その日の夜。
 せっかくの土曜日だというのに、なにもすることが
なく、垂れ流しのテレビをBGMに、ダラダラとした
時間を過ごしていた。
 夜の街に繰り出して、夜更けまでぱーっと騒ぐって
のも悪くはないが、現在は経済的な理由でそれもちと
厳しい。
 …まあ、撮ったビデオもたまってることだし、この
土日を使って消化するか。
 ええっと、どのテープからだったかな。
 ラベルも張らないから、分からなくなるんだよな。

 ふむ、取りあえず、こいつを再生してみっか。
 ガチャ…。
 ぽちっ…。
 ういぃぃん…。
「…………」
 あれ?
 なんだこりゃ、なんでニュースなんか入ってんだ?
 …げっ。
 もしかして、タイマーのセット間違えた!?
 うげーっ、マジかよぉ。

 …などと、そんなことをやっていると――。

 プルルルルルルルルル…。
 プルルルルルルルルル…。
 階段の下で電話が鳴った。


 プルルルルルルルルル…。
 プルルルルルルルルル…。
「はいはい、いまでるよ」
 …ったく、いまどき玄関先に電話機置いてるのは、
この家ぐらいじゃねーのか。


 プルルルルルルルルル…。
 プルルルルルルルルル…。
 カチャ…。
 オレは受話器を取った。
「はい、もしもし」

 受話器に耳を当てた途端、最初に聴こえてきたのは、
自動車などの通りの喧騒だった。
 すぐに公衆電話からだとわかる。
 それから、女のコらしきすすり泣く声…。
「もしもし?」
「…うっうっうっ…」
「もしもし? もしもし?」
 オレは繰り返し言った。
「…ううっ、藤田様のお宅ですか〜?」
「そうだけど…」
「…ううっ、浩之さんはいらっしゃいますか〜?」

「浩之はオレだけど、…誰?」
 オレがそう言うと、受話器の向こうからはぐすすっ
と鼻をすする音。
 そして、
「…ううっ、わ、わたしです〜…、マルチです…」
 声の主は名乗った。

「マ、マルチ!? マルチなのか?」
 オレは受話器を耳に押し当てた。
「ううっ、そ、そうですぅ、マルチですぅ、ロボット
のマルチですぅ…」
「なんだ、どうしたんだ、いったい?」
「…うううっ、ひ、浩之さん、…わたし、わたし、道
に迷ってしまってぇ…」
 道に迷ったぁ?
「おい、いま、どこにいるんだよ?」
「…いつものゲームセンターの前です…」
「なんだ。すぐ近くじゃねーか。…いったい、なんで
そんなとこにいるんだ?」

「…うううっ、わたし、浩之さんにお会いしたかった
んです〜。いろいろと、これまでのお礼がしたくて、
そのことを主任にお話したら、『じゃ、いまから時間
あげるから、行ってきなさい』と言ってくださって。
バスに乗ってここまで来たんですけど、浩之さんの家
がわからなくてぇ、それで…」
「わかった、ゲーセン前だな。いまから、そっち行く
から、変なやつについてったりしねーで、大人しくそ
こで待ってんだぞ」
「…あっ、は、はいっ、ありがとうございますー!」
 受話器の向こうから、ごんッ、と音がした。
 大方、おじぎして頭でも打ったんだろ。


 オレは電話を切ると、靴を履いた。
 …ったく、しょうがねーヤツだな。
 道に迷って泣いて電話してくるなんてよ、いったい
なにが最新型なんだか。
 まあ、そんなとこがマルチらしいっていや、マルチ
らしいんだけど。
 オレは家を出た。


 いつものゲーセン前って言ってたな。
 それって、やっぱ、あそこのことだよな。
 オレは、いつも行ってる駅前のゲーセンへと、早足
気味に向かった。


 と、いうわけで、やっては来たが…。
「ええ〜っと…」
 賑やかな夜の通りの中、オレはきょろきょろと辺り
を見回し、マルチの姿を捜した。
 そのとき、
「ひ、浩之さあああぁぁぁぁ〜〜〜〜〜んっ!」
 先に見つけたのはマルチのほうだった。
 ボロボロと涙を流しながら、大きく両手を振ると、
だぁーっと、オレのもとへ駆け寄ってくる。

