mon) 眉輪王、安康天皇を弑殺。
允恭(いんぎょう)天皇の崩御の後、皇太子木梨軽皇子(きなしのかるのみ
こ)は同母妹軽大郎女(かるのおおいらつめ)と関係をもったため人々の支持
を失い、代わってその弟穴穂皇子(あなほのみこ)が即位した。安康天皇であ
る。木梨軽皇子は自殺したとも伊予に流されたとも伝えられる。
安康天皇は元年二月、弟の大泊瀬皇子(おおはつせのみこ、雄略)がその粗
暴な性格を反正(はんぜい、允恭の兄)天皇の皇女たちに嫌われて結婚できず
にいるのを見て大草香皇子(おおくさかのみこ、仁徳皇子、允恭弟)に根使主
(ねのおみ)を遣わし、その妹幡梭皇女(はたびのひめみこ)と大泊瀬皇子と
の結婚を申し入れた。病により余命いくばくもないと悟り、妹の将来を案じて
いた大草香皇子はこれを喜び、婚約の印に家宝の押木珠縵(おしきのたまかず
ら、宝冠か)を献上した。が、これを見た根使主は悪心を起こして押木珠縵を
隠匿・私蔵し、大草香皇子が婚約を拒絶したと復命した。怒った安康天皇は大
草香皇子を攻め滅ぼし、その妻中●姫(なかしひめ、●は草冠に帝、履中皇女)
を自分の皇后に、また幡梭皇女は大泊瀬皇子に与えた。
この日、沐浴しようと山宮(やまのみや、不詳)に行幸、高楼で宴会をされ、
ふと皇后に「お前は今は慣れ親しんでいるが朕はお前の連れ子の眉輪王(まよ
わのおおきみ)が(いつかは仇討ちを企むのではないかと)恐ろしい」と皇后
に語られた。が、高楼の下で遊んでいた七歳の眉輪王はこの時一部始終を聞き
届けてしまった。彼は天皇が酔いつぶれて寝てしまったのを見て取ると天皇を
刺し殺してしまった。
(日本書紀)
[1651] 斉明二年(656)八月八日 2005-08-07 (Sun) 高句麗朝貢する。
朝鮮半島を巡って日本としばしば激しい戦火を交えた高句麗(こうくり)で
あったが、この頃は連年にわたって隋・唐の侵略を受け、存亡の危機にあった。
このような状況下、遂に宿敵日本や百済と同盟を結ぶこととなる。激動の朝鮮
半島情勢のもと、当時の日本の国際的地位は非常に高いものとなった。朝貢と
は臣従形式での遣使であり、日本側の記録は必ずしも正確ではないが、この高
句麗との関係については、その後の高句麗の後裔とされる渤海(ぼっかい)と
のやりとりから考えて、この時の使節かどうかはともかく、実際に朝貢形式で
日本と結んだ可能性も濃厚である。
東アジア古代において日本のみは倭の五王の時代を最後に中華王朝への朝貢
を行わず、あくまでも(表面上は)対等外交を貫いた。これは中華王朝に臣属
する象徴とも言える册封使(皇帝がその国の君主を王に任命する使者)につい
ての記録がないことでも事実であろう。舒明四年(632)に唐から使者とし
て来日した高表仁(こうひょうじん)は册封使であった可能性はあるが、「王
子と礼を争」って使者の使命を果たさずに帰国している。日本側の激しい抵抗
がうかがわれる。しかし、当時の日本の力を考えるとき、これは大変な背伸び
であり、やせ我慢であった。他国のように朝貢していた方が遙かに有利で利益
も大きかった。しかしそれでも当時の人々はそれまで朝鮮半島諸国に対して中
華王朝と同程度の意識で君臨した矜持を守り抜いた。朝貢国家となることは経
済的には大変な恩恵を伴うものの、国家としては屈辱的なことであった。その
ような先人の偉大さを果たして今日の外交官諸子は理解しているだろうか。
(日本書紀)
[1650] 雄略二十三年(479)八月七日 2005-08-06 (Sat) 雄略天皇崩御。
古代日本に一つの画期をなした雄略天皇はこの年七月一日から病床にあり、
大権を皇太子(後の清寧天皇)に託されていたが、この日いよいよ危篤となら
れ、百官に別れを告げ、握手をしてむせび泣き、大連(おおむらじ)大伴室屋
(おおとものむろや)と東漢掬(あずまのあやのつか)に後事を託され、あわ
せて皇太子の異母弟星川皇子を警戒するよう遺詔されて泊瀬朝倉宮(はつせの
あさくらのみや)の大殿(後の大極殿?)で崩御された。宝算六十二歳。
崩御後、天皇の危惧された通り星川皇子がその母吉備稚媛(きびのわかひめ)
の勧めによって大蔵官(後の令制の大蔵省の前身、国家財産の管理を行う?雄
略朝に創設と伝えられる)を掌握して叛したため室屋らはこれらを攻め滅ぼし
た。稚媛の一族、吉備上道(きびのかみつみち)氏は船四十艘を仕立てて星川
皇子を救援しに駆けつけたが既に敗死したと聞き空しく帰って行った。その後
吉備上道氏は清寧天皇にこの時の責任を問われ、管理下にあった山部(山林の
管理・生産に携わった民)を没収された。
雄略天皇の治績を記す日本書紀の筆致は極めて具体的で内容に富み、熊本県
菊水町の江田船山古墳出土の大刀や埼玉県行田市の稲荷山古墳出土の鉄剣に彼
の名前「獲加多支鹵(ワカタケル)大王」の文字が記されていることは彼の威
令がこれらの地域にまで及んでいたことを物語っている。また、中国南朝の宋
に使いを送った倭王「武」が彼であることもほぼ確実とされる。「万葉集」の
冒頭を飾る歌も彼の御製と伝えられる一方、「日本書紀」の彼の治世の記述は
名君としてのものと暴君としてのもの、というように褒貶相半ばしている。
(日本書紀)
[1649] 応神十五年(284)八月六日 2005-08-06 (Sat) 百済、阿直岐を遣わし良馬を献上。
この日、百済(くだら)王(阿花王?)は阿直岐(あちき)を遣わして良馬
二匹を献上した。そこで阿直岐にその飼育を担当させた。またこの阿直岐は儒
教の経典について造詣が深かったため皇太子の菟道稚郎子(うじのわきいらつ
こ)の師として学問を学ばせた。
菟道稚郎子は阿直岐に「あなたより優れた博士はいらっしゃるでしょうか」
と訊ねたところ、阿直岐は「王仁(わに)という人物がおります。大変優秀な
人物です」と答えた。そこで荒田別(あらたわけ)・巫別(かんなぎわけ)の
二人を百済に遣わして王仁を招かせた。翌十六年二月に王仁は来朝し、菟道稚
郎子は彼について学問を学び、諸典籍に通暁するに至った。
また、この王仁は「古事記」によればこの来日の時に「論語」と「千字文」
をもたらした、という。孔子の言行を記した論語はともかく、千文字の異なる
漢字を用いて記された千字文の成立は六世紀であり、五世紀初頭と見られるこ
の時代の実年代とは矛盾するがこの倭の五王の時代に大陸の知識を積極的に導
入しようとしたこと自体は事実であり、何らかの事実をもとにしていたのかも
知れない。一方の菟道稚郎子はこの逸話に見られるように聡明であったため父
応神天皇から愛され、皇太子に立てられたが父の崩御の後、兄の大鷦鷯尊(お
おさざきのみこと、仁徳天皇)と位を譲り合った末、皇位の空白による人々の
困惑を見かねて遂に自らの命を絶つことで兄に皇位を伝えた、という伝承が伝
えられている。菟道稚郎子は宇治市の宇治上神社に祀られるほか、何故か東国、
相模の前鳥(さきとり)神社(神奈川県平塚市)にも伝承と共に祀られている。
(日本書紀)
[1648] 大化元年(645)八月五日 2005-08-04 (Thu) 東国国司発遣、鐘・櫃の設置。
改新政治の本格的な第一歩としてこの日、東国に国司(に相当する官僚)を
派遣し、全国を直接支配する第一歩とした。これまで大和朝廷は各地の豪族の
支配を認め、特に地方については直接掌握しようとはせずそれぞれの国造(く
にのみやつこ)・県主(あがたぬし)などと呼ばれる在地豪族の支配にまかせ
ていた。これら地方豪族の多くは古い時代の皇族を始祖とする伝承があるが、
これは恐らく統治させるに当たって擬制的な同族関係を結んだためであろう。
それをこの時それら地方豪族を統括するような形で中央豪族を官僚として任命、
派遣したことになる。なお、東国とは「東方八道」とするだけで具体的な範囲
や国名は記録されていない。恐らく後の国よりも広い範囲のものであったであ
ろうことは西国の例ではあるが「吉備大宰」「伊予総領」などといった広域を
支配すると見られる官職が記録に散見されることから推定できる。但し、この
時点での国司は裁判権を有しなかったことが令制とは異なる。
この時、これら東国及び倭(やまと)の六県(むつのあがた)で戸籍を作成
することも命じている。東国についてはそのままは信じがたいが、倭の六県と
は即ち高市(たけち)・葛木(かつらぎ、葛城)・十市(とおち)・志貴(し
き、磯城)・山辺(やまのへ)・曾布(そう、添)の朝廷の直轄地であり、事
実であった可能性も高い。
また、同日、朝廷内に鐘と櫃を設置した。櫃は一種の目安箱であり、族長を
経由してではあるが、一般民が朝廷に直訴する道を開いた。もし族長がこれを
怠った時には鐘を鳴らして訴えることができた。
(日本書紀)
[1647] 宝亀元年(神護景雲四年、770)八月四日 2005-08-03 (Wed) 称徳天皇崩御、光仁天皇践祚。
称徳天皇はこの年二月二十七日から四月六日まで由義宮(ゆげのみや、道鏡
の故郷に造営した副都、大阪府八尾市)に行幸・滞在されたが、その頃から不
予(ご病気)になられた。この頃、伝染病の流行が記録されており、あるいは
これにかかったのかも知れない。次第に重くなりゆく病に六月十日には軍事関
係の指揮を左大臣藤原永手(ふじわらのながて)・右大臣吉備真吉備(きびの
まきび、真備とも)に委ねるなどする一方、大赦や法会の実施、伊勢神宮など
諸社への奉幣を実施したが効果なく、この日ついに平城宮西宮の寝殿で崩御さ
れた。宝算五十三歳。側近の女官、吉備由利(きびのゆり、真備の娘?)だけ
に看取られた寂しい最期であった。直ちに永手、真備を始めとする公卿たちに
よって後継問題が定められ、先帝の遺詔によって皇族の年長者である白壁王
(しらかべのおおきみ、天智孫)が皇太子に立てられた。
異伝によればこの時称徳は実際には後継を定めぬまま崩じたため、吉備真備
らは文室浄三(ふんやのきよみ、天武孫)を推したが本人の強い辞退で代わっ
てその弟文室大市(ふんやのおおち)が皇太子に擬せられた。しかし、こちら
も辞退されてしまう。ところがその間に藤原永手や百川(ももかわ)、宿奈麻
呂(すくなまろ、後に良継と改名)らが共謀し、白壁王を皇太子とする、とい
う称徳天皇の遺詔を偽造、これを発表してしまったため真備らの努力は水泡に
帰し、この年十月一日の光仁天皇の即位が決まった。天武皇統の断絶ではある
が、白壁王の室は聖武皇女井上内親王(いのうえのひめみこ/いがみのひめみ
こ)であり、この時点では女系による継承が期待されたものであった。
(続日本紀)
[1646] 延暦十年(791)八月三日 2005-08-03 (Wed) 伊勢神宮炎上。
この夜、驚天動地の大事件が発生した。伊勢神宮内宮東宝殿に侵入した盗賊
の炬火から燃え移った炎は正殿一宇、財殿二宇、御門三間、瑞垣一重、即ち最
も内側の区画が全焼してしまったのである。宝殿(財殿)は正殿の後方に東西
に並んで建つ神宝などを収める建物である。ご神体については正史に記載はな
いが、神宮側の記録では無事であったとされる(逆に何かあれば正史に記載さ
れる大問題となっていたたであろう)。伊勢神宮の長い歴史の中でも内宮の全
焼はこの時のみである。なお、外宮はその後、文明十八年(1486)に指示
に従わない外宮の神人(じんにん、僧兵の神社版)と伊勢国司北畠具方(きた
ばたけともかた)軍との戦闘で全焼したことがある。
現在一般の参拝が出来るのは四重目の玉垣の外からであり、特別な場合でも
その内側までしか入ることは出来ず、それ以上は皇族以外は入ることも許され
ない。そのような神聖な場所に盗賊が侵入したことは驚きではあるが現在と異
なり当時は伊勢神宮はあくまでも皇室の私的な祖神であり、一般の信仰を集め
た存在ではなかった。まして現在も伊勢市の神宮徴古館に展示されているよう
な刀剣や衣服など豪華な神宝類が宝殿に収められていたこと、広い神域は充分
な警備も困難と思われること、などを考えると盗賊の標的とされたのも無理は
なかったのかも知れない。
天武天皇によって斎宮の制度をはじめ規模や諸制度が整備された伊勢神宮が
その天武皇統の断絶とともに全焼してしまったのは一つの歴史の終わりを物語
っているのであろうか。
(続日本紀)
[1645] 用明二年(587)八月二日 2005-08-01 (Mon) 崇峻天皇即位。
天然痘と見られる病気により用明天皇が急に崩御された後、皇位継承を巡っ
ての穴穂部皇子(あなほべのみこ)を奉じる物部守屋と泊瀬部皇子(はつせべ
のみこ)を奉じる蘇我馬子との間に遂に戦端が開かれた。朝廷を二分する争い
に勝利を得た蘇我馬子らの推挙と大権を代行していたと見られる炊屋姫尊(か
しきやひめのみこと、敏達皇后、後の推古天皇)の承認を得てこの日泊瀬部皇
子が即位された。崇峻(すしゅん)天皇である。天皇は同月倉梯宮(くらはし
のみや、桜井市倉橋?)に宮を営まれた。
崇峻天皇は崇峻四年(591)十一月四日、悲願であった任那(みまな)復
興を果たすため紀男麻呂(きのおまろ)、巨勢猿(こせのさる)、大伴囓(お
おとものくい)、葛城烏奈良(かずらきのおなら)らを大将軍に任じ、二万余
の大軍を筑紫に派遣、軍の圧力のもとに新羅(しらぎ)と任那(この段階では
もちろん新羅に服属している)に使者を派遣した。
この間、翌五年十月四日にある人が献上した猪を見た天皇は「いつの日か、
この猪の頸を断つように朕が嫌いな人を斬ってやりたい」とつぶやかれた。こ
の一言が命取りになってしまう。天皇の妃、大伴小手子(おおとものこてこ)
は天皇の寵愛が衰えていることを恨んでいたが、これを聞くと蘇我馬子に密告
した。これを知った馬子は嫌いな人が自分であることを恐れ、十一月三日、東
漢駒(あずまのあやのこま)に天皇を弑殺させた。こうして蘇我氏に擁立され
た崇峻天皇は(その嫌いな人が実際は誰であったかは永遠の謎であるが)蘇我
氏によって消されてしまったのであった。
(日本書紀)
[1644] 文武元年(697)八月一日 2005-08-01 (Mon) 文武天皇即位。
我が子草壁皇子の薨じた後、嫡孫の軽皇子の成長を待っていた持統天皇であ
ったが、やっと十五歳になった孫にこの日譲位し、自らは太上天皇(その略称
が「上皇」)として後見を行なわれた。
一見順調にことが運んだように見えるが律令制以前の皇位継承は同世代の有
資格者の間で順次伝えられるのが原則であり、天武皇子の多くが存命している
状況で持統の意志を貫くには多くの困難が伴った。現存最古の漢詩集である懐
風藻にはこの前年の持統十年(696)、高市皇子(たけちのみこ)が薨じた
時、皇嗣の選考会議では弓削皇子(ゆげのみこ、天武皇子)が軽皇子擁立に反
対しようとして葛野王(かどののおおきみ、大友皇子の子、天武と額田王の外
孫)から一喝されたということが記されている。恐らく葛野王は持統に意を含
められていたのであろう。また、即位時の年齢が低すぎるのも異例であり、か
つて二十歳の聖徳太子が即位できず摂政にとどまったことを考えても本来は即
位が認められる年齢ではなかった。
また、この太上天皇は天皇と同等以上の権力を有していた。これは日本律令
の顕著な特色であったが、これも持統の目指したものを露骨に示しているので
あろう。従って譲位したと言っても事実上は後の院政と同様、大権はなお持統
太上天皇にあったと思われる。結局、何から何まで持統の強烈な意志で強行さ
れたことであった。
なおこの記事は「日本書紀」の最後の記事であり、同時に「続日本紀(しょ
くにほんぎ)」の最初の記事でもある。
(日本書紀、続日本紀)
[1643] 用明二年(587)七月 2005-07-31 (Sun) 物部守屋、滅亡。
大和朝廷の最大の有力豪族、蘇我氏と物部氏の主導権争いは仏教の受容を巡
って対立が先鋭化、そしてこの年四月の用明天皇の急な崩御でそれぞれが次期
大王候補を奉じて一触即発の状況になった。しかし、老獪な蘇我馬子(そがの
うまこ)は先手を打って六月七日、物部守屋(もののべのもりや)が擁立を図
った穴穂部皇子(あなほべのみこ、欽明皇子)などを殺した。切り札を失った
守屋にとどめを刺すためこの月、馬子は泊瀬部皇子(はつせべのみこ、崇峻)
や厩戸皇子(うまやとのみこ、聖徳太子)を始め紀、巨勢(こせ)、膳(かし
わで)、葛城、大伴、阿倍、平群(へぐり)などの有力豪族を糾合、河内渋河
(しぶかわ、大阪府八尾市?)にあった守屋の家を攻めた。一族を挙げて必死
に防戦する守屋に攻撃側は苦戦、その中で厩戸皇子は四天王に、蘇我馬子は仏
法の諸天に勝利の暁には寺塔を建立することを誓願した。そうして漸く守屋を
射殺し、一族を滅ぼした。その後、厩戸皇子と馬子はこの時の誓いに従ってそ
れぞれ四天王寺と飛鳥寺を創建した。物部氏から没収した領地はこれらの寺院
に寄進されたらしい。
なお、物部本宗家はこの時滅亡したが、物部氏自体はこれ以降も存続した。
この物部氏は朱鳥元年(686)頃に自らの奉祭する石上神宮の鎮座される地
名によって石上(いそのかみ)と氏名を改めた。後、宝亀六年(775)には
物部氏に復したがその後また石上氏となっている。石上氏は左大臣麻呂、中納
言乙麻呂(おとまろ)など有力官人を輩出、また大納言宅嗣(やかつぐ)は日
本初の図書館芸亭(うんてい)の設置でも知られる。
(日本書紀)
[1642] 大宝二年(702)七月三十日 2005-07-30 (Sat) 律の講説を行う。
律令(りつりょう)制とは刑法に相当する律と行政規則に当たる令の二つを
基本に統治を行う国家体制である。天武十年(681)二月に律令撰定につい
ての詔が出されているのが確実な最初であり、このうち令については持統三年
(689)六月に施行された。飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)であ
るが、律については完成を示す記事がなく、存在したかどうかについては議論
が分かれている。
これをもとに、文武四年(700)に唐の律令を学んでこれを改めて整備、
翌大宝元年三月に施行されたのが大宝令である。同年八月には律令完成の記事
があるので律の完成はこのときであろう。編纂を行った者として刑部親王(お
