古美術・骨董品のギャラリー

made by t. kim  thank you

美術品・骨董品のギャラリー 過去ログVol.1〜10
_

No:01-初夏号- 『レトロとトレンディと〜 飛燕月雑感 〜』

2002.4/19

店内の片隅には手回しの卓上型蓄音機があって、江戸や明治の書画骨董の中で、モバイルにも電源にもおよそ無縁の世界に身を置いて暮らしているちっぽけな爺さんであります。パソコンだのインターネットだのということに関しては、まるで、お笑い吉本新喜劇の間寛平演ずるところの杖を持っても歩行困難な爺さんそのもののようでしたが、最近になって”老いては子に従え”の実践で画面に文字が書けることに興味を持ち始めました。目をしばしばさせながらの長時間作業ですが、見ていただける方に迷惑を掛けない努力を怠らず、なにわや通信 初夏号をお届けいたします。

飛燕月、、、、、約束したかのように燕がやってきました。 夫婦燕でしょうか、子育て用のマイハウスを建築中です。子燕が生まれ育って、やがて飛び立っていく日が楽しみです。 季節を感じながら、  燕図 の掛け軸(水墨横もの小品、近藤 浩一路 筆)を取り出して床の間に掛け、見事に捉えた燕の動きと筆の勢いをなどを楽しんでおります。

燕図 の掛け軸  近藤 浩一路 筆

田舎住まいの骨董屋ですが、そのお陰で時々面白いものを手にします。商売とはいうものの、 元より好きで始まった仕事、〈これは取っておきたい〉と思うことがありますが、お客様に負けて、 お金に負けて、結局そういう品物から先に嫁入り、、、、ということになってしまいます。

産直、とでも申しましょうか、あらゆる角度方面に買い入れの手蔓を求めて、お客から買い入れたものを お客に直販 という姿勢を守っています。 名品というものにはなかなか巡り会えないものですが、良品、を販売するという点では絶対の自信を 持っています。

時間と心のゆとりを探して、爺さんを肴にお喋りなどいかがでしょう。 ご来遊をお待ちいたします。『真面目売ります』 店主の曲げない真情です。

※ 評価や鑑定の依頼が有ればご来店下されば即応します(出張訪問も
※ 何処よりも高価で買い取ります〈美術骨董品以外ではお断りすることもあります
※ 刀剣の研磨、諸工作、拵え刀装具などの加工承ります
※ 書画、掛け軸などの表装、修復、補修、桐箱調整などお引き受けいたします

ご覧頂き有り難うございました、又次号〈骨董三昧四方山噺〉でお会いしましょう
  

_

No:02ー晩夏号ー 『鑑定の色々』

2002 7/1  

刀剣、陶磁、書画、等々ジャンルは夥しいが、鑑定するという作業は並大抵のことではない。現存作家の制作によるものは「私が造ったもの、描いたものです」と言う人がいるのだからこれは些かの問題もないが古美術、骨董という世界では物故作家の制作によるものを各位が愛玩し、時を経て探求し続けるものだからその識別、鑑定は容易じゃない。古くから、お家伝来、由緒など、折り紙や奥付、墨書きがあるものや、国宝、重文等の指定を受けていて美術館や博物館に納まっているようなものは別として、受け継がれてきたその家の家宝が時代の要請で数寄者の手に渡ることがある。通常は所定鑑定人がそれを良しとして譲ったり譲られたりしながら世の中を歩くのだが、その道の学芸員、研究評論家、鑑定家を名乗る先生方、作者の後裔親戚門人、古美術商などがその任?に当たって今日までつながっている。

刀剣類に関しては(財)日本美術刀剣保存協会があり、審査鑑定に力を注がれ、近年愛刀家には安心が与えられるようになったが、古書画に関しては統一された鑑定機関というものが無く、時折諸先生方のお好みに応じた”かんてい”が成されることがある。古画の例だが研究を重ね、その作者作品の数を経眼する事で作品の良否を見極めることは当然だし制作年代の特定など、論評があって嬉しいことであるが、その真偽、を決定づけるとなると少々穏やかではない。 

10年ほど前のこと、東京12chで放映の“なんでも鑑定団”にレギュラー出演していた渡邊包夫先生〈先頃亡くなられたが〉が「珍品でもあれば見せて貰いたい」と言って何度が当店においでになったことがある。古書画の好きな客が2−3人来店中で、私が譲った掛け軸で、池上秀畝の花鳥画を「是非先生に見て貰って批評を頂きたい」とお客の一人が言い出し、先生も箱から取り出すのをもどかしそうにご覧になった時のこと。『ううーん、これはいけませんね、、、』と言う。私は心の中で半ば笑っていたのだが途中で怒りがこみ上げてきた記憶がある。『良く描けているが、絵師として言わせて貰えば薄の穂が折れ曲がった状態になっている、こんな絵を絵描きは絶対に描きません、答えは駄目ですね、、、』お客の顔に少し緊張が走る。大老的存在の先生を前にして、喧嘩を売るような態度はとれない。「自分としては、自信を持って所持してきたものをお譲りしたもので先生の意見に逆らうわけではありませんが少々納得できないのですが、、、、」というところにとどめた。

千葉県夷隅郡の資料館の一角に画室を持ち、狩野正信の生誕地とされる地域であることから古書画についても熱心に研究されていたことは先刻承知していたし、先生ご自身の絵も何点か拝見していて色んな観点から、古画の技法など共感できる部分があっただけにがっかりであった。秋景の花鳥画は七竈、薄の彩色が品良く、指摘のあった折れ曲がった薄には代赭を施して大胆にも枯れ薄にしているのだ。私はそれこそが”著名作者による筆”と豪語してお客に渡したものである。渡邊先生の『横山大観や竹内栖鳳、小林古径先生たちと机を並べた時代、あのころは、、、、』という話しを聞かされたのも懐かしい想い出に変わってしまったが、ものを見る、鑑定するというのはその人の研究、経験の積み重ねをもってしても難問だと痛感したのである。

後日談だが、その”秋草小禽図”は4−5人の鑑定方に見せるようお客に促した。全員の◎印がつき、お客本人が東京美術倶楽部の鑑定書を貰ってきて、今も大切に保存してくれているようだ。刃を向けて勝ち誇るわけではないが、研究心が鑑画の自信に繋がった思い出話である。 昨年物故の仲間入り?になられた木本大果先生に、松本楓湖の鑑定で等々力のご自宅に伺った時のことだが、自作の絵を見せられて感激して見入っていると、「あなたは僕の絵のこの感性を理解している、もっと意見を聞かせて欲しい、、、」と、90歳に手が届く先生に両手で握手を求められた。画家の情熱は表現しようと思う時の感受性にある、と思ったことである。先生の絵を一点譲り受け、帰りの車中で思ったことだが、門弟たちがその師の作品を鑑定する際にも、自分ならこう描く、という概念的なものに捕らわれてともすれば誤りかねない鑑定結果を生むことを感じた。そしてことほど左様に古い絵の鑑定などというものは難しいものだと今も思い続けている。 鑑定で最後の決め手のような存在として、印譜、落款があるがその資料とて残存しているものもあれば無いものもある。描き込みを信じるとしても力量のある弟子たちの手によるとすれば必ずしも絶対とは言えず、印影だけを信じる人にはとんでもない結果をもたらされたりもする。他愛もない印刷物から、ものの見事に出来上がった偽物等々、、、細い目を見開いての真剣勝負だ。出来れば古美術を愛する人たちのガードマンになりたいと思っている。少なくとも私を信じて来店してくれるお客には真面目な物を提供出来るよう心掛けたいと思っている。

江戸期に夢を馳せるならば、大阪が生んだ木村兼霞堂のような、商人でありながら文人として、画人としてそれぞれの絵師と対等で、寧ろ指導的立場で渡り合えるほどの人物になりたかったものだ。人生にもう少し時間があれば、資力があれば、才知があれば、、、、である。                 


晩夏号,ワンショットぎゃらりい


荻原井泉水  作品集ーひぐらしー生原稿 荻原井泉水  作品集ーひぐらしー生原稿
荻原井泉水 作品集ーひぐらしー生原稿


荻原井泉水《自由律俳人、昭和51年93歳没、芸術院会員》 [信州諏訪、唐沢山にて]というサブタイトルが付いていて、これは画人、平福百穂たちと好んで信濃路を歩きながら詠んだ句の断片だと思われる。作家の生原稿などに妙に惹かれる私は押し花のごとく雑多な画仙紙と一緒にしておくことに心を咎め、額装にして楽しんでいる。

そこで待っていてくれた一本松、ひぐらし、日が暮れたとても

杉に鐘楼、やがては みずうみにうつる月が出ている (原稿の侭、部分)

自由律というものが却って私など素人には難しい印象を与えるようにも思えるのだが、、、。昭和初年の記述には、”新派の俳句”と紹介されているのが面白い。ひぐらしの声を聞くと次季の匂いがしてくるようで寂しさを隠せないが、人の一生なんて凡そ蜩の一生にも重なるような想いもあり、朦朧とした頭の中で徒然草の吉田兼好の心境よろしく" その日暮らし”を送っている。

ご覧頂き有り難うございました、又次号〈骨董三昧四方山噺〉でお会いしましょう
  

_

NO.3 仲秋号 【人間の骨董品】〜ある日のテネシーワルツ〜

2002 8/30  

もう、記憶にある人さえ少なくなったかと思うのだが、40年ほど前まで活躍していた夫婦漫才で、砂川捨丸、春代という上方漫才師が居た。紋付き羽織袴で白足袋姿、鼓と扇子を手に小柄な男、相方は少し太めで大柄な女。大阪は天王寺村(芸人村とも)と呼ばれる一角の住人で、決まってトリをつとめる当時の看板芸人であった。舞台に立って出囃子がおさまると、手にした鼓を一つだけポンッ、と打ち鳴らして
「えー、漫才の骨董品でございましてぇー」

という挨拶から始まるのが常であった。

「古い人間をさするより、骨董品の尻をさすってる方が楽しいもんで」
『骨董品なら売れるけど、あんたみたいな人間の骨董品は一銭にもならんワ』


という掛け合いが懐かしく思い起こされる。漫才の世界ではまさに”古陶磁”のような芸の味わいを見せてくれた遠い想い出である。

一昨年であったか、N.H.K の番組で、'50頃全米で大ヒットし、世界中を駈けめぐった”テネシーワルツ”の曲の成り立ちなどを紹介しながら当時のエピソードを織り交ぜた番組が放映されたことがある。 画面には昔の面影など微塵も見られない姿の歌手、パティーページがマイクの前にたっている。“もう一度歌って貰おう”という試みで実現したのだとか、、、、。彼女の表情に目を凝らしながら聞き入った。

歌い始める。やっと立っているような姿が痛々しい。歌声が止まってしまった。わずか32小節で構成された曲のワンコーラスを歌うことが出来ない。途中でバックの演奏だけが流れ、声にならないのだ。こみ上げるものを押さえているようだ。涙が見える。懐かしいメロディと懐かしい人、、、。見ていると一緒になってテレビの前で目頭が熱くなる。

『もういいじゃないか、、止めるなり、誰かがカバーしてあげるなり、脇で支えてあげなければ酷だ、』そう思わずにはいられない。ピアノとフィドル(バイオリン)がメロディ部分を強く弾いて助け、彼女は歌えないまま静かに終わった。レコードの盤面を針が空転しているかのような感覚であった。でも良かった。素晴らしいと思った。20歳、あの若い頃の彼女の美声とその姿を知る人達はみんな理解しただろうから、、、。歌えなかった彼女に対して客席からは大きな拍手が湧き起こる。そして泣き崩れるように抱えられてステージを去り場面は変わった。この日のために何度も練習を重ねたという彼女のコメントがいじらしかった。

