『なるこ』第27号 (平成22年5月) 目次

2010.9.23a 初掲載


2701 編集 本多 裕先生を偲んで                   理事  町田 誠

2702 投稿 本多 裕先生の訃報に接して       秋田大学名誉教授  菱川 泰夫

2703 投稿 本多 裕先生の作って下さった「なるこ会」に感謝  理事長  白倉 昌夫

2704 投稿 本多 裕先生を偲ぶ                  元理事  佐藤 芳博

2705 投稿 本多先生を想う                  元専務理事  田宮 由道

2706 投稿 ナルコレプシーと本多先生の思いで        元事務長  清水 利男

2707 投稿 本多 裕先生に感謝をこめて              理事  川岸 聡子

2708 投稿 本多先生にお会いできて                 理事  桑原 正孝

2709 投稿 本多 裕先生を偲ぶ                         K.H.

2710 投稿 本多先生との出会い                         H.H.

2711 投稿 本多 裕先生の思いで                副理事長  河野 通久

2712 投稿 本多 裕先生の思い出                        T.H.

2713 投稿 本多 裕先生を偲んで                        A.H.

2714 投稿 本多 裕先生を偲んで                      TAKUYA

2715 投稿 「ナルコレプシー」                           H.K.

2716 報告 第5回関東睡眠学会の聴講報告           副理事長  河野 通久

2717 報告 本多真先生講演『ナルコレプシーと肥満について』の概要    桑原 正孝

2718 報告 WAM助成事業の報告                 副理事長  河野 通久

2719 報告 発送した中学校の対応についての報告          理事  町田  誠

2720 投稿 ナルコと共に人生を語る 第4弾             理事長  白倉 昌夫


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2701 編集 本多 裕先生を偲んで                   理事  町田 誠


   2007年晴和病院の診察室にて


 ナルコレプシーの研究と治療に一生を捧げられ、この分野の研究では世界的にも第一人者と認められ、NPOナルコ会の設立にも熱心に指導してくださった本多 裕先生は、2009年9月1日未明に旅立たれました。総会の後、私達は悲しみつつも感謝をもってご冥福をお祈りし、在りし日の先生のご生涯を偲びつつお別れいたしました。

昭和4年11月13日東京新宿牛込(晴和病院近く)で生まれました。左から母菊子・抱かれている赤ちゃんが裕先生です。父次郎・祖母梅子
一高時代に親友の実家近くの広島厳島神社へ遊びに行った。左の金色夜叉の貫一スタイルが先生で、当時は流行していたのでしょうか。
かっこいい!
昭和25年3月 旧制第一高等学校理科卒業、
昭和34年東大大学院第2臨床医学専門課程を修了しました。
31歳の時、秋元教授の秘書だった邦子さんに一目惚れ。クリスチャンである彼女のリクエストで、昭和36年4月23日上智イグナチオ教会にて結婚しました。
お似合いのお二人ですね。
結婚2ヵ月後、昭和36年ニューヨーク・アルバニー医科大学へ出張(休職)。

ニューヨークのアパートで甘−い、希望に満ちた新婚生活がスタートしました。
昭和37年(1962)5月20日   長男真先生誕生。3200gでした。
光り輝いていますね・・・・
アルバニー医大にて裕先生撮影・ちなみに無痛分娩だったそうです。進んでますね!
2年の留学後帰国、昭和38年東大医学部精神医学教室へ復職。34歳。
昭和41年東大精神医学教室にて4年生にナルコレプシーの講義をしているところ。
37歳
なるこ会は、昭和42年に世界で最初の患者会として裕先生の指導のもとに発足しました。

昭和43年(39歳)
なるこ会の新宿御苑ピクニックに先生のお子さん真さん(幼)明子さんもそれと知らず喜んで参加しました。
昭和43年ごろ
なるこ会クリスマスで記念写真
中央に高橋康郎先生、右端に白倉会長、
最前列中央に裕先生も見えます。
みなさんお若いです!
昭和43年(1968)
東大病院でナルコレプシーの外来診療している白衣姿の先生。
やる気満々で、若々しく頼もしいお姿です。

昭和44年精神神経科病棟医長となる。40歳。
昭和47年(43歳)
本多家 全員集合!
藤沢のくげ沼に我が家をかまえた。
前列左から
次男徹(幼)、次女洋子(小1)長男真(小4)
後列左から
長女明子(小3)、奥様邦子さんと先生
昭和60年(56歳)晴和病院院長に就任。
この年真先生は東大医学部に進学した。

昭和63年(1988)7月
恒例になった東大研修医を我が家に研修招待して10年
くげぬま海岸で遊ぶ(遥かに見えるのは江ノ島)
平成4年オーストラリアのケアンズにて学会・・・船に乗って珊瑚礁へ。そして人魚のように海中散歩したそうです。
奥様も子育てから卒業で、この頃から先生の学会に同伴して旅行を楽しまれたそうです。
平成4年(1992)10月(63歳)   
 晴和病院院長就任8年目の運動会仮装行列。
先生の意外な女装姿には茶目っ気を感じます。先生も楽しそうですね。
1994年第4回国際ナルコレプシー・シンポジュームが初めて日本で開かれるため、なるこ会佐藤会長、田宮さん等幹事の方々と綿密な打ち合わせをしました。

なるこ会としてこのシンポジュームに参加し、アメリカ、イギリス、ドイツのなるこ会の代表の方々との交流など大変活発な活動をしました。
世界中から約100名の参加があり、盛況でした。

本多先生もナルコレプシーの診断について発表しました。
平成15年(2003)1月元旦(74歳)
スタンフォード大留学中の真先生を訪ねました。
後ろに見えるのがサンフランシスコのゴールデン・ブリッジです。
2002年「ナルコレプシーの研究」出版(73歳)
2003年5月代々木睡眠クリニック開設(74歳)

本多 真先生は、スタンフォード大留学(2001〜3)から帰って東京都精神医学総合研究所部長に就任。
2007年6月講演会
裕先生「NPOなるこ会の歴史と活動」

真先生「眠りのしくみとナルコレプシー」

親子でこの研究と治療のために活躍していました。
裕先生はこのことを本当に喜んでいたと、奥様はおっしゃっていました。
先生は、2004年3月東大病院に検査入院し、それ以降腎臓悪化で血液透析されるようになってしまいました。

2007年11月NPOナルコ会総会後、「ナルコ会設立40周年」を記念して本多裕先生へ感謝状・記念品の贈呈式が行われました。

そして、11月13日は先生の78歳誕生日でみんなでお祝いしました。
懇親会で歓談する先生。
先生はいつも親切に私達患者の相談にのって下さいました。
総会の後、裕先生へ感謝をささげる白倉会長。
出席の方々へ挨拶される先生。
2009年7月19日
病院に連れてきた次男徹さんの7月1日に生まれた次女莉奈チャンと初対面。
この笑顔の写真がついのものでした。
もっともっと楽しんで長生きしてほしかったと残念でなりません。



苦労して血液透析の治療をしてまいりましたが、心筋梗塞を併発して望んでいた
自宅療養もかなわず、悲しいかな9月1日に帰らぬ人になられました。  合掌


お別れ
あなたは眠りにとらわれて苦しむ私たちに
手を差し伸べて助けてくださった
生きる望みと喜びをもたらせ
集いつつ励ましあって
眠りを克服せよと
我らの手を引いてくださった
生涯をこの病の治療と研究にささげ
日夜を労してくださった
ありがとう ありがとう
さようなら やすらかに


━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━━・━・━━・━━

2009年11月14日の「本多 裕先生を偲ぶ会」の後、出席者の皆さんからもお別れの言葉をいただきましたので、その一部をお知らせします。


□□□□□ 晴和病院で先生の秘書をしておられた関根範子さんから □□□□□
  本多 裕先生とは約一年ほどしかご一緒にお仕事できなかったのですが、体調が悪くなってからも、国の研究用助成に応募しようとするなど、やめられる直前まで研究も診療も一生懸命されておりました。
  本当に怒ることがなくて、先生がおっしゃったことにこちらが困ったりすると、座りながら指をぐるぐるとしながら「うーそうですね」とニコニコしていた印象が残っています。一度別荘に遊びに行かせて頂いたり、その後も何度もお誘いいただきました。私だけでなく、他の秘書さんも一緒に何回もお食事に行かれたりしました。
  一緒に働きながら大切にしていただきました。一年間ぐらいしか一緒にお仕事できなかったのに、私はこんなに寂しいのですから、長年一緒にやってこられた皆様やご家族方は寂しさ一杯だと思います。
 先生は、「千の風になって」が大好きだったので、きっと今も相変わらずニコニコして、みなさんを見守ってくれていると思います。先生ありがとうございました。


□□□□□ なるこ会の女性から □□□□□
  NPOなるこ会が立ち上がる数年前に、本多 裕先生が「あなたたち、私が死んだらどうするんですか」と言われた。私は会に入ってまだそんなに経っていなかったので、「先生はどうしちゃったのだろう」とびっくりしたのを覚えています。
NPOができる前は、先生はなるこ会で集まった時いつもそう言っていました。
  今になって「あー先生は、こういうことだったんだなー」と思いました。しばらくして、風のうわさでご子息の真先生が同じナルコレプシーのことを研究してくれていると聞いて、「アー良かったなー」と思っている間に代々木睡眠クリニックが出来た。きっと裕先生が一番喜んでいるだろうと思います。
  私は遠くから出てきているが、先生が亡くなって、以前から言っていたように、「あたしたちこれからどうなるのか」と心配していました。
  でも、今日の真先生のお話を聞いて、「アーこれからも私たち頑張っていけるんだな。患者同士でもいろいろ助け合っていけるんだ」と改めて思っています。それが先生への恩返しだと思います。
  裕先生と会えたこと、本当にありがとうございます。


□□□□□ ご遺族代表である邦子奥様より □□□□□
  下記のお手紙を頂き、本多 真先生に代読していただきました。その上、多額なご寄付も頂きました。改めて御礼申し上げます。