さかべのみこ)、藤原不比等(ふじわらのふひと)、下毛野古麻呂(しもつけ
ののこまろ)、伊吉博徳(いきのはかとこ)、伊余部馬養(いよべのうまかい)
らの名が残されている。この新しい律は二年二月には中央官庁に対してその写
本が頒布された。さらにその内容を周知させるためにこの日編纂実施者によっ
て官僚たちにその内容の講説が実施された。こういった準備を経てこの年十月
には全国に頒布されており、この段階で全面的に施行されたものと考えられる。
その後養老二年(718)にこの大宝律令を改定した養老律令が編纂された
が内容的には大差なく、そのためか大宝律令からの切り替えが行われたのは天
平宝字元年(757)のことになる。それ以降改訂されることはなく、武家法
の御成敗式目制定後も形式的には存続した。しかしこれが機能しなかったこと
は令と異なって律がほとんど散逸、現存しないことに表れている。
(続日本紀)
[1641] 文治二年(1186)閏七月二十九日 2005-07-28 (Thu) 静、男児を出産。
吉野山で源義経と別れた愛妾静はその後捕らえられ、その母磯禅尼(いその
ぜんに)とともに鎌倉の源頼朝のもとに送られて義経の行方について尋問され
た。結局別れた後の義経の行動は彼女が知る由もなく尋問されても成果はなか
った。しかし、尋問後も彼女が妊娠していたことがわかったために京には帰し
てもらえず、そのまま鎌倉の安達清経(あだちきよつね、頼朝の近臣)の家に
抑留されていた。頼朝によると「生まれてくる子の父親は関東(鎌倉幕府)に
背いて反乱を企てた上で逐電した男だ。もし生まれた子が女子であれば母親に
返してやれ。だが男子であれば今は赤子であっても将来何をするかわかったも
のではない。そうならないうちにさっさと殺してしまうに越したことはない」
ということであった。
しかし、この日静が産んだのは男の子であった。そこで安達清経を遣わし、
その子を鎌倉の由比ヶ浜(ゆいがはま)に捨てることを命じた。頼朝の命を受
けて訪れ、赤子を貰い受けようとした清経に対し静はこれを拒絶、産着を抱き
しめていつまでも泣き叫んだ。声を荒げて迫る清経に、静の母磯禅尼はこのま
までは静まで殺されかねない、と危険を感じたため彼女から赤子を取り上げて
清経に渡してしまった。これを伝え聞いた頼朝の妻北条政子はあまりにも不憫
に思い何とか頼朝を宥めようとしたが、結局聞き入れてもらえず赤子は捨てら
れてしまった。当時由比ヶ浜は鎌倉の外、死者の葬送の場でもあったのである。
鎌倉幕府の正史とされる「吾妻鏡」はしばしば頼朝を冷酷非情に、政子を偉
大に描いているが、これはこの書が北条氏全盛期に書かれたからであろう。
(吾妻鏡)
[1640] 延暦七年(788)七月二十八日 2005-07-27 (Wed) 大中臣清麻呂、薨ず。
この日朝廷の重鎮であった前右大臣の大中臣清麻呂(おおなかとみのきよま
ろ)が亡くなった。享年八十七歳であった。
古来の祭祀氏族であった中臣氏は鎌足の時に天智天皇から藤原の姓を賜り、
藤原を称するようになった。ところが、文武二年(698)になって鎌足嫡流
の不比等(ふひと)とその子孫のみが藤原を称することとなったため、それ以
外の一族は再び中臣に戻った。そしてさらに神護景雲三年(769)にはこの
清麻呂が大中臣朝臣の姓を賜り、彼以降神祇官関係の顕職を独占するようにな
る中臣氏の本宗家は大中臣を称するようになった。
清麻呂は神祇官関係などの職を経て淳仁・称徳朝に次第に要職を占めるに至
り、最後には右大臣に任ぜられた。しかし自分が教育に当たった他戸(おさべ)
親王が皇太子を廃された後辞職を乞うたが許されず七年後の天応元年(781)
漸く引退を許された。その後長岡京に遷都してからも平城旧京で余生を送った。
天平宝字二年(758)二月には彼の家に大伴家持らが集まって宴会を行っ
た。その時の歌十五首が万葉集に残されている。
高円(たかまと)の 野辺延(のへは)ふ葛(くず)の 末(すゑ)つひに
千代に忘れむ 我(わ)が大君(おおきみ)かも (巻二十・4508)
(訳)高円離宮の 野辺に生える葛の 草の葉の末の(ように我らの行く末を)
いつまでもお忘れになる そんな先帝陛下(聖武)ではいらっしゃらないぞ
この前年の橘奈良麻呂の乱によって政権を完全に掌握、専権をふるう藤原仲
麻呂に与しない中立派の重鎮らしい歌と言えようか。
(続日本紀)
[1639] 建久元年(1190)七月二十七日 2005-07-27 (Wed) 大仏殿の母屋の柱を立てる。
治承四年(1180)十二月、平家の焼き討ちによって失われた東大寺大仏
の再建は当時の国家にとって最優先の課題であった。直ちに再建が準備され、
僧重源(ちょうげん)が大勧進職(事実上の総責任者)に任ぜられ、広く浄財
が募られた。そうして養和元年(1181)十月には大仏の鋳造が開始され、
文治元年(1185)八月には大仏本体が完成、盛大な開眼供養が行われた。
同じ年の三月の壇ノ浦の合戦で平家一門が滅亡、六月には一ノ谷の合戦で捕ら
えられていた大仏を焼いた攻撃軍の大将の平重衡(たいらのしげひら)が奈良
で斬首されており、漸く朝廷も胸をなで下ろしたところであろう。しかし、こ
の時点ではまだ大仏殿を始めとする堂塔は出来ておらず、再建事業の前途はま
だまだこれからであった。しかし平和の訪れにより東国を制圧した源頼朝も全
面的に協力、さらに再建の費用として周防(すおう、山口県南部)一国の税収
が充当されたほか、引き続き広く寄付が募られ、歌人として名高い西行法師も
奥州藤原氏に寄付を募るために東国に赴いている。
この日、大仏殿再建のための母屋の柱が二本立てられた。いよいよ大仏殿再
建が着手されたのである。この後十月の上棟を経て五年後の建久六年にはつい
に大仏殿も完成し、将軍源頼朝も参列し盛大な落慶供養が行われた。
その後も東大寺の復興は続けられ、正治元年(1199)には南大門が再建
され、建仁三年(1203)には運慶・快慶らによって南大門の金剛力士像が
造像された。戦国時代、永禄十年(1567)の松永弾正の焼き討ちで大仏も
大仏殿も失われてしまったが南大門は当時の姿を今に残してくれている。
(玉葉)
[1638] 天武元年(672)七月二十六日 2005-07-26 (Tue) 将軍ら、不破に凱旋。
七月二十三日の瀬田の決戦により近江朝廷が壊滅、翌日の大友皇子の自決に
よって壬申の乱が終結した。大海人皇子(おおあまのみこ、天武天皇)の決死
の脱出行からわずか一ヶ月のことであり、その手際の良さは大海人皇子が必ず
しも近江側の動きによってやむなく挙兵したのではなく、事前に周到な根回し
や準備をしていたことを窺わせる。
大津京を制圧した将軍たちは左右大臣以下逃亡した近江方の人物の探索を行
った後、この日大友皇子の首級を捧げて不破にあった大海人皇子のもとに凱旋、
戦勝を報告した。その後八月二十五日、大海人皇子は高市皇子に命じて近江方
群臣の処断を行った。その結果右大臣中臣金(なかとみのかね)を斬罪にする
など合計八人を死罪とした。また、左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)・大納言
巨勢比等(こせのひと)とその子ら、あわせて中臣金の子、蘇我果安(そがの
はたやす)の子を流罪に処したが、そのほかは悉く赦免した。
ところが、この間椿事があった。大海人皇子が不破に入った時に二万の大軍
を率いて伺候、戦闘の帰趨に決定的な役割を演じた功臣、尾張守の少子部●鉤
(ちいさこべのさひち、●は金+且)が山に隠れて自決したのである。これを
聞いた大海人皇子は「●鉤(さひち)は大功ある者である。罪無くして何故自
殺したりするのか。何か陰謀でもあったのだろうか。」と言われた。或いは実
際に近江軍の来攻・決戦の時に内応する計画でもあったのかも知れない。
なお後には皇位継承の絶対的な条件とされる三種の神器についてはこの壬申
の乱において何故か全く触れられていない。
(日本書紀)
[1637] 天平三年(731)七月二十五日 2005-07-24 (Sun) 大伴旅人、薨ず。
この日、大納言大伴旅人(おおとものたびと)が薨じた。彼は孝徳朝の右大
臣大伴長徳(ながとこ)の孫で壬申の乱の功臣大伴安麻呂の長子であった。養
老二年(718)三月に中納言に任ぜられ、同四年の隼人の反乱では征隼人持
節大将軍として下向、鎮圧に成功した。その翌年頃には大宰帥(だざいのそち、
大宰府の長官)として大宰府に赴任した。これは恐らく長屋王排撃を狙う藤原
氏がその時に邪魔になる大伴氏の族長を都から遠ざけることで後の長屋王の変
の布石を打ったのだと考えられる。この大宰府時代、万葉集巻五を中心に筑前
守山上憶良(やまのうえのおくら)らと盛んに歌を詠みあい、大宰府文壇と言
えるような状況を現出した。特に「酒を讃(ほ)める歌」は名高い。
なかなかに 人とあらずは 酒壺(さかつぼ)に
成りにてしかも 酒に染(し)みなむ (万葉集巻三・343)
しかし、この時愛妻を失い、また自らも一時は危篤となるほどの重病に陥る。
何とか回復した後、天平二年十一月頃に大納言に昇進、念願の帰京を果たした
がその道中での妻を偲ぶ多くの歌は涙を誘う。そして帰京して半年ほどのこの
日に帰らぬ人となった。享年六十七歳。なお、歌人としてだけでなく、懐風藻
にも漢詩一首を残す文人であり武人でもあった。
彼は正妻との間に子が無く、晩年に側室との間に歌人として名高い家持(や
かもち)・書持(ふみもち)などの子があったが、晩年の子であったため父の
庇護を受けられなかったこと(家持は当時十四歳)、正室の子でなかったこと
などはやがて家持の官歴に微妙な陰影を落としていくことになる。
(続日本紀)
[1636] 斉明七年(661)七月二十四日 2005-07-23 (Sat) 斉明天皇崩御。
滅亡した百済(くだら)を再興させた鬼室福信(きしつふくしん)らは斉明
六年十月に日本に使者を派遣、唐の捕虜百余人を献上、状況を報告し、救援と
あわせて人質として日本にあった王族の豊璋(ほうしょう)を王と仰ぎたい旨
を願い出た。百済の滅亡時に王族は根こそぎ唐に拉致されたため国の核となる
者がいなかったためである。これを聞かれた天皇は痛く同情し、豊璋を遣わす
こと、そして大軍を派遣して救援することを告げた。そして十二月二十四日、
自ら難波宮に行幸され、救軍(すくいのいくさ)の準備をされた。そしてこの
年一月六日にいよいよ難波津を出航、大伯(おおく、広島県邑久郡)、熟田津
(にきたつ、愛媛県松山市)を経て三月二十五日には娜大津(なのおおつ、福
岡市博多港)に到着、磐瀬行宮(いわせのかりみや、福岡市南区三宅)に入ら
れた。そして五月九日には朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみ
や、福岡県朝倉郡朝倉町)に遷られた。しかし、この宮の造営のために麻弖良
布(まてらふ)神社の神域の木を切ってしまったからか、宮に落雷があり、ま
た宮中に鬼火が出て多くの病死者が出た。その一人であったのか、六月に伊勢
王(いせのおおきみ)が薨じ、そしてこの日斉明天皇自身が朝倉宮で崩御され
た。宝算は後世の史書には六十八歳とも六十一歳とも伝える。
天皇の棺は八月一日に皇太子中大兄皇子らによって磐瀬宮に遷されたが、そ
の日の夕方、朝倉山の上で大きな笠をかぶった鬼が葬列を見守っていたという。
葬列は十月七日、海に入り二十三日には難波に戻られた。暗く不吉な空気を含
んで百済救援軍は白村江(はくすきのえ)の破滅へと向かって行く。
(日本書紀)
[1635] 天武元年(672)七月二十三日 2005-07-22 (Fri) 大友皇子自決。
皇位を巡っての古代最大の戦乱であった壬申の乱は主に二つの戦場をその舞
台とした。一つは吉野から長駆不破に脱出、そこを本拠とした大海人皇子を奉
じて直接近江の大津京を目指した戦闘であり、これは結果的には連戦連勝、最
後に瀬田の決戦によって近江朝廷は崩壊した。
しかし、もう一つの戦場、倭京を巡る戦いは一進一退の苦しいものであった。
一族を挙げて大海人皇子方についた大伴氏の一員、吹負(ふけひ)は六月二十
九日に飛鳥の旧京を制圧した後、七月一日に乃楽(なら)に向かった。その時
河内方面からの近江軍来襲を知って軍の一部を派遣し、これに当たらせた。し
かし、手薄になった吹負自身は乃楽山の戦いで大敗、命からがら敗走した。こ
の敗報を知った大海人方からは置始菟(おきそめのうさぎ)以下千余騎が救援
として派遣され、援軍を得た吹負は逆襲に転じ、七月四日には箸陵(はしのは
か、箸墓古墳)で近江方の軍に大勝し、漸く倭京の制圧に成功、吹負は二十二
日には難波に進み、西国をも掌握した。
同じ日、瀬田の戦場から命からがら逃れた大友皇子であったが、既に周囲は
敵兵であふれ、また上述の通り西国も制圧された以上もうどこにも逃げ場はな
かった。山前(やまさき、不詳、大津京近辺か)に隠れた彼は結局ここで首を
くくった。僅かに物部麻呂(もののべのまろ)ら二、三人が従っていただけの
寂しい最後であった。歴代天皇として数えられることのなかった彼であったが、
水戸光圀の「大日本史」などによりその即位が推定されたのを受けて、明治三
年になって漸く皇統譜に加えられ、「弘文天皇」と追号された。
(日本書紀)
[1634] 天武元年(672)七月二十二日 2005-07-21 (Thu) 瀬田の決戦。
不破を出てから破竹の勢いの進撃を続ける村国男依(むらくにのおより)以
下の大海人皇子軍は九日の鳥籠山(とこのやま)の戦いの後、十三日には安河
(やすのかわ、野洲川)の戦いで近江軍に大勝し、社戸大口(こそへのおおく
ち)、土師千島(はじのちしま)らを捕らえた。そして十七日には栗太(くる
もと、瀬田川左岸)に達して同地の近江軍を駆逐、二十二日にはとうとう瀬田
に到着し、近江軍と対峙した。
一方の近江軍は瀬田の橋(現在の瀬田の唐橋の80mほど下流にあったらしい)
の西に大友皇子以下が布陣し、大海人軍の攻撃に備えた。将軍智尊(ちそん、
渡来人?伝未詳)が先鋒として精鋭を率いて陣取り、瀬田の橋の中央部の三丈
(9m)ほどの橋板を外し、そこに長い板を渡し、もし誰かが板を踏んで突入
を図ればこの板を外して転落させようとしていた。また雨のように矢を放つ近
江方の必死の防戦もあって大海人軍も攻めあぐね、戦線は一時膠着状態になる
かと見えた。しかし、この時大海人皇子の側近の一人、大分稚臣(おおきだの
わくみ)が長矛を捨て、甲(よろい)を重ね着して抜刀、この板を走り渡り、
板につけた綱を斬り、矢を突き立てられながらも敵陣に突入した。このため近
江軍は怖れをなして浮き足立ってしまった。将軍智尊は逃げる味方の兵を斬り
捨て督戦に努めたがとうとう近江軍は総崩れとなり、智尊も橋のたもとで斬ら
れた。大友皇子と左大臣蘇我赤兄(そがのあかえ)、右大臣中臣金(なかとみ
のかね)らは何とか脱出して戦場から逃走した。一方の男依らは粟津(あわづ、
大津市膳所町)の岡に布陣した。
(日本書紀)
[1633] 天平勝宝八歳(756)七月二十一日 2005-07-20 (Wed) 土佐の僧専住、僧綱を誹謗して伊豆に配す。
この日、土佐国(高知県)道原寺(どうげんじ、不詳)の僧専住が僧綱(そ
うごう、高僧による僧侶の最高統制機関)を誹謗し忌避に触れたために伊豆嶋
(静岡県伊豆地方。伊豆諸島とは限らない)に配された。
この時には必ずしも流罪、ということではなく恐らく伊豆のどこかの寺で謹
慎させられたのであろう。しかし、それくらいでは専住の行動は改まらず、後
に更に佐渡に配流させられたらしい。そして天平宝字三年(759)五月十五
日の記事によればそうして佐渡に流された彼ともう一人の僧がなお悔い改める
ことなかったためとうとう還俗(げんぞく、僧から俗人に戻す、結果として税
や課役を負担せねばならなくなる)させられた、ということである。
この時専住が言った誹謗中傷の中身はもちろん記録されていない。しかし、
この年五月二十四日に僧綱の任命が行われている。これは同月二日に崩御され
た聖武上皇の病気平癒祈祷などへの慰労を兼ねたものではあったが、この時に
僧綱の最高位である大僧都(だいそうず)には鑑真と良弁(ろうべん)が、そ
して鑑真の高弟法進(ほっしん)も律師(りっし)に任じられている。恐らく
彼の批判は鑑真大和上らへの厚遇を批判したものではなかったか。土佐という
当時の辺境に住んでいた彼が鑑真の日本渡航へかけた情熱、乗り越えてきた数
多くの苦難の道をどこまで知っていたかはわからないが、彼としては外国から
ぽっと出てきただけでいきなり最高位に、というのが気に入らなかったのでは
ないか。いつの時代でも自らの精進の欠落を棚に上げて他人の営々たる努力の
結果を批判する者はいる。が、これを聞いた鑑真はどう思われただろうか。
(続日本紀)
[1632] 朱鳥元年(686)七月二十日 2005-07-19 (Tue) 朱鳥改元、宮号制定。
天武六年(677)十一月一日、筑紫大宰(つくしのおおみこともち、後の
大宰府)から赤烏が献上された。また九年七月には飛鳥浄御原宮(あすかのき
よみはらのみや)の南門に朱雀(赤い雀)がいるのが発見された。更に十年七
月一日にも朱雀が発見された。こういった珍奇な生き物は名君の治世に現れる、
とされることから相次ぐこれら瑞祥現象にこの日久しぶりの元号が定められた。
大化・白雉以来となる元号は「朱鳥(あかみとり)」であり、最初で最後の和
語による元号となる。但し、後には音読みして「しゅちょう」としたり、漢語
風に「朱雀(すざく)」と呼んだりもしている。
ただ、この改元はむしろ天武天皇の病気平癒を願ってのものであったらしい。
この年五月二十四日、不予(ご病気)になられた天皇は川原寺で病気平癒を祈
っての薬師経読経や諸寺の清掃、また大赦などを行った。しかしご病状がよく
なられないため病気の原因を占いによって求めたところ、草薙剣(くさなぎの
つるぎ)の祟り、と出たため宮中からこれを熱田神宮に返却。さらに仏教関係