全米でヒットしたからといって、現在のように直ぐ日本でも、、、とはいかない当世事情であったが“テネシーワルツ”は一年程経って日本でも大ヒットとなった。カントリー&ウエスタンの中毒にかかっていた当時の僕は、ハンクウイリアムスの曲と交互に電蓄に乗せながらS.Pのレコードが擦り切れる程聞いた記憶が甦る。ダンスホールでもキャバレーでも、ラストの”グッドナイト・シートハート”が流れる前には、必ずといっていい程”テネシーワルツ”が演奏されていたものである。話しのついでだが作曲者のピーウィキングは、ラジオから流れる”ケンタッキーワルツ”を移動中の車で聞いて感動し、『テネシー州にもこんな素晴らしいワルツが欲しい、、、』と、メモを取りだして10分ほどで書き上げたというエピソードが残っている。当時のアメリカでは、所謂ご当地ソング的なカントリーミュージックとして生まれたようだ。

そのころ、巷では洋酒を口にすることがちょっとしたステイタス?になっていて、男達は50円の、100円のハイボールスタンドの止まり木に酔っていた。レコードプレーヤーは、E.P L.P等オートチェンジャーシステム迄が入ってきた。ダンスホールでは、150円程の入場料を払い、若い男女が誰はばかることなくダンスに興じられるような雰囲気が出来上がっていた頃でもあった。洋酒喫茶が大流行し、馬蹄形のカウンター内にはブラウスにベストの制服、リボンタイを着けた女性バーテンダーが微笑んで立ち、その前ではポマードとチックで髪型を整え、倒れそうになるほど強い香料をまき散らして臭いの競演を展開しながら、うぶな男達がまるで電線の雀のように並んでいたものだ。

熱く時を燃やした伊達男達のハートも、あっという間に枯れ葉色に変色してしまって、白煙に立ちすくむ浦島太郎。 アバンチュールを楽しんだ彼女たちも、テネシーワルツをうたって一世を風靡したパティページのように、今頃は、萎れて色褪せた花びら、、、、それでも、口紅はやっぱり真紅に塗るものだと信じて彩色を施し、やっと、元気を装って生きているのだろうか、、、、、。
通り過ぎていく時間の早さを今更ながら思い知らされる気がする。

創造された美術品、工芸品は100年も経てば立派な骨董品である。人にもその人なりの年齢がやってくる。 生きている間は、人間国宝と呼ばれる人だろうが、脱サラをしてホームレスになる人だろうが、決して骨董品ではない、という気がする。芸術の世界でも、生きて輝く人もあれば偉業を遺して後に陽の当たる人もある。それぞれの人生ではあるのだが、“最終章”を迎えようとする頃の、”人間の骨董品”などというものは本人感覚としても、又客観的見地に立ってみても、何とも惨めに見え、哀れに思えてならない。

人はどんなに生きたとしても100年は難しい。そう考えると、やはりその人の時代が、その人の人生が終わって、遺作が、生きた証が、もしも讃えられる時があるとすれば、その時こそ”人間の骨董品”に値するときなのかもしれない、、。

世界中を駈けめぐったカントリーソングと、戦後日本の大衆文化の夜明けとも言えそうな時代を想いながら、ある日のパティーページと一緒に“テネシーワルツ”を口ずさんで、一人、洋酒ならぬ日本酒を飲んでいる。研磨や補修、金繕いさえ難しくなった”安物の人間骨董”が此処にいて、月に酔いたい仲秋だというのに、まるで“初冬の黄昏に蹲る姿”は、絵にも洒落にもならない景色である。

やっぱり人間はせめて生きてる間、身体が動く間は”骨董品”にはなりたくないと思うのだが。


【今月のワンショットギャラリー】


うらおもて皿写真貼付 十三代今泉今右衛門
有田、色絵鍋島、花文大皿 [十三代今泉今右衛門]自題共箱


昭和元年(1926 )佐賀県生まれ、東京美術学校工芸科卒、色鍋島と呼ばれる色絵磁器、今泉今右衛門の技術を伝承1975年、十二代の没後、十三代今泉今右衛門を襲名、'76今右衛門技術保存会を設立、重要無形文化財として総合指定を受ける。日本工芸界理事長を歴任、色絵磁器の作者として'89人間国宝となる。
賞歴は多彩で、恩賜賞、毎日芸術賞、最優秀賞等々取り上げるに枚挙がない。
佐賀県有田、赤絵町に〈今右衛門古陶磁美術館〉を設立した。平成13年(2001)10月13日75歳で没、平成14年2月、嫡男が襲名し14代今右衛門として”色鍋島”を継承している


_

NO.4 晩秋号 【ところ変われば】〜にしとひがしと〜

2002 10/7

生活や文化というものには、地域の環境などによってそれぞれの慣習があり、経験したこともないような事実を突きつけられたりすると驚きや戸惑いを感じるものである。

万葉の昔から日本列島の中程、京都、南都地域を起点にして、上る、下る、という言葉は既に使われていたようで、京都に皇居があったことから広く畿内地方を上方と呼んでいた。江戸時代には狂言や歌舞伎、浄瑠璃、などで ”江戸もの”と、”京、大坂もの”を振り分けて、上方舞い、江戸歌舞伎、などという呼称から江戸、上方という言葉が定着していたようである。

食文化においては、料理、調理の上でも薄口や濃口などに色分けされ、寿司の世界では暖簾を見れば江戸前が鮨、上方が酢司。うどんやそばに入れる薬味のネギは、関東で白、関西でアオが一般的。 関東では一味唐辛子、関西では七味等。もっともそれぞれ各人の味覚、舌の都合だから一概に決めつけられるものではないが概ねそのようである。

醤油のコマーシャルを披露するつもりはないが、東西の一般的銘柄としてキッコーマンがある。これが関西では同一品なのに味も色も全くの変化を見せる。薄口に至っては品物が違ったかと思われるほど変わってしまう。関西を中心に薄口の銘柄として使われる播州龍野のヒガシマルがあるが、これが関東に入ると今度はしょっぱい味に変わっていて、やはりモノ違いの感は否めない。関西で使われる刺身醤油という少しトロミのある醤油があるが関東ではあまり馴染みが無く使われる例も少ない。関西で比較的広く知られている醤油で小豆島に歴史をもつマルキン、も関東では殆ど使われないようだし、知らない人の方が多い。東西各地域が醸し出す味覚であり、土壌が生んだ風味とでも言えるものだと思う。食文化や味覚の論議はその道の専門家先生に任せる事にして、我がジャンル”骨董三昧”ではどうだろうか?

刀剣や書画では、ご当地ものの作刀銘や地域が生んだ作者に人気が集まるのは当然のことだが”西”では紙もの、版画類にはあまり興味を示さない。ところが”東”ではこれが全く逆になる。一般的に東では伊万里など磁器を楽しむ人が多いが、用の美を含めて西では陶器に目を向ける人が多い傾向にあるようだ。古書画軸物・刀剣や刀装小道具などを好む人は東西を通して比較的少ないという共通性がある。独自のコレクターもいて蒐集しては仲間と交換、やりとりをしながら東西の古美術、骨董市場を支えるようにして花を咲かせてくれている。

東海道、箱根の関を境にして、東西の”骨董文化”にも大きな違いがみられるのは楽しい。もっとも価格競争や商人道においては関西だからといって決して薄口じゃないことを付け加えておかねばならず、東京を中心に関東ではというと、とりもなおさず辛口であることは言うまでもない。

昨年の秋であったか、讃岐、高松に知人を訪ねて小旅行をした。徳島県との県境あたりに”骨董村”が先頃オープンしたという話しでそこへ連れて行って貰った。各商店が間仕切りされたブースに小屋掛けのように飾り付けを施し、骨董品から新もの工芸品、リサイクルショップ仕立ての店などが出展していてバラエテイに富んでいる。道路の案内には古街道を思わせるような幟が立ちはだかって、骨董村にたどり着くには容易であった。開村して?間もないこともあってか疎らではあるが客も入っているようだ。伊万里の染め付けや色絵の蕎麦猪口、向こう付けなどを見つけて手に取ってみる。

驚いた。”幕末”はある。コンディションの良い美品、ニュ−も無ければホツもない。値段も納得できる。5客でも揃ってれば買って帰りたい、、、裏を見る、、、窪みの○部分、ドリルで揉んであけた3分程の穴がある。どれを取ってみても全品同じ仕様?だ。何と勿体ない、どうしてこんなことをするんだろう。

『豆盆栽が大流行りで、お構いなく穴を開けます、そうしないと蕎麦猪口では売れないのです』東京では、いや関東では考えられないことだ。源平ゆかりの屋島や壇ノ浦の歴史、黒松や庵治石などで知られる土地柄ゆえか、、、どうやら盆栽好み達が始めた特技?がその理由のようである。山間、田園、田舎の面影が会場周辺にはあり、ウブ荷の持ち込みが時々あるのだということであった。

高松市は人口30余万都市、町の中心部の商店構成などには目を見張るものがあり、銀座や心斎橋などにも負けていないと思えるほど立派な店が立ち並ぶ。ルイビトンの直営店がデパートに隣り合って店舗を構え、お洒落を身につけた女達が地域経済に声援を送っているようだ。

それにしても僅か一山を隔てた、いわばお隣りの街が、村が、もう既にお国違いの峠道に立っているような錯覚を強く感じて不思議な気持ちにさせられたことであった。それぞれの”地域と好みの要請”ということなのだろう。ところ変わって変身した”見立ての豆盆栽鉢”がいつの間にか粋にさえ見えてくるのはどうしてだろう。

雛遊びに使われそうな、緋毛氈が敷き詰められた巻き床机に腰を下ろして、江戸時代の道中茶屋に一服するような気分で、薬味のアオネギがいっぱい入った讃岐うどんを、秋風の匂いと一緒に口に運んで満足する。煙草入れもキセルも持ち合わせてはいないが、マイルドセブンの白い煙を二筋の飛行機雲みたいに思いっきり鼻から吐き出してちょっとした充実感。おもむろに立ち上がって”骨董村”を後にした。

ギャラリーなにわやが看板を揚げる木更津市には、『野口雨情・中山晋平』の歌碑が建つ『証城寺』がある。『お富、与三郎』が残した『見初めの松』が『鳥居崎海岸』に佇んでいる。

けれども今・・・国中で騒がれている不況や不景気、地域経済低迷の旗印を、全国代表などという不名誉な看板を背負わされて立っている此の木更津市の現実を・・・・・萩の花咲く月夜の証城寺で、腹鼓を打った狸達は知る由もないだろう。玄治店で大見得を切った与三郎も・・・多分お釈迦様さえ気が付いていないかもしれない・・・・・ 

”木更津照るとも東京は曇れ”『木更津甚句』に歌われる、真夏の太陽に身を灼く浜乙女の、健気なまでの女心は実にいじらしく胸を熱くしてくれるが、少しは木更津にも照りや輝きが欲しいものである。 




【今月のワンショットギャラリー】

南画秋景山水図二題
高人愛山図

【高森砕巌筆ー高人愛山図・紙本淡彩・共箱】


近代南宋画の大家と呼ばれている砕巌は上総の国(千葉県)長南町に生まれる。翠巌・遂頑居士・自知斎・七松園・双松庵・等の別号を持つ。漢学の造詣も頗る深く子弟にも教授する程であった。

