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21 仲夏号【ぼんさんが屁をこいた】〜符牒と隠語の無駄話〜
2005 6/10
〜水無月の 酒は徳利か ギヤマンか〜
暦は六月・薫風と入梅のはざま。グラスの感触が唇に心地よく、冷たい向こう付けが嬉しい日あり。 かと思うと捲り上げた長袖シャツの袖口を思わず下ろし、独り徳利と盃を手に、喉元と相談しながら 親しんでいる晩酌であります。梅雨前線という気象情報を聞くだけで、何やら艶を失った響きが襲って きて、カビの働きが増幅するような気も致しますが、四つに区切られた季節の断簡を、紫陽花の雨音に 重ねて楽しめるのも、水無月ならではの風情かもしれません。 『−ぼんさんが屁をこいた−』人間的な香りがして面白い言葉であります。瀬戸内寂聴尼(晴美)の 法話に『時々私はお酒を嗜みます、その時は袈裟を脱いで頂いております』という一言があり、頷きな がら思わず笑いが込み上げた記憶があります。ご免なさい・・・方向違いへ発進したようです。 今宵は商人符帳や隠語についての無駄話しをしようと思っています。『だるまさんがころんだ』と言えば 「な〜んだ、そんなことか」と理解して頂けるでしょうか。 『ぼんさんがへをこいた』は昔から関西方面、とりわけ大阪を中心に男児の遊び言葉として「かくれんぼ」 や「おにごっこ」などで、1から10までを早く数えるために自然学習した『数の符帳』数の略語の一つ です。全国的に使われた女児の数字言葉に「おじゃみ(お手玉)」などの『ひいふうみいよういつ、むう なあやあこうとお』というのがあります。これは無意識というか知らないうちに日常語となったといわれて いる『百済言葉』だそうで、各地域で語り継がれる国民的な童話・民話にある桃太郎・浦島太郎伝説などと 共にかなり古くから使われた言語だという学説・解釈があります。 【封建社会に発達した通り符牒】 『むめ(うめ)さくらまつたけ』菅原道真公が愛でたといわれた天神様の梅を持ってきて、1〜9の符丁 とした大阪天満の青物市場の歴史に育った『数符丁』です。本来図柄の構成を考えれば歳寒三友(松竹梅) に蘭を組み込んで四友図、又は梅竹蘭菊(四君子図)としたいところであったと思われますが(らん)では 使いづらく、重ね使いも出来ないことから此の符丁が取り入れられたように思います。 数々の用語、数字のやり取りとして使われる符丁には『言葉符丁』『文字符丁』『唄符丁』『手振り符丁』 が多く用いられた様です。公家、商人(御店符丁)市場、警察、仲間、職人とあらゆる分野に及んでいます。 宮廷、皇室でも「かくしことば」として特別な用語が使われました。符丁として一番多く使われている言語 の代表的なものは「いろは文字・いろは言葉」だとされます。神社仏閣などの普請で、宮大工が彫み込んだ 柱の位置に『番付合わせ』を行ったのも所謂文字符丁と言われるものでした。利便を考える人々の知恵は どんな職業世界にも波及していきます。相撲界、芝居役者、落語家、花柳界、髪結い床屋、博徒、興行世界 香具師、露天商、暴力団等々、商いとは呼ばないまでも「それによって対価を求め合う人々の群」の多くが 『通り符丁』として言語の流通と並行するように拡がり、現在も使っているようです。スリや泥棒、詐欺師 にもその専門用語符帳があるといいます。 【商習慣・生活が生んだ符帳の数々】 『正・如・弥・卯・雨・神・星・月・菊』は一月から九月までの暦から引用され、古くから伝わる文字符丁 です。又、荷積みの船が港に着いて、陸と海での商品売買や交換取引をする時、双方で使う符丁には『手振 り符丁』といわれる『あきないたからふね』など、縁起を担いだ『口唱』も行われてきました。 『ふくはきたりめてたや』『いつまてもはんしよう(何時までも繁盛)』などは唄にも歌われる「下津井港」 で始まったと言われていますが、全国の港に広まった商人符帳のようです。『さりとわおもしろい』という のもあります。噺家・落語世界の古いところでは『ひら、びき、佐々木、片甲、真田、田沼、八幡、菊』が 使われたといいます。髪結い床屋でも同じ語を使った処もあるようですが、平紋、二引紋・・・六文銭、七 曜星・・・紋所、つまり数を冠する家紋を語呂にした符帳です。 呉服太物を扱う問屋では『つるかめまいあそぶ』などがあります。一般論ですが、これらは全て取引関係者 だけの隠語でなければならず、用途範囲は限られていて、商いの方法や職種によっては共通符帳を使う地域も ありましたが、全く違う合図符帳を用いる所や場面もあり、同業者・仲間だからといって全国共通ということ ではありません。掘り下げて学問した成果でもなく、単に見聞の域を越えませんが、明治30年に刊行された とされる「合載袋(岡本昆石)」には既に『昔符帳』の数々が見られます。然し全てを網羅する符帳や隠語を 一まとめにするには、既刊の各種隠語辞典など膨大な資料を以てしても、満足に値するものは得られないだろ うという気が致します。 昭和の前半年頃迄、比較的広域に通用した、或いは今も使われる『数の通り符丁』を少し拾ってみました。 本屋さん(特に古書屋)『おこそとのほもよろを・子丑寅卯龍巳午未申酉』花柳界『おきやくはたいせつ』 煙草屋『いろはにほへとちり』露天商『いつもふけいきなし』陶器屋『分厘〆斤両間丈尺寸』陶器商が使う 此の符帳は瀬戸・美濃地方で古くから用いられた数字符帳ですが、共同窯で同一品の識別などにも使われた ようで「何処の何兵衛」の記号と共に符帳を記した墨跡を、今でも取り扱う骨董品の壷などに時々見かける ことがあります。『瀬戸物符帳』ともいわれます。寿司屋さんでは『ぴん、りゃん、げた、だり、めのじ、 ろんじ、せいなん、ばんど、きわ』中国料理店では『いー、りゃん、さん、すう、うー、りゅう、ちい、ぱあ ちゅう、しい』と中国語の読みをそのまま使っていることを皆さんもお気づきだと思います。ペンキやさん (建築塗装)では『ほんのじ、ろのじ、つのじ、そのじ、れのじ、たのじ、よのじ、やまのじ、きわのじ』 と言い、18だと「ほんやま」などと使います。魚卸し市場、青果、花市場などでは『手振り符帳』を用いて 手の動き、形を言葉、数字として読みとっているようです。証券市場や株屋さんでもつい先頃まで見かけた 光景ですね。楽隊屋さんなんて言い方をしますが、バンドマンは『C.D.E.F.G.A.b.C』ハニホヘトイロハを ドイツ読みでツェー、デー、エー、エフ、ゲー、アー、ハー、と数えます。高音部のツェーにはオクターブを つけて呼びます。因みに「♭・G」は75の符帳(ハーゲーと読みますが、トンボの目の様な頭や毛髪が薄く なってバーコード状の人を言う場合もあります)タイコ、ヤノピ、ラッパ、オリン、など倒語、略語を頻発し ます。 博徒符帳では『ぴん、にぞう、さんずん、よつや、ごけ、ろっぽ、しちけん、おいちょ(ちょうべい)かぶ』 と数えます。一般人の間でもお正月など花札やトランプを並べて、誰に教わるでもなく覚えた、という方も 多いのではないでしょうか。今、ゲーム世界の王様に坐す「任天堂」は可成り昔から「大統領じるし」という 花札やカブ札、トランプを販売していて、娯楽の少なかった昔「カルタ取り」と共に冬の人気玩具でした。 同じ博徒符帳でも東と西・又地域によっては全く違う処もあります。所謂『やくざやさん』たちの専門用語 があり、『やり、ふり、かち、ため、ずか、みず、おき、あった、きわ(がけ)』という符帳を使います。 テキ屋や香具師が使ったのが始まり、とも言われています。 歴史ある骨董・道具屋さんを忘れていました。「後藤祐乗」を総本家とする金工達が大判小判で金座、銀座 に名を馳せたことはご存知の通りですが『秤量貨幣(天秤量り)』が主軸通貨であった時代、銀の計量音を 上方では『景気を測る音』と表現したと言われます。両替商や銀の吹き手(大黒屋・常是)などの仕事振り を指したものだと思います。刀剣の目利きを担っていた「本阿弥家」が発行してきた折り紙(鑑定書)にも 金子何百枚・・・と表示しています。10貫目・20貫・100貫・1000枚などと秤量数値を表す符帳 が変化して、現在も道具屋市場・交換会(有鑑札の商人市場)でこれが使われています。時代を引き継いで 申し送られてきた「仲間の数字」です。入札時の『競り上がり口唱符帳』でよく使われるものに、10貫目 (165)・20貫(33)・百貫(35)・四百貫(65)・500貫(83)・1000枚(125) ホン三(225)などの数値符帳があり、全国の市場で共通語として今日も使っています。 【隠語・倒語・回文・お遊び符帳】 隠語や符帳というのは、倒語(逆さ言葉)や回文から発した言葉が多く、言語に長けた作家、文人達が遊び 心で造った言葉が隠語になったり、いつの間にかそれが慣用語になって広く使われた例もあります。文芸誌 『白樺』が発刊された後、同人だった「武者小路実篤」が大正年間「新潮」に掲載した記事で「しらかばを 逆さに読む奴がいて、しらかば、バカラシと言う、あほだら経を読むように・・・」というのを何かで読ん だことがあります。「尾崎士郎」の「人生劇場・青春編」では仁吉が吉良常のことを「ぼんち」と呼んでい ましたが、遊んでいる悪ガキ達が、寒い日に素足で歩く「ぼんち」を見て「足袋無しだ」とからかい、いつ の間にか『ぼんちたびなし』と続けて叫び、今度は言葉を反転させて、大声で逆読みして駆けて行った。 という内容の行りがありました。作者の「いたずら」のようですが、言葉や文字を捻っていると、面白い遊 びが見つかるようです。 「尋常小学唱歌」に制定された一年生の文部省唱歌に『月』というのがありました。懐かしい、と思う方も 多いことでしょう。『♪出た出た月が、丸い丸いまんまるい、盆の様な月が』というあれです。学校や家庭 ではキチンと唱わないと叱られましたが、戸外で仲間達と遊ぶときには 『たでたで がきつ、いるまいるま いるまんま、んぼのなうや(よ)がきつ』と、一節ずつ逆さに読んで 大声で合唱したものでした。『てぶくろ、を反対に読んだらな〜に?』などといって友達仲間に問いかけ、 相手が正直(不用意)に『ろくぶて』と答えると相手の背中を六回叩いたりして遊んだものでした。実に下ら ないことですが、そのご時世に応じた遊び歌だったのでしょう。 古くは『近松もの』の何かで「はまぐり」を「ぐりはま」と言い、それを繰り返し読んでいると「はまぐり」 になる、などというのもありました。所謂『回文』と呼ばれる類ですが、五七五にも、三十一文字にも同様の ものが大昔からあります。良い初夢が見られるように、という子供の頃から教えられた正月行事の一つですが 『なかきよの、とおのねふりのみなめさめ、なみのりふねのおとのよきかな』を、私など今でも元日の夜には 紙に書いて枕の下に敷いて寝ます。日本人というのはこんなことが好きな人種なのかも知れませんね。 『今日は、明日の、いにしえ・・・』なのでしょう。 どや、だふや、しょば、もく(煙草ですが雲から取ったモクです)キス(酒)ぐれ(愚連る)さつ(警察) ぱいいち(一杯・江戸後期から)れつ(連れ)ねた(種)れこ(小指を出して)がさ入れ(さがすから) がいしゃ(被害者)などはドラマなどで誰もが知る言葉ですが、寿司屋でよく使っていて日常語にもなって いるシャリ、サビ、カッパ、上がり、ガリ・などは大方の人が口にしたことがあるでしょう。酢飯と干瓢を 海苔で巻いた(与三郎)というのは、木更津縁の・与三郎の簀巻きが発祥のようですが、生活の中には数え 切れないほどの洒落言葉や俗語が溢れているものです。デパートでもお客の前で店員同士が話す言葉として 各店独自の隠語があります。マル(食事)・アリキュウ(トイレ)などと使います。(そごうさんの例) 洒落や遊び言葉に終わりはなさそうで、お金が無くても楽しめます。『五合升で・一升(一生)貯まらん』 『無地の羽織で・文無しで』などと関西では会話の中に洒落言葉を夾むことがあります。無用の長文はお金 にもなりませんので又の機会に・・・ということに致します。時の記念日・骨董屋のぼんぼん時計の数々が 各種お好みの音色と時を打っています。その昔、時計(腕時計)のことを、不良達が『計ちゃん』と呼んで 若者の間にまで流行したことがありました。(百済無い話しにお付き合い有り難うございました)
【今月のワンショットギャラリー】
【季節の花鳥画・日陰の優作二題】
【岩上芙蓉孔雀図・中田雲輝 筆(絹本彩色・縦幅一尺七寸×四尺五寸)】
岡本秋輝の流れを汲み、羽田子雲の門人、中田雲輝の筆による孔雀図である。(輝は全て日偏に軍)
先生、親分達の名声のせいか作品の数を余り経眼しない。芭蕉や芙蓉の彩色を抑え、長崎南宋派の色感を持
ち、孔雀に施された上質の顔料、緑青、群青に加へて金彩の細やかな筆は実に見事である。
大胆なまでの孔雀の描き込みは、派手を装いながらもしっとりと画面に馴染んでいて違和感がない。さながら
岡本秋輝を彷彿とさせ、同等の感慨が伝わってくる。落款には「丙辰暢月、寫」とあり、大正五年霜月頃の
作品と見られる。明治後年の資料には『秋輝に続く達筆』『秋輝を伝える唯一の名手』と称されている。
(本名を清次、通称伯英、明治四年小田原に生れ、東京で活躍した)季節の花鳥図として満足を与えてくれ
る優作だと鑑賞している。
【中倉玉翠 筆・喜鵲図(紙本水墨淡彩・縦幅四尺六寸×一尺三寸)】
中倉玉翠(1874〜1950)は山口県生まれ、本名を幾之進『柳省閣主人』を別号とした。二十四歳で
東京に出て『村瀬玉田』に付いて学び、後に『橋本雅邦』の門に入る。絵画共進会で一等賞、東京勧業博でも
褒賞を受け、以後文展を中心に出品し入選を重ねた。多彩な賞歴を持つが、大正七年出展の『渓声』が官展へ
の最後の出品となった。戦時の大空襲中、帰郷することになり、昭和二十五年、七十五歳で没した。
本幅は「鵲(かささぎ)」の動き、表情を上手に捉えて、水墨淡彩でまとめた風雅な作品である。玉田や雅邦
の指導を受けながらも、独自の技法を元に、その世界を築いた画家のようである。
(掲載作 上総古美術研究会々員所蔵品) お付き合い下さいまして有り難うございました。 |
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22・仲秋号【数寄者 源さんの終宴】〜残る桜も散る桜〜
2005 9/20
源兵平衛爺さん(源さん)が鬼籍に移ったのは、九十三歳の誕生日が過ぎた翌年、正月の松飾りがようやく取れた寒い日で
あった。飄々とした生涯を送り、終生骨董を愛し続けて幅広く周囲の人にも慕われた源さんは『骨董道楽』を分かち合う者に
とって、せめてもう少しのあいだ骨董談義を繋ぎたかったと思える先輩・仲間であった。葬儀の日時を報らせてくれた共通の
友人に『一週間程前のことだよ・・・電話をもらってね、来いと言われたので訪ねたら、煙草入れのカマスに付けた根付けを
出して来て《これはちょっとした珍品だよ》って、いつもの調子でとても元気だったのに驚いたよ・・・残念だよね・・・』
と聞かされた。世間一般には、齢九十歳を過ぎて終われば「大往生だ」とか「赤飯ものだ」なんて平気で言ってのける人が
いるが『もうそろそろ、この辺で人生を閉じても良いだろう・・・』などという年齢は無い筈である。けれども必ず終わりが
来ることも永住不可能な此の世の約束事であり、あとは残された者達が諦めの方向に転化させて行く他道はなさそうである。
禅林の語句に言う『一処不住』『生者必滅』は致し方無き人生の定めなのであろう・・・。