の儀式や寄進、神道の大解除(おおはらえ)や奉幣の実施、調と徭役の免除と
いったことを次々に行ったが一向に回復しなかった。この月の十五日にはとう
とう「天下のことは大小を問わずすべて皇后(持統天皇)と皇太子(草壁皇子)
に啓上せよ」と命ぜられている。いよいよ病が深刻化して来たらしいことがう
かがわれる。これらの一環としてこの日の改元が行われた。また、同時に天武
の都に正式に飛鳥浄御原宮の名称が定められた。こうした必死の願いにもかか
わらず、九月九日には天武天皇は崩御されてしまうのであった。
(日本書紀)
[1631] 天平勝宝六年(754)七月十九日 2005-07-18 (Mon) 太皇太后藤原宮子薨ず。
この日太皇太后藤原宮子が平城宮の中宮(内裏の施設の一つ?)で崩御され
た。彼女は藤原不比等の娘であり文武天皇の夫人となって首親王(おびとのみ
こ、聖武天皇)を産んだ人であった。本来は夫人であり、側室のような地位で
あったが子(聖武)や孫(孝謙)の即位により皇后として扱われるようになっ
たためこの時点では太皇太后(先々代の皇后)と呼ばれていた。
しかし、産まれてこの方聖武は彼女と会うことができなかった。それは彼女
が「幽憂(ゆうゆう)に沈み久しく人事を廃す」という状態、即ち精神に異常
をきたしており人と会ってまともに話をしたり出来る状態に無かったためであ
る。その彼女が初めて聖武と対面したのは天平九年(737)のことであり、
聖武を産んでから三十六年も経っていた。この時は僧玄●(げんぼう、●は日
+方)の看病によって正気に戻ったため面会することが出来た、という。しか
しその後も記事はほとんどないところから回復したと言うよりはその時はまだ
調子が良かった、というような状態であったと思われる。先の慶事もあって大
変重用された玄●もその後藤原広嗣の変などにより没落、最後は事実上流罪と
して大宰府観世音寺で寂しく亡くなったことを考えても、その時の状態は一時
的な回復に過ぎなかったものと考えられる。
このことは聖武の生涯を通じても微妙な陰影を与え続けたものであろう。彼
は終生母の愛を知らず、祖母の元明や伯母の元正を母代わりとして成長したの
であった。ここ一番で辛抱することが出来ない聖武の精神的な弱さは結局は事
実上母がいなかった、という点に大きく起因したのであろう。
(続日本紀)
[1630] 斉明六年(660、百済義慈王二十年)七月十八日 2005-07-17 (Sun) 百済滅亡。
久しぶりに中原の野を統一した中華帝国・隋の登場は朝鮮半島にも大きな影
響を与えた。それまでの王朝はいわば権威だけであったのが隋王朝は軍事力を
背景に直接的な影響力を及ぼし、特に北方の大国高句麗(こうくり)は隋の大
軍による数次に亘る侵攻を受けるに至った。名宰相泉蓋蘇文(せんがいそぶん)
の指揮下、何とかこれをしのぎ、遠征失敗は隋王朝そのものを崩壊させるに至
り、唐王朝を成立させたのであるが、唐もやはり高句麗侵攻を継続した。
一方で北方の脅威が大幅に減少した百済(くだら)は新羅(しらぎ)に対し
て大攻勢に転じた。従来主に高句麗と新羅、百済と日本という同盟関係が見ら
れたのであるが高句麗が存亡の危機にあって新羅どころではなかった。それど
ころか、推古九年(601)大伴囓(おおとものくい)の高句麗への派遣は日
本・高句麗・百済の同盟成立の可能性をも示唆する。窮地に立った新羅は唐に
すがり、唐は百済・新羅に戦闘中止を命じた。しかし百済は恭順の意を表しつ
つも攻勢を継続、遂に蘇定方(そていほう)以下の唐軍の侵攻を招くに至る。
唐十三万・新羅五万の連合軍の前で百済軍は黄山・熊津江(ゆうしんこう)の
戦闘で壊滅、首都泗●(しひ、●はさんずいに比)は七月十二日から連合軍に
包囲されてた。十三日、太子の隆が降伏し、義慈王は熊津城に逃れて籠城した
が、この日遂に王は唐・新羅連合軍の前に降伏してきた。王や太子を始め王族
・重臣93人、民衆12000人は唐に連行された。このため、後に鬼室福信らが百済
再興の兵を挙げたとき、王とすべき王族が百済国内に誰もおらず、そのため人
質として日本にあった扶余豊璋を再興百済の王として迎えることとなる。
(三国史記・新羅本紀)
[1629] 慶雲四年(707)七月十七日 2005-07-16 (Sat) 元明天皇即位。
この前年慶雲三年十一月、不予(ご病気)になられた文武天皇はその母であ
る阿閇皇女(あへのひめみこ)に譲位して病気治療に専念したい旨を伝えられ
た。驚いた彼女は辞退したがその後も同じことが何度も繰り返された挙げ句、
この年六月十五日にはとうとう譲位を承諾、文武天皇はその日のうちに崩御さ
れた。その遺詔を受けてこの日彼女は文武の遺児である首(おびと)親王(後
の聖武天皇、当時七歳)の成長までのつなぎとして即位された。推古天皇、皇
極/斉明天皇、持統天皇に続く四人目の女帝、元明天皇である。
崩御されたその日に譲位されたということの真偽は別にして文武天皇の崩御、
というこの事態は深刻な問題となった。今までであれば兄弟など同世代の皇位
継承権者の間で皇位が受け継がれたのであるが、草壁皇子にはほかに子が無く、
あらゆる慣例を無視し陰謀を巡らせて強引にともかく文武に皇位を伝えたのに
今更別の天武皇統に位を伝える訳にはいかなかった。それを回避するためには
持統天皇の例のように文武の遺児の首親王の成長までの間、皇后が皇位を代行
(即位を含む)する、という方法があったが、文武は皇后をまだ立てていなか
った上、夫人(側室)として首親王を産んだ藤原宮子は皇族でなかったばかり
か精神に異常をきたしており、とても大任に耐えられる状態ではなかった。そ
のため文武の母である元明を中継ぎに立てるしかなかったのである。
この日の即位の詔には初めて「改(かは)るましじき常の典(のり)」が登
場する。これは天智天皇が定めた嫡子相承による皇位継承法であると見られ、
奈良時代を通して皇位継承についての大原則とされた。
(続日本紀)
[1628] 文治二年(1186)七月十六日 2005-07-15 (Fri) 東大寺大仏の眉間から光。
治承四年(1180)、平重衡(たいらのしげひら)の焼き討ちによって焼
け落ちた東大寺大仏は重源上人の勧進により再建が進められ、文治元年八月に
は大仏本体は完成、民衆の熱狂の中、開眼供養が行われた。
それから一年。東大寺の大仏の拝殿(当時は大仏殿はまだ再建されておらず、
法要・参籠のための仮殿か)に参籠していた僧叡俊(えいしゅん)は大仏の眉
間から光明が放たれていることに気がついた。灯籠の灯が反射したものだろう
か、それとも目の錯覚か、と不審に思っていたところ、近くにいた勝恵(しょ
うえ)という僧に「光を見たか」と問われた。それで見間違いではなかったこ
とがわかり、周囲の人々にも確認したが、ほかの人々は見た人もいれば見なか
った人もいたらしい。
さらに閏七月八日には谷尼公(たにのあまぎみ)という尼が同様に光を目撃
しており、十五日には伊賀の覚俊(かくしゅん)という大仏を深く信仰する人
が通夜して祈りを捧げたときにも光を見、また鎮守の手向山八幡宮の巫女も拝
殿でお勤めをしていた時に光を見て感涙にむせんだ。二十一日には観乗(かん
じょう)という僧が大仏の仏壇に登ったときにやはり眉間に光を見ており、小
僧の国頼(くにより)という者もやはり光を見たらしい。
これらの話は行政側の再建責任者である藤原行隆(ふじわらのゆきたか)が
拝殿で当事者たちから聞いた話を右大臣の九条兼実(くじょうかねざね)に伝
えたものであり、この段階で既に多数の参籠者があったこと、「奇跡」が広が
って伝わっていたことなどがわかる。
(玉葉 文治二年閏七月二十七日条)
[1627] 斉明三年(657)七月十五日 2005-07-15 (Fri) 須弥山を築きトカラ人を饗応。
重祚(ちょうそ、再度の即位)されてからの斉明天皇は頻りに土木工事を命
じられた。元年冬、飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)の火災により飛鳥
川原宮(あすかのかわらのみや、川原寺の地にもとあった宮殿?)に遷られた
後、二年には飛鳥の岡本を都と定められて造都された。同年遷都された後飛鳥
岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや、所在は諸説あり)である。さらに田
身嶺(たむのみね、多武峰)の周囲に垣を巡らせ、その上の二本の槻(つき)
の木の傍に見晴台を建て、両槻宮(ふたつきのみや)とも天宮(あまつみや)
とも言った。また水工(みずたくみ)に溝を掘らせて天香具山の西から石上山
(いそのかみやま)まで通した。そこに舟二百隻を用いて石上山の石を積んで
流れに従って宮の東の山に運び、石垣を築いた。時の人はこれを批判して「狂
心(たぶれごころ、気狂い沙汰)の渠(みぞ)だ。溝を掘るのに人夫三万余、
石垣を築くのに人夫七万余を費やした挙げ句、宮殿の材木は腐り、山頂は埋も
れてしまった」とか、「石で山を築いたって作るそばから自然に崩れるだろう」
と言ったという。また、吉野に離宮を造営したのもこの時であった。
そしてこの日、飛鳥寺の西に須弥山(すみせん、仏教の言う世界の中心にあ
る山)の模型を築き、盂蘭盆会の行事を行った。その暮れには三年前に吐火羅
(トカラ)国から漂着した人々をここで饗応した。吐火羅国は現在のタイにあ
ったドヴァーラヴァティか、と言われている。
近年この時の須弥山の遺跡や、狂心の渠の遺構と見られるものが次々と発見
され、これらの記事が事実に基づくものであることが明らかになった。
(日本書紀)
[1626] 延暦八年(789)七月十四日 2005-07-13 (Wed) 三関の廃止。
この日、伊勢・美濃・越前の三国に対し、三関(さんげん)、即ち伊勢の鈴
鹿、美濃の不破(ふわ)、越前の愛発(あらち)の三つの関所を廃止する、と
いう詔が出された。それによると、もともと関所を設置するのは非常事態に対
処するためであったが、既に国内は安定しており、実際に関が機能することが
なくなっている一方で関所の存在は交通の障害となっており、公私の往来がそ
のために関所で滞留することになってしまっていた。そのためにこの際これら
三関は一切停廃し、そこに収められていた兵器は国府に運び入れ、そのほかの
建物などは近くの郡などに移建すること、などが述べられている。
この理由にもある通り、これら三関はもともと畿内に非常事態が発生した際
に畿内を脱出した勢力が東国に逃れることを防ぐ目的で設置されており、その
正面は東国ではなく畿内側を向いていた。現実にそのような事態が発生したの
は天武元年(672)の壬申の乱であり、いち早く東国に脱出、鈴鹿と不破を
押さえて反撃を行った天武天皇が近江朝廷の打倒に成功、恐らくこれを契機に
三関というものも整備されたのであろう。また、天平宝字八年(764)の恵
美押勝(えみのおしかつ)の乱においては押勝(藤原仲麻呂)が事前に周到な
準備をしていたにもかかわらず吉備真備(きびのまきび)の迅速な対応によっ
て愛発の関の確保に失敗、進退窮まった挙げ句に敗死するに至っている。
この時廃止された三関ではあるが、その後も天皇の代替わりなどには形式的
に関の閉鎖(固関:こげん)が行われた。また、その固関も弘仁元年(810)
以降は愛発に代えて近江の逢坂(おうさか)の関が対象とされた。
(続日本紀)
[1625] 保元元年(1156)七月十三日 2005-07-12 (Tue) 悪左府頼長、父に見捨てられ憤死。
父の鳥羽法皇の意向で心ならずも異母弟の近衛に譲位させられた崇徳天皇は
その近衛天皇の崩御により今度はわが子の重仁親王に皇位が回ってくる、と期
待した。しかし、皇位は弟の後白河に伝えられた。崇徳の深い恨みを抱き鬱々
としたは日々を送ることになる。一方、摂関家でも藤原頼長と忠通(ただみち)
の家督を巡る争いが激化していた。このうち、左大臣頼長は学問を愛した人物
ではあるが同時に激しい気性であったため、世に悪左府と称された。この対立
は蔭ですべてを操っていた後鳥羽法皇の崩御により一気に表面化し、崇徳上皇
・藤原頼長方は源為義(みなもとのためよし)やその子鎮西八郎為朝(ちんぜ
いはちろうためとも)、平忠正らの武士を、一方の後白河天皇・藤原忠通方は
源義朝、源頼政、平清盛らを招き、ここに保元の乱が始まった。
しかし、この乱そのものは一日で終わってしまった。為朝の夜討ちの献策は
頼長に一蹴されたが、後白河側は義朝の献策に従い崇徳の御所白河殿の夜討ち
を行った。この戦闘であっけなく勝負は決し、崇徳は脱出(後に出家)したも
のの頼長は途中流れ矢が首に当たり重傷を負った。虫の息の頼長はせめて最後
に父忠実(ただざね)に暇乞いを、と望み、木津川を遡って父の住む奈良を目
指した。しかし、この日使者を遣わした父の答えは冷たいものであった。「氏
の長者たる者が武器に傷つけられるなどとは縁起でもない、そんな不運なもの
になど会いたくもない。どこか目にも見えず音にも聞こえないところへ立ち去
れ」と。それを聞いた頼長は顔色を変えて舌の先を食い切り、翌日昼頃にやっ
と見つけた興福寺近くの隠れ家で息絶えた。
(保元物語 中 左府ノ御最後 付 大相国御嘆キノ事)
[1624] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)七月十二日 2005-07-11 (Mon) 右大臣藤原豊成、左遷。
この日政界の最高官であり、また藤原氏の恐らく氏上(うじのかみ、族長)
であった藤原豊成が右大臣を罷免され、大宰員外帥(だざいのいんげのそち)
に左遷された。大宰員外帥とは名目であり、実質は後の菅原道真と同じで流罪
になる。その理由は「内々に橘奈良麻呂らの反逆者と通じ、密かに紫微内相
(しびないしょう、光明皇后の政務機関の長官)である藤原仲麻呂を忌み、ま
た内乱の計画を知りながらもそのことを奏上せず、陰謀が露見してもちゃんと
究明しなかった」とされている。実際に巨勢堺麻呂(こせのさかいまろ)の密
告によれば答本忠節(たほのちゅうせつ)から聞いた話として彼が蜂起計画を
豊成に伝えたときも豊成は「大納言(藤原仲麻呂)は年が若い。私が教え誨
(さと)してそんなことが起きないようにしよう」と言ったとされるし、また
最初に逮捕された小野東人(おののあずまひと)・答本忠節らの尋問を行った
のも豊成らであったがこの時も特に自白は得られなかった。こういったことを
指したものであろう。恐らく豊成は実際に独裁を狙う仲麻呂の行動を苦々しく
思い、何とか事態を穏便に収めようと考えていたのであろう。仲麻呂からすれ
ばそんな行動がそもそも許せないものであった。しかし、この豊成は藤原武智
麻呂(むちまろ)の長男で仲麻呂には同母兄にあたる。仲麻呂にとっては最も
近い一族であり、その兄でさえ仲麻呂に好感を持っていなかったことになる。
そして弟はそれに対して冷酷極まりない報復を行ったのであった。
但し、豊成は実際には大宰府赴任途中で病気と称して難波にとどまり、仲麻
呂の失脚後に政界に復帰した。
(続日本紀)
[1623] 天平二年(730)七月十一日 2005-07-11 (Mon) 斎王井上内親王のため斎宮を拡充。
この日、伊勢神宮及び斎宮に関する以下の内容の詔が出された。
「今後、斎宮に関する経費はすべて国費から支出する。今まで通りに神宮の神
戸(かんべ、神領)からの庸調などの税を用いてはならない。また伊勢神宮の
禰宜(ねぎ)には官位二階を昇進させる。内人(うちひと)六人には同じく一
階昇進させる。年齢の長幼は問わない。」
これより先、養老五年(721)九月十一日に斎王に任ぜられた皇太子首親
王(おびとのみこ、聖武天皇)の皇女井上王(いのうえのおおきみ/いがみの
おおきみ)は長い潔斎の後、内親王となった神亀四年(727)九月三日にい
よいよ伊勢神宮に群行(ぐんぎょう、斎王の伊勢神宮下向を指す)された。
斎王は伊勢神宮に天皇の名代として仕える最高の巫女で、古くからあったら
しいが制度として確立されたのは天武天皇の時の斎王大伯皇女(おおくのひめ
みこ)である。斎王を支える役所が斎宮寮(いつきのみやのつかさ)であり、
井上内親王の群行の直前には百二十一人の官僚が任命されている。この時、そ
の規模が大幅に拡充されたらしい。その結果斎宮の負担が伊勢神宮の財政を圧
迫、結果としてこの日の詔にあるように斎宮の財政を国家直属として伊勢神宮
とは独立の機関とし、あわせて懐柔のため伊勢神宮の在地の神官たちの官位を
昇進させたものであろう。禰宜は実質的に神宮祭祀を司っており、内宮は荒木
田氏、外宮は度会(わたらい)氏が世襲した。内人はその下の神職。
井上内親王は後年白壁王の妃となり、王の即位(光仁)により皇后となった
が陰謀に巻き込まれて悲劇的な最後を遂げる人である。
(続日本紀)
[1622] 天平十年(738)七月十日 2005-07-10 (Sun) 長屋王の変の密告者殺される。
この日、左兵庫少属(さひょうごのしょうぞく、左兵庫寮の最下級の役人)
大伴子虫(おおとものこむし)は右兵庫頭(うひょうごのかみ、左兵庫寮と並
ぶ役所、右兵庫寮の長官)中臣宮処東人(なかとみのみやこのあずまひと)と
碁を打ち興じていた。当時碁は貴族の遊戯として流行しており、恐らく子虫は
碁が得意であったために位を越えてつきあいがあったものであろう。この日も
政務の合間に二人で碁を打っていたのである。
しかし、打ちながらの雑談の中で東人は長屋王のことを口にした。恐らく彼
は知らなかったのだろうが、子虫はかつて長屋王に仕え、大変可愛がられてい
た人物だった。そうとは知らず東人が口にしたのはかつてその長屋王に謀反の
企てあり、と虚偽の訴えを行い、その功績によって現在あるような高い位を得
たのだ、という自慢話ではなかったろうか。一部始終を聞き届けた子虫は激怒
して東人を罵倒、とうとう刀を抜いて東人を斬り殺してしまった。
長屋王は栄華を極めながら天平元年(729)、謀反を企んでいる、という
讒言を受けて自決させられ、その妻子も(藤原氏ゆかりのものを除いて)悉く
