家なき娘(岩波文庫版より) エクトル・マロ 作 津田穣 訳 上巻 解説  ここに語られている『家なき娘』(アン・ファミーユ)En famille,1890. という物語は、フランスの小説家エクトル・マロの書いたものである。読者諸君は既にお気付きであろうと思う、この物語は同じ作者の『家なき子』(サン・ファミーユ)のいわば姉妹編である。  作者エクトル・マロ Hector Malot という人は、別段数奇な運命を持った人ではない。今から百十年ほど前、一千八百三十年五月にセーヌ川下流の大都会ルアンに近いラ・ブウイユという町で生まれ、一千九百七年にフォントゥネ・ス・ボアで亡くなった。父は公証人であった。マロはルアンやパリで法律の勉強をしたが、もともと文学に対して激しい愛情を持っていたからまもなく小説家となったのである。かなり沢山の作品を著している。しかし彼の名前が不朽のものとなったのは子供たちの小説を作ったことによってであった。中でも『家なき子』やこの『家なき娘』などは際立ってすぐれ、少年少女の読み物あるいは広く家庭小説中の白眉と称せられている。ルュシーという自分の愛娘を喜ばせるために書き始められたのだという。右にあげた物語は二つながらフランス翰林院(アカデミー)の賞を受けた。今は立派な古典となったこれらの流麗典雅な文章を綴った頃、マロは老境に近かった。『家なき子』を出してのち十年余り経ってこの『家なき娘』を書いたのだが、その時彼は六十歳であった。  『家なき子』は少年を主人公としていて、この不幸な少年が、滑稽なお猿や賢い犬たちを引き連れた旅回りの老人に売り渡され、荒野で怪物に追われたり森で狼に犬をさらわれたり(上巻)、炭坑で生き埋めにされたり(中巻)、いろんな悲しい目や怖い目に遭いながら決して絶望せず智慧と忍耐と愛情をもって戦いぬき、とうとう痛快な冒険の後、美しく優しい生みの母親に巡り合う物語(下巻)であるが、『家なき娘』のほうは、一人の少女を主人公としていて、この可憐なペリーヌという少女が、辛うじて辿りついたパリの場末で胸も張り裂けるばかりの目に逢い、貧乏だが情には厚い人々と別れ、畑の中の番小屋に恐怖の夜を明かしたり飢えて街道に行き倒れたり、これまた様々の苦難を経た後、遂にある驚くべき企てを心に秘めて目的の村に乗り込み、一先ずすてきな小島に住居を定める(上巻)という物語であり、『家なき子』の特長としているあの思いがけぬ興味が次々に繋いでゆく場面の極まりない変化はここにも多分に感じられはするが、むしろこの変化はここでは何か女性固有の繊細なもの、静かな味わい深いものに潤っていて、下巻に入るとやがてこの潤いが勝ちを占めるのである。単なる面白さがいよいよ精神的な喜びに移って行き、宮殿のような村のお邸に突然現れて秘策を着々と実行する不思議な少女の描写は、初夏から晩秋に入った自然のように既にたまらなくしみじみしたものとなって、私たちを深い感興に誘うのである。作者の願いも実はそこにあったのにほかならない。  一体作者は『家なき子』の大成功を見ても別に急いでその姉妹編を書こうという気を起こさなかった、但しよい題材があればと考えて長い年月を過ごしたのだが、ふと『家なき子』の最後の箇所つまり少年が遂に幸福な家庭を拵え得たその章を主題としてこれを展開してみようという欲望を覚えた。−−『家なき娘』の原名アンメファミーユが『家なき子』の最終の章『家にて(アン・ファミーユ)』からそのまま採られたのもその為である。−−マロは、楽しい家庭の再建のためにはどんな困苦も欠乏もいとわず自分の意志を貫徹し、遂には人々をして自分を愛せしめるに到る、雄々しい少女を描こうとしたのである。例えばこの小説の後記に作者自らはこうのべている、「『家なき娘』を支配すべきものは意志の研究であった。作中に私は、一つの性格における意志の形成、それの働き、それの果たしうる奇蹟の数々、そういうものを描こうと努めたのである」。実地にソムの泥炭坑を訪れたり麻の工場を調べたり長い研究と準備とがこの小説に先立ったことは言うまでもない。  原名のアン・ファミーユという言葉そのものには、右にのべたところでもお分かりになるように、『家なき娘』という意味は少しもない。「家を持って」「楽しい家庭で」「一家打ち揃って」というような意味合いの日本語でこの小説の題名にふさわしいものを、長い間私は捜したが見つけることができなかった。従来『家なき娘』として知られているのでこの標題を踏襲した。  カルドン・ドゥ・モンチニー氏は、いつもながらの変わらぬ友情を持って、微力な訳者の疑問を懇切に解いて下さった。特に記して感謝の微意を表したい。 昭和十六年夏            京都にて 訳者 家なき娘 上巻 1  土曜日の三時頃はよくそうだが、ベルシの税関の入り口は混雑していた、そうして河岸には車が四列になって後から後から詰め掛け、樽を積んだ二輪車、炭や材料を乗せた車、秣や藁を運ぶ荷馬車などが皆、六月の明るい暑い太陽の下で、日曜の前の日にパリへ入ろうとして急ぎながら、許可の来るのを待っていた。  そうした車の群れの中に、柵門から大分離れたところに一台、どことなく哀れな滑稽味のある妙な形の車があった。それは一種の家馬車であったが、家馬車よりは更に簡単で、軽い枠に厚ぼったい布を張り、屋根は厚紙に瀝青(チャン)を塗ったもので、この全体に小さな四つの車輪がついている。その布も昔は青かったに違いないが、ひどく色ざめて汚れて、すり切れているので、たぶん青かったのだろうとしか言えない。同様に、四方に大きく入れてある文字も消えているので、これを判じようとしても、まあ大体そんなところだろうくらいで我慢しなければならなかった。一つはギリシア文字で、もうφωτογ(フォトル)の始めしか読めず、下のもう一つの文字はドイツ語のgraphie(グラフィー)らしく、もう一つはイタリア語のFIA(フィア)らしい、最後に最も鮮やかにフランス語でPHOTOGRAPHIE(フォトグラフィー)とあり、これは明らかに他の三語の翻訳であった、そうしてみるとこれらの文字は旅程表みたように、この哀れなガタ馬車が、フランスへ入って遂にパリの入り口に着くまでに、様々の国を通ってきたのだということを示していた。  そんなに遠くからここまで、あの驢馬が車を曳いてきたのかしら?  一見それは疑わしかった、それ程驢馬はやせ衰えて弱っていた、がよく見るとその衰弱は、長い間貧乏をして疲れを忍んできたためにほかならなかった。実際これはヨーロッパの驢馬よりは背の高い、充分胴回りの太い頑丈な動物で、すらりとしている。毛は灰色で、腹部の毛は、道中の埃に汚れているけれど薄い色をしていた。黒い幾つかの斜線が、筋のついた蹄を持つしなやかな足を描いていた、そうしてどんなに疲れていてもやはり、我意を張るように決然と、いたずらっ子らしく、首を高くあげていた。馬具もこの車に相応しく見つかりしだいの様々の色の太紐や細紐でいい加減に繕ってあったが、日光と蝿を防ぐため、道々花の咲いた枝や葦を切り取って一杯驢馬にかけてあるので、その蔭になってよく見えなかった。  そばに十二、三歳の少女が、歩道のふちに腰をおろして驢馬を見張っていた。  この子の特徴は一風変わっていた。明らかに混血児で、どこかにそぐわないところがあったが少しも荒々しいところはなかった。つやのない髪の毛、琥珀色をした肉色は意外だったけれどしかし顔は悧巧そうな優しみを見せ、その優しみを切れ長のずるそうなおっとりした黒い眼が、際立たせていた。口も重々しかった。体は、休憩の疲労に沈みきっていたが、顔と同様、繊細で同時に神経質な美しさを見せていた。両肩は、昔はたぶん黒かったのであろうが、何ともいえない色になった角張ったみすぼらしい上衣の中で、消えてゆく細い線のように柔らかであった。両脚はぼろぼろのスカートの下で、しっかりとしていて、自由に動いた。しかし貧しい生活は、その生活を送るこの少女のりりしい物腰を少しも弱めていなかった。  驢馬は高い大きな秣車の後ろにいたので、面白がって、時々その草を一口くわえ、悪いことはよく承知している賢い動物だから、注意してそれをそっと引き抜くのであった、これをしなかったら見張りも楽だったのだが。 「パリカール、およし!」  すぐ驢馬は、後悔した罪人のように首を下げたが、瞬きをし耳を動かしながらその秣を食べ終わるとすぐ、また急いでそれを始める、お腹が減っているのである。  少女が四度目か五度目かに驢馬を叱ると、程なく車から呼び声が洩れた、 「ペリーヌ!」  少女はすぐ立って垂れ幕をあけ、車の中に入った。一人の婦人が、床に貼りつけてあるのかと思われるほど薄い布団の上に寝ていた。 「なあに、お母さん?」 「パリカールが何をするの?」 「前の車の秣を食べるのです。」 「よさせなさい。」 「ひもじいのですわ。」 「ひもじいからといって、人様のものを取ることはできません、その荷車挽きが怒りでもしたらどういいます?」 「もっと厳しく見張りますわ。」 「もう間もなくパリへ入るんだろうね?」 「許可を待っていなければなりませんのよ。」 「まだ長いこと待つのかしら?」 「お母さん、苦しくなったの?」 「なあに、いいんだよ、むっとして息苦しいものだから。何でもないよ。」  婦人は、言葉を発音するというよりむしろ息切れのした咽喉を鳴らして、喘ぎながらそう言った。  これは娘を安心させようとする母の言葉であった、実をいうと彼女は呼吸もなく、力もなく生気もない、痛ましい状態にあった、そうして二十七、八歳を越えてはいないのに壊血病の最終期にあったのである、それでも驚くほどの美しさをとどめていた。顔は全くの瓜実顔で、眼は優しく奥深い、その娘の眼だ、が病気の為に荒んでいる。 「お母さん、何か差し上げましょうか?」 「なあに?」 「お店があるんです、シトロンを買ってきましょう、すぐに帰ってまいりますわ。」 「いいえ、お金はしまっておきましょう、少ししかないのだから! パリカールのそばへ帰って、秣草を食べさせないようになさい。」 「手におえないのよ。」 「ともかく見張っておいで。」  少女は驢馬の首のところへ戻った、そうして、動きが起こった時、驢馬を引き留めて十分に秣車との距離を拵えたから、もう驢馬は届かなくなってしまった。  はじめ驢馬は逆らって、構わず前へ乗り出そうとした、が少女が優しく話しかけて撫でてやり、鼻に接吻をしてやると明らかに喜んで、長い耳を垂れておとなしくなった。  少女は、もう驢馬に手が要らなくなったから、あたりのようすを眺めて楽しむことができた。川の上では、汽船や曳き船が往来していた。団平船は回転起重機で荷揚げをしていた。起重機はその長い鉄の腕を船の上にのばし、ちょうど手でつかむようにその積み荷を取り、それが石や砂や炭なら貨車へあけ、それが大樽なら岸に沿って並べていた。また循環鉄道の橋の上では汽車が走っていたが、その橋弧(アルシュ)でパリの眺めはせき止められ、パリは見えるというよりはむしろくらい靄の中で想像されるのであった。最後に彼女の近く、目の前では、検査の役人たちが、藁車に長く槍のようなものを突き刺したり、車に積んだ樽によじ登って、錐で強く刺しては迸り出る葡萄酒を銀の盃で受けて、ちょっと味わうとすぐに吐き出していた。  みな珍しく新しかった、少女は大変面白かったので時間は知らぬ間に経った。  しんがりに家馬車を並べた一隊の旅商人の仲間に違いないお道化役者そっくりの十三歳ばかりの男の子が、もう十分も前から少女の周りをうろうろしていた、が彼女は気づかずにいた、そこで男の子は決心して彼女に話し掛けた。 「やあ、いい驢馬だなあ!」  少女は何も言わない。 「これ、おいらの国の驢馬かい? ずいぶんびっくりさせやがらあ。」  少女は男の子を見た。そして結局よい子供らしく見えたので答えてやった、 「ギリシアのですよ。」 「ギリシアの!」 「だからパリカールというんだわ。」 「ははん! そういうわけかい!」  少年は肯いて頬笑んだけれど、なぜギリシアのロバがパリカールと呼ばれるのか、それが余りよくわからなかったことは確かである。少年は聞いた、 「ギリシアって遠いのかい?」 「とても遠い。」 「あの・・・支那より遠いかい?」 「ええ、もっともっと遠い。」 「じゃあ、君はギリシアから来たのかい?」 「もっと遠いわ。」 「支那?」 「いいえ、パリカールはギリシアからだけれど。」 「廃兵院町のお祭りに来たのかい?」 「いいえ。」 「どこへ行くんだい?」 「パリへ。」 「家馬車はどこにおく?」 「オーゼールで人に聞いたら、お城横の大通りに空き地があるんですってね?」  少年はうつむいて、腿の上を強く二度叩いた。 「お城横の大通り、なあんだ、あんなところかい!」 「広場はないの?」 「あるとも。」 「じゃあ、いいじゃないの?」 「君たちの行くところじゃあない。お城の横は柄が悪いんだ。君の馬車には屈強な男がいるのかい、匕首なんぞ怖くないような、つまり匕首でやったりやられたりするような?」 「私たちは、お母さんと私だけ、それにお母さんは病気なの。」 「驢馬は大事にしているんだろう?」 「そりゃもう。」 「ところが翌日はもう盗まれちまう、これが手始めなんだから、あとは見当がつくだろう、いいことはありゃしないよ。「牛の胃袋」様が教えてやるんだ。」 「ほんとう?」 「へっ! 本当かだって、君、パリへ来たことないのかい?」 「ないわ。」 「だからだ。あんなところに馬車を置けるなんて言ったオーゼールの奴等は、間抜けものさ? どうして君、鹽爺さんのところへ行かないんだい?」 「鹽爺さんって、私知らないわ。」 「ギヨ園の持ち主さ、菜園なんだ、夜は柵を締めちまう、何も怖いことはない、夜忍び込もうとする奴なんぞ、鹽爺さんは、たちまちどんと鉄砲で撃っちまう。」 「高いでしょうね?」 「冬は高い、みんながパリへ戻ってくる時なんで。しかし今は確かに一週四十スウ以上はしないと思う、それに驢馬は畠で食べ物があるし、殊に薊が好きだったら。」 「薊は好きだと思うわ!」 「そりゃあ驢馬の知ったことさ、それに鹽爺さんは悪い人じゃあないし。」 「鹽爺さんという名前の人なの?」 「いつも飲みたがっているので、そういうんだ。以前屑拾いをやっていて、屑でしこたま儲けたんだ、片腕を折ったので始めてそれをやめた、だって片腕じゃあ屑箱を漁って歩くのに都合が悪かろうからね。そこで土地貸しを始めたんだ、冬は家馬車を預かるし、夏は誰にでも見つかり次第の人に貸す、その上ほかの商売もやっている、つまり犬の赤ん坊を売るんだ。」 「ギヨ園って、ここから遠いの?」 「ううん、シャロンヌだ、しかしシャロンヌといったって、きって分からないだろうな。」 「パリへ来たことないんですもの。」 「あのね、あそこだ。」  少年は、北へ向かって手をあげた。 「税関を出たらすぐ右へ廻り、城壁に沿って半時間ほど通りを行くんだ、ヴァンセンヌの散歩道、これは広い並木道だが、これを通ったら左へ折れて、そこで人に尋ねたらいい、ギヨ園といえば誰でも知っている。 「ありがとう、お母さんに話すわ、ちょっとパリカールのそばにいて下されば、すぐ話してくるわ。」 「いいよ、僕は驢馬に、ギリシア語を教えてくれるように頼んでみらあ。」 「秣を食べさせないようにね。」  ペリーヌは車に入り、少年のお道化役者の言ったことを母に伝えた。 「そういうことなら、躊躇しないでシャロンヌへ行きましょう、しかし道は分かるかしら? パリへ入るんだからね。」 「大変分かりやすいところらしいわ。」  少女は出がけにまた母のそばへ行き身を屈めて、 「幌付きの車がたくさんあってよ、幌の上に『マロクール工場』と書いてあって、その下に『ヴュルフラン・パンダヴォアヌ』という名前があるわ、河岸に並んだ葡萄酒樽にかぶせてある布にも、同じ字が。」 「別に不思議なことはないよ。」 「あの名前がこんなにたびたび目につく、それが不思議だわ。」 2  ペリーヌが驢馬のそばのもとの場所へ戻ってくると、驢馬は口を秣車に突っ込んで、まるで秣棚の前にでもいるように悠々と食べていた。 「食べさせてるの?」と彼女は叫んだ。 「そうさ。」 「荷車挽きが怒ったら?」 「僕じゃあ相手が悪いや。」  少年は拳を腰に当て、仰向いて、敵を嘲笑うような恰好をして、 「やい、何だと! へなちょこ野郎!」  しかし少年は、パリカールをかばって張り合わなくてもすんだ。検査の役人たちに槍で探られる番がその秣車に廻っていたのである、そうして秣車は税関を通っていってしまった。 「さあ今度は君だ、じゃあ失敬すらあ、さようなら、もしおいらの消息が知りたかったら『牛の胃袋』といって聞くがいい、誰だって返事をしてくれる。  パリの税関を守る役人たちは多くの風変わりなものを見慣れている、がこの写真屋の馬車に踏み込んだ役人は、そこに若い婦人の寝ているのを見て、殊に、すばやくあちらこちらに眼を投げて、どこにも惨めさだけがあるのを見て驚いた。 「申し述べるものはないか?」役人は調べを続けて尋ねた。 「ありません。」 「葡萄酒は? 食料品は?」 「ありません。」  二度言われたこの一語は、極めて正確なものであった、布団、二つの藁の椅子、小さな食卓、土のコンロ、機械と幾つかの写真用具、これ以外に車の中には何もなかった、旅行鞄も、籠も、着物も。 「よろしい、入ってよし。」  税関を越えるとペリーヌは、『牛の胃袋』の勧めたとおり、パリカールの手綱を曳いてすぐ右に折れた。彼女の辿った大通りは城砦の斜面に沿っていた、そうしてところどころ剥げた茶色の埃だらけの草の上には、日光になれた程度に応じて、仰向けになり、うつむけになって、人々が寝ていた。眠りが途切れ、再び眠ろうとして両腕を伸ばす人々もいた。少女はこの人々の様子、傷のついた、すすけた荒くれ顔、そのぼろ服、その着方を見て、このお城付近の住民はなるほど夜はあまり油断ができまい、ここでなら気軽に匕首のやり取りがある筈だと、肯いた。  少女はこの連中に仲間入りするのではないから、今は自分に関係のないこの観察をするため立ち止まりはしなかった、そうして別の方を−−パリの方を眺めた。  何ということだ! あの醜い家、納屋、きたない庭、あの塵の山のいくつも立っている広々とした地面、あれがパリなのだ、あれが、近づくにつれ道程の数字の減ってゆくにつれていよいよお伽噺風になってゆく子供らしい想像で長い間夢見てきたパリなのだ、お父さんの口からあんなにたびたび聞いたパリなのだ、そうして同様に、大通りの反対側の斜面で、獣のように草の中に寝転んでいる縛り首にでも逢いそうな面構えの男女、あればパリ人なのだ。  彼女はその広さを見てこれがヴァンセンヌ散歩場だなと思った。そうしてこれを越えた後、左へ折れながらギヨ園を尋ねた。誰でもギヨ園を知っていたにしても、そこへ行く道筋については、皆が皆一致しはしなかった。少女はどの名前の道を行けばよいのか一度ならず迷った。しかし遂に、樅や、樹皮のついたままの板や、ペンキ塗りの板や、瀝青(チャン)を塗った板や、いろんなのでできた塀の前に出た、そうしてその塀についた二枚戸が開いていて、そこから広場に車輪のない古い乗り合い馬車と、これまた車輪のない鉄道用の貨車とが地面においてあるのを見た時少女は、周囲のぼろ家がどうやら余りいい状態をしてはいないけれど、ここがギヨ園だなと思った。もし彼女がその印象の保証を必要としたならば、草の中で転がっていたまるまるした十二匹ほどの小犬が、それを与えてくれたことであろう。  少女はパリカールを往来に残して入った、するとすぐ犬どもは、少女の脚に飛び掛かり、小さく吠えながら足を噛んだ。 「何だい?」と声がした。  少女は声のした方を見た、すると左手に、家ではあろうがまるで別のものであるともいえる長い建物が見えた。壁は、漆喰の板瓦や砂利の畳石や木煉瓦やブリキ箱で出来ており、屋根はボール紙や瀝青塗りの布で、窓には、紙や木やトタン板が貼ってあり、ガラスさえついていた。全体はロビンソン・クルーソーが建築師で、『フライデー』らが職人であったかと思わせる素朴な技術で作られ、整えられていた。庇の蔭で、ぼうぼうと鬚の生えた一人の男が、ぼろ屑を選り分けては、まわりに並んだ籠に投げ込んでいた。 「犬ころを踏んづけちゃいけねえぜ、」とその男は叫んだ。入ってきな。  彼女は命ぜられた通りにした。 「何の用だね?」と男は少女がそばへ行くと尋ねた。 「ギヨ園の持ち主は、あなたですか?」 「そうだよ。」  少女は手短に自分の希望を説明した、その間、男はそれを聞きながら時を惜しんで、手許に置いていた壜から葡萄酒を一杯、なみなみと注いで一気に飲み干した。 「構わねえよ、先払いしてくれりゃあ、」と男は少女を観察しながら言った。 「お幾らですか?」 「車が一週に四十二スウ、騾馬が二十と一スウ。」 「高いこと。」 「ここの値段はそうなんだ。」 「夏の値段ですか?」 「夏の値段だ。」 「薊を食べても構いませんか?」 「ああ、草だって食べていい、歯さえしっかりしていりゃ。」 「一週間はいませんから週払いはできませんわ、私たちはパリを通ってアミアンへ行くので、休みたいのです。」 「それだって同じことだ、車が一日に六スウ、驢馬が三スウ。」  少女はスカートの中を探って、一つ一つ、九スウを取り出した。 「これ始めの一日分。」 「ここへ入ってくるようにいいな、おまえの親兄弟に。幾人いるんだね? 大勢だったら一人について二スウ増しだ。」 「お母さんだけなのです。」 「そうかい、しかしなんでお母さんは出てきてものを言わねえんだい?」 「病気なのです、車の中で。」 「病気かい。ここは病院じゃあねえゼ。」  少女は心配した、病人は入れたくないといわれはしないだろうか。 「と申しますのは、あのう疲れておりますので。私たちは遠方からのものでございます。」 「どこの人だなんてえことは、わしは決してお尋ねしねえよ。」  彼は畠の一隅に向かって手をあげ、 「あそこへ車を置いて、それから驢馬は繋いでおきな、もし驢馬が犬ころを一匹踏んづけたら百スウ貰うぜ。」  少女が行こうとすると彼は呼んで、 「葡萄酒を一杯どうだね?」 「結構ですわ、私頂きませんわ。」 「そうかい、じゃお前さんの代わりにわしが飲もう。」  彼は、ついだ葡萄酒を咽喉へ送った、そうしてぼろ屑を分け始めた、すなわち『選り分け』にかかった。  少女はパリカールを示された場所に引き据えた。揺れないよう注意してやったがどうしても幾分か揺れた。それがすむと彼女はすぐ馬車へ入った。 「とうとうお母さん、着いたわ。」 「もう揺れもしないし、転がりもしないのね! 幾十里も幾百里も! 地球って広いのねぇ!」 「さあもう休めますから、お母さんのお食事に何か差し上げますわ。何になさる?」 「まず可哀そうなパリカールを車から放しておやり、あれも疲れているでしょう。食べ物や飲み物をやっておくれ、世話をしておやり。」 「本当にまあ、こんなに沢山の薊を私は見たことがない。それに井戸もありますのよ。すぐ帰ってきますわ。」  事実、少女はまもなく帰ってきて車の中をあちらこちら捜し始めた、そうして土のコンロと幾つかの炭と古びた鍋を取り出し、柴に火をつけ、前にかがんで、胸をいっぱい膨らませてふいた。  火が燃え出すと少女は車に戻った、 「御飯を召し上がるでしょう?」 「ちっともお腹が空いていないのですよ。」 「何か他のものを召し上がる? お好きな物を捜してまいりますわ、如何?」 「ご飯を頂きましょうか。」  少女は、鍋に少し水を入れ、一掴みの米をあけ、それが煮え出すと樹皮を剥いだ白い二本の箸で米をかきまわした、そうしてこの台所を離れるのは、大急ぎでパリカールのようすを見に行って二言三言声をかけて励ましてやる時だけだった、が実をいうとそうやって励ます必要はなかった、なぜなら驢馬は満足して薊を食べており、ぴんと立ったその耳で、ひどく喜んでいることが分かったから。  御飯が、よくパリの料理人達の出すもののように潰れかけてはいるがしかしお粥にはなっていない、ちょうど頃合に炊き上がると、少女はそれをお椀に山盛りにして車の中に置いた。  少女は、既に井戸から小さな水差しに一杯水を汲んで、二つのコップ、二つの皿、二つのフォークと一緒に、母の寝床のそばに並べておいた。少女は御飯のお椀を横に置き、スカートを伸ばして床の上に坐った。 「さあ御飯にいたしましょう。お給仕いたしますわ、」と彼女は、ままごとをする女の子のように言った。  少女の口調は快活だったが、母の様子を眺める眼差しは不安だった。母は布団の上に坐り、粗末な毛の肩掛けにくるまっていた、その肩掛けも昔は高価な織物であったに違いない、が今はもう、擦り切れ色褪せたぼろに過ぎなかった。 「お前はお腹が空いたかい?」と母は尋ねた。 「空いているわ、ずっと前から。」 「どうしてパンを食べなかったの?」 「二つ食べたけれど、まだひもじいのよ、お母さんも今に分かるわ、人の食べるのを見て自分も欲しくなれば、一杯くらいじゃとても足りなくなってよ。」  母は、フォークでご飯を口へ入れた、が呑み込めずに長いこともぐもぐしていた。 「よく咽喉へ通らない、」と母は娘の眼に答えていった。 「無理にやってみるものよ、二口目、三口目とだんだんよく通るようになるわ。」  しかし母はそこまで行かなかった、二口食べると、フォークを皿の上に休めた。 「胸がむかついて。あまり一所懸命にならない方がいい。」 「おお! お母さん!」 「いいんだよ、何でもないよ、食べたくない時は食べずにいても結構ゆけるものだ、休んだらまた食欲が出るかもしれない。」  母は、肩掛けを取って喘ぎながら布団の上に横になった、が、どんなに弱っていても娘のことを忘れず、涙を一杯溜めた目で見ながら、娘の気を紛らそうと努めた。 「お前のご飯はおいしいわ、おあがり、働くんだから力をつけなけりゃあ、丈夫でいて私を看護しなければならないからね、おあがり、ねえお前、おあがり。」 「ええ頂くわ、私、頂くわ。」  実をいうと少女は呑み込むのに骨が折れたのである、けれども母の優しい言葉のため少しずつ胸がくつろいで実際に食べ始めた、するとお椀は見る見るうちに空になる、その間、母は娘を愛情のこもった寂しい微笑で眺めていた。 「ほらねお前、無理にやってみなけりゃあ。」 「ねえお母さん! 私にもやれるといいのだけど。」 「やれるとも。」 「お母さんが私におっしゃったことは私がお母さんに申し上げたことだった、と、そう私は御返事したいのよ。」 「私は病気ですもの。」 「それならお母さん、よかったらお医者を捜したいわ、ここはパリなのよ、パリにはいいお医者がいるわ。」 「いいお医者は、お金を支払わないと動いてくれません。 「私たちは払いますわ。」 「何を?」 「私たちのお金を。お母さんの洋服の中に七フランあります、フロリン銀貨も一枚あるからそれはここで両替できます、私は十七スウ持っています。洋服の中を見てごらんなさい。」  ペリーヌのスカートに劣らず惨めな、しかし払われて埃は少なかったその黒い洋服と言うのは、布団の上に敷かれて毛布の役をしていた。かくしを探ると果たして七フランと、オーストリアのフロリン銀貨一枚とが出た。 「みんなで幾らになるの? 私、フランスのお金はよく分からないわ、」とペリーヌが聞いた。 「私もお前と殆ど同じように分からない。」  少女は計算した、そうして一フロリンを二フランとすると、九フラン八十五サンチームになった。 「お医者に払っても余るほどあるんだわ、」とペリーヌは続けた。 「私は言葉ではよくなりませんわ、薬を命ぜられますよ、どうして薬代を払いましょう?」 「私考えていることがあるの。私はパリカールと並んで歩いていても年中パリカールに話しかけて時を過ごしているのではないのよ、驢馬はそれが好きかもしれないけれど。私はお母さんや私たちのことや、殊に病気になってからの気の毒なお母さんのことや、私たちの旅のことや、マロクールに着くことなどもいろいろ考えるのよ。お母さんは、こんな家馬車などでマロクールへ繰り込むことができると思っていらっしゃる? この家馬車の通るのを見て人が随分よく笑ったわね。そんなことをして快く迎えてもらえるかしら?」 「そりゃあ、そんな風にして来られたら、自尊心を持たない親戚だって、きっと面目を潰すでしょうよ。」 「だからそれは止した方がいいわ、そうすればもう車は要らなくなるから売れます。それに一体今は何の役に立つの? あなたが病気になってからは、誰も私に写真を撮らせてくれないじゃないの。親切な人がいて私を信用してくれたところが、もう収入は無くなっているのよ。残っているお金で、現像液一包みに三フラン、仕上げ用の金と酢酸塩に三フラン、種板一ダースに二フランを使うなんてことは無理ですもの。売らなければならないわ。」 「で、これを幾らに売るんです?」 「これだって幾らかにはなるわね? 対物レンズは立派にしているし。それに布団もあるわ・・・」 「じゃあ何もかもかい?」 「お母さん、辛いの?」 「私たちは一年以上もこの車の中で暮らしてきました。お前のお父さんもここで亡くなられた、どんなにみすぼらしくっても別れると思うと苦しいよ。お父さんのもので私たちに残っているものはこの車だけなのだもの。こうして哀れな品物だって一つとしてお父さんの思い出にならないものはないのだからね。」  母の息苦しそうな言葉は全くやんだ、そうしてやつれた顔の上を抑えきれない涙が流れた。 「おお! お母さん、あんなことを言って御免なさい。」 「何も詫びることはない、私とお前とがあることにぶつかるごとに決まって代わる代わる悲しませあったのは、私たちの境遇の不幸というものです、また私が、子供のお前よりいっそう子供じみてしまって、抵抗し、考え、望む力を少しも持たないのは、私の暮らしの運命なのです、私こそお前の今言ったことをおまえに言わなければならなかったし、こんな家馬車ではマロクールへいけないとか、お前のそのスカート、私のこの着物、こんなぼろを身に着けて人様の前に出られないとか、お前の見通した事柄を見通さなければならなかったのです、そうでしょう? でも、そうした見通しも必要だったけれど、同時に何とかしてお金を工面する必要もあったので、そうすると私の弱い頭には夢みたようなことしか浮かばず、大抵は翌日を当てにするだけでした、まるで翌日は奇蹟が叶う筈にでもなっているように。−−自分の病気は治るだろう、収入はうんとあるだろう、などとねえ、夢でしか生きられなくなっている絶望した者の気の迷いだわ。馬鹿げていた、道理がお前の口を借りていってくれました、私が明日治るわけはないし、多くの収入も僅かな収入もあるまいし、そうしてみれば車も、中の品物も売るよりほかはありません。しかしそれだけではまだたりません、私たちはどうしても決心して、あれをも・・・。」  躊躇と苦しい沈黙の一瞬があった。 「パリカールでしょう、」とペリーヌは言った。 「お前、そのことを考えていたのかい?」 「考えていましたとも! でも口に出しては言えなかったの、そうして、いつかは売らなければなるまいと思うと苦しくてそれ以来、あれを見る勇気さえ出なかったわ、あんなに苦労した後は大変仕合わせな目に逢うマロクールへはつれてゆかれないで、私たちと別れ別れになるのかも知れない、とあれが感づいたらどうしようと思って。」 「第一私たち自身がマロクールで迎えてもらえるかしら! でも結局それ以外に望みはないし、追っ払われたら道端の溝の中で死ぬよりほかないのだから、どんなにしてでもマロクールへは行かなければ、そうして前へ出ても、門前払いをされないようにしなければねえ・・・」 「そんなことをされるかしら? お父様のことを忘れずにいてくれたら私たちを大事にしてくれるわ。あんなにいいお父様でしたもの! 亡くなった人たちに、いつまでも人は腹を立てているものかしら?」 「私のいうことはお父様のお考え通りなのだよ、私たちはそれに従わなければなりません。では私たちは、車もパリカールも売りましょう、そうして入ったお金で、医者を呼ぶことにしましょうね、どうか四、五日間で元気にしてもらいたい、ただこれだけが私の願いです。もし元気になれたら、お前と私のために上品な着物を買い、もしマロクールまで行くのに十分お金があったら汽車で行くし、不十分だったら行けるところまで行って、後は歩きましょう。」 「パリカールはいい驢馬ねえ、さっき税関で私に話し掛けた子供がそう言ったわ。あの子は曲馬団の子で、詳しいのよ、パリカールを立派だと思ったから私に話し掛けたのだわ。」 「驢馬がパリでどのくらいの値打ちのあるものか、私たちは知らないし、近東の驢馬になるとなお知らない。でも今に分かることだわ、そうして手段は決まったのだから、もうこの話はよしましょうね、あんまり悲しすぎることだし、それに私は疲れてしまった。」  本当に彼女は力なげに見えた、そうして、言いたいことを言い終わるためには一度ならず長く休まなければならなかった。 「お休みになります?」 「事がそう決まったのだから静かに、そうして明日を楽しみに、我を忘れてぐっすり眠りたい。」 「それじゃお母さんを邪魔しないようにしていますわ、暗くなるまでにまだ二時間ありますから、その閑に下着を洗います、明日きれいな肌着が着られたらいいでしょう?」 「疲れないようになさい。」 「私、疲れたことなんかないわ。」  母に接吻した後少女は、車の中をあちらこちら活発に身軽に動きまわり、小箱に入っていた一纏めの下着類を取り出してそれを鉢の中に置き、板の間でひどく減った石鹸のかけらを採り、全部を抱えて外に出た。御飯を炊いた後、鍋に一杯入れておいた水が沸いていたから、この湯を下着類に注いだ。少女は胴衣を脱いで草の上に膝をつき、石鹸をつけて揉み始めた。洗濯物といっても実は肌着二枚、ハンカチ三枚、靴下二足しかなかったから、全部を洗ってゆすぎ、馬車と柵との間の紐に広げるのに二時間はかからなかった。  働いている間、すぐ近くに繋がれていたパリカールは幾度も、少女を見張るようにしかし別段それ以上の様子はなく少女を眺めた。仕事のすんだのを見ると、少女の方へ首を伸ばして命令するような声で五、六度いなないた。 「私がお前を忘れると思うの?」と少女は言った。  そうして彼女はそばへ行き、場所を変えてやり、鉢を念入りに洗って、それで飲み水を運んでやった、なぜならこの驢馬は、人から貰うあるいは自分で見つけるどんな食べ物にも満足したが、飲み物となると大変難しく、清潔な容器の中の清水か、何より好物の上等の葡萄酒をしか受け付けなかったのである。  しかし少女は、それがすんでも立ち去らないで、乳母が子供に言うように優しい言葉をかけながら手で驢馬を撫で始めた、するとすぐ新しい草の方にかかっていた驢馬は、食べるのをやめ、その頸を小さな主人の肩に置き、もっとよく撫でて貰おうとした。時々その長い両耳を少女の方へ倒し、自分の幸福を示して震わせては、元のように起こした。  界隈の寂しい往来も、もう締まっている囲いの中も、静かであった。ただ遠くで海の音のような、はっきり響かない、深い、力強い、神秘な、隠然たる唸り、−−日暮れにもかかわらず活動と熱とを持ち続けるパリの呼吸と生気が聞こえるだけになった。  するとペリーヌは、物寂しい夕暮れの中で、先程思った事柄の印象にいよいよ強く胸を締め付けられた。彼女は、驢馬の首に自分の頭を凭せて、これまで久しい間自分の胸を詰まらせていた涙を流すのであった、驢馬は彼女の手を舐めていた。 3  病人の夜は安らかでなかった。着物を着たまま肩掛けを巻いて枕にして病人のそばに寝ていたペリーヌは、水を飲ませるために幾度も起きなければならなかった。彼女は、いっそう新しいのを与えたいため井戸へ汲みに行った。病人は暑さのため胸がつまって苦しんだ。ところが夜明け方には、パリの気候ではいつも厳しい朝の冷気のために彼女はふるえた、そこでペリーヌは二人に残った唯一枚の毛布、つまり少しは暖かい自分の肩掛けを、母に着せかけてやらなければならなかった。  できるだけ早く医者を呼びたいと思ったけれど、少女は鹽爺さんの起きるまで待つよりほかはなかった、だって鹽爺さんに聞かないで一体誰に、よい医者の名前とところを聞こうと言うのか?  鹽爺さんは、むろんよい医者を知っていた。それはへぼ医者のように歩いてくるのではなく馬車で訪れる有名な医者だ。教会堂のそばのリブレット町のサンドリエ氏である、リブレット町へは鉄道線路伝いに停車場まで行きさえすればよかった。  馬車で乗り付ける名高い医者のことを聞いて、少女は、お金を十分払えるかしらと心配し、口にする勇気のでないこの事を巡りながら、漠然と恐る恐る鹽爺さんに質問してみるのであった。爺さんはやっと気づいて、 「払うお金のことかい? そりゃあ何だ、高いよ。四十スウ以下じゃあないね。それにどうしても来てもらいたけりゃ先払いした方がいいぜ。」  少女は教えられた通りに行って、楽にリブレット町を見つけた、が、医者はまだ起きていなかったので、馬車部屋の入り口で往来の標石の上に腰をおろして待たなければならなかった、馬車部屋の後ろでは、馬車に馬をつけようとしているところだった。こうしてここにいれば、医者を通りすがりに捕らえることができるだろう、そうして四十スウを渡せば、決心してきてくれるだろう、ただギヨ園に住んでいるものですが来て下さいと頼んだだけでは、聞いてくれまい、どうも彼女はそういう予感がしていた。  時は一向経たなかった。少女は自分の遅くなるわけを知る由もない母の心配を思って、いよいよ心を悩ましていたのだ。医者は母をたちどころに癒さなくとも、苦しみを止めてはくれるだろう。かつて彼女は父が病気になった時医者が自分たちの家馬車に入るのを見たことがある。しかしそれは未開の国の山中のことであった、そうして母が町へ行くひまのないままに呼んだその医者は、むしろ魔法使いのような物腰の床屋で、パリで見るような、死と病苦の支配者である、博学な、ちょうど、名高いと人々のいうからにはきっと自分の今待っている医者のような、そういう本当の医者ではなかった。  ついに馬車部屋の戸が開いて、黄色い車体をした旧式な二輪馬車を大きな労働馬が曳いて出てきて邸前に位置を占めた。まもなく医者が現れた。背の高い、でっぷり肥って赤ら顔で、顔のまわりに白い鬚の生えた人だ、田舎の長老といった風采に見えた。  医者が馬車に乗らないうちに、少女はそばへ行って願いをのべた。 「ギヨ園か。殴り合いのあったところじゃのう。」 「でも先生、お母さんが病気なのです、大変悪いんです。」 「おまえのお母さんは何をしておる?」 「私たちは写真屋なのです。」  医者は踏み段に足をかけた。  急いで少女は四十スウの銀貨を差し出した。 「私たちはおあしを払います。」 「三フランじゃが。」  少女はその銀貨に二十スウを足した、医者は全部を受け取ってチョッキのかくしに入れた。 「これから十五分したらお前のお母さんのところへ行く。」  少女はいい知らせを持ってゆくのが嬉しくて、駈けて帰った。 「あの人がお母さんを癒してくれる。あの人、本当にお医者さんだ。」  急いで少女は母の世話をし、母の顔を洗い、手を洗い、黒い絹のような見事な髪を整えた、次に家馬車の中を片付けた、そのため、家馬車はいっそうがらんとなり従っていっそう惨めになるばかりであった。  少し辛抱して待っていればよかった、馬車の音で医者の来たことが分かった、ペリーヌは駈けていった迎えた。  医者は、入って家の方へ行こうとしたので、彼女は家馬車を示した。 「私たちは、車の中に住んでおります。」  この家は一向人の住まいらしくはなかったが、医者は、そのお得意先のどんな貧乏にも慣れていたから何も驚いた様子を見せはしなかった。しかし医者を見ていたペリーヌは、医者がこの剥き出しの車の内で布団の上に寝ている病人を見た時医者の顔に雲のようなものの浮かぶのを見とめた。 「舌を出して下さい、手を貸して下さい。」  四十フランとか百フランとか払って医者に来てもらう人々は、貧乏人に対する診察がたちどころに済むことを、一向に知るまい。医者の診察は一分もかからなかった。 「これは入院しなければならぬ、」と医者は言った。  母と娘とは同じ恐怖と苦痛の声を上げた。医者は命令の口調で言った。 「お嬢さん、ちょっとあちらへ言っていて下され。」  ペリーヌは一瞬ためらったが、母に目顔で促されて馬車を出た、けれど遠くへは行かなかった。 「私はだめなのでしょうか?」母は低い声で言った。 「そんなことは誰も言いはしませぬ。ここでは受けられぬ手当をお受けになる必要があると申しますんで。」 「病院に娘を連れてゆけましょうか?」 「お嬢さんは、木曜日と日曜日に面会できます。」 「別れ別れになるなんて! あの娘は私がいなくなったらパリでひとりぼっちで、どうなることでしょう? 娘がいなかったら私はどうなるでしょう? もし死ななければならないのなら、どうしてもあの子の手を取って死にます。」 「いずれにせよ、あなたをこんな車の中に置いておくわけにはゆかぬ、夜の寒さは生命に関わりますからな。間借りをしなければならぬが。それができますかな?」 「長い間でないなら、たぶんできるでしょう。」 「鹽爺さんは高くない部屋を貸してくれますじゃろう、が部屋だけではいかん、薬に、よい食べ物、それから看護がいる、病院ならそれがあるが。」 「先生、それはだめです、娘と別れることはできません、娘はどうなるでしょうか?」 「いずれなりと御自由に。あなた方のことですからな、私は私の申し上げなければならぬことを申し上げましたので。」  彼は呼んだ。 「お嬢さん。」  次に医者はかくしから手帳を取り出して白い紙の上に鉛筆で二、三行書いて、それをちぎった。 「これを薬屋へ持って行きなさい、他のところはいかぬ、教会堂のそばの薬屋じゃ。一番の散薬をお母さんに上げなさい、二番の水薬は一時間毎に飲ませるのじゃ、食事中には規那葡萄酒を。お母さんは食べないといけないからな。何でも食べたいものを、とりわけ卵を上げなさい。私はまた夕方に参りましょう。」  少女は尋ねるために医者についていった。 「お母さんは大変お悪いのですか?」 「入院を決心させるよう努めなさい。」 「先生は癒すことがおできにならないのですか?」 「できようとは思うがのう、しかし病院でやるようには看てあげられぬ、入院せぬのは狂気の沙汰じゃ。お母さんはあんたと別れたくないから厭だといわれるが、あんたは大丈夫じゃろう、利発な、はきはきした娘らしいからの。」  彼は急いで歩いて馬車のところまで来た、ペリーヌは彼を引き留めて、話をさせたかった、しかし彼は乗りこんで車を出した。  そこで彼女は家馬車に戻った。 「お医者さんはどうおっしゃって?」と母は問うた。 「お母さんを癒せるだろうって。」 「じゃあ早く薬屋へ行って、それから卵を二つ貰ってきておくれ、お金をみんな持っておいで。」  しかしお金は全部でも足らなかった、薬屋はその処方箋を看て、ペリーヌをさげすむようにして眺め、 「お金は十分にありますか?」  彼女は手のひらをあけた。 「七フラン五十ですが、」と薬屋は計算していった。  少女は手中のものを数えた、するとオーストリアの一フロリン銀貨を二フランと見て、六フラン八十五サンチームあった、すると十三スウ足らない。 「六フラン八十五サンチームしかありません、オーストリアの一フロリン銀貨を混ぜて。フロリン銀貨はいけませんの?」 「や、そいつはいけませんな、どうも。」  どうしよう? 少女は手をあけたまま絶望し、ぼんやり店の真ん中に立っていた。 「もしフロリン銀貨を取って下さるなら不足は十三スウだけになります。後から持ってきますわ。」彼女はついにそう言った。  が薬屋はこうした工面のどれにも応ぜず、十三スウの信用貸しもしなければ、フロリン銀貨を受け取りもしなかった。 「規那葡萄酒は急ぐものではありませんから後程取りに来て下さい。今すぐ散薬と水薬とを拵えてあげましょう、それなら三フラン五十ですみますから。」  少女は残ったお金で、卵と、母の食欲をそそるに違いない小さなヴィエンナ・パンを買い、ずうっと駈け通しでギヨ園に戻った。 「新しい卵よ、私、透かして見たのよ、このパンご覧なさい、よく焼けてること、召し上がるでしょう、お母さん?」 「ええ。」  二人とも希望に満ちていた。ペリーヌは絶対の信念に満ちていた。医者は母を癒すと約束したのであるからには今にその奇蹟を成し遂げるのだ、どうして自分を騙すはずがあろう? 医者というものは、本当のことを聞かれたら本当のことを答える筈である。  希望は大変食欲をつける。二日前から何も採られなかった病人は、卵を一つと小さなパンを半分食べた。 「ほうらねえ、お母さん。」 「よくなるようだ。」  ともかく母のいらいらした気持ちは薄らいだ、彼女はやや平静を覚えた。ペリーヌはそれを機会に鹽爺さんのところへ行って、車とパリカールを売るのにはどうしたらよいかを相談した。家馬車の方は造作なかった、鹽爺さんが、他の品物、−−家具や着物や、道具、楽器、反物、材料、新品、古物を買うのと同様にして買い取ってくれることになった、しかしパリカールの方は、そうはゆかない。小犬以外に動物を買ったことはなかったからである。そこで、水曜日まで待って馬市で売ろうと言うのが爺さんの意見であった。  水曜日、それはまだ大分向こうだった、なぜならペリーヌは希望に興奮し、その水曜日までに母は力を取り戻してここを立つことができると考えていたからである。しかしそうやって待つ間にも、少なくとも、二人が車を売ったお金で衣装を買い整えて汽車で旅していけることになれば結構だったし、もし鹽爺さんが高く買ってくれてパリカールを売らずにすめばなおさら良かった。パリカールはギヨ園に残しておき、自分たちがマロクールに着いたらそれを呼び寄せる。可愛い可愛いこの友達を売らずにすんだら、どんなに嬉しいことだろう! 驢馬はその後を仕合わせに、立派な馬小舎に住み、二人の主人をそばにして、一日中肥沃な草原を歩きまわれたらどんなに嬉しいだろう!  しかし少女の頭に数秒間浮かんだ幻想は打ち消されなければならなかった、なぜなら彼女が確かめもせずに想像していた金額に反し、鹽爺さんは、家馬車とその中の一切の品物を長いこと吟味した後、十五フランしか出さなかったからである。 「十五フラン!」 「それもお前さんのためを思ってなんだぜ、どうしてくれろと言うのじゃな?」  爺さんは自分の腕の代わりをしていた鉤で、家馬車のいろんなところを、車輪や棍棒などを叩いては軽蔑したような憐れみを見せて肩をすぼめた。  少女がいろいろ言葉を尽した揚げ句に得たところはただ、言い値に二フラン五十を増してくれたこと、家馬車は立つまで解かないと約束してくれたことであった、そうすれば立つまでは昼間はそこで過ごすことができる、これはお母さんにとって家に閉じこもっているよりいい、と少女は考えた。  少女は鹽爺さんの案内で、貸してやろうという部屋を訪れた時、家馬車というものがどんなに有り難いものであるかを知った、なぜなら爺さんは自慢そうに部屋のことを語るのだけれど、その自慢は家馬車に対する軽蔑と同類になるだけのものに過ぎず、その家はひどく惨めで臭いので、彼女たちはそれを借り受けるのに閉口しなければならなかったからである。  なるほど屋根も壁も布ではなかった、が別に家馬車より増しな点はなかった。周囲には、鹽爺さんの商う雨風に当たってもいい品物、割れたガラスや骨や鉄屑が積んであり、内部は廊下も部屋も暗くてよく目が見えず、保護の必要な品物、反紙(ほぐ)や、ぼろや、栓や、パンの皮や、長靴や、古靴、こうしたパリの塵芥を成すあらゆる種類の無数の屑物が入れてあった、そうしてこれら種々の堆積は息詰まるような強い臭気を放っていた。  この臭気は母に悪くはなかろうかと考えて少女が躊躇していると、鹽爺さんは急き立てて、 「急いでくれよ、屑広いが追っ付け戻ってくるんでな、わしはあそこにいて、持ち込む品物を受け取って、『選り分け』をせにゃならん。」 「お医者様はこの部屋を御存じですか?」と彼女は尋ねた。 「知ってるとも、侯爵夫人を看ていた時なんぞ、隣へは二度も三度もやってきたわ。」  この言葉は少女を決心させた、医者はこれらの部屋を知っていたのであるからには、その部屋の一つを借りよと勧めたのは承知の上で言ったのだ、また侯爵夫人がああした部屋の一つに住んでいたのであるからには、自分の母もそれらの一つに住んでいけないことはない。 「一日八スウだ、」と鹽爺さんは言った、「驢馬の三スウ、家馬車の六スウのほかにな。」 「家馬車は、お爺さん買ったじゃあないの?」 「そりゃ買った、けれどお前さんたちはそれを使うんだから、払うのは当たり前だわな。」  少女は答える言葉がなかった。こうして絞られるのはこれが始めてではなかった。長い旅の間に少女はたびたび、もっとひどく巻き上げられた。これは、持たないものの不利を顧みない持つ者にとっての自然の法則である。と少女は揚げ句の果てに考えた。 4  ペリーヌはこれから住もうという部屋を殆ど一日がかりで掃除し、床を洗い、仕切りや天井や窓をこすった。これらのものは、家が建って以来こんなに款待されたことは一度もなかったに違いない。  少女は、家から井戸へと洗い水を汲みに数え切れぬほど行き来しているうちに、囲いの中に生えているのは草と薊だけではないことを知った。風や鳥はあたりの庭から穀物の種を持ってきたし柵越しに近所の人は要らなくなった花を投げ込んだから、穀物の種や植物の幾つかは自分に適した土地に落ちて芽を出し、あるいは育ち、今はどうにか花を咲かせていた。その成長はむろん、庭園に植えられて、肥料や灌水や、始終世話を受けたものの成長とは似てもつかなかったであろう、しかし野生のものとはいえ、色や香りの魅力は劣りはしなかった。  そこで少女は、この赤や紫のにおいあらせいとうや唐撫子などの花を幾本か摘んで花束を拵え、部屋に置いて、そこを陽気にすると同時にそこから厭な臭気を追いだそうと思いついた。この花は、パリカールが気に入れば食べてよかったのだから別に誰の所有物でもなかった、が彼女は鹽爺さんに尋ねないでは、どんな細枝も折ろうとしなかった。 「売るのかい?」と爺さんは答えた。 「少しばかり部屋におきたいんです。」 「それなら好きなだけ採るがいい。もし売るんならまずこのわしがお前さんに売るからな。自分のためなのなら遠慮しねえがいいよ。お前さんは花の匂いが好きかい、わしは葡萄酒の匂いが好きじゃ、匂いだけしかない時でもな。」  大きく小さく色々に割れたコップは山と積まれてあったから、彼女はそこで欠けた壺を難なく幾つか見つけ、それに花束を差した。花は日向で摘まれたから、まもなく部屋はにおいあらせいとうや唐撫子の匂いに満ち、その鮮やかな色が黒い壁を照らすと同時に匂いは家の厭な臭気を消した。  そうやって働きながら少女は両隣に住む人々と知り合いになった。それは白髪頭に、フランス国旗の三色のリボンで飾った頭巾をかぶったお婆さんと、大変長くて広い一張羅の着物であるらしい革の前垂れに身をくるんだ、腰の曲がった大きな爺さんであった。この前垂れのお爺さんに聞くと、三色リボンのお婆さんは街の歌うたいで、鹽爺さんのいった侯爵夫人その人であった。このお婆さんは毎日、赤い傘と太い杖を持ってギヨ園を出かけ、街の辻や橋のたもとで赤い傘をその杖の先に立て、その蔭で自分の歌の番組をうたい、その歌集を売る。前垂れのお爺さんの方は、侯爵夫人の教えてくれたところによると、古靴のほぐし屋で、朝から晩まで魚のように黙りこくって働くのでそのため黙り屋さんと呼ばれ、皆はこの名前でこの人を知っていた。が、口は利かなかったけれど、鎚の音を聾になるほどやかましく立てることは一向遠慮しなかった。  夕方引っ越し先の片付けがすんだので、少女はお母さんを連れてきた。お母さんは花を見て、しばし楽しい驚きにうたれた。 「お前はなんてお母さんに親切なのだろうね!」 「私は自分に親切なのよ、お母さんを喜ばせると、私が嬉しいんですもの!」  夜の更けないうちに花は外に出さなければならなかった、すると旧い家の臭気はひどくなった、が病人はそれに不平を言わなかった、不平を言って何になったろう、ギヨ園を出たとて、ほかに行くところはなかったのであるから。  病人の眠りは、苦しい、熱のある、不安な、騒がしい、幻覚の襲う眠りであった。そうして翌朝医者が来てみると容体は悪化していたので治療法を変えることになり、ペリーヌはまた薬屋へ行かなければならなかった。今度は五フラン要求された。彼女はためらわず勇敢に支払った、しかし帰り彼女はもう息がつけなかった。もし費用がこんなふうにして続いたら、可哀そうなパリカールを売ってお金を手に入れる水曜日までにどうなることだろう? もし医者が明日もまた五フランあるいはそれ以上かかる処方を言いつけたら、そのお金をどこに見つけよう?  両親と山間を歩きまわっていたころ、彼らは一度ならずひもじい目に逢ったし、ギリシアを離れてフランスへ向かった後もまた一度ならずパンに欠乏した。がそれとこれとは同じことでない。山間では飢えてもいつも希望があり、果実や野菜を見つけたり、おいしい食事を与えてくれる鳥獣を捕らえたりして、希望はたびたび実現した。欧州でパンに欠乏した時も、彼らは幾スウかで写真を撮らせてくれるギリシアのお百姓、ボスニア人、スチリア人、チロル人に逢う希望があった。しかしパリでは懐中無一文の人々は何も当てにするものはない、そうして彼女たちのお金はなくなりかけていた。さあ、どうしたらよいか? 恐ろしいことだ、少女は何も知らず何もできないのに、この問いに答えなければならなかった、怖いことだ、少女は万事の責任を負わなければならなかった、なぜなら母は病気の為に工夫をめぐらすことができず、こうして自分こそ、ほんの子供だと思っていたのに、事実上の母となっていたからである。  それも病気の具合がもう少しよければ彼女は勇気も出るし、力もついたことであろう、が具合はよくなかったのである。お母さんは決して泣き言は言わず、それどころか、いつも口癖のように「よくなるよ」と繰り返したけれど、実は「よくなってはゆかなかった」とペリーヌは見ていた。眠りもなく食欲もないのだ。熱、衰弱、息苦しさ、これらのものは、もしペリーヌの愛情や弱気や無知や臆病などがその判断を誤らせなかったとするならば、少女にとっては、ずんずん増してゆくように思われた。  火曜日の朝医者が来た時、処方箋に対して少女の心配していた事柄は事実となって現れた。医者サンドリエ氏は病人を急いで診た後、ペリーヌの大きな苦悩の種である恐ろしいあの手帳をかくしから取り出して書こうとしたのである、が、医者が鉛筆を紙の上につけた時彼女は勇気を出してそれを止めた。 「先生、もしお薬の中に比較的大切でないのもあるのでしたら、今日は差し迫って必要なものだけを書いて下さいませんでしょうか?」 「それはどういうことですかな?」と医者は不満気な調子で聞いた。  少女はふるえた、が最後まで言い通すことができた。 「と申しますのは、私たちは今日はお金が余りないのです、明日にならないと、入ってこないのです、それで・・・」  医者は少女を見た、次に彼女たちの貧乏を初めて見るかのように、あちらこちらすばやく一瞥した後、手帳をかくしにしまいこんだ。 「では治療法を変えるのは明日にしよう、何も急ぐことはない、昨日のを今日もずっと続けてよろしい。」 「何も急ぐことはない」、この言葉をペリーヌは記憶にとどめて幾度も自分に繰り返してみた。急ぐことがないのはお母さんが思ったほど悪くないからだ、してみればまだ希望し期待することができる。  水曜日は少女の待っていた日だ、しかしその日の待ち遠しさには、その日を恐れる彼女の苦しい気持ちがずっと流れていた、だってその日、お金は入るから彼女たちは助かるに違いないにしても、他方では、パリカールと別れなければならないからである。そこで少女は、母の看護の手のすくごとに、囲いの中へ駈けていって彼女の友達に言葉をかけた。驢馬は、もう働くこともなく疲れることもなく、ひもじい目に逢った後今は思う存分食べ物もあるので、それまでになく嬉しそうであった。少女のやってくるのを見るや否や、ギヨ園の小屋のガラスをふるわせて五、六度いななき、彼女がそばへ来るまで、綱をぴんと引っ張っていく度か跳ねた、しかし彼女が背中に手を置くとすぐおとなしくなり、頸を伸ばしてそれを彼女の肩に乗せるともう動こうとしなかった。彼らはじっとそうしていた、−−彼女は驢馬を撫でながら。驢馬は話をするような拍子で耳を動かせ瞬きをしながら。 「おまえが知ったら!」少女はそっと呟くのであった。  しかし驢馬は何も知らず何も予感しなかった、そうして休息や、よい食べ物や、主人の愛撫など、現在の満足のうちで、世にも仕合わせな驢馬であった。その上、驢馬は鹽爺さんと仲良しになり、鹽爺さんから、自分の食いしん坊にとって嬉しい友情の印を貰ったのである。月曜日の朝驢馬は、うまい具合に綱を解くことができたので、届いた屑をせっせと選り分けている鹽爺さんのそばへ行き、珍しそうにそこに立っていた。大体鹽爺さんが、一杯飲みたくなった時−−しきりに飲みたくなる爺さんであったが−−そんな時立たないですむように葡萄酒の一リットル壜とコップを手の届くところにいつも置いておくということは、きちんと実行されている一つの習慣であった。その朝鹽爺さんは全く仕事に身を入れて、自分の周囲を見ようなどとは考えなかった、しかし仕事に精を出し熱を込めたまさにその為に、その渾名の通り、まもなく咽喉が渇いてきた。手を休めて壜を取ろうとして見ると、パリカールが頸を差し伸べて、じっとこちらに眼を注いでいる。 「そんなところでお前、何をしてやがる?」  それが怒鳴りつける調子でないので驢馬は動かなかった。 「やい、葡萄酒を一杯飲みてえのか?」と鹽爺さんは尋ねた、この男の頭はいつも、飲むという言葉を巡って働くのが常であった。  そこで爺さんは、満たしたコップを自分の口へ運ぶ代わり、冗談にパリカールに差し出した、するとパリカールはこのもてなしを真に受けて、二歩前へ進み、唇をできるだけ薄く、できるだけ伸ばして、なみなみと注いだコップを半分も吸ってしまったのである。 「おほう! これは、これは!」  鹽爺さんは大声で笑いながら叫んだ。  そうして呼び始めた。 「侯爵夫人やあい! 黙り屋さんやあい!」  これを聞いて連中はやってきた。一杯になった負い籠を背にして菜園の中へ戻ってきていた屑拾いもきたし、貨車を借りている男も来た、この男は、蜀葵(アルテア)入りの飴を売る商人で、ぐるぐる廻る鉤に柔らかい飴の塊を吊るして方々の祭りや市を歩き、ちょうど紡績の女工がその紡錘(つむ)を取り扱うような具合にして、飴の塊から黄色いのや青いのや赤いのを捻り出すのが商売であった。 「どうしたんだえ?」と侯爵夫人が聞いた。 「今に分かるわい、ま、喜んで貰うからみんなそのつもりでいてくんな。」  再び爺さんはコップを満たしてパリカールに差し出した、するとパリカールは、前と同様、見物の笑いと感嘆のうちにコップを半分飲み干した。 「驢馬は葡萄酒が好きだってえ話は聞いていたが嘘だろうと思っていた、」と一人が言った。 「こいつあ飲みすけだ!」と別の一人。 「お前さん、これをお買いなさいな、すてきなお相手をしてくれますよ、」と侯爵夫人は鹽爺さんに向かっていった。 「いい御両人にならあ。」  鹽爺さんは驢馬を買いはしなかった、が可愛くなって、水曜日の馬市にはお供しようとペリーヌに申し出た。これで少女は大変安心した、なぜなら彼女は、パリでどうして馬市を見つけるのか考えたことはなかったし、どんなふうにして驢馬を売り、値段を掛け引きし、盗まれずに金を受け取るものか知らなかったからである。少女は、たびたびパリの馬盗人の話を聞いたことがあり、盗人らが、ふと、自分を襲おうという気でも起こしたら、とうてい防ぐことはできないと感じていた。  水曜日の朝少女はパリカールをきれいにしてやった、そうしてそれを機会にパリカールを撫でたり抱いたりしてやった。しかし、ああ! どんなに悲しく! もう驢馬に逢えなくなるのだ。どんな人の手に渡ることやら? 可愛そうな友達! この思いにとどまるとかならず少女の眼には、これまで街道の至るところで彼女の出会った、まるで驢馬というものは苦しむためにのみ全地に存在するかのように、惨めな有り様をした、あるいはいじめられている驢馬どもが浮かぶのであった。確かにパリカールは、彼女たちのものになって以来、多くの苦労貧困を−−長い道中や暑さ寒さ、雨、雪、氷雨や欠乏の持つ困苦を耐え忍んできた、けれども彼は少なくともくたばらなかった、そうして自分は、自分と不運を共にしている人たちの味方であると思っていた。しかし今少女は、どんな人々がこれの主人になるであろうと思ってただ身震いするほかはなかった。少女は、自己の冷酷さに気づきさえもしていない多くの冷酷な人々に、随分出会ってきていた。  パリカールは、家馬車につけられる代わりに馬索(うまづな)をかけられたとき、驚きを見せた、そうして鹽爺さんがシャロンヌから馬市への長い道を歩くのをいやがって、椅子を置いてその背中に乗ると、なお驚いた、しかしペリーヌが頸を抱えて話し掛けると、この驚きは反抗にまではならなかった。それに鹽爺さんは仲良しではないか?  彼らはこうして出かけた。パリカールはペリーヌに曳かれて重々しく歩いた、そうして馬車や通行人の少ない街を通って、大きな庭園に接した大変幅の広い橋に着いた。 「ここが動物園じゃ、とてもお前の驢馬ほどのものは、ここにはおらぬわい、」と鹽爺さんが言った。 「じゃあ、ここで買い上げて貰えるかも知れないわ、」とペリーヌは言った、動物園では動物はぶらぶら歩いていさえすればいいのだからと考えながら。  鹽爺さんはこの考えを受け付けなかった。 「お役所との取り引きはどうもいけないよ。・・・なぜというに、お役所ってえところは・・・。」  お役所は鹽爺さんに信用がなかった。  今は馬車や電車の交通が激しくなったので、ペリーヌはその雑踏の中を進んでゆくのにありったけの注意を払った、だから少女の眼と耳は、他のことには一切向けられなかった。大きな建物の前を通ることにも、荷車挽きや馭者が驢馬の上の鹽爺さんの恰好を見て陽気になり愉快になって冗談を言いかけることにも−−。しかし爺さんの方はペリーヌのような気遣いは要らないから困らない、嬉しそうに彼らに応えた。そこで彼らの通り道には叫びと笑いの合奏が起こり、これに舗道を通る人たちも言葉を入れた。  ついに、なだらかな坂を登った後、彼らは大きな柵の前についた、その向こうに広い地所があり、帯板で種々に仕切りを拵え、そこに馬が入れられていた。鹽爺さんは降りた。  が爺さんの降りるひまにパリカールの方は前方を眺めた、そうしてペリーヌが柵を越えさせようとすると、驢馬は前進を拒んだ。ここは馬や驢馬を売る市だと感づいたのだろうか? 怖いのか? ペリーヌが脅したりすかしたりしても、驢馬は頑としていうことを聞こうとしない。鹽爺さんは、後ろから押せば前へ歩くだろうと考えた、が、一体どんな人間が馴れ馴れしくも自分の臀を押すのか分からなかったパリカールは、尻込みしてペリーヌを引きずりながら、跳ね始めた。  幾人かの野次馬がやがて立ち止まって周囲を取りました。一番前に並んだ連中は例の通り、速達の配達人や饅頭屋だ、どうして門を通すかについて、てんでに勝手なことを言って助言した。 「こんな驢馬を買う間抜けものは、さぞ面白い目に逢うだろう。」  これは売り値を落すかもしれぬ危険な言葉だ、そこでこれを聞いた鹽爺さんは、抗弁する必要があると思った。 