「ひ、浩之さあああぁぁぁ〜〜〜ん、来てくださった
んですねぇぇ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
 大きな目からボロボロと大粒の涙が溢れていた。
「わ、わざわざ、ありがとうございますぅぅ〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っ!」
「…ったく、ろくに場所も判んねーくせに家を訪ねて
来るなんてさ。相変わらず、そそっかしいな、マルチ
はよ〜」

「す、すみませんえぇぇ〜〜〜ん、住所だけは判って
いたんですが、道が複雑でぇぇ〜〜〜〜〜」
 おいおい、どこが複雑なんだよ。
 ほとんど一本道じゃねーか。
「…ううう〜っ、今回はこれまでのお礼におうかがい
しようと思ったのに、またまた、ご迷惑をお掛けして
しまいましたぁぁ〜〜〜…」
「わかった、わかった。…ほら、鼻水出てるぞ」
 オレがティッシュを手渡すと、
「…は、はい、…すみません…」
 マルチは、チーンッと鼻水をかんだ。

「…ううっ、どうしてわたしってこう、なにをやって
もドジばかりなんでしょう…。もしセリオさんなら、
絶対こんなふうに道に迷わないのに…」
 マルチは申し訳なさそうな顔で言った。
「そういや、たしかセリオのほうは、人工衛星からの
ナビが使えるんだったな」
「はい、絶対に道に迷わないんです…。それに比べて
このわたしは…」

 オレは、ぽんっと、マルチの頭に手を置いた。
「ま、他人と比べて自分はどうだとか、そんな意味の
ないことはやめるんだな。そもそも、セリオだったら、
お礼に来ようだなんて、考えたりしないだろ」
「…え?」
「オレは、やっぱりマルチのほうが、最新型だと思う
けどな」


 かちゃかちゃ…。
 ガチャ。
「おう、んじゃあ、中に入ってくれ」
「…あ、はい」
 振り向いてオレが言うと、マルチは少し遠慮しがち
に中に入ってきた。
 玄関に入った途端、大きく目を見開いて、まわりを
見渡した。

「…わあ、ここが浩之さんのお家ですかー」
「ま、狭い家だけどな」
「そんなことないですよー。とっても素敵なお家だと
思います」
「そーか?」
「はい。…わたし、いつかこういうお家で働くのが夢
なんですよー」
 マルチはにっこり笑ってそう言った。
「夢ね…」
 マルチはロボットなのに、夢があるのか…。


「あの、ご両親は…?」
「ふたりとも滅多に帰ってこねーんだ。だからいまは、
ほとんど一人暮らし同然の生活してる」
「そうなんですか。…大変ですね」
「ああ、もうホント大変だぜ。家にもメイドロボット
が欲しいぜ」
「えっ!? ホントですか?」
「ああ、ホントだとも。そうだ。マルチが正式に発売
されたら、無理してでも買ってもらおうかな」
「えっ…」

 ソファーに腰を下ろし、マルチにも勧めた。
「ホラ、そんなとこに突っ立ってないで、座んなよ。
疲れただろ?」
 だが、マルチは笑顔で首を横に振ると、
「いえ、平気です」
 と、言った。
「…それよりも、さっそく浩之さんのために、なにか
したいんですけど」
「なにかって…?」

「今日の帰り道にもお話ししたと思いますが、わたし、
浩之さんに御恩返しがしたいんです。これまでの感謝
の気持ちを少しでもお返ししたくて、それでこうして
やって来たんです。ですから、今からしばらく、浩之
さんのためだけに働かせてください」
「オレのためだけに?」
「はい。…学校だと、浩之さんひとりにひいきしては
働けませんでしたけど、お家でなら…」
 マルチは再びにっこり笑顔を浮かべると、
「わたし、いまから、浩之さんの専用メイドロボット
になりますっ」
 そう言った。

「オ、オレ専用のメイドロボ?」
「はい! ですから遠慮なさらず、なんなりと御用を
お申し付けくださいっ」
「…な、なんだか照れるな…」
「…わたし、もともと、ただのお手伝いロボットです
から、御恩返しといってもこの程度のことしかできま
せんけど…。けど…、少しでも、この感謝の気持ちを
お返ししたいんです」
「マルチ…」
「短い間ですけど、わたしにご奉仕させてください」