殺される、という悲劇に見舞われた。そしてこの時殺された東人こそはその讒
言を行った張本人であり、せいぜい子虫の同僚でしかあり得ないはずの彼が役
所の長官という高位にあるのは正にその恩賞であった。
子虫のその後は処罰されたかどうかも含めて記録には残されていない。しか
し、正史の「続日本紀」でさえこの記事を「東人は長屋王のことを誣告(むご
う/ぶこく、讒言)した人である」と結んでおり、当時の認識を示す。
(続日本紀)
[1621] 天武元年(672)七月九日 2005-07-09 (Sat) 近江鳥籠山の戦い。
美濃の不破(ふわ、岐阜県関ヶ原町)に本営を置いた大海人皇子軍は七月二
日に紀阿閉麻呂(きのあへまろ)・多品治(おおのほんじ)・三輪子首(みわ
のこびと)・置始菟(おきそめのうさぎ)らに数万の兵を率いて倭(やまと)
に向かわせ、また村国男依(むらくにのおより)・書根麻呂(ふみのねまろ)
・和珥部君手(わにべのきみて)・胆香瓦安倍(いかごのあへ)らには数万の
兵を率いて直接近江の都を攻撃させることとした。後に改めて多品治以下三千
に●萩野(たらの、●は草冠に刺、三重県上野市?)を固めさせ、田中足麻呂
(たなかのたりまろ)に倉歴(くらふ、三重県阿山郡伊賀町)道(伊賀から近
江の甲賀に抜ける道)を守らせた。また味方の識別のため赤色を目印として衣
の上に着けさせた。
一方、近江方は山部王(やまべのおおきみ)・蘇我果安(そがのはたやす)
・巨勢比等(こせのひと)以下数万の兵に不破を襲わせようとしたが、軍の内
訌により自滅。逆に将軍の一人羽田矢国(はたのやくに)らが一族を挙げて投
降する有様であった。一方、別将の田辺小隅(たなべのおすみ)は七月五日、
倉歴に田中足麻呂を破ったが六日には多品治の奮戦で敗退、これ以降近江方の
来襲はなかった。
近江を目指した村国男依らの率いる軍は七日には近江軍と息長(おきなが)
の横河(滋賀県米原町醒ヶ井付近?)で戦ってこれを破り、将軍境部薬(さか
いべのくすり)を斬ったのに続き、この日は鳥籠山(とこのやま、彦根市の正
法寺山)に秦友足(はだのともたり)を破ってこれを斬った。
(日本書紀)
[1620] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)七月八日 2005-07-07 (Thu) 逆徒の亡魂に託した浮言を禁ず。
橘奈良麻呂の変は結局その杜撰な計画と密告者の続出、そしてこの機会を虎
視眈々と狙っていたために先手先手と動いた藤原仲麻呂の前にあっけなく潰え、
主要関係者の全員が杖下に死すという悲惨な結果に終わった。その中にはかつ
て遣唐副使として鑑真大和上を招くのに成功した大伴古麻呂や越中国府で大伴
家持と歌の贈答を繰り返した大伴池主などもいた。
この日出された詔によると、この段階で早くも彼らの亡魂に託した浮言をな
すものがあったらしく、このような者はすべて与同罪(共犯)として扱うこと
を告げている。
この「亡魂」が怨霊を指すのか、それとも現在も残る恐山などのイタコのよ
うに死者の魂が告げた、ということなのかは明らかではないがいずれにせよこ
の段階で政府の取った対策はこれだけであり、明らかに霊や祟りを恐れている
のではなく、生きている人間を恐れている。
怨霊らしきものは「日本書紀」には登場せず、「続日本紀」でも僧玄●(げ
んぼう、●は日+方)の死に関して藤原広嗣の怨霊の祟り、という噂を挙げる
のが初出になる。恐らく日本古来の信仰では怨霊というものは存在しなかった
のであろう。現に奈良時代以前に創建された神社で氏族の祖先や伝説の英雄を
除き人を祀ったものは知られていない。
怨霊の祟りがあった、とされるのが知られる最初は藤原種継暗殺事件に関連
して憤死した早良親王であり、貞観十八年(876)創建と伝えられる祇園感
神院(現八坂神社)や御霊神社を中心に平安時代に広く恐れられるに至る。
(続日本紀)
[1619] 天長元年(824)七月七日 2005-07-06 (Wed) 平城上皇崩御。
この日、出家されて平城宮にあった平城(へいぜい)上皇が崩御された。宝
算五十歳。平城天皇は桓武天皇の第一皇子で安殿(あて)親王といった。藤原
種継暗殺事件の結果早良親王が薨じたことにより皇太子となった。しかし、そ
の病弱であるのは早良親王の怨霊の祟りによるものと考えられた結果恐怖した
桓武天皇は早良親王の怨霊を慰めるため早良親王に崇道天皇の諡号を贈るなど
慰霊に努めたが結局病弱は直らなかった。
延暦二十五年(806)、桓武天皇の崩御に伴い即位。藤原氏の期待に反し
彼は必ずしも藤原一辺倒ではなく、長い間鬱屈した想いを抱いていた斎部広成
(いんべのひろなり)は狂喜して斎部氏の伝承を「古語拾遺」にまとめて献上
した。が、結局病気のため大同四年(809)に弟の嵯峨天皇に譲位された。
譲位後の御所はなかなか定まらず各所を転々とした後、やがて平城旧京に遷ら
れた。しかし、彼の寵愛を受けた藤原薬子(ふじわらのくすこ、種継女)の扇
動に乗ってやがて平安京の嵯峨天皇をないがしろにする命令を発するようにな
る。自重してこれを尊んでいた嵯峨天皇側も上皇が弘仁元年(810)、平城
京への遷都を命ずるに及びその工事の人夫という名目で坂上田村麻呂以下の軍
を派遣、一方で薬子の官位を剥奪、その兄仲成を殺した。怒った上皇は東国を
目指したが田村麻呂らに遮られやむなく平城宮に戻り出家、薬子は毒を仰いで
自殺した(藤原薬子の変)。その後は特に目立った動きはなく平城宮で余生を
送られた。その諡号は平城宮を愛されたことによる。御陵も平城宮のすぐ北に
ある古い古墳の後円部が利用された(楊梅陵)。
(日本紀略)
[1618] 養老七年(723)七月六日 2005-07-06 (Wed) 太安万侶、卒す。
昭和五十四年(1979)に奈良市田原町此瀬の茶畑から偶然発見された銅
板は「古事記」の撰者として知られる太安万侶(おおのやすまろ)の墓誌であ
ることがわかり、話題をさらった。その墓誌には次のような文字が記されてい
た。
「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶、癸亥の年七月六日を以て卒(し
ゆつ)す。養老七年十二月十五日乙巳」
当時の墓誌がいずれもそうであるように、簡潔に住所・官位・姓名や亡くな
った年月日などを記すのみである。続日本紀では七月七日の記事として太安麻
呂が卒したことを記すが一日違うのは報告された日などと間違えたのであろう
か。文字も「古事記」序と墓誌は共通して太安万侶としており、恐らく自分で
はそう表記していたのであろう。
太氏はもともと多氏を称しており、安万侶の父は壬申の乱の功臣である多品
治(おおのほんじ)とされる。安万侶の代から太氏を称するが、奈良時代末に
は再び多氏に表記を戻している。大和国十市郡飫富(おお)郷(奈良県磯城郡
田原本町多)がその本拠であり、その地にある多坐弥志里都比古(おおにいま
すみしりつひこ)神社はその氏神である。
安万侶は和銅四年(711)九月、元明天皇の命を受けて「古事記」の撰進
を行い、翌五年正月には完成し、奏上した。墓誌に「勲五等」とある以上、文
官としてだけではなく武官としても功績を挙げたと推定される。亡くなったと
きは民部卿であった。
(太安万侶墓誌)
[1617] 天武十二年(683)七月五日 2005-07-04 (Mon) 鏡皇女、薨ず。
鏡皇女(かがみのおおきみ)は天智天皇の妃の一人。恐らく舒明天皇の娘か
妹で、額田王(ぬかたのおおきみ)の姉とも言われる。万葉集に数首の歌を残
す。彼女と同じく天智の後宮にありながらその愛情の衰えを嘆いた額田王の
君待つと 我が恋ひ居れば
我(わ)が屋戸(やど)の 簾(すだれ)動かし 秋の風吹く
(訳)あなたをお待ちして 私が恋い慕っていますと
私の家の 簾を動かして あなたの代わりに秋の風がやって来ましたわ
という歌に対し、彼女は
風をだに 恋ふるはともし
風をだに 来(こ)むとし待たば 何か嘆かむ (巻四・488-489)
(訳)風であっても 恋しているとは羨ましいわ
たとえ風でも 来るかと待つあてがあるなら どうして嘆いたりしましょう
という歌を返している。彼女はその後(与えられて?)藤原鎌足の正室に迎
えられた。その時の鎌足の求婚に対する彼女の歌も残されている。
玉くしげ 覆ふをやすみ 明けていなば
君が名はあれど 我(わ)が名し惜(を)しも (巻二・93)
(訳)<玉くしげ> 二人の関係を隠すのは簡単と 朝になってからお帰りに
なれば あなたはともかく 私は残念です(その求婚、本気なのでしょうか)
その後鎌足の病気により彼女はその別荘を寺として山階寺(やましなでら)
を創建した。この寺は後に平城京に移転されて興福寺となる。
(日本書紀)
[1616] 天平宝字元年(天平勝宝九歳、757)七月四日 2005-07-03 (Sun) 橘奈良麻呂の変。
橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)は諸兄(もろえ)の子。父を追い落とし
専権を極める藤原仲麻呂に強い反感を持ち、大伴古麻呂(おおとものこまろ)、
小野東人(おののあずまひと)らを誘って仲麻呂を倒し政変を起こそうと企む
に至った。しかし、この計画は漏れてしまったらしく、七月二日には不穏な動
きを憂慮し戒める詔が孝謙天皇と光明皇太后からそれぞれ出された。しかしそ
の夕方、上道斐太都(かみつみちのひだつ)が彼らの決起計画を詳細に密告、
小野東人・答本忠節(たほのちゅうせつ)らを捕らえた。その一方、翌三日に
は仲麻呂は奈良麻呂や古麻呂らを皇太后の御在所に呼び、光明皇太后の詔とし
て「お前たちが謀反を企んでいると聞いたが血縁も近いお前たちに恨まれるよ
うな覚えはない。お前たちを許すから今後は変なことは考えないように」と告
げた。奈良麻呂らは感謝して帰り、恐らく今回のことを断念したのであろう。
しかし、これで引き下がる仲麻呂ではなかった。この日、先に捕らえた東人
の自白に基づき、関係者を次々に勘問した。奈良麻呂には「何故謀反を企んだ
か、という尋問が行われ、彼は東大寺造営で人々が苦しんでいることなどを失
政として挙げた。しかし、それはお前の父諸兄の時に開始された、と指摘され
て奈良麻呂は答えられなかった。尋問の後、さらに拷問を続けさせ、古麻呂や
東人を始め皇位擁立候補者の黄文王(きふみのおおきみ)、道祖王(ふなとの
おおきみ)らは杖下に拷問死した。記録にはないが恐らく奈良麻呂も同様であ
ったと考えられる。これは裁判などになると光明皇太后の赦免などの動きがあ
ることを恐れた仲麻呂が絶好の機会を利用し政敵を一網打尽にしたのであろう。
(続日本紀)
[1615] 推古十五年(607)七月三日 2005-07-03 (Sun) 小野妹子、遣隋使として派遣さる。
日本書紀の記録する小野妹子(おののいもこ)以下の最初の遣隋使がこの日
(恐らく飛鳥の都を)出発した。
隋の歴史書「隋書」によればこの時の使者は大業三年(607)に日本の王
多利思比孤(たりしひこ)の使者蘇因高(そいんこう、小野妹子の音写)が朝
貢し、「聞くところによると海西の菩薩のような天子が重ねて仏法を興隆させ
ている、ということなので使者を派遣して朝拝させ、あわせて僧侶数十人を留
学させたい」と告げたという。しかし、その国書は「日出づる処の天子、書を
日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」で始まっており、怒った隋
の皇帝煬帝(ようだい)は鴻臚卿(こうろけい、外務大臣)に「蛮夷の書状に
は無礼なものがある。こんなものは二度と取り次ぐな」と命じたという。しか
し翌年には気を変えて文林郎(外交関係の役所の最下級官吏)の裴世清(はい
せいせい)を使者として百済経由で日本に派遣した。これはこの九年前に文帝
によって高句麗遠征が行われたものの風雨のため壊滅、それ以降も遠征の機会
を狙っていたため高句麗への牽制の意味があったと思われる。現にこの年にも
高句麗に改めて謝罪させている。
小野氏はもともと近江滋賀郡の豪族であったがこの妹子以降は石根(いわね、
宝亀八年遣唐副使)、滋野(しげの、同年判官)、篁(たかむら、承和五年遣
唐副使、但し彼は病と称し出発せず)、毛野(けの、持統九年遣新羅大使)、
馬養(うまかい、養老二年遣新羅大使)、田守(たもり、天平勝宝五年遣新羅
大使、天平宝字二年遣渤海大使)など外交関係や大宰府関係で重用された。
(日本書紀)
[1614] 天平勝宝元年(749)七月二日 2005-07-01 (Fri) 孝謙天皇即位、天平勝宝改元。
この日、聖武天皇が退位され、平城宮大極殿において皇太子である娘の阿倍
内親王が即位された。孝謙天皇である。その譲位を告げる宣命(和文の詔書)
には元正天皇から天智天皇の定められた「改(かは)るましじき常(つね)の
典(のり)」に基づいて譲位された聖武天皇だが、「万機(よろづのまつりご
と)密(しげ)く多くして」この身にはもう堪えられないのでわが子に譲位す
る、という聖武からの言葉と、自分は「拙(つたな)く劣(をぢな)くあれど
も」みんなが「明(あか)き浄(きよ)き心を以て誤(あやま)ち落とすこと
無く助け仕(つか)へ奉(まつ)る」ことで天下を平安に治めることができる、
という協力を求めた孝謙天皇からの言葉がある。あわせて叙位・任官が行われ
たが、特にこの日藤原仲麻呂が大納言(だいなごん、大臣に次ぐ顕職)に任ぜ
られたのが目を引く。いよいよ仲麻呂が実権を得るようになって来た。
しかし、譲位が公式に行われたのはこの日であってもこれより前の閏五月二
十日には自らを「太上天皇沙弥(しゃみ、僧)勝満」と称しており、さらにそ
の二十三日には薬師寺宮(薬師寺内に造営した御所?)を御在所とされており、
実質的にはもう既に出家のために皇位から退いていたらしい。
同日、この年四月に改元したばかりの天平感宝の年号は再び改元、新しく天
平勝宝の元号が建てられた。年内の二度の改元は日本ではこの年のみ。なお、
天平勝宝は七年になって「年」をやめて「歳」を用いることとされたため、そ
れ以降天平勝宝九歳(757)に天平宝字と改元されるまでの三年間は「天平
勝宝七歳」などと表記される。
(続日本紀)
[1613] 雄略九年(465)七月一日 2005-06-30 (Thu) 田辺伯孫、自分の馬と埴輪の馬を交換。
この日、河内国(大阪府東部・南部)から不思議な事件が報告された。それ
によると同国飛鳥戸(あすかべ)郡(河内飛鳥、大阪府柏原市・羽曳野市)の
人、田辺伯孫(たなべのはくそん)の娘は隣の古市郡(羽曳野市)の人、書加
竜(ふみのかりょう)に嫁いでいた。その娘が男の子を産んだ、と聞いた伯孫
は娘婿の家を訪ねてお祝いをし、月夜になって帰途についた。その途中、誉田
の御陵の下で赤い馬に乗った人と出会った。大変立派な馬であるのを見て伯孫
は内心欲しいと思い、自分の葦毛の馬に鞭を当て、赤馬と並んだ。すると赤馬
は忽ち疾駆して行き、伯孫が必死に追いかけてもおいつくことが出来なかった。
その赤馬に乗った人は伯孫が自分の馬を欲しがっているのを知ると馬を停め、
自分の赤馬と伯孫の葦毛馬を交換してくれた。駿馬を手に入れた伯孫は大変喜
び、走らせて自分の家に帰ると厩に入れ、鞍を外して秣(まぐさ)を与えてそ
の夜は眠った。
ところが、あくる朝、その馬を見たところ埴輪の馬になってしまっていた。
不思議に思った伯孫は誉田の御陵の所まで行ってみると埴輪の馬が並んでいる
間に自分の馬も立っていた。そこで馬を取り返し、その代わりに埴輪の馬を置
いて帰ってきた、という。
誉田の御陵は応神天皇陵とされる誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)。当時
この御陵のところには埴輪の馬が並べられていたことがわかる。また一方、こ
の時伯孫が娘の嫁ぎ先を訪ねていることからは当時の婚姻形態が必ずしも「妻
問い婚」だけでなく「嫁入り婚」もあったということになる。
(日本書紀)
[1612] 持統六年(692)六月三十日 2005-06-29 (Wed) 藤原宮の場所を視察。
この日持統天皇は新都建設が進む藤原宮の現場を視察された。
藤原宮の初出は持統四年十月二十九日、高市皇子による視察記事であり、そ
の後翌年十月二十七日に使者を派遣して「新益京(あらましのみやこ)を鎮祭
(今日の地鎮祭?)された記事がそれに続く。この年になって一月十二日には
初めて持統天皇自身が新益京の路を視察されている。そして翌年二月十日には
造京司の衣縫王(きぬぬいのおおきみ)らに掘り出した尸(しかばね)を収容
させている。これは新京造営に伴って破壊された古墳に葬られていた遺体を指
すと思われ、逆に言えば造営の進展をも示すものであろう。同年八月一日、そ
して翌持統八年一月二十一日の視察を経て十二月六日にこの日本初の本格的都
城に遷都が行われた。
従来は「日本書紀」に記録されたこういった記事から藤原京は持統朝に建設
が開始されたと理解されていた。ところが、藤原京跡の発掘調査の進展により
予想外の事実が発見されていった。この藤原京の都市計画に天武天皇により創
建された本薬師寺がすっぽりと入ることが明らかになったのである。このこと
は藤原京の建設計画は既に天武朝において立てられており、本薬師寺の造営も
その都市計画の一環であったことを示すものである。確かに日本書紀にも天武
十三年(684)二月二十八日に広瀬王・大伴安麻呂らをはじめ技術者までも
畿内に遣わして都を造営する適地を調べさせ、三月九日には天皇自ら「京師を
巡行し、宮室の地を定め」たことが記されている。これらの記事こそが藤原京
造営の開始であり、持統天皇はその遺志を継いで新京を造営されたことになる。
(日本書紀)
[1611] 天武元年(672)六月二十九日 2005-06-28 (Tue) 大伴吹負、飛鳥古京を制圧。
孝徳天皇の時代に大伴長徳(おおとものながとこ)が右大臣となった大伴氏
は恐らく孝徳天皇派であったのか、斉明・天智両朝には逼塞を余儀なくされて