「こいつはいたずら好きなんだ、何と自分の売られることをちゃんと感づいてやがるじゃあねえか、御主人に別れたくねえってんで、ありったけのしかめ面をしていやがる。」 「確かにそうかね、鹽爺さん?」と先刻の苦情をのべた声が尋ねた。 「はてな、誰だい、こんなところでわしの名前を知っているのは?」 「ラ・ルクリだと気がつかないのかい?」 「なあるほど、違えねえ。」  二人は握手した。 「その驢馬はお前さんのかい?」 「何、この娘のさ。」 「知り合いなのかい?」 「わしらは一緒に幾度も飲んだことがあるんでな、どうだいお前さん、上等の驢馬が欲しかったら、こいつをすすめるぜ。」 「欲しいんだよ、是非ともというのではないけれど。」 「そんなら一杯やりに行こうじゃあないか。何もわざわざあそこへ行って税金を払うことはない。」 「驢馬の奴も入るまいと腹を決めているらしいから、いよいよ都合がいいわ。」 「いたずら好きなんだ。」 「私の買いたいと言うのはね、いたずらをして貰うためでもない、葡萄酒を飲んで貰うためでもない、働いてもらうためなんだよ。」 「こいつはなかなかくたばらねえよ、ギリシアから来たんだぜ、休みもしねえで。」 「ギリシアから!」・・・  鹽爺さんはペリーヌに合図した。少女は二人についていった、二人の交わす言葉は少ししか解らなかった、そうして、今は馬市に入らなくてもよくなったパリカールは、少女が馬索を曳きもしないのに、おとなしく後からついてきた。  この買い手は何者なのだろう? 男かしら? 女かしら? その歩きぶりや鬚のない顔から推すと、五十歳ぐらいの女だ。名が上衣にズボンという服装、乗り合い馬車の馭者のような革帽子、口から離さない短い黒パイプからすると男だ。しかし心配なペリーヌにとって大切なのはその様子である。この人には少しも無情なところや意地悪なところがなかった。  小さな往来を通った後、鹽爺さんとラ・ルクリとは酒屋の前に立ち止まり、舗道に置いた食卓に、壜一本とコップ二つを運ばせた。ペリーヌは相変わらず驢馬をつれて彼らの前の往来に立っていた。 「こいつがいたずら好きかどうか見せてやろう、」と鹽爺さんは、一杯注いだコップを差し出しながら言った。  すぐにパリカールは、頸をのばし、唇をすぼめてコップを半分飲み干した、ペリーヌは敢えてそれを止めなかった。 「どんなもんじゃい!」と鹽爺さんは誇らしげに言った。  が、ら・ルクリの方は喜ばなかった。 「私の欲しいのはね、葡萄酒を飲んで貰うためじゃあないよ、荷車と兎の皮を曳いてもらうためなんだ。」 「だって家馬車を曳いてギリシアから来たっていったじゃあないかい。」 「それは、別のことだ。」  そこでパリカールの細かい注意深い検査が始まった。それがすむとラ・ルクリは幾らで売るかとペリーヌに聞いた。彼女が前もって鹽爺さんと決めておいた値段は百フランだったので、百フランだと答えた。  しかしラ・ルクリは大声をあげた、「百フランだって! 保証もなしに売ろうという驢馬が! 人を馬鹿にするもんじゃあないよ。」そこで不幸なパリカールは、鼻の先から蹄まで、実に至れり尽せりの悪口を受けなければならなかった。「二十フラン、せいぜいその辺のところだ、それも・・・。」 「よし、」と鹽爺さんは長い議論をした揚げ句に言った、「こいつは市につれてゆく。」  ペリーヌは、ほっとした、二十フランしか手に入らぬと思ってがっかりしていたからである。この困っている時に二十フランが何になろう? 百フランだとて、一番差し迫った必要毎にとってさえ不十分に違いないのに。 「今度は、奴さん、入るかしらねえ」とラ・ルクリが言った。  市の柵まで驢馬はおとなしく主人について行った、がそこへ着くと立ち止まり、彼女がしきりに話しかけては引っ張るので、往来のど真ん中に横になってしまった。 「パリカール、お願いだから、パリカール!」とペリーヌはおろおろ声で叫んだ。  しかし驢馬は一向耳を貸そうとせず、死んだ真似をしていた。  人々はまたたかってきて、からかった。 「尻尾に火をつけちまえ」と誰かが言った。 「そいつはいい、よく売れるだろう、」と別の一人が答えた。 「殴りつけてみろ。」  鹽爺さんはひどく怒った、ペリーヌは絶望した。ラ・ルクリが言った。 「どうだえ、入りそうもないね、これの意地の悪いのはよい奴だという証拠だから、私は三十フラン出そう。しかし急いで受け取っておくれ、でないとほかの奴を買っちまうよ。」  鹽爺さんはペリーヌに目顔で相談した、そして同時に、受け取った方がよいという印を見せた。しかし彼女は決心がつきかね、あてがはずれて立ちすくんでいた、すると巡査がやってきて往来をあけるように荒々しく言った。 「行くか戻るかせい、そこに止まっていちゃあいかん。」  パリカールがうんと言わないので前へはいけない、そこで少女は後戻りをしなければならなかった。少女が入ることを諦めたと知るとすぐ、パリカールは起きて嬉しそうに耳を動かしながら、すっかりおとなしく彼女について行った。ラ・ルクリは、三十フランを百スウ銀貨でペリーヌの手に渡した後、 「さて、こいつを私のうちまで曳いて行って貰いたいんだよ。だって私はこいつが解りかけてきたんだが、どうやら私にはついてきそうもないわ。シャトー・デ・ランチエ町はそんなに遠くないところだから。」  しかし鹽爺さんはあまり自分には遠いと言うので、この相談を聞き入れなかった。 「このおばさんと一緒に行ってくるがいい。」と鹽爺さんはペリーヌに言った、「あんまり落胆するんじゃないよ、お前の驢馬はこのお方となら不仕合わせにはなるまい、いいお方だから。」 「では、シャロンヌへ戻るにはどうしたらいいの?」彼女は、その無辺際の広さを今改めて予感したパリの中で迷子になったと思いながら言った。 「お城を辿ればよい、これより易しいことはない。」  実際シャトー・デ・ランチエ町は馬市から遠くなかった、彼らはまもなくギヨ園のに似た一群れのあばら屋の前に着いた。  別れの時が来た。少女は、驢馬を小さな馬小舎に繋いでのち、抱きながら涙でその頸を濡らした。 「不仕合わせにはしませんよ、きっと。」とラ・ルクリは言った。 「私たちは大の仲良しだったんです!」 5 「百フランで計算を立てていたのに、三十フランで何ができよう?」  彼女はメゾン・ブランシュからシャロンヌへと城砦を悲しく辿りながら、この問いを掻き立てた、が受け入れることのできる答えは見つからなかった、だから母の両手にラ・ルクリのお金を置いても、これを何に、またどんなふうに使ったらいいか、まるで見当がつかなかった。  お母さんがそれを決めた。 「出かけましょう、すぐにマロクールへ立ちましょう。」 「お母さん、大丈夫なの?」 「大丈夫ということにしなければなりません。私たちはあまりぐずぐずし過ぎました、病気が治ればいいがと思って、それもだめらしいわね・・・ここでは。見合わせている間に私たちの身代も尽きてしまったし、私たちの可哀そうなパリカールを売って出来たお金もなくなるでしょう。来んな貧しい姿では人の前に出たくないとも思ったけれど、たぶんこの貧しさは、痛ましいものになってゆけばゆくほど、いよいよ哀れを誘うものになるでしょうから。出発しなければなりません。 「今日?」 「今日はもう遅いわ、夜中については何処へ行きようもないから、明日の朝にしましょう、今晩は汽車の時間と賃金を聞いておいておくれ、汽車は北線で、行き先はピキニ駅ですよ。」  ペリーヌは困って鹽爺さんに相談した、すると鹽爺さんは、その書類の山の中を捜すと、きっと汽車の時間表があるから、それを見る方が、北停車場へ出かけるよりはずっと便利だし、楽だ、きた停車場はシャロンヌから大分遠いから、と言った。少女はこの時間表を見て、六時と十時の二つの列車があること、ピキニまでの賃金は三等で九フランに十五サンチームであることを知った。母は言った。 「十字の汽車で立ちましょう。それから停車場までは遠くてとても私は歩いてゆけまいから馬車に乗ります、辻馬車までなら力はあるでしょう。」  しかしそれまでの力もなかった。九時に娘の方によりかかって娘の捜した馬車のところまで行こうとしたが、部屋から往来までは遠くなかったのに、そこへ行きつくことはできなかった。気力が尽きてしまい、もしペリーヌが支えていなかったら、倒れたであろう。 「今に力が戻るから、」と母は弱々しく言った、「心配をおしでないよ、よくなるから。」  しかし良くならなかった。見送っていた侯爵夫人は椅子を持ってきた。必死の努力に支えられていたのだった。腰をかけると気が遠くなり、呼吸は止まり、声は出なくなった。 「横にして、さすってあげなけりゃあ、」と侯爵夫人は言った、「お嬢さん、心配ない、黙り屋さん呼んで来て。二人して部屋へ運ぶから。出かけられませんよ・・・すぐには。」  侯爵夫人は慣れていた。病人が寝かされるとまもなく心臓は打ち始め、呼吸は戻った、が少しして病人は坐ろうとしてまた気を失った。 「ねえ、じっと横になっていなけりゃいけません、」と侯爵夫人は命令口調で言った、「立つのは明日にするんですよ、すぐスープを一杯お飲みなさい、黙り屋さんに貰ってきますからね、酒が家主さんの癖なら、スープはあの黙り屋さんの癖で、夏も冬も五時に起きてスープ鍋をかけるんです、そのすばらしい腕前と言ったら! あんなおいしいスープを飲んでいる親方は、あんまりいませんね。」  答えを待たないで夫人は、再び仕事に取り掛かった隣人の部屋へ入った。 「あの病人にスープを一杯頂けますまいか?」と夫人は頼んだ。  彼は微笑で答えた、そうしてすぐ炉で僅かな榾*火の前で煮立っていた土鍋のふたを取った。スープの匂いが部屋中に広がると、侯爵夫人が目を見張り、偉そうに同時に幸福そうに鼻の孔を広げるのを、黙り屋さんは見た。 「なるほどいい匂い、」と夫人は言った、「もしこれがあの気の毒な人を救うことができたら、あの子も助かるのだけれどねえ、しかし−−と声を低めて−−とても悪いよ、長いことはないね。」  黙り屋さんは両腕を高くあげた。 「あの娘が悲しむだろう。」  黙り屋さんは首を傾け両腕をのべて、こういう身振りをした。 「わし共に何が出来る?」  実際二人ともできるだけのことはしていた、が不仕合わせな人々は、不幸に慣れてしまっているから驚きもしないし手向かいもしない。彼らのうち誰がこの世で苦しまないでおられようか? 今日はお前、明日は自分なのだ。  お椀が一杯になると侯爵夫人は、一滴のスープもこぼさないように、そろそろと歩いてそれを運んだ。 「さあお飲みなさい、奥さん、」と夫人は布団のそばに膝をついて言った、「とりわけ動かないようにして、口だけをちょっとおあけになって。」  そうっと一匙のスープは口へ注がれた、が咽喉へ通らず、嘔吐を催し、再び前の二度よりも長い人事不省に陥った。  明らかにスープは不適当だったのだ。侯爵夫人はそれを見とめた、そうして勿体ないのでペリーヌにそれを飲ませるのであった。 「お前さん、力が必要だからね、元気付いてもらわなけりゃあ。」  侯爵夫人は、自分にとってなら万病に効く薬であるスープで予期した結果が上がらなかったので万策尽きてしまい、医者を呼びにゆくに越したことはないと考えた、医者がきっと何とかしてくれるだろう。  しかし医者は処方を書きはしたが、帰りがけ、率直に侯爵夫人に明言し、この病人には匙を投げると言った。 「この婦人は、病気と貧乏と、疲れと心配とで力が尽きておる。出発していたら車の中で事切れたろう。もう時間の問題じゃ、人事不省に陥ってそれでたぶんおしまいじゃろう。」  それは幾日間も続く人事不省であった、思うに生命と言うものは、老人の時は速やかに消えうせるけれど、若い人々の時は比較的長く持ちこたえるものだ。病人は、よくもならず悪くもならなかった、そうしてスープも薬も何も呑み込むことができなかったのに、昏々と眠りながら、殆ど息もしないで、じっと布団の上に横たわり続けた。  そこでペリーヌは希望を取り戻した。死の観念と言うものは、老齢の人々にはうるさく付きまとい、死が未だ遠いところにある時でさえ、到る所で間近に死を見せるものであるが、若い人々からは斥けられ、死がついそこで脅かしている時でさえ、彼らは死を見まいとするものである。どうしてお母さんは治らないことがあろう? どうして死ぬことがあろう? 人間は五十歳、六十歳で死ぬものだ、お母さんは三十歳にもなっていない! 何をしたからといってこんなに早く死ななければならないことがあろう? どんな妻よりも愛情があり、どんな母よりも優しく、家の者に、全ての人にただもう善良であったお母さんが。死ぬわけはない、どころか回復する。そこでペリーヌは、この眠りを見てさえ、そういうことを証拠立てるに最もいい数々の理由を見つけ、この眠りは大変疲れ飢えた後のごく自然の休息であると考えた。どうしても、疑惑があまりひどく苦しめてくると、少女は侯爵夫人の意見を叩いた、すると夫人は少女の希望を強めてやった、 「最初の失神の時助かっているんだから、亡くなられる筈はないよ。」 「そうですわねえ?」 「鹽爺さんも黙り屋さんもそう思っているよ。」  お母さんのことを自分の安心していて通りに人に安心させてもらった今は、少女の最大の心配は、ラ・ルクリの三十フランがどれだけ続くかしらということであった、なぜなら費用は細々したものではあったが、あのことへこの事へ、殊に不意の事へと恐ろしく速く流れ出ていった。最後の一銭を使ってしまったらどこへ自分たちは行こう? どんなに僅かにせよ、お金になるものをどこに捜そうか? ぼろの着物のほかは何一つ残っていないのであるから。どうやってマロクールへ行こうか?  少女は母のそばでこういう考えを追っている時、苦痛で神経が大変ひどく張り切るので自分もまた人事不省に陥るのではないかと、冷や汗をかいて考えた瞬間が幾度かあった。ある夜少女がこうした心配と落胆との状態の中にいると、自分の取っていた母の手が自分の手を握り締めるのを感じた。 「なあに?」少女は、そう握り締められて現実に引き戻され、急いで尋ねた。 「おまえに話したいのです、遺言をする時が来たから。」 「おお! お母さん・・・。」 「口を挿まないで。努めて感情を抑えるようになさい、私も絶望しないようにするからね。私はお前を怖がらせたくなかった、そのために渡しは口をつぐんでお前の苦しみをうまく捌いてきました、しかし言うべきことは言わなければなりません。例えそれが私たち二人にとってどんなに惨酷なことであっても。もうこれ以上延ばすなら、私は、悪い弱い卑怯なお母さんになることでしょう、少なくとも分別のない女になることでしょう。」  母は息をつくために、また、動揺する考えをしっかりさせるために間をおいた。 「私たちは別れなければ・・・。」  ペリーヌは、耐えようとしても耐えきれずに泣き伏した。 「それは本当に恐ろしい、しかし私は考えるけれど、結局お前は、追い払われるかもしれないお母さんに連れられて皆の前に出るより、親なし児になるほうがいいのじゃあないかしら。結局、神様がそうお望みなのだ、お前はひとりぼっちになろうとしている・・・幾時間かしたら、たぶん明日には。」  感情に言葉が途切れた。母はしばらくしてからやっと続けた。 「私が・・・亡くなったら、手続きをすまさなければなりません、それには私のかくしに絹で二重に包んだ証書があるから、それを要求する人に渡しなさい、それは私の結婚証書で私の名前もお父様の名前もそれを見れば分かります。返して貰うように言うんですよ、後になってお前の出生を明らかにするのに要るはずだから。大事にしまっておくんですよ。それでも無くすかもしれないから忘れないように暗記しておきなさい。何なら、それを示す必要の起きた折りに、もう一枚頼んで貰っておきなさい。分かりましたね、私の言ったことを皆覚えましたね?」 「はい。」 「お前は不幸になるでしょう、ぼんやりしてしまうでしょう、でも自棄になってはいけません・・・パリでひとりぼっちになり、途方に暮れてしまっても。すぐにマロクールへ立ちなさい、お金が足りたら汽車で、お金がなかったら歩いて。パリにいるより、道傍の溝の中に寝たり、食べないでいたりするほうがまだましです。お前、約束をしてくれますね?」 「約束いたします。」 「私たちの境遇は随分恐ろしい境遇だから、そう行ってくれるだろうと思うと、お母さんはそれでほとんど気が鎮まりそうです。」  しかし十分には気は鎮まらなかったから、彼女はまた気が遠くなり、かなり長いこと呼吸もなく、声もなく、身動きもなかった。 「お母さん、お母さん!」とペリーヌは絶望に我を忘れ、不安にふるえながら、のぞきこんで叫んだ。  この声で母は再び生気を取り戻した。 「さきほど、」と彼女は、とぎれとぎれの呟きに過ぎない言葉でいった、まだおまえに言い聞かせておくことがあります、私はそれを言わなければならない、けれどさっきどんなことを言ったかもう忘れてしまって。お待ち。」  ちょっとしてから母は後を継いで、 「そうそう、お前はマロクールに着く。急がないで何事も慎重になさいよ。お前は何も要求する資格を持たない。お前の得ようとする物は、お前が善良な子になり人に可愛がられるようになって、自分自身で、自分一人の力で得なければならない・・・可愛がられるようになる・・・お前のみのために、・・・それが何より大事なことです・・・でもそうなると思う・・・お前は可愛がられるでしょう・・・可愛がられないなんてことはある筈がない・・・そうなればお前の不幸もおしまいになる。」  母は両手を組み合わせ、その眼差しはうっとりした表情を帯びた。 「お前は、・・・そうだ、お前は仕合わせになる・・・ああ! 私はそう考えながら、そうしていつまでもお前の胸の中で生きるのだと思いながら死にたい。」  それは天に向かって上げられる祈りの興奮をもって語られた。次いで間もなく彼女は、この努力に力尽きたかのように、ぐったりと生気なくふとんの上に伏した、しかしそれは、彼女の喘ぎが証拠立てていたように、気絶のためではなかった。  ペリーヌは暫く待っていたが、母がいつまでもそうしているのを見て外に出た。庭に出るや否や、わっと泣き出して草の上に倒れた。余りにも長い間押さえられていたために心も頭も両脚も、少女から失せ去ってしまった。  少女は二、三分の間そうして挫折れたまま胸を詰まらせていた。次に、茫然としてはいたが、母を一人抛っておいてはいけないという意識はずっと失せずにいたから身を起こした、そうして涙と絶望の痙攣を止めて、表面だけでも少し落ち着こうとした。  そうして暗がりに満ちた菜園の中を、少女は当てもなくまっすぐに行ったり来たりした。むせび泣きは抑えても一層激しくなるばかりであった。  そうやって貨車の前を十遍ほど通った時、蜀葵(アルテア)入りの飴ん棒を二つ摘まんで家から出て見ていた飴屋は、ペリーヌのそばへ寄ってきて、不憫そうな声で、 「お前さん、悲しかろうなあ。」 「おお! おじさん・・・。」 「うむ、さあさ、これでもお食べ。」−−と彼はその二本の飴ん棒を差し出していった、−−「甘い物は辛い時にはいいもんだ。」   6  引導僧は今し方帰ったところだった。ペリーヌがお墓の前にじっとしていると、そこを立ち去らずにいた侯爵夫人は腕をペリーヌの腕の下へ通して、 「行かなけりゃあいけませんよ。」 「おお! おばさん・・・。」 「さあ、行かなけりゃあ。」と夫人は威厳をもって繰り返した。  そうして腕をきつく締めて引っ張って行った。  少女はそうして暫く歩いた。少女は、周囲にどういうことが行われているのか覚えがなかったし、どこへつれてゆかれるのかも知らなかった。少女の思いも、理性も、感情も、生命も、母と一緒に残っていた。  とうとう、ひっそりとした道で立ち止まった。少女は自分の周りに、自分を放した侯爵夫人と、鹽爺さん、黙り屋さん、飴屋を見た。しかしどれが誰であるかはぼんやりしていた。侯爵夫人は、頭巾に黒リボンをつけ、鹽爺さんは紳士風の服装をしてシルクハットをかぶり、黙り屋さんは例の皮の前垂れの代わりに足まで届く榛(はしばみ)色のフロック・コートを着、飴屋はその白い雲斎布の半纏の代わりに毛織の背広を着込んでいた、だって皆、お葬式を行う生っ粋のパリッ子として、今し方埋葬したあの女の人に敬意を表するために、どうしても正装しなければならないと思ったからである。  鹽爺さんは、自分は一同の中で一番頭立った人物だから最初に口を利いて然るべきだと思ってこう言った。 「お前さんは無料で、いつまででもいたいだけ、ギヨ園に泊まっていてよい。」 「私と一緒に唄おうというならお前さんは暮して行けるよ。」と侯爵夫人が言った、「いい商売だよ。」 「お前さん、お菓子屋のほうが好きなら、やらしてやるぜ。」と蜀葵(アルテア)入りの飴を売る男は言った、「これだっていい商売だよ、本当の。」  黙り屋さんは何も言わなかった、が、そのつぐんだ口もとの微笑と何かを差し出すような手振りとで、自分もまた提供したいという物を、はっきり示した、つまりスープが一杯欲しい時うちへ来ればいつでも上等の物をあげよう、というのであった。  こうした次々の申し出にペリーヌの目は涙でいっぱいになった、そうしてその涙の快さは、昨日から彼女を萎え入らせていた涙の厳しさを洗った。 「どなた様も御親切に!」と少女は呟いた。 「できることは、するわな。」と鹽爺さんは言った。 「お前さんみたいないい娘をパリの敷石の上へうっちゃるわけにはゆかない。」と侯爵夫人が応じた。 「私はパリにじっとしてはいられないのです。」とペリーヌは答えた、すぐに身寄りの者のうちへ立たなければならないのです。」 「身寄りの者があるのかい?」と鹽爺さんは口を挿んでほかの連中を眺めたが、大した親戚でもなかろうという様子であった。「それは、どこに住んでいる?」 「アミアンの向こうです。」 「どうやってアミアンへ行くつもりだね? お金は持ってるのかい?」 「汽車に乗るのには足りませんので、それで歩いて行きます。」 「道は分かってるかい?」 「かくしに地図を持っています。」 「パリの町の中をどう行ったらアミアンへ行く道に出るか、その地図で分かるかい?」 「いいえ、でも教えて頂いたら・・・。」  めいめいが急いでそれを教えた。しかしそれは混乱したちぐはぐの説明だった。鹽爺さんは止めていた。 「パリで迷子になりたけりゃ、そんな説明を聞くがいい。こうだ、こう行けばいいんだ、循環鉄道でシャペル・ノールまで行くのさ、ここでアミアンへ行く道が分かる、あとはもうまっすぐにそれを辿りさえすればよい。汽車賃は六スウだ。お前さん、いつ立つ?」 「すぐに。私、すぐに立つようにお母さんと約束しましたから。」 「お母さんには従わなければならない。」と侯爵夫人は言った、「だからすぐにお立ち、ただし私が接吻してからですよ、お前さんはいい子だねえ。」  男たちは少女と握手した。  少女はもう墓地を出るばかりであった、が躊躇した、そうして今し方離れたお墓のほうを振り向いた、そこで侯爵夫人はその意図を見抜いてとめてかかり、 「立たなければならないんだから、すぐ立った方がいい。」 「そうだ、出かけるがよい。」鹽爺さんも言った。  少女はありたけの感謝を込めて頭と両手で皆に挨拶をした、それから逃げるように背を曲げて急ぎ足に遠ざかって行った。 「一つ乾杯しようぜ。」と鹽爺さんが言った。 「悪くない。」と侯爵夫人が答えた。  黙り屋さんは始めて言葉を洩らして、 「不憫な子じゃ。」  ペリーヌは循環鉄道に乗ると、かくしからフランスの古ぼけた道路地図を取り出した、これはイタリアを出て以来幾度も見てきたもので、見方は知っていた。パリからアミアンへ行くのは造作ない。カレー街道を取りさえすればよかった。この道は昔、郵便馬車の通ったもので、地図上ではサン・ドニ、エクアン、リュザルシュ、シャンチイ、クレルモン、ブルトゥイユを通る細い黒線で示されていた。アミアンでブーローニュ道に移る。そうして少女は道程を計ることもできたから、マロクールまで百五十粁ぐらいあるに違いないと見積もった、すると毎日きちんと三十粁づつ歩けば六日間の旅だ。  しかしこの三十粁をきちんと、来る日も来る日も歩き続けることができるだろうか?  ちょうど彼女は、パリカールと並んで幾理幾十里を歩いた習慣を持っていたから、偶然三十粁歩くことと毎日それを続けることとは、全く別物であることを知っていた。足は痛むし膝はこわばってくる。それに六日間の旅のお天気はどうだろう? 晴れが続くかしら? 太陽の下なら、どんなに暑くても歩いて行ける、が雨だったらどうしよう? 見を包むものとてはぼろしかないのだ。夏の美しい夜は、木陰や枝の茂みの蔭で、戸外で寝ることができる。が、木の葉の屋根は露なら受け止めるが雨は洩れる、そうしてその雫は一層大きくなる。濡れたことなどは幾度もあった、夕立も驟雨も少女は怖くなかった、しかし朝から晩まで晩から朝まで、六日間濡れどおしでおられようか?  少女が汽車に乗るにはお金が十分ないと鹽爺さんに答えたその言葉で、歩いてゆくのには十分ありそうだということは知れた、彼女自身もそう思っていた、ただしそれは旅の長引かない時の話である。  実際、ギヨ園を出るとき五フラン銀貨一枚と一スウ銅貨一枚とが残っており、スカートのかくしをうんと強く揺すぶると音を立てた。  だから旅の間のみならず更に長くこのお金を持たせなければならない。マロクールでも幾日か暮せるように。  それができるだろうか?  彼女はこの問題も、これに関連するどんな問題も解決しなかった。ラ・シャペル駅を知らせる声を聞くと、降りて、すぐサン・ドニ道を取った。  今は前へまっすぐに歩いてゆくだけだ、太陽はまだ二、三時間は空にあるだろうから、沈む時分にはパリを大分離れて野原で寝られることになるだろうと思った、そうなれば彼女にとって一番よかった。  ところが案に相違してひっきりなしに家また家、工場また工場、目の届く限りこの一様な平面の中に見えるものは屋根と、もくもく黒煙をはく高い煙突だけであった。工場や倉庫や仕事場からは機械の恐ろしい響き、怒号、うなり、鋭い笛、しわがれた笛の音、迸り出る蒸気、一方、道路の上でも、赤茶けた埃の立ちこめる中で、馬車、荷車、電車が触れ合うようにして引き続きあるいは行き違っていた、そうして合羽や幌をかけた荷車の上では、ベルシの税関で既に彼女を驚かせた文字が繰り返された、『マロクール工場、ヴュルフラン・パンダヴォアヌ』。  してみるとパリはおしまいにならないのだろう! 自分はパリを出られないのだろう! 少女の怖かったのは、野原の淋しさや、不思議な影ではなく、パリ、その家屋、その群集、その光であった。  少女は、自分が相変わらずパリにいるのだと思っていたのに一件の家の角に取り付けられた青い板を読んで、サン・ドニに入ることを知った。これは希望を与えた、サン・ドニの次はきっと野原になるだろう。  少しも空腹ではなかったけれど、そこを出る前、ふと寝がけに食べるパンを買っておこうと思いパン屋に入った。 「パンを一斤下さいませんか?」 「お金はありますか?」パン屋のおかみさんは少女のみなりを見て信用できずに尋ねた。  少女は座っているおかみさんの前の勘定台に五フラン銀貨をおいた。 「はい五フラン。どうぞこれでお釣りを下さい。」  おかみさんは求められた一斤のパンを切る前に、その五フラン銀貨を取って調べた。 「何ですね、これは?」おかみさんは大理石の勘定台の上で銀貨を鳴らしながら聞いた。 「ごらんの通り、五フランです。」 「誰が私にこんなお金を渡してみろと言いましたい?」 「別にだれも。あの晩御飯のパンを一斤欲しいんです。」 「パンは渡せないよ、捕まりたくなかったら、とっとと行くがいい。」  ペリーヌは抗弁できなかった。 「どうして私を捕まえるのです?」と口ごもった。 「泥棒だからだよ・・・。」 「まあ!」 「・・・こんな贋金をつかまそうなんて。失せておしまい、この泥棒、宿無し。ちょいとお待ち、お巡りさんを呼ぶから。」  それが贋か本物かは知らなかったけれど、少女は自分を泥棒ではないと思っていた、しかし宿無しではあった、なぜなら住む家も親もなかったから。お巡りさんにどう答えよう? 逮捕されたら何と弁護しよう? どうされるだろう?  こうした疑問の全ては電光のように速く頭を通った、しかし貧乏は身に染みていたから、胸一杯になり出した恐怖に負ける前に、その銀貨のことを忘れず、 「パンを下さらないんなら、お金だけは返して下さい。」と言って手を出した。 「よそで使おうというんだろう? お前のお金は取っておくんだ。欲しいならお巡りさんを捜しといで、一緒にこれを調べようじゃあないか。見合わすというなら、さっさと行っておしまい、この泥棒!」  おかみさんの叫び声は往来へ聞こえ、二、三の通行人は立ち止まって、物珍しげに話を交わした。 「何です?」 「あの娘が、おかみさんの抽斗を荒らそうとしたんで。」 「身なりの悪い子だ。」 「お巡りなんてものは、要るときにゃあいないもんですかな?」  狂気のようになってペリーヌは、出られるかしらと考えた、が人々は道をあけてくれた、しかし悪口や罵り声をあびせたので、思い通り一目散に逃げることもできず、人が追ってくるかどうか振り返ることもできなかった。  数分後、−−少女には数時間に思われたが−−彼女は野原に出た、そうしてなにはともあれ息をついた、つかまらなかった! もう罵られはしない!  パンもない、お金もない、と思ったのも本当である、がそれはあとのことだ。溺れかけた人々が水面へ戻って最初に思うことは、どうやって今夜はスープを飲もうか、明日はご飯を食べようかなどという事柄ではない。  とはいえ、始め暫くの間は助かってほっとしたが、その後この御飯のことは今晩のこととは言わなくとも、ともかく明日や次の日々のこととして、荒々しく心にのしかかってきた。少女はやるせない思いが絶えず自分を力付けてくれるだろうなどと考えるほどに子供ではなかった。そうして食べなければ歩けないことを知っていた。旅を目論んだとき、道中の労苦、夜の寒さ、昼の暑さはものの数に入らなかった。五フランの保証してくれ食べ物をこそ一にも二にも大切なものと考えた。が今その五フランは取り上げられ、もう一すうしか残っていないとすれば、日々必要な一斤のパンをどうして買おう? 何を食べよう?  彼女は、何とはなく道の両側や畠を眺めた。地を掠める夕陽の光の下に作物は並んでいた。花を咲かせかけた小麦、緑色になった甜菜、玉葱、キャベツ、ウマゴヤシ、つめくさ、しかしそれらはいずれも食べられない、それにたとえ、この畠に、熟したメロンか、実をつけた苺が植わっていたとしても、彼女にとってそれが何になろう? 通行人にお慈悲を乞うて手を差し出すことができないように、メロンや苺に手を伸ばすことも彼女にはできなかった。宿無しではあったが、乞食や、泥棒ではない。  ああ! 少女は、どんなにか自分と同じように惨めな娘に出会って、文明圏をつらぬく街道にうろつく宿無しらがいったい何を食べて暮しているかを尋ねたかったことであろう。  だって世に彼女ほどに惨めで不幸なものがいたろうか、ひとりぼっちで、パンもなく屋根もなく、助けてくれる人もいず、胸を一杯にして、体を苦痛にせめ立てられて、しょんぼりと弱りきっている彼女ほどに?  しかし彼女は、辿りついても門が開くかどうか分からないままで、歩いていかなければならなかった。  どうしたら目的地に着くことができるだろうか?  我々の日常生活には誰にでも心の勇む時刻と沈む時刻とがあり、我々の曳いてゆかなければならぬ荷物はその間軽くなり或は重くなるものである。少女を別段理由のないときでさえいつも悲しませたのは夕方であった。しかし更に自分一個の直の苦痛の荷物が無意識に加わってきて今それを耐えなければならないというとき、悲しみはどんなに一層重苦しかったことだろう!  少女はこれまで、熟慮するのにこんなに当惑を感じたことはなく、態度を決めるのにこんなに困難を感じたこともなかった。自分は、大風に吹かれて、ゆらゆら、抵抗もできず左右に倒れながら消えかかる蝋燭のように思われた。  空に雲のない、風のそよぎもないこの夏の美しい明るい夕方は、どんなに少女にとって寂しかったろう。この夕方は、ほかの人々にとって楽しく朗らかであっただけいよいよ少女にとっては悲しかった。村人らは家の石段に腰をおろし、一日を終えた幸福な表情をしていたし、農夫たちは野良から戻って、もう夕餉のスープのいい匂いをかいでいた。馬でさえ、備え付けた秣だなの前で自分の憩うであろう馬小舎を思って、足を急がせていた。  少女は村を出ると、二つの大きな道の交わったところへ来た、辻に立った道標によると一つはモアゼルを経て一つはエクアンを経て、いずれもカレーへ行く道であった。彼女はエクアンの道を取った。 7  腿は疲れ、足は痛みだしてきたけれど、少女はなお歩きたかった、なぜなら誰からも気にされずにひっそりした涼しい夕方を歩くのは、昼間にない心の安静を覚えたからである。しかしそう決心するなら、余りにも疲れ過ぎてから足をとめなければならなくなろう、そうすれば夜の暗闇の中でいい場所を選ぶことができず、道傍の溝か近くの畠しか寝るところはなくなるであろう、これでは落ち着かない。そういう境遇だから一番いいことは、満足を犠牲にして大事を取り、夕暮れの最後の光を利用して、物陰に身を潜めて安らかに寝ることのできる場所を捜すことだ。鳥がまだ明るいうちから早く寝るのはいい寝場所を選ぶためではないか、彼女は動物の生活をしているのだから今は動物の例に倣うべきである。  そんなに遠く行かないうちに少女は、自分の希望するあらゆる保証を揃えて持っているように見える一つの場所に出会った。彼女は、朝鮮薊の畠に沿って通るとき、一人の百姓が一人の女と朝鮮薊の蕾をせっせと摘んでは、籠に入れているのを見た。彼らは間もなく籠がいっぱいになるとそれを道に残した車に積んだ。何とはなしに彼女は立ち止まってこの仕事を見ていた。するとそのとき一台の荷馬車がやって来た。一人の娘が轅(ながえ)の上に腰をおろして馬を駆っていた。村へ戻るのだ。 「薊は摘めたかえ?」とその小娘は叫んだ。 「あんまり捗らねえよ。」と百姓は答えた。「毎晩こんなところに泊まって畠荒らしの張り番だなんて、へえ面白くねえや、せめて俺は、俺のうちの寝床へ寝に行こうわい。」 「じゃあ、モノーさんの畠は?」 「モノーって奴は小賢しい野郎だ。畠はほかの奴等が見張ってくれるなんて吐かしていやがる。今晩はもうそうそう俺様はござらっしゃらねえぞ。夜が明けてみたら畠には手が入って丸坊主、と来りゃあおもしれえなあ!」  三人とも大声で笑った、確かに彼らは、近所の者の行う監視を利用し自分は高枕で寝ているモノーという男の幸福なんぞはどうでもいいという様子だった。 「それは面白いねえ!」 「ちょっと待ってくれ、俺らも戻る。もうすんだから。」  果たして程なく荷台の荷車は村のほうへ遠ざかって行った。  ペリーヌは人気のない道から夕闇の中に、隣り合う二つの畠の違いを見ることが出来た、一方では蕾がすっかり無くなっていたし、一方では摘み頃の大きな蕾がまだいっぱいついていた。境目に枝で作った小屋が立っていて、その小屋で百姓は、あんなにも惜しがった幾夜かを過ごしながら自分の栽培物を見張り、ついでに隣のもののも見張ってやっていたのだ。あんな寝室が得られたらどんなに嬉しいだろう!  そう思うや否や少女は、どうしてこの部屋を貰っていけないことがあろうと考えた。人がいないのだもの、悪いだろうか? それに畠は摘み取りがすんで誰もそこへは来ないだろうから、この小屋なら人に邪魔される恐れもなかった。最後にかなり近くで煉瓦を焼く窯が燃えているので、そんなにひとりぼっちではないように思われた。そうして夕暮れの静かな空気の中に渦を巻くその赤い火焔は、ちょうど灯台が海上の船員に対してするように、この寂しい畠の中で、少女の仲間となってくれるように見えた。  しかしすぐにその小屋を陣取りに行く勇気はなかった、なぜなら彼女と道との間にはかなり広い裸の地面があるので、そこを突っ切るのにはもっと暗くなってからがよかったのである。少女はそこで溝の草の上に座って、ひどく辛い夜だろうと心配していたのにあそこでこれから過ごそうという事になった良い夜のことを思いながら待った。とうとう周囲の者がぼんやりしか見えなくなると彼女は、道に一時響きの途絶えたのに乗じて、朝鮮薊の中を這って忍び入り、小屋に着いた。見ると案外家具の備えは良かった、藁の上等の寝床が地面を被い、葦の束は枕になったから。  サン・ドニからずっと少女は追われる動物のようだった、一度ならず少女は、巡査が贋金の話を突き止めるためにつけて来て自分を捕らえはしまいかと思って振り返った。小屋の中でびくついた神経は休まり、頭上の屋根からは鎮静と、それから彼女を引き立てる勇気の混じった安堵の情とが、心に降りて来た。何もかも駄目ではなかったのだ、何もかもおしまいになったのではないのだ。  しかし同時に空腹のことに気づいて驚いた。歩いているうちは食べ物も飲み物も要らないように思っていたのだが。  今後はそれが少女の境遇の不安であり危険であった。残った一スウでどうして五、六日間を生きるか? 今のところはなんでもない、が明日はどうなる? 明後日は?  この問題は、甚だ重大ではあったのだが、少女は、この問題に攻め入られ打ち伏せられる自分を黙って見ていたくはなかった。それどころか、次のように考えて気を引き立て、片意地を張る必要があった、どうせ大道よりもよい寝場所、木の幹よりもよい凭れものはあるまいと思っていたのにこんないい宿が見つかったのだから、明日も食べ物は何か見つかるのだ、と。何が? それは目に浮かばなかった。しかしそれが何であるか差し当たり分からなくとも、希望を抱いて眠ることがその為に妨げられるという筈はなかった。  少女は目をつぶった、そうして父の死後毎晩そうしてきたように、眠る前に父の面影を浮かべた、が今宵父の面影は、この恐ろしい日お墓に送ったばかりの母の面影と一緒になった。少女はそれらがいずれも、生前いつもそうしていたように自分の上にかがんで接吻するのを見ながら、疲労のため殊に感情のためにくたくたになって、泣きじゃくりつつ眠りに落ちた。  疲れは激しかったが、ぐっすり寝たのではない、時々舗道の馬車の響きや、汽車の通過、あるいは静かな心の澄み返る夜の中で胸をどきつかせる何か不思議な物音に目を覚ました。が間もなく眠りに戻った。そのうちに少女は一台の馬車が近くの道で停まったように思い、今度は耳を澄ました。間違いではなかった、ひそひそ話に混じって物の落ちる軽い音が聞こえた。すばやく少女は膝を立てて小屋の孔の一つから眺めた、果たして馬車が一台畑のふちに停まっており、青白い星明かりで判断のつく限り、男か女か、一つの影が馬車から幾つかの籠を投げると、二つの影がそれらを受け取り、隣のモノーの畑へ提げてゆくように見えた。今時分、何だろう? この問いに答えを見つけないうちに、馬車は遠くへ行き、二つの人影は朝鮮薊の畑へ入った。間もなく、そこで何かを切るようなぷつぷついう乾いた、素早い、小さな音が聞こえてきた。  そこで少女は肯いた。泥棒なのだ。「モノーの畑に手を入れて」いる「畠荒らし」だ。急いで彼らは薊を切って荷馬車の運んできた籠に詰め込んだ。たぶん荷馬車は摘み取りがすんだらそれを受け取りに戻ってくるのだろう、仕事中道路上にじっとしていて、通行人でも来て注意を引くといけないからである。  しかしあの百姓たちのように「面白いなあ」と思うどころかペリーヌは、恐ろしくなった、なぜならすぐに彼女は自分の晒されるかもしれぬ危険を覚ったからである。  見つかったら、どうされるだろう? 泥棒の話はたびたび聞いていた、そうして泥棒は、不意を打たれたり邪魔されたりすると、自分に不利の証拠を持つ者を殺すことを、知っていた。  実際のところは、まあ見つかりはしまい、だって彼らは小屋が確かに空いていることを知っていればこそ、今夜モノーの畑に朝鮮薊を盗みに来たのだから。しかし彼らがもしふいに襲われたら、もし逮捕されたら、自分も一緒に捕まりはしないだろうか? 片割れでないことをどう弁護しよう?どう証拠立てよう?  そう思うと冷や汗がいっぱい流れ、眼は眩んで、あたりの物が何も見えなくなった、尤も薊を切る小鉈の乾いた音は相変わらず聞こえていたけれど。心配中のただひとつの慰めは、あんなに熱心に働いているから、すぐに畑全部を丸坊主にしてしまうだろうと思うことであった。  が彼らは邪魔された。遠く舗道の上に荷馬車の響きがきこえた、それが近寄ると彼らは薊の茎の間に縮こまり、うまく這いつくばるので見えなくなった。  荷馬車が行きすぎると、彼らは休んで盛り返された元気をもって、再び仕事を続けた。  しかしその働きがどんなに激しくとも仕事はけっして終わるまいと少女は考えた、今にも人がやってきて彼らを捕らえるだろう、彼らと一緒に自分をも。  逃げることが出来たら! 少女は小屋を出る方法を捜した、それは実は難しいことでなかった、しかし音を立てて自分のいることを知らすという危ない目に遭わずに、どこへ行けよう? じっとしていれば覚られずにすむに違いない。  そこで少女はまた横になって眠ったふりをした、だって出たらすぐ捕まる危険があるのだから、泥棒が小屋へ入ってきても何も見なかった様子をしているほうが、ずっといい。  なおしばらく彼らは取り入れを続け、次に笛を吹くと車輪の音が道路上に聞こえ、間もなく彼らの車は畑のふちで停まった。数分間で荷物は積まれ、荷馬車は大急ぎでパリのほうへ行ってしまった。  もし時刻を知っていたら少女は明け方まで眠ったことであろう、しかしそこで何時間を過ごしたのか覚えなかったから、少女は歩き出すのが賢明だと考えた。田舎では人は早起きだ、夜明けに刈り取られた畑から出るのを見たら、畑の付近にいるのを見てさえ、百姓は彼女を泥棒の一味ではないかと疑って捕まえるだろう。  そこで小屋からそっと出て、耳を立て目を見張り、泥棒のように這って畑を出、何事もなく街道に辿りついて、急ぎ足で歩み続けた。雲のない空に散りばめた星は薄れていた、そうして東のほうで微かな明るみが、日出を告げながら夜の闇を照らしていた。 8  そんなに長く歩かないうちに前方にぼんやり黒いものの群がりが見え、それは一方では屋根や煙突や鐘楼などの輪郭を白い空に描き、他方はまだ全部闇の中に沈んでいた。  最初の家々に差し掛かると本能的に足音を忍ばせた、がその用心は要らなかった、道上をうろつく猫以外全ての物は眠っていた、ただ幾匹かの犬が目を覚まして締まった門の向こう側で吠えるだけで、死人の村のようだった。  村を抜けると落ち着いた、そうして歩をゆるめた、なぜなら今はもう、盗人の入った畑から十分離れ、泥棒の片割れだと咎められるわけはなかったので、相変わらずこの急ぎ足を続けてゆくことは要らないと感じたからである。既に少女は今までに知らなかった疲れを覚え、朝の冷気にもかかわらず、頭に熱が上ってきて、ふらふらしていた。  しかし歩をゆるめても、また朝の冷気がしだいに強まっても、露に濡れても、彼女は、その苦しみを鎮められはしなかったし元気づけられもしなかった、そうして彼女は、自分を弱らせ、やがて自分を打ち倒して全く気を失わさせようとしているものが、飢えであることを認めなければならなかった。  もし感情も意思も失ってしまったら、自分はどうなるだろう?  そんなことにならないためにはしばらく立ち止まるのが一番よい、と少女は思った。その時少女は、最近刈り取ったウマゴヤシの前を通っていた。その刈り入れ物は数々の小山にして平地に黒く積んであった。彼女は道の溝を飛び越えて、この小山の一つに隠れ場を掘った、そうして、そこでほんのりと暖かい秣の匂いに包まれて横になった。田舎はひっそりとして動きも無く音もなく未だ眠っており、東方から迸り出る光の下で限りなく広々と見えた。休息、ぬくもり、枯れ草の匂いは少女の吐き気を静めた。少女は間もなく眠った。  目が覚めると、太陽はもう地平線に高く上り、その暑い光で野をおおっていた。野良では男や女や馬が近くのあちらこちらで働いていたし、農夫の小さな群れは燕麦の畑の草抜きをしていた。始め、近くに人がいるので少し心配したが、人々の仕事をしている様子から、少女は、自分のいるのを彼らが怪しんでいないこと、あるいは何とも思っていないことを知った、そこで暫く待って彼らが遠のいたあと道路へ戻った。  よく眠ったので体は休まった。少女はかなり元気に何キロか歩いた、もっとも飢えが今は胃の腑をしぼり、めまいや、ふるえや、欠伸をもって頭を空虚にしたし、こめかみはひどく締め付けられていた。だから今し方登ったばかりの坂の上から向こう側の斜面に、森から出た大きな館の高い頂きに見下ろされた大きな村の家々を見とめたとき、彼女はパンを買おうと決心した。  一スウかくしにあるのだから、わざわざ飢えを耐えなくとも使えばいいではないか。なるほど使えばもう無一文になる、しかし幸福がひょっこりやってきて助けてくれないものでもない。大道でお金を拾う人々がいる。少女もそんな幸運に逢うかもしれない。少女を打ちひしいだ不幸は別として、これまでかなりの幸運に逢ってきたではないか?  そこでその一スウが本物かどうかを念入りに調べてみた、残念ながら少女は、本物のフランスの銅貨が贋物とどう違うかよく知らなかった、それで、サン・ドニのあの事件が起こりはしまいかとびくびくしながら、始めに見つけたパン屋へ決心して入ったとき、胸がどきついた。 「パンを一スウだけ分けて下さいませんか?」  パン屋は黙って勘定台の上から一スウの小さなパンを取って差し出した、が少女は手を出さずに躊躇して、 「切って下さいませんか、新しいのでなくていいんです。」 「それじゃあ、はい。」  とパン屋は、二、三日前からあったパンを計りもせずに渡した。  しかし堅さの多少は問題でない、大事なことは、それが一スウの小パンよりずっと大きいということだった、実際それは、少なくとも小パンの二つ分はあった。  両手に受け取るとすぐ口の中にいっぱい唾がわいた、が、どんなに欲しくても村を出るまではそれを切ろうとしなかった。大急ぎで村を出た。最後の家々を通り越すと、かくしからナイフを取り出し、パンが四等分されるように上に十文字をつけてその一つを切り取った、これは今日のただ一度の食事となるべきものであった。残りの三つは次の日々のためにとって置けば、僅かだが、これでアミアンの近くまでは行けると少女は見積もった。  少女は村を通り抜けながらそう見積もったのである。そんなことは訳なく実行できるように見えた。しかしその小さなパンきれを一口呑み込むや否やこう感じた、世のどんな強い論法も空腹に対しては何の力も持たないものだ、我々の欲望というものは、すべきだとかすべきでないとかいう事柄によって制せられるものではない、と。少女は空腹だった、食べなければならなかった、彼女は最初の一切れを餓鬼のようにして平らげ、次の一切れはちょっとかじるだけにして残そうと思った、がこれも同様にがつがつして呑み込み、第三のものも、どんなにかよそうと思ったけれどこらえきれず、第二のものの後を追った。こんな意思の弱さ、こんな動物的衝動を未だかつて経験したことがなかった。少女は自分のした事が恥ずかしかった。愚かなあさましいことだと思った、が言葉や論法は少女を引きずる力に対しては無力であった。もし彼女が言い訳を持っていたとするなら、それはただもうパン切れが小さいということだけだった、皆集めても半斤にもならない、例え一斤でもこのひどい飢えを満たすのは不足であったろうのに。そうしてこの飢えがこんなに激しくやってきたのは、昨日何も食べなかったからであり、その前の幾日かにも、黙り屋さんのくれたスープしか飲まなかったからに他ならなかった。  この説明は一つの弁解であった、そうして全ての弁解の中でも一番いいものであった、そこでこの説明が原因となって第四のパン切れも始めの三つと同じ運命を辿った、ただし第四のパン切れについては少女はこう考えた、自分はこうより他にすることはできないのだ、してみればそれは自分の誤りでもなくまた責任でもない、と。  しかしこの弁舌は、彼女が歩き出すとすぐに力を失ってしまい、埃だらけの道を五百メートルも行かぬうちに彼女はこう考えるのであった、もし今し方襲った飢えがまたやってきて、その時までに当てにしていた奇蹟が起こらなかったら、明日の朝は自分はどうなることだろう。  飢えよりも先に渇きがやってきて咽喉に乾燥と熱とを覚えた。朝は暑かった、そうして少し前から強い南風が吹いて、少女に汗を一杯かかせてはそれを乾かした。吸う空気は熱していた。道の斜面に沿って、溝の中で、薔薇色をした朝顔のラッパ型の花や、菊ちさの青い花は、萎えた茎に凋んでぶら下がっていた。  始め少女はこの渇きを気にかけなかった。水は万人のものだ、店へ買いに入る必要はない、川か泉が来たら、四つんばいになるか身を屈めるかして、好きなだけ飲みさえすればいいのだ。  が、ちょうどその時少女はイル・ドゥ・フランスの高地にいて、ルイヨンからテーヴまで川は一つもなかったし、小川は幾つかあるが、水の満ちているのは冬の間で夏はすっかり干上がってしまう。広々した眺めの小麦や燕麦の畑、木のない平野、あちらこちらに丘が見え、丘の頂きには鐘楼や白い屋敷が立っている、しかし底に川の流れていそうな谷を示すポプラは一ならびもどこにもない。  エクアンを過ぎた後小さな村に着いて、村を横切る道の両側を眺めたけれど、だめだった。当てにしていた幸福な泉はどこにも見えなかった、思うに咽喉を渇かせて通る宿無しのことを考えて出来た村は滅多にない、自分の家か隣かに井戸があればそれで沢山なのである。  彼女はそうして最後の家々のところへ来た。すると、引き返して家へ入って一杯の水をこう勇気はなくなった。村人は、初めて通るときにもう、気の滅入るような目付きでこちらを見ていた事を少女は気づいていたし、犬までが、怪しげなぼろの女には歯をむき出しそうに思われたのである。二度も家の前を通るのを見たら、一は自分を捕まえはしないだろうか? 包みでも背負っておれば、何か売り買いする女だろうという訳で廻らせておいてもくれよう、が、手ぶらで歩いているのだから、これは泥棒だ、自分のため仲間のために隙を狙っているのだ、と人は思うに違いない。  歩くより他はなかった。  しかしこの暑さ、この熱気、絶えず焼け付くような風が埃を巻き上げて少女を包む樹木のないこの白い道で、渇きはいよいよひどくなった。大分前から唾は出なくなった。乾いた舌は口の中で異物にでもなったのかと彼女を苦しめたし、上顎は、角が火に会って縮んだように固くなった、そうしてこの耐え難い感覚のために、少女は仕方なく、息の詰まらないように口を半分開けておいた、そこで舌はいよいよ渇き、上顎はいよいよ固くなった。  力尽きて少女は、道で見つけた一番なめらかな小石を幾つか口の中へ入れることを考えた。小石は、鈍くなっていた舌を少し潤し、唾はやや粘り気を失った。  勇気も希望も戻ってきた。フランスは水のない砂漠ではない、彼女は国境からこちら色々の地方を通ってそれを知っていた、我慢してゆけばやがては川か沼か泉が見つかるだろう。それに、暑さは相変わらず息詰まるばかりであり風は相変わらず大竃からでも出るように吹いているけれど、少し前から太陽は既に曇り、パリのほうを振り返ると、大きな黒雲が空に立ち上り、眼の届く限り、全地平線を覆っているのが見えた。嵐が来るのだ、きっとそれは、水たまりや小川を作る雨を持ってきてくれ、好きなだけ飲むことが出来るであろう。  一陣の竜巻が通り過ぎて、刈り入れ物を鳴らし、灌木の茂みをねじり、道端の小石をさらい、埃や緑の葉や藁や秣の旋風を引きずって行った、次にそのひどい物音が鎮まると南方に、遠く雷鳴が、暗い地平線の端から端へ絶え間なく吐き出されて、とどろき渡るのが聞こえた。  ペリーヌはこの恐ろしい圧迫にたまらず、目と口に両手を当てて腹這いに溝の中に伏した。始めは渇きに夢中になって雨のことしか考えなかったが、雷鳴に揺り立てられた彼女は、嵐には雨だけでなく目も眩む稲妻や、土砂降りの水、雹、雷撃も伴うことを思い出した。  この裸の広い野原で、どこに宿を借りようか? 着物がびっしょり濡れたらどうして乾かそうか?  竜巻の持ち去る最後の埃の旋風の中で少女は、およそ前方二キロのところに、道が入り込んで通り抜けている一つの森の橋を見とめた、そうしてあそこにたぶん隠れ家か、石切り場か、もぐりこむ洞穴があるだろうと考えた。  ぐずぐずしてはおられなかった。暗さは一層深まり、雷の轟きは今は際限無く長引き、不規則な間を置いていよいよすさまじい閃光がこの轟きを支配した。閃光は、地上の生命を打ち砕きにでも来たように、野の上で空の中で、あらゆる動きあらゆる物音をひそめさせた。  嵐より先に森に着けるだろうか? 喘ぐ息の許す限り早く急ぎながら時々振り向いてみると、嵐は黒雲を伴って激しく駈けながら押し寄せてくる、また雷鳴をもって、巨大な火の輪で少女を包みながら追いかけてくる。  旅の時山中で一度ならず恐ろしい嵐に遭ったことがある、がその時は父も母もいて自分を守ってくれた、ところが今、自分は、嵐に襲われた哀れな旅鴉として、寂しい野原の真ん中にたった一人だ。  もし激しい風に向かって進まなければならなかったのなら、少女はきっと歩けなかっであろうが幸いにも風は少女を押してくれた、そうしてたいそう強く押したから、おりおり少女は走らされた。  この足取りを続けていけないわけはない。電光はまだ頭上にはなかった。  肱を胴につけ、前屈みになって、少女は駈け出した。息切れがして倒れないように加減はしながら。しかしどんなに早く駈けても嵐は彼女より早く駈け、その恐ろしい声は追いついたぞと背中の上で叫んだ。  いつもならもっと粘り強く闘ったろう、が、疲れ、弱り、頭はふらつき、口は渇いていたから、死に物狂いの努力を続けることはできなかった、そうして時々気力がなくなった。  幸い森は近づいてきた。最近斧を入れた透けた森の大きな木々が、今ははっきり見分けられた。  もう数分すれば着く。少なくとも森のふちには着いて、野原ではとても得られそうにない物陰が見つかるに違いない。この希望は、それの実現しそうな一機会を、それが甚だ頼りないものでも構わない、少女に与えさえすればそれでもう十分、少女の勇気は挫けはしなかった。幾度お父さんは彼女に言ったことだろう、危険に際しては、最後まで闘いぬく人々に、救われる機会は来るものである、と。  少女はこの思いに力付けられて闘った、まるで父の手がなお自分の手を取って引いてくれるように。これまでのものよりも更に燥*いた更に激しい雷撃が、一面火の海になった地面に少女を釘付けた、今度は轟音はもう少女を追うものではなく、少女に追いついていた。少女の上にあった。駈ける足を弛めなければならなかった。雷に打たれるより雨に濡れる方がまだ増しだった。  二十歩も行かぬうちに大粒の雨が幾つか隙間なく降りかかったので夕立が始まったと思った、が夕立は、それを追い払う雷鳴の震動に断ち切られ、風に持ち去られて、続かなかった。  ついに森に入った。が闇が大層深いので目は遠くまで利かなかった、けれど閃光のお蔭で、つい近くに小屋があって、深く轍のえぐれた悪い道がその方についているのを見たように思った。盲滅法にそこへ飛び込んだ。  次に光った稲妻で、自分の間違いでなかったことが分かった。それは樵夫が、日光や雨を避けて小枝の屋根の下で働くために柴で拵えた小屋であった。もう五十歩、もう十歩、そうすれば少女は雨を逃れるのだ。少女はその距離を乗り越えた、そうして、走り疲れ、心配のために息もつけなかったので、力尽きて、地面を覆う木屑の寝床にくずおれた。  少女が息を取り戻すまもなく、すさまじい爆鳴が、ひっさらわれるかと思うばかりのバリバリッという音を立てて森中に響き渡った。下草を切り払われて孤立していた大きな木々は曲がり、幹はねじれ、枯れ枝は同じ幹からでた若木を押し潰しながら鈍い音を立てて八方に落ちた。  小屋はこんな竜巻をよく持ちこたえるだろうか、更に強い揺れが来たら崩れはしまいか? と考えるまもなく、恐ろしい圧力を伴った大きな焔が、少女に枝をかぶせながら、目を眩ませ耳をつんざいて、仰向けに突き飛ばした。我に返ってまだ生きているのかしらと体にさわりながら見ると、近くの闇の中に真っ白く樫の木が雷に打たれていた。樹の皮は上から下まで剥げて周囲に飛び散っていた。小屋に落ちた樹皮はその破片で小屋を破っていた。樫の木の裸になった幹に沿って、その二本の大枝が、付け根のところを捩られてぶら下がり、風に揺られて、気味悪くうめきながら動いていた。  死が自分の上を、しかもその物凄い息吹で地面に倒されたほどに近くを通ったと考えると恐ろしく、ふるえながら、気もそぞろになって眺めていると、森の奥が霧でけむるのが見え、同時に、速い汽車の音よりもっと強い特別の轟きが聞こえた、−−それは森を襲う雨と雹とであった。小屋は上から下まで揺れ、屋根は突風に波打った、しかし崩れはしなかった。  水はやがて樵夫が北向きにつけておいた傾斜面を滝となって流れ始めた。少女は、濡れずに、唯手を伸ばしさえすれば掌にすくってがぶがぶ水を飲むことができた。  もう夕立のやむのを待つばかりだ。小屋はこの二つの猛攻撃を持ちこたえたのだから、他の攻撃をも持ちこたえるであろう。どんなに堅固な家でも自分が主人であるこの柴の小屋に優るものはない。そう思うと、今し方なした努力や心配や苦悩に続いて快い幸福がやってきて少女をうっとりさせてしまった。少女はぴかぴかごろごろを続ける雷にも、ざんざん降りしきる雨にも、木々を通る風にもその響きにも、空中と地上に荒れ狂う暴風雨にも一向構わず、枕代わりに木屑の中に横たわり、久しぶりの安静と信頼の情をもって眠った。こうしてみると、最後まで闘いぬく勇気のある人々が助かるということは本当だ。 9  目が覚めると雷はもうやんでいたがまだ細かい雨が絶えず、滴のしたたる森の中を一面煙らせて降っていたから、これはで掛けられないと思った。待たなければならなかった。  待つのは不安でもなく不愉快でもなかった。森の寂寞も沈黙も恐ろしくなかった。少女は大変よく自分を守ってくれ、今気持ちよい眠りを与えてくれたこの小屋が、もう好きになっていた。もしここで夜を過ごさなければならないとしても、たぶん他所よりもここの方が少女にはよかったろう、屋根は上にあり、乾いた寝床もあったから。空は雨で見えなかったし時の経つのを知らずに眠ったから、何時頃か少しも分からなかった、がそれは何でもない。夕方が来れば分かる。  パリを出てからは身繕いをする暇も折りもなかった、ところで風に飛ばされた道の砂が、少女の頭から足まで、肌を焼いて一面埃の厚い層となっていた。一人だったし、水は小屋の周囲につけた溝を流れていたから、得られなかった機会を利用する時だった。こう雨が長引いては、誰も邪魔しに来はしまい。  スカートのかくしには地図と母の結婚証書のほかに、石鹸のかけら、短い櫛、指抜き、針を二本さした糸巻き、これらをぼろにしっかり巻いた小さな包みがあった。少女はそれを解いて上衣も靴も靴下も脱いだ後、きれいな水の流れる溝にかがんで石鹸で顔や両肩や足を洗った。拭くのには包みを巻いていたぼろしかない、それは大きくもなく厚くもなかった、が、ないよりは増しだった。  この身じまいで、気持ちのいい眠りと殆ど同様に疲れが治った、そこで少女はゆっくり髪を梳きそれを二つの金色の太いお下げに編んで両肩に垂らした。飢えが再び始まって胃袋を困らせなかったら、また靴擦れでところどころ、足がすりむけていなかったら少女は全く気楽だったろう、心は静かだったし、体はさっぱりとしていた。  ひもじいのはどうする事もできなかった。小屋は宿り場ではあっても、食べ物を何もくれないからである。が擦りむいた傷に対してはこう考えた、擦れて破れている靴下の孔を塞げば靴の固いのに苦しまなくなるだろうと。そこで早速仕事にかかった。それは手間取ったし難儀でもあった、なぜなら完全に近く繕おうと言うのには綿布が必要だったろうが、糸しか持っていなかったから。  この仕事はそれでも有り難いところがあった、せっせとこれをやっていると空腹が紛れたのである、しかしそれはいつまでもは続かなかった。仕事は終わったが雨は相変わらず、程度の多少を見せてあるいは細かく、あるいはひどく降り続き、胃袋もまた次第に激しくその要求を続けている。  今は、明日にでもならないと宿を立ち去る事は出来ないように思われたし、一方、奇蹟が起こってスープが貰えるような事は到底なかったから、飢えがいよいよ差し迫ってきてその為にもう食べ物のことしか考えられなくなった少女は、ふと、小屋の屋根に混じった樺の幹を切って食おうかと思ってみた。枝の上によじのぼれば楽に手が届いた。父と一緒に旅をしていた頃彼女は樺の樹の皮で飲料水を作る地方を見たことがある、そうしてみればそれは毒になるような有害な木ではない。しかしお腹の足しになるだろうか?  ものは、試しだ。小刀で葉の多い枝を少し切って、ごく短くそれを切りわけ、その一つを噛み始めた。  少女の歯はしっかりしていたけれど、それは随分固く、また随分渋く、苦いものに思われた、しかし食通の人が味わうのではあるまいし、少女はそれがどんなにまずくても飢えが鎮まり腹の足しになりさえすれば、文句は言わなかった。しかし呑み込めたのは僅かで、殆ど木の大部分は、口中でただ無益にもぐもぐやった後吐き出してしまった。葉の方はそんなに通りにくくはなかった。  少女が身繕いをし、靴下を直し、樺の枝を晩御飯にしようと努めているうちに時は経った、そうして空は相変わらず雨で曇っているので日の沈むのを見ることができなかったが、いつ頃からとなく闇が森を罩*め、夜は近づいたに違いなかった。果たして夜はまもなくやってきて、森は夕方のない日のような具合にして暗くなった。雨はやんで白い霧がやがて立った、そうして数分の中にペリーヌは暗闇と沈黙との中に沈んだ。十歩前は見えなかった、そうして周囲では、遠くの方でのように、ただ水滴が枝から屋根へあるいは近くの水たまりへ落ちる音しか聞こえなかった。  ここに泊まるつもりではいたが、こうしてひとりぼっちで闇の中で森の中に忘れられている自分を見ると、やはり胸がつまった。むろん彼女は、雷に打たれるという危険以外には逢わずに、この場所で昼の一部分を今し方過ごしはした、が昼の森は夜の森ではない、夜の森は多くの不安なものを知らせ見せる不思議な蔭と荘厳な沈黙とを持っている。  だから少女は胃の痙攣にはかき立てられ、幽霊を目に浮かべては怯えて、思うようにすぐに寝付く事はできなかった。  この森にはどんな動物が住んでいるだろう? たぶん狼が?  と思うと、うとうとしていた少女は引き戻されて、身を起こし、丈夫な棒切れを取って小刀でその端を尖らせ、次に周囲に柴を置いた。少なくとも狼がかかってきたらこの砦の蔭で防ぐ事ができる。確かにその勇気は出る。そこで安心して、両手にその槍を握ったまま木屑の寝床に横になると、まもなく眠ってしまった。  小鳥の歌で目が覚めた、それは、張りのある、笛のような調子の、落ち着いた物悲しい歌だった。少女はすぐにそれを鶫の声だと知った。目をあけると柴の上に暗い森を通ってきた白い弱い光が見えた。森の木や若木は夜明けの青白い背景に黒く浮き出ていた。  雨はやんでいた。