源さんの死は老衰ということであった。枯木を労るように、命を尽くしたその日まで指先を動かし、木工小物の修復に格別の 眼光を輝かせ、手中の愛玩品を見つめては一人悦に入っていた源さんの姿を思い浮かべると、寂しさや愛おしさが込み上げて 来て、まさに懐旧に胸締め付けられる思いであった。《長い間有り難う源さん・・・教えられることがいっぱいありました》 葬儀は自宅で行われた。俄に葬儀屋の鯨幕で仕切られ、設えられた狭い部屋の祭壇では読経が流れていた。僧侶の声が心なし か弱々しく、力無く聞こえてくる。知らせが行き届かなかったこともあったようだが、親交の深かった仲間の参列者は10人 に満たなかった。源さん達夫婦には子供が無く、近い身寄りも少なかったようで、先年亡くなった奥さんの義甥の子に当たる という人が施主を努めたことを後で聞かされた。それにしても実に質素な儀式であった。尤も源さん自身がご大層や仰々しい 振る舞いなどを好む人ではなかったから、寧ろそれを望み、喜んでいたことかも知れない。然し下世話ではあるが我々仲間達 の眼に映る光景としては少し寂しいものがあった。せめて経文くらいは朗々とした声で読んでくれる御前様が側に居て欲しい と思ったり、伴僧は居ないのかと同席者が顔を見合わせたことであった。 人間の生死、定命とは不思議だ。源さんは女房が亡くなる一年程前に臓器の手術で入院した経緯がある。見舞いに行きたいと 思ったが、その時の源さんは友人知人の誰にも病名や入院先を教えるなと女房に指示していたようだった。さりげなく病状や 経過を聞こうと、入院の後一ヶ月も過ぎた頃を見計らいお見舞いを手に自宅を訪ねた。玄関先に現れた奥さんが状態を話して くれた。『本人に意識はあるんだけど、主治医の先生に「この一週間が山で、通り越せば持ち直すことも考えられるが年齢や 体力から判断して或いは難しいかも知れない、親しい人には報せておいた方が良いでしょう・・・」と言われました。主人の 年齢を思うと万一の時の事を考えます。葬式の時に骨董の友達仲間の席順や、誰を呼べば良いのか私には見当がつかないので 教えて呉れませんかね・・・』と、必要事項を伝達する様な語り口で、平然と一気に語りかけるのである。奥さんは源さんの 年齢と余り差はなく見掛け上では《転ばないように気を付けて下さいよ》と言いたくなる容姿、恰好である。女性というのは 斯くも冷静沈着な判断能力を持ち合わせているものなんだろうか・・・。私は一瞬驚きを隠せなかったが『看病でお疲れが出 ませぬよう・・・』という話しに切り替えて、全くその内容を聞かなかった素振りをして『お大事に・・・』と立ち去った。 帰途、源さんが婿さんであったことを思い出したが、とは言っても病と闘って死の淵を彷徨う旦那のことを早々と諦めや覚悟 にも似た様子で話す奥さんの言葉が妙に耳に残った。女性の持つ凄さ・・・のようなものを感じていた。奇跡的にもその時の 源さんは退院出来たのである。周りが驚くほどの回復であった。そして旦那の葬儀の席順を心配していた女房を、一年後には 旦那の源さんが送ることになってしまったのである。女房を亡くした寂しさを受け止めながらも、呑気が一番だと言い張って 独り暮らしにこだわり自らの元気を誇張していた。周りの誰をも寄せ付けず身の回りの世話さえ断わって独自の最終章を選択 して幕を閉じた源さんであった。 明治生まれの源さんは東京下町育ち、江戸前である。昔人間は少し小柄だがとっても粋で気っ風が良い。そして時々照れ屋だ。 活動写真のブロマイドにも現れそうな良い男なのである。一年中雪駄を好んで履いていた。足元の装いに合わせるかのように 何処へ出掛けるのも甚平や半纏を羽織っていて、それが良く似合っていた。昭和20年の終戦を機に国内では兵隊さんが兵役地 に残留して其地の女性と結婚〈婿入り〉するというケースが各地でよく見られた。当時の国家的な現象でいわば男性不足時代。 源さんも一目で〈甲種合格〉の花婿に選ばれた男の一人であったに違いない。指物大工として修業を積み、良い腕を持っていた 職人気質の源さんは何時しか此地の人になっていたのである。骨董品百般に結構明るく、数寄者や仲間達の間でも相当な目利き だと言われていた。書画骨董道具類をはじめ鑿や鉋、金物類は自身の職業範疇だったこともあって、刀剣や小道具などにも目を 向け相応の鑑識を持つ人だった。煙草は喫ったり喫わなかったり、酒も呑むがほんの少し・・・五勺ほどの冷や酒を口にすると 一度に頬を桜色に染めてご機嫌は最高である。昔、鬼の首を取った話しや驚く程の美術品を手にして眠れなかった夜話しなどが 飛び出して、何とも楽しげな講釈はとどまるところを知らない。言葉数が少なくなってきて気が付くと椅子やテーブルに凭れて 居眠りが始まっている。そのまま眠ってしまうことも屡々だったが、それは気を許せる仲間達とのお定まりコースでもあった。 源さんは車の運転免許証を持たなかったので近所や町中を往来するときは自転車を使用する。遠隔地への移動、骨董の交換会や 市場に行く時は仲間や友人の車に乗せて貰っていた。運転手役やお手伝いをする若い人や取り巻き達も大勢いたのだが源さんは 人から恩や施しを受けることが嫌いな性格だったから、ことあるたびに「ご苦労様」と言っては酒食のもてなしや労をねぎらう ことを忘れない人だった。然しそんな源さんも体力のせいか晩年には動きが鈍くなり、仲間達の方でも一緒に行動を取っていて 道中で気分が悪くなったり、何かが起きたときには困る・・・という理由からか同行する人も少なくなって行ったようだ。時折 『次の○○会にご一緒しましょうか・・・』と私が誘うと約束の50分も前から待機してくれたり、源さんから声を掛けられて 時間が許せる時は運転手のつもりで買い出しなどに同道したりもした。県外に出て食事をしたりお茶を飲んだり・・・の場面に なると自分が支払いをしなければ気が済まない。気に入らないのである。「年上だから俺が払うんだよ」「俺が誘ったから俺が 払う、でなきゃもう次からは付き合わない・・・」などと言って困らせる。私の場合は商売上のお付き合いでもあり、年長者と 言われたってそうばかりも行かず『ご馳走様』の後で気を揉んだことがあった。源さんにはお決まりの習慣があって、お会計の 時、必ず胴巻きから蝦蟇口を取り出すのだが、口金を開けると紙幣が四つ折りに畳んで入っていて一つずつ取り出して数える。 数え違いをしたり密着した二枚が一枚になって出ることがない、というのがその理由、持論であった。当初はその所作があまり スマートには映らず、女達がすることの様にも見えたが、やがて彼なりのスタイルなのだと思えるようになった。〈聖徳太子〉 と〈伊藤博文〉が同じ財布の二段仕切りに入れられ、小銭入れは18金の懐中時計に繋いだ金の鎖に結んであったようだ。 既に昔話になるが、私の趣味が高じた勢いで片手間に始めた骨董屋。その看板を揚げた初日に“お初様”としてご来店召された のが源さんであった。恐るおそるの店開きである。敵さんの方でも「何処の旅役者がどんなものを扱ってるのかな?」くらいの 面持ちで覗きに来たようであった。『ずぶの素人で全く分かりません、色々とご指導下さい・・・』と揉み手で平身低頭の私。 少しはウブ荷を集めて自慢の品も持っていたので、源さんも「いや〜なかなか・・・結構な物がありますね・・・」という風な やりとりをしたと思う。不意に源さんが「ちょっと見せてくださいよ」といって品物の一点に眼をやる。小型の船箪笥風に仕立 てられた特注物らしい化粧道具箱で、総欅製無垢の一枚板加工、木の自然が見せつける玉杢文様が見事な作品である。開き扉と 小引き出しの取っ手、座金部分は四分一地に金銀色絵で塩汲み図、片切りと毛彫りで花菱文が施されていたのを今も覚えている。 「何時頃のものでしょうね?・・・」と源さんはとぼける。『そんなに時代はないと思いますよ、明治でしょうか・・・』と私。 「なるほど・・・これは面白いね・・・」と再度扉と引き出しを開け閉てし、笑みを浮かべてから「面白い・幾らですか?」と 聞いてきた。『お初様です、此れが初売りです、気に入って頂けましたらお安くしますので買ってください!』と切り出した。 正直なところ初商いの縁起を担いだから、利益、金額よりも売れることを願っていた。「よし、気に入った!買いましょう!」 お買い上げとなった。私と源さんとがお付き合いを始めた記念の日であった。珍しい品物などが入荷してそれをを手にする時の 源さんは『面白いねェ・・・』が口癖だった。そして“面白いねェ”を連発するときは値段交渉に至る前奏曲でもあり取引成立 となるという塩梅であった。“面白い”というのは骨董界での常用語ではあるが、源さんが特別良く使う言葉であった。 古美術・骨董の世界を愛玩し旅する人達は多種多様だが、ものごとの鑑賞、鑑識という観点からみれば、プロとアマの垣根など 皆無といって良いだろう。鑑札を持って看板を揚げるからプロと呼び、他に職業を持っていて楽しみを交換したり、又蒐集する 人達をマニア、コレクターと定義してはいるが、源さんなどは看板こそ揚げなかったが、れっきとしたプロで県内や関東近県の 交換会・市場に顔を出し、古くからのハタ師・店師との交流もあり、道具屋市場や此の道を歩く人の間ではちょっとした“顔” であった。だが晩年は玄関先を改造して陳列などを少し並べ、駄菓子屋の様な構えの店先に仲間が時々やって来ては四方山話を 展開して騒いでいた。無意識のうちに活動能力を無くしていったようである。寄る年波には勝てなかったのかもしれない・・・。 源さんが好んで手許に置いていた品物には“桜花”を画題にした物語りや細工物、書画などが多くあり、結構お気に入りの様子 であった。各人各様にお宝を求め合って交換や譲渡を繰り返し、感動を味わいながらお互いの愛玩品を認め、自慢と趣味の極値 を探求し精進することが数寄者の、或いは当地愛好家の特徴のようでもある。骨董三昧の日々に明け暮れて、自身の幕を閉じた 源さんは幸せ者であったに違いない。たった一つ後悔を残すことがあるとすれば、詮無いことだが源さんがあんなに好きだった “桜の春”を待たずして散ってしまったことであろうか・・・。 四十九日の法要が終わった頃、仲間の一人が遺品の整理を頼まれた・・・といってやって来た。無銘の小脇差し一口を受け取る。 動いてくれた人の手間になるように買い上げ、些少だが墓石の一部にして貰おうと不祝儀を包んで言付けた。多くの美術骨董品 を所持し、又動かした源さんだったが、残り時間を計算でもしたかのように纏まった品物の殆どは処分の後だったらしい。房総 半島の骨董仲間達も次々と鬼籍に旅立ち、此の世で頑張る“骨董人”の間では空しい思い出話ばかりが持てはやされる。10年 余りの間に10指に数え切れない人が現世にサヨナラを告げた。まるで阿弥陀籤でも引くように、順序こそ不同だが与えられた 制限時間が来ると挨拶もそこそこに渡船場に行くことになる。手にした木札に従って当日集まった人達は同じ船に乗って対岸に 渡して貰うのだ。極楽の受付では鬼籍簿にサインをする。担当者が現れて前世での履歴、業務実績、努力や貢献度、親達や女房 子供を大切にした度合い、極楽に昇って来た理由などを一通り聞かれるという。舌を抜かれるということを前世から聞かされて いるから、誰一人嘘を付く人は居ないらしい。詳しく説明と申告をして“物故者登録”を済ませ、四十九日が経過する頃に戒名 とは別に前世で使った俗号や通称名が紫色の頁に記入される。永住者の権利資格が与えられるということだそうである・・・。 『いけない!』百薬のせいか少し居眠りをしている間に夢と現が交錯してしまったようだ。秋のお彼岸のせいなのかも知れない。 『源さん!悪いけど僕はまだ暫くはそっちに行けないからね・・・その時が来たら面倒掛けますよ・・・』蓬莱山の骨董村では 蓮池を囲み円座を組んで先達の競り市が始まっているかも知れない。源さんも負けずに声を張り上げているのだろうか・・・。 『散る桜 残る桜も 散るさくら・・・』ではある。 掌編稿・源さんの想い出−難波 武士 作−より
【今月のワンショットギャラリー】
【古伊万里・金襴手鑑賞】
《献上手・金襴様式 白斑兎文・大深鉢》(口径:34.5p・高さ;13p・高台径;17.5p)
正保頃から始まったとされる金襴手は柿右衛門が最初だとも言われている。豊かになった元禄の時代世相を
背景にして国内の富裕層に珍重されるようになっていった。武家や公家などに向けられた『献上美術磁器』
は当時の上流階級と称される間で可成りもてはやされたようである。釉上彩画による上色絵、金彩の発色は
見事である。枯淡の染め付けに添うように施された彩色、とりわけ一番難しいと言われる赤絵の均等な仕上
がりが素晴らしい。明治年号の書かれた古色のある時代箱に収まっていて無傷、完全品である。とても庶民
の手に届くものではなかったと思える品で高貴な人の間で大切に保存された蹟がうかがえる。正に江戸時代
元禄文化の絢爛を切り取って今に見る逸品である。見込みに描かれた『白兎文』は、白斑兎・雪兎・越後兎
などと呼ばれ古くから珍なるもの、目出度いものとされたようだ。又色絵の組み合わせ装飾文様のうち金彩
の羊歯文は先鋭葉を特徴とする古代種の羊歯であるということだ。染め錦、錦手、金襴手などとと呼ばれる
作品の多くはともすれば華美に見え派手を演出することに成り勝ちだが、本作では落ち着いた感性と上品を
感じさせてくれるのは不思議である。旧家の流れを汲む調度品だと聞いたが、これぞ古伊万里色絵金襴手の
真骨頂とも言うべき作品であろうと思われる。
(上総古美術研究会々員旧蔵品) お付き合い下さいまして有り難うございました。 |
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23・仲冬号 【漂泊と禅那】〜愛すべき文人画家・岩崎巴人〜
2005 12/10
12月8日は、お釈迦様が真の悟りを得たと伝えられる日で『成道会(じょうどうえ)』と暦には記される。
6年の間、生死を彷徨う苦行を続けた釈迦も悟りの境地には至らず『悟りを得ることは不可能なりを悟った』
といわれている。2500年も昔のインドでのこと。菩提樹の根方に坐し、今まさに命尽きんとする釈迦の前を
森の神に捧げようと、乳粥を持った村娘スジャータが通り掛かる。異変に気付いた彼女は手にした乳粥を釈迦に
与えてその命を救ったというお話である。夜明けと共に釈迦は叡智を極め、悟りを得て仏教が成道したと伝わる。
スジャータ伝説には他にもいくつかあって、釈迦が涅槃に入るまで側に寄り添い、心底から介護を尽くした彼女
は、周りの女性信者の中では誰よりも釈迦に愛された美人であった、という一説もある。が、まあそれはそれと
して「禅那、禅定という境地、実在無への輝き」と言われるところへ辿り着くためには、最も大切で不可欠だと
される「漂泊の時間」「修業の時間」が必要だということのようである。
私など、特別な信徒でもなければ、宗教色を持つ人間でもない。気が向けば鰯の頭も愛する凡人だが、禅画禅句 が醸す雰囲気には思わず元気を貰い、頬が緩んだりすることがある。流行語を使うとすれば癒されるとでも言う のだろうか・・・。今書き留めようとする『岩崎巴人』も又、お釈迦様の苦行に自らの思いを重ねて平成の現代 を生きる画僧であり、文人画家だろうと私は思っている。昭和52年に出品されて「東京国立美術館」の収蔵に なる屏風絵「乳粥奉献」は岩崎巴人がどうしても描きたかった情景であったと思えてならない。芭蕉や蕪村に表 れる画賛・詩句の多くには「禅意」の表現があり、白隠、仙崖等々禅画の作品でも「自然観」が大切に描かれる。 一見、時代の流れを継承したようにも思えるが、作者自身が持つ特有の心象を織り交ぜながら描かれる「巴人」 の筆を私は格別のものとして心楽しく鑑賞し、暮らしの糧にさせて貰っている。 『岩崎巴人』の絵画を称して、世間一般には禅林画家、異色作家、摩訶不思議の芸術、ユーモアがあり大胆な画 迫力のある絵、単純化させた墨画、独特な表現画、難解な絵画・・・等々語る人の多くからはそんな評価や批評 が聞かれる。当店を取り巻く知友の集団「上総古美術研究会」でも同様の意見を語る人がいる。確かに鑑賞する 人の視点や感性で評価され、捉えられるのが絵画であり芸術であるから、それぞれがもっともな御意見であろう とは思う。「巴人」が描く画の殆どに画賛(詩句)が入り、それらには約束事の様に自作の詩歌、禅句、唐詩、 古歌などが自由奔放、意のままに書き込まれていて、全てが即興の筆で展開される。筆を持った瞬間にその時の 感性で書きなぐられていく早業である。(私にはそう見える)ところが仕上がった作品には計算などしなかった 筈のバランス、構図美が生まれているのである。分析出来ないような不思議な感覚である。詩画賛一体、水墨で 淡彩で・・・人物や動物、小禽達までが鑑賞する者に問答を投げかけて来て、楽しい墨彩の掛け幅・壁画・或い は屏風絵の誕生となるのだ。本年11月に八十八歳を迎えられ、米寿と呼ばれる御齢の岩崎先生である。画業や 作品、略譜の紹介と共に、私が見る愛すべき現代の文人画家『人間岩崎巴人』の横顔にスポットを当ててみた。 (以下文中での敬称省略をお許し下さい) 「岩崎弥寿彦」大正6年11月、東京新宿に生まれる。川端画学校を卒業(研究科に2年籍を置き、岡村葵園より 「巴人」の号を受ける)後、小林古径に師事、日本美術院に出品し「芝」で初入選を果たす。横山大観らの高評を 得て院友に推挙される。28回展などにも出品、入選を重ね活躍するが昭和16年戦時召集となる。21年、除隊 となり画業に取り組むが混沌とした戦後の時代背景や従軍経験から自身の画作に悩み続け、22年、日本美術院を 自ら退会。そして日本各地を放浪することになる。所謂「漂泊の魂」の具現であったようだ。「富山県水墨美術館」 には巴人の数々の作品が収蔵されているが、富山・朝日町は氏の姉の嫁ぎ先という縁もあり、子供の頃から好んで 出掛けた思い入れの強い土地のようである。後に「日本表現派」を決意した所でもある。「新興美術院」への参加 や様々な招待出品、選抜出品、海外に目を向ければ「国際美術展」「現代水墨画海外展」「米国巡回展」「ソビエト 巡回展」等々日本を代表として参加や受賞の数は枚挙にいとまがない。(紺綬褒章など数々の授章を受ける) 昭和43年頃〈独自世界を得る為〉としてインドへ巡礼の旅に出る。昭和50年開催の沖縄海洋博に「波濤岩礁図」 を出品した翌々年の52年「京都禅林寺」にて出家得度(法名・善空)54年文化庁が「暁」の買い上げ。55年 「韓国ソウル国際展」で「天使たち」を出品。N.H,K の「水墨画入門」の講師、産経新聞の大賞展や各種美術展の 審査に当たる。著書では「水墨画」に関する相当数の書籍が出版されている。又各方面の依頼を受けて「講演会」に 呼び出されることも屡々である。得度して僧籍を選んだ時の心境として『絵画と求道を一つに考え、その精神を一体 化させてみたい』と言うことであった。「白隠禅師」が説く禅意の中で『雲煙の境界を見るに、雲が深くて行く先が 見えず分からない、それが無に参入すると言うことで他には何も無い』と伝えている。『書画というものは装飾品や 飾り物であってはならないと思う』という「巴人」氏の持論はそんな部分にも重なるのかもしれない。 手許に書庫から取り出した昭和39年版「美術年鑑」がある。新幹線が開通、東京五輪が開催された年。成長期に向かう 日本であるが、紙面は小さく藁半紙に近い紙質だ。見開きでは「片山南風」が文化功労者のニュース。現在では物故者の リストに名を連ねる著名画家が現存頁で活躍中である。