いた。そんな大伴氏にとって壬申の乱は千載一遇の機会であった。近江の大友
皇子と吉野の大海人皇子の対立が深まるに及び大伴馬来田(まくた)・吹負
(ふけひ)の兄弟(長徳の弟)は最後には大海人皇子が勝つことを確信し、病
と称して倭(やまと)にあった家に退いた。そして馬来田は大海人皇子の東行
に従ったが吹負は倭に留まり、大功を挙げる機会を狙っていた。しかし、彼の
挙兵に従おうとする者は同族など僅かに数十人に過ぎなかった。
この日、吹負は飛鳥京の留守司の官僚である坂上熊毛(さかのうえのくまげ)
と共謀、数人の倭漢(やまとのあや、渡来氏族、有力な軍事力を有した)氏に
彼が高市皇子と偽って数十騎の軍を率いて飛鳥寺の北路から襲撃するので内応
するように告げた。
そして秦熊(はだのくま)にふんどし一丁で馬を駆らせて飛鳥寺の西の軍営
の中で「高市皇子、不破より至りませり。軍衆(いくさのひとびと)多(さわ)
に従へり」と叫ばせた。この時、留守司の長官高坂王(たかさかのおおきみ)
と近江方の徴兵使穂積百足(ほづみのももたり)以下がこの軍営にあったが熊
の叫ぶ声を聞き兵たちは逃げ去った。そこへ吹負が襲撃、直ちに熊毛が従い、
なかなか従おうとしない百足を射殺、高坂王や兵士たちを自軍に引き入れ、こ
こに飛鳥古京を制圧した吹負は甥の安麻呂を不破に遣わし大海人に報告、将軍
に任ぜられた吹負のもとには三輪高市麻呂らの豪族が続々と集まった。
(日本書紀)
[1610] 養老四年(720)六月二十八日 2005-06-27 (Mon) 丈部路石勝の子、自らを奴として父の罪を贖う。
この日、漆部司(ぬりべのつかさ)の下級官僚の丈部路石勝(はせつかいべ
のみちのいわかつ)と直丁(じきちょう、雑役夫)秦犬麻呂(はだのいぬまろ)
の二人が官物の漆を盗んだ(業務上横領)罪によって共に流罪に処せられるこ
ととなった。
ところが、石勝の息子たち、祖父麻呂(おおじまろ)十二歳、安頭麻呂(あ
ずまろ)九歳、乙麻呂(おとまろ)七歳の三人が(恐らく)元正天皇への直訴
を行った。「父は私たちを養うために罪を犯してしまいました。そしてそのた
め遠方へ流罪とされてしまいました。私たちは父を救うため死罪をも覚悟して
申し上げます。どうか私たち三人を官奴(かんぬ、政府所属の奴隷)に落とし
てそのことで父の罪を贖(あがな)わせて下さい」と。
これは当時の政府の人々をも深く感動させたらしい。「人の百の行動の中で
特に最優先すべきものは孝敬である。今、祖父麻呂たちは身を奴隷に沈めても
父の罪を贖ってその命を救おうという。まことに憐れむべきである。申し出に
従って三人を官奴とし、代わりに父石勝の罪を許す」という詔が出された。但
し、もう一人の犬麻呂は先の決定の通り流罪とされた。
これは三人の子供たちに残酷に見えるかも知れない。しかし、もし彼らを奴
隷にすることもなく許したら、模倣する者が続出したのではないだろうか。が、
当時の政府の判断は申し分のないものであった。この日から一ヶ月も経たない
七月二十一日、彼ら兄弟は官奴から解放され、もと通りの身分とされた。その
日、涙の再会をした親子の間でどのような会話がなされただろうか。
(続日本紀)
[1609] 天武元年(672)六月二十七日 2005-06-27 (Mon) 大海人皇子、不破に到着。
この前日、桑名に到着された大海人皇子は高市皇子を不破に派遣、軍事を総
監させた。また山背部小田(やましろべのおだ)・安斗阿加布(あとのあかふ)
らに東海道(尾張・三河など)の、稚桜部五百瀬(わかさくらべのいおせ)・
土師馬手(はじのうまて)らに東山道(飛騨・信濃など)の軍勢をそれぞれ徴
発させた。
しかしこの日高市皇子は御所が遠くて政務に不便であるから、として大海人
の出御を乞うた。このため、大海人皇子は妃の菟野皇女(うののひめみこ、後
の持統天皇)を残し桑名を出て不破に入られた。菟野皇女はその後乱の終結ま
で桑名に留まられる。不破郡衙(垂井町府中付近?)に入られる頃に尾張守小
子部●鉤(ちいさこべのさひち、●は金+且)が二万の大軍を率いて大海人皇
子に従われた。そして大海人は改めて軍事を高市皇子に委ね、自らは野上(の
がみ、不破郡関ヶ原町東部)の行宮に留まられた。
不破(ふわ)は伊勢の鈴鹿、越前の愛発(あらち)とともに後に三関(さん
げん)と呼ばれる東国を扼する関所が設置された。ここはこれより九百年余り
後の決戦の舞台ともなった。発掘調査の結果推定されていたとおり不破の関は
東国からの来襲を防ぐのではなく、畿内側を正面とする、つまり畿内の反乱勢
力などの東国への脱出を阻止する構造になっていた。
一方の近江方は事態の急転に動揺しながらも東国・倭京(やまとのみやこ)
・筑紫・吉備に使者を派遣し軍を集めさせたが、東国への使者は大海人方に抑
留され、筑紫では拒絶されるなど後手後手に回ってしまった。
(日本書紀)
[1608] 天武元年(672)六月二十六日 2005-06-26 (Sun) 大海人皇子ら、伊勢神宮を遙拝。
二十四日、吉野を脱出された大海人皇子一行はその日のうちに菟田(うだ)
の吾城(あき、奈良県大宇陀町阿紀神社付近?)に到着、ここで後を追って来
た大伴馬来田(おおとものまくた)たちが合流、さらに大伴朴本大国(おおと
ものえのもとのおおくに)以下の猟師たちを加えるなどして次第に勢力を増強
して夜半には隠(なばり、三重県名張市)郡に到着し、その駅家を焼いて村の
中で「天皇陛下が東国に入られる。人夫たち、供奉するように」と呼ばわった
が応じる者は一人もいなかった。
更に進んで横川(名張市中村)で黒雲を見た。大海人皇子はこれを見て占い
を行い、天下二分の相であり、最後には自分が天下を得る、という結果が出た。
その後は伊賀郡を過ぎて郡司たちの率いる軍勢を合流させ、二十五日の朝には
積殖山口(つむえのやまぐち、伊賀町柘植)で大津京を脱出してきた高市皇子
(たけちのみこ)などが合流、国境を越えて伊勢の鈴鹿(三重県鈴鹿市)に入
り、ここで伊勢国司の軍が合流、これによって鈴鹿の関を封鎖した。川曲(か
わわ)の坂下(さかもと)でこの日も暮れたが降雨のため更に進んだ。
そしてこの日朝、朝明(あさけ)郡の迹太川(とおかわ、三重県四日市市の
朝明川?)ではるか南の伊勢神宮を遙拝、戦勝を祈願した。後に娘の大伯皇女
(おおくのひめみこ)を斎王として派遣するなど伊勢神宮を整備するのはこの
時の戦勝の報恩の意味からであろう。そして大津宮を脱出してきた大津皇子ら
とも合流、美濃の軍勢の動員に成功して不破(ふわ、岐阜県関ヶ原町付近)の
封鎖に成功した一行は桑名の郡衙(ぐんが、郡の役所)に宿泊された。
(日本書紀)
[1607] 宝亀九年(778)六月二十五日 2005-06-25 (Sat) 征夷の有功者に叙爵。
宝亀七年二月六日、陸奥国は律令政府との対立を深める蝦夷(えみし)を鎮
圧するために二万の大軍を発して四月上旬から軍事行動を起こすことを求めた。
政府はあわせて出羽にも四千の軍でその蝦夷を西方からも攻撃するように命じ
た。その後は五月二日、出羽志波村(後には陸奥に所属、岩手県盛岡市付近?)
の蝦夷(えみし)が反乱を起こした記事など関係記事が散見され、その翌年に
も軍事行動が繰り返されたらしい。そして八年十二月十四日には陸奥鎮守将軍
紀広純(きのひろすみ)が「志波村の賊軍が強勢で出羽の鎮圧軍を破ったため
救援軍を派遣して鎮圧した」旨を報告しており、この段階で軍事行動は終息す
る予定であったらしい。ところが、同月二十六日には再び出羽の蝦夷が反乱を
起こし、予定された広純らへの褒賞は延期されていたらしい。
この日陸奥・出羽の国司以下、この長期にわたった軍事行動で功績のあった
者合計2267人に官位や勲位が与えられた。先の反乱の鎮圧記事は見られないが、
漸く情勢も安定してきたのであろう。なお、ここでいう勲位は官位とは別体系
の軍事的な功労などに対して与えられる位であって明治以降のように勲章を伴
うものではない。
この日叙爵された按察使(あぜち)紀広純、陸奥鎮守権副将軍佐伯久良麻呂
(さえきのくらまろ)らとともに吉弥侯伊佐西古(きみこのいさせこ)や伊治
呰麻呂(これはりのあざまろ)ら朝廷に従う蝦夷の族長の名前も見られる。こ
のうち呰麻呂はこの二年後には広純を殺して反乱を起こし、陸奥国府多賀城
(宮城県多賀城市)を全焼させた人物である。
(続日本紀)
[1606] 天武元年(672)六月二十四日 2005-06-23 (Thu) 大海人皇子吉野脱出、壬申の乱勃発。
この前年天智十年十月十七日、重い病に沈む天智天皇は皇太弟の大海人皇子
(おおあまのみこ、天武)を呼び、後事を託そうとした。しかし、大海人は先
に使者の蘇我安麻呂(そがのやすまろ)から警戒するように忠告されていたた
めこれを辞退、自分は病気のためとても激務に耐えない、として大友皇子を皇
太子に立て、天下を皇后倭姫王(やまとひめのおおきみ、古人大兄皇子女、舒
明孫)に託すことを勧め、自らは出家して吉野に引退した。真意は自らの子で
ある大友皇子への譲位にあった天智はこれを許可、大海人の吉野隠遁を確認し
た後、群臣に何度も大友皇子への忠誠を誓わせて十二月三日に崩御された。
その後吉野と大津との間の緊張関係は続いたが、この年五月になって大海人
の舎人(とねり、側近)の朴井雄君(えのいのおきみ)が近江方が山陵造営の
ためとして集めた人夫を武装させていることを告げた。そのほかの情報も近江
方が既に臨戦態勢に入っていることをうかがわせるものであった。
このため、大海人は領地のある美濃安八磨郡(あはちまのこおり、岐阜県大
垣市周辺)への脱出を決意したが。ことは急を要するため、官道と駅馬の利用
を図った。そこで、去就がつかめなかった飛鳥古京の留守居役、高坂王(たか
さかのおおきみ)の動静を探る意味もあって彼に官道の利用許可証である駅鈴
の貸し出しを依頼する使者を派遣した。しかし、彼はこれを拒絶。この情報が
近江方に伝わるのは確実であるため、その夜迫り来る危険に大海人は妃の鵜野
讃良皇女(うのさららひめみこ、天智皇女、後の持統天皇)らを伴って吉野宮
を脱出、美濃を目指しての決死の脱出行が開始された。
(日本書紀)
[1605] 和銅六年(713)六月二十三日 2005-06-22 (Wed) 甕原離宮に行幸。
この日、元明天皇は平城宮を出て甕原離宮(みかのはらのとつみや)に行幸
され、二十六日まで滞在された。
甕原離宮は京都府相楽郡加茂町法花寺野付近にあったと思われる離宮。この
行幸を初出として和銅七年閏二月、霊亀元年(715)三月、七月、神亀四年
(727)五月、天平八年(736)三月、十一年三月と行幸が何度も繰り返
された。そして天平十二年十二月以降にはこの離宮付近が新しい都、恭仁京と
されて宮都が造営され、翌十三年閏三月には平城宮の武器が甕原宮に運ばれる
などの記録が残されている。そのほか、万葉集は神亀二年三月にも三香原離宮
への行幸があったことを記し、笠金村(かさのかなむら)の歌が残されている。
三香の原 旅の宿りに 玉桙(たまほこ)の 道の行(ゆ)き逢ひに
天雲(あまくも)の 外(よそ)のみ見つつ 言問(ことと)はむ
よしのなければ 心のみ むせつつあるに 天地(あめつち)の
神言寄(ことよ)せて しきたへの 衣手(ころもで)交(か)へて
自妻(おのづま)と 頼める今夜(こよひ) 秋の夜(よ)の
百夜(ももよ)の長さ ありこせぬかも (巻四・546)
(現代語訳)甕原の 旅の仮寝で <玉桙の> 道中出会い <天雲の>
遠くで見るだけで 言葉をかける 機会もないので 心ばかり
むせるように息苦しくいたのに 天地の 神の思し召しで <しきたえの>
袖を交わして 我が妻として もたれてくれる今夜は 秋の夜の
百夜の分も長く あって欲しいものだ
(続日本紀)
[1604] 天平宝字三年(759)六月二十二日 2005-06-21 (Tue) 官人・僧侶の意見に基づく施策を実施。
この年五月九日、淳仁天皇は五位以上の官僚と師位以上の僧侶に対して政治
に関する意見を密封して提出するように求めた。そうして集まった意見に基づ
きこの日いくつかの政策が実施されることとなった。
中納言石川年足(いしかわのとしたり)「律令の施行細則である格式(きゃく
しき)が未整備なのでこれを制定して欲しい。」
参議文室智努(ふんやのちぬ)・少僧都(しょうそうづ)慈訓(じきん)「毎
年正月に全国の寺院で行われる悔過で食費が国の負担となっているためそれを
目当てに乞食坊主が来る。いっそこの食事支給を停止してもらいたい。」
参議氷上塩焼(ひかみのしおやき)「三世の皇族はその出自を尊んで禄が与え
られているはずなのに実際には一般の官僚と同様に出勤日数に応じた支給とな
っている。令の規定通り出勤日数は不問としてもらいたい。」
播磨大掾(はりまのだいじょう)山田古麿「子沢山の百姓でその子たちが成年
に達したとき親子共に課税するのは酷。庶民が男子五人以上を生んだ時にはそ
の課役を免除していただきたい。」
興福寺僧玄基「破損した寺院の修理を励行して欲しい。」
元興寺僧教玄「私度僧(無許可で僧になる者)を禁断し還俗させて欲しい」
東大寺僧普照「七道の駅路(官道)の両側に果樹を植えて欲しい。そうすれば
往来の人々は夏は木陰で休み、飢えたらその実を食べられる。」
唐僧曇静「殺生禁断のため諸国に放生池を設置してもらいたい。」
但し、日本の実状にあわずに結局実施されなかった施策も多かったという。
(続日本紀)
[1603] 用明二年(587)六月二十一日 2005-06-20 (Mon) 善信尼、百済で戒法を学ばんとする。
この日、善信は蘇我馬子に「僧尼の道は戒律こそが根本です。願わくは百済
(くだら)に渡って戒律を学んで伝授したい」と語った。
善信は鞍部司馬達等(くらつくりのしまのたちと)の娘で俗名は島(しま)
と言った。敏達十三年(584)九月、百済から弥勒菩薩の石像などがもたら
された時、十一歳で出家して日本最初の尼僧となった。そして出家したその弟
子で漢人(あやひと)夜菩(やぼ)の娘豊女(とよめ)、出家して禅蔵、錦織
壺(にしごりのつふ)の娘石女(いしめ)、出家して恵善らとともに馬子の邸
宅に建立された仏殿(後の石川精舎、飛鳥寺の前身)に居住することとなった。
彼女たちは敏達十四年の物部守屋の破仏に際しては僧衣を剥がれて海石榴市
(つばきち)の亭(うまやたち、駅の施設)でむち打たれるが、六月には馬子
のみの崇仏が認められ、それとともに彼女らも馬子のもとに戻され、石川精舎
にて修行を続けていた。この日の申し出は独学で勉強することの限界から留学
して正しい師について学びたい、という意思表示であろう。
この翌崇峻元年(588)、百済が僧を派遣し、あわせて仏舎利や造寺の技
術者たちを献上した時、馬子は百済使に受戒の方法を聞き、その結果彼女たち
は念願の百済留学を果たすこととなった。
その後、三年三月になって帰国した彼女たちは桜井道場(後の豊浦寺)に住
んだらしい。その後の消息は残されていない。なお、飛鳥大仏を造像したこと
で知られる鞍作鳥(くらつくりのとり)は彼女の甥に当たり、鞍作氏は一族を
挙げて仏教の受容に貢献したことになる。
(日本書紀)
[1602] 天平元年(神亀六年、729)六月二十日 2005-06-19 (Sun) 背中に文字をもった亀、献上される。
この日、左京職(さきょうしき、平城京の左京を管轄する役所)から一匹の
亀が献上された。その亀は長さ五寸三分(16cm)、広さ四寸五分(13.5cm)で
その背中には「天王貴平知百年」の文字が浮き出ていた。敢えて意味を取ると
「天王(天皇)は貴く、平らかに知る(統治する)こと百年」とでもなるだろ
うか。当時の京職の大夫(長官)は藤原麻呂(ふじわらのまろ、左京大夫・右
京大夫を兼任)であり、この年二月の長屋王の抹殺に続く光明子立后のための
布石であろうか。
背景はともかく、この事件は当時は瑞祥現象、つまり名君の仁政をたたえて
天がめでたいしるしをつかわしたもの、と理解され、八月五日になってからこ
の文字から「天平」と改元されることになる。その日あわせて亀を捕った人、
河内古市郡の無位賀茂子虫には従六位上(通常無位の者がどんなに努力しても
一生達することは出来ない)の位と多くの物が与えられ、彼に献上を勧めたと
いう唐僧道栄にも厚い褒賞が与えられた。そうして八月十日には光明子がいよ
いよ皇后に立てられたのであった。
平城京の繁栄を象徴するこの「天平」の年号は最初からかくもいかがわしい
ものであった。そしてその経緯が象徴するようにこの文字とは正反対にこの年
二月の長屋王の変に始まり、疫病の大流行、藤原広嗣の乱、頻繁な遷都・彷徨、
橘奈良麻呂の変、恵美押勝の乱、道鏡の専横と皇位簒奪未遂という陰惨な事件
を重ねた末、百年どころか五十年足らずで聖武天皇に連なる子孫は根絶やしに
されてしまう。
(続日本紀)
[1601] 大化元年(645)六月十九日 2005-06-19 (Sun) 群臣盟約、大化改元。
蘇我氏討滅後、皇極天皇の譲位を受けて政権を掌握した孝徳天皇は皇祖母尊
(すめみおやのみこと、皇極上皇)、皇太子(中大兄皇子)らを引き連れ、飛
鳥寺の西にあった大槻の木のもとに群臣を集め天神地祇(天上の神々と土着の
神々)にかけて新政権への忠誠を誓わせた。またこの時初めて元号が定められ、
この年(それまで皇極四年)を改めて大化元年とされた。
日本書紀では孝徳天皇は「仏法を尊び神道を軽(あなづ)りたまふ」とされ
ているが、ここでも飛鳥寺の西に群臣を集めながらその盟約は神の名において
なされている。また、中臣氏と並ぶ祭祀氏族、忌部(いんべ)氏の長老忌部広
成(いんべのひろなり)が専権を極める藤原氏とその同族中臣氏に圧倒されて
次第に古来の祭祀がおろそかになっていることを嘆き、平城(へいぜい)天皇
に献上した忌部氏の立場から歴史を綴った著「古語拾遺」には逆に孝徳天皇の
時代に神祇制度が整ったことを述べており、批判はまったく見られない。一方
で日本書紀は孝徳について「人となり、柔仁にましまし儒を好みたまひ、貴賤