17歳で渡辺崋山の高弟、山本琴谷に師事。格調を持った山水花鳥画を得意とし、後に与謝蕪村に私淑したと言われている。本幅は、甲寅小春(大正3年秋)とあり、砕巌67歳晩年に近い作品で円熟の域にあったと思われる。此の当時、相州小田原に別荘を構え双松庵と称し、自題落款にも用られている。南宋画に対する研究、眼識は当代随一と称され鑑識、鑑定家としてもその重きを為した。青年の頃、絵筆に専念できず、司法省や船会社に勤務していた昔のことをよく仲間達に話していた、と伝えられている。大正6年東京本郷にて没71歳(1847・弘化4年ー1917・大正6年)











高人愛山図

【大出大癖筆ー楓林晩霜図・紙本著色】


宮城県出身・南画を山内耕煙に学び、洋画を小山正太郎に学んだ。太白山樵の別号を持つ。生没年を詳らかにしないが、84歳の行年名丙戌の干支年号から1863年(文久3年)に生まれ、本画を描いたのは1946年(昭和21年)と推定できる。以前90歳行年の絵を経眼したことがあり、縁故に当たるというその所蔵者から、その歳に亡くなったと聞き及んでいることから、1951年(昭和26年) を没年と推鑑している。 南画の技法に加え洋画風の筆使いが随所に見られるのは小山正太郎の指導、影響を少なからず受けた筆蹟がうかがえそうだ。南画家として著名には至らなかった作者ではあるが、秋景彩色山水画としては それなりに鑑賞出来るものであり、充分楽しませてくれる一幅である。(1863・文久3年ー1951・昭和26年)

  

_

NO.5 年末号 【やまだし余録】

2002 11/25

やまだし〜山出し〜 山から切り出したばかりの木材、田舎出の、世間知らず、 芋娘などという意味を持つらしい。辞書に依ることだから、言語に弊害があるとすれば辞書のせいにしておこう。

うぶだし 「初ぶ出し」という言葉を使うと、同意語だが初々しさ、汚れを知らない、 世間擦れしていない、清純さ などを連想してしまう。ご存じ骨董の世界では 何よりも嬉しい響きを持つ言葉だ。初ぶ出し、蔵出し、というと掘り出し根性が働き、 目の色が変わるのが数寄者の常ではあるが、市場には、店頭には、そうは問屋がおろさないものである。 何故?

商人、業者はお客さんに対して「買ってください」とは言わない。つまり名品、珍品に類する初ぶ品を掴まえたときなどは、 お客様の方から『何がなんでもわたしに譲って欲しい』ということになる。 世間に顔を出していなかった『初物』が長い眠りから目を覚まして光り輝いて出てくるのだから、 まさに垂涎の逸品などという時には体中が火照り、金銭感覚も経済観念もその時だけはどこかに消えてしまう。 売ります、買ってくださいとは言わないのに、『どうかわたしに!』 と言わせるのは、蔵出しの初ぶ荷そのものだからである。

古老の血すら沸かせるような、ドキドキ感やワクワク感を少なからず持たれた経験が皆様にも 屹度お有りだろうと思う。
「このような品は金の草鞋を履いて探しても、何処をどう歩いても 手に出来るものではない」

一人、独占できた時の征服感に浸って、部屋に閉じこもり寝食も忘れ ニヤニヤ・・・  婆さんには、女房には工面した金銭のことなど内緒にしなければ 「又こんなきたならしいものに大金を出して」と言われそうだし、 苦労の辻褄合わせを考えながら目を細めるのは実に楽しいものであり、それこそ 骨董の醍醐味を味わうことが出来る時間であろうと思う。

知人の紹介だったりすると、ひょっとすれば・・・  例え一点でも二点でも何か買える物に巡り会えれば・・・ と思う助平根性が無駄を承知で行かせるのだが、肩を落として帰ることになるのが日常である。 そうかと思うと逆の場合もあって「どうせ駄目だろう」と出かけたとき 「この品物がどうしてこんな処にあるのだろう」と思うようなモノに出会えることがある。 時代と歴史、匠による作者の気品、風格が自然に表れ、その生まれ 素性などを読みとることができるものである。

「どうぞお持ち下さい」 言葉数少なく商談は成立する。充実した喜びを覚えるひとときである。 「この品を大切に継承、保存してくれる人への橋渡しをさせて頂きます」  うれしさが身体に乗り移ったような気分になって、浪花節みたいなキザなセリフが出てしまう。

「娘が車を買ってくれと言うので爺さんが残した刀を処分したいのだが」
「子供が大学に入って下宿をするのでその費用に充てたいのだが」
こんな話しの時は、まず駄物である可能性が高い。大金に置き換わるものだと信じ込んでいる人たちの大方の家からは 珍品も名品も出た例しがないのである。
「申し訳ありません、こちらも商売ですので、欲しいと思えるものなら大枚をはたいても譲って貰いたいのですが・・・ 当方では買い取れない品物です」 

とてつもなく高額を示して 「幾らなら売ってもいいよ」 と高飛車に出られたりすると、 物によっては「それ程高価なものはうちでは買い切れません」ということにもなる。

最近ではテレビ番組などの影響もあってか、手元にある骨董品の品定め、評価や価格だけを知っておきたい という人類がいて困ったものである。骨董屋の店先を眺め歩いた挙げ句、予備知識を持ったつもりになって電話をしてくる人。 又 僅かばかりのものを何軒かの店に見積もらせて、高額で買うところに売ろうという考えの人がいて、 その気持ちが理解できないではないが業者感覚としては許せない存在である。 名品、良品を前にしたときには、いわば『表敬価格』を付けたくなるのが古美術商だし、駄ものを高く買い取る愚か商人はいない。 その辺りに自ずと買い入れ金額が生じ、売買の適正価格というものにつながっていくのである。 いずれにせよ、高額売買の要素を満たす美術骨董品等というものはそんなにゴロゴロしているものではない。

偏屈を誇る(?)当店などは、そういう理解のないずるさや駆け引きの持ち主と遭遇した時は、 意欲も食欲もなくして
「高く売れる方がいいですよ、そちらでどうぞ」
とお断りしている。 忘れた頃になって、「以前見ていただいた品、やっぱり買ってください」という話しがあっても、 私はその話しを受け入れないことにしている。商いに人間的な私情などを夾んではいけないのは承知だが、 この道を歩く商人だけに許される『特権と我が儘』と位置づけて、物恋しく 人恋しくとも この爺さんはそういう人たちには遊んで貰わなくてもいいのである。愛玩の逸品を手に出来るのは文字通り 縁と出会いがあればこそだからである。

山出し体験のなかで忘れられない出来事や想い出話しはたくさんある。 「台風の季節も過ぎたし、蛇がいきなり飛び出すこともないだろうから、蔵の解体を始めるので」 ということで、日時を約束して旧家の一軒を訪ねた。 土蔵の二階で、品物を取り出して整理している最中に、腐食していた床板が突然抜け落ちて 身体が宙づり状態になり、両肘で桁梁を支えてやっとつかまり、片づけをしていたその家の人に 階下から助けて貰ったことがある。その日私は、麦藁帽子をかぶって顎紐で結び、 手拭いを襟首に巻き付けて、軍手、ゴム長の重装備で現場に入っていた。

事件(?)が起こったときには、麦藁帽子をかぶった頭部と肩や肘の部分は二階に、胸部から下、 足先までは階下に垂れ下がり、履いていた長靴の片方は弾みで脱げ落ちていて・・・という構図であった。 その時の何とも無様で滑稽なポーズが脳裏のどこかにあって、時々折に触れては想い出し、一人でに笑いがこみ上げる事がある。

「大丈夫ですか?!」

「・・・大丈夫です、何でもありません。 ご迷惑を掛けました・・・」

叫び声こそ出さなかったが、メリメリッ という只ならぬ音に、周りにいた人たちが作業の手を止めて駆け寄ってきた。 両肘は・・・手袋を脱いだ手の甲は・・・脇腹、肋骨あたりは・・・・擦り傷、打ち身、青なじみ状態だ。そんな有様にも関わらず検品していた色絵磁器の馬上杯を左手にしっかり握っていて 品物は無事であった。以前、猫が平行棒に掴まるテレビコマーシャルを見たことがあるが、 転落しかけた猫がその身体を爪だけで支えて、やっとぶら下がっているような姿態であったらしい。

一通りの片づけが済んで、それぞれがほっとして、手伝いに来ていた親戚、隣近所の人たちと車座になってお茶を頂きながら、 その日のエンターティナーになってしまった私は、全員の談笑の肴にされたことだが、品物の買い入れが出来たお陰で 傷も痛みも早く癒えたような気がしたものである。

ある時、古い農家だという家から電話があって  「納戸を壊して勉強部屋を造るので、爺さんが残した古物を整理したい、良かったら買い取って欲しい」  ということで訪問する。 特別のものはなかったが明治ー大正頃の生活雑器類などが結構まとまっていて、買い取る話しが決まる。

一時間掛かりで車に荷物を積み込み、代金の支払いを済ませた。  「お茶を一杯やっていってくださいよ」 と言われて汗を拭きながら庭先で煙草に火を付けて一服していたら、 お婆さんらしい人が帰ってきた。会釈をして 「有り難うございました・・・」 と立ち上がろうとすると、 只ならぬ形相でこちらを睨みつけ、突然罵声を浴びせられた。その家の実質的家長?のお婆さんだ。 「自分が用足しに出ていた留守中に何をやらかしてくれるのだ!」 と言わないばかりの怒りようである。 倅と嫁さんがお婆さんに、ことのいきさつを説明していた。

「うちの方から頼んで来てもらったんだよぅ・・・今、やっと片づけたからさ・・・」

お婆さんの興奮はおさまらない。盗人が我が家のお宝を持ち去るような話しぶりに変わっている。 どう説得しようが聞く耳を持たない。倅夫婦にしてみれば要、不要をお婆さんにチェックさせたのでは 片付いたことにはならない、という思惑があったらしく、不在時を狙った犯行?だったようだ。

「これはみんな先祖が残したもんだ、おめえらが勝手にゼニにするような真似はさせねぇ、 おめぇも嫁のくせして良くもこんな事が出来たもんだょ・・・ 何処の骨董屋だか知んねえっけんが帰えってくんな!』

矛先は倅に、嫁さんに向かって猛攻撃となり、最後には何の罪もない骨董屋に向けられて来た。 お婆さんの稟議決裁が下りてなかったのだ。倅は嫁さんの立場をかばうように婆さんに大声をあげて食ってかかろうとする。 お婆さんの決定的なストレートパンチが五十歳にもなる倅に及んだ。

 「おめえがな、しっかりしねぇでデレデレしてっからこんなことになるだよ!」 

嫁さんはとうとう泣き出した。こっちに落ち度は無いとは言え、家庭騒動を後目に振り切って 帰るわけにはいかなくなった。若夫婦達は此方に対して申し訳ないと謝るだけだ。 此方とて気持ちの収まり様がないところだが、元に戻すしか手段は無さそうだ。 毛布や蒲団で養生して壊れないように、走り安いように入念に積み込んだ荷物を、ふてくされながら 又一点ずつ車から降ろして、思わず舌打ちをしながら、苦虫を噛みしめて帰ったお粗末な物語である。

忘れることの出来ない想い出話しである。季節は丁度今頃、師走にさしかかった頃だったと思う。 由緒ある神社の宮司の嫁だったという家のお婆さんからの電話を受けて借家と思われる一軒を訪ねた時のことだ。 色々な宅を訪問することで、その人物像、居住環境や生活状態を、いち早く見抜いてしまう直感が自然に働き、 自分でも嫌だな、と思うときがあるが、その時も良い品物が買えそうな予感などはなかった。