 先般、主人の永眠の際は、ご丁重なるご厚情を賜りありがとうございました。
主人のライフワークでありましたナルコレプシーの研究の成果は、ナルコ患者さんたちとの永いおつきあいとご協力を頂いて成し遂げられたことと存じます。
 そのなるこ会が日本ナルコレプシー協会としてNPO組織に成長し、主人はとても喜んでおりました。
NPOなるこ会の今後のご発展をお祈りし、少しばかりの寄付をさせていただきたいと存じます。どうぞ、故人の意思をお受け取りくださいませ。
本多邦子


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2702 投稿 本多 裕先生の訃報に接して       秋田大学名誉教授  菱川 泰夫

  日本睡眠学会の名誉会員・本多 裕先生は病気療養中のところ、2009年9月1に永眠されました。
  本多先生は、東京大学医学部卒業後に同大学精神医学教室にて精神医学・医療の研修を受けられるとともに、早くより睡眠障害とりわけ周期性傾眠症(間脳症)やナルコレプシーの研究に取組まれました。
  ナルコレプシーの研究は本多先生のライフ・ワークであり、その方面で数多くの研究論文を発表されただけではなく、全てのナルコレプシー患者では特にHLADR2陽性であることを発見されたことは、国際的にも大きな注目を浴び優れた研究でありました。

  本多先生はナルコレプシ-に関する医学的研究を精力的に行われただけでなく、ナルコレプシー患者が相互に援助・協力するとともに、社会的QOLの向上を計ることを目的とする患者会「なるこ会」を組織し、その運営にも協力して来られました。
  本多先生が育てられた会がモデルとなり、先進諸国でもナルコレプシーの患者会が組織され、ナルコレプシー患者の社会的QOLの改善が計られるようになりました。

  本多先生は永年にわたり本学会の理事として、本学会の運営・発展に尽力されました。特に、睡眠障害の診断基準に関する委員会を組織され、その委員長として活躍されました。その面での特筆すべき業績は、本多先生が中心になって睡眠障害の国際的基準ICSDの日本語版を翻訳・出版にこぎつけられたことであります。
  ここに、本多 裕名誉会員の永年にわたる本学会発展のためにご活躍されたことを偲びつつ、本多 裕先生のご冥福をお祈り申し上げます。


「事務局より」
  本文は9/3付けにて日本睡眠学会のホームページに掲載されています。
  当会誌への掲載のご了解をお願いしたところ、先生から快くご承諾を頂きました。


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2703 投稿 本多 裕先生の作って下さった「なるこ会」に感謝    理事長  白倉 昌夫

  私は昭和40年に東京に上京し、蒲z成社の営業員として働きました。写真製版の営業が合っていた事と、商業高校卒で会社経営には商業簿記の知識がある事により当座預金、受取手形、支払手形、損益計算書、貸借対照表、勘定科目などは大卒の社員は解らないですが、私はすべて理解でき会社にとっては何かと役に立ち、経理部に人事異動されそうでしたが、営業希望で働きました。
  また父と母二人で田舎で印刷会社を経営していたので印刷を見ながら育った事もあり、用紙関係のことはよく理解でき、大卒の新入社員比べて比較にならない位実力を発揮しました。会社ではデザインから製版、印刷、製本、納品までの仕事は私のみ許可され他の営業部員は失敗する危険性があるので許可されませんでした。逆に上司の見積を手伝えるので、オーバーですが期待の星の存在でもありました。

  ただ入社して自動車運転する営業で、ナルコレプシーと解らなかったので、一年の間に3・4回の追突事故を起こし、最初は注意でしたが、最後に人身事故を起こし、幸いに相手の人も怪我も無くすみましたが、会社社長から今後の事故で大きな人身事故を起こす危険性があるので解雇(クビ)の話と、常務取締役から仕事は出来るのだから、車に乗らないで営業する事で本人が了解するなら営業で頑張れ、もちろん嬉しかった首にならずに済み一生懸命働きました。
  会社では人間が出来ていないから事故が起きるのだ、会社が許可するまでは車の使用禁止なりました。「その間の営業は辛かった」他の営業社員は車で出かけるのに私は雨の時は傘をさして営業するこの辛さは一生忘れません。

  会社では人間ができていないからだ?と言われますが私自身は人間ができていないからだけではない、しかし事故は事実ですので悩んでいました。当時、病気とも思っていませんでしたが、チョット健常者と違うように思い、東京厚生年金病院の眼科に診てもらいました。   医師曰く、乱視が原因と言われ、眼鏡を買って暫くは治ったように思いましたがやはり眠くなり、眼科医師と治っていないと口喧嘩し、東京厚生年金病院に行き辛くなり、東京警察病院に行きその旨を話したら、脳波を撮ってみましょうと言われ、結果は健常者と違うので、専門家病院、晴和病院に紹介されました。
  精神神経科の外来で、私は何の病気かわからないが、精神異常者のかなぁ、と思ったりしながら月一回眠くなる病気ですので、この薬を飲んで下さいと薬を出され、よく理解できないまま通院していました。少しは眠くなるのを抑えられるようになった程度でした。

  数ヵ月後、本多先生に、今度、東京大学の病院に変えますので、来て下さいと言われ、ナルコレプシー患者の「なるこ会」があり早速入会し、ナルコレプシー患者がポリクリ室で診察に呼ばれる間、ナルコレプシーの病気の話を患者同士で恥ずかしくもなく語り合い、簡単に直らない病気である事や私生活の方法や薬の飲み方、いろんな事を教えていただきました。
  私は、本多先生に感謝はもちろんですが、なるこ会に入って、ナルコレプシーの病気が理解でき、患者同士の生活の仕方が一番勉強になり感謝したように思う。

  会社の社長、常務にナルコレプシーの病気で事故が起きたのですと説明しましたが、それだけではないと理解されませんでした。くどく説明はしても逆効果のように思い、更に精神神経科に通院している事を知ったら尚、心配されるように思い、実績で勝負だ、他の営業は車ですが私は電車、バス、時にはタクシーで営業しました。苦しい1年間でした。
  得意先も応援して下さり売上実績もそれなりに実績があり、一年位たった新年明けから車の使用許可がでました。嬉しかった、またこの1年の苦労、悩み、辛さを耐えられた事で、この先の人生を変えたように思います。
  その後は事故も無く人間ができたように理解されましたが、私自身はナルコレプシーが原因と叫びたくても健常者には理解されないので、人間的に成長したのです、とごまかしてナルコレプシー患者である事などは誰にも話しませんでした。
話しても精神神経科の通院だけで誤解され易く、今の妻にも結婚してから教えた位です。私は父母、兄弟位しか教えませんでした。

  薬のお陰で、健常者以上に働き7年後円満退職で私が開拓した得意先の数社をのれん分けして下さり、会社設立、その後、25年間で10〜30名の会社を東京で2社、出身地の新潟県三条市に2社、社員総数80名位の会社になりました。
  独立当初のナルコレプシー患者の仕事のしかたはこの会誌の最終ページ「なること共に人生を語る」に記載しております。参考に
  会社規模発展につれてなるこ会の役員を数年し、その後会長、「NPO法人ナルコレプシー協会」の理事長を通算15年前後続けております。

  本多先生はなるこ会の将来像を私に要求され、今のなるこ会がまとまっていないのに無理の要求はしないでください。会員は仕事をして生活を第一に多少の余裕がある人が手伝う位で、高い理想論を要求すると、役員も居なくなります。私だって好きで会長を引き受けている訳でない、会長時代、理事長時代に役職をやめますよ。と言いたいくらいの時期がたくさんありました、これを言ったら私の負け、この言葉だけは使わないように自分自身に言い聞かせて押えました。
  私以上の能力ある方は沢山いますが、サラリーマンの会員は生活が精一杯の方々です。私は経営者ですから時間的に余裕が取れますが、会員は生活を第一でなるこ会に手伝える方はいません。先生の理想論実現に急ぎたい気持は理解できますが現状の役員ではできませんと反論しておりました。
  でも先生は田宮理事を口説き落として「NPOナルコレプシー協会」設立しました。田宮さんにはなるこ会会員一同感謝しております。本多先生も一歩踏みだし喜んでいました。桑原さんのナルコレプシーのホームページも先生は喜んでおりました。
  その後、私の会社も順調に発展し、なるこ会の集会場所も我社の一部を提供できるようになり、また、能力のある会員が定年退職してなるこ会を手伝える役員理事が増え、なるこ会の発展、本多先生の理想論に前進できるような環境になってきました。本多先生の理想論を、なるこ会会員、先生の息子、本多真先生が意思を引き継いで下さるでしょう。裕先生のなるこ会を天国で見守って下さい。
  真先生、父裕先生の夢ナルコレプシーの治療研究及びなるこ会に力を注いで下さい。なるこ会としては裕先生がご長男にナルコレプシー医師にして下さり大変感謝しています。なるこ会の発展も受け継いで下さるように会員代表としてお願いします。
  最後になるこ会会員であり定年退職された方で会に手伝える方は力を貸して下さい。現役のサラリーマンの方々は生活や会社の仕事に手一杯でなるこ会に協力できる余裕ある方は数名しかおりません。裕先生のなるこ会の夢を追いかけるためにも


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2704 投稿 本多 裕先生を偲ぶ                元理事  佐藤 芳博

  私が始めて東京大学医学部付属病院に行ったのは高校2年、昭和38年だったと思います。当時16歳だった私も今は62歳。親父が他界した歳になりました。
ここまで生きるとは思わなかったのですが、今があるのは本多裕先生に診ていただいたお陰であると感謝しております。

  私は幸運にも初診時にナルコレプシーと診断され治療を始めましたが、初診後、4・5年は症状が安定せず、色々な薬を処方していただきました。通院も滞ることがあり、定期的ではなかったため、また裕先生がアメリカに行かれたため、何人かの先生方に診ていただいておりました。