を択(えら)ばず、頻りに恩勅を降(くだ)したまふ」とも述べており、事実
孝徳朝初期における果敢な政策は特筆に値する。しかし、治世後半になると明
らかに政治は孝徳でなく中大兄皇子を中心に動いており、最後には孝徳は中大
兄や皇極上皇、果ては皇后にまで見捨てられ、一人寂しく難波宮に取り残され、
最後を迎える。このことを考えると実際に大化改新を主導したのは孝徳天皇で
あり、あまりに性急な改革はやがて反発を招き、反対勢力の先頭に立った中大
兄皇子に実権を奪われたのではないだろうか。
(日本書紀)
[1600] 天平十八年(746)六月十八日 2005-06-18 (Sat) 玄ぼう、配流先で卒す。
玄ぼう(げんぼう、「ぼう」は「日」偏に「方」)は俗姓阿刀(あと)氏。
霊亀二年(716)、多治比県守(たじひのあがたもり)以下の遣唐使に従っ
て学問僧として唐に渡った。唐の玄宗皇帝からその才能を買われ高貴な色とさ
れる紫色の袈裟の着用を許されるに至った。そしてその次の遣唐使、天平四年
(732)の多治比広成(たじひのひろなり)以下が帰国する際、ともに帰国
した。その時、五千巻以上もの膨大な経論や仏像などを将来、仏教を重んじる
聖武天皇を狂喜させた。そればかりか、聖武天皇を産んで以来その精神を病み、
久しく人と会うことが出来なかった文武天皇の皇太夫人宮子も彼と会ってから
正気に戻り、天平九年に聖武天皇と母子の対面を果たすことが出来たこともあ
って非常に重用された。
しかし、彼や吉備真備(きびのまきび)などが唐で学んで得た知識を生かし
て活躍することに危機感を覚えた藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)は天平十二
年に彼ら二人を除くことを訴えて大宰府に反乱を起こした。この藤原広嗣の乱
自体は朝廷側の果断な処理と将軍大野東人(おおののあずまひと)の適切な指
揮で鎮圧されたものの、その後政権を掌握して行く藤原仲麻呂に逆ににらまれ、
天平十七年十一月にはついに大宰府観世音寺(福岡県太宰府市)に左遷され、
この日失意のうちに世を去った。時の人はその死は藤原広嗣の怨霊の祟りによ
ると噂したという。なお、この時の怨霊の噂は日本史上における怨霊(に相当
する)記事の初見であり、やがて恨みを呑んで死んだ者が特定の相手に祟る、
という怨霊は平安初期に御霊(ごりょう)信仰として定着して行く。
(続日本紀)
[1599] 延暦元年(天応二年、782)六月十七日 2005-06-16 (Thu) 大伴家持、陸奥按察使鎮守将軍に任ぜられる。
この日の任官で春宮大夫(しゅんぐたいぶ、皇太子に関する庶務を司る役所
の長官)従三位大伴家持は陸奥按察使(みちのおくのあんせちし、福島・宮城
の行政監察官)鎮守将軍(ちんしゅしょうぐん、同地の常設軍事司令官)の兼
務を命ぜられた。
家持はこの時六十五歳前後と見られ、この時点では兼任でもあり陸奥に赴い
た訳ではなかったらしく、翌年七月には中納言に昇進している。しかし、さら
に翌延暦三年には蝦夷(えみし)征討のための征東将軍(後の征夷大将軍)に
任ぜられ、結局高齢を押して陸奥国府多賀城(宮城県多賀城市)にまで赴任し
たらしい。四年四月には彼は陸奥のうち多賀城以南の十四郡を仮設の郡から通
常の郡に昇格させて統治することを求め、認められている。一方で軍事的な動
静は記録にないまま同年八月に亡くなってしまうのは恐らく彼が現地の実状を
よく理解し、強硬策でなく協調策で臨んだためではないだろうか。現にこの間
蝦夷の反乱関係の記事も見られない。長い長い下積みでの苦労や「万葉集」で
知られる彼の温和な人柄が偲ばれる。
一方、この時の「春宮大夫」の職は亡くなるまで兼任した。皇太子早良親王
(さわらのみこ)は家持の強い影響下に育ったのであり、家持の陸奥赴任は或
いは二人を引き離す意図があったのかも知れない。そして家持の亡くなった翌
月に発生した藤原種継暗殺事件では既に鬼籍にあった家持が首謀者、皇太子の
早良親王が黒幕、とされて大伴氏が壊滅的打撃を受けると共に無実の疑いを受
けた早良親王は食を断って憤死する、という悲劇へとつながって行く。
(続日本紀)
[1598] 文治二年(1186)六月十六日 2005-06-16 (Thu) 源有綱、大和宇多にて敗死。
平家を壇ノ浦に滅ぼすという大功を立てた源義経であったが、許可を受けず
に官位を与えられたことがきっかけとなり兄頼朝と亀裂が深まり、鎌倉入りを
も拒絶されて空しく京で時を過ごしていた。頼朝に反旗を翻そうとする叔父の
行家の誘いも最初のうちこそ自重していた彼であったが頼朝が刺客土佐坊昌俊
(とさのぼうしょうしゅん)を送り込むに及んで遂に立ち、文治元年十一月二
日、後白河法皇に強要して頼朝追討の院宣を得た。そして反頼朝勢力を糾合し
ようと図った。これに応じた一人が源有綱(みなもとのありつな)であった。
有綱は宇治川の合戦で壮烈な戦死を遂げた源仲綱の次男で源三位頼政の孫にあ
たる。彼は源義経の娘婿であった上に代々大内守護、御所の警衛を任じてきた
家柄であり、院宣が出た以上は従うのは当然であった。また彼ら摂津源氏は源
氏の嫡流であり、河内源氏の頼朝は分家筋に当たった。心情的にも頼朝の下風
に立つことは出来なかったし、逆に頼朝から見れば目障りな存在であった。
彼らは頼朝の抑える東国に対抗して西国に基盤を置こうと大物浦(だいもつ
のうら、兵庫県尼崎市大物)から出航して九州を目指したが激しい西風によっ
て流され、住吉の浦(大阪市住吉区)に打ち上げられ、軍勢も四散してしまっ
た。残ったのは僅かに義経、有綱と堀弥太郎、武蔵坊弁慶、そして義経の愛妾
静の五人だけとなった。彼らは吉野に逃れ、女人禁制の大峰山で静と別れ、消
息を絶った。有綱はその後義経と別行動を取ったらしい。
そしてこの日大和宇陀郡で有綱は義経残党を捜索中の北条時定(時政の甥)
に見つかり、戦ったが衆寡敵せず深山に入って自決した。
(吾妻鏡 文治二年六月二十八日)
[1597] 推古十六年(608)六月十五日 2005-06-14 (Tue) 隋使難波津に到着。
聖徳太子が推古十五年に派遣した小野妹子以下の遣隋使は目的を達し、隋の
使者を伴ってこの日難波津に帰着した。対等外交を目指す日本側は「日出づる
処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無(つつがな)きや」で始まる国
書は当初隋の皇帝煬帝(ようだい)を激怒させたが、高句麗への軍事行動を予
定していた隋としてもその後背になる国を無視するわけにもいかなかった。恐
らく日本側も国書の書き換えなどを行ったのであろう。中華帝国にとって対等
外交というものは(武力で屈服されない限り)そもそもあり得ないものであっ
た。但し、この時派遣された隋の使者裴世清(はいせいせい)は最下級の官僚
であり、隋の意識はその程度のものでしかなかった。しかし、それでも中華王
朝から使者が来るのは雄略朝以来の出来事であり、この日は天満川に飾船三十
艘を並べて歓迎した。
しかし、ここで大問題が発覚した。妹子が百済を通過するときに隋からの国
書を盗まれた、というのである。隋使の手前もあって妹子の処罰は見送られた
が、恐らくこれも紛失ではなく、あまりにも日本を見下した内容(妹子による
国書の書き換えを示すものでもあっただろう)のためにとてものことに提出す
ることが出来なかったのであろう。
八月三日、隋使は京に入り、その時には飾り馬七十五匹を海石榴市(つばき
ち)の衢(ちまた)に並べて歓迎、そして十二日にはいよいよ朝廷に招いて隋
帝の書が伝えられた。この書が妹子の紛失したものと同じかどうかは不明だが、
その文書形式は明らかに日本をはるかに見下したものとなっている。
(日本書紀)
[1596] 皇極四年(645)六月十四日 2005-06-14 (Tue) 皇極天皇、孝徳天皇に譲位。
乙巳の変で蘇我氏本宗家が滅亡した後、この日に皇極天皇は皇位を中大兄皇
子(なかのおおえのみこ、舒明皇子)に皇位を譲ろうと詔を下した。しかし、
中大兄は中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌足)の忠告に従い、辞退し
た。そこで天皇は次に軽皇子(かるのみこ、皇極弟)に譲位をしようとしたが
彼も再三辞退し、古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ、舒明長子)を推薦
した。ところが古人大兄も辞退した上、出家して吉野に入り仏道修行をする、
として法興寺(飛鳥寺)の仏殿と塔の間で剃髪して袈裟を着た。このために軽
皇子は辞退できなくなり、壇(たかみくら、高御座)に登って即位された。こ
の時、大伴長徳(おおとものながとこ、家持の曾祖父)と犬上健部(いぬがみ
のたけるべ)が金の靫(ゆき、矢を入れる容器)を帯びてそれぞれ壇の右左に
立ち、官僚たちが列をなして巡り拝んだ。これまで天皇の位はすべて終身であ
ったのがここに史上初めて生前譲位が実現されたことになる。また即位式の様
子が記述されるのもこれが初めてである。
同日、中大兄を皇太子とし、阿倍内麻呂(あへのうちまろ)を左大臣、蘇我
倉山田石川麻呂(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)を右大臣に任じ、中
臣鎌子を内臣(うちつおみ、側近の長?)に任じた。
以上が「日本書紀」の伝える譲位の経緯であるが、実際には律令制以前の皇
位継承は同世代の皇位継承権者が順次皇位に立ち、対象者がいなくなってから
次の世代に移っている。それを考えるとき、この時の継承順位は古人大兄、軽、
中大兄の順になり、この時の中大兄皇子の即位は実際には考えられなかった。
(日本書紀)
[1595] 推古二十二年(614)六月十三日 2005-06-12 (Sun)
犬上御田鍬ら、遣隋使として派遣される。
この日、犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)・矢田部某(名は伝わらない)
以下の遣隋使が派遣された。
遣隋使は日本書紀によれば三回派遣された。推古十四年の小野妹子(おのの
いもこ)らによる最初の遣隋使、十六年に彼らと共に来日した隋使の送還と留
学生(るがくしょう)たちの派遣を兼ねた小野妹子・吉士雄成(きしのおなり)
以下の使節、そして今回の使節である。が、その後隋自体が煬帝(ようだい)
による高句麗遠征の失敗などによりこの四年後には滅亡してしまうので、結局
遣隋使としてはこれが最後になる。なお、「隋書」には二回記録されるが、
「日本書紀」記載のものと合計のべ六回のうち日隋両国の記録が一致するのは
推古十四年の小野妹子(隋の記録では音写により「蘇因高」)によるもののみ
である。隋側の記録にのみ見られる開皇二十年(600)の使者は事実であれ
ば最初の遣隋使になるが、当時日本は新羅などとの外交では国書を用いず口頭
伝達による外交が行われており、この時の使者も国書を持たなかったため国書
不備で放還(国外追放)された結果日本側記録から抹消されたのではないか。
御田鍬らの使節は翌二十三年九月、無事帰国している。帰国した彼ら遣隋使
と共に百済(くだら)の使者が来日している。恐らく彼ら遣隋使の航路は百済
経由のものであったのだろう。
なお、御田鍬はその後舒明二年(630)にも今度は最初の遣唐使として渡
唐、翌年唐使と、今度は新羅(しらぎ)の使者を伴って帰朝し、再び大任を果
たした。
(日本書紀)
[1594] 皇極四年(645)六月十二日 2005-06-11 (Sat) 乙巳の変、蘇我入鹿(そがのいるか)暗殺。
乙巳(いっし)の変は「大化改新」の幕開けとなった蘇我氏に対する政変を
指す。この日、朝鮮三国(百済・新羅・高句麗)からの使者の謁見の儀式に呼
ばれた蘇我入鹿(そがのいるか)は中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌
足)の計略により剣を取りあげられた。そして皇極天皇が大極殿(おおあんど
の、宮の正殿)に出御され、次期天皇の最有力候補であった古人大兄皇子(ふ
るひとのおおえのみこ)が傍らに侍する中、入鹿の叔父の蘇我倉山田石川麻呂
(そがのくらのやまだのいしかわのまろ)が三国の上表文を読み上げた。この
間に宮の門は中大兄皇子(なかのおおえのみこ)の指示で閉じられ、皇子は長
槍(ながきほこ)を手に殿の側に隠れ、鎌子は弓矢でこれを守り、佐伯子麻呂
(さえきのこまろ)と葛城稚犬養網田(かつらぎのわかいぬかいのあみた)の
二人が入鹿を斬る役目であったが、おじけづいて出られない。上表文も末尾に
近づき石川麻呂は冷や汗を流し声も震えた。そのために入鹿が不審を感じたの
を見て取った中大兄は子麻呂とともに躍り出て斬りつけた。入鹿は皇極天皇に
救いを求めたが中大兄皇子が蘇我入鹿の謀反の罪状を奏上、それを聞いた帝は
退出された。その後、入鹿は子麻呂や網田らにより斬殺される。古人大兄は自
邸に逃げ、中大兄は飛鳥寺に陣を構え、入鹿の遺体をその父の蝦夷(えみし)
に送り届けた。蘇我氏側に立とうと漢(あや)氏たちが武装して集合したが中
大兄の派遣した将軍巨勢徳陀(こせのとこだ)の説得で解散。翌日、蝦夷は自
宅に火を放って自決した。繁栄を極めた蘇我氏の本流はここに滅亡、いわゆる
「大化の改新」が幕を開ける。
(日本書紀)
[1593] 天平宝字二年(758)六月十一日 2005-06-10 (Fri) 帰順した蝦夷に種子を賜う。
この前年、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ、恵美押勝)の子朝狩(あさか
り、「狩」は正しくは旁を「葛」に)は陸奥守に任ぜられ、北辺の経営に当た
った。その成果によってこの時までに蝦夷(えみし)の男女合計一千六百九十
余人が律令政府に帰服した。ある者は故郷を離れて多賀城などの城柵周辺に移
住し、時には命に応じて兵士として蝦夷と戦い、結果として昔の仲間と仇敵の
関係となり、不安におののきながら生活していた。
この日、陸奥国は以上のような事情を申し述べ、彼らに種子を与え、農耕を
営ませることで定住・安定させることを申請し、許可された。
中世以降において「蝦夷」は「えぞ」と読まれるようになり、少なくとも近
世においてはそれはアイヌ人を意味するものであった。そのため、「えみし」
と呼ばれた古代において彼らの実態は果たしてアイヌ人を指すものであるのか、
それともこれら辺境に住む日本人を指すのか、古くから議論があった。今日で
もその決着はついていないが、少なくともそのどちらか一方だけを指したもの
ではなく、両者が含まれていた、と考えるのが自然であろう。律令政府は公式
には彼ら蝦夷は農耕を行わないもの、と規定していたが、実際には古くから農
耕生活を営んでいた。その一方、狩猟を行い肉食を好んだのも事実であったら
しく、生活の相違から彼らを別種の人々、としていたものであろう。
蝦夷の側としても律令政府の進んだ農業・土木技術を受け入れることで生活
を安定・向上させようとする人々とこれを拒んで自分たちの土地を守ろうとし
た人々がいたらしく、蝦夷内部でも両者の対立が見られたものであろう。
(続日本紀)
[1592] 朱鳥元年(天武十五年、686)六月十日 2005-06-09 (Thu) 草薙剣を熱田神宮に遷す。
天智七年(668)、新羅の僧道行(どうぎょう)は草薙剣(くさなぎのつ
るぎ)を盗みだし、新羅に帰ろうとしたが、途中で風雨のため進路を見失い、
戻ってきた。どこからどう盗み出したのか、その後どうなったかの記録はない
が恐らくはその後取り返されて宮中に安置されていたものであろう。
時が流れてこの年五月二十四日、天武天皇はご不予(ご病気)になられた。
そしてこの日ご病気の原因を占ったところこの草薙剣の祟り、と出た。そのた
め即日熱田社に送り置かれた。
三種の神器の一つ、草薙剣は天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)とも呼ば
れ、素戔嗚尊(すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治した
ときその尾部から出現し、それを天照大神(あまてらすおおみかみ)に献上し
た、という伝承を持つ。後に日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の際に
伊勢神宮にあった倭姫命(やまとひめのみこと)から授けられ、駿河の焼津
(やきづ、静岡県焼津市)または相模の小野(神奈川県厚木市)で尊が火攻め
にあったときに草を薙ぎ払い迎え火をして難を逃れたため草薙剣と称されるよ
うになったとされる。東征からの帰途、尊はこの剣を残したまま伊吹山に登り
そのため病を得て伊勢の能褒野(のぼの、三重県亀山市)で薨去された。そし
て剣は熱田神宮に祀られたという。
しかし、熱田神宮のほか草薙神社(静岡市)などの祀る剣と天叢雲剣、そし
て三種の神器の剣との関係ははっきりと記録されたものはなく、すべて同一だ
とすると壇ノ浦に沈んだ神剣は模造品となり、当時の大騒動は不審である。
(日本書紀)
[1591] 延暦八年(789)六月九日 2005-06-09 (Thu) 紀古佐美、蝦夷に大敗し独断で退却。
この前年十二月七日、律令政府に激しく抵抗する阿弖流為(あてるい)の率
いる胆沢(いさわ)地方の蝦夷(えみし)を制圧するために桓武天皇の寵臣紀
古佐美(きのこさみ)を征東将軍とする二万七千四百七十人に及ぶ大軍が派遣
された。五月十二日になって成果が挙がらぬことにいらだつ天皇に督促された
征討軍は衣川を渡って蝦夷を攻撃することとした。
その征討軍から届いた六月三日付の報告は朝廷を驚倒させるものであった。
副将軍入間広成以下は前・中・後各二千人からなる部隊を編成、北上川の渡河
攻撃を企てた。中・後軍は渡河に成功、蝦夷軍三百がこれを迎撃したが退却、
征討軍は途中の蝦夷の村落を焼きながら巣伏村(江刺市?不詳)まで進撃した