玄関に現れたのは八十五歳になる、というお婆さんである。年齢とは思えないほどしっかりとした口調で、 庭先で踏み石につまずいて倒れ、骨折したのだといって畳の上で松葉杖を突いていた。 杖の石突きには、てるてる坊主を逆さにしたような形の大きな布きれが巻き付けてあって、 畳擦れを防止しているようである。 他に人は誰もいない様子だ。座敷の上を松葉杖で移動するお婆さんの其の姿が少し奇妙に、 異様にさえ映って、挨拶はしたもののUターンした方がいいのかな・・・と思案しながら暫く佇んでいると・・・・・  「座ることも出来なくてご免なさい」 と前置きしてからお婆さんは話し出した。

「お呼び立てしてすいません、元気な間は一人暮らしが良いので好きなようにやってきましたが、 どうにもいけません、こんな恰好で戸の開け閉てさえ自由にならないので子供達の世話になることにしました。  申し訳ありませんが、私が指示しますので取り出してみてご商売になるもの、目にとまるものがあれば買ってくださいませんか・・・・・」という。 「自分たちには子供が無く、養女に婿を取って少し離れたところで暮らしているのですが、 孫娘が時々訪ねてくれるのが私の楽しみです、歳を取ると世の中って難しくなるものですよ・・・」 とも付け加えていた。

「おばあちゃん買ってきたよぉ」 と言う声がして牛乳配達の人だという若いお兄ちゃんが、 夕飯のための惣菜やお婆さんが依頼したという必要品を届けに来たようである。  「他人様の方がよっぽど親切で、病院に行く時でも俺が乗っけていってやるよ、って言ってくれるんですよ、 娘達は今週は忙しいから来週にしてよ、なんていうものですから・・・」  人生の縮図、人の暮らしの断片を垣間見るような場面は世間の何処にでもあるものだと思う。 

東京の下町育ちで、自分の年齢としては自由気ままに生きてこられた人生だと思う・・・というお婆さんは 小唄や端唄の師匠、茶、華、書道を教えて暮らした昔があり、好きな人が居てその影響で 骨董や道具類を集めたときもあったという話しを聞かされた。背筋はのび、声にも張りがあり、 昔の粋が夕照の中にうかがえるようだ。 「孫娘には色々買ってやりたいとも思うし、自分でもお小遣いが欲しいときがあります・・・ 人生も終わりが近いんだし・・・と考えて、売れる物は殆ど売り払っちゃいました・・・ 残ってる物にはもうろくなものはありませんが・・・」  わざと陽気に振る舞うかに見せているようだが、言語には隙間無く、上品にお喋りの出来る人である。 言われるまま取り出したものには、桐箱にきちんと収まった、細竿の三味線・象牙や鼈甲の撥・根付け・ 小点の掛け軸・香廬・茶碗・江戸火鉢・小箪笥・文箱・端渓硯・象牙軸の筆・帯留め・簪・等々があった。  洒落人が、伊達者が愛玩したものであることを充分窺い知れるものである。  「精一杯買ってあげよう」と思う。一点ずつ値付けをしていって総金額を提示した。 「小物を含めて、こんなところでいかがでしょう・・・」一瞬の間があった・・・・・・  『妥当なお値段かと存じます、お宅様もご商売ですから、良く理解は出来ます。 余り無理は言えないのですが・・・私にとっては大切にしてきたもので、手元には何にも残らず もうこれでお仕舞い、という品物でしてね。まことに申し上げにくいのですが・・・ 出来ればもう少しだけ高く買っていただけないものでしょうか」

松葉杖を片手にして、畳の上に置かれたベッドに腰を落ろして喋るその語り口からは 過去の愛蔵品が一点も無くなってしまうのだ という切実な寂しさが伝わってくる。 丁寧に、物静かに・・・ しかし体中の力と恥じらいを振り絞るようにして出た言葉のようであった。 品物の多少に関わらず最後の手持ち品を売却するということは、思案の末、余程の決心であったに違いない。 駆け引きでも何でもなく心底から口を衝いて出た言葉だろう。こういう出方をされると 自分の言葉を失ってしまって、次の句を探すのが難しくなる。

「心情、充分お察しします。長年大切に愛玩なさった品を快く譲って頂くのですから、 仰しゃるとおり区切りの良い数字まで買い上げたいと存じます。ご縁を頂きまして、 有り難うございました」

床の間に掛けてあった掛軸までを取り外すことになり、「何にもなくなってしまうのはちょっと寂しいわね・・・ でも仕方がないわね・・・どうせ自分もいなくなってしまうんですものね・・・」

言葉は弱く独り言のように、自分自身に言い聞かせているようであった。聞こえない振りをしながら そそくさと運び出し、急ぎ足で帰ったのだが、次の日になって、お婆さんの最後の言葉が心に刺さって、 じっとしていられなくなり、お礼を兼ねて在庫の小品軸と、生菓子を手みやげにお婆さん宅を訪ねた。

「昨日はご無理を申し上げてすいませんでした・・・お陰様で気持ちの整理もつきました・・・ 失礼なことを申し上げますが、あなた様が世の中を良く理解されていることや古美術に造詣の深い方で良かった・・・ あなた様に引き取って貰って良かったと喜んでます・・・私も、好きで諸道具を楽しんだ者ですから・・・ 長い間には色んな骨董やさんをみてきましたからね・・・特にそう思いました・・・」

「此方こそお世話になり有り難うございました、そんな風に言われると却って恐縮します、 一処不住とか申しますが人も物も、みんな世の中の流れに添うより仕方がないんですものね」 サラッと打ち水でもするような会話にもどして持参の手みやげを、お茶を飲める台の上に置いた。

「牛乳屋のお兄ちゃんに頼んで貼りつけて貰いましてね・・・」 といって指さす床の間には、昨日剥がした掛け軸の跡に、風景画を印刷したカレンダーの絵の部分を切り抜いて 四隅を画鋲で留めてあった。持って行った山水画の小品幅を広げて黙って床の間に掛けてあげる。 お婆さんは無言で私の仕草に目をやっていたようだ。 「珍しい軸が入りました、代わりのものとして楽しんで下さい・・・」わざと軽い口調で話し、 矢筈を手にしていたら、背中越しだがお婆さんの涙ぐむような様子を感じとる。

私の行為が涙腺に触れたのかもしれない。それにもまして空っぽになった部屋で、心の虚しさや寂しさが一時に吹き出してしまったのであろうと思った。 息苦しく、この空気を逃がす術がない。居たたまれない。 「ちょっと約束事がありますので」と言い残して玄関の戸を閉めた。 お婆さんの寂しさまでを一緒に買い入れて、持ち帰ってしまうことになった商いであった。

その当時私にもお婆さんと一つ違いのおふくろが病院のベッドに居た。『商売』としながらも 心中ちょっぴり辛くて悲しい思いに見舞われ、お婆さんの残像と、離れ住んでいるおふくろの姿とを交差させて、 複雑な思いで荷物の整理をした寒日の記憶。終生忘れることの出来ない山出し余録ではある。



あきんどの 痛みほどいて 柚子湯かな 〜冬至〜

ご覧頂き有り難うございました、又次号『新春号』でお会いしましょう


【今月のワンショットギャラリー】

古伊万里源右衛門 【鹿子地紋、粟穂鶉文染め付け大皿】径:1尺5寸5分
源右衛門ー鶉の図ー



古伊万里源右衛門窯 

古伊万里の伝統を継承し、今右衛門・柿右衛門・に並び称される三右衛門の一人 【六代・館林源右衛門】の作品である。平成元年に六代源右衛門没後、七代の後継者は決まっていないようだが、 伝統文化を受け継いで現在、鶉文の皿に代表される特徴ある陶磁などを広く世界にアピール、 全国のデパートなどでも関連の伝統工芸品のそれらが目にとまる。 本家の館蔵品には本作と同じ図柄の2尺1寸強の大皿が展示されているようである。

源右衛門窯についての案内は【伊万里源右衛門窯】のホームページに詳しく記されている。


_

NO.6 新春号 【喫煙今昔夜話】

2003 1/1

嗜好品の歴史の中ではトップの座を堅持してきた煙草だが、今や喫煙者には日陰暮らしを強いられている。愛煙家の肩身は著しく狭くなり、都心などでは先頃、路上での歩き煙草の禁止条例とやらが施行されて 罰則規定が設けられるまでに至った。課税対象の全体から割り出してみると、喫煙者は国中で一番の高額 納税者なのだが、”健康のため”のスローガンには勝てないらしい。 専売公社時代には『今日も元気だ煙草が旨い』であったものが、民営の日本たばこ産業になった今は 『あなたの健康を損なう恐れがあります、吸いすぎに注意しましょう』に変わった。 ”煙草は動くアクセサリー”というお洒落なキャッチフレーズも懐かしいものになってしまったようだ。

明治9年(1876)煙草には特別消費税が課税され、明治31年(1904)には完全専売制が敷かれ、 専売局となり、以降民営化の現在も税収の多くを占める。いわば殆どが税金という煙草である。 同時に、相違なく健康には有害な煙草、ではあるのだが・・・ 『長生き出来ませんよ・・・』と言われながらも飲みたくなる酒だろうし、喫いたくなる煙草なのだから せめて喫煙者を白眼視せず”喫煙コーナー”の設置を義務づけるような法整備が望ましい・・・ などと、ヘビースモーカーは考えるのである。喫煙者保護法?などあっても良いのじゃないだろうか。

誰がこんなものを持ち込んだのかと思って調べてみたら、天文12年(1543)火縄銃(種子島)と 一緒にポルトガル人が・・・という説と、天正年間、宣教師と一緒に来た船員達が九州に・・・ という説に二分されているが、たばこ(多波古・丹波粉)キセル(喜世留・煙管)羅宇(ラウ) 等という 語源は全てポルトガル語であることから、その辺りから入ってきたと考えてよさそうだ。 いずれにせよ安土桃山時代には喫み煙草(噛み煙草)・刻み煙草・嗅ぎ煙草・葉巻煙草等が日本に上陸、 日本全土に紫煙が立ち上って一般庶民にも波及していったようだ。

世界での煙草の歴史は、1492年コロンブスの航海時、最初の上陸地、サンサルバドル島で、持参した 玉(ぎょく)やガラス玉との交換品として持ち帰り、ヨーロッパに広がった・・・ということだから、 島民達には既に喫煙の習慣があったことが窺えるし、その歴史はもっと遡るものとおもわれる。

煙草が日本中に満煙?すると、お洒落感覚、美的センスを持つ日本人は、煙草入れやキセル、 袋物などにこり始め、幕末〜明治には刀剣や刀装具の制作に携わっていた金工達も平和な時代背景に添って、 競うように名品を造り、諸大名始め、武家、町人、農民、花魁、に至るまで、それぞれの分に応じて喫煙を楽しみ、 懐から取り出す煙草入れやキセルなど喫煙具を自慢の種にしていたようだ。

元禄の頃には煙管金具の種類なども増え、金・銀・赤銅・四分一・素銅・黄銅等が使われ、肥後や加賀の 象嵌細工・彫り物等がキセルやズッポ(筒っぽ)と呼ばれる煙管入れなどに施されるようになる。 袋物では印伝(インド伝来とされる鹿の皮)や唐皮(からかわ)・鯨の髭・籐などを使って編み込んだ網代 仕立て・と美しく優雅な美術工芸品が出そろってくる。

太閤秀吉が近江の金工に造らせたといわれる青銅製のキセル(天正年間)のデザインなどは”太閤張り” という名で庶民にまで浸透し、明治初年頃迄その写しもの(モデル)が大流行したという。 寛永年間には武家社会で観桜会や芝居見物などで、羅宇を長くした伊達キセルが流行りだし、 それを真似て今度は花魁達がこぞって3尺もあろうかという長いキセルに2寸もある火皿を付けて煙草を喫ったらしく、 今も歌舞伎や浮世絵などにみられる光景である。