一吹きの風も重い木の葉を動かさず、森の中はしいんとして、これを破るものはただこの鳥の歌だけで、それが彼女の頭上で揚がると、遠くで他の数々の歌がそれに答えた、ちょうど村から村へと繰り返され長引いてゆく朝の呼び声のように。  もう起きて出かけなければなるまいかと思いながら耳を澄ましていると少女は身震いがでた。手を上衣にやると夕立の後のように濡れていた。森の湿気が透って、今、夜明けの冷気の中で少女を冷やしたのだ。もう躊躇してはいられない。すぐに立って、馬がくさめをするように体を強く揺すぶった。歩いたら温まるだろう。  しかし考え直して、まだ出かけずにいようと思った。空模様の分かるほど明るくはなかったからである。この小屋を去る前、もう雨が降らないかどうかを見るのは賢明だ。  時を過ごすため、また体を動かすために、少女は昨夜乱した柴を片付け、次に髪を梳き、水の満ちた溝のふちで身繕いをした。  それがすむと夜明けの代わりに朝日が出ていた、そうして今は枝越しに、空が、どんな薄い雲もなく青白く見えた。確かに朝はいい天気らしい、たぶん昼もそうだろう。出かけよう。  靴下は繕ったけれど歩き出すのはひどく辛かった、それ程足は痛んだが、まもなく慣れてしまい、やがて規則正しい足取りで、雨が柔らかくなった道を歩いていった。太陽の斜めの光が背中に当たって少女を温め、同時に、少女と並んで歩く長い影を砂利の上に投げた、この影を見ると少女は安心した、なぜならこの影は、別段身なりの立派な少女の姿を見せてはくれなかったけれど、少なくともあの、髪を振り乱した土色の顔の昨日の哀れな娘の姿はもう見せなかったからである。犬もたぶん吠えつかないだろう、人々も疑いの眼で見送らないだろう。  天気も、心に希望を抱かせるのにあつらえ向きのものだった。こんなに美しい朗らかな朝を見たことがなかった。夕立は道や野原を洗い、木にも草にも一切に、昨夜にも孵ったような新しい生命を与えていた。空は再びぬくもり、幾百の雲雀が嬉しげな歌を投げながら澄み切った青空をまっすぐに飛び、森を縁取る野原一面から、草や花や刈り入れ物の人を力付けるような匂いが立ち上っていた。  この万物の歓喜の真ん中で、自分だけが絶望したままでいなければならないわけはなかろう。不幸というものはいつまでも追ってくるものかしら? 幸運がどうしてこない事があろう? 森で宿られたのが既に大きな幸運であった、次の幸運にも巡り合わないわけはない。  道々少女の想像は、かくしに孔があいて街道にお金を落すということは時々あるものだという考えから翼に乗って飛び立ち、またいつもこの考えに戻るのであった。だから、彼女が、人に返さなければならないような大きな財布でなく、ほんの一スウか、誰にも迷惑をかけずに取って置くことが出来て自分を救ってくれるような十スウ銀貨でも拾う事はあるかもしれないとくり返し思ったのは、狂気の沙汰とはいわれない。  同様に、何か仕事か手伝いをする機会にうまくであって何スウか貰えるかもしれないと思うのも、彼女にとっては、とんでもない事ではないように見えた。  三、四日生きるのには、それ程僅かしか要らなかった。  そこで目を砂利の上につけて歩いた、が二スウ銅貨も小さな銀貨もかくしの綻びから落ちてはいなかったし、また仕事の機会も見当たらなかった。想像はそれを甚だ容易に見せてくれるのだが現実はどこにも与えてくれないのだ。  しかしそうした幸運のどちらかは、火急のこととしてできるだけ早く実現しなければならないものだった、なぜなら少女の昨日覚えた不快は、時々激しく繰り返されるので、道を続けて行く事はできないのではないかと心配し始めたほどであったからである。胃の傷み、吐き気、眩暈、元気をすっかり無くしてしまう発汗。  その苦悩の原因を尋ねる必要がなかった、胃袋がそれを苦しそうに彼女に訴えていたのだ、そうしてあのひどく不成功に終わった樺の枝での昨日の経験を繰り返すわけにもゆかなかったので、もし、いよいよ強い眩暈のために道の低い斜面に座り込まなければならなくなったら、その後はどうなる事だろうと考えた。  再び立ち上がれるだろうか?  もしそれができなかったら、自分は誰にも手を差し伸べられずにそこで死ぬよりほかないのだろうか?  もし誰かが、昨日あの死に物狂いの努力で森の小屋にたどり着いた彼女に向かって、死というものは衰弱によっても自暴自棄によっても起こり得るという考えをそのうちにお前は逆らわず受け入れるだろう、と言ったとしたら、終いまで闘いぬくものは救われるのではないのでしょうか、と答えて、彼女は反対したに違いない。  しかし昨日は今日と同じではなかった、昨日はまだ力が残っていた。今はそれがない。昨日は頭はしっかりしていた、今は頭はふらふらである。  無理をしてはいけないと思い、気の遠くなるごとに、草の上に坐って少し休んだ。  豌*豆の畑の前に立ち止まった時、自分とおおよそ同じ年頃の四人の娘が、一人の百姓の女の指図で、畠へ入って豆摘みを始めるのを見た。そこでありたけの勇気を奮い起こして、少女は道の溝を越えて百姓の女の方へ行った、がこの女は少女を寄せ付けなかった。 「お前さん、何の用だえ?」 「あのう、お手伝いをさせて頂きたいと思いまして。」 「誰も要らねえよ。」 「どんなことでも構いませんからやらして下さい。」 「お前さん、どこから来たんだえ?」 「パリからです。」  娘の一人は顔を上げて、意地悪そうな目付きを投げて叫んだ、 「パリから人の作物を荒らしに来たのだろ。」 「誰も要らねえと言ったに、」と百姓の女は続けた。  溝をまた越えて、歩き出すよりほかなかった。少女はそうした。胸をいっぱいにして、脚を棒のようにして。 「それ、お巡りさんが来た、逃げな。」と別の娘が叫んだ。  少女は急いで振り返った、するとみなその冗談に興じて、どっと笑った。  そんなに歩かないうちに、まもなく立ち止まらなければならなかった、もう道が見えないほど目に涙があふれたからである。何をしたからといって、あんなにつれなくされるのだろう!  確かに、宿無しにとっては、仕事は二スウ銅貨と同様になかなか見つからない。その証拠は分かった。だから少女はそれを繰り返そうとせず、脚にも心にも力なく、しょんぼり歩き続けていった。  真昼の太陽はついに少女を圧し潰した。今は少女は歩いているというより身を引きずっていた、そうして自分の後ろを眺めているように思われる人々の視線を逃れるため、村々を通り過ぎる時だけ少し歩を早め、反*って、後ろから馬車が来て追い越そうとする時などは歩をゆるめた。そうして自分一人だけになった時は、絶えず立ち止まって休んで息をついた。  しかし休むと頭の方は働きだした、そうして頭に浮かぶ次第に不安になってゆく考えは、ただ少女の衰弱を増すばかりであった。  終わりまで行けないのは明らかであるとすれば、頑張ったとて何になろう?  少女はそうしてある森までやってきた。道はまっすぐ森の中へ目の届く限り入り込んでいて、既に野原で重苦しく燃えるようであった暑さは、ここで息詰まりそうだった。太陽は灼熱し風はひとそよぎもなく、下草や道路の低い斜面からは、湿った蒸気がむんむん立ち上って息ができなかった。  少女はまもなく力尽きた事を感じた、そうして汗にぬれ、動悸は衰えて、動くことも考えることもできずに草の上に倒れた。  その時、後ろから荷馬車がやってきて通過した。轅(ながえ)の上に腰をおろして馬を駆っていた百姓が言った。 「暑い、こりゃあ死ぬよりほかはねえ。」  少女は夢うつつの中で、この言葉を自分に言い渡された刑罰の承認のように聞いた。  してみると本当に自分は死ななければならないのだ。少女は既にその事を一度ならず自分に言い聞かせてきた、そうして、見よ、死の使いはそのことを自分に重ねていったのだ。  よし、自分は死のう、これ以上逆らうことはなく戦うこともない。もうそういうことはできなくなってしまえばいい。お父さんも死んだ、お母さんも死んだ、今度は自分の番だ。  うつろな頭に浮かんだこうした考えのうち一番痛ましかったのは、こんな溝の中に哀れな動物のようにして死ぬのでなく、両親と一緒に死ぬのなら、それはまだしも不幸でない、と言う考えであった。  そこで少女は最後の努力をして物陰に入り、そこに物見高い人々の眼を逃れて寝る最後の眠り場所を選ぼうとした。程近くに抜け道がついていた。これを取って五十メートルほど行った、すると草の生えた小さな空き地があり、そのふちには美しい紫の狐尾草の花が咲いていた。少女は栗の若木の影に坐った、そうして横になりながら、毎晩寝る時のように腕の上に頭を置いた。 10  暖かいものを顔の上に感じて、はっと目が覚め、驚いて目をあけると、毛の生えた大きな顔が自分を覗きこんでいるのが、ぼんやりと見えた。  少女は脇へ飛びのこうとした、が、舌が顔の上をまともに大きく舐めて、少女を芝草の上に引き留めた。  これは瞬時の出来事ではあったが、少女はその間に我に返った、この毛の生えた大きな顔は驢馬のものであった、彼女は、自分の顔や前においた自分の両手を絶えず舌でぐいぐい舐められている最中に、驢馬を見ることができた。 「パリカール!」  両腕を驢馬の頸に回して涙にかきくれながら、抱きついた。 「パリカール、私のパリカール。」  驢馬は自分の名前を聞いて舐めるのをやめ、首をあげて五、六度誇らしげな喜びのいななきをあげ、それではまだ自分の満足を叫ぶのに十分でないので、更に、前に劣らぬ大きな声を五、六度上げた。  その時少女は、驢馬が、馬具も頭絡(おもがい)もなく、脚には桎(かせ)をはめられているのを見た。  少女は身を起こし、驢馬の頸を取って、撫でながらその頸に自分の顔を置いた、一方驢馬はその長い耳を少女の方へ傾けた、その時、誰かしわがれ声で叫ぶのが聞こえた。 「どうしたと言うんだ、いたずらっ子め? ちょっと待って、今行く、今行くから。」  果たして、道の砂利の上にまもなく急いでくる足音が聞こえた。ペリーヌは、仕事着を着て革の帽子を被った男がパイプを咥えて現れるのを見た。 「おい! 娘っ子、うちの驢馬に何をしているんだい?」と男は、パイプを口から離さずに叫んだ。  すぐにペリーヌは、それをラ・ルクリだと覚った。馬市で自分がパリカールを売った男装の屑屋だ、しかし屑屋は彼女と知らず、ちょっとして後、始めて彼女を驚いて見つめ、 「どこかで見たようだが?」 「私があなたにパリカールを売った時ですわ。」 「おや、まあ、お前さんだ。何をしてるんだね?」  ペリーヌは答えられなかった、気が遠くなって坐るよりほかはなかった、そうして青い顔色と窪んだ目とが、代わりに語ってくれた。 「どうしたんだえ?」とラ・ルクリは尋ねた、「病気なのかえ?」  しかしペリーヌは一言も出さずに唇を動かした、そうして衰弱と感動とに力を失い、生きた色もなくふるえながら、肩肘をついて横たわった。 「これ、これ、」とラ・ルクリは叫んだ、「どうしたのか言えないのかえ?」  まさしく少女は自分がどうしたのか、言えなかった、自分の周囲に起こったことは覚えていたが。  しかしラ・ルクリは、あらゆる貧苦を知っている苦労人だった。 「大方、死ぬほどお腹が空いているんだろう、」と呟いた。  それだけ言って彼女は空き地を出て道の方へ行った、そこには驢馬をはずした小さな荷車があり、荷車の粗い囲み格子にはそこここに兎の皮が張ってあったが、彼女は急いで一つの箱をあけてパンとチーズと一本の壜を取りだし、全部を抱えて駈け戻ってきた。  ペリーヌは相変わらず同じ状態だった。 「お待ちよ、お待ちよ。」  彼女はそばに膝をついて、壜の口をペリーヌの唇に差し入れた。 「ぐっと飲みなさい、力がつくから。」  実際ぐっと飲むと、ペリーヌの青い顔に血の気が戻り、活気づいてきた。 「ひもじかったのだろう?」 「ええ。」 「さあお食べ、だがゆっくりとだよ、ちょっとお待ち。」  彼女はパンとチーズとから少しだけ切り取って、それを差し出した。 「なるべく、ゆっくりとだよ、それよりか私もお相伴しよう、そうすればお前さんを加減できるから。」  この用心は賢明だった、なぜならもう少女はパンへじかにかぶりついていて、ラ・ルクリの忠告に従いそうに見えなかったから。  それまでパリカールは、じっと大きな優しい目で様子を見ていたが、ラ・ルクリがペリーヌの横に坐るのを見ると自分もそのそばに膝をついた。 「この小僧もパンが欲しいんだろう、」とラ・ルクリは言った。 「一つやって構いませんか?」 「一つでも二つでも好きなだけおやり、無くなったら、まだあるから遠慮しないで。お前さんにあって喜んでいるんだよ、このいい子は。だって、これはいい子だものねえ。」 「そうでしょう?」 「その一切れを食べたら、お前さん、どうしてこんな森でお腹が減って死にかけていたのか話しておくれ、だってお前さんを死なすなんて本当に可愛そうなことなんだもの。」  ラ・ルクリが勧めたにもかかわらずそのパンの切れは、あっと言う間に平らげられた。 「もう一つ欲しいだろう?」と彼女は、それが無くなると言った。 「ええ。」 「それじゃあ、あげるのは話を聞いてからにしよう、話をしているうちに今食べたのがこなれるだろう。」  ペリーヌは、聞かれた話をし、母の死から始めた。サン・ドニの一件まで来ると、パイプに火をつけたラ・ルクリはそれを口から放して、パン屋のおかみにひどい悪口を並べた。 「そりゃあ泥棒だ、」と彼女は叫んだ。「私は贋金なんぞ、誰にも渡しゃあしないよ、だって私はそんなものを誰からも掴ませられはしないもの。安心をおし、サン・ドニを通る時吐き出さしてやるから、それとも町中を集めてけしかけてくれる、私はサン・ドニに友達があるんだ、奴の店に火をつけてやる。」  ペリーヌは語り続け、物語を終わった。 「そんな具合で死にかけていたのだね、」とラ・ルクリは言った、「一体どんな感じだったえ?」 「始め大変苦しくって、ちょうど夜中に胸が苦しくて声を上げるように、どうしても声を立てずにいられない時があったわ、それから天国とそこで食べようとするおいしいものの夢を見ました、待っているお母さんが、ミルク入りのチョコレートを作っていて下さる、それが私には分かるんです。」 「お前さんは、暑さに中(あた)って死ぬ筈だったのが、ちょうどその事で助かったなんて面白いね、だって、私だって暑さに中らなかったら、この森の中に止まってパリカールを放しもせず、パリカールはお前さんを見つけもしなかったのだから。これからお前さんどうするつもりだい?」 「道を続けて行きます。」 「で、明日はどうして食べる? お前さんぐらいの年でなくちゃあ、そんな風に当てもなしに歩けるもんじゃない。」 「どうしたらいいでしょう?」  ラ・ルクリは、考えながら重々しく二、三度パイプを吹かした、そうして答えた、 「こうしよう、私はクレイユまで行く、それから先へは行けない。道筋やその近所にある村や町、シャンチイやサンリスで品物を買いながら行くんだ。お前さん一緒においで、もし力があったら少し呼んでごらん、「兎の皮、ぼろ屑、古鉄はありませんか」」  ペリーヌは言われたことをやった。 「こりゃ結構だ、声が澄んでいる、私は咽喉が痛いから、私の代わりに呼んでくれてパンを稼ぐといいや。クレイユに行ったら、雛卵を集めにアミアン辺まで行く卵屋を知ってるから、頼んでお前さんをその馬車に乗せて行って貰おう。アミアンの近くへ行ったら、そこから親戚のいる土地まで汽車に乗るといい。」 「汽車賃は?」 「それはパン屋のおかみが盗んだお金の代わりに前もって百スウあげておくから。なあに、あのお金は取り戻すから、安心しておいで。」 11  事はラ・ルクリの手筈通りに運んだ。  一週間にペリーヌは、シャンチイの森の両側にある全ての村、グヴィユ、サン・マクシマン、サン・フィルマン、モン・レヴェック、シャマンを通った、そうしてクレイユに着くとラ・ルクリは少女を引き取ろうと言い出した。 「お前さんの声は屑屋にはすてきな声だよ、手伝っておくれ、不仕合わせにはしないから。楽に暮らしてゆけるよ。」 「有難うございます、でもそれはだめですわ。」  この論理が十分でないのを見て、ラ・ルクリは次の論理を前へ持ち出した、 「パリカールと別れる事はないし。」  これには実際ペリーヌは弱らされた、そうしてつい感動を見せた、が意思を固くして、 「親戚のところへ行かなければなりませんから。」 「その親戚というのは、パリカールみたようにお前さんの生命を救ってくれでもしたのかえ?」 「もし行かないとお母さんの言いつけに背く事になりますので。」 「そうかい、じゃあお行き、でもね、私のあげようというこの機会を後日思い残すような事があっても、それはお前さんだけの責任だよ。」 「安心して下さい、あなたのことは忘れません。」  ラ・ルクリは、そう断られても気を悪くせず、友達の卵屋とアミアン近くまで馬車で運んでくれる事に話をつけてくれた。そこで一日中ペリーヌは満足にも幌の下で藁の上に寝ながら、立派な二頭立ての馬の速足で運ばれて行き、この長い道を歩いて疲れることは要らなかった。その道は、今の幸福と過去の労苦とを比べるといよいよ長いものに彼女には見えた。エサントーでは納屋に泊まり、翌日、−−それは日曜日であったが−−、彼女はアイ駅の切符売り場の窓口に百スウ銀貨を差し出した。今度ははねつけられもせず取り上げられもせず、ピキニ行きの切符と二フラン七十五サンチームのお釣りを貰った。ピキニに着いたのは朝の十一時、輝かしい暑い朝だったが、その暑さは穏やかで、シャンチイの森の暑さのようではなかったし、少女自身もあの時のみすぼらしい少女とは違っていた。  少女はラ・ルクリと数日を過ごした間に、スカートと上衣を縫い、補布(つぎ)をあて、ぼろで襟掛けを拵え、肌着を洗い、靴を磨いた。アイで汽車の出るのを待ちながら川の流れで細々とした身じまいをした。そこで今彼女は、清潔に、清々しく、さっぱりとなって汽車を降りたのである。  が、清潔さよりも、またかくしで音を立てる五十五スウよりもなおよく心を引き立てたものは、過去の経験から来た勇気である。やけにならずに終わりまで頑張って勝利を占めたのであったからには、征服しなければならない残りの困難にもこれから打ち勝つであろうことを希望し信ずる権利を、彼女は持っているわけではないか? 一番骨の折れる事柄は成就されずにいたとしても、少なくとも何らかの事実、確かに最も難儀で最も危険な事柄は征服されていた。  停車場を出ると水門の橋を渡り、今は心も軽くポプラと柳の植わった緑の野原を横切って歩いていった。ところどころに沼があり、釣りをする人がまわりに道具を置いてうつむいて浮きを見ていた。その道具ですぐに、その人々が、いい身なりをして都会を逃れてきた釣り好きの連中であると知れた。沼に続いて泥炭坑があり、赤茶けた草の上には白い字や番号のついた黒い小さな立方体が幾何学的に積まれて何列にも並んでいた、乾かすために並べた泥炭の堆積であった。  幾度お父様は、この泥炭坑やその掘りこみ、つまりソム低地に独特の、泥炭を取った後に水の溜まった大きな数々の池のことを話してくれたことだろう。同様にまた少女は、暑さにも寒さにも何物にもめげない熱心な魚釣りのことも知っていた、だから少女の通ってゆくところは新しい土地ではなくて、たとい目ではまだ見たことがなかったとはいえ、よく知っている親しい土地であった。低地を縁取る潰れたような裸の町々も知っていたし、その町々に聳えていて、ここまで感じられる海の微風に打たれて静穏な日でさえ回る風車も知っていた。  始めて着いた赤瓦の村もそれと分かった、サン・ピポア村だ、マロクールの工場で織物業や綱の製造をしているところだ。少女はそこへ入る前、鉄道線路を平面交叉している道で横切った。この線路は、エルシゥ、バクール、フレクセール、サン・ピポア、それからヴュルフラン・パンダヴォアヌの工場の中心マロクール、これら色々の村をつらねた後、ブーローニュの幹線に繋がっている。低地のポプラに引見する景色を当てもなく眺めると、これらの村のスレートの鐘楼や、今日日曜日には一遍の煙もない工場の煉瓦の煙突が見えた。  教会の前を通ると大ミサを終えた人々が出てきた、そうして行き違う人々の話を聞いて少女はなお、お父さんが自分を面白がらせるためによく真似をしたあの、言葉を歌うようにして長く曳くピカルディ地方ののんびりした方言を思い出した。  サン・ピポアからマロクールへは、ふちに柳の木の並んだ道が、泥炭坑の中を、まっすぐにではなく、あまりぼこぼこしない地面を選びながらもつれ曲がって通っている。だからここを通る人々は、前も後ろも少しの距離しか目が利かない。こうして彼女は腕に重い籠をかけたために体を曲げてゆっくり歩いていく一人の娘に追いついた。  ペリーヌは取り戻していた勇気に力付けられてその娘に言葉をかけた。 「この道はマロクールへ行くんでしょう?」 「ええ、まっすぐに。」 「まあ! まっすぐにだって、」とペリーヌは頬笑んだ、「こんなまっすぐなのはないわ。」 「お困りでしたら、私もマロクールへ参りますの、御一緒に参りましょう。」 「それは結構ですわ、あなたのお籠を私にも持たして下さいな。」 「そうして頂けましょうか、とても重たくて。」  その娘は籠を地面におろして、ほっと吐息をもらした。 「あなたはマロクールのお方ですか?」と娘は尋ねた。 「いいえ。あなたは?」 「私はもちろんそう。」 「工場で働いていらっしゃるんでしょう?」 「ええ、皆と同じように。私、管捲機のところで働いています。」 「それはどんな機械ですの?」 「まあ管捲機を御存じないんですか、エプロワールを! 一体どこからあなたはいらしったのです?」 「パリから。」 「パリの人が管捲機を御存じないなんて面白いこと。つまり梭(おさ)のために糸を仕組む機械ですわ。」 「日当はたくさん貰えますの?」 「十スウ。」 「難しいお仕事?」 「そんなに難しくありません、でも目が離せないし、ぼんやりしてはいられませんわ、あなたは、そこに雇われたいのですか?」 「ええ、採用してもらえたら。」 「勿論採用して貰えますわ、誰だって入れるんですもの。そうでなくちゃあ工場に働いている七千人の職工さんは、どこで見つかりましょう。明日の朝六時に工場の柵門のところへいらっしゃればいいのです。でもお喋りはもうたくさん。遅れるといけない。」  娘とペリーヌは、籠の柄を両側からとって、道の真ん中を足並み揃えて歩きだした。  知りたいものだと思っていたことを知る機会は余りにも都合よく到来したから、ペリーヌはそれを掴まずにはおかなかった、が、その娘にあけすけに問うことはできなかったから質問は上手にしなければならなかったし、まるで出任せに喋るようなふりをしながら、目的を覚られないよう十分よく包み隠したそういう事柄だけしか尋ねないようにしなければならなかった。 「あなたはマロクールで生まれたの?」 「ええ、そこで生まれました、私の母さんもそうでした、お父さんはピキニでした。」 「二人とも亡くなられたのね?」 「そう、私はお祖母さんと一緒に暮らしているのです。お祖母さんは、小売と食料品雑貨店とをやっています、フランソアズお婆さんといって。」 「まあ! フランソアズお婆さん!」 「御存じなの?」 「いいえ、・・・まあ! フランソアズお婆さん、といってみただけですわ。」 「お祖母さんは土地では大変よく人に知られているんですの、小売りをやっていますし、エドモン・パンダヴォアヌ様の乳母でしたから何事かヴュルフラン・パンダヴォアヌ様に頼みたいことのある人たちが、お婆さんのところへ来るもんですから。」 「お祖母さんはその人たちに頼まれたことを、聞いてもらえるのですか?」 「聞いて貰えたり貰えなかったりですわ、ヴュルフラン様は、そういつも甘くはいらっしゃらないから。」 「お祖母さんがエドモン・パンダヴォアヌ様の乳母だったのなら、なぜみんなはエドモン様のところへ行って頼まないのでしょう?」 「エドモン様ですって! エドモン様は、私などの生まれる以前にこの土地をお出になったんですよ。インドへ苧(お)を買いにやられになったとき、仕事のことでお父様と仲違いなすって二度と帰っておいでになりませんの・・・あなたは管捲機を御存じないから、苧といっても、判らないでしょうね。」 「草なの?」 「麻なのです、インドで取れる大麻なのです、これをマロクールの工場で紡いで織って染めます。この苧でヴュルフラン様は財産をお拵えになったのです。そりゃねえ、ヴュルフラン様だってずっとお金持ちでいらしったわけではなく、始めは御自分で荷馬車を曳いて糸を運んでは、土地の人々が家で機にかけて織った布を貰って帰られたのですわ。あのお方はそれをお隠しにならないので私も申し上げるんですけれど。」  娘は話を中途でやめて、 「腕を替えましょうか?」 「そうしましょう、お嬢さん・・・あなたは何とおっしゃるの?」 「ロザリー。」 「ではそうしましょう、ロザリーさん。」 「それではあなたは、お名前は?」  ペリーヌは本名を言おうとせず、思いついたままの名前を言った、 「オーレリー。」 「では腕を替えましょう、オーレリーさん。」  少し休んだ後再び調子を合わせて歩き出すと、ペリーヌはすぐ自分に関係した事柄に戻った。 「エドモン様はお父様と仲違いして出られたんですってね。」 「ええ、それからインドへ行かれるといっそう仲違いがひどくなりました、エドモン様はその土地の娘とそう立派でもない結婚をなすったのです、こちとらではヴュルフラン様が、ピカルディ一の家柄のお嬢様をめあわそうとしていらしったのに。ヴュルフラン様は、この結婚のために、息子と嫁とを住ませようとして何百万円もかけてお邸を造られました。どうしてもエドモン様は、あちらの奥様と別れてこちらのお嬢様を貰おうとはなさらないので、すっかり仲違いなさり、今はエドモン様は生死のほども分かりません。生きておられるという人もあり亡くなられたともいいます、が何も分かりません、もう幾年も幾年も前から音沙汰なしですから、・・・それも人の噂ですけれど。だってヴュルフラン様も甥御さんもその話は誰にもなさらないので。 「ヴュルフラン様には甥御さんがいらっしゃるのですか?」 「お兄さんの息子テオドールさんと、お姉さんの息子カジミール・ブルトヌーさん。一緒に呼んで手伝ってもらっていらっしゃるのです、もしエドモン様が帰ってこられないと、ヴュルフラン様の財産も工場も皆、甥御さんのものになります。」 「面白いこと。」 「エドモン様が帰ってこられなかったら厭ですわねえ。」 「お父様のためにね?」 「土地のためにもですわ、だって甥御さんの手にかかったら、あんなに大勢の人々を養っている工場はどうなるか分かりませんわ、皆がその話をしています、日曜日に私が店の小売りを手伝っていますといろんなことがみんな耳に入りますのよ。」 「甥御さんのこと?」 「ええ、甥御さんのことだの、他のことだのが。でもそんな事は、私たち他人の知ったことじゃありませんわね。」 「本当にそうね。」  ペリーヌは、強いて聞きたがっていると見られたくないので数分間黙って歩いた、が口の軽いらしいこのロザリーはまもなく話を続けるに違いないと思っていた、果たしてそうだった、 「あなたの御両親もマロクールにいらっしゃるの?」 「私、もう親はないんですの。」 「お父さんも、お母さんも?」 「ええ、お父さんもお母さんも。」 「私と同じことね、でも私にはお祖母さんがあるわ、いい人よ、気兼ねしなければならない叔父さんと叔母さんがいなかったらもっといい人なんだけど。叔父さんや叔母さんがいなかったら、私、工場なぞで働かないでお店にいるんだけど。でもお祖母さんの思うようにはならないわ。じゃああなたはひとりぼっちなの?」 「ひとりぼっちよ。」 「パリからマロクールへいらしったのは、御自分のお考えなの?」 「マロクールでたぶん仕事が見つかるだろうということでしたので、残った親戚のいる土地へずんずん行ってしまわないで、マロクールを見ようと思ったのです、だって親戚といっても、こちらで知らない限り、どんな風に迎えてくれるか判らないものですわね。」 「本当にそう、善い人もいれば悪い人もいるし。」 「そう。」 「あの、心配要りませんわ、工場に仕事が見つかりますわ、十スウは大した日給ではないけれど、でも幾らかにはなるし、それに二十二スウまでは上がれますのよ。ちょっとお尋ねしますからよかったら答えてちょうだい、答えたくなかったらいいのよ、あなたお金を持っていらしって?」 「少しばかり。」 「そう、何でしたらフランソアズお婆さんの宿にお泊まりになれば、前払いで一週二十八スウですわ。」 「二十八スウなら払えるわ。」 「値段がこれですからお一人だけの立派なお部屋は約束できません、一部屋に六人なの、でも寝床も、敷布も毛布もあるわ、これは誰でもあてがわれるわけじゃありませんのよ。」 「ではありがたくお受けします。」 「お祖母さんの宿には一週二十八スウの人たちしか泊まらないけれど、ほかに、うちの新館の方にですけれど、立派なお部屋がありますわ、工場に務めている人が泊まっていらっしゃるんです。建築技師のファブリさん、会計課長のモンブルーさん、外国通信係のベンディットさん。この人に話し掛けるときには忘れずにベンディットって言わなくちゃあいけません、この人は英国人だから、バンディ(フランス語で盗賊の意・訳者註)と発音すると『泥棒』とでも言われて侮辱されるように思って怒りますわ。」 「きっと忘れないわ、それに私は英語を知っているのよ。」 「英語を知っていらっしゃるの、あなた?」 「お母さんが英国人でした。」 「それじゃあそうだわね。ああ、ベンディットさんは随分喜んであなたと話すでしょう。もしあなたがどんな国語でも知っていたらなお喜ぶでしょう。だってあの人は日曜日には、二十五ヶ国語で印刷した本を開いて『主の祈り』を読むのが大の慰安なのですもの、読み終わると読み返し、終わるとまた読み始めるのよ、日曜日にはいつもそうなの、でもいいお方ですわ。」 12  道の両側にずっと生えている大樹の二枚のカーテンの間に、既に少し前から、右手には丘の斜面にスレートの鐘楼、左手にはトタンでできた大きなぎざぎざの屋根、やや遠くに煉瓦の高い煙突がたくさん見えていたが、やがて見えなくなった。ロザリーは言った。 「もうマロクールです、やがてヴュルフラン様のお邸が見えます、それから工場が。村の家は木の蔭になっているから高みへ行かないと見えません、川の向こう側に教会と墓地が並んでいますのよ。」  果たして、柳の木々がみんな同じ高さに頭を切られている場所へ来ると、お邸の全貌がその壮大な整いを見せて浮かび上がってきた。白い石と赤い煉瓦の正面を持った建物の三つの棟、高い屋根、木立のある広々とした芝地の真ん中にそびえる煙突、そうしてその芝地は下っていって草原となり、そこから丘の動きに従い土地の起き伏しにつれてずっと遠くへ延び広がっている。  ペリーヌは驚いて歩をゆるめロザリーは歩き続けたので、二人はぶつかりあって籠をおろしてしまった。 「どう! お邸、立派でしょう、」とロザリーはいった。 「立派なこと。」 「ヴュルフラン様は、あそこにたった一人で、庭師や馬丁を勘定にいれないでも十二人ほどの召使いと暮らしていらっしゃるのです、庭師や馬丁たちは、ずっと下の方の庭園の端にあるあの、工場の煙突より低くて小さい煙突の二本ある村の入り口ねえ、あそこに見える付属の建物の中にいるんです。それからあれは、お邸の照明用の電気機械の仕事場と、お邸や温室をぬくめるための機関室です。お邸の中の美しいことといったら、どこもかしこも金尽くめよ。甥御さんたちはヴュルフラン様と一緒に住みたがっていらっしゃるのだけれども、ヴュルフラン様はそれがお嫌いで、一人で暮らし一人で食事をなさるのがお好きなんですって。甥御さん達をお泊めになっていられることは確かです、お一人は工場の出口のところにある古いお邸に、もう一人はそのお隣に。それでお二人は事務所がずっと近くなられたわけなの、それなのに、折々遅刻なさいます、ところが工場主の叔父様の方は六十五歳でもう楽をなすってもいいお方なのに、夏も冬も、お天気のいい日も悪い日も、いつも事務所にいらっしゃるの、日曜日は別です、日曜日は、工場主も誰もかも皆お休みになるから。煙突から煙の出ていないのはその為なのです。」  再び籠をさげて彼女たちはまもなく工場の全景を眺めることができた、けれどペリーヌの見とめたものはただ、どっしりと周囲のものをおさえつけている、頂きの黒い、背丈の殆ど全部が灰色をした巨大な煙突のまわりに、敷瓦やスレートの屋根を集めている、新しい古い様々の建物の混雑だけであった。  その上彼女たちは、貧弱なりんごの木の植えてある庭々に散在する最初の家々へ辿りついていた、そうして周りに見えるものはペリーヌの注意をひいていた。−−随分しばしば話に聞かされた村だ。  殊に驚いたのは、うようよした大勢の人たちだ。家の周囲や、空いた窓から内部の様子の見える低い部屋の、晴着を着た男や女や、子供たちだ。都会でも人の群れはこんなに固まりはしないであろう。戸外では、人々は手ぶらで、暇そうに、ぼんやり話をしていたし、内では、その色でそれが林檎酒、珈琲、或は火酒(ブランデー)と分かる種々の飲み物を飲んでいて、議論めいた声をあげながらコップや茶碗をテーブルにぶっつけていた。 「まあ大勢の人が飲んでいるのねえ!」とペリーヌは言った。 「もしこれが、半月分のお給金の支払いのあった後の日曜日だと、大分違いますよ。お昼から、もう飲めなくなる人たちが、たくさんできますわ。」  彼女らが通り過ぎる大抵の家々で特に著しいことは、粘土で羽目を粗塗りした土造か木造の、どんなに古ぼけた傷んだ建て方の悪い家でも、その大方が、看板のように人目を引く戸口や窓には少なくともペンキを塗り立てて、媚びるような様子を見せていることであった。実際この色塗りは一つの看板であった。こうした家では職工たちに間貸しをするのである、そうしてこの色塗りは、他のいろんな修繕をやらなくとも、いかにもこざっぱりしていそうに思わせるのである、ちょっと内部を覗いたら、すぐに、ばれてしまうのだが。 「着きましたわ、」とロザリーは、突きあたりの、刈り込んだ垣の向こうにある煉瓦造りの小さな家を、空いている方の手で指しながら言った。「庭の奥と裏手に、職工に貸す建物があります、このお家はお店、小間物店なのです。二階が下宿部屋。」  垣の中に木柵があってそれは林檎の植わった小さな庭に向かって開いており、庭の真ん中に大きな砂利を敷いた細道が家の方へついていた。この細道を三、四歩行ったかと思うと、まだ若い女の人が戸口に出て叫んだ、 「急いでおくれよ、意気地なしめ、何だいピキニへ行くだけの用事に。さんざん怠けてきたんだろう。」 「あれはゼノビ叔母さんなの、」とロザリーは小声で言った。「いつもうるさいのよ。」 「何をこそこそ言ってるんだい?」 「籠を手伝って頂かなかったらまだ着いてはいないところだっていってますの。」 「黙っておいで、怠け者。」  この言葉が、甲高い調子で放たれたので、一人の肥った夫人が廊下へ現れて、聞いた。 「何だと言うのだえ、お前?」 「あのねえお祖母さん、ゼノビ叔母さんが遅かったって叱っていらっしゃるの、この籠、重たいんですのよ。」 「よし、よし、」とお祖母さんは穏やかに言った。「そこへ籠を置いて、七輪にシチューがかけてあるから取りに行っておいで。温まっているだろう。」 「庭で待っていてね、」とロザリーはペリーヌに言った。すぐに帰ってきますわ、一緒にご飯を食べましょう、あなたもパンを買っていらっしゃいな、パン屋さんは左手の三軒目よ、急いで行ってらっしゃい。」  ペリーヌが戻るとロザリーは、林檎の樹の蔭に食卓を据えて坐っていた。卓上には二つのお皿に、ジャガイモ入りのシチューが一杯よそってあった。 「おかけなさいな、」とロザリーは言った。「私のシチューをお分けしましょう。」 「でも・・・。」 「お上がりになっていいんですよ、フランソアズお祖母さんに聞いたら、いいっておっしゃったんです。」  そうだとすれば遠慮することはない、とペリーヌは思って食卓に着いた。 「宿のことも話しましたわ、もう決まったのよ、二十八スウをフランソアズお婆さんに払いさえすればいいの、あなたの泊まるところはあそこ。」  彼女は粘土の壁の建物を指した、それは、煉瓦の家の向こうになっていたので、庭の奥の方に一部分しか見えなかった。見たところひどく荒れ、壊れていて、倒れないでいるのが不思議なほどであった。 「フランソアズお婆さんは、エドモン様の乳母として貰ったお金で私たちの家を建てるまで、あそこに住んでいました。あそこは、家ほど気持ちよくはないかもしれません、けれども職工たちは、親方のようにしては泊まれませんわねえ?」  彼女たちの食卓から多少隔たった別の食卓で、シルクハットを被り上衣のボタンをかけて角張った、重々しい四十歳ぐらいの男が、製本した小型の本を一心に読んでいた。 「あれがベンディットさんです、『主の祈り』を読んでるんです、」とロザリーは低い声で言った。  それからすぐ彼女は、この社員の勤勉にはお構いなく話しを仕掛けた。 「ベンディットさん、このお嬢さんは英語が話せますのよ。」 「ははあ!」と彼は眼を上げないでいった。  そうして、やっと彼女たちの方へ眼を向けたのは少なくとも二分経ってからだった。 「あなたは英国人ですか?」と彼は尋ねた。 「いいえ、でもお母さんがそうでしたの。」  それきり一言もいわないで、彼は再び熱心な読書に耽った。  彼女らの食事がすんだとき、軽い馬車の音が道の上に聞こえ、まもなく垣の前で緩やかになった。 「ヴュルフラン様の馬車らしい、」とロザリーは急に立ち上がって叫んだ。  馬車はなお五、六歩進んで入り口の前に停まった。 「そうだ、」とロザリーは道の方へ駈けだして言った。  ペリーヌは席を離れる勇気がなく、眺めていた。  輪の小さい馬車の中に二人の人がいた。一人は馬車を駆る若い男、もう一人は麦藁帽を被り、頬に赤い小静脈の走った青い顔をして、じっとしている白毛の老人で、腰掛けてはいるけれど背は高そうに見えた。ヴュルフラン・パンダヴォアヌ氏だ。  ロザリーは馬車のそばへ行った。 「どなたかおいでになりました、」と降りようとしていた若い男は言った。 「どなただ?」とヴュルフラン氏は尋ねた。  この問いに答えたのはロザリーであった。 「ロザリーです。」 「話があるからお祖母さんに来てくれるように言っておくれ。」  ロザリーは家へ駈けこんで、まもなく、大急ぎで来るお祖母さんを連れて戻ってきた。 「こんにちは、ヴュルフラン様。」 「こんにちは、フランソアズお婆さん。」 「何の御用でござります、ヴュルフラン様。」 「お前の弟のオメールのことじゃ。今その家へ行ってきたが、何も分からぬ飲んだくれの女房がいただけでのう。」 「オメールはアミアンに行っておりまして、今晩戻りますが。」 「あの男にこう言ってくれぬか、わしは、あれが舞踏場をごろつきどもの大っぴらの会合に貸したと聞いたが、わしはそんな会合をやらせとうはない、とな。」 「もしも契約をしておりましたら?」 「取り消させるんじゃ、さもなければ会合の翌日に家を追い出す。これはわしの家貸しの条件じゃから厳重に履行する、わしはあの種の集まりは好かん。」 「フレクセール村でもございましたよ。」 「フレクセールとマロクールは別じゃ、わしはこの土地の者をフレクセールの者のようにしとうはない、皆を取り締まるのはわしの務めじゃ。お前達だけはアンジゥやアルトアのうろつきではない、今のままでいて貰いたい。これがわしの意志じゃ。オメールに伝えておいてくれよ。では失礼する、フランソアズ。」 「それでは御免なさい、ヴュルフラン様。」  彼はチョッキのかくしを探った。 「ロザリーはどこじゃ?」 「ここにいますわ、ヴュルフラン様。」  彼は手を差し出した、その手には十スウ銀貨が光っていた。 「さあ、お前に上げよう。」 「まあ! 有難うございます、ヴュルフラン様。」  馬車は出かけた。  ペリーヌは一言も聞き漏らさなかった、がヴュルフラン氏の言葉そのものよりも強く彼女の胸を打ったのは、その意志をあらわす口調と権威ある態度であった、「そんな集まりはさせとうない・・・これがわしの意志じゃ」。少女はこんな口調を聞いたことがなかった、そうしてこの口調だけが意志のどんなに固く緩み難いかを語っていた、なぜなら彼の身体つきの方は不安そうで、あやうげで、その言葉に一向そぐわなかったから。  ロザリーはまもなく嬉しそうに勝ち誇ったようにして戻ってきた。 「ヴュルフラン様に十スウ頂いたわ、」と言って銀貨を見せた。 「見ていたわ。」 「ゼノビ叔母さんが知りさえしなければいいの。叔母さんは、貯めておいてやるからって取り上げてしまうのよ。」 「ヴュルフラン様はあなたを御存じなかったようね。」 「まあ! 御存じないって。あのお方私の名親なのよ!」 「でも、あなたがそばにいるのに、「ロザリーはどこにいる」って尋ねていらしったじゃあないの。」 「だって見えないんですもの。」 「見えないの!」 「あなた、盲目だということを知らないの。」 「盲目!」  二、三度、低くこの言葉を少女は繰り返した。 「もう長いことなの?」 「ずっと前から目は弱っていたのですけれど、みんなは気づかないで、あれは息子様がいなくなられて悲しんでおられるのだと思っていました。お丈夫だったお体も悪くなられました。肺炎になられて、いつまでも咳が治らず、そうしてある日、目が見えなくなり、読むことも動くこともできなくなられたんです。もし工場を売るか見捨てるかなさらなければならなかったら、どんなに土地の人は心配したことでしょう! ええ! 勿論何もお見捨てにならず、まるでいい眼を持っていらっしゃるかのように仕事をお続けになりました。だから御病気を当て込んで自分が工場主になろうと思っていた人たちは−−と彼女は小声になって−−、甥御さんたちも、支配人のタルエルさんも、元の木阿弥。」  ゼノビが戸口で叫んだ、 「ロザリー、やくざの意気地なし、来てくれるかい?」 「もう御飯はすみました。」 「お客様のお世話だよ。」 「私、失礼しなければならないわ。」 「どうぞ私に御遠慮なく。」 「じゃあ、今晩ね。」  ロザリーは、いやいやゆっくりと家の方へ行った。 13  娘の立った後もペリーヌは、もしできたら、自分の家にでもいるように快くテーブルに坐っていたことであろう。しかし彼女は自分の家にいるのではなかった、なぜならこの庭は下宿人達のための庭であって職工のための庭ではなかったからである。職工は、腰掛けも椅子も食卓もない奥まった小さな庭しか使う権利はなかった。そこで腰掛けを立ち、当てもなく、ぶらぶら、足の向くままに道を取って出かけた。  しかし随分ゆっくり足を運んだのだがまもなく道という道を歩いてしまった、そうして人々の好奇の目が自分を追っていることを感じて、立ち止まりたいと思っても立ち止まれずに、引き返す勇気もなくて、際限無く同じところをぐるぐる廻っていた。工場と反対側の斜面の高みに森が見え、そのこんもりした緑がはっきり空に浮き出ていた。この日曜日には、たぶんあそこならひっそりとしていて、誰にも注意されずに坐っていることができるだろう。  果たしてその森は人気がなかった。森のふちの畠もそうだった。少女はそのふちの苔の上に、谷と、その谷の中央にある村とを前にして、楽々と体を横たえることができた。少女は、父の話で聞いてよく知ってはいたけれど、廻りくねった迷路の中では少々まごついた、しかし今それを上から見渡してみると、それは長い道中、母に語り聞かせながら想像していた通りのものであり、果たして行きつくことができるかしらと絶望的に考えながら、飢えの起こす幻の中で楽園のように思っていたその通りのものであった。  見よ、自分はそこに着いたのだ。眼前にそれは広がっている。指先で、どの道どの家をも、その正確な場所に示すことができる。  何という喜び! 本当にそうだ、悪魔にでも憑かれたようにして幾度となくその名を口にし、フランスに入ってからも、信ずるためには見る必要があるかのように、行き過ぎる馬車や駅に停まった貨車の幌の上に捜したあのマロクールは、もう途方もない漠然としたあるいは捉え難い夢の国ではなく、現実の国であるのだ。  村の向こう側、少女の坐っている斜面と反対の斜面の上、少女の正面に、工場の建物は建っており、その屋根の色で少女は、まるで住民が語り聞かしてくれるかのように、工場発展の歴史を辿ることができた。  川の中央とそのふちに煉瓦と黒ずんだ瓦との古ぼけた建物があり、その隅に海風や雨や煙に蝕まれた高い細い煙突がある、この建物が昔の亜麻の製糸工場で、長いこと見捨てられていたのを、三十五年前ヴュルフラン・パンダヴォアヌという小さな織物製造人が借り受けたのであった。土地の高慢な連中は馬鹿げたことだと軽蔑しきって、どうせ潰れると言っていたものだ。ところが潰れないで、身代は始め一スウ一スウと少しずつ、まもなく何百万と増していった。瞬く間にこの母親の周囲に子供は殖えていった。上の子供たちはお母さんと同様不格好で着物も悪く、ひ弱であった。これは貧乏に苦しんだお母さんにはありがちなことだ。ところが次の子供たち殊に末っ子達は、立派で頑丈で、必要以上に頑丈で、兄たちの年齢の割に早く消耗した漆喰や粘土の惨めな粗壁とは似てもつかぬ、多彩な装飾の被覆を装っていて、その鉄の小屋組みやニス塗り煉瓦の薔薇色や白の玄関とともに、仕事や年月の労苦に挑戦しているように見えた。初期の建物は古い工場の周囲の窮屈に区切られた地面に押し詰められているのに、新しい建物は、付近の野原に広々と広がり、鉄道線路や伝達軸や工場全体を無数の細縞で覆う電線の網で、互いに結ばれていた。  長いこと少女は、これらの込み入った道の中に迷い入り、高く力強い大煙突から、屋根にそびえる避雷針へ、電柱へ、線路の貨車へ、石炭置き場へと移りながら、全てこれらのものが、パリを出るときサン・ドニの真ん中で聞いたあの恐ろしい響きを立てて熱し、煙を吐き、動き、廻り、うなるとき、今は死んでいるこの小さな町がどんな活気を呈するかを頭の中に描こうと努めるのであった。  次に目を村へ落すと、村も工場と同じ発展を辿ったことが見えた。花の咲いたべんけい草が金色の塗料となって一面に生えている古い屋根が、教会の周囲に立て込んでいた。窯から出立ての赤い瓦の色をまだ保っている新しい屋根は、川に沿って野原や樹木の中に谷間に散在していた。ところが工場に見られることとは反対に、古い家々はどっしりした様子でいい恰好をしているのに、新しいのはみすぼらしく見え、まるで昔マロクールの農村に住んでいた百姓たちは当時、今の工業によって暮らす人々よりもずっと楽に暮らしていたように思われるのであった。  こうした古い家々の中一軒の邸が、その重々しさで他の家を凌いでいた、そうしてなお大樹に囲まれたその庭で他の家よりも際立っていた。庭は果樹の垣根のある二つの高台となって川まで下り、洗濯場に届いていた。この邸を少女は思い出した、これはヴュルフラン氏がマロクールに居を定めたとき入った邸で、自分の館に住むようになるまでは氏はここを離れなかった。子供であった自分の父は、洗濯日には長い時をこの洗濯場で過ごし、そのことを覚えていた。父は、そこでお喋りをする洗濯女たちから土地の伝説の長い物語を聞いたのであった、そうして後それを父はその娘に再び語り聞かせたのである。『泥炭坑の魔女』や『英国人の砂地獄』や『アンジェストの魔法使い』やその他多くの物語を、少女は昨日聞いたことのように思い起こした。  太陽が動いてゆくから少女は居場所を変えなければならなかった、が、ほんの数歩移りさえすれば、捨てた場所と同じ値打ちのところを見つけることができた、そこでは草は、やはり柔らかく芳しく、またやはり村や谷全体の美しい景色を見ることができたから、夕方まで少女は久しぶりに味わう楽しい状態でそこにいることができた。  少女は決して先の見えない女ではなかったから、甘い憩いに耽って、これで自分の試練は終わったなどと考えはしなかった。仕事とパンと寝床とを確保したからと言って、全てがすんだわけではない。母の希望を実現するためになお手中に収める必要のある事柄は大変難しそうに見えたから、それを思うと身震いせずにはいられなかった、でも結局マロクールに自分を見出すということは有り難い結果だ、不運にしてここへやって来られないということも大いにありえたのだ。今は少女は、どんなに長く待たなければならなくとも、どんなに辛い戦いに耐えなければならなくとも、ここで何事にも絶望してはならない。頭上に屋根、一日に十スウ、それは道端しか寝るところはなく、樺の樹の皮しか食べるもののなかった哀れな娘にとって、幸運ではないだろうか?  翌日から始まろうとしている新生活の中で、することしないこと、言うこと言わないことを決めて、行動の計画をしておくのは賢いことのように思われた、しかしそれは何一つ知らない少女にとって大変難しいことであったから、まもなくそれは、自分の力のとても及ばない仕事だと覚った。お母さんがマロクールへ着いたのなら、どうしたらいいかきっと知ったであろう、がペリーヌは経験も理解力も智慧も巧みさも、気の毒なお母さんのどんな特性をも持っていなかった。導き手もなく援助もなく忠告もない子供に過ぎなかったのであるから。  こんなことを考えた上、お母さんのことを思い出したのでなおさら、眼に涙が込み上げてきた。少女は墓地を去って以来まるで自分を救う魔力でもこもっているかのように幾度となく口にしてきた次の言葉を繰り返しながら、こらえきれずに泣き出した。 「お母さん、懐かしいお母さん。」  事実この言葉は、疲れと絶望に苦しんで気を落した時、少女を助け、強め引き立てはしなかったであろうか? 「お前は・・・そうだ、お前は仕合わせになる」というあの死に臨んだ人の最期の言葉を繰り返さなかったら、少女は終わりまで闘いぬいたであろうか? その魂が既に天と地の間を漂っている臨終の人々には、生きている人々に明かされない多くの神秘な事柄が分かる、というのは、本当ではないでであろうか?  この危機は少女を弱らせるどころか力付けた。少女は、時々夕方の静かな大気の中を通る微風が自分の泣き濡れた頬に母の愛撫をもたらしながら「お前は仕合わせになる」というあの臨終の言葉をささやくように思って、心を一層希望で強められ勇気で高められて、危機をくぐりぬけるのであった。  どうして仕合わせになれないことがあろう? どうしてお母さんは、今、守護の天使のように自分の上に身を屈め、自分のそばに、いらっしゃらないことがあろう?  そこでふと少女は、お母さんと話を交わして、パリでしてもらった予言をもう一度していただこうと思った。しかし少女は、たといどんなに興奮していたとしても、生きている人に話し掛けるようにして母に話し掛けることができるとか生きている人の言葉で母が返事をしてくれるなどとは考えなかった、だって亡霊は生きている人のようにしては話をしないのだから。尤も亡霊が話をするということは、その亡霊の神秘な言葉の分かる人にとっては間違いないことであるが。  少女は、狂おしくなるほどに自分を迷わせながら惹きつけるこの計り知れない未知の事柄の上にうつむいて、かなり長い間考えに耽っていた。それから何ということなく彼女の目は、自分の寝ている森のふちの草の中で白い大きな花冠を以って一段と際立っている大きな雛菊の一群に注がれた、すると少女はすぐに立ちあがってそれを取りに行き、あれこれと選ばないよう目をつぶって、この幾本かを摘み取った。  それから元へ戻って、じっくり心を静めて坐り、感情に震える手で、一つ一つその花冠をむしり始めた。 「私の首尾は、半吉、吉、大吉、凶。私の首尾は、半吉、吉、大吉、凶。」  慎重にそうしていって、もう幾枚かの花弁しか残らないところまで来た。  幾枚? 少女は数えたくなかった、だってその数で答えは分かるのだから。しかし胸はひどく塞がっていたけれど急いでそれらをむしった。 「私の首尾は、半吉、・・・吉、・・・大吉。」  同時に生ぬるい微風が少女の髪の毛の中と唇の上を過ぎた。お母さんのして下さる一番優しい接吻の返事だ。 14  ついにそこから引き返そうと決めた。日は暮れていた、そうして既に狭い谷にもずっと遠くソムの谷にも白い霧が立ち上って、それは大樹のぼんやりした梢の周囲に軽く漂っていた。小さな光が家々のガラス窓の向こうについてあちらこちら闇に孔をあけており、漠然としたざわめきが唄の幾節かも混じって静かな空気の中を渡ってきた。  森や街道で遅くなるのは慣れていたから恐ろしくはなかった、けれど何のために遅くなる必要があろう! 少女は、あんなに惨めにも持たずにいた屋根と寝床とを今は持っているのだ。その上、明日は仕事に出るために早く起きなければならないのだから早く寝る方がよい。  村へ入ってみると、聞こえていたざわめきや歌は居酒屋から出ていた。そこでは少女のここへ着いた時と同様に飲み手がいっぱい食卓についており、開いた戸口から、珈琲や熱い酒や煙草の匂いが発散し、往来に満ちて、まるで往来までも広い居酒屋のようであった。しかもこれらの居酒屋は途切れることなく、時には軒を並べてずっと続き渡っていて、三軒の中少なくも一軒は飲み物の一杯売りをする店であった。少女は街道をあらゆる土地を旅して、酒飲みの集まっている前を幾度も通ってみたが、これらの低い部屋からごちゃ混ぜになって出てくるこんなはっきりした鋭い言葉の騒ぎは、どこでも聞いたことがなかった。  フランソアズお婆さんの庭へ来てみると先に見たあの食卓で、ベンディット氏が蝋燭を前に置き、焔を新聞紙で囲って相変わらず本を読んでいた。蝋燭の周囲には蛾や蚊が飛び回っていたが、彼は夢中に読みふけって、そんなことを気にとめていない様子だった。  しかし少女がそのそばを通ると男は顔を上げて、彼女だと気づいた、そうして自分の国語を話すのが嬉しくて少女に言った、 「こんばんは。」  少女はこれに答えて、 「こんばんは。」 「どこへ行ってきました?」と彼は英語で続けた。 「森を散歩しに、」と少女も同じ国語を使って答えた。 「一人で?」 「ええ一人で、私マロクールには誰も知っている人がないんです。」 「じゃあ、なぜじっとして本を読まないのです? 日曜日には読書よりいいことはない。」 「本を持っておりませんの。」 「あなたはカトリックの信者ですか?」 「ええ。」 「ともかくいずれ本を貸してあげよう、ではさようなら。」 「さようなら。」  ロザリーは家の戸口に腰掛け、框に持たれて、涼みながら休んでいた。 「お休みになる?」 「ええ、そうしますわ。」 「御案内しましょう、でもまずお祖母さんにそう言っておかなくては。お店へ行きましょう。」  話は、祖母とその孫娘との間で出来ていたので、二十八スウの支払いですぐに決まり、ペリーヌはそのお金と更に一週間分の電灯代二スウとを勘定台の上に並べた。 「それではこの土地にお住まいなさるのですね?」フランソアズお婆さんは静かな親切な様子で言った。 「ええ、できましたら。」 「できますよ、お働きになれば。」 「それだけが望みです。」 「それは、そうできますよ、いつまでも五十サンチームでいることはありません、一フランにも二フランにさえも昇ります、ゆくゆく三フランも取るいい職工さんと結婚すれば一日百スウでしょう、これならお金持ちですよ・・・お酒さえ飲まなければね、但し飲んじゃあいけません。ヴュルフラン様が村に仕事を下すったのは仕合わせなことです。なるほど土地はありますけれど、土地からは皆の者の食べてゆけるだけのものは出ませんからね。」  自分の言葉が尊重されるのに慣れた人の権威と重々しさとを持って、この老乳母がそう意見を述べている間に、ロザリーは押入れの下着の包みのところへ行った。ペリーヌは聞きながらロザリーを目で追っていたが、自分のために用意せられるシーツが黄色い荷作り用の厚ぼったい亜麻布であるのを見た。けれども久しくシーツには寝たことがなかったから、どんなに堅くともそうしたシーツのあることを、まだ仕合わせだと考えなければならなかった。ラ・ルクリは、着物なんぞ脱いでしまって、旅の間というもの、決して寝床を用いなかった。寝床を用いる喜びを少女に与えようとさえ考えなかった。家馬車のシーツも、フランスに着くずっと以前に、お母さん用のものを除いて、売り払われたり、ぼろぼろにちぎれたりしてしまっていたのである。  少女は包みの半分を持ち、ロザリーの後から庭を横切った。庭では二十人ばかりの職工たち、男や女や子供たちが木の切り株や石材の上に坐って話したり煙草をのんだりしながら寝る時を待っていた。そんなに大きくもないこの古家にどうやってこの人々がみな泊まれるのかしら?  ロザリーが鉄網の向こうに置いた小さな蝋燭に火をつけた時、屋根裏部屋の光景はこの疑問に答えた。奥行き六メートル、幅三メートル少々の部屋に、壁に沿って六つの寝台が並び、真ん中にあけた通路はやっと一メートルしかなかった。二人分あるかないこの部屋で、六人のものが夜を過ごさなければならないのだ。だから小窓が一つ入り口と反対の壁に開いていたが、早くも戸口からきつい熱い匂いがしてペリーヌはむっとした。しかし彼女は小言を言わなかった、そうしてロザリーが笑いながら、 「少々狭苦しいでしょう?」と言った時こう答えて満足した。 「少しばかりねえ。」 「四スウは百スウじゃあありませんからね。」 「本当にそうですわ。」  結局森や野原より、狭すぎてもこの部屋の方が増しだった、鹽爺さんの掛け小屋の臭気を我慢したのだから、きっとこの臭気だって我慢できる。 「これがあなたの寝床です。」とロザリーは窓の前においてあるのを指していった。  彼女が寝床と呼んだのは、四本の脚に二枚のいたと横木とを取り付けその上に藁布団を置いたもので、袋が枕の代わりをしていた。 「この齒朶(しだ)は新しいのですよ、」とロザリーは言った。「新しくおいでになったお方を古い齒朶の上にお泊めは致しません、そんなことはしていけないことですわ、最も本当のホテルでもそれをやりかねないということは聞いておりますけれど。」  この小さな部屋に寝床は多すぎたのに、椅子は一つも見えなかった。 「壁に釘がありますわ、」とロザリーはペリーヌの沈黙の質問に答えた、「着物をかけるのに大変便利です。」  寝床の下にはなお、下着類を持った宿泊者がそれをしまっておく箱や籠があった、がペリーヌは下着類を持たなかったから、寝床の足に打った釘で十分だった。 「いい人たちよ、」とロザリーは言った。「もしラ・ノアイエルが夜中に物を言ってもそれは飲み過ぎたんですから気になさらないでちょうだい。少しばかりお喋りなの。明日は皆と一緒にお起きなさいね、雇ってもらえるのにはどうしたらいいか教えてあげますから。じゃおやすみなさい。」 「おやすみなさい、どうも有難う。」 「どういたしまして。」  ペリーヌは急いで着物を脱いだ。一人きりだったので、同室の連中から物珍しげに見られないのは仕合わせだった。が、シーツの間にもぐりこんでも予期していた幸福は味わえなかった、それ程シーツはごわごわだった、木屑で織ってもこれほど固くはなかろう。でもそんな事は取るに足らない、地べただって始めてその上に寝た時は固かった。少女はすぐそれに慣れてしまった。  まもなく戸が開いて十五歳くらいの娘が入ってきて、おりおりペリーヌの方を見ながらしかし何も言わずに着物を脱ぎ始めた。よそ行きの着物を着ていたので彼女の身じまいは長かった、だって彼女は小箱の中にその晴着をたたみ、翌日のため仕事着を釘にかけなければならなかった。  次の一人がやってきた、次に三人目が、四人目が。すると喧しいお喋りだ。一時に皆がめいめいその日の話をする。寝床と寝床の間に節約して設けた隙間で、娘たちは箱や籠を引き出したり押し込んだりし、それらは互いに縺れ合う。そのために待ちきれない動作や、怒り声が起こり、その声は皆この屋根裏部屋の家主の悪口に変わっていった。 「なんてあばら屋だ!」 「今にあの子はほかの寝床を真ん中へ引きずり出すよ。」 「本当にこんなところにいてやるもんか。」 「どこへ行くつもりだえ? ほかにいい家があるのかい?」  怒鳴り声が増えた、しかしついに最初にやってきた二人が寝ると少し治まりがつき、まもなく寝床は一つを除いて全部塞がった。  でもそのために会話はやみはしなかった。但し方面が変わった。過ぎた一日の面白かったことを語り合うと、次には明日の面白いことや工場での作業のこと、不平や泣き言、めいめいの喧嘩のこと、工場全体の悪口へと移り、上の人々、ヴュルフラン氏や、その甥たちや、監督タルエルについては、隠し言葉を使い、甥たちのことを『若僧』と呼び、またただ一度だけタルエルとそう名前を呼んだほかはこの男を指すのに『鼬』とか『やせっぽち』とか『ユダ』とか、文句よりもずっとよく娘らの見方を示している形容詞を使った。  ペリーヌは妙な感じを受けた、そうしてその感じの矛盾しているのに驚いた。すなわち彼女は自分の聞いている報告をどんなに重大なものかもしれないと感じて全身を耳にしようとしながら、一方では、これらの話を聞くのは恥ずかしいかのように窮屈な思いをしていたのである。  その間にも話はどんどん進んだ、しかしそれは往々大変ぼんやりしていたり大変個人的であったりしたから、話を呑み込むためには、誰のことを言っているのかそれを知らなければならなかった。しかし長いことかかってやっと彼女は、鼬、痩せっぽち、ユダと言うのが、タルエルという男のことだなと気づいた。この男は職工たちの憎まれ者で、皆この人を恐れもし嫌ってもいた。しかしわざと言葉を抜かしたり、遠慮したり、用心したり、心にもない愛嬌を見せたりしながら話しているのを見ると、どんなに皆がこの男を怖がっているかが分かった。みんなの意見は、同じような文句で終わったのであった、 「でもやっぱり親切な人だ!」 「几帳面だし!」 「本当にそうだ。」  しかしすぐもう一人が付け加えた、 「それにやっぱり・・・」  そうして様々の証拠が挙がって、親切で几帳面なことが示されるのであった。 「パンを稼ぐ必要なんかなかったらなあ!」  少しずつ舌が緩やかになっていった。 「もうみんな寝ようか、」と力のない声が言った。 「誰がお前さんの邪魔をしたい?」 「ラ・ノアイエルが戻ってないわ。」 「ついさっき会ったよ。」 「酔っていたかい?」 「正体もなく。」 「階段、上れないほど?」 「それはどうだか。」 「戸を締めて栓を差しておこうか?」 「がたがた騒ぐぞ。」 「またこの間の日曜日みたいなことになるのか。」 「もっと面倒なことになるかもしれない。」  この時、階段に重いたどたどしい足音が聞こえた。 「来た、来た。」  しかし足音は止まって、どたりといった、そうして次に唸り声がした。 「倒れた。」 「起き上がれないかしら?」 「階段でも、ここと同じようによく眠るだろう。」 「こっちだって一層よく眠れる。」  唸り声に呼び声が混じって続いた。 「ライッド、行っといでよ、ちょっと手を貸しに。」 「何遍やらされるんだろ。」 「おい! ライッド、ライッド。」  しかしライッドは動かなかったので、しばらくするとしたから呼ぶ声は止んだ。 「眠った。」 「うまい具合。」  ラ・ノアイエルは決して眠ったのではなかった、どころか再び階段を上ろうとしていた、そうして叫んだ。 「ライッド、来て手を貸してくれ、よう、ライッド、ライッド。」  