が、合流しようとした前軍は蝦夷の抵抗により渡河に失敗していた。そこへ蝦
夷軍八百が猛攻を加えて来たため征討軍が押されて後退し始めたところを蝦夷
の伏兵四百に退路を断たれ挟撃を受け、壊滅的な敗北を喫したのである。別将
丈部善理(はせつかいべのぜんり)以下戦死者25、矢に当たった負傷者245、
川に逃れて溺死した者1036、裸で泳いで逃げた者1257という惨敗であった。
これを聞いた桓武天皇は激怒、一部の分遣隊のみを派遣したからこうなった
のだ、として主力による攻撃を命じた。しかし、この日古佐美からは再び驚く
べき報告が届けられた。胆沢は奥地であり補給が困難であるため征討軍を解散
して戦地から退却する、というのである。怒り狂う天皇の再三に及ぶ督戦を無
視して九月八日に古佐美は帰京してしまった。それでも結局古佐美は処罰され
ることもなく終わった。
(続日本紀)
[1590] 大宝元年(701)六月八日 2005-06-07 (Tue) 庶務を新令により行うことを命ず。
この前年六月十七日に完成した大宝令はこの年三月二十一日、大宝改元と共
に官名・位号に適用されたのを皮切りに、いよいよ全国的に施行されることと
なった。四月七日から官僚たちに新令を講習し、また六月一日には大安寺で僧
尼令の講習を行った。そしてこの日、いよいよ庶務をこの新令によって行うよ
うに、という文武天皇の勅令が出された。また、あわせて国宰(くにのみこと
もち)・郡司は大税(地方に蓄えられる不動穀)を法で定められた通りに貯え
置くことを命じた。これら大税は田租をもととして各地の正倉に備蓄され、非
常時の備えとされたものである。
またこの日七道諸国(全国)に使者を派遣、大宝令によって政治を行うなど
この日の勅の内容を知らせ、あわせて諸国の国印の様式を頒布した。但し、実
際に国印が鋳造されたのはこれから三年後の慶雲元年(704)四月九日のこ
とになる。
大宝律令は行政法である令(りょう)十一巻と刑法に当たる律六巻からなる。
この時点では律は未完成であり、この年の八月三日に至って完成している。こ
の大宝律令そのものは一部の逸文が伝わるのみであるが、養老二年(718)
にこれを改訂した養老律令と大差がないものであったらしい。律令国家とはこ
れら律令を基本法として政治を行ったのであり、鎌倉幕府が御成敗式目を制定
した際にも形式的にはこれを尊重する立場を取り、明治維新に至っても公式に
は廃止されることなく今日に至っている。しかし、それが形式的なものであっ
たことはこのうち律の大部分が散逸して伝わらないことに端的に示されている。
(続日本紀)
[1589] 用明二年(587)六月七日 2005-06-06 (Mon) 蘇我馬子、炊屋姫を奉じ穴穂部皇子を殺す。
この年四月九日、用明天皇が崩御された。この急な事態は蘇我馬子(そがの
うまこ)・物部弓削守屋(もののべのゆげのもりや)の二大豪族の対立を次期
大王を巡って先鋭化させた。
五月、守屋の軍勢は三度鬨の声を挙げて示威を行った。その一方で彼は穴穂
部皇子(あなほべのみこ、欽明皇子)の擁立を図り、淡路での遊猟にかこつけ
て彼を密かに自宅に招いた。しかし、これは馬子の知るところとなった。
機先を制すべく馬子はこの日炊屋姫尊(かしきやひめのみこと、敏達皇后、
後の推古天皇)を奉じて佐伯丹経手(さえきのにふて)・土師磐村(はじのい
われ)・的真噛(いくはのまくい)たちに穴穂部皇子及び宅部皇子(やかべの
みこ、宣化皇子)を殺すことを命じた。そこでこの日夜半、丹経手たちは兵を
率いて穴穂部皇子の宮を囲み、これを殺した。そしてさらに翌日には穴穂部皇
子と親しかった宅部皇子をも殺した。
仏教受容を巡って争ったと伝えられる蘇我・物部両氏の抗争は実際には朝廷
内の地位を目指すものであったと見られる。この時、蘇我馬子に先手を取られ
て穴穂部皇子の擁立に失敗した物部守屋は泊瀬部皇子(はつせべのみこ、後の
崇峻天皇)や厩戸皇子(うまやとのみこ、後の聖徳太子)らを奉じた蘇我馬子
側の攻撃によってこの翌月に敗死する。
なお、炊屋姫尊と「尊」が付されるのは天皇崩御後は後継者が確定するまで
皇后が王権を代行する慣例によってこの時彼女が大権を代行していたためと見
られる。
(日本書紀)
[1588] 宝亀六年(775)六月六日 2005-06-05 (Sun) 紀馬養ら漂流するも五日後無事漂着。
紀伊国安諦郡(あてのこおり、和歌山県有田郡湯浅町)の人、紀馬養(きの
うまかい)と海部郡(海草郡下津町)の人、中臣祖父麿(なかとみのおおじま
ろ)の二人は日高郡の紀万侶(きのまろ)に雇われ、酷使されて網を引き魚を
捕っていた。
この日、突然強風が吹き、豪雨が降って河口に水があふれ、そこにつないで
あった材木が流されて行った。そこで万侶は二人に命じてその木を取らせた。
二人は材木を集めて筏に組んで風に逆らって漕いで行ったが、激流のためにつ
ないだ縄が切れ、筏はバラバラになって河口を過ぎて海に入ってしまった。二
人は何とかそれぞれ一本の木につかまって流されて、どうしようもなく、ただ
「南無釈迦牟尼仏、どうかこの災難からお救い下さい」と必死に叫び続けた。
五日後の夕方、祖父麿は淡路国の南西田町野の浦(淡路島、詳細不明)の塩
焼きの人が住む処に流れ着いた。馬養は更に翌日になってこちらも同じ処に流
れ着いた。土地の人が見つけて事情を聞き、憐れんで世話をして、国司に報告
した。国司も気の毒がって食糧を与えてやった。
そして祖父麿は「殺生を仕事とする人に使役されてひどい目にあった。これ
で帰ったらまた酷使されて殺生をやめられないだろう」と淡路の国分寺(兵庫
県三原郡三原町)に入り、そこの僧に従った。馬養は二ヶ月後に帰郷したが死
んだと思って四十九日の法要も済ませていた家族は驚き、事情を聞いて互いに
悲しみ、喜び合った。そして発心して世を捨てて山に入り、仏道の修行を行っ
たという。
(日本霊異記 下・25)
[1587] 天平神護二年(766)六月五日 2005-06-05 (Sun) 大隅の新島の鳴動により賑恤。
天平宝字八年(764)十二月、西方に大きな音が鳴り響いた。その音は雷
(いかずち)の音に似ていたが雷ではなかった。その時、大隅と薩摩(鹿児島
県東部と西部)の堺に煙と雲が充満し、稲妻のようなものが光った。そして七
日後に漸く空が晴れたが、鹿児嶋信尓村(かごしましなにむら、鹿児島県姶良
郡隼人町か、地名「鹿児島」の初出)の海に砂や石が集まって三つの島(隼人
町南沖合の沼田小島・弁天島・沖小島の三島からなる神造島)となっていた。
その島はまるで鋳造したかのように炎や煙が上がっていた。そしてこの島の出
現などに伴い、民家六十二軒が埋まってしまった。
それから一年半を経たこの段階になってもまだその島周辺は地震が続くため
に多くの民衆が流浪を余儀なくされていた。そのため、彼らに対して賑恤(食
料の施し)が行われた。
現在の桜島の大噴火の記録である。桜島は大正三年(1914)の大噴火で
陸続きになるなど活発な火山活動で知られるが古代においてはこれは神の所行
と理解され、人々は祈る以外何もできなかった。もっとも今日においても三宅
島の三原山噴火に対して人間は余りにも無力であり、古代の人を笑う資格はな
いだろう。この時の「神の造った島」を祀る神社に対してはその後宝亀九年
(778)に国家祭祀の対象とされており、延喜式に見える大隅国曾於郡の大
穴持神社がそれであろう。当時は東の富士山も「竹取物語」で知られる通り噴
煙を上げ続けており、特に延暦十九年(800)の大噴火では足柄を通る東海
道が通行不能となり、代わりに箱根の道が臨時に使用された。
(続日本紀)
[1586] 天智十年(671)六月四日 2005-06-03 (Fri) 百済三部の使者要請の軍事について宣言する。
日本と友好関係にあった百済(くだら)は斉明六年(660)、唐と新羅
(しらぎ)の連合軍の攻撃を受けて滅亡した。そして鬼室福信らによる再興百
済も天智二年(663)に救援の日本軍が白村江(はくすきのえ)の戦いで壊
滅したため、百済はついに完全に滅亡してしまう。
そして旧百済領域は唐による直轄支配を受けることになった。唐の百済駐留
軍は翌天智三年に日本に遣使し、様子を窺うなど、緊張の中にも小康状態が続
いた。しかし、天智七年には今度は高句麗(こうくり)が唐・新羅連合軍の攻
撃に内紛が重なってとうとう滅亡してしまう。そしてこれを機に新羅はその野
心をむき出しにする。旧百済領域の併呑を図ったのである。次第に旧百済領域
(唐の熊津都督府の支配領域)に侵攻していく新羅に対し当然唐は怒ったがそ
れでも新羅は謝罪使を派遣する一方、侵攻はやめなかった。この年一月には熊
津(くまなれ、もと百済の首都で唐の都督府の所在地)の南で激戦が行われ、
六月からはいよいよ本格的に唐の救援軍を相手に戦闘を繰り返すに至った。
一方、百済鎮将劉仁願(りゅうじんがん)はこの年一月に日本に使者を派遣
した。恐らくその時、百済の五部(地方区分、上・前・中・下・後の各部)の
うち三部の代表をも派遣、窮状を訴えて援軍を乞うたのであろう。逆に言えば
残る二部は既に新羅に併合されていたのであろう。
この日、天智天皇はそれに対する回答を宣した。しかし、その内容について
は伝えられていない。将来の出兵を承諾した可能性もあるがこの年九月からの
天皇の不予と十二月の崩御、翌年の壬申の乱で日本は援軍どころではなくなる。
(日本書紀)
[1585] 継体二十一年(527)六月三日 2005-06-03 (Fri) 筑紫国造磐井の反乱。
皇統の断絶によって越前から応神天皇五世の孫に当たる継体天皇を迎えたこ
とは大和朝廷にとって重大な危機であった。その影響力の後退は特に遠隔地で
顕著に現れたため、朝鮮半島北部に高句麗(こうくり)、南部に百済(くだら)
・新羅(しらぎ)・任那(みまな)が並立して微妙な均衡を保っていた情勢に
重大な影響を及ぼした。日本の影響力後退を見越した百済は任那のうち四県の
割譲を申し入れ、大伴金村(おおとものかなむら)はこれを受諾。これに怒っ
た任那の一国伴跛(はへ)は日本から離反して戦い、また新羅も活発な動きを
示した。
このため、この日近江毛野(おうみのけの)以下六万の軍を任那に派遣して
かつて新羅に併呑された南加羅(ありひしのから)・喙己呑(とくことん)を
奪回することによって任那諸国の不満を抑えようとした。
ここに新羅と結んだ筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこいわい)は毛野
の軍を遮り、半島諸国の貢職船を誘致し、毛野に対して「お前は今でこそ使者
としていばっているが少し前には俺と肩を並べ肘を触れあって同じ器のものを
食べていたではないか。いくら使者と言ってもお前に俺を従わせることはでき
ない」と豪語し、毛野と戦端を開くに至った。
この反乱に対して大和朝廷は八月になって物部麁鹿火(もののべのあらかい)
以下の鎮圧軍を派遣、二十二年十一月に漸く磐井を斬り鎮定に成功するが、翌
二十三年三月には刀伽(とか)・古跛(こへ)など任那の八城が新羅に奪われ、
ついに任那は事実上滅亡してしまう。
(日本書紀)
[1584] 欽明九年(548)六月二日 2005-06-01 (Wed) 百済に半島情勢を問う。
欽明八年四月、百済(くだら)は真慕宣文(しんもせんもん)らを遣わして
援軍を乞うた。あわせて人質としての王族東城子言(とうじょうしごん)を送
り届けてきた。
宣文は翌九年一月帰国するが、その時には「依頼された救援軍は必ず派遣す
るから早く百済国王に伝えるように」と念を押した。
ところが、四月三日になって百済は掠葉礼(けいしょうらい)らを遣わし、
意外なことを告げた。この年一月に馬津城(ましんのさし)を巡って高句麗と
百済が戦ったのだが、その時の高句麗の捕虜が今度の戦闘は安羅(あら)と任
那(みまな)日本府(やまとのみこともち)が高句麗に百済を討つように勧め
たために攻撃を開始したのである、ということを自白した。また実状を調査し
ても符合する点があるし、真偽を糺そうとしても三度の喚問に応じない。そこ
で日本としては援軍を一時見合わせ、まずは実状の調査をして欲しい、という
のである。それに対して日本側はそのようなことは信じられない、安羅が撤退
した跡地には兵を派遣するので任那と共に高句麗の攻撃を防ぐように、という
回答を行うにとどめた。
この日、欽明天皇は百済に使者を派遣し、その後の情勢を確認した。
この事件はその後の調査によって日本府の執事である延那斯(えなし)・麻
都(まつ)ら親新羅派が高句麗と結ぼうとしていたものであることが判明して
いる。安羅の動きもそうだが、任那日本府についても日本の出先機関という性
格ではなく、かなりな主体性をもっていたものらしい。
(日本書紀)
[1583] 宝亀八年(777)六月一日 2005-05-31 (Tue) 遣唐副使、大使を臨時代行。
奈良時代最後の遣唐使となる遣唐大使佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、
副使大伴益立(おおとものましたて)以下の使節はこの前年肥前松浦郡合蚕田
浦(あいこたのうら、長崎県南松浦郡上五島町相河、五島列島中通島)に至っ
たものの順風を得ずに空しく帰京した。その後に副使の益立を小野石根(おの
のいわね)、大神末足(おおみわのすえたり)の二人と交替させ、この年四月
十七日に遣唐使一行は改めて辞見(暇乞い)を行い、今度こそ唐を目指すこと
となった。しかし、出発して羅城門に至ったところで大使今毛人は病と称して
都に留まったため、副使以下が先発した。今毛人も二十二日には輿に乗って一
行を追い、難波津に至ったが、病が癒えない。これを待っていてはまた今年も
派遣ができなくなることを恐れた朝廷はやむなく副使以下に先に出発し、順風
を得たならば今毛人を待たずに唐を目指し、その場合大使の職務は代行するこ
とを命じた。この日になってついに朝廷は今毛人の派遣を断念し、改めて副使
以下に出発を命じ、身分は副使のまま大使の職務を代行すべきこと、唐朝に大
使不在の理由を問われたときには正直に答えること、副使のうち石根について
は任務のため臨時に三位の格とする(実際は従五位上)ことなどを告げた。
今毛人の病がどのようなものであったか、極言すれば本当に病であったのか
も明らかではないが、今毛人はその後病が癒えてから後に参議にまで昇進した。
しかし、石根は渡唐して無事大任を果たしたものの、翌年十一月、彼の乗った
遣唐第一船は帰路暴風のため真っ二つになり唐使と共に逆巻く波の中に姿を消
し、二度と再び祖国の土を踏むことはなかった。
(続日本紀)
[1582] 雄略九年(465)五月 2005-05-30 (Mon) 紀大磐の専横による内紛などのため新羅征討失敗。
古代の画期とされる雄略朝は朝鮮半島情勢も激動した時代であった。これは
直接的には高句麗(こうくり)の南下政策によるものであり、圧迫された百済
(くだら)、新羅(しらぎ)、そして任那(みまな)諸国の間で合従連衡が繰
り返された。南朝の宋への遣使もこの間の日本の立場を強化するのが目的であ
ったが、地理的にも有利な高句麗に対しては後手後手に回っている。
雄略八年、高句麗と結んでいた新羅はふとしたことから高句麗の意図が侵略
にあることを知り、急ぎ任那王(みまなのこにきし、任那諸国連合のいずれか
の王?)に使者を派遣、日本府(やまとのみこともち、ここでの「日本」は日
本書紀編纂時の修辞)に救援を求めた。そこで任那王は膳斑鳩(かしわでのい
かるが)などを派遣、高句麗軍を破って新羅を救援した。
しかし、その後も新羅の動向は不透明であったのか(南北を強国に挟まれて
いた当時の新羅なら当然とも言えるが)、この年三月、雄略天皇は自ら渡海、
新羅征討を果たそうとした。しかし、胸方神(むなかたのかみ、宗像大社)の
神託によりこれを断念、代わりに紀小弓(きのおゆみ)、蘇我韓子(そがのか
らこ)、大伴談(おおとものかたり)、小鹿火宿禰(おかいのすくね)らを派
遣。遠征軍は大いに新羅を破ったとされるがこの時大伴談らは戦死、紀小弓も
病死するなど相当な激戦であったことが窺われる。
小弓の死後、この月にその子紀大磐(きのおおいわ)が新羅に渡り、専横を
極めた。これに怒った小鹿火宿禰や蘇我韓子らは遂に大磐を殺し、分裂状態の
遠征軍も撤退、結局この度の征討計画は失敗したらしい。
(日本書紀)
[1581] 霊亀元年(和銅八年、715)五月三十日 2005-05-29 (Sun) 坂東の富民千戸を陸奥に移す。
この日、相模・上総・常陸・上野・武蔵・下野(千葉県中部以南を除く関東
地方全域)の富裕な人々一千戸を陸奥国に移住させた。前年十月二日に尾張・
上野・信濃・越後四国の民二百戸を出羽柵(いではのき、山形県藤島町?酒田
市?)に移住させたのに続く、陸奥国への移住策の最初の記事。
ここではこれらの人々を「陸奥に配す」と書かれているだけであり、強制移
住が行われたものであろう。一千戸というのは大規模な郡一つ分に相当する数
字であり、大家族制の時代、しかも「富民」であれば恐らくは数万人規模の移
住が行われたのではないだろうか。
当時の技術では大河川から直接灌漑用の水を得ることは出来ず、そのため開
発可能な場所はかなり限られていた。班田収授の制度の実施によって個人や豪
族ではなく、国家が田地の総量管理に乗り出してしまったため、口分田の不足
は深刻な問題であり、これらの措置と前後して関東地方に亡命百済人などを配
置してその開発に当たらせていた。恐らくは開発の一段落した地域や渡来人を
配置するために場所を空けた地域の人々を移住させることによって北の新天地
の開発に当たらせたものであろう。
しかし、住み慣れた故郷を捨てて無理矢理移住させられる方の人々にとって
たまったものではない。移住させられた人々の中から逃亡者が続出した結果が
後には移住は希望者を募る形になった原因かと思われる。
また、このような大規模な移住は共存関係を築いていた蝦夷(えみし)との