火消しや職人仲間で流行した”喧嘩キセル”というものもあり、50センチ程の長尺で、吸口の金具と羅宇 の取り合い部分を短刀の合い口拵様に設えてあるというものだ。  何度か手にしたことがあるが、喫煙具というより寧ろ威勢を誇示する為の喧嘩道具であったようだ。

元和元年、一般庶民に対して”キセル狩り”といわれる法規制が発令になる。 『贅沢品を下々が所持してはならない、見つけ次第、没収、焼却処分にする』というお触れであったが、 いわばザル法だったようで、しばらくすると規制は緩み、咎められても説諭程度に終わったという。 慶長14年に、江戸幕府が火の用心と贅沢の戒めとして”喫煙禁止令”を出し、藩に依っては領地没収や 処刑などというお達しもあったというが、いつの間にか自然消滅したことによく似た法律だったようだ。 いずれもお上の目の届かないところでの煙草の闇栽培や、製造販売で利益を貪ろうとする者を咎めて、 脱税行為を禁じる目的があったようだ。

明治期に入ると女達も煙草を吸うことが当たり前、という風潮が芽生えてくる。 骨董品として今も見かける煙草入れや喫煙具の中に、女持ち(めもち)と称して小振りでお洒落な袋物、 煙管類が残るのはそんな理由からだと思う。”当世、煙草を喫まぬ女と精進する坊主は稀なり”などという記述が残っている。      日本の喫煙具はまさに一級品であり、長い歴史の中でも世界一だといわれている。

大英博物館や世界の美術館が所蔵するそれらの品には、印籠・薬籠・煙草入れ・かます・キセル・根付け  緒締め・下げ緒・等の優品があり、絵画など美術品同様に評価されているが、改めて日本に返還して欲しいとさえ思えるものがたくさんある。 当店でも、”柴田是真”の作で金漆に高蒔絵の印籠や、”梶川彦兵衛”の秀作などを扱ったことがある。 煙草入れでも金唐皮(きんからかわ)と呼ばれる皮細工に施された作品の粋や、大判・小判でおなじみの ”後藤家”をはじめ、町彫りといわれる本家門流各派の著名金工の手に依る金銀色絵彫金・象嵌細工など 見事な技術で今も数寄者を堪能させるものである。

大正時代も末頃になると紙巻き煙草が普及し始める。着物の帯や腰に装った煙草入れに煙管のスタイルも シガレットケース、象牙のパイプなどに変わっていって刻み煙草は衰退を辿っていくのだが、 それでも昭和30年代頃までは、まだ刻み煙草は一般に愛用されていて、何処の家庭にも火鉢の脇には煙草盆のある 風景が見られたものだし、今もキセルを片手にキザミタバコを吸う頑固人間(マニアックな人)が いるかもしれない。

昭和に入ってからは外国映画などの影響もあって、一部では葉巻やパイプ煙草が流行し、マドロスパイプ、 などともてはやされたときがあった。外国製のローズやゼブラなど雑木の根で加工されたパイプを口にして 吹かし、現在もダンヒルなどのブランドをはじめとするそれらのコレクションを楽しむ人達は多いようだ。 そして喫煙具の新たなジャンルにマッチに変わってオイルライター、ガスライターが台頭したのである。

昭和20年を境にした戦中戦後の物資不足、統制、配給で食生活さえ満たされなかった餓えと貧困の時代。 それでも煙草を喫いたい父親の側に私はいて、刻みたばこの葉っぱを紙巻きにする、まるで玩具のような ”煙草巻き機”(卓上式で煙草大の2本の木製ローラーに針金のクランク、紙の上に刻み煙草の粉を乗せ、 巻き止め1ミリ程の幅に小麦粉の糊をつけて巻き寿司のようにして巻き上げる)でそれを手伝った経験が ある。真剣に巻こうとするのだが、失敗ばかりしては叱られたことをふと思い出す。   紙巻きの用紙が無くなってしまい、親父は英和辞典の古くなって使わないのを取り出して器用に巻きあげて 煙草盆の上に並べていたものだ。乾燥するまでは喫えない代物だったから。

今では紙巻き煙草の需要の大半がフィルター付きだが、フィルター煙草が始まったのはアメリカが最初で、 1952年のことだというからその歴史は浅い。 日本ではそれ以前にフィルターもどき?の煙草があったのをご記憶だろうか。勿論活性炭が入るわけでも、 除去装置を付けるでもなかったものだがその名を『あさひ』と言った。(20本入30円) 半分程度しか葉っぱが入ってなくて、吸い口から中をのぞくと番傘の骨のような紙仕切りが見え、トントン 、と叩いて空洞部を縦と横に押すと三分の一程の量になるかと思えるものであった。 刻みの葉っぱが舌に付着する不快感がないという利点(フィルター効果)はあったが、少し強く喫うと火気 が唇まで伝わって熱くなるような現象が生じたり、喫い終わった後で舌先がヒリヒリして不味いものであっ た。今思うと実に滑稽だが当時のアイディアであったのかもしれない。

長屋や民家の密集地を、『蝙蝠傘の修繕屋』や天秤量りをもった『化粧品の量り売り屋』が流していたり、 鍋、釜、バケツを修理する『鋳掛け屋』『包丁研ぎ』などの声があった。そんな中でも 『ピーっ・・・』という音が聞こえてきて煙突から蒸気笛をならし『ラウ〜』という呼び声とともに 自転車を押して歩いていた”ラウ屋”という商売が特に印象に残るが、やはり時代の波に浚われて 消滅してしまった。昭和28〜9年頃までのことであったろうか・・・

私が煙草を吸い始めたのも昭和30年頃であった。好んで吸った銘柄は『光』 ニコチン・タールの含有量が多かったようで、くらくらするほどの強さが気に入っていた。 10本入りで30円。 本当は『40円のピース』の香りが好きだったが、当時10円の差は大きかった。 しばらくして喫煙の本数が増えると20本入り40円の”新生”になる。30円の『ゴールデンバット』は 安いのは結構なのだが灰皿に少し置くと火が立ち消えになったり、香りがもう一つ、というものだったし、 通常の巻きは8ミリなのにバットは7ミリという細巻きが嫌だった。金もないのに青春の見栄であった。

  私の親父はその頃まだ煙管で”みのり”を吸っていたので親父の前では多少の遠慮があったものだ。    月給取りになってはいたが半ば脛かじりの夜間大学生。授業料や書物、学食などの外食費、何よりも 好きな珈琲代などに当てると、どう割り振ってみても毎月不足、という環境であった。 月給は7千円。『三角定期』という学割を使って省線(国鉄)に揺られる通勤、通学の日々。 大きな顔をして煙草を吹かせる身分ではなかったのである。

やがて20本入50円の『いこい』が発売になる。五線紙に四分休止符のデザインがお気に入りだった。 値段の割には、舶来煙草と騒がれていた”フィリップモリス”の香りに少し似ていて好きな煙草であった 給料を貰ったときだけ、ピー缶と呼んでいた50本入200円の缶入りピースを買って、缶の蓋を開けては火を点ける前に香りを楽しんだりしたものである。                

平成15年正月、私は嘗て何十回も禁煙を試みながら・・・何百回も減煙しようと思いながら・・・ その都度、苦しさに負け、煙草の奴との闘いに敗れ、自らを許し・・・ 私はやっぱり『今日も元気だ、煙草がうまい』を信じて生きている。煙草は”男の小道具”だと思う。 『動くアクセサリー』は良く似合う言葉だと思っている。 何百年もの伝統的嗜好品である煙草、美術品であり工芸品である喫煙具。そしてどんなに時は流れても、 『伊達男』と『粋な女』たちが、今日も喫茶店の卓上で・・・酒場のカウンターで・・・ 交わされる恋と別離の物語の為に・・・この憎い煙草の奴は、クリスタルグラスをくすぐって・・・ お洒落な人間空間を演出しているに違いない。

近松の戯曲の中で煙草を『相思草』と書いて『おもいぐさ・きせるぐさ』と表現している。 古語辞典によると露草、蛍草、薄、の別名とあるが、骨董品を扱って、時々手にする”鉈豆の煙管”は そんな表情から生まれたようで楽しくさせてくれる。煙草は、命尽きるまで私の『相思草』なのである。

乞食、放浪を繰り返し、世捨て人を自讃した”種田山頭火”の句に『煙管叩くに淋しき音と火鉢撫づ』 というのがある。庵に戻ってか、或いは旅先での夜寒か、紫煙とともに、彼の人生模様が見えるようだ。

我が好きは、詩書画、骨董、草、珈琲、酒と女はほんの少々

末尾「女」は訂正が必要でした・馬齢を重ね、一人酒を嗜む身ですから。
朝顔に、水撒くだけのものとなり

*今稿は、思わずも悔しくもJ・T日本たばこ産業の手先になってしまいました、ご容赦*


【今月のワンショットギャラリー】

(左)鏑木清方筆『松乃内』著色・手鞠追羽根図  (右)川合玉堂筆『新春』水墨淡彩・樹下水禽図
堂筆・清方 二幅



鏑木清方(明治11年ー昭和47年、93歳没) 

帝室技芸員、芸術院会員、文化功労者、 文化勲章受章、雅邦、水野年方門、東京出身 百穂や素明、霊華達と金鈴舎を起こす。 門人には伊東深水などがいる。 鎌倉の旧邸には鏑木清方記念美術館がある。

川合玉堂(明治6年ー昭和32年、享年83歳) 

帝院会員、帝室技芸員、文化勲章受賞、師の 橋本雅邦と日本美術院創設に参加、 東京美術学校教授、愛知県出身、玉泉に師事 重要文化財に『ゆく春』がある。 終焉の地御岳に川合玉堂美術館が開設される。


*近代日本画壇を代表する作家と言われている『鏑木清方』と『川合玉堂』の掛け軸です。 紙本・小品ですが双幅の表装仕立てで両氏が同時に箱書きし、自題、落款印譜をしたため 箱おもてには各々が画題を書いて、自署しています。橋本雅邦の同門画家として師を介し た付き合いなど、余程大切なお客様への気遣いがあったことが窺がえるようです。 この作品は大正末か昭和初期の作品とされ、合作とも言えそうな上品で、卓上芸術を極め たという清方の画風と共に、玉堂美術館でも珍しい幅であるという鑑評を受けています。  (川合玉堂美術館・真蹟登録済み・巻止割印)


_

NO.7仲春号【春のことです・・・】

2003 3/22  

『春のことです、想い出してごらん、あんなこと、こんなことあったでしょう・・・』 幼稚園などで歌われているという『想いでのアルバム』という歌を初めて聞いた。親たちの愛情が 幼年時代を包み込むような内容の詩と曲に思わず目頭が熱くなる。優しく、あたたかく、とっても 良い歌である。

桜の季節がやってきた。4月8日は『灌仏会』“天上天下を指さしてお立ちになっていらっしゃる、 小さな柄杓でお茶汲んでかけてあげましょお釈迦様、今日はあなたの花祭り蝶や小鳥も楽しそう“ 国民学校一年生で教わった国語読本のページをそのまま記憶していた。すごい。つい先ほどの事を 忘れてしまっているくせに・・・

“なにわや通信”に四方山話を書き始めて一年になる。今回は、江戸、徳川開府400年に当たり、 『戦争も平和も・・・』という雑記を書き始めていたのだが雑事多難で頭の中が断線模様。世の中の 不況・不景気の言語が氾濫して麻痺状態の中、当店でも他山の出来事としていられなくなってきた。 喫茶飲食部門を閉山する事になり『古美術骨董』を拡大して1階は”用の美”日用骨董、時代家具、 古時計・2階では今まで同様、刀剣書画等を展示販売することにした。 4月からリニューアルとでも言おうか改装開店である。