彼女の上ってこないのは明らかだった、声は相変わらず階段の下から出てきたからである、それは叫ぶごとにいよいよ激しくなり、遂には涙ぐんで、 「ねえ、ライッド、ねえ、ライッド、よう、階段がめり込むよ、おお! お!」  笑いがどっと寝床から寝床へ走った。 「ライッド、部屋に帰っていないのかい、返事をしてくれ、返事を、ライッド。私はお前を誘いに行ってくる。」 「これで静かになるわ。」一つの声が言った。 「とんでもない、あの子がライッドを捜しに行って見つからないで一時間立つうちに戻ってきたら、またあれが始まるんだ。」 「それじゃあ、いつまでたっても眠れやしない!」 「ライッド、行って助けておやんなさいな。」 「あなた、行きなさいよ。」 「あなたを呼んでるんだもの。」  ライッドは決心し、スカートをはいて降りた。 「おお! ライッド、ライッド。」喜んだラ・ノアイエルの声が叫んだ。  二人は、もうめり込まない階段を上って来さえすればいいように見えた。がライッドを見た嬉しさに、そんなことは忘れてしまって、 「私と一緒においでよ、一杯おごってやるからよ。」  ライッドは、この申し出に誘われなかった。 「さあ寝るんです。」 「いやだよ、ライッド、私と一緒においでよう。」  議論は長引いた。ラ・ノアイエルは自分のこの新しい考えを固執して、いつまでたっても変わらぬこの言葉を繰り返したからである。 「まあ一杯やろうよう。」 「いつまでも切りがありゃしない。」一つの声が言った。 「こっちは、眠たいというのに。」 「明日は起きなけりゃならない。」 「日曜日はいつだってこうだ。」  屋根の下だからこの上なく安らかに眠れると思っていたペリーヌ! これでは、物陰に驚いたり空模様が気紛れであったりしても原っぱに寝る方が、騒がしいこんな共同部屋にごたごた詰め込まれて、二、三時間もした後はどうしてこらえようかしらと思うほど厄介に胸を詰まらせかける吐きそうになる臭気に当たるより、ずっと増しだ。  外では相変わらず議論が続き、ラ・ノアイエルが「まあ一杯」を繰り返すと、ライッドが「明日ね」と答えるのが聞こえて来た。 「ライッドに加勢してこよう、」と一人の娘が言った。「そうしないと夜が明けてしまう。」  実際その娘は起きて降りて行った、すると階段でがやがや大きな声が、重たげな足音や、ぶつかる鈍い音や、この騒ぎにひどく怒った一階の連中の怒鳴り声などに混じって起こった。家中が呼び起こされたように見えた。  ついにラ・ノアイエルは死に物狂いの叫びをあげて泣きながら、部屋の中へ引きずり込まれた。 「私が何をしたというんだい?」  泣き言には耳を貸さずに、みんなは着物を脱がせて寝せた、がそれでも彼女は一向眠らないでうめきながら泣いた。 「私が何をしたからといってこんなひどい仕打ちをするんだい? 私が可哀そうだよ! 一緒に飲んでくれないなんて、かっぱらいかい、私は? ライッドや、咽喉が渇いた。」  彼女が泣き言を言えばいうほど、同室の連中の怒りは高まった、そうしてめいめいがいろんな怒り具合で文句を怒鳴った。  しかし彼女は相変わらずやめなかった、 「サリュ、チュルリュチュチュ、シャッポー・ポアンチュ、フィル・エクリュ、テラバチュ。」  耳に響くのが面白い「ュ」という音の言葉を言い尽くすと、彼女は、もう埒もない別の言葉へ移った。 「蒸気珈琲か、怖いことなんかあるもんかい、心臓にはいいが、さあさ、掃除人や、それで妹さんは? こんにちは、骨董屋さん。まあ! あんたお酒飲みなんですか? それは仕合わせだ、たぶんあんたには不幸だろう。黄疸になるぞ、救護所へ行かなくちゃあ、婦長さんを御覧、甘草をお食べなさい、お父さんが売って私がおごったんだ、だから私ゃ気に入った。咽喉が渇いた、社長さん、咽喉が渇いたよ、咽喉が、咽喉が!」  時々、声は緩やかになり、眠りかけるように弱まっていった、が突然また前より一層急に一層やかましくやり出す、そこで眠りかけた連中はぎくりとして目が覚め、ラ・ノアイエルを脅かして恐ろしい声を出すのだが、ラ・ノアイエルは一向黙らなかった。 「何で、ひどい仕打ちをするのよ? 聞いて赦してくれたらそれで沢山じゃあないか。」 「この子を上げてやるなんて、あんたも、いいことを考えた!」 「あんたが、そうしようっていったんじゃあないか。」 「また下へ降ろしてやろうか?」 「寝られるもんか。」  日曜日はいつも本当にこうなのかしら、なぜラ・ノアイエルの仲間たちはその隣人を赦しておくのだろう、と、これがペリーヌの気持ちであった。マロクールには静かに寝られるほかの宿はないのだろうか。  この部屋で腹の立つのは騒ぎだけではなかった、吸う空気もまた少女にはもう我慢できなくなり始めた。重苦しくて、暑くて、息詰まりそうで、臭気がこもっており、この混合物は胸をむかむかさせ、吐きそうになった。  しかしついにラ・ノアイエルのお喋りは緩やかになり、むにゃむにゃという言葉だけしか飛び出さなくなり、次にはいびきしか出なくなった。  今はこの部屋は静かになったけれどペリーヌは眠られなかった。少女は息苦しかった、そうして額に鈍い音が打ち、頭から足までびっしょり汗をかいた。  この不快の原因を尋ねる必要はない。空気の欠乏で息が詰まるのだ。同室の仲間が自分のように息苦しくないのは、平常野原で寝ているものなら窒息してしまうようなこの空気の中に、暮らしつけているからである。  しかしこの娘たち、田舎娘たちがこの空気に慣れているのだから自分も同じように慣れることができそうだ、きっと勇気と忍耐は要るだろう、けれども自分だって田舎の女でこそないが、その女たちと同じ辛い生活を、この上なく惨めな生活をさえ送ったのだ、してみれば女たちの耐えていることを自分が耐えられないわけはもうないと少女は思うのであった。  だから呼吸をせずに嗅ぎさえしなければいい、そうすれば眠りが来るだろう、眠っている間は嗅覚は働かないことを少女はよく知っていた。  残念ながら呼吸というものは、好きな時に或は好きなように止めているというわけにはゆかない。口を塞ぎ鼻をつまんでもだめだった、まもなく唇をあけ鼻孔をあけて肺に空気がなければないだけ一層深く息を吸い込まなければならなかった、しかも厭なことには、幾度も繰り返し吸い込まずにはいられなかった。  してみると? どういうことになるか? 息をせずにいれば窒息する、息をすれば気分が悪くなる。  もがいていると寝台の横の窓ガラスの中一枚が紙になっているところに手が触れた。  紙はガラスではない、音を立てずに破れる、破れたら外の空気が入ってくる。破ったって何悪いことがあろう? 娘たちは、この有害な空気に慣れているにしても、やはり確かにそれに苦しんではいるのだ。だからだれも起こさないようにしてなら紙を破っていい訳だ。  しかしこれは跡が分かるだろうし、それ程ひどくやる必要もなかった。手で探ってみると紙はよく張ってないことが分かったのである。そこで少女は爪で注意深く隅の方を剥がした。こうして彼女はこの隙間へ口を当てて、息をすることができた、そしてそういう姿勢でいるうちに眠りに落ちた。 15  目が覚めると光が窓ガラスを白くしていたが、それは大変弱いので部屋を照らしてはいなかった。外では牡鶏が歌っていたし紙の隙間からは冷たい空気が入って来た。夜明けだ。  外から微かに空気が吹きいるにもかかわらず、部屋の臭気は抜けていなかった。きれいな空気が少しは流れ込んでも悪い空気は一向出て行かず、溜まって濃くなり厚くなって、息もできない湿気をもたらしていた。  しかし皆身動きもせずに眠っていて、ただ時々息苦しそうな泣き言が聞こえるだけであった。  紙の隙間を大きくしようとした時少女は粗忽にも肱を強くガラスに打ち当てたので、枠にぴったりはまっていない窓はふるえて音を立て、それは長く響いた。心配したけれど誰も起きはしなかったのみならず、この常ならぬ物音に眠りを乱された娘も一人もいないようだった。  少女は心を決めた。そっと着物を釘から外し、音を立てずにゆっくりそれを着て、靴を手に素足のまま戸口の方へ行った。夜明けでその方角は分かった。押錠で締めてあっただけだから戸は音もなく開き、ペリーヌは誰にも見られずに踊り場へ出た。そこで階段の最初の段に腰をかけた、そうして靴を履いて、降りた。  ああ! いい空気! 何ともいえない爽やかさ! こんなに嬉しく呼吸したことはかつてなかった。小さな庭を口をあけ、鼻の孔をひくひくさせ、手を叩き、頭を揺すぶりながら歩いた。足音で隣の犬が目を覚まして吠えだした、するとすぐほかの犬も激しくこれに答えた。  がそんなことは何ともない。もう自分は、犬からどんな目に逢わされても仕方のないような浮浪人ではない、そうして自分は寝床を出たかったのであるからには、そうする権利は確かにあるのだ−−お金を払って得た権利が。  内庭は運動をするのに狭すぎたので開いた垣から往来へ出て、どこという当てもなく足の向いた方へ歩きだした。夜の闇はまだ道に立ちこめていた、が頭上ではもう木々の梢や家の棟を暁が明るくしていた。やがて夜が明けるのだろう。その時深い沈黙の中で鐘が鳴り響いた。それは工場の大時計で、三つ鳴り、まだ仕事場へ入るのに三時間あることを知らせた。  この時間をどうしよう? 就業前に疲れたくはなかったのでその時刻まで歩いているわけにゆかなかった。今からならどこかに坐って待っているのが一番いい。  刻一刻と空は明るみ、あたりのものは地を掠めて差してくる光の下ではっきりした姿を取り、自分がどこにいるかが分かった。  まさしく掘り跡に水のたまった池の縁だ、この池はここから始まりその水面を広げていってほかの池を合わせ、泥炭採掘のままに大小様々の池から池へと続いて大川まで行っているらしい。ここはどこやらピキニを出る時に見たようなところがあるが、思うに、ピキニよりいっそう辺鄙で、いっそう寂しい。また、混雑した線になって縺れ合って並んだ樹木でいっそう深く蔽われていはしないか?  少女はそこにちょっと立っていた、が坐るのによさそうな場所でないので道を続けた。道は池の縁を離れ、木の生えた小さな丘の斜面へ上っていた、きっとこの伐採林中に、自分の捜すものは見つかるだろう。  がそこへ着こうとした時、見渡す池の縁に、土地で隠れ小屋といい、冬、渡り鳥の狩猟のために使う、木の枝と葦とで作った一つの小屋が見えた。そこで少女は思った、あの小屋に入れたら人目につかずにいることができ、朝のこんな時刻に野原で何をしているのだろうと人に怪しまれることもないし、道にかぶさる枝々を伝い落ちて本当の雨のように体を濡らす太粒の露の滴を浴び続けることもいらない。  少女は降りた、そうして捜した揚げ句ついに柳林の中に、小屋へ行くらしいほとんど人の通っていない細道を見つけて、それをとった。しかし道はその方へついているにしても小屋の中までは行っていなかった、なぜなら小屋は小島の上に、そこに植わった三本の柳を骨組みにして立っており、水の満ちた溝がそれを柳林から隔てていたから。幸丸太が溝にかけてあった、それはかなり細かったし露にも濡れて辷*りそうになっていたけれど、ペリーヌを思いとどまらせはしなかった。それを渡って、柳で編んだ葦の戸の前に来た、戸は引きさえすれば開いた。  隠れ小屋は四角で、四囲は屋根まですっかり、葦や大きな草の厚い覆いで張られていた。四方には、外からは目につかない数々の小孔が空いていて、あたりの眺めが見え、また日光を通していた。地面には厚く齒朶が敷いてあり、片隅には丸太切れが腰掛けになっていた。  ああ! すてきな棲家! 先刻出た部屋とは何という相違だろう。フランソアズお婆さんの堅いシーツの中で、ラ・ノアイエルやその仲間の怒鳴り声の中で、いつまでもしつこくつきまとって胸をむかつかせる臭い厭な空気の中で寝るより、ここで、いい空気の中で、静かに齒朶の中に寝た方がどんなに増しだったろう。  少女は齒朶の上に横になった、そうして片隅の、やんわりした葦の壁に身を凭せて目をつぶった。が、やがて快い眠りに落ちそうだったので立ち上がった、だって仕事場に入る前に目が覚めないといけないので、ぐっすり眠ることはできなかったからである。  今は太陽は昇っていた、そうして東向きの隙間から金色の光が小屋へ差し込んでそこを照らした。外では鳥が歌い、小島の周囲で、池の上で、葦の中で、柳の枝の上で、混沌とした響きや、ささやきや笛のような音や、叫び声が聞こえ、泥炭坑のあらゆる動物の生活への目覚めを告げ知らせていた。  孔に顔を当ててみると動物どもは、小屋の周囲で安心しきって遊んでいた。葦の中では蜻蛉があちらこちら飛んでいたし、岸に沿って小鳥は虫を捜して湿った土を嘴でつついていたし、軽い湯気の一面に立つ池では、家鴨より可愛い、灰色がかった茶色の子鴨が幾羽かの子供に取り巻かれて泳いでおり、絶えず呼んで、自分のそばへ引き寄せておこうとしたがうまくゆかないでいた、なぜなら子供らは、逃げて花の咲いた睡蓮をかき分けて飛び込み、そこで嘴の届くところを通る虫という虫を追って絡み合うのだ。突然、電光のような速い青い線が、彼女の目を奪った。それが消え去ってから始めて、かわせみが池を横切ったのだと分かった。  少女は長い間、身動きもせずに窓について眺めていた、身動きしたら自分のいることが知れて、この野の住民どもは皆飛び立ったかも知れない。爽やかな光の中でこの眺めは全て、彼女の目に何と賑やかで、活発で、面白く、珍しいことだったろう、そうしてまたお伽噺のようなので、この小屋のある縞はノアの小さな方舟ではないかしらと思われたほどであった。  そのうちに少女は、はっきりした原因もなしに大きくなり小さくなりながら気まぐれにすぎてゆく黒い影が池を覆うのを見た、ところで太陽は水平線の上に昇って雲のない空に赤々と輝き続けていたから、いよいよそれは訳が分からなかった。どこからこの影は来るのかしら? 小屋の狭い窓からでは説明がつけられなかったので戸を開けて見た、するとその影は、微風と共に過ぎてゆく煙の渦巻で出来たもので、煙は、職工が入る時蒸気が働くように早くも火を転ぜられた工場の高い煙突から来るのであった。  すると仕事はやがて始まるのだ。小屋を出て作業場へ行く時だ。しかし少女は出がけに丸太切れの上に乗っていた新聞を拾った。今まで気づかなかったのが、戸が開いて光がいっぱい入ったので見えたのである。なんとなくその名前の上に目を注いだ、それは去年二月二十五日のアミアン新聞だった。そこで少女は、この新聞が人の坐るたった一つの腰掛けの上に置いてあったということ及びその日付から、この小屋は二月二十五日以来人に見捨てられており、誰もこの戸をくぐらないでいると考えた。 16  柳林を抜けて道へ出た時、大きな汽笛がその力強いしわがれ声を工場の上に聞かせた。するとまもなくほかの数々の汽笛が同じリズムを持った響きで、遠く近く色々の距離でこれに答えた。  それが職工を呼ぶ合図であることを少女は覚った。それはマロクールから出て、サン・ピポア、アルシュ、バクール、フレクセールの村から村へ、パンダヴォアヌの全工場で繰り返され、工場主に向かって、作業準備が至るところで同時に出来たことを予告するものであった。  そこで遅れてはならないと足を急がせた。村へ入ると家々はみな起きていて、戸口で職工たちは立ったり戸の框(かまち)に寄りかかったりしてスープを飲んでいた。居酒屋で飲んでいる者、庭のポンプで顔を洗っている者もいた、が工場の方へ行く人は一人もいなかった。確かにまだ作業場に入る時刻ではないのだ、だから急ぐことはない。  しかし大時計が小さく三つ打ち、前より強くてけたたましい汽笛がすぐこれに続くと、たちまちこの静けさは動きとなった。家から庭から居酒屋から、到るところから、人ごみが出て来て蟻の群れのように往来一杯になった、そうしてこの男や女や子供の群れは工場へ向かった。盛んにパイプを吹かす者。目を白黒しながら大急ぎでパンをかじる者。大抵の者はがやがや喋った。絶えず人々の群れは横手の小路から流れ出て黒い波に加わり、その波を緩やかにすることなく大きくしていった。  一押し新たにやって来た人波の中にペリーヌは、ロザリーがラ・ノアイエルと連れ立っているのを見つけ、巧みにくぐりぬけて二人に追いついた。 「どこに行っていたの?」ロザリーは驚いて尋ねた。 「ちょっと散歩しようと思って、早く起きたの。」 「まあ! そうだったの。捜したわ。」 「どうもすみません、でも捜さなくていいのよ、私、早起きなんですから。」  作業場の入り口まで来た。人波は工場へ流れ込んでゆく。それを、背の高い痩せた一人の男が柵門のあたりに立って見張っている。両手を上衣のかくしに突っ込んで、麦藁帽子を後ろへはね上げている、が頭は少し前へかがめ、見ないでは誰一人通さないぞという注意深い眼だ。 「あれが『痩せっぽち』」とロザリーがささやいた。  しかしペリーヌにはそれは必要でなかった、言われない先から、この男を監督のタルエルだと見抜いていた。 「私、あなたとご一緒に入るの?」ペリーヌは聞いた。 「ええ。」  少女の運命の決まる瞬間だ、が少女は努めて興奮しないようにした。誰だって採用するのだから、どうして自分を雇ってくれないことがあろう?  彼女たちがその男の前へ来ると、ロザリーは、ペリーヌについておいでと言って人波を出、恐れげもなく近づいて行った。 「監督さん、私の友達が働きたいって言ってますの。」  タルエルは、素早い一瞥をその友達の上に投げた。 「後で話をする。」彼はそう答えた。  ロザリーは、心得ていたからペリーヌと一緒に別に立っていた。  その時柵門のところにがやがや言う声が起こって職工たちは急いで分かれ、ヴュルフラン氏の馬車に自由な通り道をあけた。馭者は昨日と同じ若い男だ。ヴュルフラン氏の目の見えないことを知っていながら、男たちは皆その前で帽子を脱ぎ、女たちは軽く会釈するのであった。 「ほら、あのお方は一番遅れてはいらっしゃらないでしょう、」とロザリーが言った。  監督は急ぎ足で二、三歩馬車の前へ出て、 「ヴュルフラン様、おはようございます、」と帽子を手にして言った。 「おはよう、タルエル。」  ペリーヌは通って行く馬車を見送った、それから目を柵門へ戻すと自分の既に知っている雇員たちが次々に通って行った。技師のファブリ、ベンディット、モンブルー、その他ロザリーが名前を言ってくれた人たち。  そのうちに人の群れはまばらになり、今はもう、やって来た連中は駈けだしていた。時計が鳴ろうとしているからだ。 「若僧どもは遅れてくると思うわ、」とロザリーが小声で言った。  時計がなった。最後の一群が流れ込み、遅刻者が四、五人、息を切らしてこれに続いた。すると往来はひっそりした、がタルエルはその場を去らず、両手をかくしに突っ込み、顔を上げて遠くを眺め続けた。  数分経つと背の高い若い男がやって来た。職工ではなく紳士だ、その態度や念入りな身嗜みから、技師や雇員たちよりずっと紳士だ、急ぎ足で歩きながらネクタイを結んでいる。明らかに結ぶひまがなかったのだ。  前へ来ると監督はヴュルフラン氏にしたように帽子を取った、がペリーヌの見たところでは、先刻の挨拶とは似てもつかないものであった。 「テオドールさん、おはようございます。」  この文句はヴュルフラン氏に向かって言われたのと同じ言葉で出来ていたのに一向前と同じものを感じさせなかった、これまた確かであった。 「おはよう、タルエル、叔父はもう来ましたか?」 「ええそりゃもう、テオドールさん、五分も前に。」 「ははあ!」 「あなたが一番あとではございません、今日はカジミールさんの方が遅うございます、カジミールさんはあなたのようにパリには行かれなかったのに。いや、あそこにお見えになりました。」  テオドールが事務所へ向かうとカジミールが急いでやって来た。  これはその従兄弟と、人柄も服装もどんな点でも似ていず、小さくて頑固で、無愛想だ。監督の前を通る時一言もいわずにちょっと頭を下げたので、その頑固なことは明らかに分かった。  相変わらず上衣のかくしに両手を入れてタルエルは挨拶した、そうしてその姿が見えなくなるとはじめてロザリーの方を向いた。 「友達と言うのは何ができるんだ?」  ペリーヌ自身がこの問いに答えて、 「工場で働いたことはまだありません、」と努めて声をしっかりさせながら言った。  タルエルは素早い一瞥で少女を包んだ、それからロザリーに向かい、 「この子を、トロッコに廻すよう、わしに代わってオヌーさんに言うんだ、さ! 急いで。」 「トロッコって何?」ペリーヌは作業場と作業場との間の広い庭をロザリーについて横切りながら尋ねた。その仕事が自分にできるだろうか? 自分に力があるかしら、分かるかしら? 修行がいるのではなかろうか? こうした疑問はみな、少女にとって恐ろしかった、そうしてもう工場に入れてもらったのであるからには、撓*まずにやるということは自分次第だと感じたので、それだけいよいよ気になった。 「心配要らないわ、」とペリーヌの胸の騒ぎを覚ったロザリーが言った、「とても易しいことよ。」  ペリーヌはこの言葉を聞いた、というよりむしろその意味を推量した、なぜなら、彼女たちが入った時休んでいた工場の機械や織り機が少し前からもう動きだしていて、今はいろんな響きの混じった恐ろしいうなりが庭々に満ちていたからであり、作業場では織物機械がばたばた動き、杼(ひ)が走り、鉄の軸や糸巻きが回り、また外では、伝達軸や車輪やベルトや、おもり車が、目を眩ませ耳をたじろがせたからである。 「もっと大きな声で話して、」とペリーヌは言った、「聞こえないのよ。」 「慣れるわ、」とロザリーは叫んだ、「難しくないって言ったのよ、トロッコに管を積めばいいの、トロッコ知ってる?」 「貨車の小さいのだと思うけど。」 「そう、トロッコがいっぱいになったら織り場まで押して行ってそこで空けるの。始めうんと押せばひとりでに走ってゆくわ。」 「それから管って、はっきりしたところ、どんな物なの?」 「管を知らないの? まあ? 管捲機とは、梭(おさ)のために糸を仕組む機械だと昨日言ったでしょう、分かる筈だのに。」 「余りよく分からないわ。」  ロザリーは、少女を馬鹿ではないかしらと明らかに思いながら見つめた、そうして続けた、 「管というのはつまり軸なのよ、これを受け木に差し込んで、ぐるぐる糸を巻くの、一杯巻けたら受け木から外して、これを小さな線路を走るトロッコに積んで織り場へ持っていくの。散歩みたいよ、私も始めそれをやったわ、今は管の係だけど。」  彼女は迷いそうな庭々を横切って行く。ペリーヌは、自分たちにとって甚だ関係の深いこの言葉に注意していて、周りに見えるものの上に目を止めていることができなかった。その時ロザリーは一並びの新しい建物を指した。平屋で窓はないが、屋根の北側半分がガラス張りでそこから明かりを採っている。 「あそこよ。」  すぐ戸を開けて彼女はペリーヌを長い部屋へ通した。そこでは、動く何千という軸のまばゆいばかりの円舞が、耳も破れそうな騒ぎを起こしていた。  しかし喧しいにもかかわらず、二人は男の声の怒鳴るのを聞いた、 「こら、お前、うろついていたな!」 「誰が、うろついていて? 誰が?」とロザリーは叫んだ、「私、うろついていやしないわ、分かって? 木の足爺さん。」 「どこにいたんじゃ?」 「『痩せっぽち』がね、この娘をあなたのところへ連れて行ってトロッコをやらしてもらえって言ったの。」  二人にこの愛想のいい挨拶をかけた人は老職工で、十年ほど前に工場で片輪になり、木の足をつけていた、だから木の足というのだ。体の自由が利かないので、管捲機の見張りをさせられ、絶えず怒鳴ったり、ぐずったり、叫んだり、罵ったりしながら、熱心に荒っぽく、自分の命令下に置いた女工らを働かせていた、なぜならこの機械の作業はかなり難しいもので、一杯になった管を取り去り、空の管と取り替え、切れた糸をつなぐ、そういう為には目の注意も手の素早さも必要であったし、また彼の確信しているところでは、罵るごとに、足の木槌で床を勢いよく突き鳴らして、しょっちゅう叱りつけ声を立てていなければ、軸は停まってしまったからである、ところで停まるなどということは彼にとって容赦ならぬ事だった。しかし実際はいい人だったので、みんなは殆どいうことを聞かなかった、おまけに爺さんの言葉の一部は機械の騒音の中に消えた。 「それはそうでも、お前の軸は停まっているぞ!」と爺さんは拳固で脅かしながらロザリーに叫んだ。 「私のせいですか?」 「さっさと仕事にかかれい。」  次にペリーヌに向かって、 「お前の名は何という?」  昨日ロザリーにこの質問をされたから予め考えておくべきであったろう。少女は不意を打たれて、うろたえた。本名を言いたくなかったのである。 「名前を聞いておるのじゃ。」  少女はうまく立ち直って前に言った名前を思い出すことが出来た。 「オーレリー。」 「オーレリー何だ?」 「それだけです。」 「よろしい、わしの後からついて来い。」  爺さんは片隅で退避線に入っているトロッコの前へつれて行き、一言いっては「分かるか?」と叫びながら、ロザリーと同じことを説明した。  少女は肯いてそれに答えた。  事実少女の仕事は簡単なものであったから、それを果たせないとすれば馬鹿だったに違いない、そうして彼女は、そこにありたけの注意と好意とを注いだから、木の足爺さんは、昼休みまでに十二編以上は怒鳴りつけなかった、それも叱るというより寧ろ勧めるためであった。 「途中で遊んじゃいかん。」  遊ぼうと思っていなかった、が少なくともトロッコを規則立った足取りで停まらずに押しながら少女は、自分の通過する様々の場所の様子を眺め、ロザリーに説明されている時聞き漏らした事柄を見ることはできた! 車を動かす肩の力、邪魔が現れた時引き留める腰の力、それだけだ、目も心も、思い通り自由自在にかけることができた。  昼休みにめいめいは家へ急いだが、少女はパン屋へ入って半斤のパンを切ってもらい、道をぶらぶらしながら、開いた戸口から出てくるスープの匂いをかぎながら、もしそれが自分の好きなスープならゆっくりと、もしそれがどうでもいいものなら急いで、自分のパンを食べた。少女の空腹にとって半斤のパンでは薄い、だから忽ち無くなった、しかし何でもなかった。少女は食欲を沈黙させることに慣れて以来、その為に体の具合が悪くなったりなどはしなかった。ひもじいままでいることはできないと思うのは食べ過ぎるのに慣れた人々だけだし、また、きれいな川の流れを掌ですくって、がぶがぶ飲むことができることを信じないのは、いつも安楽に暮らした人々である。 17  作業場へ戻る時刻よりずっと早めに少女は工場の柵門へやって来て、柱の蔭で、標石の上に腰掛けて、開始の汽笛を待ちながら、自分と同じ年輩の男の子や女の子が、自分と同じように早く来て駈けたり跳んだりして遊ぶのを眺めていた。そうした遊びに仲間入りがしたかったけれどその勇気はなかった。  ロザリーが来ると、一緒に中へ入って、午前のように、木の足爺さんの怒鳴り声や床を蹴る音に励まされて再び仕事を始めた、しかし時が経つにつれて遂には疲れを強く覚えて来たので、この怒鳴り声や蹴る音は午前中よりは有意義なものになった。トロッコの積み降ろしに屈んだり立ったり、また出がけの肩の一突き、速さを緩める腰の一引き、押すこと、停めること、これらは始めは一つの遊びに過ぎなかったが、休みなく繰り返され続けられると一つの労働となり、幾時間も経つと殊に終わりがけは、これまでに歩いたどんな辛い日にさえ味わったことのない疲労が少女を抑えつけて来た。 「そんなにのろのろしちゃあいかん!」と木の足は怒鳴った。  この注意の言葉に伴うどんという足の音に揺り立てられて、少女は馬が鞭を打たれたように歩度を伸ばす、が爺さんの目の届かないところへ来るとすぐまた歩をゆるめた。もう自分の仕事で手一杯だ。少女は仕事のために体の自由が利かなくなってしまい、いつ退けるのかしら、終いまでやれるかしらと思いながら、十五分、三十分、何時と、時計の鳴るのを勘定する以外には好奇心も注意も無くなっていた。  そういう疑問に苦しめられてくると、少女は自分の弱さに腹が立ち口惜しくなった。自分より年上でもなければ強くもない他の連中が苦しむ風もなく仕事をやり遂げているのだ、それを自分はすることができないのか。しかし少女は、あの仕事が自分の仕事よりずっと難儀なもので、ずっと頭を使い、ずっと敏捷でなければならないものであることを承知していた。もしトロッコにつけられず、いきなり管捲機に使われたら、どうなったろう? 自分は慣れていない、が勇気と意志と忍耐とをもってすれば慣れるだろう、とそう思うと始めて彼女の心は落ち着いた。慣れるためには、−−万事そうだが−−そのことを望みさえすればいい、そこで彼女は望んだ、今後も望むであろう。この最初の日に、弱りきってしまいたくない、二日目は辛さも減り、三日目は更に減るだろう。  少女は、トロッコを押したりそれに積んだり、また羨ましいほどの敏捷さで働く仲間を眺めたりしながらそう考えていた、その時糸を繋いでいたロザリーが、突然隣の者のそばへ倒れた。大きな叫び声が上がり、同時にすべてのものは止まった。機械の騒音や、うなりや、震動が、また床や壁やガラスの動揺が、しいんと静まった、そうしてその静寂を女の子の泣き声が破った、 「ああ! 痛! た、た・・・」  男の子も女の子もみんな駈けつけた。彼女もみんなの通りに駈け寄った。木の足が大声で「とんでもねえ! 軸が停まったじゃあないか」と怒鳴ったけれど構わなかった。  もうロザリーは起きていた。みんなは慌てて、彼女を押し潰すようにして取り囲んだ。 「あの子、どうしたの?」  彼女自身が返事をした、 「手を挟まれたの。」  頬は青ざめ、唇は色を失ってふるえていた。傷ついた手から血がぽたぽた床へ落ちた。  がよく見ると指を二本怪我しただけだった、それもたぶん一本だけが潰れたか、ひどく切れたかしたのだ。  その時、誰よりも先に同情の心を動かした木の足爺さんは夢中になって割り込んで来て、ロザリーの周囲にいる仲間たちを押しのけた。 「あっちへ行け! 何でもないことじゃ!」 「爺さんが足を折った時だって、大方なんでもないことじゃったろうて。」誰かがそう呟いた。  誰がこんな失敬な考えをもらしたのかと爺さんは捜した、が大勢の中に確かな者を見つけることは難しかった。そこで前よりも大きく怒鳴った、 「あっちへ行けというに!」  みんなはゆっくり散って行った。ペリーヌも他の者のようにトロッコへ戻ろうとすると木の足は呼んで、 「おい、新米、ここへ来い、お前じゃ、さっさと来い。」  少女は、他の者だって皆仕事をやめたのに自分だけなぜ悪いのだろうと思いながら恐る恐る引き返した、が叱られるのではなかった。 「お前、こやつをな、監督のところへ連れて行ってやれ。」 「どうして私をこやつだなんて言うの、」とロザリーは大声を出した。機械の騒音が再び始まっていたからである。 「指なんぞを挟まれるからじゃ。」 「私がいけないの?」 「勿論、お前が悪い。へまじゃ、ぼんやりじゃ。」  しかし爺さんはやわらいで、 「痛むか?」 「そんなに痛まない。」 「じゃあ行って来い。」  娘たち二人は出て行った、ロザリーは傷ついた左手を右手でとって。 「私によりかかりなさいな?」 「有難う、それほどのことはないわ、歩きますわ。」 「じゃ何でもないのね?」 「さあ? 始めの日は痛まないけれど、後になってから痛むから。」 「どうしてこんなことになったの?」 「どうしてだったのかしら。わたし、辷*ったのよ。」 「たぶん疲れていたのね、」とペリーヌは自分のことを思いながら言った。 「みんな、疲れた時にいつも片輪になるんだわ、朝のうちは身軽で気をつけるけれど。ゼノビ叔母さんがどういうでしょうね?」 「だってあなたのせいじゃないんですもの。」 「フランソアズお婆さんなら私のせいじゃないと思うわ、しかしゼノビ叔母さんは、働きたくないから、そんなことになるんだっていうでしょう。」 「言わしてお置きなさい。」 「もしあなたが面白いから聞きたいとおっしゃるんなら。」  途中、出会う職工たちは二人をとめて尋ねた。ロザリーに同情する人々もいた。大抵の人は冷淡に聞き流した。こんなことには慣れていて、いつだってこうだったんだ、人間という者は病気をするように怪我もする、運だ、今日がお前なら、明日は俺、めいめいの廻り持ちだ、と思っている人たちだ。また腹を立てる人もいた、 「いつかは皆、片輪にされちまうだろう!」 「おめえ、干乾しになる方がいいのかい?」  彼女たちは工場の中央、青や薔薇色に塗られた煉瓦の大きな建物の中にある監督事務室へやって来た。この建物にはほかの事務室もすべて集まっていて、それらの部屋やヴュルフラン氏の部屋でさえ特に著しい点を持たないのに、監督の部屋は二重に巡った階段の通じているガラス張りのベランダがあって一際目立っていた。  このベランダの下へ来ると、両手をかくしに入れ帽子を被って船長が甲板を歩くようにあちらこちら歩いていたタルエルに引き入れられた。  彼は怒っているように見えた。 「何をまたやらかした?」と叫んだ。  ロザリーは血のついた手を見せた。 「ハンカチでくくっておけ、そんな手は!」  彼女がハンカチを出しにくそうにして取り出す間、彼はベランダを大股に歩いた、そうして彼女がハンカチで指を巻くと、やって来てその前で身構え、 「お前のかくしを空けてみい。」  彼女は分からずに彼を見つめた。 「かくしの中のものをみんな出してみろというんだ。」  彼女は、言われた通りかくしから妙な品物を取り出した。榛で作った笛、小骨、さいころ、葡萄酒壜のかけら、三銭、それから亜鉛の小さな鏡。  彼は鏡をすぐに取り上げて、 「きっとこんなことだろうと思っていた、」と叫んだ、「鏡を見てる間に糸が切れて、管が停まった、ぼんやりしていた時間を取り戻そうと思って、そういう目に逢ったんだろう。」 「私、鏡は見ていませんでした。」 「おまえたちはどれもこれも同じだ。わしは何でも知っているんだぞ。それでいったい何のようだ?」 「別に何って。指を潰されましたので。」 「わしにどうしろというんだ?」 「木の足爺さんが、あなたのところへ行くように言いましたので。」  彼はペリーヌの方を向いて、 「それでお前、お前は何用だ?」 「私は何も用はありません、」と少女はこの厳しさにうろたえて答えた。 「それで?・・・」 「木の足爺さんがあなたのところへ私を連れてゆけと言われましたの、」とロザリーが後を言ってくれた。 「なるほどな! 連れて行って貰わにゃなるまいて。よし、リュション博士のところへ連れて行って貰え、しかしいいか! 追っ付けわしは問いただす。もしお前のへまだったら、怖いぞ!」  彼は、ベランダのガラスを響かせ、どこの事務室からでも聞こえたに違いないような大きな声で怒鳴りたてた。  出ようとすると、入り口の壁から手を離さずに注意して歩いてくるヴュルフラン氏を見た。 「何事じゃな、タルエル?」 「何でもございません、管捲機の女工が手を挟まれたのでございます。」 「どこにおる?」 「ここにいますわ、ヴュルフラン様、」とロザリーは彼の方へ戻りながら言った。 「フランソアズの孫娘の声ではないか?」 「ええ、そうです、ヴュルフラン様、私です、ロザリーです。」  彼女は泣き出した、だって無情な文句のためにそれまで一杯になっていた胸が、かけられた幾つかの言葉の情け深い口調のために、弛んだからである。 「どうしたのじゃ、お前?」 「糸をつなごうとしたら、どうしてか知りませんけれど辷*って、手が挟まれて、指が二本潰されました・・・ようなのです。」 「ひどく痛むか?」 「そんなには痛みません。」 「それではなぜ泣く?」 「あなたは怒鳴りつけないから。」  タルエルは肩をすぼめた。 「歩けるかい?」ヴュルフラン氏は聞いた。 「ええ! 歩けますとも。」 「急いで家へ帰りなさい。リュション氏をやるから。」  それからタルエルに向かい、 「リュション氏にすぐフランソアズの家へ行ってくれるよう書き付けを書いてくれ。『すぐ』のところに横線を引いて、『急を要する傷』と書き添えてくれ。」  彼はロザリーのところへ戻り、 「誰かに連れて行ってもらうかい?」 「有難うございます、ヴュルフラン様、お友達がいますから。」 「では行きなさい、お前の支払いはするからとお祖母さんに言いなさい。」  今度はペリーヌが泣きたくなった、がタルエルが見ているので我慢した。庭々を通って出口に来た時始めて、少女はその気持ちをもらした。 「ヴュルフラン様はいいお方ね。」 「お一人だといいお方なのよ、でも『痩せっぽち』」と一緒だとだめなの。それにお暇はないし、他のいろんなことが頭の中にあるし。」 「でも結局私たちには御親切だったわね。」  ロザリーは反り身になり、 「そりゃあ! 私、あのお方の息子さんのことを思わせるんですもの、それに私のお母さんはエドモン様と乳兄弟ですからねえ。」 「息子さんのことをお考えになるの?」 「ええ、その事ばかり思っていらっしゃるのよ。」  血のついたハンカチで手を巻いているので、人々は好奇心を起こして戸口で通るのを眺めた。二、三の声は、問いかけもした。 「怪我をしたんですかい?」 「指が潰れましたの。」 「まあ! お気の毒に!」  この叫びの中には同情もあり怒りもあった、なぜならそう叫んだ人々はこの娘に起こった事柄は翌日は、いや今にも、自分の家の者を、夫、父、子供を襲うかもしれぬと考えるからである。マロクールの人はみんな工場で暮らしているのではないか?  幾度か足を止めたがフランソアズお婆さんの家へ近づいて来た。もうその灰色の垣が道の行き当たりに見えた。 「私と一緒にお入りなさいね、」とロザリーが言った。 「そうするわ。」 「そうすれば、たぶんゼノビ叔母さんが遠慮するから。」  しかしペリーヌがいても、怖いゼノビ叔母さんは遠慮せず、ロザリーが常ならぬ時刻に帰って来て手を包帯しているのを見て、高い声をあげた。 「怪我をしたね、悪戯者! きっとわざとしたんだろう。」 「お金は払って頂くのよ、」とロザリーはぷりぷりして口答えした。 「お前、そう思っているのかい?」 「ヴュルフラン様が私にそうおっしゃいました。」  しかしそれでもゼノビ叔母さんは鎮まらず大きな声で叫び続けたので、フランソアズお婆さんが、売り台を立って戸口へ来た、が、怒った言葉では孫娘を迎えなかった。駈け寄って来て抱いて、 「怪我をしたのかえ?」と叫んだ。 「ちょっとだけよ、お祖母さん、指を。何でもないのよ。」 「リュションさんをば呼んでこなけりゃあ。」 「ヴュルフラン様が、もう呼んで下すっているの。」  ペリーヌは二人の後から家へ入ろうとすると、ゼノビ叔母さんがこちらを向いてそれを止め、 「あの子の介抱をするのに、お前さんがいると思っていなさるのかい?」 「どうも有難う、」とロザリーが叫んだ。  ペリーヌはもう工場へ戻るよりほかなかった。少女は引き返した。しかし工場の柵門に着いた時、長い汽笛が響いて、退ける時刻を知らせた。 18  一日に十遍も二十遍も少女は考えた、どうしたらあの息の詰まりそうな少しも眠られない部屋に寝ないですむかしら。  確かに今晩もやはり息苦しいだろうし一層よくは眠れないだろう。さて、ぐっすり眠って一日の疲れを回復することができなかったら、どんなことになるだろうか?  これは恐ろしい問いだ、少女はそれのあらゆる結果を調べてみるのだった。働く力が無くなる、そこでやめさせられる、そうすれば希望はおしまいだ。病気になる、そうすればなおのことやめさせられる、世話や助けを乞う人は誰もいない、自分を待っているものは森の中の樹の根元だ、それ以外のものではない。  なるほど自分のお金を払った寝床だから当然寝ないでもいいわけである、がそうするとほかにどこに寝床があるか? 殊に、他の人々にはよいものが自分にとっては悪いというその訳を、どうロザリーに説明したら納得してもらえるか? 自分があの部屋を嫌っていることをほかの人たちが知ったら、どう自分をあしらうだろう? それがために憎まれて工場を退かなければならないようなことになりはしまいか? 少女はよい女工にもならなければならなかったが、またほかの女工たちと同じような女工になる必要があった。  思い切って決心することができずに一日が流れて行った。  しかしロザリーの怪我は状況を変えた。今はあの気の毒な娘はきっと幾日間か床に就くであろう、そうして、あの部屋に誰が泊まるのか泊まらないのか、部屋に起こる事柄を知ることはできまい、してみれば自分の問題は恐れるに足りなくなる。また一方、あの部屋に寝泊まりしている連中は誰一人、自分たちの身近に一晩泊まった者が誰であったかを知らないのであるから、その未知の娘のことを気にかけはしまい、そこでその未知の娘は十分、ほかに宿を求めることができることになる。  そう決め、たちどころにそう推論するともう後は、あの部屋を見捨てるとすればどこへ寝に行くか、その場所を見つけさえすればよかった。  しかし捜すまでもなかった。何遍彼女は、あの隠れ小屋のことを、たまらなく欲しい気持ちで考えたことであろう! もしあそこで眠ることができたら、どんなにいいだろう! アミアン新聞の日付を見て分かるように、狩猟の季節以外には人は来ていないのだから、少しも人の心配はない。頭上には屋根があり、暖かい壁、一つの戸があり、寝床としては乾燥した齒朶のふっくらと敷いたものがある。夢が実現して自分の家に住むという喜びは数え上げるまでもない。  とても実現できないように思われていた事柄は、今突然、可能になり容易になったのである。  少女は二度とためらわなかった、そうしてパン屋へ行って夕餉のパンを半斤買った後、フランソアズお婆さんの家へは帰らずに、朝、工場へ行く時に歩いた道を戻るのであった。  しかしその時マロクール付近に住む職工たちが家へ帰るためにこの道を通っていた、そうして少女は自分が柳林の小路へ入り込むのを見られたくなかったので、野を見渡す伐採林に入って腰を下ろした。誰もいなくなったら小屋に入って、そこで静かに、戸を池に向かってあけ、夕陽に向かい、誰も邪魔しには来ないから安心して、ゆっくりと晩御飯を食べよう。それは昼御飯の時にしたように、歩きながらパン切れを呑み込むのとはまた違って楽しいだろう。  少女は、この段取りにひどく有頂天になってしまい早くそれを実行に移したかった、が長いこと待っていなければならなかった。一人通るとまた一人、次いでまた幾人かが通るからである。その時彼女は小屋の中に家具を備えようと考えついた、小屋は確かに清潔で居心地がよいに違いない、が幾らか手入れをすればなおさらそうなる。  少女の坐っていた伐採林は大部分、ひょろひょろの樺の木で、その下には齒朶が茂っていた。樺の小枝でほうきを拵えよう、そうすれば部屋を掃くことができる。乾いた齒朶の束を採ろう、そうすれば、柔らかくて暖かいよい寝床ができる。  少女は、作業の最後の数時間自分に重苦しく襲いかかっていた疲労を忘れて、直ちに拵えにかかった。たちまちほうきを束ね、やなぎの若枝でくくり、棒の柄をつけた。これに劣らず素早く齒朶の束を切り、柳のたがで締め付けて、楽に小屋へ運びこめるようにした。  その間に一番遅れた人々が道を通り、今は見渡す限り人気なく、ひっそりした。柳林の細路へ近づいてゆく時は来たのだ。彼女は齒朶の束を背負い、ほうきを手にして伐採林を駈け降りた、それから道をも駈けて横切った。が細路では歩をゆるめなければならなかった。齒朶の束が木の枝に引っ掛かり、身を低めて四つんばいにならないと通れなかったからである。  小島に着くとまず、小屋の中にあるもの、すなわち丸太切れと齒朶とを取り出し、次に天井や壁や地べた、そこら中を掃き始めた、すると池の上でも葦の中でも、動物という動物が、これまで長いこと我が物顔でいた水面や汀の静かな領域で、この引っ越し騒ぎに邪魔されてやかましく飛び立ち、泣き叫んだ。  狭いところだから、どんなに念入りにやっても掃除は忽ちすんでしまい、もう丸太切れと古い齒朶とを取り込みさえすればよかった。少女はその古い齒朶の上に、太陽の温みと、生えていた時周囲にあった花の咲いた草の匂いとのまだ残っている自分の齒朶を、かぶせた。  さあ夕御飯の時だ。胃袋はエクアンからシャンチイへ歩いた時に劣らず、ひもじがっていた。幸いにしてあの厭な日々は過ぎた、そうしてこのすてきな小島に落ち着き、寝床は確かに得られて、人も雨も嵐も、どんな物であろうとも恐れるものはなく、充分のパンを懐にして、この美しい静かな夕べに少女はあの貧苦を、ただもう現在の時と比べて翌日の希望を強めるためにのみ思い出したに違いなかった。  少女は、砕けてこぼれないようパンを幾つかに小さく切ってそれを食べた、そうしてもう物音は立てなくなった、そこで池に住む連中は安心して夜のために巣へ戻って来た。絶えず、飛ぶ鳥どもは夕陽の金色の上に線を曳いたし、水鳥は葦の間から用心深く現れ出て、頸を差しのべ、位置を知るために立ち聞きするような頭の恰好をしてゆっくりと泳いだ。今朝、彼らの目覚めが少女を面白がらせたように、今は彼らの寝るのが少女を楽しませた。  少女はパンを食べ終わった。パンは減ってゆくにつれていよいよ小さく切ったのだけれど、忽ち無くなってしまったのであった。その時、少し前には鏡のように光っていた池の水が薄暗くなり、空はそのまばゆいばかりの火事を消した。数分の中に夜は地上に降りるであろう。寝る時刻は鳴ったのだ。  しかし戸を締めて齒朶の寝床に横たわる前、少女は最後の用心をして溝にかかった橋を取り上げておこうと思った。  小屋は十分安全だと確信してはいた。誰も邪魔しには来ないだろう、それは確かだと少女は思っていた、いずれにせよ誰かが近づけば、耳のさとい池の住民どもは叫びを上げて自分を目覚ましてくれるだろう。しかしそうだからと言って、もしできるなら橋を外しておくということは愚かなことにはならない。  その上、取り外すのはただ安全だからではない、嬉しいからでもある。自分の占領した紛れもない島の中で地上とは何の交通もしていないと思うのは、愉快なことではないか? 旅行談にあるように屋根の上に旗を掲げて、ドカンと大砲を撃つことのできないのは、甚だ残念である。  急いで少女は仕事にかかった。ほうきの柄で、橋になった柳の丸太の両端を埋めている土を掘りのけて、それを自分の方の岸へ引き取った。  さあ、もう自分の住居だ。自分はこの国の主人だ、島の女王様だ。少女は大旅行者たちのするように大急ぎで島に洗礼を施した、そうして名前をつけるのに一秒の当惑も躊躇もしなかった。自分の現状にふさわしいこの名前よりいいものが見つかろうか、 『喜望(グッドホープ)』  既に喜望峰という岬がある、しかし岬と島とを人が取り違える筈はない。 家なき娘 下巻 19  女王様になるということは、殊に家来も隣人もいない時はたいそう愉快なことだ、しかしなお仕事としては、自分の国々を歓迎から歓迎へと移り歩くということ以外には何もないのでなければいけない。ところでペリーヌはまさしく未だ、歓迎や遊覧などの幸福な時期にはいなかった。だから翌日、夜明け方、池の小鳥の朝の歌に目を覚まし、小屋の隙間を通った太陽の光線が顔の上で戯れると、彼女はすぐに考えた、もうぐっすり眠る訳にはゆかない、汽笛が呼び始めたらすぐに目が開くように軽く眠っていなければならない、と。  しかし最も深い眠りが必ずしも一番よい眠りではない。一番よい眠りというものは、むしろ途切れ、眠り、また途切れ、こうして夢の繋がり続いてゆくことが意識せられるそういう眠りだ。少女の夢の中にはただ楽しいもの頬笑ましいものだけがあった。昨日の疲れは眠って全く無くなっていて、吸う空気には乾し草の匂いがこもっていたし、小鳥は楽しい歌で揺すぶりながら寝せつけたし、柳の葉にたまった露の滴は、水に落ちて澄み切った音楽を聴かせた。  汽笛が野の沈黙を破ると少女はすぐに起きた、そうして池のふちで念入りに身繕いした後出かけようとした。しかし橋を元通りにかけて島を出るというやり方は平凡であるのみならず、万一冬になる前に、誰か小屋へ入ってみようかなどととんでもない考えを抱くようなものがあるとしたら、そういう連中を通してやるという危険を引き起こすように思われた。少女は飛び越えることができるかしらと考えながら溝の前で立っていた、すると柳の木の生えていない側で小屋を支えている長い枝を見つけたので、彼女はこれを取り、これを使って溝を棒跳びで跳んだ、こんなことはたびたびやって慣れていた彼女にとって訳のないことだった。こんなふうにして王国を出るのは上品ではないかも知れない、しかし誰も見ていなかったから実際は大したことでない。それに、若い女王様というものは、年寄りの女王様にはできない色々のことをすることができる筈である。  棹を、夕方入る時に見つかるよう柳林の草の中に隠した後少女は出かけ、早い仲間の一人として、工場に着いた。待っていると、みんながあちらこちらに群れを拵え、昨日に見られなかった興奮をもって話し合うのだ。何が起こったのだろう?  偶然幾つかの言葉を聞いて彼女は肯いた。 「可哀そうに!」 「指を切ったんだって。」 「小指?」 「小指を。」 「もう一つの指は?」 「それは切らなかったの。」 「泣いた?」 「うめいたわ、そばにいた人がもらい泣きをしてしまうほど。」  ペリーヌは指を切った人を尋ねるまでもなかった。始め驚いて身の凍る思いがしたが、次に胸が一杯になった。彼女とはやっと昨日知り合ったばかりだ、それは確かである、しかし自分の着いた時迎えてくれ、案内してくれ、仲間として付き合ってくれたあの子が、可哀そうにひどく苦しんでおり、片輪になろうとしているのだ。  少女は悄然として考え込んだ、その時何気なく目を上げるとベンディットさんのやってくるのが見えた、そこで少女は立ち上がって、自分のすることがどういうことかをよく知らず、また地位の卑しい自分が要職にあるしかも英国人である人に言葉をかけることの無遠慮さをわきまえずに、彼の方へ行った。 「あの、ロザリーさんはどんな具合でしょうか、御存じでしたら教えて下さいませんでしょうか?」と英語で言った。  常にないことだが少女の方へ目を落して答えてくれた。 「今朝、お祖母さんに逢ったが、よく眠ったとのことだ。」 「まあ! そうですか、どうも有難うございました。」  しかし、これまで一度も人に感謝というものをした事のないベンディット氏は、少女の言葉の調子に含まれる感動と心からのお礼とを全部感じた訳ではなかった。 「結構なことです、」と歩きながら言った。  少女は午前中ずっとロザリーのことばかり考えていた、そうして、もう仕事に慣れてしまい注意も要らなくなったのでそれだけいよいよ自由に、自分の幻想を追うことが出来た。  お昼休みにフランソアズお婆さんの家へ駈けて行った、が生憎、叔母さんに出くわしたので入り口の敷居より奥へは行かなかった。 「何でまたロザリーに会いに? 医者が心配することはないって言ってますのに。あれが起きられるようになったら、どんなにして片輪になったかいうでしょう、あの間抜け者が!」  午前にこんな具合に取り扱われたから、夕方また行く気はしなかった。あれ以上丁寧にはもてなされないに決まっているから、自分の島へ戻るよりほかはない。早く島が見たかった。帰ってみると出かけた時と同じだった、そうしてその日は家のお仕事がなかったので、すぐに晩御飯を食べた。  少女はこの御飯を長引かせたいと思った、がパンをどんなに小さく切り分けようとも無限に増やしてゆく訳にはゆかなかった、そうしてもう残りがなくなった時、太陽はまだ地平線上に高かった。そこで少女は小屋の奥の丸太切れに腰掛け、戸を開けたまま、池を前にして、木々のカーテンでところどころ遮られた野原を遠くに見ながら、立てなければならぬ暮らしの計画を夢みるのであった。  物質上の生活については第一に重要な三つの要点が考えられる、すなわち宿、それから食べ物、それから着物。  宿は、運よく島で見つけたお蔭で、少なくとも十月までは費用が要らないで保証されている。  しかし衣食の問題は、そうあっさりとは片付かない。  幾月も幾月も一日に一斤のパンで、仕事に費やす力を養うに足る食べ物といわれるだろうか? 少女には分からなかった、これまで真剣に働いたことがなかったからである。苦痛、疲労、欠乏、なるほど少女はこれらを知っていた、ただしそれは偶然に知っていたのであり、二、三日不幸な日が続けば、次に来る日々は全てを忘れさせてくれるという具合だった。ところで、繰り返され続けられる仕事になるとそれがどういうものか、また長い間にそこにどれだけの費用が要るものか、少女には一向分からなかったのである。恐らく少女は、昨日も今日も、自分の食事が甚だ貧弱なことを知っていた。しかしそれは結局、彼女のような飢えの苦痛を心得たものにとってはほんの一つの当惑であったに過ぎない。健康と力を保つことができさえすれば、空腹のままでいることなぞは何でもないことであった。それに、やがては一日分の食べ物を増やすこともできようし、パンに少量のバター、チーズを添えることもできよう。だから待ちさえすればいいのだ、それが幾日早く来ようと遅れようと、よしんば幾週間遅れようと、大したことではなかった。  ところが着物は、少なくともその多くの部分が傷んでしまって、敏速に動くことができなかった。思うに、ラ・ルクリのそばで幾日か暮らしながらやった繕いは、もうもたなくなったのである。  殊に靴はひどく減っていて、指で底革に触れてみるとそれが曲がるほどだった。底革が甲から剥がれる時期を予想することは難しくなかった、その上トロッコを押すのに最近砂利を敷いた道を歩かなければならず、そこでは傷みが速いからいよいよ早く剥がれることだろう。そうなったらどうしよう? むろん新しい履物を買わなければならないが、買わなければならないということは、買うことができるということではない。これに要するお金がどこにあろうか?  始めにする仕事、一番差し迫った仕事は靴の製造だ、ところでこれは色々の面倒を生じ、まず最初その実行をよく考えてみた時、少女はがっかりしてしまった。靴とはどんな物かこれまでに考えてみたこともなかった、しかし一方の靴を脱いで調べてみて、どんな風に甲が底革に縫い付けられ、どんなふうに後部が甲に合わせられ、どんな風に踵が全体につけられているかを知った時、少女はその仕事が自分の力と意思との及ばないものであることを悟り、ただもう靴屋の技術に頭を下げるばかりであった。木靴は、ただ一材で、木切れをえぐって作られるから、それだけでずっと容易である、しかし一切の道具としてナイフ一つしかないのに、どうしてそれを彫ろうか?  こうしたできない相談を悄然と考えていた。するとぼんやり池や岸辺をさまよっていた目は葦の茂みにであって、これにとまった。葦の茎は丈夫で、丈が高く、密生しており、春に生えた茎に混じって去年のものもあったが、水中に落ちていてもまだ腐ってはいないようだった。見ながらふと考えが浮かんだ。革靴や木靴だけが履物ではない。底を葦で編み、上をズックで作ったスペイン靴もある。もし少女が賢明なら、わざわざ使って貰うようにそこに生えているように見えるあの葦で靴底を編んでみようとしない筈はない。  すぐに島を出て岸辺伝いに葦の茂みのところへ来た。来てみると、一番いい茎、すなわちもう枯れているが未だしなやかで折れない茎の中から、一抱えを取りさえすればよいことが分かった。  すぐに大きな束を切って、小屋へ持ち帰り、早速仕事に取り掛かった。  けれども一メートルぐらいの編みかけを作った後、この靴底はあまりにうつろだから軽すぎて少しも丈夫でないこと、葦を編む前にその筋をつぶして太い麻束のようなものに変えるという下拵えをしなければならないことに気づいた。  それでも少女はやめもせず困りもしなかった。足を乗せて叩く台には丸太切れがあった。木槌とか金槌がないだけだ。しかし道へ捜しに行った丸い石はそれの代わりになった。そこですぐに葦をもつれさせないようにして叩き始めた。仕事中に、ふいに夜の闇がやって来た。そこで、青リボンの美しいスペイン靴をまもなく履くことを考えながら眠った、だって彼女は、一遍でとは言わなくとも、少なくとも二度目、三度目、十度目には成功することを疑っていなかったのである。  しかし十度目までやることはなかった。翌日の夕方にはたくさん編んだので数々の靴底を拵え始めることが出来た、そうして次の日、一スウの曲がった大針、これも一スウの糸の毬(たま)、同じ値段の青い木綿のリボンの切れ端、四スウの厚い雲斎布を二十センチ、全部で七スウの買い物をした。土曜日にもパンを食べたいと思うならこの七スウ以上は使えなかったのである。さてこの買い物の後、少女はその靴底を自分の靴底に真似て仕上げてみようと試みた。最初のものは丸すぎて明らかに足の形になっていない。第二のものは一層苦心したのだが、これもどうも似つかない。第三のものも、これまた似たり寄ったりの出来栄えだ。が最後に第四のものは真ん中がくくれ、指のところが広がり、踵が小さく、靴底として頷けるものになった。  嬉しい! 固く望むことなら、意志と忍耐とをもってすれば、お金もなく道具もなく、何もなく、ほんのちょっぴり器用なだけを頼りにしてでもやり遂げることができる、それはまたしても証拠立てられたのである。  スペイン靴の完成に欲しいものは鋏だ。しかし買うと高くつくから、なしですまさなければならない。幸いナイフがあった、川床へと石を捜しに行く、これでよく砥ぎ、丸太の上に平らに雲斎布を当ててこれを切った。  布を縫うのにもまた、試みややり直しをしなければならなかった、がついにやり遂げた、そうして土曜日の朝、嬉しくも、灰色の美しいスペイン靴を履いて青いリボンを靴下の上へ十字に巻き、しっかり足に締め付けて出かけた。  この仕事は、夜明けから始めて三朝と四晩かかったのであるが、仕事中少女は小屋を出る時は靴をどうしておいたものかと考えた。小屋には誰も来ないのだから人が来て盗む心配は確かにない。しかし鼠にかじられはしないだろうか? もしそんなことでもあったら災難だ! この危険を防ぐためには、どこへでも潜ってくる鼠共の届かない場所に入れておく必要がある。ところで、しまっておく押入れも箱もないから、天井から柳の枝で吊るしておくのがいい、と思った。 20  少女は履物に得意であったけれど、しかし一方では、働いているうちにどうなるかとそれが心配であった。底が広がりはしまいか? 布は、型がすっかり崩れてしまうほどに伸びはしまいか?  そこで、トロッコに荷を積んだり、これを押したりしながらたびたび足を見た。始めのうちは靴は持ちこたえていた、でもそれは続くだろうか?  この素振りは、恐らく、一人の仲間の注意を惹いた。その仲間は、スペイン靴を見ると、自分の好みにあうのでペリーヌに向かってそれをほめた。 「その舞踏靴、どこで買ったの?」 「舞踏靴じゃあないのよ、スペイン靴よ。」 「でも素敵だわ、高いでしょうね?」 「私が自分で拵えたのよ、葦を編んで、雲斎布、四スウで。」 「いいわねえ。」  この成功は次の仕事を企てようと決心させた、これは更にやりにくい仕事で、たびたび考えては来たのだが大変費用がかかるし、あらゆる種類の面倒を伴って現れるので、いつも打ち捨てておいたものだ。仕事というのは一枚シュミーズを裁って縫い、自分の今持っている、しかし着ているので脱いで洗濯のできない一張羅のシュミーズの代わりにするということである。必要な二メートルのキャラコはいくらするだろう? 分からなかった。手に入れたらどう裁つのか? 更に分からなかった。そこには、着て寝なければならないのでそれだけいよいよくたびれている上衣と下裳の代わりとしてまず胴着と更紗のスカートを作る方が賢いかしらと考えることなどは勘定にいれないでも、次々に起こる疑問があって彼女を考え込ませるのであった。そうした着物を全く見捨てなければならなくなる時期は予想するに難くなかった。もしそうなったらどうして外へ出よう?しかも生活のため、日々のパンのため、また計画の成功のために、これからもずっと工場で働かしてもらうことは必要であった。  しかし土曜日の夕方その一週間に得た三フランを手にすると、シュミーズの誘惑に抵抗することができなかった。むろん胴着とスカートが不必要に見えたというのではない、がシュミーズもなくてならないものだったし、その上それはほかの理由を伴ってやって来た、すなわち少女の育った清潔という習慣、及び自分自身に対する尊敬がそれだ、ついにそれらが勝ちを占めた。上衣と下裳とはまだ繕っておこう、布地は丈夫に出来ているから、きっと幾度か修繕してもつだろう。  毎日彼女は昼食の時間には、ロザリーの様子を尋ねるために工場からフランソアズお婆さんの家へ出かけた。答えてくれるのがお祖母さんであるか叔母さんであるかに従って、教えて貰えたり教えて貰えなかったりしたものだ、ところで、シュミーズが欲しくなってから少女は、一軒の小さなお店の前によく立ち止まった、その店の陳列棚は二つの商品に分かれていて、一方は新聞、写真、歌曲集など、他方は麻織り、キャラコ、更紗、小間物である。少女は、その中央に立って新聞を見ているような、または歌を覚えているような風をしていたが、実は布地に眺め入っていたのである。この魅力のある店の閾口を跨いで、反物を好きなだけ分けて貰う人たちは何と幸福だろう! 長いこと立ち止まっているうちに、たびたび工場の女工たちがこの店へ入り、紙で丁寧に包んだ荷物を胸に抱きしめてそこから出てくるのを見掛けた。少女はそうした喜びを・・・少なくとも現在は・・・自分の物にできないのだと思うのであった。  ところが今は手に三つの銀貨が音を立てているのだから、この閾を跨ごうと思えば跨ぐことができるのだ、そこで胸をとどろかせながら閾を越えた。 「何にいたしましょう?」と小さな老婆が、愛想よく頬笑みながら丁寧な声で尋ねた。久しぶりにこんな優しい言葉をかけられたので、気強くなった。 「お店のキャラコはお幾らでしょうか? ・・・一番お安いのは。」 「一メートル、四十サンチームでございます。」  ペリーヌはほっとした。 「ではそれを二メートルほど分けて下さいませんか?」 「これは余りよい手のものではございません、こちらの六十サンチームの方でございますと・・・」 「四十サンチームの方で結構ですわ。」 「さようでございますか、どうぞお好きな方になすって下さいまし。御承知置きを願うために申し上げましたので。後で苦情をおっしゃられると厭でございますから。」 「苦情なぞいいませんわ。」  売り手は四十サンチームのキャラコを取った、ペリーヌはそれが、陳列棚で眺め入った品物のような白さも艶もないのを見た。 「それから何にいたしましょう?」と売り手は、乾いた音を立ててキャラコを引き裂いて言った。」 「糸を頂きたいのです。」 「毬(たま)になったのと、束ねたのと、糸巻きのとございますが、どれにいたしましょう?」 「一番安いのを下さい。」 「これが十サンチームの毬でございます、全部で十八スウでございます。」  ペリーヌは自分もまた、売れ残りの古い新聞紙で包んだ二メートルのキャラコを胸に抱きしめてこの店を出るという喜びを味わった。三フランの中、十八スウしか使わなかったから次の土曜日までに四十二スウ残る、すなわち一週間のパン代に十八スウを前もって差し引いた後、少女は、もう宿賃が要らないので、不意のため、または貯蓄として七スウの資本を設けた。  