  当時の印象として強く残っているのは、赤レンガ造りの病棟で診察を受けていた頃のことです。赤レンガ病棟は医学部本館の隣にあり、歴史を感じさせる建物であまり使われていない様子でした。診察室は建物の中ほどにあったのですが、診察を待つのは薄暗い廊下に置いてある木製の長いすで、診察に行くたびに割れた窓ガラスや積み上げられたロッカー、窓に米字型テープが張られている使われなくなった教室の様な所が目に入り、侘びしさを感じておりました。
  その為か、診察のときに「同じ病気の人と話してみたいのですが」と先生に話しておりましたが、ある先生は話題を変え、ある先生は「同病相哀れむか」と答える等、つれないものでした。
  しかし、アメリカから帰国した本多先生はうなずきながら聞いてくださり、「同じ様な話を聞いている」と受け止めて頂きました。その言葉で非常に気持ちが軽くなった事を覚えております。
その後、本多先生のご尽力により「なるこ会」が設立されました。
  当時は水俣病などの公害問題、サリドマイド等の薬害問題が起きており、大学では学生運動が盛んな時代で、東京大学はその渦中にありました。医学部も例外ではなく、医学部付属病院本館も封鎖されるなど、先生方が治療や研究に専念することが大変な状況だったと思います。
  そんな中で、本多先生には一つ一つの話しに誠実に耳を傾けていただきました。本当にありがたいことでした。

◆なるこ会初期の思い出
  先生のご尽力によりなるこ会が設立され、東大付属病院での診察も本館地階で行なわれるようになり、患者同士が気軽に話せる状況の中で二組のカップルが誕生しました。
二組目は梨本さん夫妻でした。梨本さん夫妻とは二人が付き合い始める当初から一緒に飲んだりしたのみ仲間で、病気のことや生活のこと、性格のこと等よく話し合っていました。その後、梨本さんと二人で飲んだとき突然「おれ、結婚申し込んでみようと思うのだけれど」「本多先生にも相談しようと思うのだけど、彼女のこと どう思う?」「彼女どう思うかな?」と相談され、うれしくなったことがあります。
以降、診察時間に梨本さん夫妻のことも相談し、診察時間が長くなっておりました。

◆先生の思い出
  梨本さん夫妻が結婚した後も同様で、「二人の様子がちょっとおかしいのですが梨本さん夫妻は大丈夫なのですか?」などと話すとカルテそっちのけで話していただき、先生の柔和なご様子に納得したりしておりました。

  研究者としての先生、夫としての先生には多くの時間を割いて頂き、申し訳ない限りです。
私も結婚や子供の誕生、さらに兄弟の不眠症等、身内のことは何でも相談し、検査や診察をして頂きました。家族でお世話になりました。
  本多裕先生は、ナルコレプシー研究の世界的な権威ですが、我々患者にとっては、身軽に居てくれ、人として丸ごと抱えてくれ、悩みを聞き、方向付けてくれる誠実な主治医でした。

  先生のご研究・ご活躍により世界中の沢山の方々が救われていると思います。
その方々、これから救われる沢山の方々と共に、先生に診ていただき救われた沢山の患者の1人として、過眠症・ナルコレプシーの一患者として、そしてなるこ会の一メンバーとして先生の治療研究に敬意を表し、お礼し、先生のご冥福をお祈りいたします。   合掌


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2705 投稿 本多先生を想う                元専務理事  田宮 由道

  なるこ誌創刊号(昭和44年1969)に、本多先生は
  「この病気は多くの先生がたによって研究が行われ、いずれも外国に負けない新しい研究です。しかしながら診察室で患者さんと医者が1対1で行う診察だけでは居眠り病による患者さんの深刻な悩み、即ち社会生活のうえで、さまざまな辛い思いをしている患者さんの本当の姿はつかめませんし、したがってその治療にも限度があると云うことが強く感じられるようになってきました。この面を補うものとして患者さんの会が結成されるならば社会生活の上で多くの困難を克服してゆく足がかりになるのではと考えました。そこで昭和42年のはじめ頃から患者さんに相談してみましたところ、力強い賛同が得られ昭和42年(1967年)の暮れに"なるこ会"が発足いたしました」
と述べておられます。

  まさに本多先生はナルコレプシー研究の権威であり、医師として治療に尽くして頂いたばかりでなく、さらに一歩すすめて患者さん同志をむすぶ会をつくり、おたがい希望をもって励ましあう機会を作るとともに、この病を世間に正しく知ってもらう活動に尽力されました。
海外数カ国になるこ会のような活動団体があるようである。本多先生のお骨折りで、いちどだけ日本で交流したことがあったが言葉の障壁を越えて交流できたことがありました。

  平成9年(1998年)にNPO法が成立しましたが、本多先生は早くからこれに着目され、なるこ会の幹事にしばしばNPOの意義を説かれ、なるこ会をこの団体に格上げして、一層活動の幅を広げられるだろうと説かれ、一刻も早く資格をとる手続きとるようにと熱心に指導してくださいました。
  本多先生の熱意と患者さん方のご協力があって、平成15年に申請し、翌16年にNPOに認定されました。本多先生の熱意が我々をうごかし、NPO団体となり活動が大変しやすくなったと云えるでしょう。
  本多先生は医師として長年御世話になりましたが他方ではグループのリーダーとして尽くして頂いた偉人であります。改めて感謝と哀悼の意を表する次第です。


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2706 投稿 ナルコレプシーと本多先生の思いで        元事務長  清水 利男

  私とナルコレプシーとの出会いは、先生がある新聞にナルコレプシーの解説記事を書かれた事だったと思います。それまでは異常を感じながらも自分では病気とは思っていなかったので、この記事を見て自分の症状とあまりにピッタリ合っているので大変驚きました。
  実はそれまで大學には何とか入学したが、何時も講義を聴いている時は居眠りをしていて、ノートには最初の2〜3行だけで後は読めないミミズのような字が書いてあるだけで、お陰で4年間でノートは一冊で済みました。

  早速赤レンガのある東大病院に行き、先生の診断を受けたところ、典型的なナルコレプシーと診断されました。先生は病気に付いて判りやすく患者に説明されて、いわゆるインフオームドコンセプトとか言う方法を実践されていました。毎月1回通院していましたが、毎月通院日が待ち遠しいくらいでした。
  その後、先生に頼まれてなるこ会を白倉さんと一緒に長いことやってましたが、糖尿病になって近くの病院に入院することになり、現在の川岸さんに業務を引き継ぐことになりました。
  川岸さんは非常に熱心な方で、その上大変優秀な方なのでなるこ会も生き返ったように立派になり大変喜んでおります。
  思えば、自分がナルコレプシーになったため、教員の採用試験に落ちたり、都職員の採用試験に最後の1人としてやっと合格したり、軽井沢にハイキングに行ったとき崖から足を踏み外して転げ落ちたり、目黒の権之助坂で駐車中の自動車に自転車でブッツカリ自転車は大破したが怪我一つしなかったり、スキーのリフトに乗っていて居眠りをして落ちたり、と変わった経験をしましたが、今では懐かしい思い出になっております。
  最近は晴和病院に通院していないので、先生がお亡くなりになったことは会報で知り驚きました。先生と出会えたお陰で現在の幸福な人生を送ることが出来たことを大変ありがたく感謝しております。
先生のご冥福を心よりお祈り申し上げます。     合掌


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2707 投稿 本多 裕先生に感謝をこめて             理事  川岸 聡子

  本多裕先生のご逝去の知らせを受けた時、思いがけないほどの大きな驚きと悲しみが私の心に入り込んで参りました。
  過ぎし日、「なるこ会」の定例会を終えて晴和病院の玄関フロアーに出て来た時、先生はフロアーの正面にある内村裕之先生の銅像にそっと手を添えられ、いとおしむように優しく微笑み、私の方に顔を向けられ笑顔を見せて下さいました。その時の事が懐かしく胸に迫り、昨日のことのように蘇って参りました。

  平成13年、「なるこ会」の会計を含む事務の仕事をお受けした時、それまで一介の主婦に過ぎなかった私に、先生は多くの事を教えて下さいました。
  例えば、公の文章・書類等作ったことの無い私に「大丈夫出来ますよ」と言われた時には戸惑いましたが、図書館や書店に走りやっと仕上げご了解を頂いた時には、先生が私を信頼して下さった事への感謝の気持ちで一杯になりました。
その後先生の強いご希望でNPOに移行する事になり、先輩の田宮さんの助手として設立に向けての仕事をさせて頂いた時にも「NPOがどのような組織なのか」「その運営に当って配慮すべき事項」等をこの年になって改めて学ぶ楽しさを教えて頂きました。
  この会の活動の中で「私の最も大きく長く続けた仕事」は、患者やその家族からの電話相談でした。
特に最初の頃は私の知識も乏しく答えられない為、内容をメモにして先生の所に持って行きました。
  その都度、先生はご多忙な時間を割いて一つ一つ丁寧に答えて頂いた事を思い出します。その答えを特に地方在の方へ伝える事で大変喜んで頂き、自分も嬉しかった事を思い出します。
  私も若い頃には教育関係や海外交流のボランテイアの経験はありますが、先生にはより質の高い経験をさせて頂いたと思っております。

  最後に私事ですが、平成18年に大動脈解離と心筋梗塞で緊急入院しました折には大変ご心配頂き、入院先の担当医の所に何度もお電話を頂いた事を、後日お聞きしご配慮に心を篤く致しました。

  改めて先生に心より感謝申し上げ、ご冥福をお祈り申し上げます。


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2708 投稿 本多先生にお会いできて                 理事  桑原 正孝

  私は、1985年に開催されたつくば科学万博のパビリオンに勤務していた頃、たまたま目についた「不眠症」(泰井俊三著、 創元社)という本を立ち読みしていて、自分がナルコレプシーであることを知りました。早速その本を買い求め近くの病院に行きました。そこの先生は初めてのケースとおっしゃっていましたが、脳波に少し問題があると診断されリタリンを処方されました。しかし勤務形態が不規則なためかあまり効果がありませんでした。