 わたしにご奉仕させてください…か。
 ううっ、心に染み入るいい言葉だ。
 メイドロボのユーザーって、みんなこんな気持ちを
味わってんのかな。
 なんだか、人生の夢がひとつ叶ったって感じだな。
「よぉーしっ! んじゃ、お言葉に甘えて、さっそく
なにかやってもらおうかな」
「はい、なんなりと! これでも、お料理、お掃除、
お洗濯と、いちおう一通りのことはできますから」

「そうか。…じゃあ、まだ夕飯食ってねーしさ、取り
あえずは、なんか作ってもらおうかな」
「はいっ、かしこまりました! …えっと、じゃあ、
なにを作りましょうか?」
「そうだな、マルチはどんなのが作れるんだ?」
「はいっ、なんでも作れますっ!」
「なんでも? すげーな」
「…お料理の本さえあれば」
「……」

「ところで、材料のほうはどうなんでしょう?」
「あっ、わりぃ。…そういや、全然ねーや。あるのは
カップラーメンとか、そんなのばっかだ」
「材料がないと、さすがに…」
「そうだな、なにがあったかな…」
 オレは立ち上がって、キッチンのほうに向かった。
「あっ、御一緒します」

 ガチャ。
 ガチャ。
 冷蔵庫はもとより、片っ端から棚も開け、マルチと
一緒に調べてみた。
「うーむ…」
「……」
「しっかし、なんにもねーな」
「そうですねぇ…」
 我が家ながら、ホントに人が住んでるのかどうかも
疑わしいくらいだ。

「調味料はいろいろありますね」
「ああ、それは、あかりのヤツが…」
 言い掛けてやめた。
 棚にある調味料の半分は、前にあかりが作ったとき
に買ったヤツだ。

 結局、見つかったのは、インスタント食品やら缶詰
やらばかりだった。
「…わざわざカップラーメン作ってもらうのもなんだ
しな」
「浩之さん、浩之さん」
 そのとき、マルチがニコニコした顔で呼んだ。
「あん?」
 手にはスパゲティーのパスタを持っていた。
「これ、使ってもいいですか?」
「スパゲティーか」
「はい。ミートソースもありましたよ」
「ああ、そういや、そういうのもあったな」

「じゃあ、これ、作りましょうか?」
「そうだな」
 まあ、スパゲティーも料理というには単純だけど、
カップラーメンよりはいくらかマシだ。
 マルチはさっそく取り掛かった。
 腕まくりして、オレの母親のエプロンをして、鍋で
お湯を沸かす。
「大丈夫か? ちゃんと作れるか?」
「はい、任せてください!」
 マルチは自信たっぷりの笑顔で言った。








「…………」
「…………」
「せんべい?」
「…うっ」
「ミートせんべい?」
「…ううっ」
「これは、フォークじゃ食べらんねーな」
「…うううっ、すみませ〜〜〜〜〜〜〜〜んっ!」

 マルチの作ったスパゲティーは、パスタとパスタが
焦げてくっついて、せんべいのようになっていた。
 ざるでお湯を切った段階でくっついていたものを、
十分に油の引いてないフライパンで炒めた結果だ。
 後で上からかけるだけでいいミートソースを、それ
に混ぜてさらに焦がして、見事なミートせんべいの出
来上がりだった。
 オレはそれを箸で、バリバリと食べた。
「ご、ごちそうさま…」
 ちゃんと残さず食べた。

「…うううっ、…す、すみませんでした…」
「ま、まあ、味のほうはちゃんとミートスパゲティー
だったぜ?」
 だが、食感はピザっぽかった。
「…わたし、じつはお料理って、ほとんどやったこと
がないんです」
「なぬ〜っ?」
「…研究所のテストでやったことがあるていどで…。
…ううっ、作り方の説明通りにすれば、きっとうまく
できると思ったんですけど…」

「あのな〜、料理ってヤツは、経験が重要なんだぞ?
単純に煮たり炒めたりするだけでも、微妙なコツとか
があるんだぜ?」
「…す、すみません。…わたし、出来てまだ間もなし
で、いろいろと経験不足で…」
「経験不足か。…オレ、てっきりメイドロボットって、
そういう料理作るプログラムとかは、最初からされて
るもんだと思ってたけど…」
「…わたしは学習型のメイドロボットなんです」
 マルチはグスッと鼻をすすった。

「…ううっ、…これがセリオさんだったら、きっと、
浩之さんを満足させるだけのおいしいスパゲティーに
なってましたよね…」
 すっかり落ち込んでしまったマルチ。
 しょうがねーなー。
 オレは目を細めて微笑むと、