少女は島までの道を駈けて帰り、そこに着いた時は息を切らしていた、がそれでもすぐに仕事を始めることは出来た、なぜならシュミーズをどんな形にするかは長いこと頭の中で考えをめぐらしていたので、もうその事を考え直す必要はなかったからである。シュミーズは、紐つきの折り返しにしよう、第一それが、シュミーズを裁ったこともなく鋏を持たない自分にとって一番簡単に楽にやれるし、第二に古いシュミーズの紐がまた使えるから。  縫い仕事の間は、物事は、満足にとは言わないまでも少なくともやり直しをする必要はない程度に上手く、思い通りに運んだ。が頸と腕の孔をあけるという段になって面倒と責任とにぶつかった、これをナイフと丸太切れだけの道具でやってのけるのはひどく重大なことに見えたので、布を切り始めて見た時、どうしても少しふるえた。しかしついにやりとげた、そうして土曜日の朝、自分が働いて手に入れ、自分の手で裁ち、自分の手で縫ったシュミーズを着て工場へ出かけた。  その日フランソアズお婆さんの家へ行くと、ロザリーが、腕を吊って出て迎えた。 「治ったの!」 「いいえ。ただ、起きて庭へ出ることは構わないの。」  逢って大変嬉しかったペリーヌは質問を続けた。がロザリーは、他人行儀な返事しかしない。  いったいどうしたのだろう?  とうとうロザリーはこういう問いをもらしたので、ペリーヌには訳が分かった。 「あなた、今どこに泊まっていて?」  ペリーヌは答える勇気がなくて、脇へそれた。 「あそこは私には余り高かったのですもの、食べ物や着物には何も残らなかったわ。」 「ほかに安いところを見つけたの?」 「無料(ただ)なの。」 「まあ!」  彼女はちょっと黙っていた、が次いで好奇心に負かされて、 「誰のうちなの?」  ペリーヌは今度はこの直接の質問を避けることができなかった。 「後で話すわ。」 「じゃあいつでもお好きな時に聞かしてちょうだい、但し、ゼノビ叔母さんが庭か戸口にいたら、入らない方がいいわ、あなたを怨んでいますのよ。夕方いらっしゃい、その時分は叔母さんが忙しいから。」  ペリーヌはこうあしらわれて悲しく作業場に戻った。フランソアズお婆さんの部屋に引き続いて泊まることができなかったのが、どうして悪いのかしら?  一日中この感じが心に残っていた、そうして一週間後始めて何もすることなく、小屋に夕方ひとりぼっちになるとその感じは一層強く戻って来た。そこでそれを払いのけるために、まだその暇がなかったのでせずにいた島の周囲の原っぱを散歩に出ようと思った。夕方は輝くように美しかった、それは、思い出す生まれ故郷の幼少の頃の夕方のようにまばゆいものでもなく、藍色の空の下の燃え上がるようなものでもなく、暖かで光りは柔らかであった、そうしてその光は、青白い金色の靄の中にひたった木々の頂きを見せていた。まだ古くなってはいないがもう花の落ちた乾し草は、人を落ち着かなくする匂いに凝集した色々の芳香を、空中に放っていた。  島を出ると少女は池の縁を辿って、春に生え出てから誰にも踏まれたことのない丈の高い草の中を歩いた、そうしておりおり振り返ると岸辺の足を透かして隠れ小屋が見えた、それは柳の幹や枝と大変紛らわしいので、野の動物は、それが人間の作ったものであって、その背後に人間が鉄砲を持って待ち伏せるのだとは確かに思わなかった。  その様にして葦と藺(い)の中へ降りて足を止めた後、岸へ上ろうとした時、足許で物音がしたのでびっくりした。一羽の小鴨が驚いて逃げ出して水に飛び込んだのである。どこから飛び立ったのだろうと思ってみると、草の芽や羽で作った一つの巣が見つかった。そこには、汚れた白色に小さな榛色の斑点のついた卵が十個入っていた。その巣は、地面や草の上に置いてあるのではなく、水面に浮いているのであった。少女はそれに手を触れないでしばらく調べてみた、そうしてその巣は、水嵩の増減につれて高くなり低くなるよう作られており水嵩が増して流れができても、風が吹いても、離れ去らないように実にうまく葦で囲んであるのに気づいた。  少女は、母鳥を驚かさぬように相当離れたところへ行ってそこにじっとしていた。坐れば姿の見えなくなってしまう丈の高い草の中に隠れて、少女は子鴨が巣へ戻ってくるかどうかと待っていた、が戻ってこないのでこう結論した、小鴨は未だ卵を孵してはいないのだ、あの卵は生みたてなのだと。そこで少女は散歩を続けた、するとまた枯れ草にスカートが擦れて、驚いたほかの鳥の飛び立つのが見えた。−−浮いているエジプト蓮の葉の上を走ってもその葉の沈まないほど軽やかに逃げる田鶴、嘴の赤いくいな、ひょいひょい跳ぶ鶺鴒(せきれい)、それから寝がけを邪魔されて少女の背後から叫び声を浴びせる雀の群れ、この雀共は、この叫び声のために土地では『クラ・クラ』と呼ばれている。  そんな発見を続けて行きながら、やがて池の外れへやって来た、そうしてその池はもう一つの池に繋がっていることを知った、それはずっと大きくずっと長い池だったがそのため遥かに樹木が少なかった、だからその池の岸に沿って野原の中をしばらく歩いてみて、そこに鳥のずっと少ない訳が分かった。  鳥共は、木の茂った、大きな葦の豊かにある、そうして水草が水面をゆらゆらする緑の絨毯で覆っているこの池の方を選んだのだ、なぜなら食べ物も見つかるし安全でもあったから。一時間後引き返しながら、池が実に静かな緑色の美しい夕べの闇に半ば沈んでいるのを見た時、少女は思うのであった、自分もまた住居としてこの池を選んだのはこの動物どもと同様に賢明であったと。 21  ペリーヌにあっては、過ぎ去った日の出来事が、夜の夢となることがよくあった。従って、最近幾月かの彼女の生活は悲しみでいっぱいだったから生活と同様に夢もまたそうだった。不幸な目に遭い始めてから、何度少女は、現実の惨めさを眠りの中にまで持ち込んでくる色々な悪夢のためにうなされ、汗をかいて目をあけたことであろう。実をいうと、少女がその胸の中に生まれた希望にひかれ仕事にひかれてマロクールについてからというものは、その悪夢は余り襲わなくなり、苦しめなくなり、重くおさえつけなくなり、その鉄の指はそんなに咽喉を締め付けなくなっていた。  この頃、眠る時に考えることは明日のこと、安全な明日のことや、または工場や島のことや、または自分の境遇を改善するために企てたあるいは企てようと思った事柄や、スペイン靴、シュミーズ、胴着、スカートなどのことであった。すると少女の夢は、まるで神秘な暗示にでもかかったように、彼女の努めて心にかけた事柄を、舞台にのぼせるのであった。それはある時は木の足爺さんの木槌の代わりに妖女の魔法の杖が機械に動きを与え、機械を扱う子供らはなんの骨折りもしない作業場であったり、ある時は皆にとって嬉しくてたまらぬ輝かしい翌日であった。またある時は、夢は、夢の中だけでしか生気のない不思議な形の動物や景色の眺められる、この世にない美しい新しい島を出現させた。或はまた少女の空想は、もっと手近なところで、スペイン靴に代わるすばらしい編上げ靴を縫わしてくれたり、金剛石とルビーの洞窟中で妖精達の織った、そうしていつかはあの自分の欲しがった胴着と更紗のスカートの代わりになる、特別の衣裳を縫わしてくれたりした。  むろんこの暗示法は確実だったとは言い得ない、そうして少女の無意識の空想はそんなに忠実にそんなに規則正しくはこの方法に従わなかったから、目を瞑れば確かに夜の考えが、昼間に抱いたあるいは再び眠り込む時に抱いた考えを受け継いでくれるという訳にはゆかなかった、しかし要するに、たびたび繋がり合ってくれたのである。少女はそういう夜は体も心も慰められて元気付くのであった。  その夜小屋を締めて寝た時、少女の半ば眠りに溶けた目の前を通り過ぎる最後の映像と、しびれた頭の中に漂う最後の考えとは、なお島の付近の探検旅行を続けていた。しかし少女の見たのは、この旅の夢ではなく、御馳走の夢であった。大伽藍のような高い大きな料理場で、悪魔のような物腰をした白い小人の料理人の一群が、巨大なテーブルや、すさまじい炭火の周りで忙しく立ち働いていた。ある者が卵を割ると別のものはそれをかき混ぜて雪のような泡にする。彼らは、そのメロンのように大きいのもあれば、やっと豆ほどしかないのもある全部の卵で、珍しい料理を拵えていた。小人たちは、知っているあらゆる方法を一つ残らず用いてこの卵を料理しようというのが目的であるらしい。すなわち半熟にしたり、チーズを入れたり、焼きバターをつけたり、トマトをかけたり、混ぜ卵にしたり、落とし卵にしたり、クリームをつけたり、衣をかけて焼いたり、いろんなオムレツにしたり、ハムを挿んだり、ラードで炒めたり、ジャガイモを混ぜたり、臓物を入れたり、砂糖煮にしたり、ぴかぴか光りながら燃えているラム酒をかけたり。この連中の隣で、ずっと偉い、明らかに頭だった者たちが、饅頭やスフレや飾り菓子を作ろうとして、練り粉に別の卵を混ぜていた。少女は目が覚めかけるごとにこの馬鹿げた夢を追っ払おうとして体を揺すぶったけれど、やはり夢の中に戻ってしまった、そうして料理人たちは少女を手放してくれずに相変わらずその不思議な仕事を続けたので、工場の汽笛で目が覚めてもなお少女は、チョコレート・クリームの製造の跡を追い、その味や匂いを唇の上に思い出していた。  さて、心が開いてそこへ正しい意識が戻り始めると少女は、散歩中に自分を驚かしたものが、島の魅力や、その美しさやその静けさではなくて、ただもう小鴨の卵であり、この卵がもうそろそろ二週間もスープなしのパンと水しか貰わずにいることを胃袋に訴えたのだ、ということに気づいた。そうしてこの卵が少女の夢を誘って、あの料理人やあらゆる不思議な料理を見せたのであった。胃袋は、そうしたおいしいものに飢えていて、胃袋なりにそのことを告げ、こういう幻を引き起こさせたのだ、この幻は実は胃袋の抗議にほかならなかったのである。  卵を生んだ小鴨は野の動物だから誰の所有物でもない訳であるあの卵を、卵の幾つかを、なぜ自分は取らなかったのだろう? 勿論自分には鍋も、フランパンも、どんな種類の道具も、自由に使えるものはないのだから、先程目の前を並んで通った、いずれ劣らぬすてきな巧みな御馳走は何一つ、作ることはできない。しかし巧みな調理の必要がないということはまさに卵の長所である。鍋か皿の買えるようになるまでは、伐採林で枯れ枝を拾い集めて来て、それを少しばかり積んでマッチで火を付ける、そうすれば灰の下で半熟にでも固くでも、思いのままに手軽に焼くことができる。夢の拵えた贅沢な食べ物とは似てもつかないものだとしても、それ相応の値打ちのある御馳走にはなるだろう。  なぜ取らなかったろうという考えは、仕事中一度ならず頭に浮かんだ、そうしてそれは夢のようにしつこくつきまとうという性質は伴わなかったけれど、十分切実だったので、仕事が退けると、マッチ一箱と塩を一スウ買う決心をした。そうしてこの買い物をすると池へ戻るために駆け出した。  巣の場所は、よく覚えていたからすぐ見つかった、が母鳥は巣にいなかった。ただしその日の中いつかは巣に来たに違いなかった、なぜなら今は卵は十個でなく十一個あったから。これで小鴨は、まだ卵を生み続けていて、卵を抱いて孵す時期ではないことが分かった。  いい機会だった。第一卵は新しいし、それに、五つ六つぐらい取っても数えることのできない小鴨は一向気がつくまい。  昔ならペリーヌはそんな心配をしないで平気で巣をすっかり空にしてしまったことであろう、が、いろんな苦しい目に逢って来たため、彼女の心は、他の者の苦痛に対して哀れみの心を動かすようになったし、同様にまたパリカールへの愛情は、あらゆる動物に対して子供の自分には知らなかった同情の心を彼女に抱かせた。この小鴨は彼女にとっては友達ではないか? むしろ彼女の遊びを続けていうなら、家来ではないか? 王様は、臣下から物を得てそれで生きるという権利を持っているにしても、臣下に対し幾分の手加減はしなければならない。  この狩猟を決心した時、少女は同時にそれを焼く方法をも定めていた。むろん小屋の中ではやれない。どんなに微かに煙が漏れ出ても、それを人が見たらおかしいぞと思うであろうからである。だから手軽に伐採林の道端でやればいい。そこでは村を通る流浪者たちが野宿しているから、火も煙も誰の注意をもひかないはずである。忽ち少女は一抱えの枯れ枝を集めてまもなく炭火を作り、その灰の中で卵を一つ焼く一方では、清潔でなめらかな二つの硅石でひとつまみの塩を突き砕いて一層よくそれを溶かした。実をいうと、卵立てがなかった、が卵立てなどは余計な物を並べておく人にだけ必要な道具であるに過ぎない。パンに小さな穴をあければそれの代用になった。まもなく少女は、パンの一切れを、程よく焼けた卵の中に浸ける満足を味わった。初めの一口で、こんなおいしい物はこれまでに食べたことがないように思った、そうして例え夢の中の料理人たちがこの世にいたとしても、とても灰の中で焼いたこの半熟の小鴨の卵に追いつく物を作ることはできまいと考えた。  もし少女が、前日のようにまた例のパンと水とに引き戻され、幾週も、たぶん幾月も、パンには何も添えられないと思ったのだったら、食欲や胃袋の誘惑は、この夕食で満足したかも知れない。がそうではなかった、そこでまだその卵を食べきらないうちに少女は考えた、この残りの卵や新しく捜して手に入れたいと思っている卵を別の仕方で料理することはできないものだろうか。半熟卵はおいしい、実においしい、しかし卵の黄身で濃くした熱いスープはまたおいしい。このスープの考えは、それの実現を諦めなければならないという深い口惜しさを伴いつつ、頭の中を速足で走った。スペイン靴やシュミーズを仕上げたことによって、彼女は忍耐をもって手に入れることのできる物を見せられ、ある勇気を与えられたには違いなかった。しかしその勇気は、スープを作るためのお鍋を土かブリキで製造することができると思い、それを飲むための匙をなにかしらの金属でまたは簡単に木で造ることができると思い立つほどには強くなかった。そこには彼女の心を砕く難題があったのである。だからこの二つの道具を買うお金ができるまでは、事スープに関しては、家々の前を通る時に吸う匂いと、聞こえてくる匙の音とで満足しなければなるまい。  ある朝少女は仕事に行きながらそう考えた、すると村へ入る少し前、昨日引っ越してしまった家の入り口に、道の低いところに、古藁やあらゆる種類のがらくたが一緒に投げ棄てられて積んであるのを見、そのがらくたの中に、肉や魚や野菜の缶詰の入っていたブリキの箱を見とめた。大きいのや小さいのや、深いのや平らなのや、色々な形の物があった。  それらの物の表面のぴかぴかした光を受けて少女は何とはなしに立ち止まった。が一秒の躊躇もしなかった。自分の持たない鍋や、皿や、匙や、フォークが少女の目に鮮やかに映った。お台所の道具を自分の欲しいだけ取りそろえるというためには、この古箱を利用しさえすればよい訳だ。つっと彼女は道を横切って、急いで四つの箱を選び、駈けながらそれを垣の根方へ持って行って枯葉の堆(うず)みの下に隠した。この枯葉の堆みは夕方帰りがけに見つかる。少し器用にやれば、自分の工夫したどんなお料理の献立でも拵える事ができることになる。  しかし見つかるだろうか? この疑問は一日中少女を離れなかった。もし人が取ってしまっていたら彼女は、いよいよ実現できるぞと思うその時になってふいにしてしまうそのためにのみ、仕事のあらゆる計画を立てたという事になる。  幸いそこを通る人々は誰もそれを持ってゆこうとしなかった、そこで日が暮れると、道を行く職工たちの群れをやり過ごした後、垣根へやって来た。箱は隠したその場所にあった。  島の中では煙と同様に音だって立てられないから、腰を据えるのは道の上だ。そこで必要な道具も見つかるだろう、すなわちブリキを叩く金槌になる石、それから鉄床にする平らな石、それから軸にする丸い石、ブリキを切る鋏にする石。  この仕事は一番骨が折れた、そうして一つの匙を仕上げるのに三日以内ではすまなかった、その上、それを人が匙だとみるかどうかもどうやら怪しかった、しかしそれは自分が作ろうと思っていた品物であるからそれで結構だ。それに自分一人で食事をするのだから、人が自分の食器をどう考えるだろうなどという心配は要らない。  もう、待望のスープを作るのに不足の品は、バターとスカンポだけだ。  バターは、これはパンや塩みたようなもので、牛乳がないから自分の手で拵える事はできない、買うよりほかない。  がスカンポなら、これは野原へ捜しに行けばその費用を節約できる。野原には野生のスカンポだけでなく人参もばらもんじんも見つかるだろう。美しくなかろうと、人の栽培した野菜のように太くなかろうと、少女にとっては大変結構な物なのだ。  なおまた食事の献立に入れる事のできる物は卵と野菜だけではない。煮るための容器も、食べるためのブリキの匙も、木のフォークも作った今は、もし上手に取る事ができるとするなら池の魚もある。取るためには何がいるか? 糸だ、泥の中で餌の虫を捜してつける糸だ。それにはスペイン靴のために買ったのがたくさん残っている。だから一スウ使って釣り針を買いさえすればよかった、なお蹄鉄工場の前で拾った馬の尻尾の毛もあり、これらの糸は、様々の種類の魚−−といっても澄んだ水中で彼女の余りにも簡単な餌を馬鹿にしてその前を通り過ぎる池の一番立派な魚とまではゆくまいが、少なくとも彼女にとっては十分に大きくてかかりやすい小魚の何匹かを、釣るのには十分であった。 22  こういういろんな仕事でとても急がしくて夕方はいつも潰れてしまうので、一週間以上もロザリーに会いに行くことができなかった。ロザリーの様子はフランソアズお婆さんの宿にいる管捲機の仲間の一人から聞いていたし、怖いゼノビ叔母さんが応対に出てくるといやだったので、ついのびのびになっていた。しかしとうとうある夕方少女は決心して、すぐに自分の家へは帰らなかった。昨日取って焼いておいた魚を冷たいまま食べればよいので夕飯の仕度もいらなかった。  ちょうどロザリーは一人で庭のリンゴの木の下に坐っていたが、ペリーヌを見ると、怒ったような嬉しいような様子で垣根の方へやって来た。 「あなたはもう来たくないのだと思っていたわ。」 「忙しかったの。」 「何が忙しかったの?」  ペリーヌは答えないわけにゆかなかったのでスペイン靴を見せた、それからシュミーズを作った次第を話した。 「鋏なんかおうちの人に借りられなかったの?」とロザリーは意外だった。 「うちには鋏を貸してくれる人、いないんです。」 「鋏ぐらい誰だって持っているわ。」  ペリーヌは自分の住居の秘密を隠し続ける方がいいかしらと思ったが、隠し続けるとすれば、わざと言い抜かしをするよりほかなく、そんな事をすればロザリーを怒らせるだろうと考えて、打ち明けてしまおうと決め、 「私の家には誰もいないのよ、」と頬笑んだ。 「まさか。」 「でも本当なの、だからスープを作るお鍋も、それをすくうお匙も手に入らないから、拵えなければならなかったのよ。ほんとに匙はスペイン靴よりずっと難しかったわ。」 「冗談だわ。」 「いいえ、本当なの。」  少女は何も包み隠さずに隠れ小屋の住居のこと、お道具作りのこと、卵さがしや、池での釣りのこと、道端でのお料理のことなどを語った。  絶えずロザリーは喜びの声をあげた。全く珍しい物語でも聞いているようだった。 「まあ面白いでしょうね!」彼女は、ペリーヌが初めてスカンポのスープを拵えた次第を説明するとそう叫んだ。 「ええ、うまくできる時は。でもねえ、うまくゆかないと! 私、匙を作るのに三日もかかったわ。どうしても板をくぼませる事ができませんでした。ブリキを二枚も無駄にしてしまって、たった一枚しか残らなかったの。石で指を叩いたときのことを考えてちょうだい。」 「私、あなたのスープのことを考えているの。」 「スープは本当においしかったけれど・・・。」 「そうでしょうねえ。」 「私、スープなんぞ一遍も、大体、暖かい物は何も口に入れた事ないんですもの。」 「私は毎日頂いているけれど、でも、それはこれと別だわねえ。野原にスカンポがあったり、人参や、ばらもんじんがあったりするのは面白いこと!」 「それにまだまだ、たがらしや、えぞねぎや、のぢさ、パネ、蕪、しでしゃじん、とうぢさ、その他食べられる植物がたくさんあるわ。」 「心得ておく必要があるわね。」 「私、お父さんに教わって知っているの。」  ロザリーは考えこむ様子でちょっと黙っていた、がついに決心して、 「あなたのところへお邪魔してもいいこと?」 「ええ、どうぞ。もし私がどこに住んでいるか誰にもいわないと約束して下さるなら。」 「約束するわ。」 「じゃあ、いついらっしゃる?」 「私、日曜日にサン・ピポアの叔母さんの家へ行くの、午後そこから帰りがけに寄ってみるわ。」  今度はペリーヌがちょっと躊躇した、それから丁寧な様子で、 「それよりも、私と一緒に晩御飯を食べましょうよ。」  ロザリーは、しんからの田舎者だったから、はいとも、いいえともいわずに、しきりに他人行儀な返事をしていた、が、大変その申し出を受け入れたがっている様子はすぐに分かった。  ペリーヌは重ねて勧めた。 「いらして下すったら、きっと嬉しいわ。ひとりぼっちで、とても寂しいんですもの!」 「いずれにしてもそのことは本当ね。」 「じゃあ、いらっしゃるんだわね、でも、あなたのお匙を持って来てちょうだい、もう一つ拵える暇もないし、ブリキもないから。」 「パンも持ってくるわ、ね?」 「どうぞ。道端で待っています、せっせとお料理していますわ。」  ペリーヌは、ロザリーを招くのが嬉しいと言ったが、それは本気で言ったのだ。少女は前からそれを楽しみにするのだった。お客様をおもてなしする、献立を作る、必要な物を見つけて貯える、何ということだ! 少女には、自分というものの重要さが何かしら感じられて来た。彼女が友達に食事を出せるなどということは四、五日前なら誰も言う人はなかったであろう。  大切なことは狩りと魚釣りだ、だって卵も取れず魚も釣れないなら、食事はスカンポのスープだけになってしまう、これではまことに野菜っけばかりで貧弱すぎる。金曜日から少女は、近所の池を歩きまわって夕方を過ごした、そうして運よく田鶴の巣を見つけた、むろん田鶴の卵は小鴨の卵より小さい、しかしあまり難しい注文をする資格は少女にはなかった。釣りの方もまた上首尾で、赤いミミズの餌をつけた糸で、見事な鱸(すずき)をうまく釣り上げた、これは彼女とロザリーの食欲を満たすに違いなかった。しかし少女は更に食後の果物が欲しいなと思った、そうしてこの果物は、梢を切られた柳の蔭に生えているまるすぐりの木が与えてくれた。すぐりの実は十分熟れていなかったようだ、しかしこの果物の性質として、青いままでも食べられた。  日曜日の夕方ロザリーが道端へやってくると、ペリーヌは、火にスープをかけてたぎらせながらその前に坐っていた。 「卵の黄身をスープに混ぜようと思ってあなたを待っていたのよ。スープをそうっとあけるあいだ、あなたはいい方の手でかきまわして下さればそれでいいの、パンは切ってあるわ。」 「ロザリーは晩餐のためにおつくりをして来ていたが、ためらわずその仕事を引き受けた、それは遊びであったし、更にこの娘にとっては何よりも面白いことであった。  まもなくスープが出来た。もうそれを島の中へ運ぶばかりだ。ペリーヌがそれを運んだ。  ペリーヌは、まだ片手を吊っているお友達を迎えいれるため、橋代わりの板を元通りにかけた。 「私なら棒で出入りするのよ、でもあなたは手が悪いから、それは難しいわ。」  ロザリーは隠れ小屋の戸を開けた。そうして四隅に、あちらには蒲(かば)、こちらには薔薇色のたしょうぶ、そちらには黄色い菖蒲、ここには青い鈴をつけたかぶと菊というようにいろんな花束が立てられてあり、また地面には食器が置いてあるのを見て感嘆の声をあげたので、ペリーヌは骨折り甲斐があった。 「まあすてきだこと!」  新しい齒朶の床の上にはお皿の代わりに拳参(パシアンス)の大きな葉が二枚並んでいた、そうして深皿にふさわしいずっと大きい野白(草冠に止まる)*(ベルス)の葉の上には、鱸が、たがらしに囲まれて整えられていた。まるすぐりの砂糖漬けの容器の代用として塩入れになっているのもまた一枚の小さな葉っぱであった。お皿とお皿との間にはエジプト蓮の花が挿され、その花は、清々しい緑の上に目も眩むばかりの白い色を放っていた。 「どうぞお坐り下さい、」とペリーヌは、手を差し伸べながら言った。  二人が向かい合って坐ると食事は始まった。 「来られなかったら随分口惜しかったことだろうと思うわ、こんなにすてきで楽しいのですもの。」ロザリーはほおばりながら言った。 「何か来られないことがあったの?」 「だって、ベンディットさんが病気なので、私ピキニへやらされようとしたんですもの。」 「ベンディットさん、どうなすったの?」 「腸チフスなのよ、とても悪いの、その証拠に、昨日からうわ言をおっしゃるし、もう誰の見境もつかないの。私がちょうど昨日、あなたをお尋ねしようとしたのも、その為なのよ。」 「私を! それはまたどうして?」 「それがね! 私考えたことがあるの。」 「ベンディットさんのために何かしてあげることができるのなら、いつでもするわ。あのお方は私に親切でした、でも哀れな女の子に何ができるかしら? どうも分からないわ。」 「もう少しお魚と、たがらしを頂戴、どういうことなのかそれをこれから説明しましょう。あなたも知ってるとおり、ベンディットさんは外国通信係の社員で、英語やドイツ語の手紙を翻訳しています。ところで今はもう頭が変だから、翻訳の方はさっぱりなの。代わりの人を雇おうとしたのですけれど、その人は、ベンディットさんが、もし治るとするならば、−−治っても、引き続いてずっとその地位にいたいというかもしれないと言うので、ファブリさんとモンブルーさんとがその役を引き受けようと申し出て、ベンディットさんが後々また元へ復職できるようになすったの。ところがファブリさんが昨日スコットランドへ出張にやられなすって、モンブルーさんは困っているの、なぜってモンブルーさんは、ドイツ語はよく読めるし、英語の翻訳だって幾年も英国にいたことのあるファブリさんと一緒ならやれるのだけれど、ひとりきりだとそんなにうまくゆかないのよ、殊に、書いてある字を判断しなければならないような英語の手紙の時だと。モンブルーさんは、食事の時私がお給仕をしていると、そういうことを私に説明し、どうもベンディット君の代わりをするのはよさなければなるまいと心配していると言ってたわ。それで私、あなたがフランス語と同じように英語を話すと言うことを、モンブルーさんに言ってみようかと思ったの・・・。」 「私は、お父さんと話す時はフランス語、お母さんと話す時は英語でした。三人で一緒に話す時は、別に注意しないで、無頓着に、あれを使ったりこれを使ったりしていましたわ。」 「でもその勇気がなかったのよ、しかし今はもうあのお方にそう言っていいかしら。」 「それはいいわ、もし私のような不憫な娘でもお役に立つとあなたが思うなら。」 「不憫な娘だとかお嬢さんだとか、そんなことでなく、英語を話せるかどうかそれが問題なのよ。」 「話せるわ、でも用務上の手紙を訳すとなると別のことだわね。」 「いいえ、用務のことを知っているモンブルーさんと一緒だからそんなことはないわ。」 「それはそうかも知れない。じゃ、もしそういうことなら、ベンディットさんに何かしてあげることができれば私は嬉しく思うと言うことを、モンブルーさんに話して頂戴。」 「じゃあ、話すことにしましょう。」  鱸は大きな物だったけれど平らげられてしまい、たがらしも無くなった。いよいよ果物だ。ペリーヌは立って、お魚を出したペルスの葉を下げて、その代わりに、この上なく美しい七宝焼きのように葉脈の模様のある釉薬(やきぐすり)のかかったコップの形のエジプト蓮の葉を置いて、次に、まるすぐりの実を出した。 「家の庭の果物をどうぞ召し上がれ。」と彼女は、ままごとをしているように笑った。 「あなたのお庭って、どこなの?」 「私たちの頭の上よ。この家の柱の一つになっている柳の木の枝の間に、すぐりが伸びたのよ。」 「あなた、この家に長くはいられないことを知っていて?」 「冬までは、と思っているの。」 「冬までですって! もうすぐ沼地の狩猟が始まるのよ、その時この隠れ小屋は、きっと使われるのよ。」 「まあ! どうしよう。」  楽しく明けた一日は、この恐ろしい不吉な前触れで暮れた、そうしてその夜は確かに、ペリーヌがこの島を乗っ取って以来過ごした一番いやな夜であった。  どこへ行こう?  苦心してまとめた一切の道具は、どうしたらよかろう? 23  もしロザリーが、沼地の狩猟の開始の近いことだけしか言わなかったのなら、ペリーヌは、不吉なこの予告の大きな危険に怯えたままでいたことであろう、がしかしベンディットさんの病気のことやモンブルーさんの翻訳のことをも聞いたため、その印象はやわらいだ。  なるほどこの島には魅力がある。ここを去るのはまことに不幸だ。しかしここを離れなければ、お母さんの定めたそうして自分の目指してゆかなければならぬ目的には近づけまい、とても近づけないとさえ少女には思われた。ところでもしベンディットさんやモンブルーさんに役立つ機会が自分にやってきたとすれば、自分はさようにして縁故を拵えることになり、これがたぶん、自分のために門戸を押し開いてくれ、自分はやがてそれをくぐるという事になろう。これこそ、ほかのどんなものよりも重んじなければならない理由だ。王国を奪い取られる切なささえも、これには替えられない。そもそもあの苦しい旅の疲れと惨めさとを耐え忍んで来たのは、それがどんなに面白い事であろうと、こんなことをして遊んで過ごすためではなかったし、また卵を採ったり、魚釣りをしたり、花をつんだり、鳥の歌を聞いたり、ままごとみたような食事を出したりする為でもなかった。  月曜日、ロザリーと打ち合わせておいたとおり、お昼の休み時間にフランソアズお婆さんの宿の前を通ってみた。もしモンブルーさんが入用だというならその指図を受けようというためである。しかしロザリーは出て来て、月曜日は英国から手紙が来ないから、朝のうちは翻訳する物がない、たぶん明日のことになるだろう、と言った。  ペリーヌは仕事場へ戻って再び働いた、すると二時を何分か過ぎた頃、木の足爺さんが通りがかりの彼女をひったくり、 「急いで事務所へ行け。」 「何の用ですか?」 「わしの知ったことかい? 事務所へ寄越せと言われたのじゃ、行って来い。」  少女はそれ以上尋ねなかった、第一、木の足爺さんには質問しても無駄であった、それに、用事というのは大方あのことだろうと思っていたからである。しかし少女にはよく呑み込めなかった、もしモンブルーさんと一緒に難しい翻訳をすると言うのなら、なぜ事務所へなぞ呼ぶのかしら、事務所ではみんなが自分を見るだろう、従ってモンブルーさんは自分を必要としているということが、知れてしまうだろうに。  階段の上から、彼女の来るのを見ていたタルエルは呼んだ、 「こっちへ来るんだ。」  彼女は急いで段々を上った。タルエルは尋ねた。 「お前か、英語を話すというのは? 嘘をつかずに返答せい。」 「お母さんが英国人でした。」 「ではフランス語はどうだ? 訛りはないようだが。」 「お父さんがフランス人でした。」 「すると二国語を話すのか?」 「そうです。」 「よし、サン・ピポア村へ行け、ヴュルフラン様が御用なのだ。」  この名前を聞いて少女は驚きを見せた。監督は腹を立てた。 「お前、馬鹿じゃあなかろうな?」  少女はもう我に返っていた、そうして自分の驚きを説明する答えを見つけた。 「サン・ピポア村ってどこかしらないのです。」 「馬車で送ってやるんだ、だから道に迷うことなんかない。」  そうして彼は階段の上から呼んだ、 「ギヨーム!」  日陰に事務所の脇に置いてあったヴュルフラン氏の馬車が寄って来た。 「これを、ヴュルフラン様のところへつれて行くように。急いでだ、よいな!」  もうペリーヌは階段を降りていた、そうしてギヨームの横に乗ろうとした、しかしギヨームはそれを手でとめて、 「そこではない。後ろだ。」  なるほど一人分の小さな座席が後ろにあった。少女はそこに乗った、馬車が急いで出かけた。  むらを出るとギヨームは、馬の歩度をゆるめないでペリーヌを振り返り、 「お前さん、ほんとに英語を知ってるのかい?」 「ええ。」 「うまい具合に御主人を喜ばせることになるだろうな。」  少女は勇気を出して尋ねた。 「どうしてですか?」 「というのは今御主人のところへ機械を組み立てに英国人の機械工たちが来たところなんだがね、御主人のいうことが通じないんだ。自分では英語が話せるというモンブルーさんをつれてゆかれたんだけれど、モンブルーさんの英語は、機械工たちの英語と違い、通じないでお互いに言い合いをしているんで、御主人は真っ赤になって怒っていなさる。おかしくってやり切れなかった。とうとうモンブルーさんは、どうしようもなくなり、御主人をなだめようとして、管捲機にオーレリーという英語を話す娘がいますがと言ったので、御主人がお前さんを捜しに私を送られたのさ。」  一瞬の沈黙があった、それから再び少女の方を見て、 「何だぜ、もしお前さんがモンブルーさんみたような英語を話すんなら、すぐに降りたがいいかもしれないぜ。」  彼は人を馬鹿にしたふうをした。 「停めようか?」 「駆っていていいわ。」 「お前さんのためを思って言うんだよ。」 「それはどうも有難う。」  しかし、返事はしっかりしていたが息詰まる苦痛を感じないではいなかった、だって、彼女は自分の英語に自信はあったけれど、ギヨームが嘲笑っていうところによると、モンブルーさんの英語と違うというその機械工の英語とはどんなものか知らなかったし、それに商売には各々その言葉−−少なくともその専門語があり、自分はまだ一度も機械に関する言葉を喋ったことがないのを承知していたのである。分からなかったり、ぐずついたりしたら、忽ちヴュルフラン氏はモンブルーさんに向かってしたように、自分に向かっても腹を立てはしないだろうか。  もうサン・ピポアの工場に近づいていて、ポプラの梢の上に、高い煙突の煙を吐いているのが見えた。サン・ピポア村では、マロクール村と同じように、製糸と織物とをやっており、その上なお、綱や緒も製造していることを少女は知っていた、しかしそんなことを知っていようといまいと、少女のこれから聞かなければならぬ事柄、言わなければならぬ事柄は、一向はっきりしてこなかった。  道の曲がり角で、野原に散在する建物の全体を一目で眺めた時少女には、その建物が、マロクール村のより重要でない割には相当なものであるように見えた、しかし早くも馬車は入り口の柵門を越えて、まもなく事務所の前に停まった。 「ついておいで、」とギヨームが言った。  そうして一つの部屋へ案内した。ヴュルフラン氏はサン・ピポアの監督をそばにおいて話し合っていた。 「娘が参りました、」とギヨームは帽子を手にしていった。 「よし。わしらには構わんでよい。」  氏はペリーヌに言葉をかけず、監督に手振りをして自分の方へ耳を傾けさせて小声でものを言った。監督も同様にして返事をした、がペリーヌは鋭い耳を持っていた、そうしてヴュルフラン氏がこの娘は誰だと尋ね、監督が「十二、三歳の、ちっとも間の抜けた様子のない女の子です」と答えたことだけを聞いたように思った。 「お前、こちらへお寄り、」とヴュルフラン氏は言った。その調子は、前にロザリーへ話し掛けたとき聞いたことのある調子で、社員に対するものと少しも似たところのない調子だった。  少女は元気付いた、そうして自分を不安にする感情に抵抗することができた。 「お前の名前は何という?」ヴュルフラン氏が聞いた。 「オーレリーと申します。」 「両親は?」 「亡くなりました。」 「いつからわしのところで働いておる?」 「三週間前からでございます。」 「どこから来たのじゃ?」 「パリから参りました。」 「英語を話すか?」 「お母さんが英国人でした。」 「では英語を知っているのか?」 「会話なら致しますし、分かります、けれども・・・」 「けれどもはいけない。おまえは英語を知っているのか、知らないのか?」 「いろんな商売上の英語は存じません、私の分からない言葉を使いますから。」 「ブノア君、この娘の今言ったことは、馬鹿げたことではないね。」ヴュルフラン氏はそう監督に向かっていった。 「本当にこの娘には間の抜けた様子がございませんよ。」 「それではたぶん何かの役に立つじゃろう。」  杖にすがって身を起こし、監督の腕を取った。 「わしらについて来い。」  普通ペリーヌの目は出くわすものを見てこれを記憶することができた、が、後からついてゆく途中、彼女の見つめたのは心の中であった、英人機械工たちとの対談はどういうことになるだろう。  エナメル塗りの白と青の煉瓦造りの新しい大きな建物の前へ来ると、モンブルー氏が、不愉快そうな様子であちらこちら歩き回っているのを少女は見た、そうして自分に向かって意地悪そうな目付きをしたように思った。  入って二階に上がると広い部屋の真ん中の床の上に、白い板の大きな箱が幾つか置いてあり、その箱は、その上に Matter Platte Manchester(マター プラット マンチェスター)などという名前がそこらじゅうにいくつも様々の色で入れてあって、雑多な色彩をしていた。一つの箱の上に英国人の機械工たちが腰をおろしていたが、ペリーヌは、少なくとも服装の点ではこの人々が紳士風だということを見とめた。毛織の背広の三揃い、銀のネクタイ・ピン。そこで少女は、粗野な職工を相手にするよりはよく分かるだろうという希望を抱いた。ヴュルフラン氏が来るとみんなは立ち上がった。そこで氏はペリーヌに向かい、 「この人たちに言いなさい、私が英語を話します、あなた方も、私がいれば、自分を分からせることができます、と。」  少女は命ぜられた通りにした、そうして、言いかけるとすぐ機械工たちのしかめ面が明るくなったので嬉しかった、なるほどそれはほんの日常の会話の一言に違いなかったが、しかし彼らの頬笑みかけたことは吉兆であった。 「この人たちは、十分に分かりました、」と監督は言った。ヴュルフラン氏は、 「では今度はこう聞こう、なぜ予定よりも一週間早く来たのですか、そのために指図に当たるはずの英語のできる技師が不在なのです。」  少女はこの文句を忠実に言い換え、直ちに、中の一人が返した答えを通訳した。 「カンブレーで案外早く機械の組み立てを終わったので、英国へ戻らずまっすぐにここへ来たのだそうです。」 「カンブレーのどこの工場でその機械を組み立てたのじゃ!」とヴュルフラン氏が言った。 「アヴリーン兄弟の工場です。」 「何の機械じゃ、それは?」  質問と返答とが英語でやり取りされた。ペリーヌはためらった。 「何をぐずぐずしておる?」と急いで氏は気短かに言った。 「私の知らない商売上の言葉なので。」 「英語でそれを言いなさい。」 「ハイドロリック・マングル。」 「やっぱりそうじゃ。」  氏はその言葉を英語で繰り返した、しかしそのアクセントは機械工のとまるで違っていた、それで、彼らがこの言葉を発音しても氏の理解できなかったわけが分かった。次に氏は監督に向かい、 「アヴリーン兄弟が我々の先を越したんだ、ぐずぐずしてはいられない、ファブリ君に電報を打って一刻も早く呼びかえそう。しかし待っている間にも、この男たちに仕事を始めるようにして貰わなけりゃあならぬ。何で取り掛からずにいるのか、おまえ尋ねてみよ。」  彼女はその質問を通訳した、すると頭だった人がそれに長い答えをした。 「どうじゃというのな?」 「返事が私には大変こみ入った事柄で。」 「でもまあ、説明してみよ。」 「床が機械の重みに耐えるほど、強くないそうです、機械の重みは十二万リーヴル・・・」  彼女は中途でやめて、英語で職工たちに聞いた、 「十二万?」 「そうです。」 「十二万リーヴルでございますそうで。それで、この重みでは、動いたら、床がへこんでしまうでしょうって。」 「桁組みは高さ六十センチなんだが。」  少女はこの反駁を通訳し、職工たちの返答を聞いて続けた、 「床の水平位置を調べてみたら床はたわんだそうです。抵抗力を計算してくれるか、床下に支柱を設けるかしてくるようにと言っています。」 「計算はファブリ君が帰ったらするし、支柱はすぐに設ける。そう言いなさい。だから一刻も早く仕事を始めて欲しい。大工でも石工でも必要な職人は何でも入れよう。あの人たちはお前を自由に使い、お前に向かってただなんでも頼んでさえくれればよい、ブノア君に伝わりさえすればいいのだから。」  彼女はこのお達しを職工たちに言い換えた、職工たちは彼女が通訳になるということを喜んだように見えた。ヴュルフラン氏は続けて、 「お前はここにいよ、宿の食事代と宿泊料とのためには伝票をあげるから、お前は何も払わなくてよい。満足にやってくれたら、ファブリ君の帰ったときに御褒美を上げる。 24  通訳というこの仕事は車を押すより増しだった。少女は通訳者として、その日の仕事が終わると、組み立て職工らを村の宿屋へ案内し、そこで、彼ら及び自分の泊まるところを決めた、それはみすぼらしい共同部屋ではなくて、めいめいが自分の室を持つのであった。彼らは、フランス語を一言も理解せずまた話もしなかったので彼女に、一緒に食事をして貰った、そのお蔭で彼らは、十人のピカルディ人が食べるのに十分なぐらいの食事を注文することができた、その食事は肉類が豊富であって、−−ペリーヌが前日ロザリーに出した御馳走も随分沢山ではあったが、−−とても比べ物にはならなかった。  その夜少女は本当の寝床に横になり、本当の敷布と掛布とにくるまった、しかしながら眠りの来るのは遅かった、大変遅かった。とうとうまぶたを閉じたけれど、ひどくざわついた眠りで、何度ともなく目が覚めた。そこで、次のように考えながら努めて落ち着こうとした、自分は、起こる事柄が幸福なものになるか不幸なものになるかを予め知ろうなどという努力はよして、ただそうした事柄の成り行きに従ってゆくべきである、そうすることだけが道理にかなうことだ、事柄がこんなに有利な方向を取っているらしいときには何も悩むことなんかない、結局、待っていればいいのだ、と。しかしどんな立派な説教も、自分で自分に向かってするときには、決してその人を眠らせたことはないどころか、立派であればあるほど我々をうまく目覚ませておくものでさえある。  翌朝工場の汽笛が聞こえると少女は、起きる時刻であることを告げるために二人の組立職工の部屋の扉を叩きに行った。しかし英国人の職工は、少なくとも大陸では汽笛にも呼び鈴にも従わなかった、そうしてピカルディ人の知らない身仕舞いというものをやり、たっぷりバターをつけた焼きパンをたくさん食べ、何杯となくお茶を飲んでそれから始めて、仕事に出かけた。一体いつすむのだろうか、ヴュルフラン様の方が先に工場へ行きはしないかしらと慎み深く門の前で待っていたペリーヌは、彼らについてゆくのであった。  ヴュルフラン氏は、やっと午後になって一番若い甥のカジミールをつれてやって来た、なぜなら、眼がかすんで見えないので、代わりに人に見てもらう必要があったからである。  しかしカジミールは、軽蔑の眼を職工らの仕事の上に投げた。仕事は実際のところまだ準備をやっているに過ぎなかった。カジミールは言った。 「この連中は、ファブリ君が帰らなけりゃあ、大したことはやれますまい。もっとも、あなたのおつけになったのがあの監督では不思議はありませんがね。」  彼はこのしまいがけの言葉を、そっけない嘲るような調子で言った、がヴュルフラン氏はその嘲笑に加わらず、それを悪い意味にとって、 「お前にこの監督の役目を果たせる力があったら、わしは、この管捲機の娘を採用することは要らなかったろうて。」  ペリーヌが見ていると、カジミールはこう厳しい口調で小言を言われて気短かそうにむっとした、しかし、あっさり答えて満足した。 「もし僕が、いつか経営から実務の方へ廻されるということを前以って知ったら、きっとドイツ語より英語を勉強していたんですがねえ。」 「勉強するのに遅すぎるということはないぞ。」ヴュルフラン氏は、お互いが時を移さず言い合うこの口論を切り上げるようにこう返答した。  ペリーヌは身動きもせずにちぢこまっていた、がカジミールは眼をこちらへ向けなかった、そうしてまもなく叔父に腕を貸して出ていった。そこで彼女はくつろいで考えた、ヴュルフラン氏は本当にその甥には厳しかった、しかし甥という人はまたなんて横柄で、そっけない、いやな人だろう! あの人たちが互いに愛情を持っていたとしても、そうは確かに見えなかった! なぜだろう? なぜあの青年は、悲しみと病気とに苦しむ老人に優しくないのだろう? なぜあの老人は、自分のそばで息子の代わりをしている者の一人に、あんなに手厳しいのだろう?  こんな疑問を考えめぐらしていると、氏が今度は監督につれられて仕事場へ入って来た。監督は、荷造りした箱の上に氏を掛けさせた後、組立職工の仕事がどのくらい進んでいるかを説明した。  ややあって監督が二度「オーレリー! オーレリー!」と呼ぶのが聞こえた。  しかし少女は、それが自分のつけた自分の名前であることを忘れていたので動かなかった。  三度目監督は叫んだ。 「オーレリー!」  そこで、はっと目が醒めたように駈けていった。 「お前、つんぼか?」とブノアが聞いた。 「いいえ。組立職工たちの話を聞いていたものですから。」 「君はもうよい、」とヴュルフラン氏は監督に言った。  そうして監督が出て行くと前に立っているペリーヌに向かい、 「お前、字が読めるか?」 「ええ。」 「英語が読めるか?」 「ええ、フランス語と同じように。どちらでも私には同じことなんです。」 「しかし英語を読みながらフランス語に直せるか。」 「ええ、美文でなかったら。」 「新聞記事は?」 「やってみたことはございません、英語の新聞を読んだに致しましても、何をいっているか分かりますので、訳す必要がございませんでしたから。」 「分かるとすれば訳せる筈だ。」 「訳せると思います、でも確信はございません。」 「じゃあひとつ、やってみよう。組立職工たちに、いつも御用は承りますから入用な時は呼んで下さるようにと断ってからでないといかぬが、職工たちの働いているひまに、お前はこの新聞の記事の、わしのいうところを訳してみてくれい。あの連中のところへ断りに行って来て、それからわしのそばに坐りなさい。」  少女がその用事をして、氏のそばにあまり無作法にならないよう間を置いて坐ると、氏はその新聞を差し出した、それはダンディー新聞だった。 「どこを読むのでございますか、」とそれを広げながら尋ねた。 「商業欄を捜してみよ。」  少女は、どこまでも続く黒い長いいろんな欄の中に迷いこんだ。彼女は心配だった、そうして、初めてのこの仕事をどうして切り抜けようか、ぐずついていたらヴュルフラン氏はいらいらしはしないだろうか、へまなのに腹を立てはしないだろうかと思っていた。  しかし氏は怒鳴りつけなかったどころか安心させてくれた、なぜなら、盲の人の非常に鋭敏な耳で新聞のふるえるのを聞いて、少女の気持ちを見抜いたのである。 「急がずともよい、わしは暇なのじゃ、それにお前はまだ商業新聞を読んだことがないらしいの。」 「そうなのです。」  少女は捜し続けた、そうして突然小さな声をもらした。 「見つかったかい?」 「ええ、どうやら。」 「今度は見出しを捜すんだ、麻布(リネン)、大麻(へんぷ)、黄麻(ジュート)、麻袋(サクス)、麻糸(ツワイン)」 「あら、英語を御存じで!」彼女はつい叫んだ。 「わしの商売上の言葉を五つか六つさ、残念ながらそれだけじゃ。」  少女はそれが見つかると翻訳を始めた。それはじれったいほどはかどらず、躊躇したり読み渋ったりしては手に汗が流れた。おりおりヴュルフラン氏が、「それで十分じゃ、よく分かる、構わずに続けよ」と力付けてはくれたけれど。  少女は続けた。機械工の鉄槌の音が襲って来て息苦しくなる時は声を張り上げながら続けた。  とうとう終わりまで来た。 「今度は、カルカッタの情報はないかな?」  彼女は捜した。 「ええ、ここにございます、『本社特派員より』。」 「それじゃ、読んでみよ。」 「ダッカよりの報道・・・」  少女はダッカという名をふるえ声で発音したので、驚いて、 「なぜ、お前、ふるえているのじゃ?」 「ふるえましたかしら、きっと昂ぶっているからですわ。」 「心配は要らぬと言ったではないか。お前は、わしの当てにしていたよりもずっと多くのことをしてくれるのじゃ。」  少女はブラマプートラ川沿岸の苧の収穫のことを語っているダッカ通信を翻訳した。次に、それがすむと氏は『海上通報』の中に、サント・エレーヌからの電信はないかと言った。 「英語ならセント・へレナじゃ。」  少女はまた黒いいろんな欄を下ったり上ったりし始めた。ついにセント・ヘレナの名が、はっきり目に入った。 「二十三日、英国船アルマ号、ダンディー向けカルカッタ出帆。二十四日、ノルウェイ船グルンドローヴェン号、ブーローニュ向けナラインゴージ出帆。  氏は喜んだようであった。 「大変結構じゃ。わしはお前に満足している。」  少女は答えようとしたが喜びでわくわくしていることが声で知れるといけないと思い、黙っていた。  彼は続けて、 「気の毒なベンディット君の治るまでは、お前を役に立てることが出来そうじゃ。」  彼は組立職工の仕上げた仕事の様子を知り、できるだけ急ぐようくり返し注意した後ペリーヌに、監督事務所へつれてゆくように言った。 「手をお貸しいたしましょうか、」と少女はおずおず尋ねた。 「むろんそうしてくれ、でなけりゃあどうしてわしを引いてゆける? また途中で邪魔になるものを見たら注意してくれ、何よりもまずぼんやりしていないようにな。」 「それはもう! 確かに、私に信頼なすってようございますわ!」 「信頼はしておる。」  少女が丁寧に左手を取ると、氏はその右手では杖の先で、前の方を探った。  仕事場を出るや否や、二人はレールが地面から出ている鉄道線路の前へ来たので、少女はそれを注意しなければならないと思って注意した。 「その必要はない。わしは工場中の地面という地面を頭と足とで覚えているからな、しかし、ふいの邪魔に出くわすかもしれない、それはわしにも分からぬから知らしてくれるか、避けさせてくれるかしなければならぬ。」  彼は工場の地面だけでなく、その就業員をもまた覚えていた。庭を通り過ぎる時、職工たちは、まるで彼が見てでもいるように帽子を脱ぐのみならず、更に彼の名を呼んで挨拶するのであった。 「こんにちは、ヴュルフラン様。」  すると大抵の人々、少なくとも古顔の人々に対して彼は、「こんにちは、ジャック」とか「こんにちは、パスカル」とか、同じ調子で答えた、耳でその人々の声を覚えているのだ。彼は殆ど全部の人を知っていたから、誰かなあと思うようなことは余りなかったが、もしそういう時があると立ち止まり、誰々と名を呼んで、 「そうじゃなかったかね?」と言った。  間違うとその理由を説明した。  そうやってゆっくり歩くので、仕事場から事務所へ行くのは長かった。少女が彼をその肘掛け椅子までつれてゆくと、暇をくれて、こう言った。 「では明日また。」 25  実際翌日、前の日と同時刻にヴュルフラン氏は監督にひかれて仕事場へ来た。が、ペリーヌは迎えに出ようと思っても出られなかった、なぜならその時彼女は、石工や、大工や、鍛冶屋や、機械工など、集められた職人に、組立職工の頭の指図を伝えるのに忙しかったからである。自分の与えられた指図をそれぞれに向かって、はっきりと、ぐずぐずせず、一遍で通訳し、同時に、頭に向かってはフランス人の職人共の伸べた質問や抗弁を伝えていたのである。  ゆっくりヴュルフラン氏は近寄って来た。すると話し声がやんだので、杖で、自分はいないものと思って仕事を続けるように、という身振りをした。  ペリーヌが素直にこの命令に従っている間に、氏は監督の方へ身を曲げて、 「ねえ君、あの娘は立派な技師になりそうじゃあないか、」と小声で、もっともペリーヌに聞こえないほどには低くなかったが、そう言った。 「確かにあの娘は、決断をすることに驚くべきものがございますな。」 「ほかの多くのことについても、そうだと思う。昨日、ダンディー新聞を訳してくれたが、ベンディット君よりうまかった。新聞の商業欄というものを読んだのは、それが始めてだったのじゃよ。」 「両親はどういう人だったか、御存じでございますか?」 「たぶんタルエル君が知っているだろう、わしは知らぬ。」 「それはともかく、可哀そうなほど貧しそうですね。」 「わしは、あれの食費と宿泊料とに五フランやっておいた。」 「いえ、身なりのことなんですが。上衣はぼろぼろですよ。それからあんなスカートは乞食女の身に着けているものしか見たことがありません。履いているスペイン靴も、きっとお手製に違いありません。 「で顔つきはどうじゃ? ブノア君。」 「聡明です、とても聡明ですね。」 「身持ちが悪そうではないか?」 「いいえ一向に。それどころか貞淑で、率直で、大胆です。眼は壁でも見通しそうですが、それでいて用心と深い優しさとを持っています。」 「一体どこのものだろう?」 「この土地のものでは確かにありません。」 「母は英国人だと言ったが。」 「私の知っている英国人たちに似たところが少しも、あの娘にはございません。別のものが、まるで別のものがございます、それでいてきれいなんです、実際みすぼらしいあの着物があの娘の美しさを浮き立たせるので、いよいよきれいです。あんな身なりで職人共はよくそのいうことを聞くのですから、本当にあの娘には、思いやりがあるのか、それとも生まれつきの権威があるものに違いありません。」  ブノアは、賞与の表を握っている工場主にはお上手を言う機会を逃さぬ性質の人だったから付け加えて、 「あの娘を御覧になりもしないのに、あなたはそういうことを皆見抜いていらしったのですね。」 「あの娘の言葉の調子で、これはと思ったのじゃ。」  ペリーヌはそうした会話を全部は聞かなかったがそれの幾つかの言葉は聞き取った、そうして激しい興奮の中に投げ込まれた。彼女はその興奮を努めて静めようとするのであった、なぜなら、自分の背後で話されている事柄はどんなに面白いことであっても聞いてはならないものであり、組立職工や職人らのかける言葉こそ聞かなければならなかったからである。もし自分がフランス語の説明中に、何か自分の不注意を証拠立てるようなへまなことをやらかしたとしたら、ヴュルフラン氏はどう思うだろう?  少女はうまく説明をすますことができた、その時、少女はそばへ呼ばれた、 「オーレリー。」  少女は、これから後は自分のものとならなければならないこの名前に今度は、返答をせずにいるようなことはしなかった。  氏は昨日のように少女をそばに坐らせて、翻訳する新聞を渡した、がそれはダンディー新聞でなくて、いわば苧の取り引きの広報である『ダンディー貿易通報協会』の通牒であったので、あちらこちらを捜すことなく、始めから終わりまで訳さなければならなかった。  また昨日と同様、翻訳の一時が終わると、彼は工場の庭を横切って自分を引いてゆかせた、しかし今度はこう質問するのだった、 「お母さんを亡くしたと言ったが、何日ぐらい前のことじゃ?」 「五週間前です。」 「パリでかな?」 「パリです。」 「ではお父さんは?」 「半年前に亡くなりました。」  彼は少女に手を取られていたので、少女の手がふるえてひきつることから、どんなに少女の思い出が苦しい気持ちを引き起こしたかを感じた。だから彼は、彼の話題を捨てはしなかったけれど、少女が今答えた数々の質問から必ず生まれ出るような質問は差し控えた。 「両親は何をしていたのじゃ?」 「私たちは一台の馬車をもって商いをしておりました。」 「パリの周りでかい?」 「この地方あの地方と、旅をしていましたの。」 「ではお母さんが亡くなって、お前はパリを離れたのじゃな?」 「ええ。」 「なぜじゃ?」 「お母さんが私に約束させて、自分がパリにいなくなったらお前もそこにいないで、北部の、お父様の家族のそばへ行くように、とおっしゃったものですから。」 「ではどうしてここへ来たのじゃ?」 「可哀そうなおかあさんが亡くなった時、車も、驢馬も、僅かの持ち物も売り払わなければなりませんでした、そうしてそのお金は病気の為になくなってしまい、私がお墓を立ち去る時には五フラン三十五サンチームしか残っていず、汽車に乗ることができませんでしたので、歩いて行こうと決心しました。」  ヴュルフラン氏の指が動いた、が少女はその理由が分からなかった。 「いやな思いをなすったのならごめんください、詰まらないことを申し上げましたようで。」 「いやな思いなぞはしない、どころか、わしはお前が立派な娘だと知って嬉しい。わしは気の挫けてしまわぬ意志と勇気と決断の人が好きじゃ。そういう性質を男の中に見つけるのは嬉しいが、お前のような年輩の子供の中に見るのは、なお嬉しい。するとお前は、懐に百七スウ持って出かけたんじゃな・・・」 「それからナイフ、石鹸、指抜き、針を二本、糸、道路図を一枚、これだけでした。」 「道路図の見方を知っているのか?」 「街道を馬車で行こうとすれば知る必要がございます。これが、私たちの馬車の家財道具から救ったものの全部でした。」  彼は口を挿んで、 「左手に大きな樹があるだろう?」 「ええ、ぐるりにベンチのあるのがございます。」 「そこへ行こう、腰掛けの上がよい。」  坐ると少女はその話を続けた、が簡単に話そうという心遣いはもうしなかった、なぜなら氏が興味を持っていることを見て取ったから。 「人に物を乞う気はなかったか?」と、彼女の話が夕立に襲われて森を出たところへ来ると尋ねた。 「いいえ、少しも。」 「しかし働く仕事が見つからないと知った時、お前は何を当てにしたのじゃ?」 「別に何も。力の続く限り歩いたら助かるかもしれぬと思いました。力が尽きた時、私は諦めてしまいました、もうどうすることもできなかったからです。一時間も早く倒れていたら私はだめだったでしょう。」  少女はそうして、気を失っていた時自分の驢馬に舐められて我に返り、屑屋の女に助けられた次第を物語り、次にこのラ・ルクリの下で過ごした時をすぐに見捨ててロザリーと出会うに至った次第を物語った。 「話をしておりますうちに、働きたい人は誰でもあなたの工場で仕事を与えてもらえることを知り、出てみようと決めたのでした。そうして管捲機の方へ廻して頂きました。」 「また旅に出るようなことになったらどうする?」  この質問が思いがけなかったので、口ごもった。 「しかし、もう旅に出るようなことはないと思っています、」と少女はちょっと考え込んでから答えた。 「ではお前の親戚は?」 「私は親戚の人を知らないのです、私をよくもてなしてくれるかどうか分かりません、だって私のお父様に腹を立てた人たちなのですもの。私は、誰も自分の保護を乞う人がないので親戚のもとに参りました、けれども家へ入れてくれますかどうか。ここで働き口が見つかりましたから、私としてはここにいるのが一番いいように思います。もしも突き戻されたら私はどうなることでしょう? 飢えて死ぬことは確かにないと致しましても、新しくまたいろんな目に遭うのが大変怖いのです。運の向いていない限り、そういう危ない目に身をさらしたくはございません。」 「その親戚というのは、まだ一遍もお前の面倒を見てくれた事はないのか?」 「ええ、一遍も。」 「そうしてみるとお前の分別も浅くはないといえる、しかし締まったままで内へ入れてくれない門などを叩きに行くような冒険はしたくないとしても、その親戚なり、または村の牧師なり、村長さんなりに手紙を書いてみたらどうじゃ? そりゃあお前を引き取ることができないかもしれぬ、そうしたらその時は確実に暮らしてゆけるここにいるがよい。しかしまた喜んでお前を引き取ってくれるかもしれぬ、そうしたらお前は親戚で、もしここにいれば受けられない愛情や世話や、援助を得ることになる。この世でひとりぼっちのお前くらいの年輩の娘にとっては暮らしというものは難しいし、・・・また寂しいということを知らなければならぬ。」 「ええ、ほんとに寂しいものでございます。知っております、毎日そう感じているのです、もし迎えてくれたらきっと喜んでそこへ飛び込むでしょうが、しかしもし、お父様が拒まれたように私もまた拒まれたら・・・」 「一体おまえの親戚は、おまえの父親から手酷い損害でも受けたのかな、つまり大きな過失から生ずる法律上の損害でも?」 「私はお父様が誰に向かっても大変優しく、お母様にも私にも大変親切で、寛大で、暖かく、情け深い人だったと覚えておりますから、そのお父様が何か悪いことをなすったと考えたくはありません、でも結局、大きな理由なしにお父様の御両親がお怒りになったとは思えません。」 「もちろんじゃ、しかしお父様に対しては苦情を持っても、お前に対しては持ちはしまい。父の過ちが子にもふりかかることはない。」 「そうだったらいいのですけれど!」  少女はこの言葉をひどく興奮した口調で言ったので、ヴュルフラン氏はびっくりした。 「お前、心の奥では、引き取って貰えたらと願っておるのじゃな。」 「でも突き戻されたらとそれだけが心配です。」 「どうしてそんなことがあろう? お祖父さんたちは、お前のお父さんのほかにも子供を持っていたのか?」 「いいえ。」 「お前が失った息子の代わりになることを、どうしてお祖父さんたちの喜ばないわけがあろう? この世でたった一人だということがどんなことか、お前には分からぬのじゃ。」 「分かり過ぎておりますわ。」 「ひとりぼっちでも若い人には将来というものがある。死ぬよりほかない老人と同じ境遇にいるのではない。」  氏は少女を見ることができなかったが、少女の方は目を離さずに、氏の言葉の洩らす感情を氏の内に読み取ろうと努めていた、が、老境のことをそう氏が仄めかしていった後は、氏の胸の奥に潜む思いをその表情の上に探ることを、彼女は怠ってしまった。 「どうじゃ、」と氏はちょっと待ってから言った、「どうお前決心する?」 「私がためらっているのだとお考えにならないで下さい。お返事ができないのは胸がいっぱいだからなのです。ああ! 見知らぬ女として突き戻されるのでなく、娘として引き入れられるのだと思えたら、どんなにいいでしょう!」 「可哀そうに、お前は人生というものを知らぬ。が老境というものは子供時代と同じようにひとりぼっちではおられぬものじゃ。」 「お年寄りのお方はみんなそう考えていらっしゃいますの?」 「そう考えていないにしても、そう感じているものじゃ。」 「あなたも同じお考えですか?」少女は、ふるえながら目を注いでいった。  直接少女に答えず、独り言をいうように低い声で話しながら、 「そうじゃ、年寄りというものはそう感じておる。」  それから、苦しい思いから逃れるように急に立ち上がって、命令口調で言った。 「事務所へ。」 26  技師のファブリさんはいつ帰ってくるのだろう?  これはペリーヌが心配して自分に尋ねる事柄であった、なぜならその日、英人職工のそばでの彼女の通訳の役目は終わるのだから。  ヴュルフラン氏のためのダンディー新聞翻訳の役目は、ベンディット氏の治るまで続くのだろうか? これが更に心配な次の疑問であった。  