今は昔という思いだが、話題の作品として取り上げられたモノクロ 写真の作品が並ぶ。「岩崎巴人」の「双賽一摘」が第7回日本表現派展出品作として掲載され、岩崎氏のコメントとして 『戦後生きている事に自覚を余儀なくされて来た我々は・・・(中略)今まで傍系的に考えられていた禅僧の画や文人画 と言われる雪舟以降、鉄斎に至るものに寧ろ自由な精神性があることを悟った。権力者、ブルジョアの影から発生したもの ではなく・・・(中略)真の表現主義を民族の芸術探求に求めることに理解を頂きたい・・・』とある。情熱を絵筆に持ち 替えた様な若さが感じられる。 当時は千葉県松戸市在住の頃である。氏の作品群の中では「河童」がテーマになるものが可成りある。いつだったか二人 で珈琲を飲んでいた時、私はさりげなく聞いたことがある。『河童を描こうと思った時、何か切っ掛けなどありました?』 「小川芋銭の河童に魅せられてね、近くに住みたい思いで何度も通った」ということであった。「その頃棟方志功が私を 訪ねてくれて親しくなり、私に指導を求められたことがある。私も彼の版画の技術を教えて貰った」とも付け加えられて いた。そういえば今も賀状を頂く中に木版画で干支を描き込んだものがある。「棟方志功」の画を思う時、二方がお互いの 感性を探り合って制作意欲を高めていったのだろうと思ったことだ。巴人氏の昔語りだが「横山大観」の作品問答がある。 「古径先生がね《巴人君、君は大観君の絵をどう思うかね?》と聞かれて返答に困っていたら《彼の絵は床の間に掛ける絵 じゃないよなぁ》と先生が言うので、私もそう思いますと答えた」と聞かされたことがある。斬新で売れっ子になっていた 大観への批判や羨望が当時の周辺にはあったようだ。私は「巴人」の筆も床の間に置くのは惜しいのでは?と思っている。 『先生は文人画では誰の絵が好きですか?』と単純な質問を投げかけたことがある。「全て味わいは違うが(暫く考えて) 「鉄斎」かなぁ・・・遡れば「蕪村」・・・」と答えられたことがあった。 描かれる画には滑稽がある。風刺がある。愉快がある。時には化け物も出る。苦界から抜け出した生き物に微笑みの着彩が 施される。「佛の表情」の捉え方は実にユニークなのである。その昔、芭蕉が足を運んだ近江の国は「大津絵」の発祥の地 だが、その「芭蕉会館」の庭には「鬼の念仏像」があり、句碑には芭蕉の《大津絵の 筆のはじめは何佛》というのがある。 「鬼の念仏」は巴人も描く題材の一つだが、禅画の面白さを芭蕉は俳諧の道すがら既に見つけていたのである。欲念や邪心 で極楽浄土を願うことを戒め、自責の念を鬼の念仏で表しているのである。芭蕉が訪れた頃、地域の絵師達は正月の三が日 は一切佛のことを口にしない。勿論仕事はしない。そうした約束事を芭蕉も真似て正月四日に此の句を詠んだと伝えられて いる。『禅・画一昧』時々巴人氏が話される言葉である。かと思うと「兵役から還ってから痔が悪化して「痔主」から抜け 出せず毎日一時間以上も便所で暮らしたお陰で、法華経37巻を血の出る思いで読破できた」という運命的で血の滲む苦労 も経験されたようである。『平常心是道』良寛も一休も、白隠も道元も、有りの儘、そのままを説く心と同様に禅画があり 文人画があるということであろう。雲門の乾尿蕨(かんしけつ)という禅を説いた法の中で、氏は「私は野糞をするたびに 「天地同根」を思っている」という面白くも難しい一行を思いだした。 私が巴人先生と縁を持ったのは、富津市の丘陵に広がる鹿野山、「(財)禅道場研修所」「佛母寺」が発行している冊子 で「麓園(ろくおん)」の表紙絵に「巴人氏」が寄稿されたのが切っ掛けであった。故人となったが大阪出身でその昔を 良く知る産経・大阪新聞の社主「前田久吉」が「母なる大地」を夢見て造ったというマザー牧場の構想に些か感動を覚え 上総の土になると決めていた次男坊の私に「佛母寺に墓地を持たないか?」と知人が誘ってくれて墓地の区画を購入した。 『俺が先だから、いや私が先・・・』と女房と冗句を交わしながら「東山魁夷」が描いた九十九谷の幻想的な景観を眺め て、『この高台で眠ろう』と決断したのである。季刊の「麓園」は今年で通巻114号を数えるが、表紙と巻頭部分には 先生の絵と随想録や散文があって毎号を楽しみにしている。発刊された当初、どうしても一度逢ってみたい気持に駆られ 京都から着任された佛母寺の住職である「安井玉峰尼」にも機会があればとお願いしていた。偶然にも館山市で画材店を 経営している骨董仲間のK氏が「巴人氏は時々来店されたり配達したりするので案内しましょう」と言ってくれて自宅を 訪問したのが最初であった。それまで作品は市場の経路で手にしてはいたが、望むことは先生と会話することであった。 何度かご自宅を訪問して画作を依頼したり、当方にも来店願ったり、親しくお話をさせて貰うようになって20年以上に なる。10年前に当店のギャラリー新装で「表札文字」をお願いしたとき、二つ返事で聞き入れて「ギャラリーなにわや」 の墨書を頂き、「お祝いです」といって私の顔を見ながらオコゼの絵を添えて貰った。実に愉快で有り難い看板となった。 失礼だが、先生の容姿を表現すると、玉子の剥き身の様に剃られた頭がとても形が美しく綺麗で、ふっくらとした顔立ち。 メダカの目のように見えて澄んだ可愛い眼が象徴的である。作務衣を纏い、頭陀袋と念珠が体裁良く前にあり、お出掛けの 時の足元はいつも靴である。珈琲が好きな先生である。酒も少しは・・・ということである。来店頂いた時だったと思う。 「難波さんは女性の方はどうなんですか?」突然の質問に面喰らったが『その昔は人並みの活躍時期もありましたが・・・ もう此の齢では頭も身体もついていけませんよ・・・』「それはいけませんね・・・そんなことでは長生き出来ませんよ」 笑顔と真顔を交えて、講演の時にも聞いたことのある「釈迦とスジャータ」の逸話を蕩々と語られたことを記憶している。 暫くご無沙汰しているが、白浜野島崎の燈台と海を眼下に見下ろすアトリエ兼ご自宅は静かな景勝の地である。剃髪された 美人の奥様との二人暮らしだ。いや、今は亡くなって居ないが、先生の画題にもなったことがある秋田犬らしい大型犬との 3人暮らしである。その犬はお座敷の上で堂々と我が物顔であった。今では笑い話だが、いつか手土産に木更津の初網海苔 を持参した時である。差し出した手を引くのと同時に私は犬に手首を噛まれた。『大丈夫ですよ・・・』と言ってはみたが 出血と痛みでまいったことがある。「駄目でしょう○○ちゃん、そんなことしちゃ・・・」奥様は犬を宥めるように叱って いた。「大丈夫ですか?・・・」と私に声を掛けてくれたのは暫く後のことである。美人の奥様はマネージャー的存在だ。 画稿料の支払いなどでは窓口のようだし、先生は来客を気遣う様に奥様が部屋を離れた間に内緒で小品の捲りなどを持たせ てくれたりする。稿料を値切ったことも、安くしてくれと言ったこともないが、ある時「先生は芸術家で、この通り気が良 くて、好きな絵を描いてれば楽しい人ですが、生きてる以上霞を食べて行く訳にはまいりませんものね・・・」という言葉 を浴びせられてガッカリした記憶がある。先生の過去における諸行を語るものだったか?とも解釈したのであるが・・・。 ご在宅の時は毎朝二人仲良く犬を連れて、海辺の道を散策されるのが日課になっている様である。「ヨーロッパへ行くとね 日本のゴッホが来た、などと言われるんですよ・・・」少し鼻が動いていたこともあった。アテネの名誉市民を与えられた とも聞いた。私が愛すべき「禅僧岩崎巴人」は同時に人間味溢れる「文人画家岩崎巴人」なのである。 先生は古美術、骨董が好きである。先師・先人の画筆の研究も決して疎かではない。全国の美術館・博物館・寺院などには 氏の歩みと共に多くの作品が収蔵されている。個人の蒐集家コレクターたちも貪るように手許に置いて楽しんでいる。私も 当然の如く其の一人だが、益々元気を貫かれて作品の数々を創造していって貰いたいと願ってやまない。2005/12月 『 死なばこそ 命ある日は尊けれ 無常の野辺の 冬枯れのさま 』(巴人師詠)
【今月のワンショットギャラリー】
【【岩崎巴人・ギャラリー所蔵お気に入り小品展】
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24・季春号【お爺ん達のララバイ】〜ぴんぴんころり・ぽっくりさん〜
2006 3/20
3月6日啓蟄“春一番”の便りがあった。今年は季節に吹く風の入れ替えが少し遅いような気がする。
春一番は別名“別離れの風”とも呼ばれるが、身体を動かすさえ億劫であった寒冷に別れを告げたの
だから爺は大歓迎である。暫く本も読まず、キーボードに手も触れずにいたら、駄文を毎号読んで呉れ
ているという人からお叱りと激励の報を頂いた。言葉にはされなかったものの「別離の風」になった
のではないか?「彼岸」に向かったのでは?と思われている様子が感じ取れた。老人が僻んで受け止め
る場面ではない。有り難く感謝を述べたいところである。小生の立場としては此の世に未だ些か借りが
残っているので、後10年は頑張らなきゃいけないと考えている。そんなことに思いを巡らせていたら
、渡り鶯の初啼きが聞こえて来て既に春のお彼岸である。これからは時間を造って、四季の草花に順応
して更新しよう・・・生きてればこそ書ける無駄話である。さらばお詫びと言い訳を添えて「季春号」を
お届けするものでございます。
P・P・K『ぴんぴんころり』という言葉をご存知だろうか?サッカー用語のペナルティキックでは ございませんぞ・・・。『ぽっくりさん』割り箸をコの字に組んで、向かい合って二人で占った?あ のコックリさんでもありません。中高年、とりわけ「団塊の世代」より遡った『階段の世代 *』年金 族と呼ばれる人達は既にご承知だろうとは思うが、晩年の処し方、平たく言えば人生の最終コーナー に入って、その最期を如何に苦しまず往生を遂げるか・・・教訓?でもあり希望的観測?を表す言葉 のようでもある。「長世寿楽」暮らしと健康をテーマに、元気で長生きしたい、と思うのが至極当然 の考えだが、如何に生きるかというのは、如何に閉じるかという言葉の裏返しでもある・・・。 “最期まで元気でピンピン生きて、ある日余り苦しむことなくコロリと人生を閉じる”これは誰もが 理想とさえ描くところであろう・・・。 「ピンピンコロリ」は信州伊那地方の山村、南、中央アルプスに囲まれた佐久地方で流行した言葉と も言われているが、町村の医療費負担に占める割合は全国比で最小だと聞いた。これは驚きと同時に 真に喜ばしいことだと思う。地域の自然環境が優れているのも条件の一つだろうが、県や町の取り組 みが生んだ成果であろうことは疑うべきもないと思う。全国の都市で老人達が日課のように通う医院 や診療所の待合室では、家中の愚痴や人の噂話ばかりが盛んで井戸端会議場さながら、と囁かれるが 、銭湯にでも出掛ける様に通院される「常連患者」には、旅行会社などて゛「信州の温泉と長生きツ アー」など企画して貰って、関連モデルを見学して頂くようにすれば、地域医療費・税の削減などに も一役買えるのではないのか・・・などと一人妄想を膨らませている。 「ぽっくりさん」は大和の国、奈良県香芝町に「阿日寺(あにち・じ)」があって別名「ポックリ寺」 「嫁要らず観音」などと呼ばれている。子供や嫁さんに、長患いで迷惑や嫌な思いを掛けずに終わりを 迎えたい、というのは古今を問わず老齢者が持つ思いであり苦悩でもあろう。この寺は鎌倉時代中期作 とされる「衆生来迎図(重文・絹本軸装・阿弥陀如来、来迎図)」を所蔵することでも知られている。 「満願安楽大往生」を唱えて長寿安楽を願うのである。歴史ある阿日寺は江戸の昔から多数の信仰心を 集めて来たようで、現在も自分の足でお詣りをするという晩年、加齢、余生の人々の流れは変わらない ということである。 言葉としては共通語、同義語のようだが「ピンピンコロリ」は関東甲信越で常用語 になっているようで、関西や中国・四国方面では、「ポックリさん」が何故か知名度が高いようだ。 言うまでもなく信仰や縁起に纏わる寺社は全国には無数に存在していて、それぞれの思いや願い事を、 神妙に投げかける慣習は続いているのである。 (*階段の世代=人世の階段は登りより下りの方が大変なのである。『あの坂を越えたのに・・・この 坂も越したのに・・・』眼を閉じるまで次の坂は続くようであります。階段の世代は「団塊」より上の 人々を指す。団塊を反転させたら生まれた造語) 近頃『余生』という言葉が頻繁に使われるようになった。渦中に身を置く者であるから余分に鼓膜を 劈くのかも知れないが、余生を楽しむ・静かな余生を送る、という此の「余生」は一体何歳頃からを 指すのだろう?人生に余分などあるものか!辞書を引いてみる。どの辞書にも「歳を取り職を退いて から送る生活」「残された人生を楽しく送ること」などが読み取れる。どうやら年金の受給年齢辺り をそう呼ぶらしい。どうでも良い筈の問答だが、古語辞典を開いてみて妥協出来る言葉を見つけた。 『余情(よせい)』である。風情・風流・言外に漂う情緒・雰囲気・趣のある匂い・様子などを表す 言葉である。此の文字を使えば静かな余生が送れそうな気もしてきた。然し良く考えると実に下らない 言葉遊びのようでもある。ドイツの哲学者「ショペンハウエル」が著わした格言の中に『生きてきた 前半の人生に注釈を付けて暮らして行くのが老いての仕事である』というのがあるが、成る程と納得 する人もいるだろう。これも大したことではない。自分の人生を振り返って、こう生きるしか方法は 無かったのだ・・・と言い訳をしながら、残りの時間と自分の気持を如何に誤魔化して閉じるのかが 「余生」なのだから・・・。どうやら人間は終生自己弁護に力を発揮する能力に長じているらしい。 江戸時代に名を馳せた画僧に『仙崖禅師』がいるが、書画の鑑賞などに興味のない人でも名前くらいは 聞いたことがあると思う。粋で味わい深い禅僧である。(天保8年87歳没)師の作品に『老人六歌仙』 というのがあって、加齢、年代と共に誰もが通過する道中、晩年の体験を文字にしたものだが、単純で 明解である。まるで刷毛先で擽られるようで面白い。分かりやすく書き並べて見たが、思い当たる仲間達 への教訓と受け止めて、江戸が平成の時代にあっても、此の世にご厄介になっている間は、周囲の環境に も嫌われぬ注意を払い、心して与えられた時間を駆け抜けようではないか・・・ご同輩諸兄よ!。 ○ 皺が寄る、黒子が出来る、腰曲がる 頭は禿げる、髭白くなる ○ 手は震う、足はよろつく、歯は抜ける、耳は聞こえず、目は疎くなる ○ 身に添うは 頭巾 襟巻き 杖 眼鏡 炬燵 湯たんぽ 尿瓶に孫の手 ○ 聞きたがる *死にともながる 淋しがる 心は曲がる 欲深くなる ○ くどくなる 気短くなる 愚痴になる 出しゃばりたがる 世話焼きたがる ○ 又しても 同じ話しに 子を(孫)褒める 達者自慢に 人は嫌がる *死に伴なふ の否定・・・死にたがらない・死にたくないと思う) 哀しいと思うか、寂しいことだと思うか、悔しいと思うか、仕方がないと思うか・・・まあお好みの感性で 捉えられんことを。下り坂に差し掛かったかな、と思ったら、観念して日暮れの坂に身を委ね転がるしか他に 道はなさそうです・・・。 当店ギャラリーの二階、窓側に設えた和室に欅製京火鉢を座卓にして、並べた座布団の周りでは今日もお馴染み ご常連各位との古美術・骨董談義。近隣の情報交換、今日の出来事、政治家や地方議員の棚卸しなどが始まる。 ゆっくり止められる駐車スペースが有るのに、ギリギリまで車を寄せて、植え込みの石塊にバンパーを擦る人。 ラインが引いてあるのに必ず斜めに駐める人。自宅に出入りする時に擦ったが、次に同じ事をやれば、その時は 修理に出そうと思っている・・・と言い訳をしながらやってくる人・・・。それでも自分で車を動かして来てく れるのだから、みんな元気である。土・日・祝祭日以外などの平日は概ね『七十代の兄弟分達』の登場となる。 『暖かくなったよな・・・今日は寒いね〜・・・暑くてどうしょうもね〜ね・・・少しは涼しくなったね・・・ 風がつえ〜や(強い)』長いお付き合いを続けているから『こんにちわ〜・・・』という一言で挨拶は間に合う。 田圃や畑を長く続けた人・浅蜊や海苔で頑張った海の男・大工さんや建築帳場に携わった人、家族全員で或いは 一人親方で漕ぎ着けてきた一家の主なのだが、後継者がいない。居たとしても生計を一にしていたのでは収入が 見合わないのだ。倅達はサラリーマンになる人の方が多い。田圃も海も設備投資には莫大な費用が掛かるようで それでいて、新海苔も、新米も、香りさえその昔を失ってしまっている。『自分たちが食べる分くらいは・・・』 と言ってきた農家でも、人の作った米を買う・・・という時代に変容してしまったのだ。“おだかけ米”(千葉 ・茨城県の特産技法とされて稲架脚を使った自然乾燥法)も、天日干しの海苔さえも、求めるのが難しい世の中 になっているのが現実である。《少しでいいから、香りが口の中で溶けた、昔の海苔が食ってみたいね・・・》 他所者ではあるが、既に海苔の美味さを知っている私は、昔漁師さんに何時しか愚痴のように話しているのだ。 『婆さんの奴 去年の秋に石ころに躓いて骨折した右手首がやっと治ったというのに、又今度は庭先で転んで 左手を折りやがってよぉ、馬鹿が・・・旦那の世話どころか手前ぇの世話まで俺にやらせやがって参ったよ!』 《二人揃って暮らせる贅沢だよ、文句を言っても、返事する相手が居なきゃ喧嘩も出来ないよ、罰が当たるよ》 『家の中の愚痴を言うようだけどさ、婆さんが死んで、倅達家族と暮らすことになったけど色々と苦労だよ・・・ 汚れた爺さんのパンツをポンッと放り投げておく訳にもいかないものさぁ・・・』 《だってそれは仕方のない現実でしょうよ・・・相手を思い遣る気持を持たなきゃ、うまくは行かねえ世界だよ、 「爺さんと結婚したんじゃありませんッ!・・・」て、そう言われるよ》 骨董品の話しで熱くなったりする以外、何時も同じ事を喋っている様な気がする。然し男同士の話は案外サラッと していて、お婆さん達の会話のようにドロドロしないところが良い。同病相憐れむ会話、共通性老化現象と共感。 酒と女性の昔話。歯科医や眼科医の話題・耳が遠くなった話・孫が可愛い話・・・『もうこんな時間かい?・・・』 さしあたり、私は各位の愚痴を聞き留めて、自然治癒を指導する診療所のドクター、時々クランケである。骨董品は 漢方の働きであったり、感動や刺激を与える良薬だと信じているが、茶飲み話も又、お互いの傷口を舐め合う老齢達 への子守唄でもあるようだ。『ぴんぴんころり・ぽっくりさん』両手の皺と皺を合わせて?明日も頑張ろう! 三つ覚え 二つ忘れた 春の宵〈ご覧下さいまして有り難うございました〉