  万博終了後転勤に伴い移った病院で本多裕先生を紹介され、すぐ晴和病院に電話を入れたところ、先生自身が電話に出られいくつか質問された後予約を受け付けて下さいました。
  本多先生に診ていただいた時、丁寧な応対にびっくりし、後で院長先生だと聞きますます驚きました。問診、MSLT、血液検査などをうけて2週間後に厚さ5cmもあるポリグラム記録を示しながら「ナルコレプシーですね」と告げられ、リタリンなど数種類の薬の処方とともに「睡眠時間を充分とり、眠たい時には無理をせず仮眠をとりなさい」というアドバイスを受けました。
  その日から長年悩んでいた昼の眠気や夜の奇妙な症状がほとんど無くなりました。
昼間の眠気がほとんど無くなったことはもちろんですが、それ以上に毎晩襲われる恐ろしい夢と夜中の目覚めから解放されぐっすり眠ることができるようになったことが非常にうれしく、心が軽くなったように感じました。
  すこし経ってから米国なるこ会の会誌に「本多先生は夜間睡眠の品質改善を第一とされている」と書かれておりましたが、本当にその通りだと思いました。

  診ていただいてから4年ほど経った頃、上司より政府の開発援助の一環である技術協力員として開発途上国にいかないかという打診がありました。ナルコレプシーのこともありましたので先生に相談に乗っていただき入念に準備をし、無事2年間の勤務を乗り切ることができました。
  先生の診断により本来の自分に戻ることができほっとする一方で、昭和42年には既になるこ会が発足し、翌年には新聞や週刊誌、NHKの放送などでナルコレプシーが採り上げられていたというのはショックでした。自分でも病気とは思わず二十数年も過ごしサラリーマンとしての評価が決まったことに忸怩たる思いがあり、ナルコレプシーや過眠症という病気があることを社会に知ってもらいたいと痛切に思っていましたので、帰国後本多先生の薦めに従いなるこ会の運営に参画することになりました。
  平成6年頃になるとインターネットが急速に普及し、私もニフティサーブとmeshに加入し、眠いという悩みを見つけると、こういう病気もありますよと伝えていました。
  平成7年の総会・懇談会のときに本多先生から「ホームページを作り、社会へ発信したり会員や外国のなるこ会とも情報交換をしたら」というお話があり私が担当することとなりました。
  とりあえずHTMLの勉強を始めましたがあっという間に1年が経ち、平成8年の総会で先生から、「来年(平成9年)は日本睡眠学会の学術総会が東京で開催されるので、それに間に合わせればいいPRになるよ」とハッパがかかりました。なるこ会にとっても創立30周年のイベントになることから、精力的に取り組みました。細かな点はいろいろあるものの何とか開設にこぎつけ、7月に開催された日本睡眠学会第22回学術総会に出席された先生方に披露することができ本多先生は大変喜んで下さいました。

  本多先生は、マスコミを通じてナルコレプシーの啓発を行われるとともに、薬の確保、診断法の保険適用、俗悪TV番組への抗議、自動車運転免許等の問題に患者の立場から厚労省や関係者に働きかけていただきました。
深く感謝申し上げるとともにご冥福をお祈りいたします。


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2709 投稿 本多 裕先生を偲ぶ                         K.H.

  第6回定期総会・講演会 開催の案内を頂き、本多先生が亡くなられたことを知りました。 非常に悲しい知らせでした。本来ならば、定期総会に出席し、その後の「本多先生を偲ぶ会」に参加したいところですが、足を患い外出が思うようにいかず、やむをえず欠席させて頂きました。
 
  私が本多先生に御世話になったきっかけは、昭和63年の新聞に、私とよく似た病状の人が寄稿されていた事が始まりでした。
  早速 晴和病院の本多先生に事情と、病状をお話したところ、診察をしてみないとわからないが、ナルコレプシーでしょう ? と言われ晴和病院で診察するので来るよういわれた。
指定された日に受診したところ、ナルコレプシーに間違いない、と診断されました。
実際の処、ナルコレプシーとはどんな病気なのか、初めて聞く病名なのでわからず、本多先生に詳しくお聞きしました。 私の場合発病は、20歳代前半とのことでした。確かにその頃より昼間から眠気が来て我慢出来なかった状態がありました、これも夜勤作業等で疲れているからだと、思い込んでいたのです。
  しかし、そんな状態が長く続きましたので、先輩・友人達からは、すぐ寝る人と言われ続けてきました。・・・・・
又、なにか得意になった時には、脱力状態になったり、夜寝ている時は金縛り状態が起き、それが50歳後半になって初めて病気だと分かった時は、複雑な気持ちでした。
  晴和病院に通院して、6年が経ちましたある日、浜からの通院では一日がかりになり、当時は現場責任者でもあり、発注者との打ち合わせ等で、日中空けられない状況にありましたので、本多先生にお願いして、浜の方に転院させて頂きたくお願いしました処、即手続きをしてくれまして、現在お世話になっている精神科の「小沢メンタルクリニック」に決めて頂きました。  
こちらですと短時間ですみますので、非常に便利になりました。
  現在の症状は、昼間の眠気も無くなり、又、脱力発作も金縛り状態もなくなり、安定した生活が出来ております。 これも本多先生に御世話になったお陰かと感謝しております。
そんな大切な人が、お亡くなりになった事は非常に悲しく残念でなりません。・・・・  
  今の「小沢メンタルクリニック」では、主に問診と薬を貰って来るだけですので、今後ナルコレプシー等でご相談、診察等させて頂くには、どうすればよいのでしょうか?? 
 
自分本位の文になり誠に申し訳ありません。
本多先生には、安らかに天国でお休みされますようお祈り申し上げます。     合掌


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2710 投稿 「本多先生との出会い」                         H.H.

  はじめまして、私は、現在35歳になるナルコレプシー歴約21年、通院歴約16年になります。
この度の本多先生の訃報を聞いて、胸に込み上げてきた感謝と悲しみをどうしても文章にしたいと思いペンを取りました。

  本多先生との出会いは、5つ目ぐらいの(正確には覚えておりませんが)病院を転々として、最後に晴和病院で診察を受けた時でした。通院し始めた頃の診察では睡眠表を出して、薬の量を調整したり、「どうですか?」と、とても優しい口調で問診を受けたこを覚えております。 そこでナルコの患者が参加するなるこ会を紹介頂き、入会したことも覚えております。
  偶然ですが、同じ年でなるこ会に入っている人にも出会えました。同じ境遇であり、「寝ちゃうんだよね〜」という言葉には、初めから説明すると1時間じゃまない、思い出せばいつまでも話が出来てしまう苦労話、笑って話ししているけど本当は悔しくて、取り戻したくても取り戻せなくて、という共通した痛みが瞬時に分かりあえました。
  自分だけじゃないんだ、頑張ってやっていこうと、思い直せたのも本多先生に切っ掛けを頂いたからだと思います。
  なるこ会がどれだけ自分にとって救いとなっていたのか、そのなるこ会を支えて頂き、さらに発展にも御尽力頂いた本多先生へ「有難うございました。そして、ゆっくりお休みください。」とお伝えしたい思いです。

  最近は通勤時間に3時間かけており、ナルコを考えると良い方向へ向ける仕事ではないのですが、結婚をして2児の父として責任がある事もあり頑張っております。
  そんなこともあり、診察を受けて薬をもらう事が当たり前となり、なるこ会への貢献が出来ていない事が非常に申し訳ないのですが、本多先生の作り上げたなるこ会には陰ながらですが協力し、時間が出来た時にはなんとか恩返しが出来ればと思います。


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2711 投稿 本多 裕先生の思いで                副理事長  河野 通久

  私が初めて先生とお会いしたのは平成15(2003)年5月でしたから、先生とのお付き合いは未だ7年程です。
  私の発症は昭和55(1980)年頃,年齢的には37歳と遅い方ですが、ニューヨーク駐在帰りの本店営業バリバリの課長代理の時だっただけにかなりショックを受け苦労もしました。
  当時名だたる有名病院・大病院を訪ね受診しましたが、いずれも「異常なし」「原因不明」の結果しか得られず、散々悩んだ末「この異常な症状は神様か仏様か天かが私に与えた試練であり,受け入れざるを得ない」と一生付き合う覚悟をし、以後病院通いは止めました。(大変な苦労をしましたがここでは省略します)
今から考えると「もっと目と耳とを開いていれば」と思いますが・・・・

  平成15年に娘が、「本多先生とナルコレプシー」をネットで見つけ、一度行ってみてはと勧めてきました。私は半信半疑(失礼)ながら予約を取り、愚妻共々代々木で先生にお会いしました。
  先生は例の柔和なお顔でかなりの時間(30分)をかけて症状を聞かれ、「ナルコの疑いが濃厚だが,更に検査をしてみたい」と言われました。その場で予約し、検査を受けた後、結果も愚妻共々お聞きしました。
先生は「河野さん,貴方は間違いなくナルコです。ナルコの症状は投薬によりかなりの部分抑えられます。」と言われました。私は病気である事を始めて告げられホットしたと言うか、原因がはっきりした嬉しい思いで一杯になりました。
また、「長い間苦労をされましたね。」と言われた時は涙が出そうになりました。

  その後、薬の種類・量を修正しながら忠実に服用した結果、今では8割方は症状を抑えられるようになり、下手な健常人より元気で患者仲間からは「本当にナルコ患者なの?」と言われるまでになりました。相手と話する際、ややもすれば「トロンとしていた目に力が入る」快感が取り戻せた事がサイコーです。
と言う次第で、私の20年を超える苦労は何だったのかと思うと同時に、私にとっての先生は地獄から天国へ導いて下さった大恩人(神様)となられました。

  なるこ会との関わりは、お会いして直ぐには始まりました。最初は「患者会としてなるこ会と組織があり活発に活動しているので見てみないか」から始まり、「手伝ってくれないか」に進みました。

  私は「生きていれば60歳までは仕事に打ち込み、それを超えればご褒美として自分の好きな事、未経験な事を楽しむ」を自分なりの人生設計を考えていたことから、引き込まれたくない一心で「未だ現職が有るから無理です」と2年近く逃げ回りました。
(後から考えると真に自分勝手なことで恥ずかしい話ですが・・・)

  その間先生はしつこい(失礼)程、誘い続けられ、私の方も先生の「ひととなり」に接するにつけ「仕方ないかな。これ以上逃げるのはヒトの道に反するか」と覚悟し、参加を決心し現在に到っています。