木曜日、彼女が職工たちと一緒に朝来てみると、ファブリは仕事場にいて、出来た仕事をしきりに検査していた。彼女は、慎み深く、しかるべき距離を保ち、交わされる説明には立ち入らないよう注意していた、がそれにもかかわらず組立職工の頭は彼女を中に入らせた。 「あの娘がいないと、わしらは、腕組みしてるよりほかありません。」  するとファブリは彼女を見た、が何も言わなかった。彼女の方も自分はどうしたらいいのか、つまりサン・ピポアにいたらいいのか、マロクールに帰ったらいいのかを、ファブリに尋ねようとしなかった。  自分を呼んだのはヴュルフラン氏だから、自分を置いておくのも返すのもヴュルフラン氏だと思い、少女は気がかりのままでいた。  氏はやっといつもの時刻に監督につれられて来た。監督は、技師の与えた教示やその述べた意見を氏に説明した。しかし氏は、それらに十分満足しなかった。 「あの娘のいないのが残念じゃ、」と不満足そうに言った。 「おりますよ、」と監督はいってペリーヌにそばへ来るように手振りをした。 「なぜマロクールへ帰らなかったのじゃ?」とヴュルフラン氏は言った。 「あなたのお命じにならないうちは、ここを立ってはならないと思いまして。」 「それはもっともじゃ。お前はここにいるがよい、わしが来たら指図をするから・・・」  氏は黙った、がまもなく続けて、 「それにマロクールでも要ることになろうから。今夕そちらへ帰るように。そうして翌朝事務所に来るがよい。来たらお前のすることを言うから。」  氏は、職工たちに言いたいことを少女に通訳させると、出かけた、そうしてその日は新聞を読むことはなかった。  しかしそんなことは何でもない。彼女は、明日が保証されているように思われる時に、今日の当て外れなぞを気遣いはしなかった。 「マロクールでも要ることになろうから。」  少女は、サン・ピポアへギヨームと並んでやって来たその道を帰りながら、この言葉を繰り返した。何に使われるのかしら? 心は飛び立った、しかし何もしっかりしたものに取りすがることはできなかった。ただ、管捲機に戻らないことだけは確かだ。他のことは待ってみなければ分からない、しかしもう、苦痛の熱病のうちで待つことは要らない、なぜなら、お母さんが死ぬ前につけてくれた道をゆっくり、慎み深く、慌てず、危険を避けて利口に歩いて行きさえすれば、自分の掴んだ事柄から見て、どんなことにも希望を抱き得たからである。今や自分は自分の思い通りになる生活を手中に収めた。言葉を口に出す時には、決心をする時には、一歩前へ乗り出してみる時にはいつも、自分はそう考えればいいのだ、誰にも智慧を借りることができなくても。  少女はそう考えながらマロクールへ戻るのだった。少女はゆっくり歩いた、が垣根の花を摘みたいと思う時や、塀越しに野原や池の上に美しい景色が見通される時は立ち止まった。胸のざわめき、一種の熱望のようなものが少女を駆って足を急がせたが、わざと歩をゆるめた。急いで何の役に立とう? それは本能の衝動にけっして負けないよう彼女の守らなければならない習慣であった、彼女の従わなければならない規則であった。  島の様子は出かけた時のままで、どれも皆元の場所にあった。小鳥は柳の木にあるすぐりの実を見逃してくれてさえいて、これは留守中に熟していたので全く思いがけない夕餉の御馳走となった。  少女は、工場の退ける時刻よりも早く帰りついたので、夕飯がすんでもすぐ寝ようとせず、日の暮れるのを待ちながら、隠れ小屋の外に出て、池や岸辺を自由に見まわせる場所に坐って夕方を過ごした。その時少女は、わずかばかりの留守をしたにもかかわらず、その間に時は進んで、悲しまなければならない変化がやって来ていることに気づいた。野を支配していたものはもう、この島に住み始めた頃少女をひどく感激させたあの夕べの荘厳な静けさではなかった、その頃この低地一帯で、水の上や、丈高い草の中や、木々の葉陰で聞こえるものとてはただ、巣に戻る小鳥どもの物に触れる神秘な音だけであった。今この低地では鎌の動く音や、車軸のきしり、鞭を振る音、呟く人声、あらゆる種類の響きで、遠くの方がざわついていた。それは、サン・ピポア村から帰りながら少女の気づいていたように、果たして、草のよく伸びる日当たりのいい野原で草刈りが始まっていたのである。彼女のいる池のあたりの野原は木陰が深いから後回しになっているが、やがてそこへも草刈人たちはやってくるだろう。  そうすればもう住めなくなって、彼女は当然、この住処を離れなければなるまい。しかしこの草刈りのためであっても狩猟のためであっても、幾日かの違いがあるだけで結果は同じことにならなければならないのだ。  少女は、もう上等の敷布や、窓や、閉まった扉などの習慣がついていたが、どこにも行かずにずっとそこにいたかのように齒朶の寝床の上に眠った、そうして朝日に起こされてやっと目が覚めた。  柵門の開く時刻に少女は建物の入り口の前にいたが、仲間について管捲機の方へ行かないで、事務所に向かって行きながら、どうしたらよかろうかと考えた、入ろうか? 待っていようか?  後のようにしようと決めて足を止めた。入り口の前にいるのだから呼びに来たら見つかるだろう。  一時間近く待った、とうとうタルエルが来て、何をしているのだと厳しく聞いた。 「ヴュルフラン様が今朝事務所へ来るようおっしゃいましたので。」 「庭は事務所ではない。」 「呼ばれるのを待っているのです。」 「上へ来い。」  少女は彼に従った。ベランダの下に行くと、彼は椅子に跨って腰をかけ、手振りでペリーヌを前へ呼んで、 「お前、サン・ピポア村で何をした?」  彼女はヴュルフラン氏が自分をどんなことに使ったかを話した。 「するとファブリ君がへまな命令をしたのだな。」 「知りません。」 「どうして知らぬ、お前はものが分からないのか?」 「そうかも知れません。」 「お前は十分物が分かる、返事をしないのは、したくないからだ、誰に話をしているのかを忘れるな、わしはここのなんだと思う?」 「監督です。」 「つまり頭だ。頭として万事はわしの手を通るのだから、わしは万事を知る必要があるのだ。わしのいうことを聞かぬものは、放り出してしまうぞ、忘れるな。」  この男は、まさしく女工たちに共同部屋で噂をされた男であった。厳しい支配者であり、マロクールのみならず、サン・ピポア村、バクール村、フレクセール村、総ての場所で、工場を意のままにしようと思い、ヴュルフラン氏の権威と並んで、否むしろこれに立ち勝って、自分の権力を広げ維持してゆくためにはどんな手段でも正しいとする暴君であった。 「おまえに尋ねるがファブリ君はどんなへまをやったのだ?」と声を低めてまた言った。 「存じませんから申し上げることはできません、しかしヴュルフラン様が組立職工たちに向かって私に通訳をおさせになったお小言をあなたに申し上げることは出来ます。」  少女は一語も省かずにその小言を伝えた。 「それだけか?」 「それだけです。」 「ヴュルフラン氏は、手紙をお前に訳させたか?」 「いいえ、私はただダンディー新聞の文句と、「ダンディー貿易通報協会」全部とを訳しただけです。」 「本当のことを、何でも本当のことを言わぬと、わしにはすぐそれが知れる、知れたが最後、放り出すぞ!」  ひとつの身振りがおしまいの言葉に力をつけた、それは早くも、この男の野蛮なことを極めて的確に示していた。 「どうして本当のことを言わないことがありましょう?」 「前以って教えてやるんだ。」 「忘れないようにいたしますわ、きっと。」 「よし、向こうの腰掛けに坐っておれ、ヴュルフラン氏はお前が入用になったら、ここへ来るように言いつけたことを思い出されるだろう。」  少女は二時間近くその腰掛にいた。タルエルのいる間は、動くこともできず考えることさえもできなかった。そうして彼が外へ出て始めて、元の自分に戻った、が安心するどころか気がかりだった、なぜなら、この恐ろしい男を少しも恐れることはないと信ずるためには、大胆な勇気が要った、そうしてこの性質は彼女にはなかったからである。彼が彼女に要求したところのものは分かり過ぎるほど分かっていた。ヴュルフラン氏の身近でわしのスパイになって、お前の翻訳させられる手紙の内容をわしに知らせろと言うのだ。  それは彼女を脅かすに足るひとつの予想であったが、お蔭で、次のようなことを考えることができた、自分がやがて手紙を翻訳させられることをタルエルは知っている、少なくともそう推測している、つまりヴュルフラン氏は、ベンディットが病気でいる間は、自分をそばに置いておかれるらしい。  馭者の仕事をしない時はヴュルフラン氏の私用に従事するギヨームが、五度だか六度だか、やってくるのを見て、少女は自分を呼びに来たなと思ったが、そのたびごとに、ギヨームは言葉をかけないで前を通り過ぎるのだった、庭に出る時も戻る時も、忙しそうに急いでいた。  そのうちに彼は三人の職工を連れ戻って来て、ヴュルフラン氏の事務所へ案内した。これに続いてタルエルもそこへ入った。かなり長い時間が流れ、おりおり人声が湧き起こった、それは玄関の扉が開くと少女にまで聞こえてくるのであった。明らかにヴュルフラン氏は、ほかの仕事があって彼女には構っておられないのだ、そこにいることさえ忘れているのだ。  ついに職工たちはタルエルを伴って現れた。始め通り過ぎた時は職工らは、心を決めて前進するしっかりした足取りだった、が今は不満な、困った、ためらいがちな様子をしている。出がけにタルエルは手振りで彼らを引き留めて、 「工場主は、わしの言ったことと違ったことをおまえたちに言ったかね? 言わなかったろう。ただし、わしよりも言い方はずっと厳しかった、そうしてそれはもっともなんだ。」 「もっともだなんて! ああ! ひでえ目に逢うもんだ!」 「あんたなら、あんなにはいうめえ。」 「言うとも、あれが本当なのだから。わしはいつも真理と正義の味方だ。わしは、工場主とお前たちとの間にいるんで、工場主の側にもつかぬしお前たちの側にもつかぬ、わしは、真ん中にいるわしにつく。お前たちが正しいならわしはそう認めるし、お前たちが間違っているならわしはそういう。今日はお前たちが間違っている。お前たちの要求は取るに足らん。おまえたちは訳分からずにおだてられているんだ。工場主は自分たちを喰い物にするとおまえたちは言うが、お前たちを使う連中は、一層お前たちを喰い物にするんだ、工場主は少なくともお前たちを生活させてくれる、ところがその連中はお前たちを、お前たちの妻子を、死ぬほどひもじい目に逢わすぞ。が今はもうお前たちの好きなようになる、わしのことというよりはむしろお前たちの事だ。わしは新しい機械を据えるから苦労はせぬ、その機械は、一週間経つうちに動いて、お前たちのすることをお前たちよりも立派にやってくれる、ずっと早くずっと経済的にな。その上、機械と押し問答して時間を潰すことも要らぬ−−有り難いことじゃ、な? お前たちが暮しに困り、兜を脱いで戻ってくる時分には代わりのものが出来ていておまえたちはもう要らぬ。新しい機械にかけた費用は瞬く間に取り戻す。もう話は沢山だ。」 「しかし・・・」 「得心がゆかぬというんなら、それは頭が悪いんだ。もうお前たちに耳を貸している暇はない。」  そう突き放されて、三人の職工はうなだれて行ってしまった。ペリーヌはなお待っていた、するととうとうギヨームが連れに来て、彼女を広い事務室に案内した。ヴュルフラン氏は大きな机に着いていた、その机には見えなくても手で触れて分かるよう浮き彫り文字のついた文鎮に書類の束のもたせかけたのが一杯あり、その端には電気装置や電話機があった。  ギヨームは彼女を連れて来たことを告げないで扉を閉めて行った。少女はちょっと待ったが、自分のいることをヴュルフラン氏に告げるべきだと思い、 「私でございます、オーレリーで。」 「足音で分かっていた。ここへ来て話を聞きなさい。わしは、お前の話したいろんな不幸やお前の見せた勇気というものから、お前の身の上を面白いと思うたし、一方ではおまえの組立職工らとの通訳の役目や、お前にさせた翻訳や、最後にわしとの対話から、おまえの利口なことを知って嬉しかった。わしは病気で盲目になってからというもの、誰かわしの代わりに見てくれ、わしの指すものを眺めてくれ、著しいものを説明してくれるそういう人が欲しいのじゃ。わしはギヨームがそれをやってくれればと思うていた、あの男も賢い、が残念なことに酒でひどく馬鹿になってしもうてもう馭者しかやれぬのじゃ。しかもそれも、大目に見てやるという条件をつけての話じゃ。お前、わしのそばでギヨームの果たせなんだ役目をやってみぬか? 始めのうち月に九十フランやろう、それから、わしはたぶんお前に満足すると思うが、そうしたら賞与もやる。  ペリーヌは嬉しさに胸がいっぱいになって答えずにいた。 「何も言わないのかな?」 「私はお礼のお言葉を捜しております、けれども胸がわくわくして落ち着きませんので、言葉が見つからないのでございます、決してあの・・・」  氏は口を挿んで、 「いや、お前は実際感動しているようじゃ、その声で分かる、わしは嬉しい、それは、お前がわしを満足させるためにできるだけのことをするという約束というものじゃ。さて話が変わるが、お前、親戚に手紙を出したことがあるかな?」 「いいえ、私にはそれができませんでした、紙がございませんし・・・」 「よしよし、今にできるようになる。ベンディット君の回復するまでお前はその事務室を使うことになるから、必要なものは何でもそこにある。手紙を書く時、お前は自分がわしの家でどんな地位にいるかを親戚に言ってやるがよい。もし親戚が、お前をここへ出すのが良いと思うたら、寄越すだろうし、そうでなかったら、お前をここに放っておくだろう。」 「きっと私はここにいることになるでしょう。」 「わしはそう思う、それは今のお前にとって何よりよいことじゃ。これからお前は、事務所で暮らすことになり、わしの命令を伝えに行く雇員たちとも交わるし、またわしと一緒に外出もするのだから、いつまでもその女工服を着ている訳にはゆかぬ、ブノアの言うところによると破れているようじゃが・・・」 「ぼろでございます、でも、これは決して怠けや不注意のためではございません。」 「言い訳をせんでもよい。が結局それは変えなければならぬのだから会計課へ行って伝票を貰いなさい、それを持ってラシェーズ夫人の店へ行けば、下着や、帽子や、靴や、服装に必要なものが買える。」  ペリーヌは重々しい顔をした盲目の老人ではなくて、魔法の杖をかざした美しい妖女でも物を言っているように耳を傾けていた。  ヴュルフラン氏は、少女を現実の世界へと呼び戻して、 「自由にお前の好きなものを選んでよい、が、その選び方でわしはお前の性格を決めるから、そのことを忘れぬように。よく心掛けてやるのじゃ。今日のところは用事はない。ではまた明日。」 27  会計課で頭から足の先まで見られた後、ヴュルフラン氏の言った伝票を貰うと、そのラシェーズ夫人というのはどこに住んでいるのかしらと思いながら工場を出た。  それがあのキャラコを買った店の女主人だといいなと思った、だって既に顔見知りなら、自分の買い物を相談するのに気兼ねがいらなくていいからである。  油断のならぬ問題だった、それにヴュルフラン氏の最後の言葉があるからいよいよ重大だ、「その選び方でわしはお前の性格を決めるから」。この忠告は、贅沢な布地なぞに飛び付かないようにというためなら確かに不必要だった、しかし彼女の理に適うものがヴュルフラン氏の理にも適うだろうか? 幼い時彼女はきれいな衣裳を知っていた、そうしてそれを着て、得意になって威張って歩いたものだ、今時そんな衣裳は明らかに似合わない、しかしできるだけ質素なものを見立てたらそれで、彼女にはずっとよく似合うことになるだろうか?  彼女がもしも、自分のみすぼらしさにあんなにも悩んでいた昨日衣裳や下着を拵えてやろうと言われたのなら、この思いもかけぬ贈り物が自分を喜びでいっぱいにしないなどとは夢にも思わなかったであろう、が当惑と心配とは、ほかのどんな感情よりもずっと強かったのである。  教会の広場にラシェーズ夫人は店を開いていた。異論なくマロクールで一番立派な一番しゃれた店だ。布地、リボン、麻布類、帽子、宝石、香水、そういう物が陳列され、土地のおしゃれな女たちの欲望を目覚ませそそり立て、ちょうど父や夫たちがその儲けた金を居酒屋で使うように、彼女たちの収入はそこで使われた。  この陳列でいよいよペリーヌは怖じ気づいた、そうして、ぼろの女が入って来たって、店の女主人も、勘定台の向こうで働いている女たちも愛嬌をまこうとはしないから、誰に話し掛けたものかと、ちょっと店の真ん中でためらっていた。ついに決心して手に持っていた封筒を差し上げた。 「何ですえ?」ラシェーズ夫人は尋ねた。  少女は封筒を差し出した、その隅には赤字で『マロクール工場、ヴュルフラン・パンダヴォアヌ』と印刷してあった。  女主人の顔はその伝票を皆まで読み終えないうちから、この上なく強く人をひく微笑で輝いた。 「御用は何でございましょう、お嬢様?」と、勘定台を離れて椅子をすすめながら聞いた。  ペリーヌは、服と下着と靴と帽子が欲しいと答えた。 「いずれも極上の品が揃っております、まずお召し物から御覧に入れましょうか? そういたしましょうね。布地をお目にかけましょう、ご覧くださいまし。」  しかし少女の見たかったのは布地ではなかった、すっかり出来上がっていて、すぐに、少なくとも今夕には着られ、翌日はヴュルフラン氏と一緒に出かけられるような、そういう着物であった。 「まあ! ヴュルフラン様とお出かけになるんでございますの、」と女主人は、この変わった注文にひどく好奇心をもって急いでいった。マロクールの全能の支配者が一体この乞食娘とぐるになって何をしようというのかしらと思ったのである。  ペリーヌはしかしこの疑問に答えずに説明を続け、自分は喪にあるから黒い服でなければならないことを述べた。 「お葬式にいらっしゃるんでございましょうね、そのお召し物は?」 「いいえ。」 「あのどういう時にお召しになるのか、お嬢様、おっしゃって頂けましたら、それに適当な型なり布地なりお値段なり見計らって差し上げられますから。」 「型は一番簡単で、布地は丈夫で軽く、お値段は一番お安いのを。」 「さようでございますか、はい、お目にかけましょう、ヴィルジニーや、このお嬢さんを見ておあげ。」  口調も変わったし態度も変わった。ラシェーズ夫人は、さような意向を見せるお客を自分から世話することを軽蔑し、品位を保って勘定台の元の場所へ戻った。たぶん下男の娘か何かで、ヴュルフラン氏に喪服を買ってもらうのだろう、でも、どんな下男かしら?  しかしヴィルジニーは、飾り紐と黒玉のついたカシミアの洋服を勘定台へ持って来たので、女主人は口を挿んで、 「それはとても高いんだよ、あの豆模様の黒い更紗のブルーズとスカートをお見せ、スカートは少し長いかもしれない、ブルーズも少し大きいかもしれないけれど、縫い上げるか縫い襞を取るかすれば、立派に似合うわ。それに、ほかの手のものはないし。」  これはほかの衣裳を見ないですむひとつの理由になった。その上ペリーヌは、丈や胴回りはともかく、そのスカートとブルーズが大変すてきだと思った、また、少し直せばとてもよく似合うと請け合われたのだからそのことを信ずべきであった。  靴下とシュミーズとはずっと楽に選べた、なぜなら値段の安いのが欲しかったからである。しかし少女が、靴下二足とシュミーズ二枚しか要らないというと、ヴィルジニー嬢は女主人と同様に軽蔑の色を見せた、そうしてお情けをもって、靴と黒い麦藁帽子を出して見せ、このつまらない女の子の服装を整えてやるのだった。靴下を二枚っきり! シュミーズをたった二枚! こうした悪口を考えていた。ペリーヌは、長いこと欲しかったハンカチを注文したが、この新しい買い物も三枚に限られたので、女主人の気持ちも売り子の気持ちも変わりはしなかった。 「この子のちょっぴりなこと。」 「ではお届けいたしましょうか?」ラシェーズ夫人が聞いた。 「有難う、私が今夜頂きに上がりますわ。」 「では八時から九時までの間に。」  ペリーヌが着物を届けて貰いたくないのには十分理由があった、どこで今夜泊まるか分からなかったからだ。自分の島、これを考える訳にはゆかなかった。無一物の人なら戸も錠前もなしですむ、しかし財産には用心が入用だ、−−だってあの店の主人は軽蔑したけれど、彼女の今買った品物は彼女にとっては財産であった。だから今夜は宿を取らなければならなかった、そうして彼女はごく自然にロザリーのお祖母さんの家に泊まろうと考え、ラシェーズ婦人の店を出るとフランソアズお婆さんの家へ向かった、そこに自分の望むもの、つまり値段の張らない私室か小部屋があるかどうか見るためであった。  垣根までゆくと、ロザリーが軽やかな足取りで出てくるのを見た。 「お出かけ!」 「あなたは、あなたはお暇なの!」  彼女たちは忙しく幾つかの言葉で自分を説明しあった。  ロザリーは急ぎの用事でピキニへ行くところだったので、思ったようにすぐお祖母さんの家へ引き返して、うまく貸し部屋の話をつけるということができなかった、しかしペリーヌは一日中仕事がないのだから、ピキニへお供することができる訳だ。帰りがけも一緒だ。嬉しい遊びになる。  行きは速かった、そうしてこの嬉しい遊びはひとたび用事がすむと、帰りがけはお喋りをしたり、ぶらぶら歩いたり、野原を駈けたり、日陰で休んだりして、たいそう面白かったので、二人は夕方やっとマロクールに入り、お祖母さんの家の垣根を過ぎて始めてロザリーは時刻に気づいた。 「ゼノビ叔母さんはなんていうでしょう?」 「そうねえ!」 「ほんとに困った、でも私、面白かったわ。あなたは?」 「だって一日話し相手のあるあなたが面白かったのなら、ひとりぼっちの私にとってこの遊びがどんなだったか分かるじゃないの。」 「そりゃまあそうね。」  幸い、ゼノビ叔母さんは下宿人達のお給仕に忙しかったので、フランソアズお婆さんと相談した、その御陰で話は早くまとまり、余りひどい条件にはならずにすんだ、すなわち一日二食で一ヶ月五十フラン、部屋代二フラン、この部屋には、窓が一つと化粧台が一つ、それから小さな鏡の飾りがついている。  八時にペリーヌは、共同部屋でナプキンを膝に置いて一人自分の食卓についた。八時半に着物を取りに行った。それは用意してあった。九時に自分の部屋の扉に鍵をおろした、そうして多少心配もあったが酔うような気持ちにもなり、頭はふらついたが、実際は希望に満ちて、床に就いた。  さあ見て頂こう。  翌朝ヴュルフラン氏が、廊下にある電気標識中の符牒の押し方でベルを鳴らして課長等を招きこれに指図を与えた後、少女を呼び寄せた時、少女は氏の厳しい顔を見たので、どうしようかと思った、だって少女は、部屋へ入る時自分に向けられた氏の眼は眼差しを持たなかったとはいえ、長いこと観察してきて知っているあの顔の表情を見損なう筈はなかったからである。  この顔の示したのは確かに親切ではない、むしろ不満と怒りだ。  一体どんな悪いことをしたからといって叱られるのだろう?  そう自分に尋ねてみた時、答えは一つしか見つからなかった、きっとラシェーズ夫人の店での買い物が過ぎたのだ。その買い物で氏は私の性質を判断したのだ。でもあんなに一所懸命につつましく控え目にやったのに。それなら何を買えばいいのだ、むしろ何も買わずにいた方がよかったのかしら?  しかし少女は考える暇がなかった、厳しく言葉をかけられたのである。 「なぜお前は本当のことを言わなかった?」 「何のことで私は本当のことを申し上げなかったでしょうか?」とおびえて尋ねた。 「ここへ来てからのお前の行動のことじゃ。」 「でも確かに私、誓って本当のことを申し上げました。」 「お前はフランソアズの宿に泊まっているといった。そこを出てどこへ行ったのだ? 前以って言うが、フランソアズの娘ゼノビが昨日、誰かお前のことを知りたい人があってその人に訊かれて話をしたところによると、お前はお婆さんの家では一晩しか過ごさずに、どこかへいってしまい、その後お前がどうしたか誰も知らないそうじゃ。」  この訊問を始め心配して聞いた、がそれの進むにつれて、気はしっかりしていった。 「私がフランソアズお婆さんの部屋を出てから何をしたかを、知っている人がございます。」 「誰じゃ?」 「お婆さんの孫娘ロザリーさんです。もしあなたが、その日以来私のしてまいりました事柄を知る値打ちのある事柄だとお考えになりますなら、これからお話し申し上げます、そうしてロザリーさんはその話を証明して下さるでしょう。」 「わしはお前をそばに置くのだからして、お前のことを知っておく必要がある。」 「それでは申し上げます。どうぞお聞きになりましたら、ロザリーさんをお呼びになりまして私のいないところでお尋ねになって下さいまし、そうすれば私が嘘をつかなかったことがお分かりになりましょう。」 「いや実際にそうしてみるかも知れぬ、」と氏は穏やかに言った。「では話してみい。」  少女は、あの共同部屋の夜のいやだったこと、不愉快だったこと、窮屈で吐きそうで、息苦しかったことに力を込めながら話をした。 「ほかの連中のやっていることをお前は我慢できなかったのか?」 「ほかの人たちはたぶん私のように戸外で暮らしたことはないのでしょう、なぜなら断言いたしますが、私は別にどんなことにも不平を申しませんし何事も辛抱しなければならないということを貧乏から教えられております。私は死にそうでした。死を逃れようと計ることが、卑怯なことだとは思いません。」 「フランソアズの共同部屋はそんなに不健康なところかの?」 「ええ! もしあなたが御覧になりましたら、とても女工たちをあそこにお住まわせにはならないでしょう。」 「うむ、話を続けてみよ。」  少女の話は、島を見つけたこと、隠れ小屋に引っ越したいと思ったことに移った。 「怖くはなかったか?」 「慣れておりますので怖いことはございません。」 「その池は、サン・ピポア街道の一番しまいにあって左手だと言うのだな?」 「そうでございます。」 「それはわしの小屋で、甥どもの使っているものじゃ。するとお前はそこで泊まったのじゃな。」 「泊まりも致しましたし、また働きも食べも致しました、ロザリーさんに御飯を差し上げさえも致しました、ロザリーさんがお話になることでしょう。私が小屋を出ましたのは、組立職工のそばについて用をするように仰せを受け、サン・ピポア村へ参りました時始めてでした。今夜も小屋には泊まりません、もう私一人だけの部屋代を払うことが出来ますので、フランソアズお婆さんのところに泊まりますから。」 「お前は、友達に御飯を出せるほどにお金持ちなのだね。」 「まあ申し上げてみれば、そうなのでございます。」 「何でも言わなければいけない。」 「娘の話などにあなたのお時間を費やして構わないでございましょうか?」 「時間は、わしがそれを思うように使えなくなってからというもの、そんなに短いものではなくなった。長い、とても長い・・・そうして空虚だ。」  ヴュルフラン氏の顔を、一つの暗い影の通り過ぎるのが見えた、それは、多くの人々のうらやんでいる、実に幸福なものに人々の思っている生活にも数々の悲哀のあることを示していた。そうして氏が「空虚だ」といったその調子に、少女の胸はぐっと詰まった。彼女だって父母を亡くしてからはひとりぼっちになり、長い空虚な日々というものがどんなものか覚えがあった、そうした長い空虚な日々を満たすものとては、ただ現在の心配と疲労と貧乏であるにほかならず、誰もこれらのものを自分と共に苦しんでくれず、誰も自分を助けてくれず、陽気にもしてくれないことを知っていた。ヴュルフラン氏の方は労苦も、貧困も、惨めさも知らなかった。しかしそうしたものだけがこの世の苦痛ではない。これとは別の苦しみ、別の悩みもあるのだ! ヴュルフラン氏の言葉、その口調、またそのうなだれた頭、その唇、そのくぼんだ両頬、恐らくは辛い思い出のためにぼんやりした容貌は、ほかでもないその苦悩を現していた。  気の紛れるようにして差し上げようか? それは氏をよく知らない彼女にとって大胆なことに違いない。しかし氏が自分から、彼女に話をさせ、暗い顔を明るくさせ、頬笑ませるように頼んでいるのだからには、何の気遣いがあろう? 自分は氏を観察することができる、だから自分が氏を楽しませるかそれとも退屈させるかはよく分かる筈だ。  少女はすぐ、歌うようにはずんだ快活な声で語り始めた、 「私たちの御馳走よりももっと面白いことは、私が煮炊きを致しますお台所道具をどうして手に入れたかということや、お金を少しも使わないで−−とてもお金を出すことは私にはできませんから−−どんなふうにして献立の品物を取りそろえたかということでございます。そのことを申し上げますわ、まず、始めからお話いたしましょう、そうすれば私が隠れ小屋に引っ越してからどんなふうにしてそこで暮らしたかがお分かりになるでしょうから。」  話の間少女は、いつでも話を切り上げる用意をしながら、退屈な印が現れるかどうかと目をヴュルフラン氏からそらさなかった、現れたら決して見逃すまい。  しかし見えたのは退屈さではなくて、好奇心と興味だった。 「そんなことをしたのか?」氏は幾度も口を挿んだ。  そうして、少女が退屈させないようにとかいつまんで話した事柄を、もっとはっきり聞こうとして、質問し、色々のことを問いかけるのであった、それによってみると氏は、少女の仕事だけでなく、特に少女が自分の持たないものの代用品を作るために用いた方法を、正確に知りたいのであった。 「そんなことをしたのか!」  話がすむと少女の髪の毛に手を置いて、 「ううむ、お前は立派な娘じゃ、お前は役に立ちそうでわしも嬉しい。今はお前の事務室にいって好きなことをしていよ。三時にわしらは出かけよう。」 28  彼女の事務室というよりベンディット氏の事務室は、大きさからいっても備え付けの家具からいっても一向ヴュルフラン氏の部屋には似ていなかった。ヴュルフラン氏の部屋は、二つの窓、幾つかの机、厚紙ばさみ、緑色の革の大きな肱掛け椅子、壁には、様々の工場の設計図が金箔塗りの木製の額縁に入れてかかげてあり、大変どっしりとよくできた部屋で、そこで決められる事柄の重要さをしのばせた。  ところがベンディット氏の事務室というのはごく小さく、備え付けてあるものはただひとつの机、二つの椅子、黒ずんだ木の書棚、及び様々の色の旗が主要航路を示している世界地図。しかし十分蝋をひいた松のはめ木の床、中央には、赤い模様の回転窓掛けを張った窓があって、この部屋はペリーヌには、それだけで陽気に見えたが、その上、扉を開け放しておくと近所の部屋でやっていることが見えもし時には聞こえもするので、一層陽気に見えた。近くの部屋と言うのは、ヴュルフラン氏の部屋の右と左、甥のエドモン氏*とカジミール氏との部屋、それから会計室、帳場、最後に向かいのファブリ氏の部屋だ、そこでは雇員らが傾斜した高い机に向かい、立って図面を引いていた。  ペリーヌは、何をすることもなく、またベンディット氏の席に坐る勇気もなく、その扉の横に腰をかけた、そうしてこの部屋の唯一の蔵書である幾冊かの辞書を読んだ。本当のことをいうと彼女は他のものが欲しかったのだが、辞書で満足しなければならなかった、これは時間の経つのを遅く思わせた。  ついに鐘がお昼を知らせた。少女は一番早く外へ出た人々の一人だった。しかし途中で、自分と同様にフランソアズお婆さんの家へ戻るファブリとモンブルー氏が追いついてきた。 「あなたも我々の同僚になりましたなあ、」とモンブルー氏が言った。この男は、サン・ピポアでの屈辱を忘れてはいなかった、そうして面目を失わせられたその仕返しをしようと思っていた。  少女はその言葉を皮肉に感じてちょっと慌てた、がすぐに落ち着いて、 「とてもあなた方の同僚には、」と穏やかに言った。「ギヨームさんの同僚でございますわ。」  この返事の調子は、きっと技師の気に入ったのだろう、技師はペリーヌの方に向いて微笑を見せた、それは同時に激励であり承認であった。 「しかしあなたがベンディット君の代わりをしているのだからには、」とモンブルーが言った、この男はしつこいことにかけては、生半可のピカルディ人ではなかった。 「お嬢さんがベンディット君の地位を預かっているのだからにはと言いたまえ、」とファブリが注意した。 「同じことじゃあないか。」 「大違いだ、なぜというに、もう十日も半月もするうちにベンディット君が回復したらベンディット君はその地位に戻ることになるだろうが、もしその時お嬢さんがその地位を取っておいてくれなかったとしたら、戻れないかもしれないからな。」 「君は君、僕は僕として、二人とも、その地位をあの男のためにとって置いてやることに力を尽したように思うね。」 「お嬢さんはお嬢さんとしてまたそうなんだ。つまり英国人というものがこれまで自分自身のため以外に一遍でもお礼のお燈明を上げたとするなら、ベンディット君は我々三人のためにそれをあげる義務があるという訳さ。」  ペリーヌがモンブルーの言葉の本当の意味を履き違えていたとしたら、フランソアズお婆さんの宿での取り扱われ方で、それに気づいた、なぜなら彼女の食器は、もしも同僚であるならば下宿人達の食卓の上に置いてあるはずなのに、そうではなくて、その食堂にありはしたが隅っこの方に片付けられているような小さな食卓の上に置いてあり、彼女はそこで、料理のお皿も一番後にしか持ってこられずに、みんなの後回しになってお給仕されたからである。  しかしそんなことは少しも気に障らなかった。お給仕が最初だろうと最後だろうと、また途中でおいしい部分が人に取られてしまおうと、何程のことがあろう? 少女の面白かったことは、彼らの近くに坐ってその会話を聞き、彼らの語る事柄によって、自分のこれから冒して進もうとしている様々の面倒の中に自分の行動の道をつけようと努めることだった。彼らは工場の習慣を知っていた。彼らはヴュルフラン氏も、その甥も、彼女の恐れているタルエルをも知っていた。彼らの一言が、少女の知らないことをはっきりさせ、少女の気付きさえもしていなかった危険を教えてくれそれを避けさせてくれるかも知れない。彼らを探るのではない。そっと立ち聞きするのでもない。彼らは、自分たちだけで話をしていると思っていはいないのだ、従って何の懸念もなく彼らの意見を利用することができた。  残念ながらその昼、彼らは何も興味あることを話さなかった。彼らの会話は、昼食中ずっと、政治とか狩猟とか鉄道事故とかいうとるに足らぬ話題を巡ったので、少女は、聞き耳を立てていないように見せるために無関心な風をするという必要がなかった。  おまけにその昼はどうも忙しかった、だって自分が一度しかフランソアズお婆さんの宿に泊まらなかったことを、どういう風にしてヴュルフラン氏が知ったのか、ロザリーに問いただして、どうしても知りたかったからである。 「あの痩せっぽちが、私たちのピキニへいった留守中に来て、私たちのことをゼノビ叔母さんに聞いたの。ゼノビ叔母さんに話をさせるのは難しいことではないのよ、殊に、黙っていたってお礼は貰えないと叔母さんが見込みをつけている時は。そこで叔母さんが喋ったの、あなたがここに一晩しか寝なかったことや、その他いろんなことを。 「どんないろんなこと?」 「私はそこにいなかったから知らないけれど、でも一番悪いことと思っていていいわ。幸いあなたのためには、悪くならなかったけれど。」 「それどころかよくなったわ、なぜって私、私の話でヴュルフラン様を喜ばせたのよ。」 「ゼノビ叔母さんにその事を話すわ、さぞ、ふくれることでしょう!」 「でも私におばさんをけしかけるようなことのないようにして頂戴。」 「叔母さんをけしかけるなんて! もう危険なことなんかないのよ。ヴュルフラン様のあなたに下すった地位を叔母さんが知ったら、上辺だけのいいお友達なんぞはいなくなりますわ。明日分かることですわ、ただ、もしあの痩せっぽちに自分のことを知られたくないなら、あなたは自分のことを叔母さんにおっしゃってはいけません。」 「大丈夫よ。」 「叔母さんは意地悪だから。」 「心得ていますわ。」  ヴュルフラン氏は予告通り三時にペリーヌをベルで呼び、二人は馬車で、いつもの工場巡回に出かけた。氏は一日とても欠かすことなく方々の建物を何から何まで見るためにとは言わなくても少なくとも自分を見せるために、見てまわり、監督たちの意見を聞いた後これに命令を与えるのであった。そうしてそこで、見えない目を補うあらゆる方法によって、まるで盲目ではない人のように、多くの事柄を一人で会得するのであった。  その日彼らはまずフレクセールから廻り始めた。ここは亜麻と苧をさばく作業場のある大きな村である。工場に着くと氏は、監督室へは向かわないで、ペリーヌの肩によりかかって、大きな倉庫の中へ入った。そこでは苧の小梱(こごり)を、運んできた貨車から降ろしては倉庫に納めていた。  これは氏の行く到るところにおいての規則だったが、働いている人々は誰も氏を迎えるために仕事をやめたりしてはいけなかったし、返事以外には、氏に言葉をかけてもいけなかった。従って仕事は氏のいない時と同じように運ばれていった、もっとも普通の時よりは少し急いだ。 「わしのこれからいうことをよく聞け、わしは初めてお前の眼を借りて、ここに降ろしているこの小梱(こごり)のうちのあるものを見てみようというのじゃから。お前は銀色というものがどういうものか知っているかな?」  少女はためらった。 「薄鼠色といった方がよいかも知れぬが?」 「薄鼠色は知っております。」 「よし。では緑色のいろんな色合い−−濃い緑や、うす緑をまた茶色がかった灰色や、赤色を見分けることができるか?」 「はい、少なくとも大体はできます。」 「大体で結構じゃ。ではどれでもよい、始めにやってきた苧を一掴みとって、よく見てみい、どんな色合いをしているかわしに言えるように。」  少女は言われた通りにした、そうして苧を十分調べてから、おずおずとこう言った。 「赤。赤でございましょうか?」 「どれ、よこしてみい。」  氏はそれを鼻へ持っていって、かいだ。 「間違いない。この苧は実際に、赤いはずじゃ。」  少女は氏を驚いて見つめた。氏はその驚きを前以って知っていたようにいい続けて、 「この苧を嗅いでみい、キャラメルの匂いがするだろう?」 「そうです。」 「こういう匂いがするというのは、つまり炉で焼いてそこで乾燥したということじゃ、それはまた色が赤いということにもなる。従って匂いと色とで互いに比べ合い確かめ合って、わしはお前の見方の正しかったことを知り、お前を信頼できると思ったのじゃ。さあ別の貨車へいって、一掴み取ってみい。」  今度は緑色をしていると思った。 「緑にも色々ある。お前のいう緑というのはどんな植物の色に似ている?」 「キャベツに似ているようで。その上、ところどころに茶と黒のしみがございます。」 「どれ、よこしてみい。」  氏はそれを鼻へ持ってゆかないで、両手で引っ張った、するとその茎はちぎれた。 「この苧はあまり青い時に刈り取ったのじゃ、その上梱り(こり)の中で湿っておる。今度もお前の吟味は正しかった。わしは満足しておる。結構な手始めじゃ。」  彼らは引き続き別の村々、バクールとエルシュを訪れ、最後にサン・ピポアへ来た。ここでは、英人職工の仕事を検査するために一番長くひまどった。  例のように馬車は、ひとたびヴュルフラン氏をおろすと、大きな丸葉柳の蔭に引いていかれた。ギヨームは、そこにいて馬を見張る代わりに、馬を腰掛けにつないだまま、主人よりは先に戻るつもりで、村へぶらぶら歩いていった。俺の飛び出したことなんか主人には知れはしまい。ところが急いで散歩をすませて帰るはずのを、仲間と一緒に居酒屋に入って、時間を忘れさせられてしまったので、ヴュルフラン氏が馬車へ乗ろうとして戻ってみると、誰もいなかった。 「ギヨームを捜させよ、」と氏は、ついてきた監督にいった。  ギヨームの捜索は手間取った。一分も自分の時間を無駄に過ごさせない氏は、大変腹を立てた。  ついにペリーヌは、ギヨームが全く奇妙な足取りで駈けてくるのを見た。顔を高く上げて、頸と状態はしゃちこ張り、脚は曲がっている。一歩毎に邪魔者でも飛び越えるつもりか脚を前へ投げ出すようにしながら持ち上げていた。 「奇妙な走り方じゃな、」とヴュルフラン氏はその不揃いな足取りを聞いていった、「奴め酔っているな、そうだろう、ブノア君。」 「あなたには何もお隠しできません。」 「私は仕合わせにも聾ではない。」  次に、立ち止まったギヨームに向かって、 「どこから来た?」 「御主人様・・・申し・・・あげますが・・・」  といいながらギヨームは馬をはずした、そうして手綱を馬車の中へほうりこむ際、鞭を落とした。彼はそれを拾おうとして身を屈めた、しかし、掴めないで三度その上を踏み越えた。 「私があなたをマロクールへお送り申し上げました方がよさそうに思います、」と監督がいった。 「それはまたどういう訳で?」とこれを聞いたギヨームが偉そうに口答えした。 「黙れ、」と氏が、その口答えは許さぬという口調で命じた。「今後はもう、お前に用はない。」 「御主人様・・・あの申し・・・あげます・・・」  しかしヴュルフラン氏は、それを聞かず、監督に向かい、 「結構だよブノア君、この娘がこの酔っぱらいの代わりをしてくれるから。」 「馭者ができるのですか?」 「これの両親が旅商人だったので、よく馬車を駆ったことはあるのじゃ、そうだなお前?」 「はい。」 「その上、ココは羊みたような奴でのう。溝へでも放り込まない限り、一人では動かぬ奴じゃで。」  氏は馬車に乗った。ペリーヌは自分の負う責任をはっきり意識して、注意深く、落ち着いて、その横に座を占めた。  彼女が鞭の先で軽くココに触れた時、ヴュルフラン氏は言った、 「あんまり急がせないでやれ。」 「急がすつもりは本当に少しもございません。」 「それでまず安心じゃ。」  マロクールの町々を、ヴュルフラン氏の無蓋の四輪馬車が、黒い麦藁帽子を被った喪服の一人の娘によって駆られて行き、年老いたココは上手に操られていて、その足並みもギヨームのために仕方なく取らされていたあの乱れた足並みでないのを見た時、人々はどんなに驚いたことだろう! いったい何ごとが起こったのかしら? あの娘は何だろう? 皆戸口に立ってこの質問をし合った。娘を知っている村の人々は少なかったし、ヴュルフラン氏が自分のそばのどんな地位に娘をつけたかを知っている者は、なおさら少なかったからである。フランソアズお婆さんの家の前で、ゼノビ叔母さんが垣にもたれて二人のおばさんと喋っていた。ペリーヌを見ると、びっくり仰天して両腕を高くあげた。がまもなく実に愛想のいい挨拶の言葉をかけて微笑んだ、それは、ゼノビ叔母さんの最良の微笑であり、真の友達の微笑であった。 「こんにちは、ヴュルフラン様、こんにちは、オーレリーさん。」  馬車が垣根を通り過ぎるとすぐゼノビ叔母さんは、その隣の叔母さんたちに、自分かどんなにして、自分の家の下宿人であるあの若い娘を、ヴュルフラン氏のそばのよい地位につけてやったかを、あの痩せっぽちに与えたいろんな情報によって話して聞かせた。 「あれはいい娘さんですわ。私の世話になっていることをあの人は忘れはしますまい、だってあの人は私たちみなの世話になっているのですから。」  一体どんな情報をこの女は伝えたのか?  ここでゼノビ叔母さんは、ロザリーの語った事柄を土台として長々と作り話を聞かせたのであった、その話は、各人の性格とか好みとか、または偶然とかそういう物による尾鰭をつけられながらマロクール中に広がって、ペリーヌから一つの伝説−−更に適切に言えば百の伝説を拵えあげた、そうしてたちまちこの伝説は、その不意の幸運のわけが誰にも分からないのでそれだけいよいよひとを熱中させる会話の種となった。これは、新たに作り話を伴うあらゆる種類の想像や解釈に、その余地を与えていた。  ヴュルフラン氏がペリーヌを馭者にして通るのを見て村人も驚いたが、それがやってくるのを見て、タルエルは全くたまげてしまった。 「ギヨームは一体どこにおりますので?」と工場主を迎えるためにベランダの段々の下に駈けつけながら声をあげた。 「飲み癖が悪いのでお払い箱にしたのじゃ、」とヴュルフラン氏は頬笑んで答えた。 「察しますに、さような決心をなさるお積もりは大分以前から持っておられたのでございましょうな、」とタルエルは言った。 「いかにもそうじゃ。」  『察しますに』というこの言葉は、工場においてタルエルの運勢を開き、タルエルの権力を立てたところの言葉であった。自分はヴュルフラン氏の忠実で従順な片腕に過ぎなく、ただもう主人の命令や考えのみを行う者に過ぎないということを、ヴュルフラン氏に納得させたこと、これが実際タルエルの腕前であった。  タルエルはよくこう言ったものだ、もし自分に特別の能力があるとするなら、それは主人の望むところを見抜き、主人の心を惹かれている事柄をよく呑み込んで、その胸中を読むことだと。  だから彼は口を利けば大抵いつも、例の言葉で始めるのであった、 「察しますに、あなたの望みは・・・」  そうして、彼の絶えず目を光らせている野生的な敏感さは、情報をつかむためならどんな手段をも遠慮しないスパイ的行動に助けられていたから、ヴュルフラン氏は、殆どいつも自分の唇に浮かぶ『いかにもそうじゃ』という返事をしさえすればよかった。その外の返事をしなければならないような時は珍しかった。 「それに、察しますに、」とこの男はヴュルフラン氏が馬車から降りるのを助けながら言った、「あの酔っぱらいの代わりになすったこの娘は、信頼なさるに足る娘に見えたのでございましょうな?」 「いかにもそうじゃ。」 「格別意外なことではございません。ロザリーさんにつれられてここへ入った日から、これは役に立ちそうだ、あなたのお眼に留まるだろう、と私も思っておりました。」  そう言いながら彼はペリーヌを見た。その一瞥は力強くこう言っていた、 『このとおり、お前のために尽してやるぞ、忘れるな、恩返しをするよう心掛けているんだぞ。』  この取り引きの支払いは、程なく請求された。タルエルは、工場の退ける少し前ペリーヌの事務机の前で立ち止まって、はいらず、他人には聞こえないように低い声で聞いたのである。 「一体サン・ピポアでギヨームがどうしたんだ?」  この質問は、重大な事柄の漏洩を引き起こすものではないから、少女はこれに応じて、要求された話をしてもよかろうと考えた。 「よし、」と彼は言った、「お前は心配せんでよい。ギヨームが戻りたいと言ってきたらわしが話を聞こう。」 29 「サン・ピポア村でギヨームがどうしたんだ?」夕方御飯の時、ペリーヌはファブリとモンブルーからもまたそう尋ねられた、なぜなら家の者で、彼女がヴュルフラン氏を連れ戻ったことを知らないものはいなかったからである、そこで彼女は、一遍タルエルに対してした話をまた繰り返した。するとみんなは酔っ払ってそうなったのは当たり前だと公言した。 「あいつが御主人を十遍もひっくり返さずにすんだのは奇蹟だぜ、」とファブリが言った。「気違いみたいに操るんだからなあ・・・。」 「気違い酒を飲んだみたいにと言ってやった方がよかろう、」とモンブルーが笑った。 「とうの昔に暇を出されていていい男さ。」 「後押しがなかったら、実際とっくに暇を出されていたんだが・・・」  少女は全身を耳にした、が聞き耳を立てる様子が見えないように努力した。 「その後押しにはそれだけのお返しをしていたんだぜ。」 「そうより外にはできないじゃあないか?」 「できたかもしれぬ、もしも懐を暖めて貰わずにいたらな。人間というものはまっすぐに歩いていれば、どこからどんな圧迫が来てもしっかり、それに抵抗するものだ。」 「あいつにとっては、まっすぐに歩くのが骨が折れたんだ。」 「案外あいつは、あの男から『やがてお前はお払い箱になるぞ』と注意をされるどころか、むしろそういう悪習慣の方へ差し向けられていたのじゃあないかな?」 「あいつが戻ってこないのを見てあの男がさぞ変な顔をしたろうと思う。僕はその場にいたかったよ。」 「あの男は、あいつに劣らずうまく探って告げ口してくれる男を、見つけに掛かるだろう。」 「ともかく、スパイに探られているお方がその事を見抜かず、あの男の自慢にしている立派な意見の一致や異常な直感なんていうものが実はただもう巧みな瀬踏みの結果に過ぎないということを知らないのだから、驚くわい。仮に誰かが僕に、今朝君は人参を添えた仔牛の胆がうまいという意見を述べたと告げ口をしてくれたとしたまえ、そうすれば僕が今晩君に、察しますに君は人参を添えた仔牛が好きですなあ、といったとしても、大した手柄ではなかろうじゃあないか?」  彼らは、嘲るように顔を見合わせながら笑いだした。  もしペリーヌが、彼らの口に出さない人名を察知する鍵を必要としたとするならば、この『察しますに』という言葉がその鍵となってくれたことであろう、しかし彼女は、スパイを行う『あの男』というのがタルエルであり、そのスパイ行為を受けている人がヴュルフラン氏であることを、すぐに呑み込んだ。 「で結局この話はどんな面白いことになるのかね?」 「だって君、面白いじゃあないか! 人間というものには欲張りもおり、そうでないのもいる。また野心家もおり、そうでないのもいる。ところであの男ときたら欲張りでその上これに輪をかけた野心家だ。裸一貫からつまり職工から身を起こして、あの男は、フランス工業界の首位を占め年に千二百万円以上の利益を上げている工場で二番目の地位に上った。そうしてその二番目の地位から工場主になってやろうという野心を抱いた。そういうことはこれまでになかったことではないし、一介の雇員が堂々たる工場の創設者に取って代わったことは、皆の知っているところだ。あの男はいろんな事情や、一家の不幸や、病気などのために、いつかは工場主が経営を続けてゆけなくなるだろうと見て、自分を無くてはならない人間にし、自分だけが大任を背負う力量を持っているように思わせようとして立ち回った。ところでそれに成功する一番いい方法は、自分の取って代わろうと思う人を征服して、その人に朝な夕な、自分こそ、並みならぬ事柄に対して能力も理解力も技量も持っているということを見せる、ということではなかろうか? そこでそれ、いつも完全にうまを合わせるために、また一歩先へ進んでいるようにさえ見せかけるために、主人の言ったこと、した事、考えたことを、前以って知る必要ができるんだ。だから『察しますにあなたは人参を添えた仔牛を召し上がるのはお好きのようですな』といえば、どうでもこうでも返事はこうなる、『いかにもそうじゃ』。」  彼らはまた笑いだした。そうしてゼノビ叔母さんが食後のお菓子のためお皿を取り替えている間は、用心深く黙っていた、しかし叔母さんが出てゆくと再び談話を始めるのであった、片隅で黙って食べている小娘なんぞは、自分たちのわざとぼんやりさせて話しているこの内幕を見透かすことなんかできるものではないという風に。 「いなくなったあの人が現れてこないものかな?」とモンブルーが言った。 「それは皆の願っていることに違いない。しかし現れてこないとなるとそれは、そこに、たぶん亡くなったのだろうといったようなもっともな理由があるからなんだ。」 「同じことだぜ、あの人のそうした野心だって、−−自分がどういう身分か、また自分が自分の物にしたいと思っている工場がどんなものかを承知しているとしたら、−−それはやっぱり強い訳だ。」 「もしそういう野心を持っているあの人が、自分と自分の狙っている目的との間の距離を正しく了解していたら、十中八、九までは旅に出ないだろう。いずれにせよ僕等の話しているこの男を見損なってはいけない、この男は君の思うよりは遥かに手強い男なんだ、その出発点と到達点を比べてみれば分かるように。 「その男が、その男の取って代わろうと思っている人を行方不明にさせた訳ではないんだろうな。」 「どうだか。その行方不明を引き起こすのに、もしくはそれを長引かせるのに、その男が力を添えていないと誰が言えよう?」 「君はそう思っているのかい?」 「僕等は誰もその場にいたのではないから、従ってどんな風なことだったのかは知ることはできない、しかしその人物の性格が分かっているからには、ああした重大な出来事が起こったのはきっとあの男が立ち廻って事を悪化させて自分の利益の方へ差し向けたものに相違ないとする方が、真相に近いようだ。」 「僕はそんなことを考えてもみなかった、はて、さて!」 「考えたまえ、そうしてその役割を理解したまえ、僕は何もあの男が立ち回ったというのではない、ただその行方不明のお蔭で自分の勢力が増すとみて立ち回ったかも知れないと言うのだ。」 「その行方不明になった人のあとを自分とは別の人たちが継ぐかも知れぬということをその時あの男が見抜けなかったのは確かだ、しかしもうその地位が塞がってしまった今となってはあの男はまだどんな希望を繋いでいるんだ?」 「塞がっているにしても見掛けほどにしっかりしていないというそれくらいの希望に過ぎないかも知れぬがそういう希望を、あの男は繋いでいる。実際、それ程地位はしっかりしているだろうか?」 「すると君は・・・」 「僕はここに来た時はしっかりしていると思っていた、しかしその後、君自身も気づいたことと思うあのいろんな小事件を通して僕の見たところによると、あの男は監視するというよりはむしろ先を見抜いて、詰まらぬことについてもそうなのだからあらゆる事についてこっそり立ち回っている、そうしてあの地位にいる人たちを居たたまれなくさせてやろうと言うのが確かにその目的なんだ。首尾よく行くだろうか? あの人たちの生活をたまらなく煩わしいものにしてやむなく隠退するようにしむけ得るだろうか? それとも、あの人たちをお払い箱にする手段を見つけるだろうか? それは知らない。」 「お払い箱に! まさか君がそんなことを。」 「むろんあの人たちがひどく攻撃されるようなことにでもならなければ、それは出来まい。しかしあの人たちがもし、地位に頼って身を慎まないようなことがあったら? もし必ずしも受け身の立場にばかりは立たなかったとしたら? もしも過ちを犯したら? 過ちを犯さないなんて人はないからね? 殊にあの男にはなんでも行う権力があり、将来を確実と信ずる理由もあるという事になると、面白い改革が見られないとは言えない。」 「面白いことなんかないよ僕には、改革なんて。」 「僕だって、そうなったら君よりも得をするだろうなどと思ってはいない。しかし流れに逆らって僕らに何が出来よう? どちらかの側についたら? そんなことはとてもできる相談じゃあない。実のところ僕は遺産を狙われている人に同情している、ところでその人は、遺産を狙っている男の当てにしている病気の為に、−−ある人々の思っているところによると、−−やがて亡くなるに違いないというんだから、いよいよ具合がいいや。その人がきっと死ぬかどうかは僕にはとんと分からないんだ。」 「僕にも分からない。」 「僕は見物人の立場にとどまるつもりなんだ、さて、そうして見ていると、芝居の役者の一人が、僕の目の前で気違いじみた到底無理なような戦いを企てるそういう役を演じてござるというわけさ、その男が味方にしているのはただもう自分の大胆さ、おしの強さ・・・」 「下劣さ。」 「そうだ、君がそう言いたかったら僕もそう言いたい。面白いよ、もっとも僕は、この戦いで殴り合いのとばっちりが僕にかかるかも知れぬということは心得ているが。そういう訳で僕はあの人物を観察しているんだ、あの人物は悲劇的な点を持っているがまた、出来のいい芝居に相応しく、滑稽な点も持っている。」 「僕にはあの男が滑稽だとは一向思えぬが。」 「どうして? 二十歳時分には殆ど自分の名前を読むことも書くこともできなかったのが、勇敢に勉強をして申し分なく書き綴れるようになり、学校の先生みたようにみんなを咎めだてできるようになった男だぜ、喜劇役者と思わないかい?」 「むろん、僕はそれを著しいことだと思う。」 「僕もそれを著しいことだと思う、が滑稽なのは、教養がその初等教育に伴わなかったということなんだ、奴さんが自分を世間で申し分のない人間のように思っていることなんだ、だから字もきれいに書くし綴りもやかましいけれど、あの男が特別の言葉遣いをして、いんげん豆を『えんげん豆』と言ったり、南瓜を『ぼうぶら』と言ったりするのを聞くと僕は吹き出さずにはおられない。僕らはスープに満足する、があの男は『ソップ』とか飲まない。僕がもし君が散歩したかどうか知ろうとするなら僕はこう尋ねる、『君、散歩に行ったかい?」、あの男はこう言う、『君、散策に行ったかね? 君、いかように感じたか? 僕らは旅をばなした』。あの男が、こういうごりっぱな言葉遣いをしながら、世間の誰よりも偉いんだと思っているのを見ると、果たしてあの男の欲しがっている工場の主人になれるかしらと僕は思う、なれるとすれば大きな組合の組長か理事ぐらいのところだ。きっとフランス翰林院(アカデミー)の一員になりたいなんて気を起こし、何でそこへ迎えて貰えないのか訳が分からないという手合いさ。」  その時ロザリーが部屋へ入ってきて村を一歩きして来ないかとペリーヌに尋ねた。拒むことはなかった。もうとっくに食事はすんでいたし、いつまでも席にいれば疑われるかも知れなかった。もしこれからも自由に自分の前で話をして貰いたいとするなら、疑われないようにする必要があった。  夕方は気持ちが良かったし、人々は往来に腰をおろして戸口から戸口へお喋りをしていたので、ロザリーはぶらぶら歩きまわりたくなり、一歩きを散歩に変えたいと思った、しかしペリーヌはこの気まぐれを承諾せず、疲れたからといって戻った。  実のところ少女は、眠りたいよりは考えたかったのである。扉を閉めて、小さな自分の部屋の静かな中で、自分の境遇、自分のこれから取らなければならない行動を理解したかったのである。  既に少女は、あの同室の仲間たちがタルエルの噂をしたのを聞いた夜に、この男を恐ろしい男だと想像していた。その後タルエルが彼女に向かい、『ファブリの愚行に関して本当のことを残らずいえ」といい、自分は頭が、頭として何事をも知る必要があるのだと言い足した時、この恐るべき男がどんなふうにその権力を張るか、どんな手段を用いるかを見たのであった。しかしそういう事はすべて、彼女のさっき話を聞いて知った事柄と比べれば、物の数でもなかった。  タルエルがヴュルフラン氏と並んでむしろ氏を凌いで暴君の権力を持とうとしていることは少女は知っていた。が、彼がマロクールの全権力を備えた工場主にやがて取って代わろうと思いこれを目的に久しい以前から画策しているということは、思ってもみなかった。  しかしながらその事は、誰よりもよく、起こる事柄を知り、人物や事物を判断し、それらを語ることのできる技師とモンブルーの会話から、知れたのだ。  かくてこの人たちが別の言葉では指し示さなかった『あの男』は、失ったスパイの代わりを立てようとするに違いない。ところでその代わりとは、ギヨームの地位に就いた彼女自身だ。  どんなふうにして身を防いでゆこうか?  自分の立場は恐ろしいものではないか? 自分は援助もなく経験もない子供に過ぎない。  彼女は、右の問題を考えてきてはいた、が今の情勢はこれまでの情勢と同じではない。  苦悩に攻めたてられ、寝ていることができなくなったので、寝床の上に坐り、自分の聞いた事柄を一語一語繰り返した、 『あの男が、行方不明を引き起こさせ、またそれを長引かせるのに力を添えなかったと誰が言えよう。』 『この行方不明の人に代わるべき人たちの就いた地位、その地位は皆の考えているほどしっかり占められているだろうか? その人たちを無理に隠退させるか解雇するかして、その地位を捨てさせてしまおうと、秘密行動が行われていはしまいか?』  あの男が工場主の後継ぎと決まっているらしい人たちをお払い箱にする力があるとするなら、ちっぽけなペリーヌみたような者に対して、どんなできないことがあろう! もしも彼女があの男に逆らおうとしたら、そうしてスパイになれと言うのを拒んだとしたら。  どうしたらよかろう?  こういう問題を熱心に考えながら夜が更けた、しかしとうとう疲れて枕についた時、難題は一つも安心できる解決はついていなかった。 30  朝ヴュルフラン氏が事務室に来てする最初の仕事は、給仕がポストへ取りにいってフランスからのと外国からのと二つの山に分けて卓上においた郵便物を開くことであった。昔ならフランス語の信書は一切自分で開封し、返事をしたり命令をしたりするため、それぞれの手紙に応じた控えを一雇員に書き取らせた物である。しかしめくらになってからは、この仕事に甥たちとタルエルを携わらせ、この人々が手紙を声高く読んで控えをした。外国語の手紙の方はベンディットの病気からこちら、開封後は、英語ならファブリに、ドイツ語ならモンブルーに渡された。  ペリーヌの心をあんなにひどく動かしたあのファブリとモンブルーの会話の合った次の朝、ヴュルフラン氏、テオドール、カジミール及びタルエルは、この郵便の仕事をやっていた、その時外国からの手紙を開いたタルエルは、発信地を告げて、 「ダッカからの手紙一通、五月二十九日。」 「フランス語か?」ヴュルフラン氏が尋ねた。 「いや、英語です。」 「署名は?」 「どうも読みにくい字で。フェルデスか、ファルデス、それともフィルデス、その次の字は私には読めません。四枚ありまして。あなたのお名前が方々に見えます。ファブリ君へ渡しましょうか?」 「いや、わしにくれ。」  テオドールとタルエルとは同時にヴュルフラン氏を見た、が、自分たちがどちらも、お互いの洩らした衝動を現場で取り押さえ、つい同じ好奇心を示したのを見て、何でもないようなふうを装った。 「手紙はあなたの机の上に置きます、」とテオドールが言った。 「いや、わしに渡してくれ。」  やがて仕事はすんだ。雇員が控えを取った信書を持って引き下がった。テオドールとタルエルとは、ヴュルフラン氏にいろんな事柄の指図を乞おうとした、が追い返された、そうして彼らが去るとすぐ、氏はペリーヌをベルで呼んだ。  すぐに彼女はやってきた。 「この手紙は何だろう?」  彼女は差し出された手紙を取って、その上に目を落とした。もし氏の目が見えたら、少女が青ざめ、両手を震わせるのを認めたことであろう。 「これは五月二十九日にダッカから差し出された英語の手紙でございます。」 「署名は?」  少女は手紙を裏返して、 「フィルデス神父。」 「確かかな?」 「はい、フィルデス神父。」 「どんな文面じゃ?」 「御返事申し上げる前に少々読まして頂けませんでしょうか?」 「むろんじゃ、が早くせい。」  少女はこの命令に従おうとした、が感情は静まらないで高ぶり、文句は少女の坐らぬ目の前で踊った。 「どうじゃ?」と待ちきれない声で聞く。 「あの、読みにくいんでございます。それに意味も取りにくいものですから。文句が長くて。」 「訳すんじゃない、ただかいつまむんだ、何の話じゃ?」  返事する前になお暫くが流れた。