摩擦を生み、やがて両者の激突は避けられないようになっていく。
(続日本紀)
[1580] 朱鳥元年(天武十五年、686)五月二十九日 2005-05-29 (Sun) 新羅使金智祥ら来着、筑紫に饗応し帰国させる。
この前年十一月二十七日、新羅の国政報告と進調のため金智祥(こんちしょ
う)以下の使節が筑紫に来着した。金智祥の官位は日本の令制の正三位に相当
し、新羅の王族の一人。また副使の金健勲(こんごんくん)も従三位に相当す
る高官で破格の大物が使節として来日したことになる。遣使の目的は請政(国
政報告、実際には違うだろうが少なくとも日本側はそう理解した)ではあるが、
恐らく非常に重要な役割を帯びていたのであろう。
彼らはしかし都に招かれることなく、その代わりに饗応のためこの年一月、
川内王(こうちのおおきみ)、大伴安麻呂(家持の祖父)らを筑紫に派遣、さ
らに四月十三日には川原寺の伎楽(ぎがく、古代チベット・インドの仮面劇)
を大宰府に送った。新羅使からは進調物として名馬一頭、騾馬一頭、犬二匹、
金細工の器、金、銀、高級織物、虎皮、薬など百余種もの珍宝が献上された。
またほかに大使・副使が個人的に献上したものや皇后・諸皇子に献上した物も
多数あったらしく大変力の入った使節団であったことがわかる。
来日から半年も経ったこの日、彼らには筑紫で饗応を行い、答礼の品々を贈
って帰国させた。日本から贈られた物の内容については記載されていない。
これほどの高官を派遣されながら都に招かなかった理由は明確でないが、或
いは当時藤原京が既に造営中であったと見られ、都が未完成であったためかも
知れない。一方、天武朝では(新羅と唐の緊張関係を反映して)対日本外交に
力を入れた新羅はその後その格を落とし、そのことがまた日本側の心証を害し、
奈良時代には日羅関係は最悪の状況になっていく。
(日本書紀)
[1579] 天武六年(677)五月二十八日 2005-05-28 (Sat) 神社神税の配分を定める。
この日天武天皇は天社地社(あまつやしろくにつやしろ)の神税は三分して
そのうちの一を神への供え物とし、残り三分の二を神主(神職)の所得とせよ、
という勅を出された。
上代には畿内を中心に皇室などに関係のある主な神社が国家祭祀の対象とさ
れ、地方の神社はそれを奉ずる豪族によって祀られていたらしい。それがやが
て中央集権国家構築の過程でその対象は広げられ、次第に全国の主要な神社が
国家祭祀の対象とされていくようになる。この勅でいう天社とは高天原(たか
まがはら)から降臨した神(天神:あまつかみ)を祀る神社、地社とは国土土
着の神(地祇:くにつかみ)を祀る神社である。天神は基本的に大和朝廷の、
地祇は諸豪族の神であるから、その対象には既に皇室関係以外の神社も含まれ
ていたということになる。ある意味では神社の保護ではあるが、同時に全国の
神を国家の中に組み込むことによる全国の直接掌握の意図もあるだろう。
神社の神主は本来は任命制であったがやがて世襲化し、地域の有力者となっ
て行く者もあった。阿蘇、宗像(むなかた)、諏訪、宇都宮(宇都宮二荒山神
社)、千秋(熱田神宮)といったこれら宮司家は戦国時代の頃まで有力な武将
として活躍する。それは宮司家にはこの時認められたように神社の社領からの
収入を支配できたことが原因ではあるが、このように独立した勢力となること
が出来なかった多くの神社は他の有力社寺の庇護下、或いは村落の鎮守として
細々と存続するか、別当寺の支配下に置かれた。なお、これら神主家の武装は
むしろ土豪としてのもので僧兵により自ら武装した有力寺院とは異なる。
(日本書紀)
[1578] 天平十五年(743)五月二十七日 2005-05-26 (Thu) 墾田永年私財法を発す。
班田収授の法が実施されてから回を重ねる毎に次第に口分田の不足が表面化
していった。これは一つには新しく開墾した土地を開墾者が所有できないため
に開墾意欲が失われ、耕地が増えないことが一つの原因である、と認識した律
令政府は養老七年(723)四月十七日、三世一身法を発し、開墾した者は三
代までは私有地として所有を認める、という方針を打ち出した。これによって
開墾者の権利を保証すると共に、長い目で見れば口分田を増加させることが出
来る、という目論見であった。
しかし、この見通しは甘かったらしい。その三代を経ることなくこの日改め
て出された勅によると、どうせ収公されるのだから、と「農夫怠り倦(う)み
て地を開きし後荒(すさ)みぬ」という状態になっていたらしい。そのため、
先の方針を撤回し、「三世一身を論(あげつら)ふこと無く」永久に所有を認
めたのであった。但し、その開墾の上限は身分によって一位の五百町から庶人
の十町に至るまでの制約が付された。この上限までの未開地を国司に申請して
判許を得てから開墾を行うのであるが、開墾は三年以内に実施しなければなら
ず、完了しなかった場合はその地の権利を失った。
この墾田永年私財法はその後天平神護元年(765)三月に廃止されるが、
宝亀三年(772)十月に再び開墾が認められるようになった。また、この時
に墾田の上限が廃止されたらしい。
なお、これらの地はあくまでも私有を認められ相続が許される地ではあるが
無税というわけではなく、田租などの賦課は行われた。
(続日本紀)
[1577] 持統六年(692)五月二十六日 2005-05-25 (Wed) 伊勢・大倭・住吉・紀伊四所大神に遣使奉幣し新宮のことを告ぐ。
この日、持統天皇は使者を伊勢・大倭(やまと)・住吉(すみのえ)・紀伊
(き)の四ヶ所の神社に奉幣し、間もなく新しい都に遷都することを報告した。
新しい都とはもちろん藤原京のことである。恐らくこの四ヶ所の神社が当時国
家にとって最も重要な神社であったと考えられる。うち、伊勢はもちろん伊勢
神宮であり、皇室の祖神を祭る神社で、天武天皇の時以来制度が大きく整備拡
充された。二十年に一度(古代においては足かけ二十年、即ち十九年毎)の式
年遷宮の制度が確定したのもこの時で、第一回の式年遷宮は持統年に行われた。
なお、後には住吉大社と香取・鹿島神宮も式年遷宮が行われるようになった。
大和坐大国魂神社(おおやまとにいますおおくにたまのかみのやしろ)は大
和の地にもともと鎮座されていた神社であり、現在は天理市にあるが、古代に
は現在長岳寺のある場所にあったのではないかとの説もある。
住吉大社(すみのえのおおやしろ)は大阪市住吉区に鎮座する航海の神であ
り、第一本宮から第三本宮までが一列に並び、第四本宮が第三本宮に隣接する
という特異な配置を有する。また古代以来の形式を伝える丹塗り・白壁の御社
殿(これは土壁ではなく板壁に彩色したもの)は住吉造として知られる。
紀伊は日前神社(ひのくまのかみのやしろ)と考えられる。和歌山市に鎮座
されるこの神社は現在国懸(くにかかす)神社と同地に祭られ、日前国懸神宮
(ひのくまくにかかすじんぐう)、略して日前宮(にちぜんぐう)と称されて
いる。伊勢神宮のご神体で三種神器の一、八咫鏡(やたのかがみ)の試作品を
祭る、とされる。しかし、その本来の性格については必ずしも明らかではない。
(日本書紀)
[1576] 和銅六年(713)五月二十五日 2005-05-24 (Tue) 山背国に乳牛戸を置く。
この日初めて山背(やましろ、京都府南部)国に乳牛戸(ちちうしのへ)五
十戸を設置した。これは恐らく典薬寮に所属して牛乳や乳製品を朝廷に貢納す
る乳戸のことであるが、このとき乳戸自体が初めて設置されたのかそれとも山
背に設置されたのが初めてなのかは明らかでない。
知られているように古代においては牛乳や乳製品も生産され、飲用及び食用
にされていた。乳製品としては蘇の存在が知られるが、この蘇にしても具体的
にどのようなものであったのかは不明。蘇は遠方からも運ばれているので腐敗
に強いチーズのようなものとも考えられるが容器は壺なのでヨーグルト状のも
のの可能性もある。勿論、現在市販されている物は推定復元の一つである。
現在のホルスタイン種などの乳牛は一頭あたり一日25〜30リットル、多い場
合は50リットルほどの牛乳を産する。しかし、平安時代初期の行政施行細則で
ある「延喜式」典薬寮の条によれば供御(くご、天皇の食膳に供える)の牛乳
は一日に三升一合五勺。当時の一升は現在の四合に相当するので換算すると約
2.27リットル。これを生産するために乳牛が七頭飼われていた。とすると一頭
あたり僅か320ccにしかならない。また同書の民部省の条によれば蘇の原料の
牛乳は肥牛で一日八合、痩牛はその半分。つまり条件がよい場合でも600ccに
満たない。そうして得られた牛乳一斗から蘇はやっと一升を産した。
こういったことからわかる通り、牛乳も乳製品も大変な貴重品であり、とて
も庶民どころか一般の官僚にさえ入手できるものではなく、典薬寮が扱うこと
からも明らかなように高級貴族の薬用として使用されていた。
(続日本紀)
◎本日の記事につきましてはみるく工房飛鳥さんからご教示を得ました。工房
さんのサイトでは復元された蘇の販売などもしておられます。
http://www.office-doris.com/client/nishii/
[1575] 文武三年(699)五月二十四日 2005-05-23 (Mon) 役小角を伊豆嶋へ流罪とする。
この日、役小角(えのおづの)が伊豆嶋(伊豆大島?蛭が小島?)に流罪と
された。小角は葛城山に住み、呪術で世に聞こえた人物であった。しかし、そ
の力を悪用して人々を惑わした、という讒言をされ、遠流とされた。噂では彼
は鬼神を使役して水を汲んだり薪を採ったりさせ、もし従わなければ呪術で縛
り上げた、という。
役小角は修験道の祖とされる役行者(えんのぎょうじゃ)。「続日本紀」に
記されたのは上記の内容であるが、この段階でも既に半ば伝説化しているのが
わかる。さらに平安初頭に成立した「日本霊異記」上巻二十八話によれば、彼
は葛木上郡茅原村(奈良県御所市茅原)の人で、孔雀王の咒法(孔雀明王を本
尊とし、一切の毒物・怖畏・災悩を滅ぼすことを念ずる呪法)を修得し、その
結果鬼神を自由に使役することができたという。そして吉野の金峰山と葛城山
の間に橋をかけよ、と鬼神たちに命じたため、神たちは苦しみ、とうとう葛城
一語主大神(かつらぎのひとことぬしのおおかみ、御所市の葛城坐一言主神社
の御祭神)が託宣によって彼が謀反を企んでいる、という讒言をしたので追捕
を受けたが、それでも験力によって容易に捕らえられないため、その母を代わ
りに捕らえたため、やむなく彼も出てきて捕らえられ、伊図の嶋に流された。
しかし、日中は勅命に従って嶋で修行をしたが、海上を自由に歩き、夜には駿
河の富士山に渡って修行をした。この間帰京を図ったため再度一言主神の訴え
によって死刑にされそうになったが、今度は富士の神の託宣で助かり、大宝元
年(701)正月に漸く許されて帰京、仙人となって天に飛んだ、という。
(続日本紀)
[1574] 斉衡二年(855)五月二十三日 2005-05-22 (Sun) 東大寺大仏の頭部転落する。
この年四月二日に地震があった。そのの後暫く鳴りを潜めていたが、この月
十日、十一日と続けて地震があって人々を驚かせた。またこの頃、豪雨が続い
たり、左右馬寮所属の馬が次々に病死してほとんどいなくなってしまう、とい
うこともあった。そんなこの日、東大寺からの急使は大仏の頭部が自然に落下
してしまったことを告げた。完成から百年、技術的な問題に経年劣化が重なり
さらにうち続く地震の影響でついにこの事態に至ったものであろう。
こういった天変地異は社会不安を引き起こしたが、宮中でも当時前代未聞の
醜聞が発生していた。皇后染殿后(そめどののきさき)に取り付いた狐を払っ
た金峰山の聖人が后に横恋慕の挙げ句に暴行に及び、捕まって後鬼となっても
思いを遂げようとの誓願を立てて死に、実際に悪鬼となって皇后をたぶらかし
関係を続けたが誰もこれを制止できなかったという(今昔物語集20-7)。
そんな中、斉衡三年十二月二十九日には常陸鹿島郡大洗磯前(いそさき)に
新たに神が降り、託宣して「我は大奈母知少比古奈命(おほなもちすくなひこ
なのみこと)なり。昔この国を造り訖(をは)り、去りて東海に往きき。今民
を済(すく)はんが為、更にまた帰り来たれり」と告げた。大洗磯前神社(茨
城県大洗町)及び酒烈(さかつら)磯前神社(茨城県ひたちなか市)の創建に
まつわる挿話であり、その背後には自らの氏神である鹿島神宮の神を藤原氏に
奪われた(春日大社に遷座)東国の人々が代わりに本来の自分たちの神を改め
て祀ったという事情があるものの、当時の社会不安と救いを求める人々の叫び
が聞こえるようである。
(文徳実録)
[1573] 持統三年(689)五月二十二日 2005-05-22 (Sun) 土師根麻呂詔を奉じ新羅使の非礼を責めて貢物を返還する。
この年三月二十日、新羅(しらぎ)は日本の令制の従五位ほどに相当する金
道那(こんどうな)らを遣わし、天武天皇の弔問を行い、あわせて学問僧二人
を送り届けてきた。また、金銅の阿弥陀三尊像や織物などを献上してきた。が、
彼らは入京を許されず、大宰府(だざいふ、福岡県太宰府市)に留め置かれた。
そしてこの日、土師根麻呂(はじのねまろ)が新羅使に以下の勅を告げた。
昨年、田中法麻呂(たなかののりまろ)を派遣して天武天皇の喪を告げた時、
新羅では日本からの使者の口上を以前より格下の者が承ろうとしたので、法麻
呂らは伝達することができなかった。また天智天皇崩御の際の弔使はわが従四
位相当の者であったのに今回は使者の格が下がっている。元来、新羅は「我が
国は日本(やまと)の遠つ皇祖(みおや)の代(みよ)より、舳(へ)を並べ
梶を干さず奉仕(つかまつ)れる国なり」と言っていたのに今回は船も一艘し
かない。不誠実きわまりないので献上物は封印したまま受け入れない。しかし、
法度を守れば代々の通り慈むので、今後は戦々兢々と努めよ、と。
僅かの差であっても格を下げられることは当時の日本には耐え難いことであ
った。一方、新羅としては唐も結局朝鮮半島の領有を認めた今、日本との関係
も従属的・迎合的なものから対等のものへと転換を目指しており、そのために
敢えて徐々に格を下げて行くつもりであったのであろう。両者の姿勢はそれか
らも毎回のように対立的なものとなっていく。また、この中での新羅の誓約は
神功皇后の新羅征伐以来の文言であり、外交に用いられるということは神功皇
后の事跡自体新羅も承認せざるを得ないような何らかの事実があったのだろう。
(日本書紀)
[1572] 養老四年(720)五月二十一日 2005-05-20 (Fri) 日本紀の功成り奏上。
これより先、舎人親王が勅を奉じて日本紀の編集を行っていたが、この日そ
の功成って奏上した。紀三十巻、系図一巻から成るものであった。
日本書紀の完成記事であるが、この書の書名はもともと日本書紀であったの
かそれともこの記事にあるように日本紀であったのか、意見が分かれている。
また、ここにある系図一巻は現存しない。
日本書紀本文を音韻・文法などから分析、その成立過程を復元させた森博達
京都産業大学教授の研究によればその編纂過程は次のようであったとされる。
日本書紀編纂を目指した天武朝当時の日本には正史を編纂した経験がなく、
また正史の要件である漢文でこれを著述するだけの力量を有する適格者がいな
かった。が、持統三年(689)、浄御原令が成立、それの編纂に当たってい
た続守言(しょくしゅげん)と薩弘恪(さつこうかく)の二人(百済救援戦争
の過程で捕虜となり来日した唐人)に白羽の矢が立ち、古代の二つの画期であ
る雄略朝と大化改新からの著述を始めることとなり、それぞれ雄略紀、皇極紀
からの述作が開始された。しかし、続守言は崇峻紀の終了間際に倒れ、一方の
薩弘恪は大宝律令の編纂にも参画し多忙を極めた末、天智紀までの述作を完了
した段階で卒去した。やむなく残った推古紀、舒明紀、天武紀及び当初予定に
なかった雄略以前についての著述は山田御方(やまだのみかた)に託されて一
応の完成を見、さらに持統天皇の崩御によって持統紀を追加することになり、
紀清人(きのきよひと)と三宅藤麻呂がこれに当たった。あわせて既存の巻に
ついても漢籍による修辞を行って漸く完成したのが日本書紀だという。
(続日本紀)
[1571] 推古三十四年(626)五月二十日 2005-05-19 (Thu) 蘇我馬子薨じ桃原墓に葬る。
この日、大臣(おおおみ)蘇我馬子(そがのうまこ)が薨じた。そのために
桃原墓(ももはらのはか)に葬られた。日本書紀は年齢を記さないが扶桑略記
という後世の史書によれば七十六歳。
馬子は蘇我稲目(そがのいなめ)の子。敏達(びだつ)天皇即位の際に大臣
(おおおみ)に任ぜられた。用明二年(587)、対立する崇仏派の物部守屋
(もののべのもりや)を倒して政権を掌握、崇峻五年(592)には崇峻天皇
を弑殺するなど横暴を極めたが、姪の推古天皇が立つに及んで聖徳太子と協力
して政治を行った。古代以来の雄族葛城(かつらぎ)氏の一族と称して推古三
十二年にはその故地葛城県(かつらぎのあがた)の賜与を望んだが推古天皇は
これを許さなかった。仏法を厚く敬い、飛鳥寺を創建した。飛鳥川のほとりの
その邸宅には小池を掘り、そこに中島を築いていたため島大臣(しまのおおお
み)と称された。後、その邸宅跡は島宮という離宮として長く使用される。
桃原墓は現在の石舞台古墳のことだと言われる。一辺50mほどの方墳であ
ったが、封土を失い石室が露出している。もしこれが馬子の墓であれば誰がこ
の墓を破壊したかは全く不明。乙巳の変で蘇我本宗家が滅亡した後、政界の中
心にあった石川麻呂は馬子の孫であり、その弟赤兄(あかえ)の娘たちは孝徳
・天智・天武の後宮にあって元明はその娘であり、文武や聖武などにも蘇我氏
の血統は色濃く流れていた。また石川麻呂の弟、連子(むらじこ)の娘娼子は
藤原不比等の妻の一人で、武智麻呂や房前(ふささき)はその子であり少なく
とも同時代に馬子の墓を破壊する理由は見いだせない。
(続日本紀)