  なるこ会は40年の歴史を誇るとは言え、組織体として見ると脆弱です。一番の問題は多くのNPOに共通する「人材難」と「資金難」です。

  「人材」に関しては、お願いしたい人は居ても現職を持っている方は簡単には参加して貰えません(皆自分の事で精一杯なのでしょう)。
  「資金」に関しては、年会費3000円を頂く会員が400人いても会費収入は120万にしかならず、これでは年1回の総会、会誌の発行、若干のパンフレット等の印刷で消えてしまいます。(現在は企業からのご寄附を10万、20万と言った小口でよいから毎年お願いすることし、会費収入と同等かそれ以上になって来ていますが。)

  先生を評して皆さんは「やさしい」と言われますが、私は「頑固な夢追い人(それだから40年も続いたとも言えるでしょううが)」であり、自分自信は「頑固な現実主義者または実務家」だと思っています。私は、合理的でないものは嫌いであり排除します。先生は全てを抱きとめ、抱え込み、何とかなるとお考えのようでした。
  その為、先生とは意見が合わない事が良くあり、どちらも頑固なので譲らず、と言ってそのまま行けば喧嘩別れになるため「しばらく休戦」と言ったことが多々ありました。

  例えば「会誌を英訳し海外にも送付しては」と言われます。が、英訳するにはそれなりの人材が必要であり、同時に来るであろう「問合わせに即対応する体制」が必要です。私から見ると、海外版を作製する意味合いとそれに対する考えが欠落しているとしか思えません。
  又、「資金は寄附をお願いすればよい。米国では1億単位での寄附を集めている」と言われます。が、寄附に対しては米国と日本では考え方が違います。(キリスト教の影響なのか、ステイタスシンボルなのかは判りませんが)
  私から見ると、日本で億単位の寄附を集めるなんてことは殆ど不可能であり、現実には「何処へ、どうやって寄附をお願いできるか」を検討することが精一杯であるとしか考えられません。それも継続的に。今の日本では「毎年継続した小口を集めるしかない」と私は考えて居り、そのように実行していますが。等々

  現在は先生の持っておられた夢(幅広く奥行の深い)の実現に向けて少しでも近づくよう頑張ろうと考えております。幸か不幸か「やりたい事」には困らないので、優先順位、体力的な可否を検討しながら、地道に、且つ大小の花火も織り込みながら・・・・
また、学会、製薬会社、厚労省、他の患者会等の皆様と関係を深めながら・・・・
  先生 どうか天国から見守っていて下さい。
  長い間お疲れ様でした、今は安らかにお休み下さい。


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2712 投稿 本多 裕先生の思い出                            T.H.

  私は、小学2年生の時に日中からよく居眠りをしていました。それを見ていた母がおかしく思い、近くの病院に診察してもらうため連れて行かれました。思えばそれが、「ナルコとの付き合い」の始まりでした。
  その後世田谷の国立小児科病院で晴和病院の本多先生を紹介してもらい、いろいろな検査をして本当にナルコレプシーと診断されました。当時小学校5年生でした。
  当時の先生は、不安な顔をした私を見ながら、いつも落ち着いた対応をして下さり、とても安心しました。
  薬を飲みながらの生活と睡眠表の記載を毎日していましたので、とても大変でした。
また学校では、授業中居眠りしていても、先生が「起こしてはいけません」と周りの生徒に話してくれていましたので何も聞いていない授業もあり、テストの時には困りました。
  中学生になってからも部活中や授業中に寝てしまい、ナルコレプシーの説明をすると、「ナルコ」というあだ名までつけられしまいました。しかし、この頃から「なるこ会」の年に1回のクリスマス会に参加するようになり、同じ病気で苦しんでいる人と出会えてとても勇気付けられました。

  その後高校・大学にどうにか進学が出来、2000年には、不動産関連の会社に就職しまいした。その頃から病状の方もだんだん良くなり。先生にも余りご心配をかけなくなりました。
  最近、「なるこ会」も「NPOナルコレプシー協会」となりましたが、若手があまりいないこともあり、本多先生から「なるこ会」の話合いへの参加を勧められ、今では、到りませんが理事をさせて戴いています。
  私も自分が理事をお引き受けすることについては、当初色々と迷いましたが、「先生の今までの努力のお陰で毎日生活できる事を思い、少しでも役に立ちたい」と決心してお引き受けすることにさせて貰いました。

  現在、新規の会員の申し込み受付業務を担当しています。今年に入って、入会者が増えていて嬉しい限りですが、年令層は10代の方から70代までと幅広くナルコに年齢は関係無いようです。(今まで病気と判らなかった方が多いためでしょうか)
今後もナルコレプシ−の啓蒙活動に力を入れ、より多くの患者方が健康な社会生活を送れるよう努力して行きたいと思っています。


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2713 投稿 本多 裕先生を偲んで                        A.H.

  「色川武大」と言う小説家が居られました。ペンネームを色々持って居られましたが、もう1つの有名なものは「阿佐田哲也」でしょう。この方はナルコレプシーの患者でもあり、麻雀をこよなく愛し、「アタリ」と思った途端に脱力発作が起きる等を小説に書いておられます。「なるこ会」の古くからの会員は、この方にお会いした事があります。本多先生は「この人が早死したのは体調管理をきちんとしていなかったからだ」とアーテイスト(和紙貼絵作家)である私に、睡眠時間について非常に厳しく注意されました。

  かってナルコレプシーの患者が東大病院を頼って集まり、医師の先生方は患者と同じ薬を飲み合って対処法を考え、国際学会(主として米国)に論文を送る等、懸命な努力をされていた本田先生達。当初は送った論文も(よく読みもせず?)送り返されると言う辛苦を舐めながら、それでも研究を続け、とうとう認めさせ、ナルコレプシーの研究に関しては日本が先頭を走っていると言っても過言ではない現在です。
  そんな中、ナルコレプシーに関する世界大会(シンポジューム)が東京で開催される事になりました。1994年の6月の事です。
  「なるこ会」はブースを1つ頂き、会の活動について報告しました。また、米、英,独国からの患者代表の方々と親睦を深めました。私は最終日のバンケット(ご苦労様スモールパーテイー)で、「患者としてわかって頂きたい事」を英文で読みました。
  元になる私の日本文は自分で申すのもなんですが、ナルコレプシー患者の苦しみについて非常にわかりやすい例を挙げてありました。それを英訳したのは裕先生で、とても良い訳だったそうですが,今手元に残ってないのが残念です。
  スピーチは3分が限度(裕先生がそうおっしゃいました)だそうですが、私の文は3分を超えました。そのため流暢に速く読まねばなりません。
  先生が綺麗に英文で打って頂いたものに,私は自分流に色々書き込む。先生が「汚いから」と言って又打ってくださる。突っかかり突っかかり私は何度か色々な人の前で読む練習をしました。先生は会議を抜けて来られて私の練習を聞かれる。
発表当日の朝,早めに行かなかったら当時の事務局長の田宮さんから電話で「本多先生が、家で練習しても仕方が無いから早くこっちへ来て練習しなさい!と怒ってらっしゃるよ」と。
  「あのー、私ナルコレプシーで朝早くから動くの苦手なんです。本多先生!」って言いたかったけど出かけて行って練習。
私は,患者としては1人しかこんな発表はしないのだから、つっかえたりジャパニーズイングリッシュでも構わないと思っていた次第です(開き直り?)。患者の強み?
  しかし裕先生は総責任者。「上手く行ってくれ」と思われるのは当たり前のことでしょう。
最終的には3回も先生に英文で打ち直して頂いた綺麗な原稿を持って私は出て行きました。しかし、読んでいる途中でさすがの私も「あれ?・・」と気が付きました。同じ行を二度読んでいたのです。
  「ソーリー」と言って読み直しをし、3分を遥かに超えて終わりました。が、外国の先生方はシーンと聞いてくださいました。 読み違えたのは、裕先生が打ち直された最初の2回は同じだったものが、最後の3回目の時は助詞の置き場所を変えられたため行が動いており、それに気付かず勘で読んでいた私が間違えてしまったのでありました。
終わって皆の居る場所に戻った私の方へ、1人の外国の先生がグルッと遠回りしながら通って行かれました。私の着物姿が珍しかったのか、内容が気になったのか、英会話の出来ない私にはその時も、今も理由がわからず残念と思うと同時に心に残っています。

以下、その時読んだ日本文を載せます。
  「皆さん、今晩は。私はナルコレプシーの患者です。そして日本の「なるこ会」の会員です。「ほしのはつみ」と言うアーテイストネームを持っている絵描きで、コラージュ作家として日本のオリジナルな和紙を使って抽象画を創っています。
  「なるこ会」は、1967年に発足し、本多先生を中心にナルコレプシーの患者達によって組織されているグループです。私達は年1回12月の第2火曜日に全国の会員達が集うことにしています。
  私達は度々眠くなります。そんな時誰かがナイフを喉に突きつけて「眠ったら殺すぞ!」と言われても、「どうぞ、そうして下さい。私は眠ることを止められないんです。」と答えるしかないのです。
  この例えのような痛みや、苦しみ、不利益さを抱えて「ナルコレプシーの患者達」が毎日を暮らしていることを、どうかご理解下さい。脱力発作は非常に集中力が必要な時に度々出ます。
  ナルコレプシーの患者で居眠りや脱力発作のため、職場を追われている人を私は何人も知っています。ナルコレプシーの患者達は何に対しても感じやすい心の持ち主だと思います。ですから持てる神経の限界まで使い果たしクタクタになっていたのでしょう。ナルコレプシーと言う病気になることで「そんなに無理をしないでユックリ休み、ユックリ眠りなさい」と、私たちを助けてくれたのだと思います。
  もしもナルコレプシーの患者さんにお会いになったら、「一緒に助け合いましょう」と、お伝え下さい。日本の「なるこ会」は、いつでもお友達をお待ちしております。」

−以上−

 追:スピーチの下線部分を裕先生は「英語ではこう言う表現になる」とおっしゃって英文で書かれたのは、日本文にすると「拳で鼻をへし折るぞ」でした(本当?)。
  読み終わった後、先生はニコニコでした。