父親の遺言の中に『物事には全て潮時がある、機を見失わないように生きろ・・・』と教えられた言 葉がある。まさにそんな決断を迫られた営業の転換である。 事業をやっているそれぞれが、街中の商人が、矢折れ、刀尽きて・・・毎日のように消えていく。 そんな中で、考えさえ纏まらずギスギスした気持ちを交錯させて苦悶するよりも切り替えたハンドル に添って歩いてみようという事になった次第、定命・定運なら致し方なし・・・だ。 次号を書くときには、鶯の声の下で気を弾ませて古美術談義の1ページでも・・・と思っている。

“願わくば、花の下にて春死なん“とは、一茶であったと思うが、歌人、俳人の同意句がたくさん 残っている。陽炎がたつような野原にでも寝そべって額に桜の花びらが舞ったとしたら人間は同じよ うな気持にさせられるのだろうか・・・だが然し、老体にむち打って取りあえず次の春まで頑張ろう 『次ぐ春があるや無しやはしらねども』・・・だ。

身を削る 悔いしこころや程半ば 春のみじかく この俺もまた 


【今月のワンショットギャラリー】


(一)脇指、銘「葵紋、以南蛮鐵於武州江戸越前康継」
康継


康継 康継


康継 康継


刃長;一尺五寸七分、鎬造り、慶長新刀
地鐵、刃紋:小板目良く詰み杢交じり細かな地沸つく鎬地柾、地色黒ずむ、互の目交じり、のたれて小足入る帽子、 のたれ込んで尖りこころに掃き掛ける。
初代康継の典型作である。下坂市左衛門、江州滋賀郡坂本で千手院鍛冶広長の子として生まれる。 文禄年中肥後大擾を受領越前一乗谷へ。慶長一二年頃徳川家康に駿府に召し出されて鍛刀、取り立 てられてご用鍛冶となり、徳川家康の「康」の字を賜り、茎に葵紋を切ることを許された。江戸と 越前に於いて鍛刀、幕府御用鍛冶として実力と共にその名を馳せた。元和七年九月、六八歳で没。
(付:拵え梅花文鮫研ぎ出し仕上げ鞘・刀装小道具:縁頭、鍔、赤銅磨地毛彫片切り彫鍾馗図奈良)

『特別保存刀剣・刀装具、上総古美術研究会客員所持品』



(二) 木島桜谷(このしま、おうごく)作品、掛け軸・画題『嵐山』

嵐山

絹本、著色、自題共箱・一尺五寸幅×三尺八寸・象牙軸頭

桜谷は明治一〇年京都生まれ、今尾景年の門、早くから才能を認められ、文展を中心に多彩な賞歴 を持つ。後に文展、帝展に審査員として出品、活躍する。昭和九年に明治神宮聖徳館の壁画を完成 させるなどした。体調を壊していた頃、散策中に大阪枚方市で電車との接触事故により急逝した。 昭和一三年、六一歳であった。

  昭和一五年から京都に(財)桜谷文庫が開設され、保存、展示などを行っている。
本幅は晩年に近い作品とされ、各館蔵品に見られる屏風や大幅の動物絵などとは趣を変え、京都を 知り尽くした画人の優作を窺うことができる。桂川のたたずまい、赤松の大胆な構図に筏流し、 対岸に広がる山々を桜一色に染めて煙る春景は柔らかい筆と共に彩色の妙を堪能させてくれる。
嬉しい季節の一幅である。



_

bW【芸術を包む芸術家達】表装展のことなど

2003 5/29  

県下の表具師・経師屋さんの組合組織連合会で恒例の『表美展』が先頃、千葉県立美術館で開催された。 当店が御世話になる表具師も会の役員を担っていることで、表装を依頼していた掛け軸3〜4点が展覧に供されることになり、 所蔵者のお客様に声を掛けて同道で鑑賞させて貰った。

『表具の伝統的技法と保存・維持、技能の向上・継承』という言葉がパンフレットの挨拶文にあったが業界にとっても、 文化・芸術の視野から捉えてもこれは重く大きな問題だろうし、これからの課題のようだ。 昨今の住宅事情を考えても若い人達の間では“和室や床の間不要論”までが飛び出す有様だし、 茶髪で見栄を切って闊歩するお兄さん方が多勢を占める中、表装の修行をするなどということも難しい時代になっていて、 技能者、所謂職人さんが育たなくなっている現実があって倅達が後を継いでくれると言えば一安心、 といった顔を見せる親たちも多いようである。歴史ある伝統文化の火種だけは絶やさず保存、継承して貰いたいと願う一人である。

日常の業務をこなしながらの出展は容易ではないと思うが会員諸氏の作品には“本紙の内容”を良く理解され、 まさに『画・装一体』の色調、雰囲気、バランスの整った装丁が見受けられ、楽しませて貰ったことである。 一般公募作にも期待がもて、表具師を目指そうという意欲が窺えて目を引く作品にも出会えた。

伝統的技法があり、掟があり、決まり事があり、又お客という希望や予算枠での制限もあり、計り知れないご苦労があることは 察するに余りあり、我々素人がとやかく口を挟むスペースはないが・・・

『画を包む感性』は第一に注文主の感性であろう。同時に表具師先生の技術と能力が生かされなければならない場面だと思う。 勿論、歴史や伝統を逸脱するような装いに仕上がってしまったのでは決して新しい表装文化などと呼べるものではないが・・・注文主、 発注者の立場としては、色々な角度から技術者への理解をもっと深めることも大切であろうと思ったことである。展示場を見渡してみて、 ほんの一部ではあったが、小学生が書いた書道半紙を教室の後ろにそのまま張り出されたような、そんな感覚の作品もあったのは 少し残念な気がした。

『芸術を包む芸術家たち・・・』を地方から全国に、世界にアピール、発信出来るような「表具師組合」のこれからに 大いに期待したいと思う。素人ミミズの戯言ではあるが・・・

美術館の昼下がり、館内のレストランで遅い昼食をとる。ガラススクリーンの向こうは新緑の広大な庭。 丁度、横物に仕立てられた大幅の真景画だ。遠景には木々が立ち並び、中央に見える土偶のオブジェの周りでは 小禽達が時間を惜しむように遊んでいる。手が届きそうな目の前には眩しい芝生がある。 やっとカツ丼が運ばれてきた。待たされた時間に引き替え、あっという間に過ぎた休日の一日であった。



【今月のワンショットギャラリー】

【ー雅趣ある逸品ー古画・小品二題】

(一)田能村竹田画賛『渓居秋意図』(天保四年五七歳筆)


田能村竹田画賛 渓居秋意図


■田能村竹田(安永六年〜天保六年・五九歳没)は一家の 識見を持ちながら皆川其園や谷文兆などの門を叩き長短の取 捨を試み独歩の画風を得んとした・・・ と古伝書には記されているが、大家と呼ばれる人の修学には いつもながら頭の下がる思いがする。詩文や和歌を詠じあら ゆる分野に長じた彼の著書は画論、詩論、紀行、茶事、随筆 などに亘っている。 『題語(画賛)』を大切にしたと伝え、『画賛』の無い竹田 の作品は偽物だとさえ言われる程、殆どの画には趣を持った 詩歌・散文が織り込まれ『詩画賛一体』の景情は鑑賞する人 の心を惹き付けて止まない。

高足の帆足杏雨は、師の一五〇余作を取り上げてその題語を まとめ、後に編纂して著書としている。 本幅にも画賛があり『渓居秋意図・天保癸巳冬之月』とし、 『擬大顛之筆意・竹田生』と記している。 南画、文人画の代表的或は一般的な山水幅の構図ではあるが 『渓居図』は自身が好んで描いた題材のようで『松渓隠居』 『幽渓高隠』『松渓高士』等の画題を多く残している。

晩秋の山渓を水墨淡彩で表した小品だが見事に丁寧に描かれ 緑青や代赭、群青の彩色はしっとりと落ち着いていて上品を 感じるものである。 画中の『松渓隠居』に自らを置いて静かに暮らした晩年の 『文人、竹田荘』の胸中を思わせる逸品ではないだろうか。

川端玉章の門下、吉岡班嶺(芙蓉・画家、書画研究者)は その画論で、渡邊崋山と竹田を対比させ感想を述べている。 曰く『崋山は精神手腕共に磨かざれば画は巧みなる能わず、 と言い、竹田は技術の工妙を学ぶより文思の高尚を養いて 一画の成る毎に題語を加え、韻致を添えんにつとめた。 両者の生涯、論は相反すと雖も崋山は東に、竹田は西に 共に儒者として画家として、藩侯に重用され、同様にして 文兆に六法を問いしなど因縁の浅からんを想起する』と。

対比させて論議されるべきものではなさそうだが、まさに 『文思の高尚を養いて風韻を添う・・・』とは文人画家 『竹田』の飄々たる風情を思うに言い得て妙、である。 慕われて数多の交友があり、頼山陽や篠崎小竹に対しては 『画中の知己第一なり』と表現している。 著書『山中人饒舌』にあるように『気韻生動』を第一義に、 自ら痴気を守り得々と?人生を描き終えた『田能村竹田』 の奥行きの深さを改めて知り『竹田研究』の糸口を見いだ した思いである。

やよ枕いざや眠らむ寝もやらで 醒めし時こそ浮き世なりけり (竹田歌集より)

◇絹本水墨淡彩・縦幅(八寸五分×一尺三寸)◇ 〜所定鑑定人・唯々庵、安田虚心、箱書き鑑証〜 (上総古美術研究会々員所蔵品)




(二)土佐光起筆『斑鳩鳥図』(土佐将監入道常昭掌寫)

土佐光起筆『斑鳩鳥図』

■土佐派 一六代 (元和三年〜元禄四年、七五歳没)
土佐派中興の祖、土佐の三筆(光長、光信を併称して) とも呼ばれた光起は父祖光吉、光則の画法を受け和漢名家 名蹟を研究、一大新風を起こし、当時狩野探幽もその技量 に及ばぬとさえ言われたと伝えられる。 『絵所預』となり、従五位下左近将監『法橋』に任。後に 『法眼』に叙せられ法名を『常昭』と言った。名実ともに 古土佐の筆法と宋元の画法に倣い、特に現在も古画の代表 的存在である『李安忠作と伝える鶉図』に倣って絶品と評 されたという。土佐派は印譜落款を捺さないことを常とし ていたが光起が初めて印章を使うようになり『宋元の畫』 を意識してその画風を取り入れようとしたようだ。

■落款印譜・寸考
以前ボストン美術館所蔵の“至宝宋元画名品展”が催され 図録にも掲載された『伝李迪、古木竹石図』がある。李迪 は花鳥画を専門に指導的な官廷画家であったと伝わるが、 この時既に北宋の古典様式を取り入れた“継承画”を描い たとされる。時代は12世紀末。古色を帯びた絹本の小品 に描かれた画のやや中央の上部には大胆に『叡思東閣』の 落款がある。《えいしとうかく・前漢の時、宰相が文人や 知識人に対して表敬の意を以て東方門から招き入れたこと に由来し、東閣を開くという語意を持つ》これは“官印” で南宋〜元時代の官廷コレクションに収納されたことを意 味しそれを証するものだということである。 左上方の『都省書畫之印』(尚書省・中央最高官長印)は 同様に14世紀中頃に用いられた“元の官印”だという。