「そんなことはないぜ?」
 そう言って、マルチの頭に手を置いた。
「…たしかに、料理は失敗したかも知んねーけどさ、
それでもオレはすげー嬉しかったぜ。たとえセリオが
ちゃんとしたの作ったとしてもさ、それでもやっぱり
マルチが一生懸命作ったやつのほうが、オレの満足度
は上だろうな」
「…浩之さん」

「料理は、味や見てくれだけじゃない。作ってくれる
側の愛情が大切なんだ。…とくに、こんな生活してる
オレなんかにゃ、そっちのほうがよっぼど重要だぜ。
いまのスパゲティーからは、マルチの愛情がたっぷり
と感じられたしな」
 オレはマルチの頭を撫でた。
「…ひ、浩之さん」

 マルチは、頭を撫でられるのが大好きらしい。
「だから、そんなに落ち込むな。…愛情がありゃあ、
料理なんてもんは、すぐに上達するって」
「…は、はい」
 そう言うマルチの目が、じわっと涙で滲んでいく。
「…ううっ、浩之さん、…ありがとうございます…」
 滲んだ涙がポロッとこぼれた。
「…ったく、マルチは泣き虫だなー」
 オレは、そんなマルチの頭を優しく撫でた。


 マルチが後片付けする間、オレは風呂に入った。


「…ふぅ」
 それにしても、思わぬ来客が来たもんだ。
 マルチのヤツ、今日は何時くらいまで家にいられる
んだろ。
「……」
 それにしても、やっぱ、メイドロボってヤツはいい
もんだよなー。
 まず、なんつっても便利だし、それに、ちょっぴり
ご主人様気分が味わえるのがいいよなー。

 あーあ。
 マルチのヤツ、このままずっと、この家にいてくれ
ねーかな。
「……」
 当然、無理だろーな。
 …などと湯船の中で思っていると。

 がちゃ…っと戸の開く音がした。
「…あのぉ…」
 マ、マルチ!?
 磨りガラス越しにマルチの影が映った。
「な、なんだ?」
「…よろしければ、お背中お流ししましょうか?」
「せ、背中?」
「はい」
「な、なんだぁ? メイドロボットってのは、そんな
こともするのか?」
「はい」
 マルチはうなずいた。

「もともとメイドロボットは、お年寄りの看護のため
に作られたので、お風呂で体を洗ったりできるよう、
完全防水仕様に作られていて…」
「あ〜っ、わかった、わかった。もういい、もういい。
とにかく、オレはいいからっ!」
「そうですか? じゃあ、次はなにしましょうか?」
「ああ、じゃ洗濯、洗濯。洗濯物がたまってるから、
それを洗濯機に入れてまわしといてくれ」
「はい、かしこまりました」
 マルチの軽快な足音が遠ざかっていった。

 せ、背中流しか。
 メイドロボットって、そんなことも出来るんだ。
 ちょっと驚きだぜ。
 うーむ。
 メイドロボットのほとんどが、女のコのデザインな
わけが少し解ったような気がする。
「……」
 やってもらえばよかったかな。


「ふぅ〜、いい湯だった」
 風呂から上がってくると、
「洗濯機まわしておきました」
 マルチはにっこり微笑んで言った。
「おお、そーか、そーか、ご苦労さん」
 オレはバスタオルで髪を拭きながら言った。
「他に、なにかすることはないですか?」
「そうだな…。うーん…」
「キッチンと、玄関と、トイレのお掃除はすみました
けど」
「なにぃ?」
 そういや、キッチンがきれいに片付いてるぞ…。
 向こうはどうだ?


 玄関も、床がキレイになっている…。
 がちゃっ。
 おおっ、トイレもピカピカだ。
 便器が美しく輝いてるぜ。
「やるなあ、マルチ」
「はい、お掃除は得意ですから。学校で、たくさんコ
ツを勉強しましたし」
「なるほど、学習型なわけだな」
「はい」
「よしっ、もう一度ほめてやろう」
「えっ!?」


「えらい、えらい」
 なでり、なでり。
「…あっ」
 頭を撫でてやると、マルチは本当に嬉しそうな顔を
する。
 ぽーっと酔ったふうな顔になるのだ。
 人間に喜ばれ、ほめられるのが、マルチにとっての
最高の幸せなんだろう。