【今月のワンショットギャラリー】
【帝展・文展 師弟達の春秋〜池上秀畝・山川秀峰〜】
本作は画題が示すように、早春に咲いた椿の花が穏やかな美しさと香りを放ち、翡翠の素早い動きを 捕らえた筆が生きる。淡彩で色を抑えるように描かれた全体が、花弁が、光と空間の柔らかさを演出していて、 美しい春の情景を感じさせてくれる。花鳥の達人は流石である。自題として翡翠のことを翠雀と表現しているの が面白く、作者の粋が感じられる。神代杉の柾目で造られた見事な箱に納まり、表装に見合う象牙の軸頭が品良 く施されている。
本画を見ると、若き女性を描きながら、少しの横顔しか見せてくれ ない。だのに美人の表情をしっかり捕らえていて、それは哀しいほど美しい。恋を失ったのか・・・落ち葉が舞 う山路を往く彼女の物憂げな姿はいじらしくも映り、見事なまでの筆を思う。(上総古美術研究会々員所蔵品) |
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25 孟夏号【酒は憂いの玉箒】〜春下張果老に肖る〜
2006 6/20
薫風の窓を開けると、若葉の隙間から飛び込んでくる日射しが眩しい。梅雨の憂鬱は心の重圧だが、
僅かな時間がそれを忘れさせ、真夏に向かう色と匂いは甘く清々しいのだ。紫陽花に降る雨も悪くは
ないが、障子越しに眺める朝の晴れ間は格別の鳥瞰である。足腰の痛みや累積するストレスも、暫し
忘却の彼方に追いやって、ラジオ体操でも始めたい気持にさせられる一齣を楽しんでいる。
飛燕月と呼ばれるこの季節、毎年我が家を訪ねてくれる燕たちだが、例外なく今年もやって来た。 庭先で宙返りを披露して見せ、3〜4羽の親達が急しく巣の周りを飛び交っている。旧居を補修して 卵を産み、どうやら孵化した模様だが、今年は巣立ちまで無事に育つのか心配である。道路の向い側に 杉の大樹があって、四方が視界に入る恰好の場所に鴉なる先住者がいるからだ。何年か前、巣を壊され 悲鳴を上げていた親燕たちの声が耳に残っている。利口な鴉どもは、寺社建築の免震構造よろしく頑丈 な城を築き、蛇や外敵に侵されない位置と餌場を選んで、既に子育てをはじめている様子が見て取れる。 軒先の子燕が被害に遭わないよう庇ってやらなきゃ・・・。そう思う一方で、これは自然界での出来事、 鴉の赤子たちが、全身を口にして親が運ぶ餌を奪い合うのを見ると、ここは人間様が嘴を挿む場面では ないようにも思えてくる。燕達よ鴉に気を付けろ、頑張れ!帰燕月には親子揃って元気に旅立て! 先頃、親しくお付き合いを頂くお客様が、居酒屋を開業されたというので、お祝いを兼ね、我が愚息と 二人でその店を訪問した。葉桜は既に緑を深め、鯉が民家の屋根を泳ぐ夕刻である。少し体裁を加える なら、遠くは李白や杜甫、近松などの詩句に引く、まさに「春宵一刻千金の酒」というところである。 『 40年余りを生きて、父と二人で、外で酒を飲むなんてことは初めてですね・・・ 』 と倅が言う。 『・・・そんなことは無いだろう・・・』 と私。 そう言ってから暫く考えてみたが、言われてみれば、 酒を飲むというのは常日頃のことだが、親子二人だけで飲みに出掛けたという記憶は無いようである。 『・・・許せる範囲で、飲みに出掛ける時間と機会を造るようにしようか・・・』 父と息子との間というのは、母と子のそれとは違っていて、必要なこと以外は余り多くを語らない。いや、 その必要さえも話さず忘れてしまうことがある。だがお互いの意思は何処かで通じ合っているものである。 何処の家庭でも日本歴代の父子像とはそんなものではないのだろうか・・・と私は思っている。時々口角 沫を飛ばして議論することもあるが、それも最近では面倒、億劫が先行して黙ってしまうことの方が多い。 倅の嫁と孫に留守居を託して、父子で出掛けた道すがら、とりとめもない会話を交わしながら、お互いの 話しに納得したような相槌を打っていたら、約束の居酒屋に着いた。 吾妻家風の民家を改装したというその店は、近隣の老若が手軽に楽しめそうな店構えで、欅や古い杉板、 切り株などアイディアが駆使されて面白く、厚板で加工された長尺カウンターは素晴らしい作品である。 民芸仕立ての椅子に腰を下ろすと、しっくりと落ち着いた雰囲気。店そのものがアンティークだ。柱や 木材に染み込ませたオイルステインのアンバー色が店内の壁などに良くマッチしている。驚かされたのは、 内外装の全て・・・ライティングからメニューに至るまでを、店主自身が一人で造り上げたと聞かされた ことだ。若い力の独壇場である。ご夫婦二人で創作されたという夢舞台に心からエールを贈ったことだ。 地酒や、焼酎、酒の肴にも店主の拘りがあるようで、季節を物語って地元で採れた筍や、近海で漁れたと いう蛍烏賊が卓上に運ばれた。手作りや見立ての調度備品が良い。小皿、向こう付けなどには古伊万里の 器には染め付けや銅版。酒器は瀬戸の陶磁を色添えられていて、心憎いまでのお洒落な演出に感動した。 古美術・骨董を取り扱い、お買い上げ願う側の当方としては少々面映ゆく「参った!」という心境である。 美酒と美味い肴に酔い、程良いところでご馳走様をする。店を出ると何時になく夜風が心地よく、記憶に 書き留めておきたいと思う「春の酔」であった。 古今を問わず、季節を通して酒に纏わる語録や諺、詩歌などは何処にも存在する。中国の「列仙伝」には 唐代の仙人として知られる「張果老」がいる。書画や骨董・刀装具の図柄にも良く描かれているものだが、 日本では一般に「瓢箪から駒」という絵や諺がそれである。(有り得べからざるが能う、の意に用いられて いるが) 白驢に跨り一日数百里を行くという張果老は、休息時には腰に吊した瓢箪に驢馬を納め、出発時は 又煙のように取り出して驢に乗ったという伝説である。夏の盛りに白い五弁の花を咲かせる瓢箪(ひさご) は夕顔の変種とされるが、酒器や火入れ、柄杓、椀、水筒など、日用具、器として多用された物の中では 尤も古い物に類するようである。太閤秀吉が好んで「馬印」に用いたのも「千生り瓢箪」。又、瓢箪を六個 組み合わせて「無病息災」などと洒落で見立てた土産品も全国にはあるが・・・。奈仁和生まれという意識 があるのか、私も此の愛嬌ある瓢箪を愛している。瓢箪徳利を店飾りにして、お客様には「徳」を差し上げ、 その見返りとして僅かばかりの「利」を頂く・・・という寸法で、店主一人縁起を担いでいるのだ。 奈良時代、元正天皇が行幸され法典にまでなった「養老の滝」がある。岐阜県養老川の上流に聳える断崖 から流れる30メートルの滝だが『美泉を以て老いを養うべし』として天皇が命名されたという。年号を 養老(717〜724)と改められ、天平には「養老律令」が施行されるに至った。長閑な昔話と言おうか、 お上の粋な計らいとでも言うべきか、時代と悠久を思わずにいられない。養老之滝の水を瓢箪柄杓で掬って 持ち帰り、病床に伏す親に与えると薬酒に変じて病が治った、という親孝行伝説なども各地に残っている。 酒は百薬の長・酒に別腸あり・酒が酒を飲む・・・酒に対して、飲む人飲まない人、好む好まざるではその 評価はまちまちだろうが、祝儀不祝儀をはじめ、古来より酒は人々の生活から切り離せない存在のようだ。 万葉集に大伴家持の 『初春の初子の今日の玉箒 手にとるからに揺らぐ玉の緒』 という歌がある。(玉箒は、たまばはき・たまほうき、古語で「箒草」のこと)・・・養蚕の床を箒木で拭ってみると、玉の様に輝いて 緒を引く繭の美しさは何とも言えないものだ・・・と感動を表したものだが、後に近松文学の「女夫池」に も現れ『げに酒は憂いの玉箒』とある。玉箒は酒の異称に使われるようになる。酒は憂いを取り除くもの、 浮き世を忘れさせ、憂いを掃きすてるもの・・・に語意が転じたようだ。古賀メロディ・「高橋掬太郎」の 詩作ではないが「酒は泪か溜息か、心の憂さの捨て処」というところだろうか・・・。現在でもその名残は あるが、造り酒屋の軒先に大きなくす玉状の「箒草」や杉葉の球を見掛けたことがある。『酒箒』と呼ぶの だそうだが、古くから酒蔵の標識・看板のような存在として当世に伝わっているらしい。 夫婦酒・一人酒・未練酒・想い出酒・・・・演歌や流行歌の曲目に目を通すと「何とか酒」がいっぱいある。 ところが「親子酒」というのは眼に入らない。人情を織り込むにしても、親子酒では曲調がしっくり来ない のかも知れない。 落語の世界では可成り昔から、東西の有名どころが「親子酒」を演じている。酔っぱらった 親子の押し問答、禁酒の誓いを破って「出て行け!」や「天井が回る家なんぞに未練はない!」なんて話しは 誰が聞いても可笑しく、思わず笑いが込み上げてくる演目だ。江戸では「柳家小さん」などその名声は高いが 上方では「笑福亭松鶴」の芸が今も印象に残る。 話しのついでで恐縮だが、五代目の二男「松鶴」は「光鶴(大阪戎橋松竹出演の頃)」から「枝鶴(角座・千土地興行所属の頃)」 を経て、昭和37年「松鶴六代目(松竹芸能に移籍後)」を名乗った人である。決してその事情に詳しくはないが、 寄席好きには堪らない魅力を持つ人で、席が替わるたびに足を運んだものだ。「三代目桂米朝(現存活躍中)」とは気が合ったようで、 二人で古作や伝統落語の掘り起こしに力を傾注したと聞いたことがある。 松鶴の舞台はいつも酒を肴に花が咲いていた。表現は良くないが赤鬼が客席を睨みつけるような形相でお囃子 に乗って姿を現す。しゃっくりが止まらない時もあった。そんな時はそれを手玉にして別の笑いが広がったも のだ。 弟子は採らないという人だったが、今活躍中の人気者で最後の弟子(7番目)という「松福亭鶴瓶」は、 松鶴の自宅があった大阪粉浜に「無学塾」を開き、勉強会などを続けているという。最近その鶴瓶が師匠の昔 『酔松鶴』の真似をすることがある。声質や話の「間」を上手く掴んでいて思わず笑わしてくれる。師弟間の 「酒の間」も「親子の間」になり、上方の芸になったのは嬉しい限りである。 『色黒が白酒飲んで赤い顔、黄色い声で歌唱い後の勘定で青くなる』 松鶴が時々使った都々逸「五色」である。 「ゆずり葉」を「親子草」と呼ぶが、財も無ければ芸も無い私には、親の代が終わって子に残せる「譲り葉」 など何処にも持ち合わせはない。あるとすれば「その時々の想い出」ぐらいであろうか・・・。時間を探して 「想い出親子酒」を嗜むことも時に意義あるべし・・・と、自らの悟りにすり替える次第である。昔の大阪人 はこんな場合、「歌も唱わにゃ、屁もこかん」と、酒も飲めず味も素っ気もないお粗末人間を指したり、自嘲 するかに語ったものである。 梅の季節、梅酒の季節だ。女房が生前、自分の仕事のように梅酒を漬けていた。倅たちがそれをなぞるように 今年も梅を漬けている。冷たい梅香が喉元を癒してくれる季節の到来だ。私も決して酒飲みの器ではない。 酒はテレビや映画鑑賞、プロ野球観戦、懐メロ番組の友として飲む。あとは早く眠りにつきたい時の酒だ。 元気で頑張ろう・・・。元気で生きられるなら仕事は死ぬまで・・・そして生命は尽きるまで・・・だ。 「テッペンカケタカ・トッキョキョカキョク・・・」朝から喧しい。一羽のようだが時鳥がもう啼いている。 「卯の花匂う垣根」は既に見なくなったが、「♪夏は来ぬ」が聞こえて来そうな夏のイントロである。 今夜も飲むぞ〜!・・・一杯飲んで応援するから頑張れ!・・・『酒は憂いの玉箒』だもの・・・。
【今月のワンショットギャラリー】
【木村武山『雀の宿』】
木村武山(明治9年〜昭和17年)本名信太郎、茨城県生まれ、父は笠間藩士。23年に上京して「川端玉章」
の画塾に学び、東京美術学校を卒業。31年には日本美術院の創立に補員として参加、後正員となる。39年に
日本美術院の五浦移転で「横山大観」「菱田春草」「下村観山」らと新機軸を造る。家族を連れて移住を決意、
文展開設では新派の「国画玉成会」に院展を代表して参加、幹事や評議員を務めた。大正3年再興院展に経営者
同人・評議員として活躍。優れた技巧と色彩感覚で壮麗な花鳥図や仏画を出展し不動の地位と名声を築いたが、
昭和11年、改組帝展に出品したのち参与を辞退。翌12年脳溢血に倒れ静養することになる。右手が自由に
使えなくなり左手での制作を試みたという。『左武山』の異名を残している。昭和17年、66歳で没した。
瓢箪に遊ぶ雀を描いた図だが、親子であろうか、三羽の雀の動きが微笑ましく見える。茶墨に金彩をあしらって 藁や下げ緒紐のさりげない描き込みが良い。本幅は武山の晩年(昭和15年頃)作とされるものだが、右手の筆 を失って失意の底にあった武山が、門弟や作品の依頼人に応えた苦労の「左筆」のようである。所定鑑定人で、 孫の木村正夫氏に依ると『祖父が晩年よく描いた図で、これは何の絵?と聞くと、雀のお宿だよと言ってました』 ということである。長男「木村武夫」氏も日本画家として父武山の手ほどきを受け、院展で活躍し「前田青邨」 に師事したが昭和62年に79歳で亡くなっている。周りに凄いと言わせた「仏画の武山」の面影は此処にないが、 力を尽くしたであろう「左武山」の一幅は、鑑賞する者に心温まる感慨を伝え続けてくれている。 (紙本彩色縦幅・「所定鑑定人木村正夫氏・箱書き鑑題」 上総古美術研究会々員所蔵)
本作は江戸時代中期の蒔絵師『梶川家・彦兵衛』の作品である。初代彦兵衛は寛文年間(1661〜73)に 「扶持方」を賜る。天和には二代久次郎が継ぎ、松翠、桃秀、文龍斎と続いている。初代の作品には約束事と して必ず『梶川作』と銘を書き入れ、朱漆描きで壷印を伴うことが条件とされている。是真・寛斎で知られる 古満家や、雁金屋の子で光琳蒔絵と呼ばれた緒方光琳、幸阿弥家など、蒔絵師の作者や作品を一言では語れない が、徳川家お抱え「梶川彦兵衛」の作には格別の上品を感じる。桜花に春駒の図・高蒔絵の金漆に少し手擦れの 痕が気になるが、時代を考慮すれば許すべきだろう。四段重ね内側の金梨子地は見事に落ち着いた輝きである。 根付けは縞瑪瑙だが緒締部分の「丸環紅珊瑚」が素晴らしい。天地の小穴から紐通しの環をくぐって、二本の 紐が自在に移動できる仕組みである。思わず見取れてしまう逸品である。(上総古美術研究会々員所蔵品) |
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26 季秋号【嘘と坊主の頭 】〜嘘も世上のまことかな〜
2006 10/30(重陽・菊の節句)
薄の穂が時折り北寄りの風に押されて、遠くビヨロンの溜息が聞こえてきそうな秋の夕暮れ、ベルレーヌならずと
も落葉の悲しみが身に沁みる季節である。幼ない頃母が「蟋蟀が鳴き止むと寒い冬がやってきますからね・・・」
と独り言のように呟きながら打ち直した蒲団綿を広げ、綴じ糸を片手に冬支度に余念がなかった昔が蘇る。