とうとう彼女は、 「フィルデス神父の説明によりますと、あなたが手紙をお差し出しになったルクレルク神父様は亡くなられました、そうしてあなたへ返事をするようルクレルク神父様に頼まれたフィルデス神父様自身も、留守だったり、あなたの御依頼の情報を集めるのが難しかったりしたために、御返事ができずにいました。この神父様は、あなたに英語でお便りすることをお詫びしております、あなたの美しい国語は不完全にしか知らないので。」 「そんなことを!」とヴュルフラン氏は叫んだ。 「でもまだそこまでは行っていませんので。」  この返事はこの上もなく穏やかな口調でなされたけれど、氏は、少女をまごつかせたとて何の得もないことに気づいた。 「無理もない、お前はフランス語の手紙を読んでいるんじゃあないのだから。わしに説明する前に意味を取る必要がある。それをこれからしなさい。この手紙をベンディットの事務室へ持って行って、そこでできるだけ丁寧に訳して、それを書いてわしに読んでくれるとよい・・・。一刻もぐずぐずしないで。わしは内容を早く知りたいのじゃから。」  少女は行きかけた。氏は呼び止めて、 「よいか、その手紙は誰にも知られてはいけない個人的な事柄なのだ、分かったな、誰にも知られてはならぬ、たとい聞かれても、もし誰か尋ねる者があっても、何も言ってはならぬ、見透かされるようなことがあってさえもいけない。わしはお前を信頼するのだから。お前はそれにふさわしく振る舞ってくれることと思う。忠実にわしのことをしてくれればお前を不満なようにはさせぬから安心せよ。」 「きっと何事も御信頼に背かぬようにいたします。」 「早く行って、早くせい。」  そう注意を受けたけれどいきなり翻訳に取り掛からず、手紙を始めから終わりまで読み、読み返して、それから始めて大型の紙を取って書き出した。 『五月二十九日 ダッカ 拝啓 あなた様が報告をお頼みなされたルクレルク神父様には悲しいことに亡くなられました、甚だ遺憾なことながらお知らせ申し上げます。あなた様にはその報告を重要視していらっしゃるように存じますので、私が代わってお答え申し上げようと決心致しました。国内旅行のために妨げられましたし、種々の面倒のためにも手間取りまして、御返事延引致しました、お詫び申し上げます。十二年以上も経ちましたので多少なりとも正確に情報を纏めてみなければなるまいと思いました次第でございます。唯々あなた様の御厚情にすがり、御返事が心ならずも遅れましたこととこの書面を英語で認め(したため)ますこととを御容赦下さるようお願い申し上げます。英語を用いますわけは、ただ私があなた様のお国の美しい言葉を不十分にしか存じ申し上げないからでございます。』  この文句は彼女がヴュルフラン氏に言った通り本当に長かった、そうしてただもうそれだけで、浄書するのに実際上のいろんな困難を生じたが、彼女はこの文句を書くと、筆を置いてそれを読み返し、訂正した。ありったけの注意力を持ってそれに熱中していると、締めておいた部屋の扉が開いて、テオドール・パンダヴォアヌが入ってきて、英仏辞典を貸してくれと言った。  ちょうどその辞典を前に開いていたので、閉じてテオドールに差し出した。 「君は使わないのかい?」とそばへ来ながら言った。 「いいえ。でも無くってもいいのです。」 「どうして?」 「私は英語の意味のためよりもフランス語の綴りのために必要なのでございます、フランス語の字引で結構間に合うのです。」  少女はテオドールを背後に感じた、そうして振り向く勇気はなかったので男の眼を見ることはできなかったが、自分の肩越しに手紙を読むんだなと感じた。 「ダッカの手紙を訳しているんだね?」  厳秘に附しておくべき手紙が知られたので彼女は驚いた、しかしすぐに考え直して、これはたぶんこの手紙を知りたいので問いかけたのだと思った。辞典は口実だったらしいところからみると、いよいよそう思われる。英語の単語を一つも知らない男に、何で英仏辞典が要ろう? 「ええ、」と少女は答えた。 「翻訳はうまくゆくかい?」  少女は彼が自分の上にみをかがめるのを感じた、彼は近眼だったのだ。そこで少女はすばやく紙をまわして端の方しか見えないようにした。 「おお! お願いですから読まないで。駄目なんです、色々やってみているんです・・・、下書きなんです。」 「いいじゃあないか。」 「いいえ、いけません、恥ずかしいんですもの。」  彼は紙を取ろうとした。彼女は紙の上に手を置いた。始めのうちは遠慮がちに防いでいたが、今はもう、それが工場の一主任に対してであろうと、思いきって腹を立てた。  テオドールはそれまで冗談みたような調子で物を言っていたが、更に続けて、 「さ、その下書きをよこしたまえ、君のような可愛い娘を咎めだてするような人間だと僕を思っているのかい?」 「いいえ、だめです。」 「何を言うんだ、さあさ。」  笑いながら取ろうとした、しかし少女は逆らった。 「いいえ、渡されません。」 「冗談だろう。」 「本気なのです。これほど大切なことはありません。ヴュルフラン様がこの手紙は誰にも見られないようにとおっしゃいました。私はヴュルフラン様に従います。」 「その封を切ったのは僕なんだぜ。」 「英語の手紙と翻訳した物とは別です。」 「その上手な翻訳を、どうせ今に叔父は僕に見せてくれるんだ。」 「それは叔父様は見せて下さるかも知れませんが、私は叔父様ではありません。私はあのお方から言いつけられました。私はそれに従うのです。どうぞ御勘弁下さい。」  口調にも態度にも決然としたものが強かったので、その用紙を取ろうとするなら、どうしても腕ずくでやるより外ないことは確かであった。でもそうしたら少女は声を立てはしないだろうか?  テオドールは、そうまではやれなかった。 「僕はお前が、取るに足らぬ事柄についてさえも、叔父の言いつけに忠実であるのを見て嬉しい。」  彼が扉を締めて出てゆくと少女は再び仕事に取り掛かろうとした、が気も転倒してしまっていて、それができなかった。嬉しいとあの人は言ったけれど、それどころかひどく怒っているのだ、拒絶したためにどんなことになるだろう? もしあの人が仕返しをしようとしたら、どんなことでもできる敵に向かって、守る力もない哀れな少女はどう戦うだろう? 少女は一遍でやっつけられてしまうだろう。そうすれば、入ったばかりのこの工場をもう出なければならない。  その時また扉がそうっと開いてタルエルが忍び込んできた。その眼は、手紙とやりかけた翻訳との広げられている卓上につけられていた。 「どうだい、ダッカの手紙の翻訳は捗るかい?」 「始めたばかりなのです。」 「テオドール君が邪魔をしたようだな。何の用で来たんだ?」 「英仏辞典を。」 「どうする気だろう? 英語を知りもせんのに。」 「何もおっしゃいませんでした。」 「その手紙に何が書いてあるか、聞かなかったかね?」 「私まだほんの始めの文句のところなのです。」 「手紙を読んではいないようにこのわしに思わせようとしても、駄目だぞ。」 「まだ翻訳してはおりませんの。」 「お前はフランス語では書いておらぬ、がもう読んでしまってはおる。」  少女は答えなかった。 「読んでしまっておるかどうか、わしはお前に聞こう。返事をしてくれるだろうな。」 「御返事はできません。」 「なぜ?」 「ヴュルフラン様がこの手紙については話をするなとおっしゃったので。」 「ヴュルフラン様とわしとは一つのことをしておるに過ぎん。ここではヴュルフラン様の出す命令は皆わしの手を通るし、あの人の与える世話も皆わしの手を通る、だからわしは、あの人に関したことを知る必要がある。」 「あのお方の私事でもですか。」 「そうするとその手紙は私事に関するものだな?」  少女は不意を打たれたと思った。 「そういう訳ではございません。私事の場合でも手紙の内容をお知らせしなければならないのでしょうかとお尋ねしたのです。」 「私事に関するものならとりわけ、わしは知らなければならぬ、ヴュルフランさまの為になるんだから。お前も知っているだろう、あの人は、すんでのところで亡くなられるほどの苦痛の為に病気になられた。もし突然ある消息が来てあの人に新しい苦痛を与えるか、大きな喜びを引き起こすかしてみよ、何の用意もなく、あまり出し抜けに知らされる消息は、あの人の生命に関わるかもしれぬのだ。だからわしはその用心をする為に、あの人に関したことは前以って知る必要があるのだ。もしお前がごく気軽にその翻訳を読んでくれさえすれば、さようなことにはならん。」  この男は、いつもの頑固で意地悪な言い方に似ず、やさしい、へつらうような口調で、このちょっとした説教をした。  少女が、心を激動させ真っ青になって見つめながら黙っているので、続けて、 「お前は利口だからわしの今言って聞かしたことは分かってくれると思う、またあの人の健康はひどい衝動を受けると保つまいからそんなものを受けないようにするのは、わしらにとり、ヴュルフラン様の御陰で暮らしている村全体にとり、また、とんとん拍子で上がってゆくばかりのよい地位をあの人のそばに見つけたお前自身にとって、つまり皆にとってどんなに大切なことかも分かると思う。あの人は、丈夫そうだが見掛けほどはない。悲しみの為次第に弱ってゆかれるし、目が見えないので絶望しておられる。だからこそわしらは皆ここであの人の生活を慰めるように努めなけりゃならぬ、そうしてわしは誰よりも先にそうしなければならん、わしはあの人に信頼されている人間なのだから。」  ペリーヌは、もしタルエルというものを知らなかったとしたら、きっと、この言葉の巧妙に仕組まれて彼女を惑わし感動させるのに乗ってしまったに違いない。しかし彼女は、哀れな女工たちに過ぎないのは事実だがあの共同部屋の娘たちから話を聞いていたし、また物事を知り人間を判断することのできる人たちであるあのファブリとモンブルーからも話を聞いていたから、このお説教の誠意を真に受けることも、この監督の熱意を信用することもできなかった。少女を喋らせようとしている、結局そうなのだ、そうしてその為には、嘘、ごまかし、偽善、どんな手段でもよかったのだ。たとい少女がそういうことを疑おうとしたとしても、あのテオドールのやりかけた企みのことがそれを許さなかったの違いない。甥も監督も真面目ではないのだ、どちらもダッカからの手紙の内容を知りたいとただそれだけを望んでいるのだ。だからこそヴュルフラン氏は、この連中に用心して、『もし誰か尋ねるものがあっても、何も言ってはならぬのみならず、見透かされるようなことがあってさえもいけない』と言ったのである。彼女は人の怒りや怨みを買おうとしているということなどは別に心配せず、きっとこうした試練を前から知っておられたに違いないヴュルフラン氏、このお方にだけ従うべきであった。  タルエルは、前に立って、事務机によりかかり、少女の方に身をかがめていた。その眼は、彼女を見守り、彼女を包み、見下ろしていた。彼女は全身の勇気を奮い起こした、そうして、胸中の動きのそれと察せられる少しかすれた、しかし震えない声で、 「ヴュルフラン様がこの手紙のことは誰にも言わないようにとおっしゃいました。」  彼はこの拒絶にひどく怒って起き直った、が、すぐにまた、態度も口調も、愛想よく、 「わしは丁度よい人物なんだぜ、何故かというにわしはあの人の次におる、いわばもう一人のあの人とも言うべき人間だからな。」  少女は返事をしなかった。 「お前は馬鹿なんだな、」と声をひそめて叫んだ。 「そうなのでしょう、きっと。」 「そんなら、得心の行くように努めて考えてみい、お前がヴュルフラン様のそばにつけてもらったその地位にいつまでもいたいなら利口でなければならん、ところでこの利口さがお前にないならお前はその地位にいることはできぬ、わしは、いやだけれどお前を助けるのをよして、お前に暇の出るようにしなければならぬことになる。分かるかな。」 「はい。」 「なら、この事を熟慮せい、今日の身の上がどんなものかを考え、明日は往来にあるかもしれぬと想像してみるのだ、腹を決めて、今夕わしに知らせて来い。」  そこで彼は、ちょっと待ったが少女が折れて出ないので、入った時のように忍び足で出ていった。 31 『熟慮せい。』  少女は熟慮しようにもしようがなかった、ヴュルフラン氏が待っている。  そこで再び翻訳に取り掛かった。仕事をしている中にはたぶん興奮も鎮まるだろう、そうすればきっと一層よく自分の立場を吟味し、なすべきことを決めることができるだろうと思いながら。 『右に申し述べましたとおり、捜査中に出会いました大きな障碍*は、あなた様の御愛息エドモン・パンダヴォアヌ様の御結婚以来流れました歳月という障碍*でございます。まず告白致しますが、私は、この婚儀を祝福せられましたルクレルク神父様による光明を失い、全く途方に暮れてしまいました、そこで方々を尋ねてみなければなりませんでしたがその揚げ句、あなた様の御満足なさるような御返事の材料を集めることが出来ました。  この材料によりますと、エドモン・パンダヴォアヌ様の妻となられたお方は、聡明、親切、柔和、やさしい気性、正直な性格、あらゆる天性に恵まれておいででした、むろんあの、果敢ないものではありましょうがやはりこの世の空しいものに心を引かれる人々には往々決定的な力を持っております個人的魅力のほどは、申すに及びません。』  少女は、手紙の中でも確かに一番込み入っているこの文句を四度ほど訳し直した、が、できる限りの正確さをこの仕事に打ち込んで文句の翻訳に熱中したので、自分でも満足するというほどには到らなかったとしても、少なくとも全力を尽したと言う気持ちは持った。 『インドの女性の学識と申せば全てが礼儀の知識や起居の作法において成り立っており、この眼目を外れた訓育の全ては不名誉のように考えられていたそういう時代ではもうございません。今日では、高い族籍の女性の間でさえ多くのものは教養深い精神を持っておりまして、勉学と言うものが古代インドでは女神サラスヴァチへの祈願よりも下位に見られていたことを、思い出と致しております。私のお話し申し上げているお方は、そういう部類の女性に属しておられ、そのお方の父も母も、−−婆羅門教の家庭すなわちインド風の表現を致しますならば再び生を受けた家庭の人でありましたが、−−ルクレルク神父様布教の初期この神父様によりまして、幸福にも、我々の聖なる、使徒たちの旨に適えるローマ・カトリック教に改宗なされました。インドにおける我々の宗旨の布教にとりまして不幸なことには、族籍の勢力が全能であります為、信仰を失うものは、その族籍をつまり階級を、それからまた交誼や、社会生活をも失うのでございます。この一家の場合もそうでして、ただもうキリスト教になられたばかりに、いわば一番卑しい階級に落ちてしまわれました。  ですからこの一家が、ヒンズーの世界を追われて、欧州人に交際を求めていったことを、あなた様は当然とお考えになりましょう、こうしてこの一家は、仕事と友情との交わりからしてあるフランス人の一家と結び、ドルサニ(印度人)ベルシェ(佛蘭西人)という社名の下に、大きなムスリン工場を創設し経営致しました。  このベルシェ夫人の邸で、エドモン・パンダヴォアヌ様は、マリ・ドルサニ嬢を知られ、このお方を愛せられたのでございます。この事は、このお方が実際に先程私の申し上げましたような若いお嬢様であったという主要な理由から致しまして納得のゆくことでございまして、私の集めました証拠はいずれも皆符合してそのことを肯定致しております、もっとも私自身にはそのことを語る資格がございません、なぜなら、私はそのお嬢様を存じ上げませんし、私のダッカに着きましたのは御出発の後でしたから。  何故この方々の結ぼうとしておられた婚姻に邪魔が入りましたか? これは私の扱うべき問題ではございません。  ともかくも結婚式は挙げられ、ルクレルク神父様により、我々の礼拝堂において、エドモン・パンダヴォアヌ様とマリ・ドルサニ嬢との結婚祝聖式は執り行われました。結婚証明はその日我々の書類に記入せられました。もしお望みならばそれの写しをお送り申し上げましょう。  四年間エドモン・パンダヴォアヌ様は奥様の御両親の邸で過ごされ、そこで大能の主により一人の女児が与えられました。当時ダッカにいてこの方々を知っていた人々はこの方々に関してよい思い出を抱いており、この方々を夫婦の手本と致しております。この世の喜びに浸られたことではありましょう、がそれはこの方々のような年頃にはありがちのことでございます。若い人々のことは大目に見なければなりますまい。  ドルサニ・ベルシェ工場は長らく栄えておりましたが引き続き容易ならぬ損害を受けて全く破産し、ドルサニ夫妻は数ヶ月の間を置いて共にこの世を去り、ベルシェ家はフランスに帰りエドモン・パンダヴォアヌ様は、英国人の家庭の為にあらゆる種類の植物や珍奇なものを尋ねてダルジーへ採集旅行に出かけられ、若い奥様と当時三歳くらいになられるお嬢様とをこれに伴われました。  爾来ダッカには戻られませんでした。しかしエドモン様のたびたび便りをなすった友達の一人から、及びエドモン・パンダヴォアヌ夫人とずっと文通しておられたルクレルク神父様に消息を聞いていた神父の一人から、私は、エドモン様がヒマラヤ山中、チベットの国境で、デラの町を踏査の中心として選ばれ、ここで幾年月を過ごされたということを知りました、この年月はその友人によりますと、なかなか収穫が多かったそうにございます。  私はデラを存じません、が我々はこの町に布教師を派遣しておりますゆえ、もしあなた様の捜査に役立つようで御座いましたら、私は我々の神父の一人に手紙を送りましょう、この者の協力はたぶん捜査を容易ならしめることと存じます。』  ついに胸苦しい手紙はすんだ。最後の語を書き終わるとすぐ、末尾の儀礼の決まり文句は訳しもしないで、用紙をまとめ、急いでヴュルフラン氏のところへ行った。氏は、壁に突き当たらないように、また焦る心を紛らす為に、歩数を数えながら、部屋を端から端へ行き来していた。 「遅かったな。」 「手紙が長くて難しかったものですから。」 「おまけに邪魔されたのではないか? わしはあの部屋の扉が開いて締まった音を二度聞いた。」  尋ねられているのだから本当に答えなければならないと考えた、たぶんそうするのが、満足な答えも見つからずに考え悩んでいる様々の問題に対する、素直で正しい解決だ。 「テオドール様とタルエル様とが部屋へおいでになりました。」 「ほう!」  氏はこの点に立ち入りたそうな様子だった、が思いとどまって、 「まず手紙じゃ、その事はあとで聞こう、わしのそばに坐って、声を立てずに、ゆっくりと、はっきり読んでくれい。」  少女は言われた通りに、どちらかといえば弱い声で読んだ。  時々氏は口を挿んだ、しかしそれは自分の頭の働きに従ってであって、彼女に言いかけるのではなかった、 ・・・夫婦の手本、 ・・・この世の喜び、 ・・・英国人の家庭? 誰の? ・・・友達の一人? 誰だろう? ・・・消息というのはいつ頃からのことかな?  彼女が手紙の終いまで来ると、氏は自分の印象をまとめてこう言った、 「文章だけじゃ。名前もない、日付もない、何とまあ、あの人たちのぼうっとした頭!」  この苦情は自分に直接に言われたのではなかったのでペリーヌは答えずにいた、そこで沈黙が起こり、これを、かなり長く考え込んだ後に始めてヴュルフラン氏が破った。 「お前は、今英語をフランス語に直したようにして、フランス語を英語に直すことができるか?」 「ええ、あまり難しい文句ではないのでしたら。」 「電報は?」 「できると思います。」 「それでは、その小さな卓について、書いてくれ。」  彼は書き取らせた。 『ダッカ、伝道教会、  フィルデス神父殿  手紙有難う。返信料二十語分既納。消息を受けたる友達の名前、それの最近の日時電報にて返事乞う。デラの神父の名前も乞う。当方より直接問い合わす旨その神父に予め伝えられたし。                             パンダヴォアヌ』 「これを英語に直すんじゃ、なるべく短くするようにせい、一語が一フラン六十サンチームだから無闇に使ってはならぬ、読みやすいように書いてくれ。」  彼女は、かなり早く翻訳を仕上げてそれを大きな声で読んだ。 「語数は?」 「英語で四十五ございます。」  氏は声高く計算して、 「すると電報料が七十二フラン、返信料三十二フラン。合計百四フラン、今それをお前に渡すから、自分で電信局へ持って行って取扱者に読んでやれ、間違いをされるといけないから。」  ベランダを横切ろうとすると、タルエルが、事務室と庭で起こる一切のことを見張るようにして両手をかくしに入れて、そこを歩いていた。 「どこへ行く?」 「電信局へ電報を打ちに参ります。」  少女は片手に電報を、もう一つの手にお金を持っていたが、電報をひどくひったくられたので、もし離さなかったら破れてしまったであろう。彼はすぐそれを開いてみたが英語だったので、むっとした。 「後ほどお前に聞くことがある。」 「はい。」  彼女は三時になってやっと出発の為にベルで呼ばれてヴュルフラン氏に会った。誰がギヨームの代わりをするのかしらと一度ならず考えたが、ココを曳いてきた馭者を返した後、自分の横に坐るようにとヴュルフラン氏が言ったので、大変びっくりした。 「お前は昨日上手に駆ってくれたのだから、今日だとて上手にやれないことはない。話したいこともあるし、それには二人だけの方がよい。」  彼らの通るのを見て村人は昨日と同じ好奇心を見せた。村を出外れて、草刈りの最中であった野原を横切って静かに走ってゆくと、それまで黙っていたヴュルフラン氏は始めて、口を開いた。ペリーヌはたいそう困った、できることなら、自分にとって危険のたくさんあるように思われるあの説明をする時期を、もっと延ばしたかったのである。 「テオドールとタルエルが部屋へ来たそうじゃな?」 「はい。」 「何をしに来たのじゃ?」  少女はぐっと胸が塞がって躊躇していた。 「なぜに、躊躇する? お前はわしになんでもいうはずではないか?」 「はい、何でも申し上げなければなりません、でもやっぱり躊躇致します。」 「しなければならない事をする時には決して躊躇してはならぬ。もし黙っていなければならない事なら、黙っていよ、もしわしの質問に、−−わしは質問しておるのじゃから、−−答えなければならないと思うなら、答えよ。」 「御返事しなければならないと思います。」 「聞こう。」  彼女はテオドールと自分の間に起こった事を、一言も言い加えず、また言い落としもせず正確に語った。 「それだけか?」とヴュルフラン氏は話がすむと尋ねた。 「はい、それだけです。」 「ではタルエルは?」  彼女は、甥について述べた事を、監督についてもありのままに述べ始めた、ただし、あの『不用意にあまり出しぬけに悪い消息を知らせると、あの人の生命にかかわる』という文句は言わないでおく為、ヴュルフラン氏の病気に関した点は少々取り繕った。次にタルエルの最初の試みを語った後、電報について起こった事を述べ、今夕という事になっている面談のことをも隠さなかった。  話しながら少女はココを勝手に歩かせておいた、そこでこの年寄りの馬は、生ぬるい微風に吹かれて鼻先へやってくる乾いた秣のよい香りをかぎながら、静かに体を動かしていた。この微風は同時に鎌を振るう音をも運んできたので、馬は、自分の若い頃、やがては埃だらけの道を車を曳き、苦労し、鞭やひどい仕打ちを忍ばなければならなくなるだろうなどとは思いもせずに未だ仕事もないので野原をあちらこちら、牝馬や仲間の幼い馬たちと一緒に駈けまわった事を、思い出していた。  少女が黙ると、ヴュルフラン氏は長いこと何も言わずにいた。少女はじっと眼を注いでいることをさとられずに彼を熟視することができたから、彼の顔に、恐らくは不満と悲哀とから成っているらしい苦しそうな不安が浮かぶのを見た。ついに口を開いて、 「何よりもまず、わしはお前を安心させなければならぬ。お前の言ったことは誰にも言わぬ、お前が喋った為におまえに災いが起こるようなことはないし、さような誘惑を正直に拒んだお前に向かってもし誰か復讐しようとするものがあっても、わしはお前をかばってやるから心配は要らぬ。しかしわしは起こったことには責任がある。一体人の好奇心を呼ぶに決まっていたあの手紙に関しては何もいうなとお前に言いつけた時、わしはさような誘惑を予感していたのじゃ、だからわしはお前をそういう目に逢わさぬようにしなければならぬところだった。今後はもうこんなことはさせぬ。明日からはお前は、人の尋ねてくる恐れのあるベンディットの事務室をよして、わしの部屋へ来て、今朝お前が電報を書いたあの小さな机につくがよい。わしの前ならまさかお前に問いかけもすまい。しかし事務所以外のところ、フランソアズの宿で誘惑されるかも知れぬから、今夜からわしの邸の部屋をやろう、わしと一緒に食事をせよ。わしはこれからインドと手紙や電報のやり取りをすることになると思うが、それはお前にだけ見せるつもりじゃ。内緒にしておかなければならぬ消息を、人がお前から、無理矢理に奪おうとしたり、巧みに聞き出そうとしたりしないように、用心しなければならぬ。わしのそばにおればお前は安全というのものじゃ。なおまたこれは、お前を喋らそうとした連中に対するわしの返答にもなり、今後も誘惑しようとするものには警告にもなる。結局これがお前に対する褒美じゃ。」  ペリーヌは、始めふるえていたが、すぐに落ち着いた。今はもう激しく喜びにゆすぶられていたので、返事の言葉が一つも見つからなかった。 「わしはお前が貧乏との戦いに示した勇気を見てお前を信用した。お前のように勇敢な者は正直な者じゃ。お前は、わしの眼に狂いのなかったこと、わしがお前を十年の知己のように信頼できるということを証拠立てた。お前はここに来てから、わしを羨む皆の声を聞いたに違いない、ヴュルフラン氏の地位についたら、ヴュルフラン氏になれたら、どんなに仕合わせだろう! と。ところが実をいうとわしの生活は辛い、とても辛い。職工どもの一番貧乏な者よりもなお難儀でなお苦しい。財産なんぞ、それを楽しむ健康がなかったら、何だろう? 何よりも重い荷物にすぎぬ。わしは両肩に負うておる荷物で潰されそうじゃ。毎朝わしは思う、七千人の職工がわしに頼ってわしの御蔭で生きておる、わしは職工の為に考え、働かなければならぬ、わしがいなくなったら災難じゃ、みな貧乏になってしまい、大抵の者は飢え、恐らく死ぬだろう、と。わしはあの連中の為に、またわしの喜びであり光栄であるわしの建てた工場の名誉の為に進まなければならぬ−−ところでわしは盲目じゃ!  しばらく途切れた。この激しい悲嘆を聞いて、ペリーヌの目にいっぱい涙が溜まった。しかしまもなく氏は続けて、 「お前は、わしに一人の息子があることを、村人の交わす話で知っているに違いない、またお前が訳したあの手紙でもそのことを知ったろう、がこの息子とわしとの間には、わしの話したくないあらゆる種類の理由から大きな争い事があって別れ、あれがわしの反対にも構わず結婚を取り決めた後は、すっかり仲違いをしてしまった、しかしわしの愛情は消えはしなかった、なぜというにわしは、こんなにも久しい年月を経たが、未だにあれをわしの育てていた時分の子供みたように思ってあれを愛しておるからじゃ、あの子の事をつまりわしにとってはあんなに長かった昼と夜とのことを思うと、一人の幼い子供がわしの見えぬ眼に浮かぶ。あの子は、自分の父親よりもあの女子(おなご)を愛して、たわいもない結婚をして妻にしてしまいおった。わしはその女子を迎えいれる事はできなかったし、そうしなければならぬ訳もなかったから、あれはわしのところへ戻らずに女のそばで暮らす事に応じた。わしはあれが折れて出るだろうと思っていた、あれの方でもわしが折れて出るだろうと考えていたに違いない。がわしらは同じ気質の人間で、どちらも折れはしなかった。もう消息も絶えてしまった。健康を損ねてからは、あれが戻ってくるだろうと思っていた。あれはわしの病気のことをきっと知っていたに違いない、なぜというにここで起こる出来事をあれが知らされていたと考える理由は十分わしにあるからな。あれは戻って来なかった、確かにあの女が、あれをわしに取られたくない、自分のそばに置いておきたいというので、引き留めたのじゃ、あさましい女めが!・・・」  ペリーヌはもう息もつかず、ヴュルフラン氏の言葉に遮られて聞き入っていたが、この言葉に口を挿んで、 「でもフィルデス神父様の手紙には『聡明、親切、柔和、やさしい気性、正直な性格、実にいい性質に恵まれた若いお方』とありました。あさましい女をそんな風には言えませんわ。」 「手紙の文句が事実に対抗できるかな? 大体あの女は、ああいう手合いの女らしく身を引いて、わしの息子が当然あれの物である生活をここで再び見つけて送るように仕向けなければならぬところを、そばに息子を引き留めておる。わしがあの女に腹を立てあの女を憎んだ大きな事実というのは、その事じゃ。結局あの女の御蔭でわしらは離れてしまい、お前も知っての通り、幾ら捜索させても居所さえ知れぬ。  この捜索にいろんな邪魔の入る事はお前もまた知っておる。ところである特殊の事情があってこの面倒がこみ入ったものになっており、わしはその事情をお前に説明する必要があるのじゃ、恐らくお前ぐらいの年頃の子供には分かりかねるかも知れぬが、しかしお前は、わしの信頼を受けて仕事を助けてくれるのだから、大体は分かって貰わなければならぬ。わしの息子の長い間の不在、行方不明、わしらの仲違い、息子についての最後の消息を受け取ってから流れた長い年月、こういうものが、どう避けようもなく、ある種の希望を人々に起こさせたのじゃ。つまり、もしわしが荷物を全く背負い切れなくなった時わしの地位につき、わしが死んだ時わしの遺産を継ぐのに、息子というものがいなかったら、誰がその地位に就く? 誰に財産は戻る? こういう問題の蔭で待ち伏せしている希望という物は、お前に分かるな。」 「どうにか分かります。」 「結構じゃ、いっそこれは少しも分からなくとも構わぬ。そういう訳でわしの身辺には、わしを援助してくれるはずの連中の中には、息子が戻って来なければよいがと思い、そのことを思うと心が落ち着かず、ただもうそれだけの理由で、息子を死んだと考えているらしい連中がいる。死んだなぞと、わしの息子が! とんでもない! そんな恐ろしい不仕合わせを神様がわしに下さるものか! あの連中はそう考えるかも知れぬ。わしには考えられぬ。エドモンが死んだらわしはこの世で何をしよう? 自然の法則は、子が親を失うということであって、親が子を失うということではない。とにかくさような希望は狂気の沙汰じゃ、わしはそれを証拠立てるいずれ劣らぬ立派な理由を、いやというほど持っておる。エドモンがもし事故で死んだのならわしはそれを知るはずじゃ、あれの嫁がいちばん先に通知してもくれたろう、エドモンは、だから死んではおらぬ、死んだはずはない。わしは反対を信ぜぬ父親じゃ。」  ペリーヌは、もう眼を注がず、まるで見られでもしているかのように目をそらせて顔を隠した。 「それを信ずる連中は死んだと思っておる、そこでそれ、あの連中は知りたがるし、同時にわしはわしで用心して、捜索に関する事柄は一切秘密にしようとするのじゃ。わしはお前に隠さずにいう。まず、わしと一緒にやる仕事、つまり息子をその父親へ返すという仕事を知って貰いたいからじゃ。お前は十分真心を持って忠実に努力してくれる事を確信しておる。わしは重ねてそう言いたい、なぜというにわしの生き方はいつも、自分のする事を包まずに述べて、目的へまっしぐらに進むという事だった。おりおり悪賢い奴等はわしを信じようとせず、わしをまやかし者と考えおった、が、こ奴等はいつも罰を受けた。既にお前をわなにかけようとした者がある。これからもまだするだろう、ありうる事じゃ、手をかえ品をかえて。おまえに予め知らしておく、わしのしなければならぬ事はそれだけじゃ。  二人は、マロクールから一番遠いエルシュの工場の煙突の見えるところに来ていた。更に少し走って、村へ入った。  ペリーヌは気も転倒し、ふるえながら返事の言葉を見つけたが見つからなかった、感動に心は自由を失い、咽喉は塞がり、唇は干からびていた。ついに声をあげて、 「私は、心からあなたの為に尽しますと申しあげなければなりません。」 32  夕方、工場巡回がすむと、いつもとちがい事務室に引き返すのをよしたヴュルフラン氏は、ペリーヌに言いつけてまっすぐに邸に向かわせた。彼女は始めて、金属工芸の傑作である堂々たる金色の柵門を越えた、この柵門は人の語るところによると、最近の博覧会において王様も手に入れる事ができなかったが、この富豪の実業家は、その別荘用としてもそんなに高価だとは思わなかったという。 「ぐるっと廻っている大きな道を行ってくれ!」  少女はまた始めて、間近に、それまでは遠くからしか眺めた事のない花の茂みが、短く刈り込んだ芝生の濃いビロードの上に点々と赤色や薔薇色をしているのを見た。ココはこの道に慣れているので静かな足取りで上ってゆく、そこで彼女は駆る必要もなく、目を左右の、絶景として孤立させるに値するほど美しい花壇や、植物や、灌木に向ける事ができた。思うに、主人はこれらの物を昔のように眺める事はできなくなったが、庭の整頓は少しも変わらず、朝な夕な、主人が鼻高々と見廻った時分と同じように丁寧に手入れされ、金をかけて飾られていたのである。  ココはひとりでに大きな踏み段の前でとまった。そこには、門番に鐘で通知されていた一人の老僕が待っていた。 「バスチアン、いるかい?」ヴュルフラン氏は降りないで聞いた。 「はい、御主人様。」 「お前、この娘をな、蝶の間へ案内しておくれ、そこをこの娘の部屋に当てよう。お前はこの娘が身じまいするのに必要な物をなんでも与えてやるように、気をつけておくれ。それから食器はこの娘と向かい合わせに置くように。ついでにフェリックスを寄越してくれ、わしは事務所へ行くから。」  ペリーヌは夢ではないかと思った。 「晩餐は八時にする、それまでお前はひまじゃ。」  少女は馬車を降り、魔法の宮殿にでも連れ込まれたように、うっとりして老僕について行った。  実際、赤い絨毯の敷いてある白い大理石の堂々たる階段、この階段に通ずる宏壮なる大広間には、どこかに宮殿らしいものがないだろうか? 階段の休み場毎に、きれいな花が緑葉の植物と一緒に大きな盆栽棚に集められていて、その香りが閉じこめられた空気中に漂っていた。  バスチアンは彼女を三階に案内し、自分では入らずに一つの扉を開いて、 「ただいま小間使いを寄越しますから、」と言いながら引き下がった。  暗い小さな入り口を通ると、大変明るい大きな部屋に出た。敷き詰められた象牙色の織物には、そこここに鮮やかな色の蝶々がひらひら飛んでいる。家具は斑点のある楓材で作られており、灰色の敷物の上には、雛菊、美人草、矢車菊、金鳳花など、野の花の束が勢いよく浮き出ていた。  何と新鮮で美しいこと!  少女は驚嘆から覚めやらず、弾力のある柔らかい敷物を足で踏むのになおも興じていた、すると小間使いが入ってきて、 「バスチアンからお嬢様の御用を伺うようにとのことでございましたので。」  幾日か前には、鼠や蛙と一緒に、沼の中で、小屋の葦の寝床に寝た娘の御用を聞きに、明るい身なりをしてツル織りの被り物をつけた小間使いが! 少女は我に返るのにちょっとひまどった。とうとう言った。 「どうも有難う、別に何もございません・・・と思います。」 「でももしお嬢様がおよろしう御座いましたら、お部屋を御覧にいれましょう。」  『部屋を見せる』というのは鏡付きの衣裳箪笥や、戸棚や、それからブラシ、鋏、石鹸、壜のいっぱい入った化粧机の抽斗、そういうものを開けることだった。それがすむと小間使いは、壁紙の中に取り付けたボタンに手をかけて、 「これが呼び鈴でございます、これが電燈でございます。」  忽ち部屋も入り口も化粧室も、まばゆいばかりの光で輝いた、がまた忽ち消えた。ペリーヌは、自分がまだパリの近くの野原にいて、夕立に襲われ、空が裂けて閃光が道を照らしたり、闇でそれを消したりしたように思った。 「お嬢様、御用でしたら呼び鈴でお呼び下さいまし、バスチアンならば一度、私ならば二度お押しになって下さいまし。」  しかし『お嬢様の御用』というのは、自分の部屋にいたいし心を落ち着かせもしたいから、自分を一人にしておいてほしいという事だった。今朝からの出来事で我に返るひまがなかったのである。  何時間かのあいだに何という出来事! 何という思いがけない事柄! 今朝、テオドールとタルエルの脅迫を受けて身に大きな危険を感じていた時、風の向きは反対に、大変良くなっていたのだということを、誰が知っていたろうか? この連中の敵意が返って彼女を仕合わせにしたのだ、そう思うと笑えてくるのは、不思議なことであろうか。  しかしヴュルフラン氏を事務所の階段の下で迎える監督の顔を見ることができたら、彼女はどんなにいっそうひどく笑ったことであろう。 「察しますにあの娘が何かへまなことでも致しましたので?」 「いやいや。」 「でもあなたはフェリックスに連れ戻られておいでで。」 「それは、わしがあの娘を通りがけに邸に置いてきたからじゃ、晩餐に身仕度するひまがあるようにな。」 「晩餐! あの、察しますに・・・。」  彼はひどくたまげてしまったので、どう察していいかすぐには分からなかった。 「察するに、」とヴュルフラン氏は言った、「君はどう察してよいか分からぬようじゃな。」 「・・・察しますに、あなたがあの娘と御一緒に晩餐をなさいますので。」 「如何にもそうじゃ。わしは以前から、賢くて、慎み深い、誠実な、信頼できる物をそばに置きたいと思うておった。ちょうどあの娘が、さような性質を全部備えているように見える。あの娘は確かに賢い、それからまた慎み深くて誠実じゃ、これには証拠がある。」  これは力を込めては言われなかったけれど、タルエルがその言葉の意味を取り違える訳にはゆかないような言い方であった。 「ですから私もあの娘を採りましたので。ところで私は、あの娘をある危険にさらして置きとうございません、−−いえ、危険と申しましてもあの娘の受ける危険ではございません、あの娘の受ける危険ならあの娘がそれに参ってしまうようなことはあるまいと確信しておりますから、それではございませんでつまり他人を襲う危険、−−これにさらして置きとうございません、そう致しますと私は他の連中から離れなければならなくなるのでございまして・・・。」  ヴュルフラン氏は語勢を強めて、 「それがどんな危険であるにせよ、あの娘はもうわしのそばを離れさせぬ、ここではわしの部屋で働かせる。昼の間はわしのお伴をさせる、食事はわしの食卓でさせる、あれのお喋りでわしの食事も賑やかになり、気もめいらなくなるだろう。わしはあれを邸に住まわせる。」  タルエルは冷静に戻ることができた、そうして、主人の考えに対しては明白にはどんな僅かの異議をも唱えないと言うのが、この男の性格でもあり行為の方針でもあったので、 「察しますにあの娘はあなたにあらゆる満足を与えることでございましょう、御期待は甚だ御もっとものことと存じます。」 「わしもそう思う。」  この間ペリーヌは、窓の露台に肱をついて、眼前に広がる景色を眺めながら夢みていた。  花の咲いた庭の芝生、工場や村、その村の人家や教会堂や、野原や、夕日の斜めの光の下で銀色に光っている池、それと相対して向こう側に木立、あそこで自分は、ここへ着いた日、腰を降ろして夕暮れの微風の中で、『お前は仕合わせになる』とお母さんのささやく優しい声を聞いたのである。  恋しい母は未来を予見していたのだった、またあの大きな雛菊も、母の言わせた御告げを伝えて本当のことを知らせてくれた、仕合わせになる、と。少女は仕合わせになり始めている。たとい完全に成功したとは未だ言えなくとも、大分成功したとさえ言えなくとも、少なくとも、僅かばかり以上には成功する状態にいることを、少女は認めてよかった。辛抱強くしているなら、そうして待つことを知るならば、残りのものは来る時に来る。今は何が彼女を悩ませていたろう? こんなにも早くお邸に入った彼女は、貧困にも欠乏にも悩まされてはいなかった。  工場の汽笛が退ける時刻を告げた時、少女はまだ露台に倚*(よりかか)って、夢の中を飛んでいた、そこで汽笛の鋭い音は少女を未来から現在の世界へ引き戻した。すると緑の野原、黄色の畠を貫いて走る白い街道や村の往来を見下ろす展望台の高みから、職工たちの黒い蟻の群れが広がるのが見えた。それは始めぎっしり詰まった大勢の人ごみであったが、まもなくいくつもの流れとなり、限りなく細かに分かれていって、やがてもう僅かな人影に過ぎないものとなり、それも忽ち消えてしまった。門番の鐘が鳴った、そうしてヴュルフラン氏の馬車が、年寄りのココの静かな足並みで廻った路を登ってきた。  しかし少女はまだ部屋を出なかった、そうして言いつけ通り、身仕舞いをした。少女は余念もなく、オー・ドゥ・コローニュや石鹸を−−本当にいい匂いのする、よく泡立つ、油けの多い上等の石鹸を、実に惜しげなく使うのであった、そうして暖炉の上の時計が八時を報じた時始めて階下へ降りた。  食堂はどこにあるのかしらと思っていたが捜すまでもなかった。広間にいた黒い洋服の召使いが案内をしてくれた。程なくヴュルフラン氏が入ってきた。誰にも手を曳かれてはいなかった。彼女は氏が、敷物の上に置いた雲斎布の道を歩いてきたのに気づいた、その道が足を案内してくれ、眼の代わりになったのだ。快く匂う蘭の花籠が食卓の中央を占め、金彫りのどっしりした銀器や切り子の硝子器が並んでおり、その面は、釣り燭台から落ちてくる電気の光をきらきら反射していた。  彼女は、どうしたらよいのかよく分からないで、ちょっと自分の椅子の後ろに立っていた。幸いヴュルフラン氏が助けに来てくれた。 「掛けるがよい。」  すぐに御給仕は始まった。案内した召使いが前にスープを置くと、バスチアンは、なみなみと注いだもう一つを主人のところへ運んできた。  ヴュルフラン氏と二人きりで食べるのであったら気が楽だったろう。が二人の給仕人が、上品だがしかし物珍しそうな眼を集めて、一体ああいう小娘というものはどんな食べ方をするのだろうと思って見ているに違いないと思うと怖じ気づいてしまい、少し動作が固くならずにはいなかった。  けれども幸いへまなことはしでかさなかった。ヴュルフラン氏は言った。 「私は具合が悪くなって以来、スープを二杯飲むのが習慣での、その方がわしには便利なのじゃ、しかしお前は、よく見えるのだから、わしと同じようにしなければならぬことはない。」 「私も、長いことスープ無しでいましたから、二杯頂きますわ。」  しかし出されたのは同じスープではなく新しいもので、百姓の飲むのと同じように質素な、人参と馬鈴薯の入ったキャベツのスープであった。  のみならず御馳走が大体においてこの質素を守っていたのであって、それは豌豆(えんどう)を添えた羊の股の肉と、サラダとから成り立っていたのだが、しかし晩餐後の食べ物は例外で、これは脚付きの四つの皿に盛ったお菓子と、砂糖煮の四つの容器に入れたすばらしい果物とであった、この果物は、大きさや立派さからいって、銀の大鉢の花によく釣り合うものであった。 「お前は明日、何だったら、この果物の出来た温室を見にゆくがよい。」  少女は控え目に桜ん坊を幾つか取り始めた、しかしヴュルフラン氏は、杏子や、桃や、ぶどうをも取るようにすすめた。 「わしがお前の年頃だったら、食卓の上の果物はみな平らげてくれるのじゃが・・・もし自分に出されたとしたら。」  するとこの言葉に促されたバスチアンは、ヴュルフラン氏の椅子の後ろに立っていたがそこを離れて、果物に詳しい目で杏子と桃とを選び、それらを、まるで学者猿にでも向かってしてやるように、『この小娘』の皿の上に置いてくれた。  果物はまだあったけれど食事はすんだのだと思うとペリーヌは嬉しかった。品定めされるのは短いほどいい。明日は召使いの好奇心も満足して、たぶん自分をそっとしておいてくれるだろう。 「お前はもう明日の朝までひまだから、」と氏は食卓を立ちながら言った、「月夜の庭を散歩するなり、書斎で読むなり、お前の部屋へ本を持ち出すなりするがよい。」  少女は、ヴュルフラン氏に何か御用をしてあげていたいと申し出てはいけないだろうかと思って、当惑していた。もじもじしているとバスチアンが自分に向かって無言の身振りをするのである、始めのうちは分からなかったが、どうやら左手に本を持って右手でそれをめくる様子らしい、次にそれをやめて生き生きした顔で唇を動かすヴュルフラン氏を真似た。ヴュルフラン氏に本を読んであげましょうかと尋ねるがいいと言っているのだな、と少女はとっさにそう思った。しかし少女は既にそういう意向を持っていたので、バスチアンの考えというよりは自分の考えであるものを口に出すのが怖かった、がやってみた。 「でも私に御用はございませんか? 本でも読んで差し上げましょうか?」  彼女は嬉しかった、バスチアンが大袈裟に頭を動かして自分をほめてくれるのである。よく見抜いてくれた、まさしくそう言って貰いたかったのだ、と。 「働く時には、自由な時間というものを持つものじゃ、」とヴュルフラン氏は答えた。 「本当に私はちっとも疲れてはおりませんの。」 「それならわしの部屋へついて来い。」  そこは広い暗い部屋で、食堂からは廊下で隔てられており、布の道がそこへ通じているので、ヴュルフラン氏は自由に歩いてゆくことができた、なぜなら氏は迷子になるはずはなかったし、頭の中でも、両脚でも、距離を正しく心得ていたから。  ペリーヌは一度ならず考えたものだった、ヴュルフラン氏は読むことができないのだが、してみると一人の時は一体何をして過ごしているのだろうと。しかしこの部屋は、氏が照明のスイッチを押しても一向この疑問に答えてはくれなかった。家具としては、書類や厚紙挟みを乗せてある大きな机と腰掛け、それだけだ。窓の前に大きな安楽椅子がある、しかし周囲には何もない。けれどもその安楽椅子に張ってある綴れ織りの傷んでいるところから察するに、ヴュルフラン氏は、雲さえ見ることのできない空に向かって、この椅子に長い間坐っているものに違いなかった。 「何を読んでくれようというのじゃ?」  新聞が様々の色の帯で包んで卓上に置いてあった。 「もし何でしたら新聞を。」 「新聞にかける時間は短いほどよい。」  少女は、ただ何かしら言いたくてそういったのだから、別に返事もしなかった。 「お前は旅行の本なぞは好きかな?」 「はい。」 「わしも好きじゃ。旅行の本は面白い、頭が働いて。」  それから少女がそこで聞いていず、まるで独り言をいうようにしながら、 「それに我を忘れるし、自分の暮らしとは違った暮らしを送ることができるし。」  しかし一瞬の沈黙後、少女の方へ戻って、 「書庫へ行こう、」といった。  書庫はこの部屋に通じていて一つの扉をあけさえすればよく、電燈もボタンも押しさえすればよかった。しかし唯一つの電燈がついただけだったので、黒い木の書架のある大きな室は、暗いままであった。 「『世界巡り』というのを知っておるか?」 「いいえ。」 「それならアイウエオの表を見て引いたら分かる。」  彼女は、その表の置いてある書架へ連れてゆかれ、表を捜すようにといわれた、少し手間取ったが、とうとうその表に手をかけて、 「何を引きましょうか?」 「イのところで、インドという語じゃ。」  こういう具合にヴュルフラン氏はいつも自分の意向を追い続けるのであって、さっき他人の生活を送りたいようなことを言ったように見えたが、そうした考えは全然持っていなかったのである、なぜなら彼の疑いもなく望んでいたことは、自分が息子を捜させているあの地方の記事を読んで、息子と同じ生活をするということにあったからである。 「何がある、言ってみい。」 「『諸王の印度』、中央印度の諸王国並びにベンガル管区における旅行。一八七一ノ二、、二〇九−二八八。」 「つまりそれは、一八七二の第二巻を見れば、二〇九頁から旅行記が始まっているということじゃ。その第二巻を取って、わしの部屋へ戻ろうかの。」  ところが、低い棚の上のこの本に手をかけた時、薄暗がりに次第に慣れていった眼は、暖炉の上に置いてあった一つの写真を見とめ、そのまま身を起こさずにじっとしていた。 「どうした?」  少女は素直にしかし感動した声で答えた。 「暖炉の上の写真を見ております。」 「それはわしの息子の二十歳の時のものじゃ、が見えにくかろう、今電燈をつけよう。」  氏は板壁のところへ行ってボタンを押した、すると額の上と写真の前とに取り付けた小さなランプの火が写真にいっぱい光を浴びせた。  ペリーヌは身を起こして数歩近づいたが、声をあげて、持っていた『世界巡り』を落してしまった。 「どうしたのじゃ?」  しかし彼女は返事をしようと思わず、じっとその若者に目を注いでいた。その若者は、金髪で緑のビロードの狩衣を着、ひさしの広い、深い鳥打ち帽をかぶり、片方の手は銃に添え、もう一方の手は、生きた幽霊のように塀から飛び出してきた黒いスパニエル犬の頭をなでていた。少女は頭の先から爪先までふるえた、そうして涙は滝のように顔を流れたが、じっと見つめることに我を忘れ、引き込まれて、それを止めようとは思わなかった。 「なぜ泣く?」  答えなければならない。一所懸命に努力して、自分の言葉を思うように操ろうとした、しかし聞いてみると、それが全く成っていないものであるのを感じた。 「この御写真が・・・お子様は・・・あなた様はこのお方のお父様で・・・」  氏はちょっと、訳が分からずに差し控えていた、それから同情して感動した口調で、 「お前も身寄りの者のことを考えたのか?」 「ええ、そうなのです・・・そうなのです。」 「可哀そうにのう!」 33  翌朝、相変わらず遅刻した二人の甥は、叔父さんの部屋へ手紙開きをしに入ってきた時、ペリーヌがまるでそこから動いてはならないもののようにして机についているのを見て、どんなに驚いたことだろう!  タルエルはこの二人よりも先に来るようなことは差し控えていた、が二人の来た時分には自分もそこにいて『奴さんたちを愚弄してやろう』という手筈をしていた。  その驚きはタルエルにとって全く滑稽な従ってまた楽しみなものであった。なぜならタルエルは、保護もなく味方もないのに一夜にして老人の老いの弱みにつけこんだこの乞食娘の闖入に憤慨してはいたが、しかし甥たちが自分と同じように憤慨するさまを見るのは少なくとも一つの埋め合わせであったのである。だから二人が、怒りと驚きとをこめたじれったそうな眼差しをペリーヌに注ぐのは、何たる面白いことだったろう! 明らかに二人は、この神聖な部屋に娘のいる訳を少しも知らなかった、この部屋には自分たちでさえ、叔父の与える説明を聞く為とか自分たちの引き受けている仕事の報告をする為とかに必要なだけの時間しかいないのだ。二人は、思いきって腹を決めるわけでもなく、苦情なり質問なりを口に出してみようとさえもせずに、相談しあいながら眼を交わすので、タルエルは、別に自分の満足と嘲笑とを隠そうともしないで笑い出してしまうのであった、なぜならこの男たちの間で公然の戦いは宣言されていなかったとしても、彼らがめいめいの側で、すなわちタルエルは甥たちに対し、甥たちはタルエルに対し、また甥たちはお互いに抱いていたあのひそやかな希望から生まれる相互の感情がどんな風なものになっているかを知り合った日はあったのである。  平常タルエルは、物腰だけはつつましやかに礼儀を守りながら皮肉の微笑、軽蔑の沈黙を持って敵意を示して満足していた、がその日タルエルは、暫くの御慰みとなるであろう自分流の芝居をこの男どもに向かって演じてやりたいという欲望を抑えることができなかった。ヘッ! 奴さんたちは、家柄を笠に着て何でもできると思って俺に向かっては横柄だ−−一人は工場主の兄の息子、もう一人は姉の息子、つまり甥なんだから監督よりはずっと上だと、ところでおれは、職工の倅にすぎんが、この華やかな工場の成功の為に働いた。工場の一部はいや大部分はおれのものなんだ、なあに! 奴さんたちは今に思い知る。ヘッヘッヘ!  タルエルは二人と一緒に外へ出た。二人は急いで自分たちの事務室へ戻って自分たちの印象を語り合い、入り込んできた娘に対して施すべき策を考えてみたそうな様子であったにもかかわらず、タルエルの手招きに応じた、−−これは既にタルエルの勝利であった、−−そうしてベランダの下につれて行かれた。そこからは、ひそひそ話はヴュルフラン氏の部屋までは届かなかった。 「あなた方は、あの・・・娘が、御主人の部屋にいるのを御覧になって、びっくりなすったでしょうな。」  彼らは、彼らの驚きを認めることもできず、さりとて否定することもできないので、返事しないでいる方がいいと思った。 「私は知っておりました、」と彼は力を入れていった、「もしあなたがたが今朝遅れていらっしゃらなかったら、私はあなた方がもっと落ち着いていられるように、予め申し上げておくことがで来たのですがなあ。」  こうしてタルエルは、彼らに向かって二重のお説教をしたのであった、−−すなわち第一のお説教で二人の遅刻したことを決め付け、第二では理工科学校も専門学校も出ていない彼が、二人の態度を正しくないと申し渡したのである。この訓戒は少々不手際なものであったかも知れない、が彼の教育から言えばそれでよかったのであって、もっと気の利いたものを捜そうなどとは思わなかったのである。その上、事情が二人に対して遠慮しないでもよかった。どんな事を言ったにしても、彼らは聴いたであろう。彼はこの情勢に付け入ったのである。  彼は続けて、 「昨日ヴュルフラン様から私に知らせがありまして、あの娘はわしの邸に住まわせる、今後はわしの部屋で働かせる、とのことでございました。」 「しかしあの娘は何者なんだい?」 「それは私の方からお尋ね致しますことで。私は存じません。ヴュルフラン様だとて御存じはないと思います。」 「それで?」 「それで私に訳をおっしゃいますには、わしは以前から誰か賢い、慎み深い、忠実な、十分に信頼できるようなものをそばに置きたいと思っていた、と。」 「我々がいるではないか?」とカジミールが口をはさんだ。 「私もちょうどその事を申し上げたのでございます、あなた様はカジミール様にテオドール様をばお持ちではございませんか? カジミール様は理工科学校に籍を置かれ、理論は勿論、あらゆる事柄を勉強なさり、数学にかけては怖いものなしでございます。要するにあなた様に大変なついておられます。またテオドール様は幼い時分を御両親の膝下で過ごされて、世間のことや商売のことに詳しく、色々な骨折りをなすって修養を積まれ、これまたあなた様に深い愛情を持っておられます。お二人とも賢い、慎み深い、忠実なお方ではございませんか、あなた様は十分に信頼なされるのではございませんか? あの方々は、立派な甥御としてあなた様を慰め、あなた様を助け、あなた様のお仕事のお骨折りを無くすようにと、ただもうそればかりを考えておられます。大変情け深い、恩を忘れぬ方々で、また、同じただ一つの目的を持っておられるものですから一つ心の兄弟のように結びあっておられるのです。」  タルエルは、特徴のある言葉を述べるごとに力を込めてやりたかったがそれを差し控えた、しかし少なくとも皮肉な言葉には嘲るような微笑をもって力を込めた、そうしてこの微笑を、カジミールが数学に優れていることを話す時にはテオドールに向けたし、テオドール家の商業上の骨折りをいう時にはカジミールに向けた、また同じただ一つの目的を持った心からの兄弟ということを強める時には二人に向けた。 「どういう御返事だったかおわかりですかな?」と彼は続けた。  彼は一息入れたかった、が全部いい終わらぬうちに背中を向けられるといけないと思って、急いで続けた。 「こういう御返事なんです、『ああ! わしの甥どもか!』。これは一体どういう意味ですかな? 私なぞはさようなことを考える柄ではございません、私はただお伝え致しますだけでございます。で、あの娘を引き取って自分の事務室におこうとそう決心なすった理由を申し上げる為に、なおおっしゃったことを急いで付け加えますと、あの娘をある危険に、−−いえ、危険と申しましてもあの娘の受ける危険ではございません、あの娘の受ける危険ならあの娘はそれに参りはしまいと確信しておられますので、それではなくてつまり他の連中を襲う危険、これにさらして置きたくないのでそうでして、そう致しますとヴュルフラン様は、その他の連中というのがどんな物であるにせよそういうものからは離れなければならなくなろうとのことでした。私は誓って申しますが、おっしゃった言葉をそのままあなた方に繰り返しているのでございますよ。さて、この他の連中とは一体どの連中のことでしょうな? お尋ね致しますが?」  彼らが返事をしないので畳み掛けて、 「誰のことをおっしゃるのでしょうな? あの娘を危険な目に逢わすかもしれぬというその連中がどこにいるとおっしゃるのでしょうな? どんな危険でしょうな? これはいずれも合点のゆかぬ問題ですが、しかしほかでもないそのゆえに私はあなた方の御判断にこれをお任せしなければならぬと思いましてな、エドモン様不在のため生まれからいってこの工場の上に立っておられるあなた様方の御判断に。」  彼はもう十分二人に対して猫の鼠に対する役割を演じた、がもう一遍うんと強く引っぱたいて彼らをはね上げることができると思い、 「エドモン様が今にも、恐らくは明日にも帰って来られるらしいということは事実ですぜ、少なくとも、ヴュルフラン様がまるで火の出るように熱心に行方を捜索させておられるあの捜索が当てになると致しますと。」 「君はすると何か知っているのかい?」と好奇心を押さえるだけの自尊心のないテオドールがきいた。 「いえ別にただ私が考えるだけでございますが。つまりヴュルフラン様があの娘をお引き取りになったのは、印度から来る手紙や電報を訳させたいというただその為なんですな。」  それから大袈裟に親切気を見せて、 「あなたが、カジミール様が、あらゆることを学ばれたというのに、英語を御存じないとは、ともかくも残念なことでございますな。事の次第がよくお分かりになれるところですがなあ。その権利もないのにお邸に入り込もうとしているあの娘を追っ払うことになるのは申すまでもございません。たぶんあなた方は、もっとよいほかの手段を見つけてこれに成功なさるに違いありません。もしお役に立つようでしたら私を当てにして頂きたいもので・・・むろん大した物にも見えますまいが。」  と話しながら、当面の必要からというよりはむしろ習慣の力で、時々相手に気づかれぬよう、すばやく庭の方へ視線を投げていた。その時彼は、電報配達人が急ぎもせず、右へ左へ道草を食いながらやってくるのを見た。 「ちょうど電報が来ました、ダッカ宛に打った奴の返事かも知れません。ともかくあなたがたが、あの電報の内容を知って令息のお帰りをいちばん先に御主人にお知らせになるという具合に参らぬのは面白くありませんな。さぞお喜びでしょうがな、ええ? 私の方はもういつでもいいようにお喜びの用意が出来ておりますぜ。ところで、あなた方は英語を御存じないときている、あの娘は英語を知っている、あの娘は。」  電報配達人は、どんなに足を前へ運ぶのを惜しがっても、とうとう階段の下まで来てしまった。急いでタルエルはこれを迎えに出て、 「おい、あまり早くないな、お前。」 「そんなに御心配なんですかい?」  タルエルは答えず電報を取って、やかましく音を立てながら、大急ぎで、ヴュルフラン氏のところへ持って行って、 「私が開きましょうか?」 「よろしい。」  しかし点線のところを破るや否や叫んだ、 「英語でございますな。」 「それならオーレリーの仕事じゃ、」とヴュルフラン氏は、監督の服従せずにはおられない身振りでいった。  扉が締まるとすぐ彼女は電報を訳した。 「『友人ルセール、フランス人の商人、最近の消息五年前、デラ、マケルネス神父、よろしくば便りせられたし。』」 「五年前か、」とヴュルフラン氏はまずこの知らせだけが身にこたえて声をあげた。それ以来どんな事が起こったろうか? 五年も経った後、どうして行方を尋ねたものか。  しかし無益な嘆きに暮れるような人間ではなかった。彼は自分から言って聞かせるのであった。 「悔いたところで出来てしまったことは仕方がない。それよりもわしらの知っていることを利用しよう。おまえはすぐにそのルセール氏に、フランス人だからフランス語で、電報を打ちなさい、それからマケルネス神父にも英語で。」  少女は、英語に直すはずの電文をすらすらと書いた、がフランス語で電信局に差し出す方のものは、始めの一行からペンが動かなかった、そこでベンディットの部屋へ字引を取りに行ってもいいかどうかと尋ねた。 「お前は綴り字に自信がないのか?」 「ええ! 少しもございません。それであなたのお打ちになる電報を局で笑われたくないのです。」 「するとお前は間違わずに手紙が書けぬのじゃな?」 「手紙を書きますと決まって沢山の間違いを致します。文句も始めのうちはどうやらゆきますけれど、しまいがけになって一致の規則に従わなければならなくなりますと、もういけません、同じ字を二つ重ねて綴るところのある単語もだめですし、その外の沢山のことが駄目なのでございます。綴りはフランス語より英語の方がずっと楽でございますわ! こうすぐにありままを白状致しておいた方がいいと存じます。」 「学校へは行かなかったのか?」 「参りませんでした。ただお父さんとお母さんとが、旅の都合次第で、腰をおろす時間が出来ましたり休んで土地に滞在したり致しました折り、教えて下すったことしか存じません。そんな折り、両親は私を勉強させたものでした、でも本当は、私そんなに勉強は致しませんでした。」 「ありのままを言って感心じゃ。いずれそれは直すように考える。差し当たりわしらの仕事をやろう。」  午後工場巡回の時、馬車の中で始めてヴュルフラン氏はこの綴り字の問題に戻って、 「お前は親戚のものに手紙を書いたかな?」 「いいえ。」 「なぜじゃ?」 「私は、いつまでもここにいてあなた様のおそばで親切なおもてなしを受け、こんなに仕合わせな暮らしをさせて頂ける限り、何も欲しいと思いませんので。」 「ではわしを離れたくないと思っているのか?」 「私は毎日何事につきましても、心の中の感謝の念を・・・その他また現わす勇気が出ませんが色々な尊敬の気持ちを、示したいものと思っているのでございます。」 「そういうことなら手紙を書かぬのが一番よかろう、少なくとも今のところでは。まあおいおい考えるとしよう。がわしの役に立とうというのならお前も気張って、多くの仕事に秘書役をつとめるようになってくれなければならぬ、わしの名前で書くのじゃから相応に書いてくれなければのう。それにまた稽古すると言うのもお前に適当な、ためになることじゃ、お前やるか?」 「何事もお召し通りに致します、きっと勉強はいといません。」 「そうだとすると仕事は、お前の助けを断るというようなことなしに決まりがつく。大変立派な小学校の女の先生がここにいるのじゃ、戻ったらその人に、放課後、わしの仕事がすんでから、六時から八時まで、お前を教えてくれるかどうか、聞いてみよう。大変いい人でな、まずい点は二つしかない、つまり背がわしよりもずっと高くて、肩幅もわしより広いのじゃ、まだ四十歳にもならないというのに、ずっとどっしりしていて、−−それから名前はベローム嬢(ベロームとは美しい男という意・訳者註)といい、この名前は遺憾ながらよくこの人を言い表しておる、実際、ひげのない美しい男じゃ。