 それからマルチはその勢いで、階段と、2階の廊下
と、風呂場も掃除してくれた。
 ホントに根っから掃除が好きらしく、じつに楽しげ
な様子だった。


 …そして、マルチが掃除を終えるころ、時間はあっ
という間に過ぎ去っていた。
 9時過ぎだった。
 時計を見て、ため息をつくと、マルチは寂しそうに
言った。
「…もうそろそろ、帰らないといけません」
 まるで、シンデレラやかぐや姫を思い出させるよう
なそのセリフ。
 オレも寂しい気持ちになる。

「そ、そっか、帰るのか。…そうだよな、もうこんな
時間だもんな」
 たしか、マルチの帰る先は、来栖川電工の研究所か
なんかだと言ってた。
 きっと本来なら、もう遅すぎるくらいの時間なんだ
ろう。

「…あの、浩之さん」
 マルチはオレを見つめて訊いてきた。
「…今日は、わたし、お役に立てたでしょうか?」
「ん? …あ、ああ、そりゃもちろん」
 オレは微笑むと、うなずいて答えた。
「じゃあ、少しは浩之さんに恩返しができたと思って
もいいですか?」
「おう、もう十分なほどしてもらったぜ」
 オレはマルチの頭を撫でた。

 そもそも、マルチは『恩返し、恩返し』というもの
の、オレのほうは、そんな恩返しされるほどのことを
した覚えはない。
 たしかに、危ないとこを助けたり、掃除を手伝った
りはしたが、どれも大したことじゃない。
 今日は、明らかにそれ以上のことをしてもらった。

「おかげで家の中がピカピカになったぜ。サンキュな、
マルチ」
 オレが微笑んで言うと、マルチは、
「…もっと時間があれば、本当は、隅々までキレイに
して差し上げたかったんですけど、残念ですー」
 少し照れながらそう言った。

「そっか。…んじゃあ、それはまた、別の機会という
ことにしようぜ」
 オレは言った。
「え?」
「オレんちまでの道、もう覚えただろ? また暇見て
遊びに来いよ」
 そう言って、ポンポンと肩を叩いた。
 するとマルチは、
「…………」
 なにやら複雑な顔をした。
「どうした? まだ覚えてないのか?」
「…い、いえ、そうじゃないですけど…」

「だったら来いよ。いつでも歓迎するぜ?」
「……」
「な?」
「…あ、は、はい」
 マルチは目を逸らしたまま、曖昧な返事をした。
「?」
 なんだか、少し様子が変だな。

「それより、ここからどうやって帰る気だ?」
 ふと疑問に思って、訊いた。
「…あ、えっと、帰りはタクシーを使ってもいいって
言われてますから」
「なるほどな。それだったら、方向オンチのマルチで
も、道に迷うこともないしな」
「は、はい」
 マルチは苦笑してうなずいた。
「じゃ、電話でタクシー呼ぼうか」
「あ、はい、お願いします」
 ふたりは電話の前へと移動した。


 取りあえずタクシーを一台まわしてもらった。
 受話器を置き、いよいよマルチとの別れが近付いて
いるのを実感したとき、さきほどマルチが見せた表情
が気になった。
 オレが、また遊びに来いよと言ったときに見せた、
あの複雑な表情だ。
 …じつは、マルチのヤツ、本当は、なんらかの理由
で、もう会えないことを知ってるんじゃないのか?
 …それを隠してるんじゃないのか?


「…どうなさったんですか?」
 そんなことを考えると、不思議そうな顔でマルチが
訊ねてきた。
「マルチ…」
 オレは苦笑してマルチを見た。
「はい?」
「なあ、お前、もしかして、オレになにか隠してるん
じゃねーか?」
「えっ?」
「本当は、オレたちふたりがもう会えないってこと、
知ってるんじゃねーのか」

「…………」
 どうやら図星のようだった。
 マルチは根が素直だから、すぐ表情に出る。
「そうなんだな? 今日で本当に最後のお別れだから、
だからオレに会いに来たんだな?」
 マルチはしばらく答えをためらったが、やがて、
「はい…」
 と、小さくうなずいて答えた。
「どうしてだ?」
 オレは訊いた。
 すると、マルチは目にうっすらと涙をためてこっち
を向き、ゆっくりと口を開いた。