旧暦でいう九月九日の今日は重陽・菊の節句だ。一月一日・三月三日・五月五日・七月七日と共に五節句の一つに 数えられるが、中国の陰陽思想が伝わって奇数を陽数とし、陽が重なって目出度い日、縁起の良い日とされてきた。 平安の昔から宮中ではこの日長寿を祝う「重陽の節会」があったが、歌を詠み盃に菊花を浮かべて酒を飲む慣わし は殿上人ならではの贅、それぞれの宮人が風雅を満喫されたことであろう。枕草子や紫式部日記などからもそんな 情景が浮かんでくる。『鼠ども天上(天井)人の真似をして・・・』という狂歌があったが、今夜は殿上人にでも なったつもりで、菊花に見立てた檸檬の輪切りをグラスに浮かべ、酒と親しみながらの四方山話しである・・・。 講釈師 見てきたような嘘を言い・・・ 決して講釈を垂れるつもりはないが『嘘』をテーマに採り上げたので 真面目に『嘘』を喋ってみたい。法学や哲学の『嘘と真・事実と真実』は方違いだから専門に任せるとして・・・。 『宗教の嘘』や『占い師の嘘』『報道の嘘』『宣伝広告の嘘』もあれば『政治家の日本語』などと言う嘘もある。 以前は医療で患者の心を和らげるための『良薬に替わる医者の嘘』もあったが最近では余りそれは使わないようだ。 「良くなりますよ、治りますよ」と言われると、もう駄目だと思う人にも元気を取り戻させ奮起を促す薬だと考えて きたが、現在では患者に真実を告げて、「現実を見つめて戦いましょう」と指導するのが一般的だそうだ。此の世に 嘘の存在は無限だが、物事の善悪や真偽ばかりに捕らわれて嘘と真を区別しようとすると、分別ゴミの搬出日を間違 えることにもなりかねない気がしてくる。大人は子供に嘘をつくなと教えるが、そのくせ平気で親達や先生方は子供 に対して嘘をつく。「嘘を教えない為の嘘」などと下らない自己弁護を口走る知人教師もいた。とは言え此の世に溢 れる人間の嘘はどの時代を切り取ってみても兎角やっかいな存在ではある。『嘘をつかねば佛になれぬ』などとまこ としやかな教えもあることだが・・・。 『明智光秀』が本能寺の変に至る前、丹波福知山地方を治めた頃の語録が残っていて『武士の嘘は武略(戦略)なり、 佛の嘘はこれを方便という。民百姓は嘘をつかない、嘘という言葉を知らないのだ・・・』と記している。世上には 嘘が蔓延るが、城下で汗する農民達が真を尽くす処から、その恩情政策を側近達に示そうとした文言のようである。 年貢米の取り立てに当たっては収穫に応じた指示を出し、農民達もこれに応えて米穀(米・栗・黒豆など)の生産に 努力を怠らなかった。農民からは神様・明智様と慕われ、平成の今も明智神社の祭礼では祭り歌にまで歌われている。 明智光秀の人間像を垣間見るようで、その時代を戦った武将の性格や心情が伝わってくる。武略の嘘を心に秘めつつ も農民達の『真』に対して『嘘』の矛先を向けられなかった明智光秀だったようだ。 太宰府や大阪、亀戸の天満宮では一月七日を中心に迎春行事として『嘘替えの神事・嘘払いの儀式』というのがある。 一年間ついた嘘を纏めて神様に申告してお許しを乞い、心の嘘をすっかり精算するというものである。木彫の玩具で できた鷽(うそ)という小鳥に託し、それを奉納するというから洒落ていて面白い。神社側でも上手く考えたもので、 お詣り・奉納を済ませた信者には新しい鷽を持たせて帰すという。その名の通り『鷽替えの儀式』なのである。実に 鳴(泣)かせる話し?ではないか・・・。人間とは本当に都合良く出来たズルイ動物である。嘘を象った塊のようで もある。自分の『嘘をまことに』置き換える為、僅かばかりのお賽銭を神様に丸投げして尻拭いをして貰おうという 魂胆だ。然し立ち止まって静かに考えてみると、可愛い嘘の顛末を自発的に語ろうという至極人間らしい行事であり、 寧ろ微笑ましく、お愛嬌と言うべき神事じゃないのか?とも思える。お叱りを受けるかも知れないが元を正せば全て が人間の造った嘘に始まっているからだ。嘘だと信じた嘘だから、誰もがお互いを嘘吐き呼ばわりなどしない。累積 した嘘を懺悔し胸撫でおろして、明日から又新しい嘘の旅が始まるということなのであろう・・・。天神様のお土産 に頂いた小鳥の竹笛を持って子供達は夜遅く迄はしゃぐ。『夜笛を吹くと蛇が出ますよ』大人は咎める。昔の幼子は その竹笛を急いで唇から離していたものである。 子供の頃の夏祭り、浴衣を着せて貰う時間さえもどかしく、祭囃子に胸躍らせて神社の石段を駆け足で上っていた。 境内に展開される屋台の賑わい、醤油やソースの匂い、かき氷を削る音に混じって呼び込みの声が一段と近づく。 香具師や覗きからくりの口上が聞きたくて、見易い場所を求めシートを巡らせた露店の最前列を陣取る少年である。 香具師の小父さんが売るのはブリキの缶に入った「万能薬」と称する黒色を帯びた粘性の塗布薬で「蛸の吸い出し」 と呼ばれるものである。商品を取り出して始まる小父さんのお喋りがとても面白かった。二尺余りの大刀を手にして 二の腕に斬りつけ、血が吹き出たように見せかけてはその血を口で吸い取る仕草をする。そしてその傷口に万能薬を 付けると忽ち血は止まり、手拭いで拭き取って見せると傷の痕迄が消えていた。 今度は柳行李から大蛇を取り出してきて自分の腕を毒蛇に噛ませるというのだ。ドキドキ、ワクワクしてくる。 少年は時代活劇の紙芝居を観る思いで身を乗り出して待った。「子供は行儀良くして其の場所から動かないように」 『もうすぐだぞ・・・今噛みつかせるかな・・・痛いだろうな・・・毒蛇に噛まれて小父さんは大丈夫か?・・・』 小父さんは蛇の頭を右手で掴まえ「さあッ!」と気合いを入れ乍ら左腕に蛇を近づける。破裂しそうな気持を抑えて 見ていると、又蛇を元の行李に戻して違う話しに切り替わってしまう。溜息を吐いては蛇の出番を待つ。二時間余り も気長に待っただろうか。とうとう香具師の小父さんは蛇に腕を噛みつかせはしなかったのだ。少し疲れを覚え諦め て歩き出した少年は、待ち切れなかったのは自分で小父さんが嘘をついたとは思わなかった。あれが小父さんの商売 なのだと気付いたのは、その後場所こそ違っていたが、同じような光景を三〜四回も見せられてからのことであった。 少年が香具師の口上に興味と感心を覚えた言葉は『嘘と坊主の頭だけは結ったことがない・・・』であった。 平ゴムという棊子麺に似たゴム紐を、角帽を被った詰め襟の小父さんが売っていた。『この大学生は偽ものだ!』 子供心にも直感がが走る。今なら差詰め風天の寅さんが胴巻きの上から学生服を羽織っているような恰好だったし、 帽章も付けず学生にしては白髪交じりの髭が妙に目立っていた。『訪問販売の天ぷら学生』が三面記事になったり、 周辺の家庭でも噂話や被害の実際を見聞きしたこともあったからだ。三尺の物差しを持って紐の長さを計りながら、 上手にゴムを伸ばしては寸法を誤魔化すのがとても愉快であった。当時は股引用のゴム紐などでも良質品は少なく、 風邪を引くなどといってよく切れたから、常備品としている家庭が多かった時代だ。 国防色の戦闘帽に白衣を身につけ松葉杖で立っている傷痍軍人が、相棒と立ち位置(場所)で喧嘩をする様子を見た。 そのうちお互いが本気になって殴り合いを始める。ギブスに包まれて良く見えなかったが、戦で失くした筈の片足が 気が付くと健脚に戻っていて仁王立ちになり、杖を竹刀に持ち替えて仲間と対戦しているではないか・・・。先程迄 片腕に付けられていた金具が如何にも痛々しく思え、見て見ぬ振りをしていた少年は、嘘をつかれた衝撃と不快感が 込み上げてきて、その軍人に憎しみを覚え許せないとさえ思ったことだ。振り返ってみれば戦中・戦後の時代世相を 反映した貧国の出来事であり、苦しむ人間が生きるための『ひと片の悲しい嘘』であったのかも知れないが・・・。 文学・芸術の世界では『上手に嘘がつけないような作家からは満足な作品は生まれない』などと大胆なことを言う人も いる。ご存知『永仁の壷騒動』では作陶家先生自身が造った嘘を実証させたくなり『嘘をついたのは私です』と言って 世間を混乱させた大事件があった。書家や絵師もそうだが脈々と繋がり伝承されていく作品にあって、粉本といわれる お手本を次第送りに写していく作業があるが、これは嘘・偽物と呼ぶものではない。突然作者の心の中に嘘や真が往来 することがその原因なのであろう・・・。物は嘘を吐かないが人間が嘘を吐くから始末が悪いのだ。収拾がつかなくな くなるような作品は沢山ある。真品以上に出来た嘘、真品なのに嘘にされた作品、そして嘘に真のレッテルが貼られて 世間を歩き出してしまうこともある。古書画では模倣作がその師を越えた時、銘の衣替えをしたくなって弟子筋や画商 の嘘が発生する。『糸落款・書き印譜』などが残るのはそれらを物語る部分でもある。 研究・経験・識見は重要なことだが自身が楽しむコレクション、所蔵する作品については欲深や伊達眼鏡を捨て真眼と 正眼で鑑賞できたものに限定されるとすれば理想の実現であろうと考える。『欲』が瘡蓋のように膨れるから『嘘』に なり偽物に発展していく。そしてその嘘を継承しようとする欲張りたちが手にすると又新しい嘘を増やすことにもなる。 『程度嘘』嘘とは言い切れない嘘は許されるべきだと思いたい。ところがどうしても許せない嘘がある。作品に憚らず 脈々と生き残る嘘という奴は抹殺しなければならない。ちっぽけな一骨董人が真剣をかざして向き合いたいと思う処で もある。だがご承知の通り国宝や重文・旧重美など、時には権威ある美術館の館蔵品にも大名やその時代の行司が差し 違えた嘘が混じることもあるのだ。スポーツ界の審判でも指し違えた嘘に悩む人も居ることだと思うが、古美術や骨董 の世界には『時代が残した嘘と真』の交差点が幾つもあって、信号に立ち止まる歩行者の難問は永遠のテーマでもある。 一般論だが『骨董屋は時代の嘘を平気で言う』と客は言う。だがこれは一口に『嘘つき!』と責められない処だ。何故 なら『その人の鑑識』が優先するからである。好きで始まる業者が多いことから一芸に秀でる人は居ても百般に通ずる 商人は少ない。通常は陶磁器などでも明治あれば幕末と言い、幕末あれば中期、江戸前期だとすれば堂々と桃山時代と のたまわる店主が多い。骨董屋が吐く大方の嘘がこれだが、不勉強・経験不足から生じる嘘もあるから困りものである。 時には未だ窯から取りだして湯気が出てるのでは?と思えるような品物を捉えて『大正〜昭和初期でしょうか・・・』 などと平気で言ってのける図々しい嘘つき伯父さんもいる。お客の方だって店主に負けていない。『裏の畑で採れた壷』 『爺さんが海で捕まえてきた鯨の髭』見え透いた嘘を並べ『値段が折り合えば買ってくれ!』と挑んでくる達人もいる。 私も骨董屋の欠片だから能書きや言い訳をを並べると嘘になるが、扱う商品については自負もあり責任を持った対応を しているつもりではある。可成り昔話しになるが、刀は初めてだという初老の質問で鍛刀過程の説明をしていた時だ。 「旦那は昔の製作現場にでも居たようだ、嘘でしょう」と不躾な言葉を吐く客がいた。最大の侮辱、不愉快千万である。 歴史と研究の積み重ね、学問と実際に頼ってきたことだから決して嘘など教えるものではない。受け入れられない人に は本当も嘘になるし、終生その人が受け取る本当など無い。木魚を叩くスティックでもあればその『すだれ満月』の頭 を思いっきりひっぱたいてやりい衝動に駆られたことである。自分の禿げ頭や説明不足を棚に上げて・・・。 話しを『嘘』に戻すが、最近まるで詐欺まがいの嘘が横行しているようだが断じて許されるものではない。そんな輩は 時代を巻き戻して『土壇場』に座らせ『袈裟懸け』か『市中引き回しの上張り付け獄門』が相当だろうと思っている。 滑稽で可愛げのある嘘は時に許せて楽しい。十五年も前のこと、所用で兵庫県の宝塚市に出掛けた時だが『清荒神』の 門前につづく坂道に、古くからお詣り用品の店や団子屋さん、花屋さんなどが軒を並べた二間幅程の石畳で出来た小路 がある。一角に骨董品と雑多な品物を扱う店があり立ち寄ってみた。十坪余りの広さであったと思う。天井から吊され た大きな短冊状の板になぐり書きされた看板文字が実に楽しい。『楊貴妃が使っていた手鏡・・・五百円』『クレオパ トラが使った口紅・・・三百円』『石川五右衛門が釜ゆでに遭った釜・・・五千円』『銭形平次の投げ銭と縞の財布・ ・・千円』『弁天小僧が吸っていた煙草の煙管・・・五百円』『ナポレオンが被っていた帽子・・・五百円』『小野小 町が纏っていた緋縮緬の長襦袢・・・千円』書き出せば切りがない程の能書きが並んている。大短冊の文字に引き込ま れて道行く人は思わず足を止める。女性達の甲高い笑い声が聞こえる。店の奥の方を覗くと何の変哲もないお爺さんが ポツンと一人、メリヤスの縮みシャツにステテコ姿で店番をしながら煙草を銜える。『頑張って下さいよ・お爺さん!』 アイディアに思わず脱帽である。滑稽・風流・愛すべき嘘を見た気がした。『嘘は世上の宝もの』という言葉が浮かぶ。 『嘘らしい嘘をつけ・真のような嘘をつくな』という諺がピッタリ似合いそうな真夏の小景であった。 ♪折れた煙草の吸い殻で貴方の嘘が分かるのよ・誰かいい人出来たのね・・・一緒になる気もないくせに花嫁衣装は どうするの?・・・一人の身体じゃないなんて・・・女があとから泣けるよな哀しい嘘のつける人・・・ 昭和49年、山口洋子の歌詞で夜の巷にヒットした演歌『嘘』である。男と女の心情を巧みに捉えた歌謡詩で当時流行 の優作だと思う。平尾昌晃のメロディ、コミカルなリズムもとても良く纏まっていて、両氏が最良のコンビネーション で多くの作品を送り出していた頃だ。死ぬほど好きな彼と暮らす部屋・・・帰って来ない・もうお終いかも?・・・。 脳裡に浮かぶ言葉は嘘・みんな嘘!・・・愛憎の間で女心は張り裂ける。でも打ち消したくなる貴方の嘘なのである。 男と女の数だけ恋は芽生え、そして又消える。世の中は男と女だけなのだが愛と憎しみは避けられない人生の行程だ。 吐かなくても良い単純な嘘を男はつく。女性の方はお利口で男の嘘など見抜いて先刻承知しているが、愚かな男は自分 がついた嘘に又嘘の上塗りをする。時間が経つと『俺が悪かったご免・・・』と言いだすのは男と相場が決まっている。 恋人同士でも夫婦でも、スタートから暫くの間「優遇税制」の残存期間中はお叱りを受けようが罵り合おうが、時間の 経過でお互いが許し合えるのは青春時代の特権だろうか?否、齢の差などには関わらず長年連れ添う夫婦間でも終わり が来る日まで『男の嘘と女の嫉妬』『男の夢と女の罪』は人が生きる証として続くもの・・・なのかも知れない。 ♪好きと言おうか嫌いと言おか 嘘と誠は両花道よ・・・ 懐かしいと思う方は可成り年増?老齢と呼ばれる御同輩 だと思うが、高橋掬太郎・大村能章の『小判鮫の唄』のワンフレーズである。嘘で始まるのが恋かも知れないし、人生 の道中なんて嘘ばかりではある。男女の愛や絆を二人が実感として捉えることが出来、嘘が無くなる日があるとすれば、 それは落ち葉も朽ち果てて人の世を閉じる季節だろう。ならば面白い嘘や美しい嘘を人は人生の隠し味に添えて楽しく 付き合って行ければ、それも又人間の生き方、此の世の処し方ではないだろうか・・・。 私は此の世を離れて彼岸に到着したら、真っ先に船着き場で待つ女房と逢う。そして『死んでも?お前を放さない!』 と改めて言うつもりだ。彼女も『本当?うれしい!』と応える筈。『でも嘘を吐いたら下界に突き落とされるわよ!』 と釘を刺されるかも知れない・・・。どうやら次の世も男には覚悟が要るらしい。針千本飲まされるのは嫌だが、人間 関係も商いも多少の嘘は物事を円満に運ぶ方便・・・『嘘は世上の宝物』ということにしておきましょうか・・・。 錦木は 枯れながらにて 咲きにけり お付き合い頂き有り難うございました
【今月のワンショットギャラリー】
【皇室所縁の刀匠作二題】
先頃、秋篠宮家「悠仁親王様」のお誕生に際し「賜剣の儀」が行われましたが、親王様のご生誕を心からお慶び申し上
げ、お健やかな御成長を祈念致します。日本国固有の伝統儀式、文化の継承は洵に感慨深く嬉しく存じ上げるものです。
嘗て明治天皇は愛刀家であり、刀への造詣を深くされましたが、帯刀禁止令や廃刀令などを抱えた難しい時代でした。
氏族の因襲的意義も失いかけた頃、ご自身が刀鍛冶の技術保存の向上に更なる努力を指示されたと伝えられています。
明治39年『月山貞一』と『宮本包則』は御所持になる御刀精鍛の功績に依って『帝室技芸員』を拝命しています。
昭和の時代に入ると軍事事情が許さない様々な困難に直面しますが、当時上手と言われた「堀井俊秀」「栗原彦三郎」 らは鍛冶の入門者の為に伝習所を立ち上げて後進の育成に情熱を注ぎました。今日の美術刀剣界を築くに至った尽力は 多大であったと思われます。 因みに「賜剣」の作刀を拝命した刀匠は今上天皇陛下明仁様守護刀が『月山貞勝・昭和8年12月吉日(貞一の子)』 皇太子殿下浩宮様は『龍泉高橋貞次・昭和38年8月吉日(貞勝の弟子)』此の度び賜れた秋篠宮家悠仁親王様には 『天田昭次・平成18年9月吉日(栗原昭秀門)』の各師が拝命、精鍛・作刀されています。明治時代、刀では少数の 『帝室技芸員』でした。現在は『重要無形文化財・人間国宝』の号を持つ方々です。古くは剣・太刀を賜わる慣習でし たが、現在は短刀になっているようです。今月のギャラリーは皇室所縁の刀匠「月山貞一・短刀」「堀井俊秀・刀」の 作品を取り上げました。(お粗末写真はご容赦下さい・店内展示中)
出羽月山「貞吉」の養子・弥五郎・大阪初代『月山貞一』の作刀である。天保7年近江に生まれる。7歳で「貞吉」
の養嫡子、作刀は嘉永3年15歳の頃より始まり実に70年に亘る。近代刀工の代表とも、鑑とも賞讃されている。
明治39年4月陛下の命により鍛刀、その功績により「宮本包則」と共に『帝室技芸員』の任を拝命した。備前伝
相州伝・大和・山城伝など古刀の各伝法に通じ、彫刻でも「栗原信秀」や「一竿子」らに並ぶ技量と評価を受けた。
晩年作には門弟で実子の「貞勝」による作刀、代銘作がある。又若年作には「父貞吉」の晩年を助けた代作、代銘
も残る。平成7年に没した同名「人間国宝・月山貞一」はその二代目であり、本稿に記す『帝室技芸員・月山貞一』
の孫である。「貞勝」は「本稿・貞一」の子である。大阪城下鎗屋町で鍛刀、大正7年7月・84歳で没した。
活躍の地、高津神社に程近い上町台地の路地(谷町4丁目近く)には記念する「月山貞一」の石碑が建てられている。
本作短刀は小板目が良く約んで肌に絡むように深く、そして細かく綺麗に沸える。刃文は互の目に丁子交り、帽子は 乱れて小丸に返る。明治33年8月『貞一66歳』多忙を増すが充実の年、優作である。製作時期、年代にも依るが 過去に経眼した作刀からは古作を意識したと思われる鍛刀で、所謂「肌物」と呼ばれる相州伝などの仕上げには彫り を施した作品が比較的少なく、細直刃・柾目鍛や無地風のもの、奥州に倣う綾杉物などには計算された見事な彫りが 入るという特徴があるように思う。茎の仕立て、鑢の美しさは知られる処だが茎尻の棟方→刃方に走る千筋の鑢目が 眼に飛び込んでくる。まるで隠し鏨のようで作品に対する丁寧が伝わってくる。他工では余り見ない茎尻である。 (上総古美術研究会々員所蔵)