落款 落款


■光起が魅せられた北宋画
本幅を鑑賞していて『光起』が『北宋畫・斑鳩』を描いた のだという感動が胸を熱くさせる。或いは花鳥画を得意と した北宋八代皇帝『徽宗』の畫に倣ったものだろうか。 国宝の『桃鳩図』にもその技法、構図等に共通を思わせる ものがある。 そして先述『李迪』の画中にあるものと寸分違わぬ落款、 『叡思東閣・都省書畫印』がこの『斑鳩図』にも捺されて いる。一羽の『斑鳩』を中央左下方に重心を置いて背景を 空白にし、その空間に深味を持たせた所謂古風な美意識の 展開であろうか・・・

本幅には『篠崎三島』の添え書きが付いていて、古紙に包 まれ『浪華篠三島識・文化己巳年(6年)夏としるし、 篠崎応道の印がある。『篠崎小竹』の父『三島』72歳の 添書のようである。内容を見ると《絵所預の光起が東大寺 の什物を拝観する機会を得て之を寫すものなり》との趣旨 が書かれている。篠崎三島・小竹親子もまた元や明の畫を 学んだ事では知られている儒者である。 文化年間に『光起』が寫したこの畫を見せられた時、多分 の驚きがあったのではないだろうか。 それにしても光起が観賞し倣った『東大寺什物の北宋畫』 は何処に消えたのだろう。まるで『幻畫?』を見るような 錯覚にとらわれ乍ら『光起の斑鳩之図』に見入っている。 此の幅は古画をこよなく愛好し日々研究に没頭する知友が 所蔵しているものだが研究家や古美術界での新資料の発見 ともいうべき雅趣ある逸品だと思い取り上げてみた。

■斑鳩(いかる)と斑鳩里(いかるがのさと)
豆鳥・いかる・まだら鳩・いかるが・・・斑鳩は雀科の中 で一番大きな鳥ということである。秋に渡来、冬には群集 して山林に住み初夏には北へ帰るらしい。 奈良県に斑鳩の里(斑鳩町)があるが、万葉集にも顔をの ぞかせる此の地と無縁なのか?調べて見たくなり斑鳩の里 (H・ページ)へ飛んでみた。やっぱりそうだ!聖徳太子 の昔から斑鳩が群遊した『斑鳩の里』であったと見える。 斑鳩町の町章は大きく羽を広げた斑鳩の絵になっている。 画面一杯に有数の古寺が広がっていた。法隆寺をバックに 蓮花畑の絨毯は春の大和路に想いをかきたてる。斑鳩の里 にほど近い東大寺にあった什物もさることながら斑鳩鳥も 歴史の空を飛んで遙々中国からやって来たのかもしれない。

遡れば雪舟が宋元を寫し、常信が、探幽が 雪舟を寫し、今手元に観る光起を思うとき東洋絵画の伝承 と古雅に一入の感慨を覚えるのである。

◇絹本著色小品横幅・篠崎三島添書〈本紙9寸3分×7寸5分〉◇ (上総古美術研究会々員所蔵)

お付き合い頂き有り難うございました。



_

No.9【お爺さんの古時計】八月一五日の残像

2003 8/4

いつの頃からか“敗戦の日”と言わずに“終戦記念日”と呼ぶようになった。 昭和20年8月15日のことである。全国民がうずくまるようにしてその場に座り込み、東の空に向かって 深々と頭を下げ耳を傾けた“玉音放送”があった日である。 疎開先の山の中、大きな柿木の下で村人達に交じって、我々“疎開の子”も終戦の意味を理解できないまま 俯いて地面の蟻の動きにじっと目をやりながら神妙な顔をしていた。 『明日からは、B29が飛んでくることも、空襲警報に逃げ惑うこともないのだ・・・』と聞かされ、その実 感だけは朧気に伝わってきて嬉しかった。負け戦さなど無いと教えられた大日本帝国敗北の日の構図である。

昭和19年・都会では日一日と空襲が激しさを増し女子供は疎開生活を余儀なくされ、縁故がない児童生徒 達は集団疎開を強いられた。母と私は幼かった弟と一緒に、父や兄姉と離れて農家の離れに御世話になる。 親戚のつてを頼って暮らした疎開先は六帖程の”納戸”ではあったが山の匂いや田園の風景が珍しく、転校 した学校の臨時校舎のお寺に、晴れた日には庭先にオルガンが持ち出されて大声で唱歌を歌ったりした。

登下校に4キロもある山道を往復するのだが、他所者である”疎開の子”は毎日のように土地っ子のいじめ に遭う。たんぼに突き落とされて泥まみれの衣服で教室に入り、涙を堪えていると、それと覚った担任の女 先生が濯ぎ洗いをしてくれたことがあった。『元気出すのよ・頑張るのよ・・・』 忘れ物などした事のない生徒が、学用品や教科書を持ってこずに空っぽのランドセルで登校している。理由 を聞かれても『道で転んだときに無くしました・・・持ってくるのを忘れました・・・』そんな言い訳しか しない私に対して女先生は優しく取り繕ってくれて教科書やノートを補足してくれた。 毎日通学を共にする村の”いじめ集団同級生”の前では何もなかったように平静を装うしかなかったのだ。

空き腹を抱えてやっと家路にたどり着くと、何でも良いから早く、腹一杯食べたかった。 季節に応じて、たけのこ・三つ葉・蕗・甘藷の蔓等々がミカン箱の食卓に上った。時々大家さんに分けて貰 った、と言って甘藷の賽の目切りに、ほんの僅かな白米の入ったお粥を造ってくれたが、米粒を探す様に する食べ盛りの私を見て、母は涙を隠しているようであった。 物資不足の時代ではあったが、農家では食生活に事欠く様なことは無かったようだ。大家の子供達は遊ぶ時、 おやつに白米のおむすびを見せびらかすようにして食べ、わざと食べ残して目の前で捨てたりするのである。 一口で良いから食べたい、と思った。『武士は喰わねど高楊枝・・・』母はくどく私を戒めたことだった。

親戚でも特別の間柄でも無い我々”疎開の人”に対しては村人達の露骨なまでの意地悪な振る舞いがあり、 父が訪ねてくるときなど、母は『死んでも良いから家に帰りたい・・・』と愚痴っていたようである。 そんな中、大家の長男一人が私たちの味方であった。学校から帰ると、山野草の採り方、藁草履の作り方、 梅もぎや田植え、麦狩り、稲刈り、脱穀、『牛追いの手綱を持たせて欲しい・・・』と頼んだら面倒がらず に手を取って教えてくれる。時々みずみずしい野菜をザルに入れて、親たちに内緒だといって運んでくれた りした。今思うと子供が何の役に立てるでもなく、足手まといだというのに、そんな顔さえ見せず良くして 貰ったことである。ニーッと笑うと白い歯が見えて色黒で頑強な、大好きな良いお兄さんであった。

それぞれが思い思いの感慨を胸に、八月一五日の一日は暮れていった。 父や兄姉たちが迎えに来るだろうし、荷物運びをしなければ・・・というので母は身支度を整えるようにし て御世話になった人達に挨拶回りを済ませ、家族が来るのを待ち望んでいた。やがてみんながやってきた。 電灯の周りの黒い布切れも取った。大声ではしゃいだ。抱き合った。明るくなる頃まで話は尽きず、眠りを 忘れて七人の家族は山小屋の雑魚寝を楽しんだ。

次の日の朝、あぶら蝉の声が一際煩く聞こえ、村の夏の間中でも一番熱い一日だと思えるような晴天であっ た。手に持てる荷物、背負える荷物を分担して持ち、大きな荷物は後日父が人に頼むことにして、みんなが 歩き出した。学徒動員スタイルの兄は戦闘帽にゲートル姿で大きなリュックの下には鎧の前垂れのようにし て鍋を四〜五個ぶらさげ姉たちは水筒などを襷がけにして両手一杯のバッグや風呂敷包み、母は弟とやはり 鞄を手にし、父はやっと顔が見えるほどに生活用品を身体の前後に振り分けて持ち、両脇にも抱えるように して歩いていた。『来るたびに必要品を持ち込んだからだが、こんなにあるとは思わなかったなぁ・・・』 国防色の木綿の服は汗で黒っぽく見え、厚紙の芯で型取り造られた編み上げの布靴は口が開いていた。 それでも父は元気だった。格別の頼もしさを感じ取り、私はピクニックに出かけるような気分でさえあった。 大阪河内平野・飯盛山を見渡せる楠公縁りの四条畷神社に隣接する野崎観音駅までの約四キロの山間の道、 父を先導に、途中10回も座りこんだであろうか、ため息と休憩を繰り返しながらの2時間であったと思う。

国民学校三年生、私も家族の一員であった。課せられた荷物は大きな柱時計。滑稽なようだが目覚まし時計 は父や兄姉たちの生活にも当然必要であり、持ち出せなかったようだ。”お爺さんの古時計”なのである。 小柄な私が背負って歩き出すと『時計が歩いているようだ・・・』とみんなが笑う。恥ずかしくなって断り たかったが仕方なく列の中程を歩く。背中で養生してある振り子が時々当たって鈍い音を立てる。 長時間の歩行で「掛け時計ってこんなに重かったのか・・・」と思いながら、家族に引きずられるようにし て家に持ち帰った私の終戦の日の骨董品である。その時計はもうとっくの昔に捨てられたが、毎年お盆が近 づく頃、ゆったりと時を刻む古時計の音を聞いていて、私たちにとって平和の始発駅となった野崎観音駅と 餓えと困窮に耐えざるを得なかった”戦争の爪痕”を想い出さずにはいられない八月一五日なのである。

艦載機の低空飛行や1トン爆弾の投下で緊迫の度を増すまでは、高射砲陣地から夜空に照らすサーチライト の交差するのを見て美しい・・・と思ったときもあった。防空壕での戦争ごっこも楽しかった。 “僕は軍人大好きだ・・・肩章提げて剣下げて”と歌わされ、汽車は“兵隊さんを載せてシュッポッポ” と走り“太郎は父の・花子は母のふるさとへ”という歌と共に疎開生活を送り、焼け野原と荒廃した街々に 戻っては、爆弾落下跡に出来た大きな池でトンボ釣りをし、食用蛙やザリガニ取りを楽しんだ。 ただ一つだけ、ひもじくて、食べたくて、戦争が終わっても大方の人がそうであったように、食生活におい ては1〜2年の間、満腹になる喜び、食べる上での満足感、充実感など考えられない時期があった。

八月になると決まって広島、長崎に投下された原爆が取りざたされ、核兵器の根絶を叫び、世界中が平和を 提唱する。当然であり、そう願うことに違いはないが、原爆で犠牲になった人々も鉄砲を担ぎ、戦陣の露と 消えた人も、焼夷弾で火の海を逃げ惑いながら死んだ人達も戦争の犠牲者ということに変わりはないと思う。 (被爆の後遺症で苦しむ人達には別の角度で考えるものだが) 国の保護も補償も皆無の時代、因果関係さえ明らかにされないまま闇の中に死んでいった多くの人達・・・ 餓えで命を落とした人も大勢いた。蚤・虱退治のため学校の講堂で噴霧器によるD.D.Tの強制散布を受けた時、 栄養失調状態だった子が次の日に亡くなった。私の同級生だった。みんな、みんなが犠牲者だと思う。 あの時代を生きて、生きる術を失って死んでいった人の殆どが戦争犠牲者であろうと私は思うのだが・・・

ラジオからは“林檎の歌”が流れた。ラジオ歌謡では“森の水車”“山小屋の灯火”街中が歌っていた曲は “帰り船”“ズンドコ節”“湯の町エレジー”心に少しのゆとりを求めようとする時代が始まった。 子供達の前では照れて大声で歌ったりしない私の父ではあったが“山小屋の灯火”を覚えて鼻歌交じりで歌 っていたことを想い出す。疎開先の山小屋を懐かしんでいたようだ。八月一五日、それぞれの残像である。

