************************************************************  「なすや」メガネページ・論その2 Ver.1.0  "megane2.htm" ************************************************************ 我々にとってメガネとは何なのだろーか?

我々にとって メガネ とは何なのであろーか?


 なすを始めとして、世の中にはメガネっ娘、つまり
「メガネが似合う女の子」
がだぁい好きな男性(女性でも可)がいる。
 このページを読んでみる皆さんも多かれ少なかれそうだろう。
 そこで問う。
「なんで『メガネが似合う女の子』が好きなの?」
 私、なすも最初は心の奥底から響くこの問いに答えられなかった。
 そりゃそうだろう。メガネが無くても何らかの魅力があれば
「これはいいぞぅ!」とか叫んでしまう軟弱者が、こんなに
単純でありながら深遠な問題に対して理論武装する事など望むらくもない。
 そんな中、こんな文章を読んだ。
 書いたのはかの偉大な科学ライター、アイザック・アシモフ。
 「生命と非生命のあいだ」(ハヤカワ文庫NF)掲載の「無学礼賛」より。  

 映画やテレビでメガネの果す役割に気づいたことがおありだろうか。
今日の大衆的視覚芸術においては、メガネは高度の知性の象徴なのである
(おそらく、世間の人が、教育ある人間は読書という有害で不健康な習慣にふけって
目をだめにしてしまうものと信じているためだろう)。
<中略>
 もっといい例はハリウッドのお定まりのやつなのだが、これはあまり始終使い古されて
陳腐になってしまったので、ハリウッドでさえ、とてももう一度使うわけにはいかないという
代物である(まず信じ難いようなできごとだ)。ここでいうお定まりとは、絶世の美女
(ローラ・ラブリーと呼んでおこう)がメガネをかけているために醜く見えると仮定する
例のやつである。
 この手は、何度も使われた。ローラ・ラブリーは図書館員だったり学校の先生だったりするが
(ハリウッドの慣習によれば、女性に独身と不幸せを保証する二つの職業である)、
もちろんその事実を示すべく大きな鼈甲縁のメガネ(最も知的なタイプだ)をかけている。
 さて、観衆の中の五体満足な男性なら誰でも、メガネをかけたローラの姿に、メガネをかけて
いない時と少しも変る事なく情緒をかき立てられる。
ところが、映画の主人公を演ずる俳優の
歪んだ眼には、メガネをかけたローラ・ラブリーは平凡な女に見えるのだ。話の途中で、世慣れた
親切なローラの女友達が、彼女からメガネを外す。思いがけなくもローラはメガネなしで完璧に
見えることがわかり、わが主人公は今や美人のローラと激しい恋に陥って、ここに申し分なく
華やかなフィナーレとなるのである。
 生きている人間なら、(a)メガネがあってもローラの器量は何ら損なわれないし、わが
主人公もそれは百も承知にちがいないこと、(b)ローラがちゃんとした理由でメガネを
かけていたのなら、それを取ったのではきっと他人の顔が見分けられなくなって、まちがった男に
キスしてしまうことになる、ということが分らないほど頭の悪いものがいるだろうか。
 そうだ。このメガネは、文字どおりのメガネではないのだ。それは単なる象徴−知性の象徴に
すぎないのだ。
観衆は二つのことを教えられる。つまり、(a)教養が目立ちすぎると社会で
邪魔になり不幸をもたらす、(b)正規の教育は不可欠ではなく、その気になれば最低に切り詰める
ことができ、その結果として知性の発達がおさえられれば幸せがくる、ということである。
(下線部・なす)
 まあ、ここで論じているのは「メガネがあっても」美人、という話なのだが、それでも何か
胸にあったわだかまりがぱっと溶けてしまった感はないだろうか。  そう、私達のメガネっ娘とは、
「知性的で物静かな女の子」
 の事だったのだ!
 さあ、謎が解けた今、何を世にはばかる事があろう?
 叫ぶのだ!心の底から!
「わしゃあメガネっ娘が好きじゃあああ!」
・・・と。


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