一、刀 銘:瑞泉堀井俊秀(花押)・昭和十一丙子六月吉日 刃長:67,8p・鎬造り庵棟・反り:1,8p 「堀井胤明」の門で本名を「堀井兼吉」明治19年滋賀県下坂本に生まれる。志賀太郎と号した。明治38年に入門 の後、師の娘婿となる。大正2年、刀剣保存会から刀銘『秀明』を贈られ名乗っていたが、昭和8年12月『俊秀』 と改名する。それは12月23日、皇太子・明仁親王殿下(今上天皇)がお生まれになり「明仁親王」の名に憚った 為と言われる。 作刀は備前伝の華やかな丁子乱れ・五の目が多いとされるが、本作もその掟に従うように新刀特伝の 備前伝を彷彿させる素晴らしい出来である。五の目に逆掛かった丁子刃を焼き、バランスの良い反り、姿は美しい。 作刀の時代などを考慮して眺めると地金の良さに驚く。昭和の前半を代表する鍛冶と評判のある一人だが頷けそうだ。 当時文部省主催の新作刀展覧会では入賞の栄誉を受けている。本作は俊秀が49〜50歳、円熟の作刀だと思われる。 昭和18年57歳で没。北海道堀井一派は現在も脈々とその流れを継承され、愛刀家にとっては喜ばしい限りである。 (上総古美術研究会々員所蔵) |
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27 季春号【鑑定団の光彩 】〜四方山鑑定談〜
2006 4/8
暖冬の二月が過ぎ、花見の支度が整った三月には一変して激しい寒の戻り。
一日中どてらの脱着に追われる変調の節気であった。
春の風物詩・・・桜の花はやっぱり美しい。だが南風はあっという間に
容赦なく花の命を打ち払ってしまうのだ。散る為に咲いたと言うなら、
天に従うべき定命なのであろうか・・・。
灌仏会、朝の散歩で川畔の桜を眺める私の頭上を、少し気が早いのでは? と思う燕たちがスピードを上げて飛んで行った。暦というのは上手に季節の 辻褄を合わせるものである。 景気上昇のお題目など、零細商人や庶民には無縁のお伽噺だが、貧乏にも 与えられた天下平等の春景は有り難く嬉しい。 午後の縁側に胡座をかいて布切れを広げ、時代の垢を纏った骨董品を膝の上 に抱きあげる人がいる。アンティークの世界を楽しむ一時、まるで歌舞伎の “スッポン”から迫り上がった役者の出で立ちよろしく、その眼を輝かせ、 時に細めて長閑な時間を楽しむ数寄者達、それは古美術骨董を嗜む者だけが 共有できる空間・・・それぞれの個性を表わす独壇場なのかも知れない。 テレビ東京で開運! なんでも鑑定団の放映が始まって 13年が経過したという。 先頃、年度末特番でそんな紹介があったが、視聴者の心をしっかりと掴んで、 茶の間を退屈させない努力に頭が下がる。少なからず骨董・アンティークなど 愛好者には刺激や喜びを与えてくれていることである。全く興味がなかった人 にも未知の世界が広がったようである。これからも継続し発展されるであろう 『鑑定団』に感謝を思い“14周年突入おめでとう”のエールを送りたい。 美術骨董品に携わることで、お客様から「先週のあれはどうなんだろう?」と 問われることがあり、私の場合鑑定団を見てないと、不勉強の烙印を押される ことにもなるので、毎週欠かさず観賞させて頂く番組の一つである。 テレビは視聴率がものを言う世界だそうだが、番組の内容や性質などを思うと、 製作スタッフの苦労の跡が窺え、此の種の番組をバラエティ色豊かに創造され、 放映に繋いだトップやプロデュースの意欲に感服する。島田紳助氏や石坂浩治氏 を司会看板に抜擢されたことも、高視聴率をもたらせた要因であったと思う。 番組が始まった当初、正直言って私は長続きは難しいだろうと思っていた。 面白可笑しく採り上げ、笑って貰って会場が沸き、希望価格に落ちが付くという それだけに終始したのでは「骨董数寄者」達の観賞意識を削ぐ結果に陥らないか? 一般人の興味を引っ張って行くことが出来、みんなついて来てくれるのか? 美術骨董品についての古文化や歴史を説く番組なら、既に同局は素晴らしい作品 を放映してきた経緯もある。学術的鑑定番組だったり、一握の天井人を擽って、 庶民を驚かせたり感心させるだけでは、視聴者を限定してしまったことだろう。 或いは現在有る人気番組には成り得なかったとも思う。「団塊の世代」が当代の 主軸を占める今、そのジュニア迄がこの世界に参入したことも、高視聴に拍車を 掛けた所以かも知れない。階段世代(枯木の坂道世代)は時間と共に鳥辺山の露と 消える定めなのだから・・・。ともあれ、次々と研究がなされ、テレビの前の 視聴者に笑話を交えて、喜怒哀楽を与える番組になったのは楽しい限りである。 司会のご両人、石坂浩二氏はご自身が絵を描かれることでも名があり、古美術に は造詣が深く鑑識にも明るいお方である。島田紳助氏はご承知の売れっ子芸人で シャープな会話やステージでの活躍はあらゆる年齢層に認知されているところだ。 彼の代役が勤まる人はいないだろうと思えるハマリ役である。島田洋介・喜多代 という関西夫婦漫才の門に入ったのが彼のスタートラインだが、独特の切り口で 捲し立てる大阪、京都弁は今や全国の茶の間を虜にしているようである。 鑑定士の諸先生方も故人になられたり、入れ替わったりしたことだが、臨機応変 の対応をとられて、最近では安定し楽しく見られるようになった。陶磁関係担当 の「中島先生」は出発当初からの中心的存在だが、鑑定の壷を心得ていて全国的 人気もあり驚く勉強振りである。「永井先生」は洋画家関連を専門に鑑られるが、 実直な説明には好感が持てると評判だ。「阿藤先生」も真面目。日本画、掛け軸 の「安河内先生」「田中先生」は個性の違いこそあれ素晴らしい鑑識・鑑定眼で ある。玩具の「北原先生」も蒐集から培われた見事な識見を持たれている。 刀剣、火縄銃、古文書、人形、スポーツ関連等々出品される品物に応じた専門職、 識者の先生方による的確な鑑定が行われ、担当分野で示される適正評価と談話は 視聴者にとって、この上もなく貴重な参考になっていることだと思う。 嘗て鑑定士に名を連ねた人のうち、西洋アンティークの「岩崎氏」古民具を担当 された「安岡氏」のことを懐かしむ声が多い。お元気でご活躍のことだと思うが、 機会があれば顔を見たい、というファンの願いがあったので代弁しておきたい。 テレビやラジオの公開録画・録音は、最近では一般人もその要領を知る時代だが、 歌番組やショーステージとは趣が違って『鑑定団』の難しさを知る機会があった。 何処から来た話しだったか忘れたが、4〜5年前のこと、倅の嫁さんが案内を頂き 見学したいというので、孫息子を伴ってテレビ東京のスタジオに鑑定団の録画撮り を見に行ったことがある。自分の店を番頭さん(倅)に託して・・・。 テレビで見るあのお決まりのセットで、舞台下手に鑑定士群団が鎮座、島田紳助氏、 石坂浩二氏らが中央にスタンバイ。観客は誘導に従って定位置に座る。口を閉ざし 神妙な顔が居並び、さて『開運何でも鑑定団』のはじまり、はじまりである。 其処まではごく普通の展開で特別ゲスト、鑑定依頼のお客が次々に紹介されていく。 教えられた通りに拍手が沸き起こり、中央の台座にお宝が乗せられて出場となる。 ゲスト出品者にセンタースポットが当たり、お宝にも(この時の品は伊万里の大皿) ボーダーライトが当たった。 困ったことに、ステージから離れた位置の観客席からは品物の詳細が確認できない。 何も見えないと言う方が正しいかも知れない。モニターで画面を見せて貰うのだが、 どこに目を向けるべきか?全員が別々の方向を探索し始め、観客の頭は動き続けて、 片時もじっとしていない。果たして古伊万里の器はどんな顔をしているのか? 直ぐに気が付いたことだが、観客達は放映作品のお手伝いを担っているのだから、 品物をゆっくり観賞できる様な状態ではないのだ。無理もない、放映用録画撮影 なのである。「お宝」は口を利かない主役だが、持参する出品者も主役である。 両サイドからタクトを振りながら会話、進行を造っていく紳助氏、石坂氏も通常の 司会者ではいられない。全体を取り仕切る「中心演者」でなければならないのだ。 出品物と出演者の表情、司会者と鑑定士とのリレートーク、毎回のことで慣れては いると思うが、そのカメラワークやスタッフの能力に驚いた。電波に乗って茶の間 に届く頃、編集で見せるであろう巧みな技術力を想い、年寄りは只々感心すること 頻りであった。後日放映された『鑑定団』は予想通りの作品に仕上がっていた。 地方での出張鑑定や収録は状況なども違って、殊の外大変だろうと思ったことだ。 『鑑定団の特等席』は我が家のテレビの前であることを改めて知らされたのである。 『なんでも鑑定団』という幅広い間口のタイトルに「中高年鑑賞団」は格別の楽しみを 覚え、時には私など教材にもさせて頂いている。苦言を呈することなど見当たらない が、希望的観測を含めて、お客様の視点や意見、感想を拾ってみた。 当店のお客様の中にも、鑑定団の査定や評価について『何であんなに高い?安い?』 と聞く人がいる。此の道では強い、弱いという言葉を時々使うが、鑑定士が特に好み、 愛情を注いで取り扱う専門分野だから、人一倍“良いもの”への拘りや思い入れが 強く働くこともあるし、又その逆もある。流行や人気に左右されるのも理由の一つだ。 『評価金額は品物の後からついてくるもので、市場性と売買上の想定価格と理解して 頂ければ良いでしょう、決して共通価格でも全国相場でもありません。此の一点しか 世界に存在しない物、特に得難い品などもあり、時勢や状況にも強弱を示すものです。 真贋や作域などがその結果を決定づけるのは当然ですが、同一品がある場合は程度や 保存状態(コンディション)で全く評価が違ってくることもあるんです・・・』 評価や鑑定価格について不思議を訊ねるお客様に、私はそんな説明をしている。 放映日の翌日、水曜日は何人かのご常連様『鑑定団観賞者』が来店する日である。 『鑑定団の合評会』になってしまうので、渋々というと叱られそうだがお付き合い に応じている。毎週何故か『鑑定団』に代わって言い訳をしている様な自分がいて、 あとで一人、笑ってしまうことがある。 番組製作上、高額と思わせた物が安値だったり、拾った物がお宝だったり・・・ 然しこれらは世の中の実際、巷には時々そんな話しが転がっているものだ。 評価額は鑑定士が個々の鑑識に基づき、市場価格などを勘案して決めるのだが、 格別の珍品や未見のお宝に高額が提示されるときには、業者感覚で見ても頷け、 同感だったりすると『良くご覧になった』と鑑定士に表敬を思う時がある。逆に 市場価格を一個人が造り変えるのか?業界に影響は無いのか?と思うような評価 をされることがあり『ん?』と頸を捻るときが何度かあった。決してそれを詮索 するものではないが、全国の座敷や茶の間には大勢の数寄者も居れば識者もいて、 敏感に物事を捉えていることを認識して欲しいと思う。バラエティー番組だから、 と言われてしまえばそれまでだが・・・。 出品されるお宝の作者作品についてのナレーションを褒める声が多く聞かれた。 説明に無駄が無く、要領を丁寧に、時には簡略に視聴者が理解しやすい言語内容 が使われていて分かりやすいと評判である。アナウンスの声にも同票が集まった。 最近「鑑定団」のホームページを見る人が多くなった様で、仲間や高齢の一部の 人も時々覗くことがあるらしい。前回放映の評価についての“おさらい”は良いが、 希望金額と評価額の記入だけではなく、放映時の内容や談話を紹介文として簡略に 掲載して欲しいという意見があった。(特に出張鑑定などの)会話や問答、出品に 纏わるエピソードを、番組の絵と共に再度認識したいという希望のようである。 当店は千葉県木更津で営業する骨董屋さん。近県で荷揚げした採れ立てのウブ品を 地域の愛好者と一緒に楽しませて頂く、いわば“半商半楽”の骨董屋である。 “糊口さえ凌げれば道楽が儲け”を自覚しているので、稼ぎは思うに任せないが、 品物を見つける期待と漁り当てたよろこびは大きい。『鑑定団』がスタートする少し 前のことだったが、書画幅の鑑定を担当された「故渡邊包夫先生」が時々来店されて いて、お喋りを楽しませて頂いたことである (四方山噺第二話・鑑定の色々)。 スマートにお歳を召された「お坊ちゃん先生」であったことを今懐かしく思う。 当時は私も元気が良くて、言葉遣いは従順乍ら、絵の鑑賞・鑑定では先生の意見に 真っ向から反発していたものである。『絵筆を持つ私が言うことに間違いは無い』と 仰有る先生の言葉には信念があり、確かに一理有りだ。その場は逆らえなかったが、 お帰りになった後、煙草をくわえながら逆論をぼやき呟いていた私である。 先日千葉県大多喜城下の夷隅市郷土資料館で狩野派展があり、正信の生誕地である 渡邊先生の郷土に足を運んだ。狩野派は広域のお抱え絵師軍団だが、当資料館にも 舘蔵品を含め地域寄託の諸作品が展示されていて、久しく一日を楽しませて頂いた。 『四十にして惑わず、五十にして天命を知り、六十にして耳従うなり、七十歳にして 心の欲するところに順って矩り越えず・・・』ご存知孔子の語録だが、意の儘に振る 舞っても道に外れることはない七拾歳、ということらしい。凡人はそうもいかないが 閉じた人々の折り節を振り返ると、みんな立派な教訓を残してくれていることを思う。 自分たちの故郷・郷土には誰もが誇りや自慢があるはずである。当地木更津は市制が 敷かれて65年、今秋『何でも鑑定団』の出張鑑定がやってくるそうだが、商圏不振 を払拭出来るような文化や芸術分野への意欲を、市民全体が高めていく機会に繋げて 欲しいものである。私は『道楽の伝承』を古美術骨董の愛好家として大切にしたいと 願う一人である。『道楽』を誤解されたくないが、生活と歴史の中に育ってきた物へ の愛着、思い入れの品々を次代に申し送ることは、長老たちの為すべき責務では? とも考える。形ある物ばかりではない。環境も習慣も、記憶にある全てが家宝であり 各家の文化的遺産、後裔に残すべき心の遺産ではないだろうか・・・。 9月初頭、新暦の白露・重陽の頃であろうか、郷土の誇りと自慢のお宝を引っ提げて 『出張何でも鑑定団in木更津』に大勢の愛好者が集まってくれることを期待したい。 併せてテレビ東京『何でも鑑定団』の更なる飛躍発展、成長を祈念して・・・。 雑文きにお付き合い下さいまして有り難うございました。木更津・なにわや亭主
【今月のワンショットギャラリー】
中林竹洞 筆・蘭亭曲水図(絹本著色縦幅)
中林竹洞は安永五年名古屋に生まれる。京都に出て活躍、元・明の画法を
修めて一家を成した。その性格は営利を好まず貧骨に徹したと言われる。
頼山陽と深く親交を持ち、山陽は竹洞を人生第一の友なりと記している。
堅物だが剽軽な一面を覗かせて、竹洞を名乗る以前、山本梅逸と二人で
訪れた寺で観た「竹梅図」が見事であったことから、竹と梅を振り分け
各々の号に命名したという逸話がある。西陣で織らせ、門下や他者には
使用を禁じていた“竹洞絹”を梅逸にだけは使わせたとも言う。梅逸と
竹洞は子弟を離れ、画友としての付き合いであったようだ。
晩年は嫡子で門弟の「竹渓」を後継者とし、自らは著作文筆活動に専念、 著書や画論が多く残されている。嘉永六年七十八歳で没。明治になって 京都真如堂に門人達が墓碑を建立、富岡鉄斎が詩文を刻んでいる。 本幅は平安の昔より日本にも多大な影響を与えた王義之の「蘭亭序」に 筆意をとる。池大雅や与謝蕪村をはじめ多くの儒者や文人画家が好んで 描いた画題で往古の夢を偲ばせる作品である。“万物の劇旅・浮生の夢” に文人達が心を重ねた人世を思うと、唐詩の幻想が甦ってくるようだ。 淡彩色を使って品良く表現され、桃李や柳色、曲水に遊ぶ人物の表情を 実に豊かに捉えていて季節感溢れる優品である。壮年期の力作であろう。 (上総古美術研究会々員所蔵)
清原雪信(ゆきのぶ)名を雪子という。久隅守景の娘で狩野探幽の姪孫、
探幽門下の清原氏に嫁ぐ。探幽に画法を学び、父守景にも教えを受けた。
「近古閨秀画家中第一」と呼ばれている。作風は多様だが源氏絵・人物、
などを良く描いている。又繊細な筆遣いで大和絵風を見ることもある。
夷隅資料館々蔵の「花籠之図」は横幅小品だが、彼女の作品としては嘗て
経眼しない華やかさと落ち着きがあり、斬新を感じる作品に思えた。
元禄10年(一説に天和2年とも)40歳で没。
『落雁図』雁は古くから東洋絵画の画題になるが、群れ渡る雁は矢羽根形 になったり、一列に並びを変えたり、外敵を欺く為に共同作戦で飛ぶ技を 心得ているらしい。千鳥、都鳥などの別名を持つ彼女達は、夕月の明かり を頼りに鳴いて飛ぶ。水墨に藍彩を施して夕闇迫る雲間と波上を行く雁の 躍動感がうかがえる作品である。 (上総古美術研究会々員所蔵) |
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28 季秋号【 雑稿・めおと流れ旅 】〜懐旧蒼き十三夜〜
2007 10/23
今年は春先から異常気象に戸惑い、夏は猛暑に悩まされた。鶯と時鳥が同時に啼き始
めたり、時季を追って鳴く蝉の種類まで例年とは違っていた。自然界に不自然を覚え
た季節の所産である。乱気流の政情にも振り回されたが、気がつくとすっかり秋だ。
公園には無数の団栗、こんな年は冬の訪れが早い予感がしてくる。老兵達にはそろそ
ろ炬燵の支度をする季節がやって来たようである。