「…わたしはもともと試作機ですし、この試験期間が
終わると同時に、その役目を終えるんです。だから、
浩之さんとは、もう会えなくなるんです」
「や、やっぱり、そうなのか」
「…はい。…黙っていて、すみませんでした」
「マルチは、いったいどうなるんだ?」
「…わたしは、いったん会社の大きなコンピュータの
中に移されて、そこでデータを取ってから、別な場所
で保管されます。体には、またべつなわたしが入って、
次のテストを始めます」

「…な、なんだよ、それ。…じゃあ、いまのマルチは、
もういなくなっちまうってことじゃないか」
「いなくなるわけではないですよ。ただ、べつな場所
で保管されるだけです。眠るようなものです」
「…眠るって、…いったい、いつ起きるんだよ!?」
「………それは」
「ずっと眠り続けるんなら、それは、結局いなくなる
ことと変わんねーじゃないか」
「でも、データだけは残ります。そしてそれは、ゆく
ゆく発売される、わたしの妹たちへと受け継がれるん
です」

「…妹たち? 発売される量産型のことか?」
「はい。さすがに個人的な思い出までは受け継ぐこと
は出来ませんけど、きっとみんな、わたしにそっくり
な性格になると思います」
「でも、それはやっぱりマルチじゃなくて、マルチを
参考に作られたコピーなんだろ? いま目の前にいる
マルチは、もういなくなっちまうじゃねーか」
「…………」
「…マルチ、お前、そんなんでいいのかよ? 寂しく
ないのかよ? …怖くねーのかよ?」
「…………」
「…なんでそんなこと、笑顔で言えるんだよ?」

 マルチはしばらく俯いたまま、じっと、たたずんで
いたが、やがてゆっくり顔を上げると、
「わたし、ロボットですから」
 いつもの明るい笑顔で言った。
「ロボットだから、平気なんです。…ロボットには、
もともと心がありませんから。…寂しい気持ちも怖い
気持ちもなくて、あるのはデータだけなんです」
「マルチ…」

 嘘つけよ。
 お前には心があるじゃねーか。
 人間よりも、もっともっと、怖がりで、泣き虫で、
そして、誰よりも優しい心がよー…。

「わたしはもともと、これから生まれてくる妹たちの
ために作られた試作機なんです。妹たちのため、自分
のデータを受け渡すために生まれてきたんです」
「マルチ…」
「でも、わたしは幸せなロボットです。データを書き
換えるだけなのに、こんなに想っていただけるなんて、
とっても幸せなロボットです」
「……」
「最後に浩之さんに会えてよかったです。どうしても
こうやってお会いしたかったんです。…会って、お話
しして、御恩返しがしたかったんです」
「……」

「浩之さん。わたし、浩之さんとお知り合いになれて
本当に良かったです。わたし、ロボットなのに、人間
のように仲良くしてくださって…」
「マルチは…マルチだからな…」
 オレはぼそっと言った。
「…え?」
「…ロボットとか人間とか、それ以前にマルチだった
からな。…オレにとっちゃ」
「ひ、浩之さん…………うっ」
 一瞬、泣きそうになったマルチだったが、ぎゅっと
目をつぶって流れるのをこらえると、両手でごしごし
目をこすり、また笑顔に戻った。

「今日はとっても幸せでした。わたし、こんなお家で、
浩之さんみたいなご主人様のために働くのが夢だった
んです。今日はそれが、短い間ですけど叶いました。
残念ながら、わたしは試作機ですから、その夢は叶い
ませんけど、やがて生まれる妹たちのひとりが、今日
みたいに浩之さんにお仕えできれば嬉しいです」
「マルチ…」

 ピーンポーン。
 そのとき、タクシーが到着し、降りてきた運転手が
呼び鈴を鳴らした。
「それでは、わたしはこれで帰ります。今日は本当に
ありがとうございました。今日のことはメモリー内の
もっとも大切な部分に記憶しておきます」
「マルチ…」
「それじゃ浩之さん。いつまでもお元気で」

 マルチはそう言って、深く長いおじぎをすると、背
を向けて、靴を履き始めた。
 顔は見せない。
 その理由はすぐに解った。
 おじぎした真下の廊下には、ポツポツと涙のあとが
あったからだ。
 泣いた顔は見せたくないらしい。
 マルチ…。

 そんなマルチの背中に、オレは――。

 A、駆け寄って抱き締めた。
 B、オレも楽しかったぜ、と声を掛けた。