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2714 投稿 本多 裕先生を偲んで                             TAKUYA

  本多裕先生には診て頂いたのは、当時私が15歳でそれから15年程も晴和病院で診て頂き続きました。あの診察室で患者の話しを一言も聞き漏らさず、生活の細部までをカルテに書き込まれていた姿が思い出されます。患者を医者という立場から症状を治療するというだけでなく、人として一生懸命に診ていただき、心のあり方や生き方にも大きく影響を受けました。今では当時では考えられない程に回復しました。
  私の場合は伯母が雑誌にて裕先生の記事を読みナルコレプシーを知りましたが、裕先生は世の中へのナルコレプシー啓蒙も精力的にされており、なるこ会ホームページ作成の際も「手伝って欲しい」と何度も訴えられ、少しだけお手伝いさせて頂きました。ここ十年間ほどでは、睡眠障害に対する一般知識や理解が、随分と広まったのを実感します。なるこ会の立ち上げも、NPO化し独立させた運動も、皆裕先生の呼びかけによるものと聞いています。先生は、我々患者のゆく道の先を常に照らす存在でありました。
  当時は本もまともに読めないような容態でしたが、今では参考書を読み資格試験の勉強も集中してできる位まで回復しました。先生への恩義は語りつくせません。
  大学を卒業した私は、地元の商社に就職しましたが、仕事は営業車で客先を訪問し受注・配送するというものでした。当然両親は危険と反対していましたが、若気の反抗期で私はで声を耳にしませんでした。ある雨の日、対向車とドアミラーを接触する事故をおこしてしまいました。先生に相談し、落ち込んだ私を「車の仕事は辞めた方がいいですね」と優しく転職を勧めてくれ、命を救って頂きました。
  苦労して再就職した先は派遣会社でしたので、両親と住む神奈川の実家から神戸に単身赴任することもありました。その間は、母が早稲田にある晴和病院に治療薬を取りに通いましたが、先生からは「本人からの相談もなしに」と怒られたそうです。
  裕先生はよく「診察時間守ってください」と言っておられましたが、私は予約の時間がルーズになることもしばしばあったのに、先生は怒りもせず大変温和に接してくださいました。なのに、会費未納の会員の患者さんをなるこ会名簿からはずすこともやむを得ないという話しがあったときにだけ怒ったことがあったそうです。「ひとりひとりが大切だと。」
患者のことを第一に考えて、患者さんの名前や性格も覚えておられました。

  故人を死を悲しんだりせず前向きに生きることが、先生への最大の供養だと私は思います。
生前から先生は「ナルコ患者やなるこ会が一人立ちすること」を望んでおられました。私は、先生への感謝の気持ちを忘れず前向きに生きていきます。
  本多 裕先生、長い間本当にありがとうございました。そして今後も私達も見守ってください。     合掌


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2715 投稿 「ナルコレプシー」                           H.K.

  「ナルコレプシーに間違いありません」そう言われた時、なんだかホッとしました。
居眠りが原因で勤務先を2度解雇されました。母に「いつもぼーっとしている」「真剣味が足りない」と叱られ続けてきました。
どんどん強くなっていく睡眠薬(当時は熟眠障害と診断されていたため)を理由に破談になりました。「悪霊が憑いている」と面と向かって言われたこともありました。

  これら全てが私の怠惰な性格によるものではなく、まして悪霊のせいでもなく、『ナルコレプシー』という中枢神経の病気によるものだと判明したからです。
  「薬の服用で8〜9割の症状は抑えられる。夜はゆっくり眠れ、日中の活動にほとんど支障はなくなる」と主治医の先生から聞き、すうっと肩の力が抜けました。これでもう、金縛りに苦しむことも幻覚に怯えることも悪夢にうなされることもないのです。日中の、ところかまわず津波のように押し寄せてくる眠気と必死に闘うこともないのです。
  「もっと早くわかっていれば・・・」という思いはありましたが、それを上廻ってあまりある「人生をやり直せる」という未来への希望が、私の心を大きく占めていました。

  病院からの帰り道、私は嬉々として兄に検査結果を報告しました。その時の私は『ナルコレプシー』を病気だとは思っておらず、まして自分が病人だという意識はさらさらなく、ただただ「これからの普通の暮らし」が楽しみで、兄もそれを喜んでくれて、応援してくれるものとばかり思っていたのです。
  しかし、兄は「向精神薬」「リタリン」という単語に過剰な反応を示し、それ以上私の話を聞こうとせず、「そんなのはただの精神的な弱さだ。」と声を荒げた挙句、「そんな薬を飲むぐらいなら、実家に戻り生活保護を受けて生きていけ」とまで言いました。 初めはきょとんとしていた私も、次第に兄の興奮が乗り移ってきて同じように声を荒げ、しまいにはぷちんと携帯電話の電源を切りました。

  「私は病人なんだ・・・」その事実にただただ呆然としました。私はいつも資本主義社会でいうところの「最大多数の最大幸福」の中にいました。普通に生まれ、元気に学校に通い、当たり前のように社会に出て働きました。「その世界からドロップアウトしたんだ・・・」そう思うと涙がこぼれ落ちました。これから一生付いて回る差別と偏見を思うと怖くなって、道端にしゃがみこんで大きな声で泣きました。

  自分を病人だと自覚してから、まず私がしたことは、この病気の犯人探しです。なぜこんな病気に罹ってしまったのか、一体誰のせいなのか。父のせい、母のせい、ご先祖さまのせい、昔の自分のせい・・・。誰かのせいにしなければ、納得できなかったから。自分が可哀想過ぎたから。探しても探しても犯人を見つけられなかった私は、様々なことをしてみました。
  世の中に背を向けて、自分の運命の拙さに泣いて拗ねてみました。絶対薬なんか飲むもんか、と意地を張ってみました。
「こんな病気の一つや二つ治せないなんて、医者も医学も大したことねぇな」とひねくれてみたり、「せめて来世は健康に生まれ変われますように・・・」と祈ってみたり、『一生治らない・不治の病』という言葉をちらつかせて、友人たちの同情を引いてみたりもしました。
  けれど、しばらくして止めました。「私らしく」ないので止めました。根っからの大阪人気質のせいでしょうか、誰にもどうにもできないことをハムレットのように悩み続けるのは苦手です。(大阪の人はこれを「辛気臭い」と表現します。)悲劇のヒロインは性に合わないのです。
  けれど、犯人を見つけることもできず悩み続けることもできない、この病気ときちんと向き合うことができるほど気持ちの整理もついていないという、なんとも中途半端な辛気臭い状態に陥ってしまいました。

  ちょうど、フランス留学をしていた頃、こんな状態だったことを思い出します。フランス語の優雅な、流れるような響きが大好きでしたが、あくまで第二外国語で、挨拶ができる程度。それなのになぜか、優秀な人たちを差し置いて交換留学生に選ばれてしまいました。当然、現地の大学の講義などわかるはずもなく、友達もできず、全てを放り出して帰国する訳にもいかず、自分を無視して流れていく時間をただぼんやりと眺めていました。
  そんな時、買い物に行ったマルシェで、一人のフランス人男性に声をかけられました。「日本のどこから来たのか、いつフランスに来たのか、学生か、何を学んでいるのか、両親は元気か、兄弟はいるのか、リヨンは好きか、フランス語は大丈夫か・・・。」
  「大阪から、2ヶ月ほど前に、そうです、フランス文学史を、元気です、兄と弟がいます、好きです、」と、訥々とゆっくりと答えていきましたが、最後の質問ではたと止まりました。
  「フランス語は大丈夫か」この質問にウィと答えれば嘘になる。ノンと答えれば自分の努力まで否定してしまう。悩んだ末、思い切って「サヴァアレ」と答えました。サヴァアレとは、「きっと大丈夫、これから良くなる」というニュアンスの言葉。この言葉を口にした時、目の前がぱぁっと明るくなったような気がしました。自然に笑みがこぼれました。
  それを聞いた男性も心からの笑顔を見せて、こう言ってくれました。「そう、サヴァアレ、うんうん、サヴァアレ。いい言葉だ。そう言える君は大丈夫」と。
  こうして私は、約2年の留学を無事終えることができたのです。

  今の状態も、あの時と全く同じでした。前を向くことも後ろを向くこともできないで、ただじっと膝を抱えて丸くなっているだけ。どうにかしたい気持ちだけに捉われて、その気持ちで自分をがんじがらめにしていました。
「サヴァアレ」声に出して言ってみました。あの時の男性の笑顔を思い出しました。もう一度「サヴァアレ」と言ってみました。リヨンの町並みを思い出しました。「サヴァアレ」そう言って大きく深呼吸したら、全てわかったような気がしました。
  ナルコレプシーに罹ったのは、神様のせい。誰のせいでもない、神様のいたずらのせい。だから犯人探しはもう終わりにしよう、誰が悪いわけでもない。
  でも、今の主治医の先生に出会えたのも神様のおかげ。瞬時に私の病気を見抜いてくれた先生の言うとおりに投薬治療をしてみよう。
  この会の存在を教えてくれたのも、一緒に頑張ろうと言ってくださる皆さんと出会えたのも神様の思し召し。病人なら病人でもいい、だったらとびっきり元気な病人になってやろう、そう思いました。神様に色々ありがとうと感謝したいぐらいです。