九月、敬老の日を前後に孫の運動会があり、代替休日が定休日に重なるということで 『敬老の意も含め、箱根の山頂で昼ご飯でも一緒に、というのは如何ですか・・・』 と若夫婦に誘われた。此の処商機に恵まれず、贅沢も出来ない現況を心得た上で、気 分転換を爺さんにプレゼントしようと計画してくれたようだ。有り難く受け入れ賛同 する。房州からはアクアライン〜京浜経由〜東名高速町田I.Cに乗り入れる。厚木〜小 田原道路や箱根新道は時折使う道だが、都心を避けて走った所要時間と走行距離の短 縮効果には些か驚かされた。木更津を発って丁度二時間、車は既に芦ノ湖畔を走って いて、瀟洒なカフェに止めて休息できたのである。 知り尽くしたつもりの伊豆箱根方面だが、ステアリングも到着地点も全てを若い者に 任せて、私と孫息子は後部座席に身を委ねていればいい。助手席にはママなるナビゲ ーターも居るからだ。初秋の富士山を遠く近く眺めながら、ふと走り続けてきた人生 の時間と、嘗て地図を頼りに『右よッ!左!やっぱり右!』と女房の声に誘導されて 辿り着いた湖畔の記憶を、車窓からの真景に重ねて只々懐かしく思い起こしていた。 『ねえまだ着かないの・・・あと何分走るの?』と車中でむずがっていた昔の倅は今 運転席でハンドルを握っている。『ジュースがほしい』と声を掛けたのは、爺さんの 隣に座る孫息子である。おとぎの国を行く様な不思議な思い、何だか言いようのない くすぐったさを覚えたのは、多分高原の秋に頬を撫でられたせいであったろう。 ロープウエイで駒ヶ岳の山頂に着く。もうすっかり秋が広がっていて高山植物の仲間 だろうか、日頃見慣れない草花を散見する。身体中を朱色に染めた秋アカネが群舞し ていた。展望台からは遊覧船の波しぶきが光る芦ノ湖の湖面や、山肌をゆったりと包 み込んで移動する雲海の様子がとても美しく、正にたらし込みで描かれる墨絵そのも のである。『こんなに綺麗な雲海は珍しく、今日のお客様はラッキーですよ・・・』 ロープウエイでの案内であった。各地で体験はしているが雲海の光景は本当に素晴ら しい。展望台に立つ大方の人が口々に感歎の声を上げていた。手摺りに掴まって遠方 を眺めている高齢と思しき二人組の女性がいる。その片方の人が被っている白い鍔広 帽の天辺あたりに紅蜻蛉が止まっているのを見つけた。ずっと周辺を飛び廻っている 秋アカネだ。何処かで見た懐かしいポーズ・・・そうだ、家族旅行を収めたアルバム のページと全く同じシーン、構図である。忘れていた昔の断片が急に甦ってきた。 約30年も遡る夏の終わり頃、やはり旅行の道中だった。谷川岳の万年雪を望む展望 台に立って記念写真を撮っていた時のことだ。街では厳しい残暑が続くのに、山頂は もうコスモスの花が満開である。妻が被っている顎紐のついた白い鍔広帽に紅蜻蛉が 羽を休めた。私はそっとカメラを近づけて『じっとして・・・動くなよッ!』と小声 で話しながらシャッターを切った一枚の記憶である。想い出の写真と今眺める情景の 懐かしさが妙に増幅されて映り、私は不慣れなデジタルカメラをいたずらに操った。 孫息子と手を繋いで頂上をしばらく歩く。ロープウエイを降りて、みんなでお好みの 昼食を済ませると水族館やゲームコーナー、土産物店などを一巡り。子供達が喜びそ うな設備は盛り沢山で退屈させない。帰路の混雑を予測して車は箱根周辺を後にした。 敬老の日を有り難く感じた秋の一日である。『雲海の 丁子の谷や 今朝の秋』 『うちは今 何にも言うこと無いわ・・・しあわせや・・・』20年前、昭和の元号 が終わりに近い頃であった。周囲の協力を得て一週間の銀婚旅行が実現した。山深い 東北の湯治場に宿泊して夕食時に突然妻が私に発した言葉である。ボキャブラリーに 乏しい女性であった。関西弁を貫いて意思に飾り偽りなく、自分を素直に表せる女性 であったが、換言すればガラガラしていてお世辞が言えない直線型。そのくせ少々照 れ屋なのである。好きだとか、愛だ、恋だ、という言語を、私は一つ屋根に暮らした 最初から最後まで彼女の口から一度も聞いた覚えがない。だから私はその時ドキッと して、晩年の胸がチョッピリ熱くなったことを記憶している。『なんにも言うこと無 いわ・・・』は、至福の喜びに在ると表現しようとしたもので、たった一度の私に対 する愛の告白であったのだと私は思っている。銀婚の年月と記念旅行が彼女の心をそ んな気持にさせたのかも知れないが・・・。『半輪の 秋照らす旅 めおと道』 振り返ってみれば私たちは「我が儘」と「気儘」が肩を寄せ合う様な夫婦であった。 三畳一間に半間の押入、裸電球と蜜柑箱、箸と茶碗が振り出しという、昔なら何処に でもありがちな夫婦旅の始まりであった。出発の記念旅行をしようと吉野山の千本桜 を見物した帰り、お里沢市の霊験記で知られる『壷坂寺』に立ち寄り、両手を合わせ てちっぽけな夢を語った昔である。サクセスストーリーを描こうと気を吐きながらも 40円の煙草が買えない日があった。そのうち小商いが出来て人並みな暮らしが立ち、 我が家も持てた。子供も成長して良縁を授かり、やがて孫にも恵まれた。さあもう一 番勝負、これから残り仕事の総仕上げ・・・という処で彼女は夫婦舞台から去ってし まったのだ。人の一生は長い旅の道中だと他人は言うが、歌の文句や物語に言うほど 旅の時間は長くない。気が付けば終わってしまう道程、本当に僅かな夫婦道である。 平成10年、NHKで朝の帯ドラで『ふたりっこ』が放映されたが、その劇中歌に唱 われた河合美智子の演歌に『めおと道』がある。紅白歌合戦の舞台にも紹介され脚光 を浴びたことだが、丁度その頃、女房は若年痴呆症(ピック病)と診断されていた。 驚きと戸惑いの時間より症状の進行の方が早いという状態である。彼女は毎朝ドラマ を楽しみに見ている・・・と思っていたのは私だけだった。番組の内容を把握するど ころか、終日テレビ画面だけを虚ろに見つめる日々が続いていたのだ。南房の病院に 通院する道すがら、口さえ利けなくなっていく彼女の横顔を見ていて、これが旅行中 の行程ならどんなに楽しいだろうと思うと辛かった。歌を忘れた金糸雀・・・彼女を 殊更に愛おしく思えた。だが介護の現実に戻ると何も理解出来ない、理解してくれな い妻を何時か叱ってしまっている自分がいて今度は自分を責める気持になる。別の悲 しみが込み上げてくるのだ。泣きたい時があった。彼女を抱きかかえて泣いた。自分 の気持をどう切り替えてみても、涙がとまらなかったのである。 時が過ぎた今、あの苦しかった時間こそ二人で歩けた最後の旅行であったのだと思え るようになった。めおと道・・・想い出の中にしか住めない「おまえ」だけど、二人 で歩いた旅の昔話でもしようぜ・・・。落書きを終えた窓の外、今宵は十三夜である。 酒を借りて一言足せば、改めて此の世で心底愛せた女性は女房だと知らされた夜だ。 本当・・・この期に及んで武士に二言は無い・・・。河合美智子は、オーロラ輝子は 今日も何処かで『めおと道』を歌っているだろうか?世の中は次第送り、次世代とい う言葉が駈けめぐる気忙しい現代だが、若い者達にもこれからの人生で夫婦の真の情 愛を感じて過ごす晩年がやってくることだろう。それぞれの夫婦が辿る『めおと道』 通り過ぎ、互いが枯れて始めて見えてくる懐かしい道程のように思えてならない。 君が逝き 歳を重ねて年ごとに 恋しと思う 遠き日の悌(かげ)・・・ ・・・何夜亭 雑文にお付き合い下さいまして有り難うございました。木更津・なにわや亭主
【今月のワンショットギャラリー】
鍔・刀装小道具の鑑賞
刀や太刀の製作年代と同じだけの歴史を持つ刀装具・小道具だが、時代によって実用
に供された作品から刀の為の装備・装飾・用途、所持者の身分に依る格付けや意匠等
々簡単に説明することは難しいものです。後藤家を始とする金工師や、鍔一枚をとり
上げても古くは応仁・鎌倉・法安・刀匠・甲冑師など様々で、材質についても、鉄・
素銅・真鍮・山銅・金・銀・四分一・七宝・蒔絵などと細工によるあらゆる工法に分
かれます。江戸〜明治時代には刀匠に追従したり、全国に各家、流派が拠点を造って
注文に応じたようです。刀は嫌いだが鍔や刀装具は場所をとらないし、図柄・意匠が
美しく楽しい、と近頃愛好者コレクターを多く見受けます。当然ですが美術品の仲間
です。刀以上に煩雑で難しい面もありますが、案外入りやすい側面もあるのが刀装具
のようです。何と言っても手の平に乗る小宇宙があり、そこに広がる美の世界は計り
知れない楽しさです。今回は当研究会会員所蔵品から、優品、逸品と呼ぶに相応しい
鍔・小道具を採り上げました。掲載の作品は全て(財)日本美術刀剣保存協会が発行
する『保存・特別保存刀装具鑑定証』が付されています。
揚羽蝶三双図目貫 無銘・古後藤 赤銅地容彫金色絵・陰陽根
瓢箪鯰図目貫 無銘・奈良 山銅地容彫、金色絵 (上総古美術研究会々員所蔵) |
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29 孟春号【通天閣高い】〜大阪ラプソディU〜
2008 2/12
平成20年の幕が開いて春の気配も近付いた様だ。年が改まって何がどう変わる訳でもな
いが、誰もが共通認識で迎える新年には何処か格別の厳かを感じ、緊張感があって良いも
のだと思う。各家庭で年頭行事は様々だろうが、戦後の食糧難時代も昔人間は許容の中で
お節料理など迎春の祝事を大切にして来た。世相も環境もすっかり様変わりして、新語や
略語が認知される時代だが、慣習や地域文化は後裔に伝えるべきもの・・・と一人思う。
歳を重ね老春を指折るたび駈けめぐる幼少への回想である。今年も丹波の黒豆、鰊の昆布
巻き、数の子が食卓に並び、思わず口元をほころばせたことである。
大阪南地の戎橋筋や道頓堀川が大きく変貌したという。えびす橋が新しく架け替えられた のだ。“新橋”にケチを付けるつもりはないが、想い出の昔を歩きたい旧来の大阪人にと っては、記憶や懐かしさ迄がそっくり掻き消される様で少し寂しい気がする。とは言え老 朽化が進んだこともあったようだし、橋や周辺の構想には長い年月を費やし、一般公募に 依って選定された設計だというから“跨がなければならない時代の橋脚”だったのかも知 れない。振り返ってみれば、長堀橋に地下駐車場が出来た時も市電が消えた時も驚いたし、 御堂筋や堺筋が一方通行になった時は殊更に戸惑いがあったものだ。都市の成長や改革の 流れに、個々が好き勝手な棹を差すのは許されないことなのだろう。 『昭和は遠く・・・』最近良く耳にする言葉である。団塊世代が膨らんだせいか、高齢者 が溢れたからかは知らないが、昭和は既に昔と呼ばれ、懐かしいと思う人が増えた様だ。 それも懐かしきは昭和30年代の・・・という。私の青春時代も丁度その辺りにあった。 学友と、時には彼女の手を取ってミナミを闊歩したものである。リーゼントが流行り、街 中の若者がマンボズボンに身を窶した時代だ。昨今喫茶店が少なくなったが、当時は仕事 でも仲間との約束でも、待ち合わせ場所は喫茶店だったし、一人でも珈琲を一杯、という 風潮があったものだ。門並み「純喫茶」「音楽喫茶」の表札を掲げて、駅周辺や都心では 五メートルも歩けば喫茶店に突き当たるほどその数は多かったものである。 難波高島屋から大劇通りの入り口に「桟橋」という店があり“逢うも別れも桟橋で”とい う看板が目を引いていた。松竹座の西側部分を仕切った細長い店で「逢いましょう」だと か、法善寺近くの「丸福」心斎橋筋の「B・C」は焙煎が私のお気に入りで良く通った。 大丸とそごうの間を少し東に「みき」というちょっと風変わりな店があり、ウエートレス は粒揃いの美人、制服は筒袖の着物に当時はまだ珍しい新装帯。驚きは足元にお揃いのパ ンプスという出で立ち。ドボルザークの“新世界”など流れて音響は頗る良く、女性達の 笑顔と応対振りは逸品であった。名曲喫茶を名乗る喫茶店が増えて、壁を全面スピーカー にしたり、メニューと共に曲名のリストを添えたりしていた頃である。 「どん底」や「ともしび」など大声で唄った歌声喫茶は下降線を辿り、マンボが流行りR &ブルース、ロックンロール時代の到来である。ジャズ喫茶は盛況、ダンスホールは満員。 プレスリーやニールセダカが火付け役となって、日本中の若者は熱狂した。生バンドが出 演する大型店は大人気で、ミナミでは「銀馬車」「サイトハウス」「ナンバ壱番」などに 客は集中していた。ジャンルを分けて二組のバンドが毎週出演していたが、カントリーが 好きだった私はジミー時田や寺本圭一らを良く見に行った。堀威夫のギター、寺内タケシ のバンジョーは今も記憶に残る。ジャズ喫茶では難しいことだったが「ビル・モンロー」 や「グランパ・ジョンズ」が来日して“ブルーグラス”の本物が聞けたのもこの頃。フラ ンク永井と松尾和子がジャズやポピュラーを歌っていたのも当時の「銀馬車」であった。 『通天閣高い・・・オランダ見える・・・アメリカ見える・・・ぼんぼん寒いで早よ帰り ・・・じゃんじゃん横町に日い暮れる・・・』これは4年前に物故となられた作家、作詩 家『石浜恒夫』の「道頓堀左岸」に収められた詩の一節である。石浜恒夫は「夫婦善哉」 で知られる『織田作之助』門。その影響を受けて後に川端康成にも師事した作家である。 相前後して此の世を去られたが「オダサク」同門で私が愛するもう一人の作家に「ネオン 太平記」などの『磯田敏夫』氏がいる。二人に共通することは“大阪を知り大阪を描いた 大阪の作家”であったことだ。昭和30〜40年代「こいさんのラブコール」や「大阪ぐ らし」など、フランク永井らが歌ってムード歌謡がヒットしたことだが、とりわけ大阪も のと呼ばれる一連の歌詞には、ロマンチスト石浜恒夫の心象が覗けるようで微笑ましい。 作品には街の情景、人間の表情、なにわ言葉までがパステルで描かれた彩色画の様に現れ、 その豊かな詩情が心に伝わってくる。 「道頓堀左岸」は昭和42年の出版とされるが『通天閣高い・・・』というフレーズは、 大阪近辺の子供達の間では古くから尻取り歌として流行り『いろはにこんぺんとう』とか 『さよなら三角又来て四角・・・』と次々に言葉を繋いで遊んだ記憶がある。そんな中の 一つに『・・・黒いは煙突、煙突は高い、高いは通天閣、アメリカ見える・・・』という のがあった。明治、大正生まれから伝わった『通天閣高い』は初代の通天閣から受け継い だ昔唄から生まれたようである。現在の二代目通天閣が竣工したのは昭和31年秋。戦後 周囲の商人達が“通天閣再建”を願って寄付を募り、3億円が整って工事が始まったと聞 いた。通天閣の天辺に立って背伸びをしてもアメリカが見える筈はないが、ビリケンや縄 跳びで遊んだ往時の子供達の姿や風景が、日光写真の種紙を透かし見るように年寄りには 重なるのである。頂上から望遠鏡で遠くを眺めるのもいいが、外装にネオンや発光の化粧 を纏って、気温や天気予報を伝えてくれる通天閣は夜目にも素晴らしい景観である。 通天閣は『新世界』の一角にある。北東角には古くからラジューム温泉という銭湯があり 今も続いているようだ。芸者の置屋、和楽器の店、小間物屋などが各路地に軒先を連ねて いて花街風情の名残りがあったものだ。北西角には「通天閣喫茶」狭い店内だったが何時 も満席で多忙な様子であった。看板は今も健在らしく懐かしい存在だ。萩ノ茶屋方面に通 じる『じゃんじゃん横町』は今では新世界の代名詞になっている。串カツなど食い倒れの 観光スポットと報道されるが、時々「八重かつ」の暖簾を潜った昔が思い出される。カウ ンターを取り囲む店内では、ソースの二度漬けを咎められたり、酔っぱらいが食べ終わっ た竹串を足元に捨て、お勘定で怒鳴られている様子が滑稽であった。囲碁や将棋の碁会所 には、老若を問わず今様坂田三吉達が大勢集まり、店外から窓越しに勝負を見届ける人が 絶えないようだ。映画の封切り館、温劇(温泉劇場)にストリップ劇場、衣服の叩き売り、 旅館や飲食店の数々。一見纏まりが無い様に思えるが商売は全てに廉価提供がモットーで、 その雑然さが却って庶民感覚には受け入れられ、上手に商店街は構成されていたようだ。 『ジャンジャン町』の由来は三味線をジャンジャン掻き鳴らして街中を歩いたことから名 付けられたと言われる。天保山から汽船に乗ることも無くなったが「船が出まっせ〜!」 という出船の合図に打ち鳴らす銅鑼の音が“ジャンジャン!”の語源ではないか?という のが私の説である。関西大阪地方では「ジャンジャン稼いで、儲けてジャンジャン使うて や!」などという言葉を商人や一般の人も良く口にする。“ジャンジャン”は“商人縁起 の鳴り物”とするのが商都大阪には一番似合いそうである。(三味線も含めて)ミナミの 相生橋筋辺りに「キャバレー・ミス大阪」があった。地階が割烹料理の「鳥よし」で、入 り口にはに半纏を着た男衆が手招きしながら「何名様ご案内〜ッ!」と来店客の人数分の 銅鑼を打って地階に合図を送り誘導していたものである。 通天閣を背に恵美須町から堺筋を少し北に行くと日本橋筋5〜4丁目。堺筋を隔てて東西 に関西の秋葉原と呼ばれる電気街がある。界隈は今昔を通して業態に変動はあっても家電 製品を扱う店に変わりはない。可成り昔から「五階百貨店」があって、周辺路地の一角に バラックの店々があり小さな市場町を形成していた。現在のリサイクルショップの先駆け 的存在である。壊れたラジオ、真空管、扇風機に古着、着物。建具に大工道具、時計、貴 金属・・・骨董品を扱う店もあった。それぞれが専門店だが雨露を凌ぐ程度の?店構えで ある。子供の頃、父親と一緒に始めて訪れた時には目を丸くしたものだ。玄関引き戸の開 け閉てが悪いからと、戸車や釘、差し金と折り尺を父が買ったのを鮮明に記憶する。 