(落書きに終始・ご覧頂きまして有り難うございました。又次号でお会いしたいと存じます。)



【今月のワンショットギャラリー】

夏姿美女の競演

(一)【勝田 哲 ・画題 宵】
勝田 哲 ・画題 宵


【勝田 哲】(1896〜1980)明治二九年京都生まれ・東京美術学校西洋画科を卒業するが日本画に 転ずる。京都で山本春挙の門に入る。文展・新文展など無鑑査出品。京都市立美術工芸高校(後の日吉ヶ丘 高校)で後進の指導に当たる。門下に加山又造や堂本尚郎がいる。日展会員、審査員として出品を重ね、 歴史画・人物画に典雅を形成する。京都市文化功労者・昭和五五年八四歳で没。    (絹本彩色・縦幅・自題共箱、上総古美術研究会々員所蔵)




(二)【横尾 芳月 ・画題 夕涼み】

横尾 芳月 ・画題 夕涼み

【横尾 芳月】(1899〜1990)明治32年博多に生まれる。徳次郎・地元西村草文に四条派を学ん だ後、上京して鏑木清方門下の池田輝方に入門。帝展に入選を重ね、後同門の伊東深水に師事。 山川秀峰らと共に風俗美人画の域に戻る。戦後は日展に出品、疎開先の長野県から千葉県に移住、現代風の 女性を描いて”新美人画の誕生”と賞賛を受ける。千葉市教育功労賞・平成二年九一歳没。     (絹本彩色・縦幅・蝸牛庵題鑑、上総古美術研究会々員所蔵)


ーお付き合い頂き有り難うございました。又次号でお会いしたいと存じます。


_

No.10仲秋号 恋どろぼう〜!【間抜け亭主の災難雑話】

2003 9/13

恋どろぼう〜・・・こんなタイトルで始まると、「浮気の始末記?」或いは「女性に逃げられた 話?」などと三流週刊誌を覗く思いを持たれたお人がいるかもしれない。 青春時代にフィルムを巻き戻してみて、残念ながら僕は女性から逃れようとしたことはあっても、 女性に逃げられたり、振られて唇を噛んだりした経験は一度たりともない。恋を盗ったことも盗ら れたこともないのである。(ごめんなさい)
古稀に近づかんとする青年が吐くべき台詞ではなさそうだし、僕だけの錯覚であったかも・・・

話しは皆さんとご同様、古美術・骨董を愛して止まず、今日まで歩いてきた“なにわや亭主”が盗 難に遭遇した時のこと、盗難事件に巻き込まれたことなどの懐古談であります。

17〜8年前、親戚の結婚式があって関西に出かけることになり、お客様に迷惑の掛からないよ うに予告、施錠はもとより念入りに『何日から何日の間お休みにします』という張り紙を出して、 出発したのである。
『泥棒さん、お入りになるのならこの間にお願いします』と言う実に気の利いたご案内であったの だ。当時は喫茶料飲店を併営していて来店客への迷惑や配慮を思い、ついでに泥棒にまで気を配っ てしまったのである。部屋中が荒らされ空っぽだ。毎日のように取り出しては眺め、撫でて暮らし た”恋人””愛の骨董品”の姿はなかった。
慌てて警察に通報、被害届けを出すのに『何を何点盗られたのか?・・・』パニック状態で即答で きない。ガラスケースに保存していた約30点の象牙の根付けなどは、平常心なら作域、図柄、作 者までがすらすらと答えられるのに言葉が口を衝いて出ない。警察の係の人も3時間にも亘って現 場の調査や此方の情況、いきさつなどを聞いて帰られ、1日が経ち3日が経ち1週間が経っても、 『あぁ、あれがない、ここにあった何々が無い・・・』という繰り返しで、その都度警察に追加報 告に行ったことであった。

店の常連客達にはしばらくの間、慰められたり笑われたりの日が続いた。少しは上品の刀剣類と刀 装具は別棟に保管していて助かったが、それにしても相当数の品物を失ったのである。 日数の経過で忘れることに努めたのだが、後遺症であろうか、2ヶ月程の間は見慣れないお客を見 ると『関係のある人が様子を窺いに来たのではないか・・・』などと思ってみたり、『ひょっとす るとこの人は・・・』というちっぽけな気持にさせられたりする。ついにそんなことを考えてしま う自分自身を病的な嫌悪感が襲ったりして仕事が手につかなかったことを想い出す。

こういう盗品はまず出てこないことは見聞の中で承知していたが、取引の関係者や市場の会主に促 されて被害品の詳細を印刷して配布したが結局気休めでしかなかった。一時は『骨董品などもうや めよう』と思ったものだが『日にちが薬で又惚れた・・・』ということだろうか、懲りもせず骨董 を愛玩している。

ただ一点だけ今なお口惜しい品物がある。格別の美術品でも骨董品でもないのだが、父親の形見と する“筑前琵琶”で、五弦の祖”橘旭翁”直伝の父が演奏会や弟子達の教則用に大切にしていた五 弦の琵琶である。次男坊の僕が持つ筈ではなかったが、特別興味を持っている様だからという母親 の肝入りで僕の預かりとなった経緯がある。本体以外の弾法服や烏帽子、撥や見台、物語教本など そっくり揃って現在も手元にある。現物を取り戻すことは今となっては無理なこと、と諦めてはい るが僕の目が黒いうちに同等、同様の品が戻ることに僅かな望みを残しているのである。

盗難事件から半年、諦観と忘却に努めていた頃になって神奈川県警から「盗難事件の事で伺いた い」という電話が入る。『やっと泥棒が捕まったのか?』と思いきや、来店の刑事の話に驚いた。 「刀の鍔を売りに来た男がいてそれを買ったでしょう」「お宅の店に泥棒に入る予定で下見を兼ね て品物を売りにきたようです」という。改めて悪寒を感じる思いがした。何でもフェリーの定期券 を持って木更津と川崎を通勤?していたらしく、大病院の院長宅が被害に遭って・・・と聞かされ る。別人の泥棒のことだったのだ。
買い入れの書類や台帳を見せ、致し方なくその鍔を返却する。たかが鍔一枚だったが惚れ込んだ品 だったから高額で買っていた。担当の刑事も再度来店の時、同情を寄せてくれて「事情を被害者に 話したところ、相手様もいわば被害者、迷惑の掛かったことだからと言われてお礼として現金を預 かったので受領書を・・・」と言う話になったのである。『被害者の方には二重の御損をかけるこ とだしそれは頂けません・・・』と断りはしたものの、「言付かったことですからお受け取り下さ い」と言う言葉に従うことになった。

大岡越前守のお裁きではないが、三方一両損のような担当刑事の粋な計らいにほのぼのとした気持 にさせられた記憶だ。後日、面識もない病院長から改めてお礼の電話が入る。『折り紙(鑑定書) まで付けて手元に置かれた品をそのままお返し下さったお礼のしるしです、有り難うございました ・・・』とその理由を言って居られたが、愛刀家の心情をお互いが理解し合えたようで良い気分で あった。

古美術骨董を愛翫する人達との会話の中で盗難に遭った、という話しは時々耳にする事があるが、 その心境、心理状態の穏やかならざらんことは体験した者にしか味わえない苦痛であり”同病相 憐れむ心”を理解しあって偶然の談笑が生まれたりするものである。 品物の良否・真贋や失敗を問答する苦楽などとは別の処で、骨董世界の楽しくも、面白くもない苦 い事件のお粗末な顛末の一頁である。

泥棒騒ぎの後、気のおけない仲間達と『古女房が盗られたのなら大喜びで、新しいのをすぐにでも 見つけるけど、一点しか無い骨董の逸品は二度と見つからないものだからな・・・』などと冗句を 交えて話していた僕ではあった。その女房は今はもう居ない。泥棒ではなかったが、天国に盗られ て二度と還って来ないのである。

毎年、重陽の日(9月9日)には花びらこそ浮かべなかったが長寿縁起を担いで必ず二人で酒を飲 んだものである。『ぶすの標本』から抜け出したような彼女は、僕にはとても可愛い奴だった。 喧嘩をすると僕は絶対彼女には勝てなかった。今年も秋の彼岸が近づく。逢いに行ってやろうとは 思っているが墓前で独り言を喋るのも何だか寂しい。 お寺への道中、車窓から目に飛び込んでくるであろう季節の尾花などの観賞は、感傷に繋がってど うもいけない。
今年は阪神タイガースの”六甲下ろし”でも歌って走ることにしよう。それにしても秋は寂しい。 山鳩の声を聞いている”男一匹”なんてやっぱり淋しい。『恋どろぼう〜!』と叫びたい僕の 心の奥底にあるものは、どうやらやら美術骨董品では無かったようだ。

月青く 波白く寄せ 秋隣り
〜平成15年・重陽の日・酔っぱらい記稿より〜

お付き合い下さいまして有り難うございました。

【今月のワンショットギャラリー】


梶田江嶺 筆『高士観瀑図』(絹本彩色縦幅) 鈴木華邨 筆『山水渡舟図』(絹本水墨縦幅)


(左)梶田江嶺 筆『高士観瀑図』(絹本彩色縦幅) (右)鈴木華邨 筆『山水渡舟図』(絹本水墨縦幅)自題共箱



【梶田江嶺】江戸生まれ、明治頃に活躍した人のようだが生没年は定かではない。落款に添えて七二歳とあり、 師弟関係も不祥ではあるが、描き込み、色使い、滝しぶきや雲煙の処理が気に入って普段掛けに している一幅である。文人、南画家達がテーマの様に扱う観瀑図。絵としての出来不出来は別に して、画中に描かれていない滝を想像させてくれて楽しい。明治後期の作品のようである。

【鈴木華邨】安政七年江戸下谷生まれ、中島享斎に師事、菊池容斎の画風を学ぶ。明治九年フィラデルフィア 万博で活躍、同一〇年には内国勧業博で花紋賞を受けるなどを機に各種博覧会、展覧会で多彩な 賞歴を残す。山水花鳥画で一家を成し、挿し絵、図案などでも画才を発揮。大正八年五八才没。  明治43年、日英博覧会に出展して金牌を受賞した作品に『雨中渡舟図』というのがあるが、 此の幅はその制作の前後に描かれた作品であろうか?似通った雰囲気を感じ取れるものである。 大胆に空白を残して濃淡の墨を使い、顧客の注文か、長條幅に仕上がっていて古色に彩られた表 装や象牙の軸頭にまで贅を尽くしているのが窺える。晩夏の海辺の表情が見えてくるようである。

古陶磁愛翫・・・秋日和

高麗唐津鉄釉草花文 瀬戸飴釉算珠型水指 古伊万里染め付け蛸唐草文大徳利 信楽印花文自然釉大壺

房総半島、当地の方言で「日向ぼっこ」のことを『のと(のた)ぼっこ』する、という。 縁側に足を投げ出すようにして一人で読書してみたり、友人仲間と喰っちゃべってみたり・・・ 秋日和に似合いそうな古陶磁を出して広げてみた。 みんなそれぞれに、とっても良い顔をしているではないか・・・。
(1)高麗唐津鉄釉草花文・しおげ壺(1尺1寸×1尺)
(2)瀬戸飴釉算珠型水指(8寸5分×7寸)
(3)古伊万里染め付け蛸唐草文大徳利(1尺2寸高)
(4)信楽印花文自然釉大壺(高1尺)


お付き合い頂き有り難うございました。又次号でお会いしたいと存じます。




四方山噺 目次に戻る

トップに戻る