  私は今、ハムスターを飼っています。
ウィリアムという名前(某国の王子様の名前を頂きました!)の食いしん坊の腕白坊主です。(私は、「動物を飼う」という表現が実は好きではありません。いつもは「動物と暮らす」という表現を使うのですが、ここは飼育論をする場ではないので、あえて「飼う」と書かせて頂きます。) ハムスター飼育歴20年、今までの飼育数は12匹です。
 人生の2/3を彼らと過ごしてきたことになります。かわいいから、というのが飼育の最たる理由ですが、私は彼らに何度も何度も助けられました。というのも、彼らは夜行性です。私が眠るのと入れ替わるように、活発に行動を始めます。
  一晩に何度も金縛りを繰り返し(ひどい時は50回以上ありました)、その内、自分が生きているのかどうかわからなくなりました。幻影に恐怖で声もあげられず、時にはそれらに襲われ、気を失うことがありました。夢の中で、見知らぬ人に追いかけ回され、殺される寸前、悲鳴を上げて飛び起きました。
  そんな夢を繰り返し繰り返し見ているうちに、今自分がどこにいるのか、これは夢なのか現実なのか、わからなくなりました。そんな時、聞こえてくるかすかな音が、いつも私を現実に引戻してくれました。今のは夢だと、私は生きていると教えてくれました。 カッタコットと回し車を走る音、コリコリと餌を齧っている音、トスンとしりもちをついた音・・・。彼らの出す底抜けに陽気な音で、私は私を取り戻し、再び眠りにつくことができました。
  ある動物学者はその著書の中で、「神が都会に住むあわれな動物好きな者どものためにゴールデン・ハムスターを作ってくれた」と言っています。もしそれが本当なら、このことも神様にありがとうと言いたいです。

  投薬治療を始めてから、睡眠時の症状はほとんどありません。安心して布団に潜り込むことができるようになりました。けれど、今でも、回し車の音は私にとって優しい子守唄です。これからもずっとずぅっと、何より優しい子守唄です。

  そうそう、『ナルコレプシー』で良かったことが1つだけありました。それは・・・、私が今住んでいる部屋のことです。
  破格の家賃(大阪のド真ん中・駅から徒歩3分・最上階の角部屋で、共益費・水道代込み45000円!ちなみにウィリアムがいることは大家さんには内緒です。)と、私に毎晩起こる金縛りと幻覚症状のせいで、友人たちから『幽霊マンション』『殺人部屋』の烙印を押され恐怖の対象となっていたのが、ナルコレプシーの診断により、『ただの激安マンション』だと証明されたことです。
何度誘っても誰も遊びにきてくれなかったけれど、今度の週末には友人たちを、たこ焼きパーティーでもしようかな♪

  私は病人です。 それもとびっきり元気な病人です。 時折、心が挫けます。
そんな時は声に出してこう言います。   「サヴァアレ!」

−完−


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2716 報告 第5回関東睡眠学会の聴講報告          副理事長  河野 通久

  関東睡眠学会(関東に於ける睡眠障害の学術会議)も、第5回を数えるまでになり、本年も2月27日に開催されました。当会は第1回目より本多裕先生のご尽力により共催者として名前を連ねておりますが、今回から「ムズムズ脚症候群友の会」も共催者に入れて頂いております。
  今回は25のテーマの研究発表と1つの特別講演がありました。(詳細は省略します)

  ナルコレプシーの関係では、本多真先生による「ナルコレプシーにおけるカルニチン代謝異常」がありましたが、本内容は2月発行の「なるこ会便り」で報告した11/13の講演内容とほぼ同じである為、判りやすい講演内容を再録します。


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2717 報告 本多真先生講演『ナルコレプシーと肥満について』の概要       桑原 正孝

  11月14日(土)午前中 総会に先立って本多真先生の講演が行われました。本多先生は易しく説明して下さったのですが最先端の研究であり少し難しいところもあるため分かる範囲でその概要を述べます。
  本多先生は、(財)東京都医学研究機構 東京都精神医学総合研究所において睡眠障害プロジェクトのリーダーとしてナルコレプシーをはじめ睡眠障害の研究・治療をされており当会の顧問を引き受けていただいております。



  よくナルコレプシー患者は寝ていて運動しないからとか食べては寝ているから太るということが言われるが、そうではなく病気の一環として太りやすい性質があるのではないかと考えられる。
昨年(平成20年)から東京大学のグループと共同研究を進めてきたナルコレプシーの新しい遺伝子について説明する。

1.これまでの研究
  ナルコレプシー患者には肥満傾向があるという研究は1930年代からあったが、ナルコレプシー患者以外の睡眠時無呼吸症候群など他の睡眠障害も含まれていた。
  きちんとしたデータに基づく研究は1986年に本多裕先生が初めて発表されている。本多裕先生の研究では標準体重(この当時は身長から100を引いて0.9をかけた値)の120%を超えている人がナルコレプシー患者では197人中83人(42%)いたが、昼眠くならない人では16%であった。
  1999年に摂食行動をコントロールする物質としてオレキシンが発見され、その後ナルコレプシーに関与していることが明らかになった。ナルコレプシー患者の脳脊髄液中のオレキシン濃度は測定できないくらいに減少している。ナルコレプシー患者では脳の視床下部外側野にオレキシン分泌に関係する細胞がほとんど無くなっている。ところが食欲を増進するはずのオレキシンが減っていて食欲が減退しているにもかかわらずナルコレプシー患者には肥満している人が多いという研究報告がでてきた。 現在では肥満を表す指数としてBMI(Body Mass Index:体重kgを身長mの2乗で割った値)が使われ、標準は22であり、25以上はやや肥満、30以上は高度肥満とされる。
  ドイツの報告では、ナルコレプシーの男性は76パーセンタイル、女性は61パーセンタイル(パーセンタイルとは値の小さいものから順に並べてその位置を表したもの。中央値は50)であった。アメリカの小児(8〜17歳)の調査ではBMIがナルコレプシー患者は25.5、非患者では21.4で患者が子供でも肥満傾向がある。オランダ、イタリアなどの報告書でもナルコレプシー患者には肥満傾向があることが報告されている。

2.動物モデルによる体重変化
  遺伝子の組み換えによりオレキシン細胞が壊れていくマウスを作ったところ、ナルコレプシー様の脱力発作を起こした。このモデルマウスを同じ母親から同時に生まれた正常なマウスと比較すると、食べる量は正常マウスに比べて少ないのにナルコレプシーモデルマウスの体重は生後20週で3割くらい体重が多い。(なお、夜の活動時間における活動量は正常マウスより少ない。)単にたくさん食べるためではないことが分かった。 このことは、ナルコレプシーという疾患そのものが肥満と関連があることを示している。
 
3.ナルコレプシーの新しい関連遺伝子
  これまでナルコレプシーと遺伝子との関係については本多裕先生が世界で初めて研究解明されたHLAがある。
  ナルコレプシー患者の皆様の協力を得て、昨年東京大学の徳永教授・宮川助教のグループと、故本多裕先生、本多真先生の共同研究結果が報告された。健常者との50万個のSNP(一塩基多型:標準的な塩基配列と比べると、一塩基だけが変異しているところがありこれをSNPといい遺伝的な個人差を知る目印となる)によるゲノムの比較解析を行った。その結果ナルコレプシーでは22番染色体のCPT1BおよびCHKBという遺伝子の近くにあるSNP(rs5770917)が関係していることが分かった。この塩基がチミンからシトシンという塩基に置換されているとナルコレプシーを発症する確率が1.8倍になる。
  CPT1Bは、細胞に必要なエネルギーを取り出すプロセスにおいて脂肪酸を変換する速さを決める酵素であり、ナルコレプシー患者ではこの過程でできるアシルカルニチンが異常に低いことがわかった。 
  アシルカルニチンを作る材料であるカルニチンが欠損したマウスでは絶食状況においては活動しなくなったり、体温が5℃も下がったり、働いているオレキシン細胞が60%から5%に減少し、夜間の活動期に眠り込むことが観察された。

4.まとめ
(1) 個人差はあるがナルコレプシー患者には肥満傾向がある。
(2) ゲノム解析によりCPT1BとCHKBがナルコレプシーに関係する新しい遺伝子であることが確認された。
(3) ナルコレプシー患者では脂肪酸をエネルギーに変換する過程で合成されるアシルカルニチンが異常に低い人の割合が多い。
(4) エネルギーを必要とする時に脂肪酸をエネルギーに変換するはずの機能がエネルギーを産出するのではなく脂肪酸を蓄積するように働きその結果肥満する可能性がある。

−以上−


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2718 報告 WAM助成事業の報告               副理事長  河野 通久

  本件は昨年8月発行の「なるこ会便り」で中間報告しましたが、全て完了しWAMにも報告が終了したので改めて報告します。
WAMは、「独立行政法人福祉医療機構」の略称であり、当会提出の企画が平成21年度の助成事業に指定され、200万円の助成金が交付されました。当会にとって始めての大事業となるため、検討を重ね全力で取組みました。内容等以下の通りです。

◆企画 :ナルコレプシーの発症が多いと言われる13〜15歳は中学生に相当する為 東京都内の公立・私立全中学校の先生方にこの病気を知ってもらい、早期発見・治療に結びつける。

◆具体策と経過 :
@5月下旬、対象校(約800校)の校長先生宛に、イ.ロ.ハ.を送付した。
 イ.趣旨説明とご協力のお願い状 (1部)
  文中に6/1〜7/31の月〜金(10時〜17時)は相談用に特設電話を設置し、当会役員が待機する旨明記した。
 ロ.配布用パンフレット (1校平均30部で合計24000部)
 ハ.掲示用ポスター (1部)ハ.用ポスター (1部)
A同時に都内の教育委員会(43)、健康相談センター(1)、日本睡眠学会にイ.ロ.ハ.を添付の上、支援のお願い状を送付した。
B6/1より待機したが、学校側からの反応は殆ど無く、6/10頃より直接「どんな様子か」電話入れを開始した。同時に毎日新聞に企画掲載を依頼した。
C6/19毎日新聞全国版に10cm四方の記事が掲載された。
D途端に新聞を見たと言って、各地から問合わせが殺到し始めた。 
  それぞれ症状を良く聞いた上で適宜アドバイスを行った。また、必要者には最寄の専門病院を紹介し、パンフレットの送付、[Q&A]の送付の対応も行った。
E6月末[Q&A]を全校(1校5部)に送付した。
F7月末で一応約束の期間を経過したので、通常の体制の戻した。