父のささやかな気晴らしだったのだろう。夫婦喧嘩だったり面白くなかったりすると、父 は決まって私の手を引いて外出した。五階百貨へ出掛けたり、魚釣りの道具を買った帰り は一銭食堂に立ち寄って好きな物が食べられる。子供心に幸せを感じていた。何よりも父 と私だけの秘密が持てたような気持になれたのが嬉しかった。成人して学生の頃、ライタ ーや古時計に興味を持つようになり、五階百貨店にも親しく付き合える店が何軒か出来て 面白く遣り取りをしたことである。当時はオメガ・インターナショナル・バセロン・ナル ダンなど腕時計や懐中時計、ロンソン・ダンヒルのオイルライターなどが数寄者の的であ った。近辺の質店でも流質品のウインドウに掘り出し物を見つけたものである。 JR天王寺駅南側に「黒橋」と呼んだ関西線の高架陸橋があって、近鉄阿部野橋駅、百貨 店につながっていた。阿倍野筋に茶道具を扱う骨董屋があり、若輩の出来心で私はその店 に父の所蔵する琵琶を内緒で売りに行ったことがある。物置から誰知らぬ間に持ち出すの は至難の業だったが『今どき南京虫は人気が無うて、売り物になりまへんねん・・・』と 店主は前置きしてから恩着せがましく買い取りを承諾した。お弟子さん用だった四弦の稽 古琵琶に五百円の値が付いた。国電の一区間が10円、うどんが25円の頃で少しは救わ れた気持になっていた。味をしめて懲りずに次に持ち込むと、前回より良品にも関わらず 今度は『三百円が精一杯でんなあ・・・』という。若造の足元を見られたのは承知だが、 恥を偲んでの所業、繕う言葉も返す術も無かったのである。 長く商いをしていると珍しい人や物との出会いなどで、色々と不思議を思う時がある。今 私は図らずも骨董品を生業にしているが、二十年程前、所用で関西に出張した時、大阪美 術クラブの交換会に出席した。旧知から偶然にも先述の道具屋の子息を紹介されたのだ。 記載の住所を眼にした時、私は古日記を読み返す様に青春の日を思い起こしていた。その 人とは昔話に触れることも、売買をするでも無く別れたが、くすぐったい妙な縁のような ものを感じたことである。勿論二代目氏はそんな昔を知る由もなかったのだが・・・。 『赤い夕映え通天閣も、染めて燃えてる夕陽が丘よ・・・』石浜恒夫「大阪暮らし」の歌 い出しである。天王寺を上町方面に大きくカーブした辺りに夕陽丘という停留所がある。 都心には珍しく小高い丘があって、少し歩くと小鳥の囀りが聞こえ、中流層が住む家屋が 点在していた。太陽も月も、何処で見るのも美しさに違いは無いだろうが、季節と時間に 依って強い西陽を受ける通天閣の表情は格別で、此の夕陽が丘に立って眺めるのが一番美 しいとさえ思える場所だ。逆光を浴びて立つ人までを赤く染めてしまう瞬間である。嘗て 日本画家横山大観が数々の神州富士を描いた時、写真家が撮る一年中の富士を構図の参考 にしたというが、描きたかった場所は此処だと思える原風景を作品に見ることがある。石 浜恒夫が「大阪ぐらし」の詩作を思った時、多分その目に焼き付いた夕陽が丘の情景が彼 に筆を執らせたのだろうと私は思っている。 子供の頃の私は朝陽が好きだった。目を覚まして差し込む光りには格別の輝きと躍動を感 じ取っていた。夕陽は淋しくて物悲しく映ったものだ。青春の頃に見た夕陽は大きな夢と 希望が与えられる活力の光源であった。古稀を過ごした今、老眼鏡に映るのは昔見た数々 の夢の残骸と残るものは僅かな夕闇。何処を探してもあの時の美しい夕映えはもうない。 『夕陽が燃え残った赤い悲しみを震わせて 僕の背中に立っていました 君にサヨナラが 言えなかったのは きっとスプーンに乗ったレモンの色が美しすぎたからです でも言わ なければなりません さようなら・・・』確か17才の少年が少女に宛てた短詩の純情。 青臭くも切ない青春像である。昭和は遠く・・・戻らぬ昔だが道頓堀の「黄昏」で紅茶と 涙で別れた淡い日も、戎橋を揺れて歩いていたチンドン屋のクラリネットも、昭和生まれ には只々懐かしい想い出ばかりなのである。 昭和30年頃の雑情報です。政治や経済、事件事故などあらゆる出来事も時代を跨いで良 く似たことが繰り返されている様に思えます。「自由民主党(保守合同)」が創成され、 鳩山一郎内閣となります。創価学会が政界に進出、もはや戦後ではないという言葉が流れ ますが、戦後の混乱から10年、まだまだ脱却したとは言えない情勢でした。ヒロポン取 締法、森永牛乳砒素事件、新潟の大火、帝銀事件の死刑確定、1円・50円硬貨の発行、 葉書5円・封書10円、三種の神器が日本中の話題になり流行語となります。テレビ・洗 濯機・電気冷蔵庫の三点が嫁入り道具の必須要件と言われ主婦の憧れでした。ジェットコ ースターが後楽園に初お目見え。石原慎太郎の「太陽の季節」は世の中を驚かせ、裕次郎 の主演映画と共に大ヒットしました。流行語として「最低ね!」「頼りにしてまっせ〜」 「ノイローゼ」「兵隊の位で言うと(山下清)」などがあります。テレビやコマーシャル では「サザエさん」「ヒットパレード」「明るいナショナル」「あたりまえだの、クラッ カー(大阪前田製菓)」が言葉と共に売れました。二つに折れる携帯用こうもり傘が発売 になり「なんであるアイデアル」が流行しました。毎回ビッグバンドがゲスト出演して聞 かせてくれたロイジェームス司会の「トリスジャズゲーム」がラジオの人気番組でした。 映画や音楽の世界では「野菊の如き君なりき」「女中っ子」「じゃんけん娘(ひばり・ち えみ・いずみ)」「浮き雲」「夫婦善哉」など。ジェームスディーンの「エデンの東」は アカデミー賞を取得。「七年目の浮気」「暴力教室」「ピクニック」「慕情」「理由無き 反抗」「ヘッドライト」等それぞれが名作でした。プラターズの「オンリーユー」歌謡曲 では春日八郎に続いて三橋美智也が「女船頭歌」でデビュー。当時の一般的市場物価です がコロッケ5円、カレーライス70〜100円、出始めたE・Pレコード300円、映画は 100〜200円、「サンデー毎日」他週刊誌が30円、新聞月/300円、銭湯15円、 きつねうどん・中華そば25円、珈琲50円(通常)ダンスホール100〜150円。書 き出せば切りがありませんががそんな世情でした。関西地方では「アジア珈琲」が台頭、 (正直言って味も香りも二番煎じの焙じ茶感覚でしたが)チェーン展開され15円という 価格に人が集まっていました。当時「珈琲スタンド」は各所に出来ましたが、30円の店 が主流でした。物故となられた著名人にはジェームスディーン、アインシュタイン、作家 ではトーマスマン、坂口安吾氏などがいます。(参考出典・ザ20世紀) 駄文にお付き合い下さいまして有り難うございました。お時間が許せば大阪ラプソディ 『bP1なにわの古葦の物語』にもお運び下さい。(蝸牛庵)
【今月のワンショットギャラリー】
「山岸純」昭和和5年京都市生まれ、京都美大日本画専攻科卒業、徳岡神泉に師事した。
36年には日展特選白寿賞『樹』40年同白寿賞『石段』41年菊華賞『晨』など多彩な
賞歴を持ち50年には『風声』で文部大臣賞も受賞している。日展会員を経て理事、母校
京都美大教授、退職後は名誉教授として後進の育成に勤め、又名古屋大学でも教授を勤め
た。平成4年芸術員賞受賞、平成11年芸術院会員となり、翌12年70才で没した。
自然の風物を特異な筆遣いで現す膠彩やプラチナを取り入れた技法を展開して、あでやか
な自然の輝きを自由に描き込もうとした作品が多い。本作は屋久島辺か、地域特有の羊歯
を描いた様で、亜熱帯を思う蒸れる匂いの中に、膠漆とプラチナを鏤めた感動作である。
当ギャラリー展示中(S・Sヘアライン加工額装、共シール、美品)応談 |
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30 仲夏号【野武士の幽愁】
2008 6/25
町はずれの広域農道を少し走ると碁盤の目に整った田圃が見えてくる。田植えの頃見掛けた苗は二尺にも伸びて緑一色。巨大な水鏡が青空を映し山裾に雉が啼く梅雨の晴れ間、
房総の佇まいである。今此の画面から自動車が消え、麦藁帽で牛馬を引く人が現れたら幼い昔に戻ってしまいそうな長閑な空間・・・
貧弱な内閣の思考に振り回され憤りを感じてみても商いの遣り繰りはママ成らないが、老いを脱ぎ捨て季節の移ろいを眺める束の間が幸せである。
懐旧の思いも手伝って石川啄木の詩篇を読み返した。“年老いし彼は商き人”北海道の小樽、函館で新聞社勤めをしていた頃の作品のようだ。歌人として知られる啄木だが 詩人を志した時代がある。病には勝てなかった若干二七歳の早世は惜しまれるものだが、凡平の老齢には一編の詩情に改めて己が長生を憚りたくなる才知を思う。 想い出は過ぎ去った記憶や記録が繋がって生まれるが、思わず自身の思考回路や感動の今昔を比較して見るときがある。 『靴、鞄、帽子、ところせまく並べる店に座り居て客の来る毎、尽日(ひねもす)や、はた電燈の青く照る夜も更くるまで、てらてらに禿げし頭を礼(いや)あつく、 千度下げつつ慣れたればいとなめらかに数々の世辞を並べぬ。年老いし彼は商人、カチカチと命を刻むボンボンの下なる帳場、低れたるその頭いと面白し。 その頭低るる度毎、彼が日は短くなりつ年こそは重みゆきけれ・・・』 時折訪れる商店主の所作に目を向けた彼の敬老や哀憐が窺えそうだが、これは前置きであり問いかけなのである。与謝野鉄幹を慕いその影響を強く受けていた啄木は 社会主義思想に目覚め、相容れない者への反発を言いたかったのだろう。小商人も企業資本家をも同列に置き、商売で利益を得るということに嫌悪さえ抱いていたかに読み取れる。 『エジプトの王に倣って金字塔を建てるのか、白壁の土蔵に黄金の山を築いて魂の墓標(しるべ)となすのか・・・』と此の詩は結んでいる。 商人というものは己が身を削って蓄財に勤め、死んでまで立派な墓を残したいのか?愚かで滑稽ではないか。と嘲笑するのである。当時の青年記者啄木の眼には そう映ったのだろう。同感である。とはいえ冒頭の描写は当を得ていて実に可笑しい。啄木の詩に遊ぶが、仰せの通り小商人は禿げたる頭の低るる毎、 時計の針と共に生くる日は短く齢こそ重み行く・・・』からである。土蔵に黄金の山を築く人も多くいるだろう。だが小老には無縁だし、又それを理解しようとも思わない。 出来なかったというのが本当かも知れないが、多分終わりの来る日を怖れながら命を刻んでその日を暮らして行くに違いない。それも又愚と言えば愚かも知れないが・・・。 小商人の座とはお客と共有できる“茶室的空間”というのが私の日常的解釈である。松平不昧公ではないが“亭主の身になりて客致せ”とも思っている。 だから商いは愉しいが豊かな暮らしなど其処にはない。商人に成りきれなかった悔いを諦めにすり替え、お客には一服の清涼を供して笑顔を分け合い、 古美術・骨董の何たるやを説いて潔く?その頁を閉じたい・・・と恰好を装いながらそう願っている。 小商人(あきんど)の存在は“野武士の生き様”に似ると私は思っている。野武士は広義で強く生きる為の男のバイブルに使われることがあるが、仏教世界で言う 「遊行」が類似した意味と思うのである。今では日本酒や焼酎にまでその名が有るようだが、本来野武士とは山野野宿して戦列を襲い武具や金品を奪った山伏し (山僧)や農民集団を指して言う。ところが視点を変えてみると歴とした武士が“捨て扶持”で帰農を命ぜられ帯刀は許されるも武士を認めないといった時代の一幕もあった。 だから野武士達の意地や誇りは強く、達人と呼ばれる腕利きも大勢居たのだ。昨今政界でも「野人会」を立ち上げる動きが噂されるが、世渡り上手な政治家や官僚は名人と呼ばれ、 遊行の足りない達人は野武士の名で終わる。時代を問わず果敢に真剣を振り翳そうとも真実や正義の纏を捨てきれない武士に生きる明日は無い。ちっぽけな小商人も 実は一匹の野武士なのである。 学生時代、私には心を許しあう親友が居て若者二人は“野武士的生き方”に共感し強い憧れを抱いた時期がある。彼の下宿に寝っ転がっては青臭い人生論を交わしたことだが、 無駄話をしながら強い西日を背に団扇と“キンカン”を手に股間の田虫をやっつけているとき、彼が真顔で話しかけてきたことがある。 『お前の意見を聞かせてくれ・・・実は俺のおふくろは元芸者で俺は妾腹、俺は父のことを知らない。お袋には何故か聞けないでいる・・・お前はこれをどう受け止める?』 と淡々と話し出した。彼の胸中を思うと咄嗟に返す言葉が見つからない。取り除けない柵、日常の身近にも小説に描かれる人間模様が在ることを知った。 「お前にはお前の、親には親の人生があるだろう・・・野武士が他人の意見など聞くなッ!」私は意味もなくその場を繕っていた。 『お前には結局そんなズルイ答えしか出せないんだろ・・・』侮った口調で彼は言う。野武士を気取っていた鶏雛の私には彼を説く能力は無かったのである。 《奴こそ野武士だ、さむらいだ。自分を知って生きる為苦悩している・・・》 痩せ我慢にせよ彼の屈強に驚いたことである。以来私はその話しに触れないよう努めていたと思う。懐かしい故郷の昔話である。野武士の会は卒業後も長く続いたが 何十年の歳月はお互いの音信を途絶えさせてしまった。思い起こせば私は青年の頃から官や企業の歩兵で生涯を終えることに妙な抵抗を持つ人間だった。 特別の理由もなく人生の大方を野武士の如く過ごしてきた。“鶏頭となるも牛尾となるなかれ”を思い続けて歩いたのである。 単純に裸の大将でいたかったのだと思う。一匹親方としては我が儘を貫いて自分の時間が持てたことが最大の稼ぎ、儲けであったと今はそう納得している。 女房子供には迷惑だったに違いないが、故に物欲には差ほどの興味を残さない。金は無いより有るに越したことは無いのだろうが・・・。 青春の日に出会った野武士は今どう暮らすのだろう?青山を望み仙人の如き日々を送るのか?想い出を掘り起こして同志を誓った君と人生の結末を論じてみたい気もする。 苗字帯刀を捨て小商人に身を窶した“老いし商(あき)人”は禿頭を下げつつも曲げない偏屈を武器にもう少し野武士の道を歩くつもりでいる。 此の先にあるものは音もなく散る一枚の落葉であろうことを承知して・・・。 胸いたむ日の悲しみも 香り良き煙草の如く 捨て難きかな 石川啄木・かなしき玩具 有り難うございました。本号を以て四方山話を休稿とさせて頂きます・又次の機会に (蝸牛庵)
【今月のワンショットギャラリー】
近年『河野通勢』の作品が広く知られるようになった。美術館所蔵品以外に多くの未発表資料が発見されたのが理由のようだが、NHKの日曜美術館で
作品と人柄などが放映されその幅を広げたようだ。聖書や神話を題材にした初期作、写実に徹したような油彩画、自画像、エッチングの世界など
大正〜昭和の鬼才と評されるに相応しい数々の作品がある。信仰と歴史や風俗を見届けた作品と識者を唸らせるが、中川一政に“何でも描けた画家”と言わせた画才は
日本画の域にあっても山水、人物など自由自在である。子供の頃から父の影響を受けたと思われるが南宗画の領域も自身の手に修めた。まさに
時代や和洋を超越した異彩を展開しその偉大さを後に残してくれた河野通勢である。
今月のギャラリーは河野通勢の作品二題『紅葉立ち美人図』『東林惜別図』を取り上げた。“東林惜別図”には『昭和19年季春描之・京洛客舎』とあり、 李白の詩が画賛に置かれている。古くから文人墨客が愛した名勝、廬山東林寺に纏わる仏教、道教、儒教の教えを虎渓橋での談笑、月下啼白猿の詩に重ねた作品で箱書きにも 「東林惜別之図」と題している。(虎渓三笑も同義)東林寺には李白・白居易・王陽明らの碑文が現在も残るということである。 「季春」とあるのは晩春を意味する。文人画家が中国の昔に倣って良く使うが、春夏秋冬の頭に「孟」「仲」「季」の何れかを冠して用いる季節の呼称で何れも陰暦に依る。 因みに初春を「孟春」仲秋は「仲秋」冬の終わりを「季冬」という風である。詩画賛の季節に応じて(特に山水画など)或いは自らが描き上げた月日を落款に添えて記されることが多い。 小室翠雲について南画を学んだとされる通勢だが、本幅を鑑賞していて当時の南画家周辺を驚かせたに違いないと思う。上品に淡彩で色を抑え、虎渓に立つ高僧たちの表情も豊かである。 他作品にも見かけるが遠山に連なる雲煙をグリ彫りの様に描く心象の筆は悠々自在で愉しい。油彩の筆を手にした通勢は何処に消えたのかと思ってしまう。 昭和10年代に入ると更に画域を広げ力量を発揮したように思う。『紅葉立ち美人図』は浮世絵から抜け出した彩色、女性の色艶が見事に現れる。時代を考察すると 鏑木清方らが挿し絵世界で評価の高かった頃だと思うが、寧ろ通勢は江戸期の花魁などに代表される絵を独自の筆で描こうとしたように思える。 此の二作品は以前東京ステーションギャラリーで開催された「通勢展」に紹介された「紅葉立ち美人図」「桃源図屏風」を彷彿させ、当時の図録と見比べてみると 「立ち美人図」などはまるで双子姉妹の姿や所作を見るような不思議を覚える。恐らく同時期(昭和10年代後半)の製作になるものと推鑑している。 使用の印譜は同一のもので落款にも共通性が認められる。本幅は当古美術研究会々員の愛蔵になるものだが、会員相互の鑑賞会で時々拝見させて頂く逸品である。 『河野通勢(1895−1950)群馬県伊勢崎生まれ・高村光太郎、関根正二・岸田劉生らと知り合い作域を広げていく。 二科会・春陽会・草土会々員、後国画会員・・・白樺同人となり武者小路実篤らとも交友』(上総古美術研究会々員所蔵品) |