◆結果と総括 : 
  *都内の中学生は約24万人、先生・職員は2万人弱居られので、学校の対応の強弱はあるとしても相当な反応が有ると思われましたが、意に反し、「現在は該当者が居ない」との回答が多くいささか期待はずれに終わりました。
   原因の1つとして、先生方の日常業務は想像以上に多く、じっくり生徒を見る余裕が無いのが現実ではないかと推定されます。
  *電話入れは全て校長先生or副校長先生に対して行いましたが、受け止め方にかなりの差を感じました(学校あてに送付されている文書類が予想以上に多量である事も原因の1つか?)。
   保健担当の先生を「どう巻き込んで行くか」も課題として残りました。
  *ナルコレプシーについて知っている(聞いた事がある)先生は少なく、啓発事業の重要性を再認識しました。その意味では今回パンフレットは各先生に配布されていると推定されるので、一定の効果はあったと考えられます。

◆その他
  *新聞報道した結果、全国から問合わせがありました。
  *日本睡眠学会として学校保健会杜の関係を模索して頂きました。
  *代々木睡眠クリニックでは中学生初診者への対応を検討・実施して頂きました。

以上を踏まえ、今後この種の取り組みで各学校の反応を良くするには、以下の点も重要と考えます。(一部重複しますが)
 1.関係する、睡眠学会・医師並びに、教育委員会、保険医の支援をどう取り付けるか。
 2.学校の保健の教科書に睡眠障害に係る記述を何とか載せられないか。

−以上−


「ご参考」
  「学校への電話入れ」及び「毎日新聞を見ての問合わせ電話」の集計は次の記事の通りです。


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2719 報告 発送した中学校の対応についての報告         理事  町田  誠

  6月〜7月の2ヶ月間を特別対応月とし、相談用専用電話にナルコ会理事が待機しました。
その間、なかなか反応がないので「発送した中学校の対応がなされているのか知る」ために、直接学校に電話入れを行ない聞いてみました。約196校(相手不在、休校、会議で連絡取れなかった71校を除いた。)から得た反応は以下の通りです。

尚、パンフレットを見て連絡してくれたケースが次の二件ありました。
1.このパンフレットを見て世田谷区の教諭自身から電話をくれました。
    内容―よく寝る生徒が居る、ナルコレプシーか分からないのでどうしたら良いか。
    こちらからは、「ナルコレプシー Q & A」を送付し対応をお願いした。
2.新宿区の母親から電話で相談して来られました。
    内容―私立高校2年生の息子が授業中も眠ってばかりいるので、担任の先生が心配して、中学部に来たパンフレットを渡してくれて連絡した。
    こちらから代々木睡眠クリニックへ連絡して、診察してもらうことになった。

電話応対者
校長41
副校長101
看護教師15
その他39
合計196
発送物が届いたか確認
届いた111
確認していない39
分からない19
合計169
発送物の処理内容
パンフレットを配布82
ポスターを掲示61
分からない7
合計150
学校の対応について
会議、話し合い、話題17
フォローしていきたい6
合計23








★毎日新聞が今回の啓発活動を採り上げて、6月19日朝刊で報道した結果

  タイムリーな報道であり、反響は非常に大きく37件の問い合わせがありました。
全て相談事項であり、各症状を聞いた上で適宜アドバイスを行いました。また、必要と思われる相談者に対しては最寄りの専門病院を紹介し受信を勧めました。同時にパンフレットの要望者には別途送付しました。
  理事が相談窓口に待機していたので、この問い合わせに適正な対応ができたことは結果として良かったと思っています。

○問い合わせの状況
    6/19 13件、6/22 5件、6/23 2件、6/24 3件、6/25 3件、6/26 2件、6/29 3件、
    6/30 1件、7/3 1件、7/9 1件、7/15 1件、7/21 1件、7/31 1件
      合計 37件
  
○地域別相談者数


○年齢別相談者数
     小学生 3名、中学生 10名、高校生 8名、成人 8名、壮年・老年 6名、不明 2名
       合計 37名

○電話相談してきた人
     母親 15件、父親 2件、祖母 3件、教諭 5件

○問い合わせ内容


○電話相談に対するなるこ会の対応




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2720 投稿 ナルコと共に人生を語る 第4弾          理事長   白倉 昌夫

  第3弾では新婚生活のお話をしました。4弾は脱サラして会社を設立し事業スタートした頃のナルコレプシーとの関係についてお話致します。
  まず会社設立した会社名は「潟}ル・ビ」社名は妻のお兄さんが○の中に美しい美をカタカナにした名前を付けました。
  当時は28歳で資金もないので、且O昭社の会社事務所に机を一つ借り潟}ル・ビの電話を引き、電話がかかってきた時は且O昭社の事務員が「潟}ル・ビです。」と話し、取り次ぐ方法でスタート致しました。会社を起こしましたが、事務所もない、社員もいない社長一人の会社でした。
  約1年半続けました。お金もない私にとっては経費がかからない「他人の会社にイソウロウ」ですからお金も貯まりました。また、寂しい思いもしないですみ、且O昭社の入田さん、町田さんに会社経営のいろんな事を教えていただき、私の人生の成功した一つとも思っています。

  私の会社はブローカー会社です。仕事があると印刷業ですから、紙は洋紙販売会社から仕入れ、企画デザインはデザイン会社に頼み、製版は製版会社に、印刷は印刷会社に、製本は製本会社に、運送は小さい物は私がライトバンで運び、大きい物は運送会社にお願いして、各工程に料金を少しずつ上乗せし上乗せ分が儲けになる。これがブローカー業です。
  この頃のナルコレプシーの私は、サラリーマン時代に運転のしかたを学びましたので、事故もなく、一応社長ですので、日々仕事中に眠いときは軽く寝ても怒られる事もなく充実した毎日でした。
  しかし、約1年半の間に2つの悩みができました。
1つ目は、ブローカー業では、将来考えた時に会社の発展ができそうもない。
2つ目は、日祭日以外は休みを取ることができない。平日に冠婚葬祭や休みを取らなくてはならない時にとる事ができない、また私の健康状態が悪くなった時や、家族が病気になった時など悩みました。幸いに1年半の間にでは困ったことは起きませんでした。
  今後に於いて、平日に休みを取らざる得ない時が起きた時を想像すると心配で堪りません。
この二つを解決するには機械設備し、従業員を使う必要がある。少なくても5人位の会社にすれば平日でも休む事ができる、又会社規模の発展にもつながると考え、23歳位の2名と知り合い社長、私の妻を含む4名で製版設備した会社に変身して前進のみ、今までとは違う生活が始まりました。
  機械設備する為、事務所兼工場は30坪位の工場を借りました。今迄は私個人の生活だけ考えれば良かったのですが、今後は家賃や、従業員の給料など皆で働いて利益を出す事に専念しなければならない状況になりましたが、独立当初は日々安定した受注ではなく、仕事のある時は断らずに徹夜しても働きました。
  私は日中、営業で得意先廻り、仕事の多い時は夕方から社員と共に工場で生産する。1年半前とは違う生活になりました。私自身は一般の人より丈夫でタフと思っていましたので、チョット位の徹夜、夜遊びでも病気しない頑丈な鉄人のような体と思っていました。
  しかし、なるこ患者は健常者のように一睡もしないで仕事することはできません。鳴子患者の私は朝までの徹夜の時は2回以上机にうつ伏せになって10分〜30分位の仮眠をしないと仕事をできません。チョット休むとなるこ患者はパワー全開するようになります。眠い時、我慢して仕事すると、ハット眼が覚めた時にとんでもない事をして大失敗した経験が多々あります。
ナルコ患者の特徴ですね。66歳になっても失敗を時々起こします。
眠い時に我慢していると、会話でも関係ない事を話したりして失敗します。
ナルコ会患者の大半の人達は経験していると思います。
  毎日こんな生活で営業しかできなかった私は、技術もできるようになり、妻には会社が倒産しても「営業ができ、技術ができるようになったので」再就職して家族を養えるから心配するなといって安心させたりしました。
  こんな生活はナルコ患者の徹夜は健常者のように眠くならないではいられない。
しかし、深夜3〜4時を限度にして最低4時間位睡眠をとれば健常者以上に働けると気が付き完全の徹夜はしないように心掛けました。
  その後は、私自身は寝付きが良く短時間睡眠で元気をなるタイプと思っていましたので、苦にはなりませんでした。
  妻も私の為に千葉県八千代市の高津団地の保育園に長男2歳あずけて文京区江戸川橋の会社に通勤し、経理部門を助けてくれました。
  この頃には2人目がお腹にいて産まれる寸前まで働いていました。赤ちゃんを抱いて会社に来たり、2人目は女の子で保育園にあずけられるまでは近所の奥さんにお金を出して見ていただいたり、1年後は長女も保育園にあずけて会社に通勤、今思うと妻は想定外のとんでもない人と一緒になったものと思ったことでしょう。この先も次男、次女と4人子供を育てたのですから。

車運転の参考例です。
  なるこ患者は車の運転は危険と思い、免許を取らない方は多いと思いますが、車社会では運転免許は必要と思います。私は妻に運転免許を取ってもらい、家族旅行の時は交替で運転するようにし、私の運転より妻の運転が多く、平均すると私が2割位の運転で8割は妻です。私が思うに我が家族は車の旅行については健常者の家庭より、家庭サービスで車での旅行は多くしたと思っています。暗くなった時のナルコ患者の運転は眠くなりやすいので、暗い時の運転は妻と私の交代数は多くなります。
  私一人の時は眠くなった時は早めに仮眠や、寝ない時は外の空気を10分以上、休み自分で眠気が収まった事を体に感じられる時に運転します。
ナルコ患者の皆様、参考にして下さい。

  「余談ですが、私の父母、私の子供4人計8人でナルコレプシーの研究に血液検査等に協力しました。ナルコレプシーの遺伝性を含めた検査と思いますが、先生はハッキリした答えはありませんでしたが、遺伝性はないと思います。
  なるこ会患者で子供に遺伝した人はおりません。また男性の患者夫婦、女性の患者夫婦でも障害児出産やナルコレプシーの遺伝はついては一人もでておりません。ナルコレプシーだから子供を作らないと思っている人は考え直してください。

  次回はナルコレプシー患者に家庭生活や社会生活で皆様に参考になるような事を思い出し沢山、取り上げお話したいと思っています。
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