よく見ればそんな風な点はない、という人があるならそれはあやしい。この人は高い教養を受けてから、個人教育を始めたが、幼い女の子らはその鬼のような威容を怖がるし、お母さん連や大きな姉妹どもはその名前を笑うので、町の人々を見捨てて、勇敢に初等教育に就いた、これが大変成功して、受け持ちのクラスはこの県で首位を占めており、校長連はこれを模範教師と見ておる。アミアンから呼ぶとしてもこんな良い先生はあるまい!」  工場巡回が終わると馬車は女生徒たちの小学校の前に止まり、ベローム嬢はヴュルフラン氏のそばへかけて来た、が氏はお願いをしたいのだからどうしても馬車を降りてうちへ入るというのだった。そこでペリーヌは二人の後から歩いて行きながらベローム嬢を観察することができた、なるほどヴュルフラン氏のいう堂々たる大女だ、しかし品位と優しさとが混じっているので、もしその威容にそぐわないおずおずした態度がなかったら、誰も彼女を笑おうというような気は起こさなかったに違いない。  むろん先生は、マロクールの全権を握っている人の願いを拒むわけはなかった。もっとも先生は、教育ということが好きで実際これがこの人の生活のただ一つの楽しみだったのだから、こうむりたくない差し支えもある場合には起こり得たわけである。それに先生はこの深い眼をした娘が気に入った。 「教養のある娘に仕上げます、」と彼女はいった、「間違いはございません。あなたはこの娘が羚羊(かもしか)の眼をしていることを御存じでいらっしゃいますか? それは私はまだ羚羊(かもしか)というものを見たことはございませんけれど、でも確かに羚羊はあんな眼をしていると思いますわ。」  しかしこの先生が、二日の稽古の後に、羚羊というものがどんなものかを知り、晩餐の時刻に帰宅したヴュルフラン氏から娘の感想を問われた翌々日は、これと大分違っていて、 「何という災難だったのでしょう、」とベローム嬢は自分みたように大袈裟な強い言葉を好んで使うのであった、「何という災難だったのでしょう、この娘が教育されないでいましたとは!」 「賢いでしょう?」 「賢いどころではございません! もしこういうことがいえますなら、賢いことこの上なしとでもおっしゃって下さいまし。」 「書く方はどうでしょうな?」とヴュルフラン氏は、ペリーヌをその方に使う必要上、質問をそちらへ向けた。 「芳しくはございません、が上手になりましょう。」 「綴り字の方は?」 「おぼつかのうございます。」 「そうすると?」 「あの娘を見ますのに、書き取りをやってみてその書き振りなり綴り字なりを正確に知ることもできましたが、しかしそうすればそれだけのことでございます。私はあの娘のもっとよい意見を叩きたいと思いましてマロクールについて短文を綴らせました、二十行でも百行でもいいからこの地方がどんなところか、ここをどんなふうに見るか、述べてごらんなさい、と。一時間足らず、すらすらと考え込みもしないでペンを走らせていましたが、本当に珍しい四枚の大文章を書いてくれました。村そのもの、工場、一帯の景色、細部、全体、全てがそこに纏められております。一枚は池と池の植物や鳥や魚のこと、朝靄の中や夕暮れのきれいな空気の中の池の姿のことで、もし私があの娘の書いているのを見ていませんでしたら、誰か立派な作家のものを写したなと思ったかもしれません。残念ながら書体と綴り字とは、申し上げた通りでございます、でもそれは取るに足らないことでございますわ! 二、三ヶ月も稽古すればいいんですから。しかしもしあの娘が、見たり感じたりする天性を、また見たり感じたりしたことを言い表す天性を受けていませんから、どんなお稽古をしてもあの娘に書くことを教えることはできません。おひまでしたらこの池のことを書いたのをお読ませになってごらんなさいませ、私が大袈裟に申し上げているのではない証拠を、あの子が見せてくれましょう。」  ヴュルフラン氏は、娘に対し急速に激しい愛情を抱くようになっていたがその愛情の上に浮かんでいた抗議の心が、そう批評されると消えてしまったので、上機嫌になってベローム嬢に向かい、ペリーヌがそうした池の中で隠れ小屋に住んだ次第を、また身近で見つけたもの以外には何者をも用いないでスペイン靴を造ることができ、また一切のお勝手道具をも作り、これで、その池から取った鳥や魚や花や草や果物で、申し分のない晩餐を整えた次第を語って聞かせるのであった。  この話の間ベローム嬢の大きな顔は輝いていた、きっと話が面白かったのだ。氏が語りやめると、彼女自身も考え込んで沈黙を守った。遂に口を開いて、 「自分に必要な品物を作り出すことができるというのは何よりも好ましい第一の性質ではございませんか?」 「確かにそうですな、あの娘が最初にわしを驚かせたのはほかでもないその点なのです、その点とそれからその意志ですな。あれに話を聞いてごらんなされ、そこまでやり遂げるのにどんなに気力が要ったかお分かりになりますじゃろう。」 「あの娘はその甲斐があったわけでございますね、あなた様が心を惹かれていらっしゃるのですから。」 「心を惹かれてもおり、愛着を持ってさえもおりますのじゃ、わしは、わしを今日のようにしてくれた意志というもの、これほど人生で大切なものはないと思っておりますからな。だからわしはお願いしますのじゃが、あの娘の意志が強くなるよう仕込んで下されい。望みさえすればなんでもできるというのはもっともな言葉じゃが、少なくともそれは意欲の持ち方をちゃんと心得てからの話ですからな、こいつは誰でも心得ているというわけにはゆかぬものでしてまず教えてかからなければならぬ、もっともそこに然るべき方法がありとすればですがな。ところが教えるとなると、ただもう才智ばかりを気にかけ、まるで人格なぞというものは後回しにするもののようですわい。ともかくあなたは、そういう方面に恵まれた生徒をお持ちなのだから、どうぞそれを伸ばしてやるよう精出して下され。」  ベローム嬢は、お世辞を言う事のできない人だったがまた、はにかんだり困ったりして黙っていることもできない人だった。 「仕込むことよりもお手本の方がずっと効き目のあるものでございますから、あの娘は私に学ぶよりもずっとよくあなたに学ぶことでございましょう。そうしてあなたが、幾年月の御病気をおいといなく、また財産がおありになるにもかかわらず、義務の遂行とお考えになっていらっしゃる事柄に一時もたゆまずに励んでおられるのを見ましては、あの娘の人格は、あなたのお望み通りの方向へ伸びてゆくことでございましょう。いずれに致しましても、あの娘が万一、自分の感動しなければならぬ事柄を身近にしながら、ぼんやりしていたりよそ事のようにしていたりしましたら−−まさかそんなこともあるまいと思っておりますけれど、−−そうしましたら、私は必ず御尽力申し上げるつもりでございます。」  この人は誓いを守る人だったから実際、機会を見てはヴュルフラン氏のことを口にした。そうして往々ついペリーヌの巧みな質問に乗ってしまい、厳密に言えば勉強にとって必ずしも必要でないようなヴュルフラン氏に関した事柄を語らせられるのであった。  少女は、むろん一心にベローム嬢のいうことを聴いた、たとい『名詞に掛かる形容詞の一致』の規則とか、『他動詞、受け身の動詞、自動詞、本来的及び転化的代名動詞における、また非人称動詞における過去分詞』の規則とかの説明を聞かなければならない時でも一心に聞いた。しかしヴュルフラン氏のことに話を持ってゆくことができた時、どんなに少女の羚羊(かもしか)の眼は一層の興味を示したことであろう、殊にそれが自分の知らない事柄であったり、ロザリーの物語やファブリとモンブルーの談話などではよく分からなかった事柄であったりした時は。だってロザリーの物語はどうも不正確だったし、ファブリとモンブルーの談話にしても、わざと謎めいたものにされており、自分たちの間で話すのであって他人に聞かそうというのではなく進んでは他人に分からないようにとさえ気を配っているのだから、そこに言い抜かしがあり省略もあった。  ペリーヌは何度かロザリーに向かって、ヴュルフラン様の病気はどんな具合なのか、どうして盲目になられたのかと尋ねたものだった、が漠然とした返事しか受け取らなかった、ところがベローム嬢ときたら、病気そのものに関しても、失明のことに関してもどんな詳しいことでも知っていた、そうしてこの失明は治せないことはない、が、治せるとしても、手術を確実に成功させるある特別の条件が備わらなければ難しいとのことであった。  マロクール村では皆そうだが、ベローム嬢もヴュルフラン氏の健康を案じた、そうしてリュション先生とたびたび話し合っていたから、ロザリーとは違って適当な仕方でペリーヌの好奇心を満足させてやることができた。  ヴュルフラン氏は二重の白内障にかかっていたのである。しかしこれは不治のもののようではなく、手術をすれは視力は回復するらしかった。その手術が未だ行われないのは氏の大体の健康がそれを許さないからである。事実氏は慢性の気管支炎に悩んでいた、そうしてこれと併発して肺がたびたび充血し、またこれに呼吸困難、心悸亢進、消化不良、睡眠不足が伴った。手術が可能になるためには、まず気管支炎が治り、またほかの事故が皆無くならなければならない。ところでヴュルフラン氏はいとうべき病人で、次々と不用意なことをしでかし、正しく医者の指図に従うことを拒んだ。実をいうと、指図に従うことは必ずしも容易なことではなかった。息子の行方不明やその捜索の仕事のために絶えず不安や怒りに襲われ、これが働かないでは鎮まらない不断の熱を生ぜしめるというのに、どうしてリュション先生の命令通り安静にしておられようか? 息子の身の上がはっきりしない限り、手術の機会はなく、手術は延期される。後になってもできるだろうか? それは分からない。いい手当によって氏の状態が眼科医を決心させるほどに保証されない限り、こうしていつまでもぐずぐずしているのだ。  ベローム嬢をヴュルフラン氏のことに引き込んで話をさせるということは、結局はペリーヌにとってかなり容易なことであった、しかしベローム嬢に、あのファブリとモンブルーとが甥やタルエルの抱く秘密の希望について教えてくれた会話の補いをさせようとすると、そうはゆかなかった。先生は決して馬鹿ではなかった、なかなかそれどころではなかった、そんな話題に関しては直接にも間接にも質問をさせはしなかった。  ヴュルフラン氏の病気はどうなのだろう、どういう訳で病気に罹ったのだろう、視力がいつか回復し或は回復しないというためにはどんな機縁があるというのだろう、こうしたことをペリーヌが知りたがるのは、これはもうごく自然なことであり、自分の恩人の健康を気遣うという点からいえば正当なことでさえあった。  が村で噂している甥やタルエルらの陰謀に対しても同じ好奇心を示すということは、これは確かに許すべきことではない、そんなことが娘どもの知ったことだろうか? そんなことが師弟間の会話の種であろうか? こんなふうな話やお喋りで子供の人格を作るものだろうか?  だから少女は、この点についてはこの女教師から、何事かを、−−それがどんな事であるにせよ−−聞き出すということは断念しなければならなかったかもしれない、しかしカジミールの母親ブルトヌー夫人のマロクール訪問があってこれがため、きっといつまでも閉じられたままでいたであろうベローム嬢の唇は開かれたのである。  この訪問のことをヴュルフラン氏に聞いてペリーヌはそれをベローム嬢に知らせ、明日の勉強は妨げられるかもしれないといった、するとこの知らせを受けた時から先生は全く珍しい熱心を示すのであった、なぜなら何事にも気を散らさないということ、ちょうど危険に満ちた通路を馬に乗り越えさせなければならぬ騎手のように絶えず生徒を引き締めているということ、これが先生の性質であったからである。  先生はいったいどうしたのだろう? 幾度もペリーヌが怪しんだこの疑問に、先生は帰る少し前になってやっと返答をしてくれた。ベローム嬢は声を落として、 「私はあなたに勧めておかなければならないが、明日、訪問なさる御婦人に向かってあなたは控え目にして、遠慮していなければなりませんよ。」 「どういう事を控え目にするのですか? 何を、どんな風に遠慮するのですか?」 「私はあなたの勉強のことばかりでなく、あなたの教育のことをもヴュルフラン様から頼まれています、ですから私はそうあなたに勧めるのです、あなたの為にもなり皆の為にもなるようにと思って。」 「どうぞ先生、私がどうしたらいいのか言って聞かして下さい、先生のお勧めがどういうことなのか、私には本当にちっとも分からないのですもの、それで私は怖いのです。」 「あなたはマロクールに来てまだ幾らも経たないけれど、ヴュルフラン様の御病気とエドモン様の行方不明とが村中の心配の種だということを知っているはずです。」 「ええ、そういう話は伺っております。」 「もしヴュルフラン様が亡くなられエドモン様がお帰りにならなかったとしたら、職工たちの御陰で暮らしている人々を勘定に入れないでも七千人という職工の生活を支えているあの工場は、どうなるでしょうか? そんな疑問を抱けばもの欲しい気持ちが動かずにはいないということはあなたにも分かるはずです。ヴュルフラン様から工場の管理を譲り受けるのは、あの二人の甥御かしら? それとも、ヴュルフラン様の頼もしく感じられた方のどちらかの甥御だろうか? それともまた二十年来氏の右腕となり、氏と共に巨大な機械を動かしてきて、恐らくは誰よりもこの機械を衰えさせない能力を持った男だろうか? ヴュルフラン様が甥御のテオドール様を招かれた時は皆、このお方を後継ぎになさるのだと思いました。しかし去年カジミール様が土木の学校をお出になるとこのお方を呼び寄せられたので、みなは思い違いだった事を知り、またヴュルフラン様が、自分の息子をしか後継ぎにしたくないと思っておられるという決定的な理由からして、誰を選ぶとも決めていらっしゃらない事をも覚りました、ヴュルフラン様は仲違いなすって十二年以上も別れていらっしゃるけれど自分の息子だけを、父としての愛情と自尊心とをもって愛しておられ待っておられるのです。エドモン様は帰って来られるかしら? これは分かりません。だって生死のほども知れないのですから。たった一人、ほかでもない私たちの前の牧師様ポアレ師が、エドモン様とお互いに消息をやり取りしていらしったらしいのですが、このポアレ師も二年前に亡くなられ、今日ではどういう事情になっているのか知ることはできないということが、まず動かぬところのようです。ヴュルフラン様としては、いつかそのうちに息子は帰ってくると思い、またそう確信しておられますし、エドモン様の死亡を望んでいる人たちの方も、エドモン様は実際亡くなられたのだとやっぱり固くそう思い、そう確信していて、この死亡の知らせがヴュルフラン様にまで届きその上ヴュルフラン様の生命を奪うというようになった時には、自分こそ境遇の支配者になろうと画策しているのです。ヴュルフラン様と親しく暮らしているあなたが、自分の息子を危ない目に遭わそうとする連中を向こうに回し自分の息子の為にあらゆる手段を講じて立ち回っておられるカジミール様のお母様の前で控え目に遠慮深くしている事はなるほど大切だと、今はあなたは納得するでしょうね? あなたがもしカジミール様のお母様とあまり親しくするとテオドール様のお母様とは具合が悪くなりますし、同じようにもし、遠からずお見えになるに決まっているテオドール様のお母様とあまり親しくするとブルトヌー夫人を敵にまわす事になります。もしこのお二人から寵愛を受けると、このお二人のことはなんでも警戒しているある男の敵意をおそらくは招く、これはいうまでもありません。こういうわけで私はあなたに十分用心なさいと勧めるのです。できるだけ口を利かないようになさい。どうしても返事しなければいけないような問いをかけられてもいつも、何でもないような事柄かぼんやりした事柄のほか答えてはいけません。自分をひらめかすよりも自分を消し、あまり賢すぎる娘に見せるより少々のろまな娘と思わせる方が得をする事は、人生にはたびたびあります、あなたの場合がそれです、あなたは賢く見えなければそれだけいよいよ賢いのです。 34  親切な好意を持って与えられたこの忠告は、ブルトヌー夫人の来訪を既に心配していたペリーヌを安堵させはしなかった。  しかしその忠告は、大変真面目なものではあったが、どちらかといえば事の真相を大袈裟に述べるよりは緩和して述べていたのである、なぜならべローム嬢という人は、体格からいえば遺憾ながら大層な人であったがまさにその為に、心についていえば極度に慎み深くけっして差し出るような事はせず、ただ事柄を示すだけで強調はせず、半分だけしかいわず、万事につけて、今自分がペリーヌに与えたようなそうしてまた自分自身のものでもあったところの訓戒を実行する人であった。  実際、事情はベローム嬢の語ったよりも更にずっと面倒だった。それはヴュルフラン氏の周囲で動揺しているもの欲しい連中の欲のゆえでもあり、また自分の息子だけにマロクールの工場及び一億に上るという財産を継がせようとして戦っている二人の母の性格ゆえでもあった。  一方の母すなわちヴュルフラン氏の兄の妻スタニスラス・パンダヴォアヌ夫人は、その卑俗な趣味からして当然自分の物だと信じていた華々しい生活をサンチエ街の大きな織物商人である夫が自分にさせてくれるのを待ちつつ渇望に身を焦がしながら暮らしてきた。ところが夫も幸運もこの野心を実現させてくれなかったので、今はテオドールがその叔父の御蔭で彼女の持ち得なかったものを手に入れ、彼女の得そこなった地位をパリ社交界において得るのを待ちながら、相変わらずやきもきしているのである。  もう一方、ヴュルフラン氏の姉ブルトヌー夫人は、税関の代理事務、海上保険事務、セメント炭商人、船舶の艤装者、運送取扱忍、運搬屋、海上運送、あらゆる種類の職業を重ねても一向お金の出来ないブーローニュの一貿易商人に嫁いでいた人だが、−−これも自分の弟の財産を欲しがっていた。資産に対する愛着そのもののためでもあったし、自分の嫌いな義姉からそれを横取りしてやろうという為でもあった。  ヴュルフラン氏とこの息子とが仲良く暮らしているうちは、この女たちは弟のヴュルフラン氏から、返しもしない借金だの、商業上の担保だの、権利みたようなものだの、あらゆる事をだしに、この富裕な親戚を無理矢理に承認させて、そこから得られる利益を吸うことで満足していなければならなかった。  しかしエドモン氏が、ひどい贅沢と甚だしい散在をしたため、うわべは父の工場の苧を買いに、しかし実際は懲らしめとして、インドへやられると、この姉と義姉とはこの事情につけこもうと考えた。そうしてこの楯突いた息子が父の反対をおして結婚すると、二人の女性らは、めいめいが、やがては自分の倅をあの追いやられた人の位置につけようと手回しを始めた。  その頃テオドールは二十歳になっていなかった、そうしてそれまでの彼の様子から勤めや商売上の取り引きには向きそうになかった。好みも考えも母に仕込まれ、大事にされ甘やかされて、じきに膨れるかと思うとまたじきに空になる財布を持った良家の子弟どもに向かってパリの提供する芝居や、競馬や、いろんな遊びの為にだけ生きていたのである。それが、働くということをしか理解せず、甥に対しても最下級の雇員に対しても劣らず厳しい工場主の鞭の下で村に閉じこもらなければならなかったとは、何という転落であったろう! テオドールはこの腹立たしい生活を、ただもうその生活の与える倦怠、疲労、嫌気に対して軽蔑を抱いてのみ、辛抱した。こんな生活は棄てようと一日に十遍も決心した、そうして一向それを棄てなかったのは、今に自分がこの大事業の唯一人の主人になり、そのあかつきには、高いところから、そうして遠くから、殊に遠くから、というのはつまりこの惨めな生活から厄のがれできるであろうあのパリから管理できるような具合に、事業を経営してやろうという希望があったからである。  テオドールがその叔父と一緒に働き始めた頃、カジミールは十一歳か十二歳にしかならず、ために従兄のそばで地位につくには余りに若かった。しかしそうだからといってカジミールの母は息子が無駄に過ごした時間を取り戻してそういう地位につくという望みをすてなかった。カジミールは技師となって、数学に秀でた頭でヴュルフラン氏を見下すだろうし、同時にその正式の優秀さをもって、何の学歴もない従兄を圧倒するだろう。と、そこでカジミールは理工科学校に入るよう焚き付けられ、この学校の試験に必要な科目しか勉強しなかった、それも数学の得点は五十八倍、物理の得点は十倍、科学のは五倍、フランス語のは六倍される規定なので、これらの数字に比例してしか勉強しなかった。そこで、彼にとっては遺憾な結果が生じた、つまりマロクールでは日常の通俗な知識がXをひねくるよりも役に立ったからこの技師は、叔父を見下しもしなければ従兄を圧倒しもしなかったのである。それどころか、この従兄の方が十年間の商業生活に得をしていた、というのは、この従兄は、学者ではなかった、これは彼自身そう認めていた、が少なくとも実際家であった、これこそ自分の叔父の為には第一の長所だと心得て、テオドールはよくそれを主張したものだった。 「一体あの連中に実利ということを教えこめるもんだろうか?」とテオドールはいう、「だってあの連中ときたら、きちんとした綴りで、はっきり事務の手紙一つ書けないんだから。」 「僕の従兄ときたらパリしか暮らすところはないように思っている、困ったことだ!」とカジミールは説明する。「これ以外にどんな力添えを叔父さんにしようというのだろう! だって木曜日になると土曜の晩パリへ向けてずらかることしか考えず、万事をこの目的の為にのみ整えたり乱したりし、月曜の朝から木曜日まではパリで過ごした日曜日の一日の思い出にぼんやりしているという偏執狂が、何の役に立つ?」  母親どもはこの二つの話を飾りたててもっぱら語り広げるばかりであった。しかしヴュルフラン氏は別段母親どもから、テオドールこそ自分の後継ぎにできるとか、カジミールこそ自分の本当の息子であるとか説き伏せられはしなかった、それどころかむしろヴュルフラン氏は、テオドールに関してはカジミールの母のいうことを信じ、カジミールに関してはテオドールの母のいうことを信ずるようになっていた、つまり氏は実際のところ、現在も将来も、どちらの人間をも信用することはできずにいたのである。  甥たちに対する氏の心構えというものはここから来ていたわけで、その心構えは、ただもう自分の息子だけをあとつぎにと喧しく主張する母親たちめいめいの気構えとは、まさしく別のものであった。とても、どう考えても、あの息子どもはどうも、と氏は思うのだ。  その上、この連中に対するヴュルフラン氏のやり方には、氏がこの隔てを万人の眼に明らかにすることを重んじている様子が容易に見て取られた、なぜなら氏は、八方から直接間接にあらゆる種類の懇願をされたにもかかわらず、別段部屋のないわけでもない自分の邸宅に甥どもを泊めることを決して承諾しなかったし、またどんなに自分の内的生活が悲しい寂しいものであろうとこれに甥どもの割り込んでくることを許さなかったのである。 「わしはわしの周囲に争いとか嫉妬とかを好まぬ。」と氏はいつも答えた。  そういう訳からして、氏はその自邸を建てる前に自分の住んでいた邸をテオドールに与え、モンブルーの先任者、元の会計係長の邸をカジミールに与えたのである。  だから甥たちは、自分らさえお客様のようにしてしか入らないお邸に、見も知らぬ女が、一人の娘が、乞食娘が住み込んだのを見た時、その驚きは強かったし、その憤慨は激しかった。  これはどうしたというのだろう?  あの娘は何者だろう?  どういう事を気遣えばいいのだろう?  これらはブルトヌー夫人が息子に質問した事柄なのであったが、息子の返答に満足がゆかないので、夫人は自分自身でただしてはっきりさせようと思った。  着いた時はかなり不安だった夫人も、幾らも経たないうちに安心した、それ程ペリーヌは、ベローム嬢の教えこんだ役割を上手に演じた。  ヴュルフラン氏は、なにも甥たちを自邸に住まわせようとはしなかったけれど、決して人を款待しないというのではなかった、むしろ自分の姉や義姉や兄や義兄などがマロクールへ逢いに来ると、これらの家族を十分に贅を尽して款待した。そんなときお邸はいつもにない祭りのような様子になり、炉は盛んに火をあげ、召使いらはその仕着せを着、馬車や馬は正装して車房から出、馬舎から出た。そうして日が暮れると、村人たちは闇の中に、お邸が一階から頂きの窓々に到るまで燃え上がるように輝くのを見た。料理人やホテルの主人らは食料品を抱えてピキニからアミアンへ、アミアンからピキニへと駈け廻るのであった。  そこでブルトヌー夫人を迎えるのにも、これまでの習慣に従った、そうして夫人がピキニ駅に降りると四輪の幌馬車と馭者とそのお供とが迎えに出ていて夫人をマロクールへ運んだし、馬車を降りると、バスチアンがいて、二階に取ってあるいつもの部屋へ夫人を案内した。  しかしそうだからといって執務の生活は、それがヴュルフラン氏の生活でも甥たちの生活でもカジミールの生活でさえも、何の変更もなかった。氏は食事時間に妹に逢う、また宵を姉と一緒に過ごす、がそれ以上に出ることは決してない、仕事が何より大切なのだ。息子や甥たちとしてもやはり同じことで、息子や甥たちはお邸で午餐をし晩餐をする、また夜は好きなだけ遅くまでそこにいる、がただそれだけのことだ。執務時間は神聖であった。  執務時間が甥たちにとって神聖ならそれはまたヴュルフラン氏にとっても、従ってペリーヌにとってもまた神聖な訳で、その為にブルトヌー婦人は、思うように『乞食娘』を詮議立てし、その詮議を貫徹するということができなかった。  バスチアンや小間使いたちに尋ねたり、フランソアズのうちへいってフランソアズお婆さんや、ゼノビやロザリーに上手に質問するということは造作なかった、そこでこの方面から婦人は、人々の与えることのできるあらゆる情報を、−−少なくとも『乞食娘』がこの村へやってきたこと、その後の娘の暮らしの仕方、最後にこの娘が、ただもう英語を知っていた為であったらしいが、ヴュルフラン氏の側に住みこんだこと、そういうことの情報を手に入れることができた。しかし氏のそばを離れないペリーヌ自身を吟味すること、ペリーヌに口を利かせて、一体どんな娘か、どんな考えを持っているかを見る事、さようにしてペリーヌの俄かの出世の原因を探る事、これらは容易に都合がつかなかった。  食卓ではペリーヌはとんと口を利かない。朝はヴュルフラン氏と一緒に出る。昼食後はすぐ自分の部屋へ上がる。工場巡回から帰るとベローム嬢と一緒に勉強する。夜、食卓を離れるとまた自分の部屋へ上がってしまう。そうしてみると、いつどこでどんなふうにして、彼女の一人でいるところをつかまえ、差し障りなくこれを戻す事ができるのか?  ブルトヌー夫人は仕方なく、出発の前日決心してペリーヌの部屋へ逢いに行った。ペリーヌは夫人から厄のがれできたと思って静かに眠っていた。  扉をこつこつと叩く音に、彼女は目が覚めて、耳をすますと、また音がした。  少女は起きて手探りで扉のところへ行った。 「どなたですか?」 「あけて下さい、私です。」 「ブルトヌーの奥様?」 「そうです。」  ペリーヌは閂を引いた、するとブルトヌー夫人はすばやく部屋の中へしのびこんだ、一方ペリーヌは電燈のスイッチを押した。 「休んでいらっしゃい、」とブルトヌー夫人はいった、「その方が話しよいから。」  そうして椅子を寄せて、ペリーヌを前に置くような具合にして、寝台のすそのほうに坐った。それから話し始めた、 「兄(*弟?)のことでお話ししたいのです、少々あなたに注意をしておきたい事がありますので。あなたはギヨームに代わって兄のそばについているのだから、あのギヨームがあれにも短所はありましたけれど兄を色々気遣ってかしづいてくれたように、あなたも兄の健康に大切ないろんな用心をして下さるでしょうね。あなたは利発で気質のいい娘のようだ、だからあなたも定めしギヨームと同じように私たちの為に尽力して下さるでしょうね。きっとお礼は致しますよ。」  ペリーヌは最初の言葉に安心していた、だってヴュルフラン様のことを話したいと言うのだからにはなにも心配する事はない。が利発なようだとブルトヌー夫人のいうのを聞いて少女に疑いが起こった、だって本当に賢くてずるいブルトヌー夫人が、真面目でそんなことをいう筈はなかったからである、さて夫人が真面目でないとすれば用心が大切だ。 「有難うございます、奥様、」と少女はその間の抜けたような微笑を誇張していった、「もちろん私もギヨームさんと同じようにお力添えをしたいと望むばかりでございます。」  少女は、何でも私にお頼みになればいいのですということを相手にさとらせるように、この終わりの方の言葉に力をいれた。 「あなたは利発だと私は言いました、」とブルトヌー夫人は続けた、「私たちはあなたを当てにする事ができると思います。」 「お言いつけになりさえすればよろしいのでございますわ、奥様。」 「まず最初に必要な事は、兄の健康につとめて注意し、風邪を引かないようにできるだけ用心してもらいたいのです。風邪は、あの人の癖ですぐに肺の充血を起こして生命にかかわるような事になるか、気管支炎を悪化させるかしますから。気管支炎が治ったら、手術をしてまた眼が見えるようになるのですものね? 考えてごらんなさい、そうなったらどんなに私たち皆が喜ぶことか。」  今度はペリーヌは答えた。 「私だって本当に嬉しゅうございます。」 「あなたの優しい心持ちはそれでよく分かります、でもあなたは、そりゃあどんなに世話を受けて感謝していなすっても、身内の者ではないのだから。」  少女はまた間の抜けた様子をした。 「もちろんそうでございます、がそうだからといって私がヴュルフラン様をお慕い申し上げていけないことはございません、奥様もそうお考えになると存じます。」 「それはそうです。私の申したような心遣いを常にやっていて下されば、それがあなたの愛慕のしるしになります、でももっといいしるしがありますよ。一体私の兄は寒さだけが禁物なのでなくて、ふいに感動するようなこともまた禁物なのです、出し抜けにやって来られると生命が危ないのです。それで、男の方たちの私におっしゃるには、今兄は、息子のつまり私たちの愛するエドモンの消息を知ろうとして印度で盛んに捜索をさせていますそうで。」  夫人はちょっと間を置いた、がそれは無駄だった、なぜならペリーヌは、『男の方達』つまり二人の従兄弟らがあの捜索のことをブルトヌー夫人に話した筈はないと十分確信していた為、この誘いに乗らなかったからである。カジミールは話したかもしれぬ、それは少しも怪しむべきことでない、カジミールは自分を助けて貰う為に母を呼んだのだから。しかしテオドールも話したろうか、これはあり得るべきことでない。 「その方々のおっしゃるところによると、手紙や電報はあなたの手を通り、あなたがそれを兄に翻訳なさる。それが何ですよ! 悪い消息になるようだと大変なことになりますからねえ、そうなる見込みはもうただあり過ぎるばかりなので、ほんとにまあ厭な話ですこと! どうかうちの息子にいちばん先に知らしてやりたいものです。息子は私に電報を寄越すでしょうし、ここからブーローニュへは大した距離ではないから、私が駈けつけて気の毒な兄を力付けることができます。姉妹、殊に姉というものは、義姉とはまた違った慰めの言葉を心の中に見つけるものですからね。分かりますかえ?」 「ええ、ほんとによく分かります、少なくとも、分かるような気が致します。」 「では当てにしていてようございますわね?」  ペリーヌは一瞬躊躇した、が答えない訳にゆかなかった。 「私にできますことならなんでも致します、ヴュルフラン様の為に。」 「あの人の為にすることは私たちの為になり、私たちの為にすることはあの人の為になるのです。私たちが恩知らずでないというしるしを今すぐあなたに見て頂きましょう。あなたはもし貰うとしたらどんな衣裳がお好きですか?」 ペリーヌは何も答えたくなかったが、この申し出には返事をしなければならなかったので微笑で答えた。ブルトヌー夫人は続けた。 「きれいな衣装で引き裾のついたのは?」 「私は喪中ですから。」 「喪中だって引き裾の衣裳を着るのは構いませんよ。あなたは兄の食卓にでるのにしては身なりが適当でありません、むしろ大変まずいくらいです、下手な着こなしで、まるで学者犬みたように。」  ペリーヌは自分の身なりのよくないことは心得ていた、しかし学者犬と比べられたので、殊にこの比較が明らかに自分を貶めようとしてなされたので、少女は侮辱を感じた。 「私はラシェーズ夫人の店で見立てて買ったのです。」 「ラシェーズ夫人も、あなたが宿無しだった時ならそんな身なりをさせてもよかったでしょう、が今は兄が自分の食卓につくことを快く許してくれているのだから、私たちに恥ずかしい思いをさせるようではねえ、内輪の話だけれど私たちはこの頃恥ずかしく思っているんですよ。」  そう決め付けられて、ペリーヌは自分の演じている役割を忘れてしまい、 「まあ!」といってしおれた。 「あなたのあのブルーズのおかしいこと、あなたは気がつかないでしょうけれど。」  ブルトヌー夫人は、思い浮かべて、まるで少女が自分の目の前でそのすてきなブルーズを着ているかのようにして笑った。 「しかしそれはすぐに更えられることです。そうしてあなたが私たちの望む通りに、食堂用に仕立てた衣裳を着けたり乗車用の可愛い着物を着たりして立派になりなすったらその時は、それを拵えてくれた人のことを思い出して下さるでしょうね。下着類だってそうですわ。衣裳と釣り合いが取れているかしら。ちょっと見てみましょう。」  と言いながら夫人は権威ありげに箪笥の抽斗を次々にあけた、そうして馬鹿にしたような様子で、哀れんで両肩をすぼめては、すぐにそれを締めるのであった。 「こんなことだろうと思っていました、」と夫人は続けた、「情けないこと。あなたには似つかわしくない。」  ペリーヌは胸がいっぱいで何も答えなかった。ブルトヌー夫人は続けて、 「また都合よくマロクールへまいれて、お世話することができましょう。」  ペリーヌの唇から出ようとしたのは拒絶の言葉であった。少女は、殊にそんな仕方なぞで世話を受ける必要はなかったのである。しかしぐっとその言葉を噛み殺した。自分には果たさなければならない役割がある。どんな事があってもこれを怠ってはならない。つまるところブルトヌー夫人の言葉は無遠慮で荒いが、その意向は、しかし、親切で寛大だ。 「私は、兄にアミアンの仕立て屋のところを教えてそこへあなたにどうしても必要な衣裳を注文するように言いましょう、それからまたいい下着屋へもちょうど一揃いを注文させましょう、私を信用していらっしゃい、すてきなものが貰えますよ、しょっちゅう私のことが思い出されるようなものが。少なくとも私はそうあって欲しいと思います。さあもうお休みなさい、私の言ったことを忘れないようにね。」 35 『できることならなんでもヴュルフラン様の為にする』ということは、ペリーヌの眼には決してブルトヌー夫人が了解したと思っているような意味を含んではいない、だから少女は、印度や英国で続行されている捜索のことは一言もカジミールに言わないよう用心した。  しかしカジミールは、少女が一人でいるのに逢うと、打ち明け話を催促するようなふうに少女を見た。  でもたといヴュルフラン氏の命じた沈黙を破ろうと決心したにせよ、何を打ち明けることがあったろう?  ダッカやデラやロンドンからの報告は、漠然としていたし矛盾してもいたし、何よりも不完全であって、とりわけこの三年間の事柄には、埋めることの難しそうな幾つかの穴があった。しかしこれはヴュルフラン氏を絶望させなかったし、氏の信念を揺るがさなかった。『わしらは一番古い時分のことをはっきりさせたのだから、一番面倒なことをやった訳じゃ』。と氏は度々いったものだ。『どうしてわしらが近い頃のことを明るみに出せぬ訳があろう? いつかそのうちにまた糸口が繋がる、そうすればもうそれを手繰りさえすればよい』。  ブルトヌー夫人は、例のことではどうやら失敗したけれど、少なくとも、ヴュルフラン氏を気遣ってくれるようにとペリーヌに勧めたことでは失敗しなかった。これまでペリーヌは自分では、雨の日に馬車の幌を掛けたり、寒い日や霧の日に氏に外套をかけたり絹の頸巻を巻いて大事を取らせたりすることを敢えてしなかったし、また冷たい夕方に部屋の窓を締めたりすることも敢えてしなかった、がブルトヌー夫人から、寒さや湿気や、霧や雨などはヴュルフラン氏の病気をつのらせると注意された時から、少女はもう懸念や内気のゆえにためらうようなことを、やめた。  もう少女はどんな天候の時でも、必ずポケットに頸巻を入れ、注意していつもの場所に外套を置かないでは、馬車に乗らなかった、そうして少しでも冷たい風があると、それを自分で氏の両肩にかけ、またはかけて貰った。一滴の雨でも落ち始めるとすぐ、少女は停まって幌を掛けた。晩餐後の宵が暖かくないと、少女は外出をとめた。初めのうち彼女は二人で歩く時、自分の速さで歩いた、そうして氏は苦情を言わないで彼女について行った、苦情というものは、氏にとってもまたほかの人々にとっても、まさに一番厭な事だったからである。が少し早く歩かれるのは氏にとって辛いことで咳や息苦しさがこれに伴うし動悸も打つということを知った今は、彼女は実際の比率で歩く事をやめ、絶えずいろんな割合を取るようにした、それは氏を疲れさせないで、これに適度の運動を、−−ちょうど氏に有用で害のないような運動だけをさせようというためであった。  ある日の午後二人がそうやって歩いて村を通っていると、ベローム嬢に出会った。ベローム嬢はヴュルフラン氏に挨拶しないで行き過ぎてしまおうとはせず、幾つかの丁寧な言葉の後、こう言って別れた。 「あなたを、あなたのアンチゴーネの世話におまかせしますわ。」  どういう意味だろう? ペリーヌはさっぱり分からなかったし、ヴュルフラン氏に聞いても更に知らなかった、そこでその晩少女は先生に尋ねた。すると先生は、古代のことを知らぬ少女の若い知識にふさわしい注釈付きで、ソフォクレスの作品『コロノスのオイディプス王』を読ませながら、アンチゴーネとはどんな人かを説明した。次の日から幾日間かペリーヌはヴュルフラン氏の為に、『世界巡り』をよしてこの作品を読んだ。氏は、とりわけ自分自身の境遇に当てはまるようなところが身に応え、感動した様子を見せた。 「なるほどお前はわしにとってアンチゴーネじゃ、むしろそれ以上じゃ、なぜなら不幸なオイディプス王の娘アンチゴーネが父を愛しいたわるのは、義務なのじゃから。」  これでペリーヌは、自分が氏の愛情の中にどんな道をつけたかを知った。氏が胸中をさらけ出すということは例にないことだったのである。このため少女は気も転倒して、氏の手を取ってこれに口付けた。 「うむ、お前は気質のよい娘じゃ。」  少女の頭に手を置いて言い足した、 「息子が戻ってきてもお前はわしらと離れて貰いたくない、息子はお前がわしにしてくれたことを恩に感ずるじゃろう。」 「願いばかり大きくて一向お役に立ちませんわ!」 「わしはお前のしてくれたままを息子に言うつもりじゃ、もとよりあれはそれがよく分かるじゃろう、情に厚い人間じゃから、わしの息子は。」  たびたび氏は、こんなふうな乃至はこれと同じ種類の別の文句で息子に関する自分の考えをのべた、そこでいつも少女は、どうしてそんな感情を持ちながらあんなに厳しいのかその訳を尋ねようと思うのだった、がその都度、感情の為に咽喉が塞がり言葉はそこへ閊*えてしまった。さような問題に立ち入るのは彼女にとって大変重大なことであった。  しかしその晩少女は、今し方の出来事に勇気づけられ、ずっと元気付いたような気がしていた。こんな好機会はまたとない。自分はヴュルフラン様と二人きりで、ランプの光の下で、そのそばに坐っている。この部屋へは誰も呼ばない限り入って来ない。もうこれ以上ためらうべきだろうか?  少女はためらうべきでないと思った。 * 「あのお許し下さいませんでしょうか。」と、心配しながら声をふるわせて言った。「私の分からない事を、いつも気に掛かりながら言い出さずにいます事をお尋ね致したいのでございますけれど。」 「言うてみよ。」 「そんなにお子様を愛していらっしゃるのに別れておしまいになったということが、私には分かりません。」 「それはお前くらいの年配では、義務というものを知らず、ただ愛情という物だけしか分からず、それだけしか認めないからじゃ。さてわしは父の義務として、深みへはまってゆくかもしれぬ過ちを犯した息子に見せしめの罰を与えようと心に決めた。わしの意志は息子の意志より上だと言うことをあれにはっきり見せる必要があったのじゃ。それゆえインドへ追いやった、があれはわしの家の後継ぎじゃから、インドにはちょっとしか置かぬつもりでいたし、またあれの品位の保てるような地位は与えておいた。あれが例の情けない代物に懸想して、馬鹿げた全く馬鹿げた縁組みに引きずり込まれるなぞとは思いも寄らなんだわい。」 「しかしフィルデス神父様のお言葉によりますと、そのお嫁になすった御方と言うのは決して情けない代物とは申し上げられませんわ。」 「そうした手合いの一人さ、フランスでは通らぬ結婚を受諾したのじゃもの。そこでわしはもうあの女をわしの娘と認めることも出来ぬし、あの女と別れぬ限り倅を呼び寄せる事も出来なんだ。これは父としてのわしの義務を怠る事にもなり、同時にまたわしの意志を捨てることにもなったろう。わしのような人間はそういうことはできぬ。わしはしなければならぬ事をしたい、意志についても義務についても譲るまい。」  そう彼はペリーヌを慄然とさせた雄々しい口調で言った、それからすぐに続いて、 「さてお前は不思議に思うかもしれぬ、なんでわしが、結婚した息子を赦しとうないと言いながら今はそれを自分のそばに呼び戻したいというのか。それ、もう現在ではその頃と状況が同じでないからじゃ。そのいわゆる結婚からは十三年も経っておるから定めし倅はその女に倦き、その女のそばで送らされた惨めな暮らしにも飽いておるじゃろう。一方ではわしの境遇も変わった。体の具合もとても昔のようにはゆかぬ。わしは病気で盲目じゃ、眼を元どおりにするには手術をして貰うほかはない。がそれも成功する見込みの十分にあるような安静な容態にならなければ、して貰えぬ。息子がこれを聞いたらあの女と別れる事を躊躇するとおまえ思うかな? あの女とその娘とには十分楽な生活を保証してもやるつもりじゃが。わしがあれを愛しておればあれもわしを愛しておる。何度あれはマロクール村を振り返った事じゃろう! 何と後悔した事じゃろう! 事実を知ったら、あれは駈けつけてくるぞ。」 「それでは奥様もお嬢様もお捨てにならなければなりませんのね?」 「あれには妻も娘もない。」 「フィルデス神父様は、ルクレルク神父様によって布教団の教会堂で結婚なすったとおっしゃっていますわ。」 「その縁組みは法律に違反して取り結ばれておるから、フランスでは無効じゃ。」 「ではインドでも無効なのですか?」 「わしはそれをローマで破棄させる。」 「でもそのお嬢様は?」 「法律はその娘を認めぬ。」 「法律が全部でしょうか?」 「それはどういうことじゃ?」 「つまり人は法律で自分の子供や親を愛したり愛しなかったりするのではございません。私が私の気の毒なお父様を慕ったのは法律に従ったからではありません、お父様が私に親切で、優しくて、愛情深く、私をよく気にかけて下すったからです。抱かれると楽しかったし、優しい言葉をかけて下すったり頬笑んで見て下すったりすると嬉しかったからです。また、お仕事に忙しくて私に話しかけて下さらない時でも、お父様と一緒にいることほどいいことはないと思うからです。お父様だって私を可愛がって下さったのは私をお育てになったからですし、私にいろんな苦労や情けをおかけになったからです、そんなことよりも私はこう信じておりますが、つまり私に心から慕われていると感じていらしったからです。法律なぞは何の用もありません。私は法律がお父様をそういう風にさせたのかしらとは思ってもみませんでした、だってそういう風にさせたのは私達のお互いに持っていた愛情だと言うことを、十分確信していましたから。」 「それで結局どうなのじゃ」 「道理に合わないような事を申し上げましたのなら御免下さい、でも私は自分の考えた通りを、感じた通りを、遠慮なく申し上げているのでございます。」 「それだからわしも聴いておるのじゃ、お前の言葉は余り経験を積んではおらぬが、少なくとも善良な娘の言葉じゃからの。」 「それで結局私はこういう事を申し上げたいのでございます、あなたが息子様を愛されご自分のそばに置きたいと思われるなら、息子様だとて娘を愛されご自分のそばに置きたいと思われるに違いありません。」 「父と娘の間なら躊躇する事もなかろう。それに結婚が取り消されたらもう娘はあれにとって大したものでもなくなろう。インドの娘は早熟じゃ、そのうちに縁付けられる。持参金を保証してやれば易いことじゃ。してみれば倅も物分かりよく娘と別れぬこともあるまい、今に娘だとてぐずぐず言わずに父親と別れて夫に連れ添うようになる。その上わしらの生活というものはただ感情だけで出来ておるのではない、他のいろんなことでも出来ておる、物事を決めるとなると、これが重苦しく関係してくるのでな。エドモンがインドへ出かけた時分はわしの財産も今日のようではなかった。いずれ倅は、この財産が富と名誉とのあらゆる満足をもって保証してくれているこの地方の工業界の王座を見、また自分に約束してくれている将来を見ることじゃろうし、わしもそれを見せるつもりじゃが、そうすれば肌の黒い小娘なぞが倅を邪魔だてすることはあるまい。」 「でもその肌の黒い小娘は、お考えになっていらっしゃるほどにいやな者ではなさそうですわ。」 「インド人だぜ。」 「私の読んで差し上げた書物には、一般にはインド人は欧州人より美しいと書いてありましたわ。」 「旅行者の誇張じゃ。」 「手足はしなやかで全くの瓜実顔をしていて、眼は奥深く眼差しは気高く、口は慎み深く、容貌はやさしい。動作は巧みで雅やかであり、仕事には真面目で、辛抱強く、勇敢であり、勉学には熱心で・・・」 「記憶がよいのう。」 「読んだことは覚えておくものではございません? 結局あの書物によりますと、どうしても、インドの女はあなたのお考えになり勝ちなようないやな女ではないことになります。」 「どうでもよい事じゃ。わしはインド人なんぞ知らぬのじゃから。」 「でもご存じだったら、興味をお持ちになり、心をお惹かれになるかもしれませんわ・・」 「とんでもない。わしはあの娘と母親のことを考えただけで、腹が立つ。」 「もしその娘をお知りになったら、・・・あなたのお腹立ちはたぶん鎮まりますわ。」  彼は憤然として両手を握り締めた、ペリーヌは心配したが言葉を切らずに 「その娘は決して想像していらっしゃるような者ではないと思います。だって、あなたが怒って考えていらっしゃるのとは反対の娘かもしれません。母親は、フィルデス神父様のお言葉のように、あらゆる美しい天性をそなえていらしって、賢く、善良で、優しくて・・。」 「フィルデス神父は親切な牧師じゃが生活や人物を余り大目に見過ぎる。おまけに問題のその女を知ってはおらぬ。」 「その女の人を知っている全ての人々の証言に基づいて申し上げるとおっしゃっていましたわ、すべての人々の証言の方がたった一人の意見よりも大切ではございませんか? 最後にもし、そのお方をお邸へお引き取りになったら、そのお方−−孫娘様は、私なぞよりはずっと行き届いた世話をなさりはしないでしょうか?」 「心にもないことを言うものではない。」 「私は決して好きな事を申し上げるのでもなければ心にもない事を申し上げるのではなく道理を申し上げるのでございます。」 「道理を!」 「私が道理だと心得ている通りを。何でしたらこう申しても構いません。−−なぜなら私は無智ですから−−つまり私が道理だと信じていることを。お嬢様は、ご自分の出生のことに心配が起こり、その事に異議を立てられていらっしゃるのですから、ほかでもないそのために、もしも引き取られなすったら、深い感謝の心で胸をいっぱいになさるでしょう。お嬢様を励ますほかのいろんな理由はともかく、ただこれだけでもお嬢様はあなた様を心からお慕いになるでしょう。」  彼女は、彼が見てでもいるかのように、彼を見ながら手を合わせた。そうして一つの衝動に声を震わせて、 「ああ! ヴュルフラン様、あなたはあなたのお嬢様から慕われたくありませんか?」  我慢がならぬというふうに身を起こし、 「あれは断じてわしの娘ではないと言ったに。あれもあれの母親もわしは嫌いなのじゃ。ひとの倅を取ってよこしおらぬ。あれどもが倅を籠絡せなんだら、倅はとうの昔わしのところにいるのじゃ。倅にとっては一から十まであれどもだったではないか、父親たるこのわしはといえばものの数にも入らぬに。」  ペリーヌのまだ見たこともなかった激怒に駆られ、とりのぼせ、部屋の中をいらいらした足取りで歩きながら激しい言い方でそう言った。 突然少女の前で立ち止まって、 「お前は自分の部屋へ行け。今後は決して、よいか、今後は決してあの情けない奴らのことをわしに言い出してはならぬぞ。結局お前は何の世話を焼こうと言うのじゃ? 誰ぞお前に言いつけてそんな言葉を言わせたのか?」  彼女はちょっと狼狽したが、我に返って、 「おお! いいえ誰もそんな事をさせたのではありません、誓って申し上げます。両親のない私が、孫娘様の身になって胸に思いましたことを口に出しましたのでございます。」  氏は穏やかになった、がまだおどすような口調でいい足した。 「お互いに気まずい思いをしたくなかったら今後は決してこの事にふれてはならぬ、この事はお前も知っての通り、わしには辛いのじゃ。わしを怒らしてはならぬ。」 「御免なさい」と、彼女は胸いっぱいになった涙の為に声がかすれていった、「ほんとに黙っていなければならないのでしたのに。」 「お前の言った事は何にもならぬ事だったのだから、なおさらのことじゃ。」 36  ヴュルフラン氏は自分の問い合わせした人達が息子の生活について一向伝えてくれない消息に補いをつけるために、この三年間カルカッタやダッカや、デラやボンペイや、ロンドンの主要新聞紙上に、エドモン・パンダヴォアヌに関するどんな僅かでもよいがしかし確実なる情報を与えてくれるものに四十リーヴルの報酬を約束する旨の広告を毎週繰り返し出させていた、するとロンドンから来た手紙の中の一通がエドモン氏のエジプト及び恐らくはトルコへ行く計画のことを伝えていたので、広告の掲載をカイロ、アレクサンドリア、コンスタンチノープルにまで広めた。どんな事でも粗略にしてはならなかった、たとい不可能なことでも、たとい在りそうにないことでも。しかも在りそうにないようなことがこの定めない人生においては本当らしい事になって来るのではないか?  ヴュルフラン氏は、こちらの名宛を知らせると多かれ少なかれ不誠実ないろんな種類の強請(ゆすり)に身をさらすことになりそうなのが厭さに、アミアンの銀行家の名宛を指定した、そこでこの銀行家が、何千フランという提供金に煽られてくる手紙を受け取って、マロクールへそれらを運ぶのであった。  しかしかなり多くのこれらの手紙の中一つとして真面目なものはなかった。大部分は周旋人から出たもので、当座の活動に必要な手数料を送って頂けば捜索を始める、成功は請け合うというのだった。中にはたわいもない作り話で、あらゆることを約束しながら何も知らしてくれていない漠然とした空想に耽っているのもあったし、また五年、十年、十二年という昔のことを語るのもあり、どれとして、広告の決めている最近三年間のという制限を越えないものはなく、また求めている正確な指図をしてくれるものもなかった。  これらの書面を読んだり訳したりするのはペリーヌであったが、どんなにそれらが一般に役立たぬものであっても、氏は落胆せず、信念は動じなかった。 「広告を繰り返しておりさえすればきっと効き目はある、」といつも言った。  そうして飽きずその広告を続けた。  ついにある日、ボスニアのセラジェヴォ(サラエボ?)から日付のある手紙が、どうやら考慮に値する申し出をしてきた、それはまずい英語で、タイムス紙上掲載の四十リーヴルをセラジェヴォの銀行家に寄託して下されば昨年十一月に遡るエドモン・パンダヴォアヌ氏の正しい消息を提供するというのだった。もしこの申し出を受諾される場合にはセラジェヴォへ九一七号として局留郵便で返事して頂きたいとのことだった。 「ほうれどうじゃ、わしのいうことに間違いないわ、」と彼は声をあげた、「近いぞ、十一月じゃ。」  そうして彼は喜びを見せた、それは心配していたことを自白したものだった。今や彼はエドモンの存在を、ただ父親としての信念によってばかりでなく、確かな証拠によって肯定することができた。  捜索が続けられ出して以来初めて彼は、自分の息子のことを甥たちやタルエルに話した。 「わしはエドモンの消息の知れたことをお前たちにいうのが大変嬉しい、エドモンは十一月にボスニアにいた。」  この噂が土地に広がると人々の驚きは大きかった。こういう事情においてはいつもそうだが人々は噂を大袈裟にいい、 「エドモン様がおっつけお帰りになる!」 「本当かい!」 「それを確かめたけりゃあ甥御やタルエルの顔を見るがいい。」  なるほどその顔は見物だった。テオドールもカジミールも思い込んでいてどこかしら浮かぬところがある。反対にタルエルは晴れやかだ、この男はもう久しい以前から、表情にもまた言葉にも、自分の考えとは正反対のことを現わす癖がついていた。  しかしエドモンの帰りを信じようとしない連中もいた。 「老人はあんまり厳しすぎた。息子様は、何程かの借金を拵えなすったからといって印度までやられなさるこたあなかった。家庭から追い出されなすったのであちらで別の家庭をもっていなさるんだ。」 「それに、やれボスニアにおられる、トルコにおられる、そこを通ってどこにおられると、こりゃあマロクールへ向かっておられることにはならぬ。印度からフランスへ来る街道はボスニアを通っていますかな?」  というのはベンディットの意見だった。この人は英国人流に落ち着いて、何の感情的考察もそこに混ぜず、ただ実際上の見地からばかり事を判断した。 「私だってあなたのように御子息のお帰りを望んでおります、」とこの男はいったものだ、「お帰りになれはお家もしっかりして今のような事はなくなるでしょう、しかしわたしはあることを望んでそうしてそのことの存在を信じているというのでは物足りないのです。それはフランス人ですな、英国人はそんなことは致しません、そうして私は御承知のように英国人ですからな。」  そういう意見が一英国人の物であるというまさにその為に、人々はその意見を軽んじた。 「工場主が息子の帰国のことを言うのなら、これは信頼していてよかろう。冷静な人なんだから、工場主は。」 「業務上のことではなるほどそうでしょうが、感情という事になると、語るのは実業家ではなくって、父親ですからな。」  絶えずヴュルフラン氏はその希望についてペリーヌと語り合うのだった。 「もう時間の問題じゃ、ボスニアはこれは印度ではない、入りこんだが最後分からなくなる海ではない。十一月時分の確かな消息がきたら、もう楽に辿れる足跡が分かる事じゃろう。」  氏はペリーヌに頼んでボスニアのことを書いた書物を書斎から取らせて、一体息子が何しに、商業も工業もない気候の厳しいこの未開の地へ言ったのかと考えた、が、合点の行く説明はそこに見つからなかった。 「ただ通りがけにそこへいらしったのでしょう、」とペリーヌは言った。 「相違ない。なおこれは、まもなく帰るしるしじゃ、それに、もしそこを通ったとするとどうも嫁や娘は連れておらぬらしい、ボスニアと言うところは遊覧者の訪う国ではないからな。すると別れたのかのう。」  彼女は返事をしたかったが何も答えずにいたので、氏は機嫌を悪くして、 「お前は何も言わぬ。」 「お考えに逆らう勇気がございませんから。」 「おまえよく知っているではないか、わしは何でも思うことを言って欲しいのじゃ。」 「あることについてはそうですけれど、他のことについてはそうではないんですから。決してあの・・・お嬢様のことに触れてはならぬとおっしゃったではありませんか? お気を悪くするような危ない事は致しとうございませんわ。」 「いや、女どももボスニアへ行ったろうという理由を述べるのなら、何もわしは怒りはせぬ。」 「第一ボスニアは女の近づかれない地方ではございません、殊にその女の人たちが、バルカンとは比べ物にならないほど難儀で危険な印度の山々を旅行なすったのなら。それに、エドモン様がただボスニアを通過なさるだけなのなら、奥様もお嬢様もご一緒でいらしっていいではございませんか、印度のいろんな土地からお受け取りになる手紙は到る所でご一緒だといっているのですから。最後にもう一つ理由がございますが申し上げる勇気がございません、ちょうどそれがあなたの御希望に添いませんので。」 「構わぬ、言うてみい。」 「では申しましょう、が前以ってお願いいたしておきます、どうか私の言葉の中に唯々あなた様の御健康に対する気遣いだけを御覧なすって下さい、御期待が裏切れる場合には御健康が損なわれるような事になるかも知れませんから。そういうこともないとは限りませんわね?」 「はっきり話せ。」 「エドモン様は十一月にセラジェヴォにいらしったから、するとここへ・・・まもなくお帰りになると結論なさいます。」 「如何にもそうじゃ。」 「しかしもうお目にかかれないかも知れません。」 「そんなことは考えられぬ。」 「なにかしらの理由でお帰りになれないかも知れません。・・・いなくなられるということはないでしょうか?」 「いなくなる?」 「もし印度か・・・どこかへ引き返されたら? もしアメリカへでも立たれたら?」 「もしを積み重ねてゆけば馬鹿馬鹿しいことになってしまう。」 「それはそうでございます、しかし自分の好きなことを考えて、他のことを考えないようにしておりますと、いずれいやな目に・・・。」 「どんな目に?」 「たといそれが、待ちきれずに苛々させられるというような目に逢うだけですむかもしれないに致しましても。セラジェヴォからあの消息をお受け取りになって以来どんなに落ち着かずにいらっしゃるか、お考えになって下さいまし。そうしていらっしゃる間にも日限は経ちましたが返事は参りません。これまで殆ど咳をなさらなかったのに唯今は日に幾度もお咳になり、また動悸もうち息切れもなさいます。お顔もいつも赤らみ、額の静脈もふくらんでおります。万一あの返事がまだ遅れるようでしたら、殊にもし・・・それが御希望のものと別のものでしたら、どうなるとでしょう? 口癖のように『そうなのじゃ、それ以外にはなりはせぬ』とおっしゃるけれど、私はそれを心配せずにはいられないのです。最良のことを考えている時に最悪のことに襲われるのは恐ろしいことでございます。自分がそういう目にあいましたので申し上げるのでございます。私たちは、父のことを随分心配しました揚げ句、なあにすぐ回復するに違いないと確信致しましたがほかでもないその日、父を失ったのでございます、私も母も愚かでした、そうして気の毒な母の亡くなりましたのも確かにこの不意の激しい衝動を受けたためでした、母はもう立つことができず、半年後に父のあとを追ったのでございます。そのことを思いますと私は・・・。」  しかし彼女は言葉をいい終わらなかった。泣きじゃくって言葉が咽喉につかえた、そうして、泣いても通じないことを承知していたから堪えようとしたので、息が詰まったのである。 「そんなことを思い出すものではない。お前は、ひどい苦しみに逢ったからといって、この世には不幸しかないなぞと思ってはならぬ。それはお前にとってよくないことじゃ、また正しくないことじゃ。」  ただもう自分の希望に添うことだけを可能だと思うこの信念は、少女がどんな事を行ってもどんなことをしても明らかに動かないのである。だから少女は、セラジェヴォの返事を伝えるアミアンの銀行家の手紙が届いたらどうなることかと、ひどく心配しながらただ待つよりほかなかった。  しかしやってきたのは手紙ではなく、銀行家自身だった。  ある朝、例のようにタルエルが両手をかくしに入れて、何物も見逃さぬという眼差しで見張りながらベランダの上を歩いていると、自分のよく知っているこの銀行家が工場の柵門で馬車をおり、几帳面な態度で、重々しい足取りで事務所の方へやってくるのを見た。  慌ててタルエルは、ベランダの階段をころげ降りて迎えに駈け出した。近寄りながらタルエルは、銀行家の顔つきがその歩きぶりや態度と一致しているのを見た。  たまらずに声をあげて、 「察しますに悪い知らせで?」 「悪うございます。」  返事はただ一言これだけだった。 「でもあの・・・。」 「悪うございますな。」  次にすぐ話をかえて、 「ヴュルフラン様は事務室におられますか?」 「確かにおられますが。」 「まずヴュルフラン様にお話をしなくちゃあなりませんので。」 「しかし・・・。」 「お分かりでしょうな。」  銀行家は困った様子で眼を伏せていたが、これがもしも相手を見上げたとしたら、こりゃあこんなに慎重にやっていると、タルエルがやがてマロクールの工場の支配者となった暁にはひどい仕返しをするかも知れぬぞ、と感じたことであろう。  タルエルは自分の知りたいことを知ろうとする時は御機嫌を取るが、それだけにまた自分の申し出をはねつけられると粗暴なものを見せ付ける。 「ヴュルフラン様は御自分の部屋におられましょう、」といって両手をかくしに入れてその場を離れた。  初めてマロクールへ来たのではないから銀行家はヴュルフラン氏の部屋を苦もなく見つけ、戸口のところへ行くと、ちょっと立ち止まって気を整えた。  まだ一度しか叩いていないのにヴュルフラン氏は叫んで、 「入り給え!」  もうぐずつくことはない、 「こんにちは、ヴュルフラン様、」といいながら中へ入った。 「なんだ、あなたか? マロクールなんぞへ!」 「ええ、今朝ほどピキニに用事がございましたので、ここまで足をのばしましてセラジェヴォからの知らせを持ってまいりました。」  机についていたペリーヌは、別段この地名が口に出されなくても誰が入ってきたかは分かっていた。彼女は固唾を呑んだ。 「それで?」とヴュルフラン氏の待ちきれない声。 「それがどうもあなたのお待ちになっておられるに違いないようなものでは、私共皆の希望しておりましたようなものではございませんので。」 「例の男が四十リーヴルを騙りおったかな?」 「この男は正直者らしゅうございます。」 「何も知らないのですかな?」 「いえ、その情報があんまり本当過ぎますので・・・残念なことに。」 「残念なことに!」  これがヴュルフラン氏の始めて口に出した動揺の言葉だった。  しんとなった、そうして曇っていったヴュルフラン氏の顔で、氏がどんな気持ちになっているか容易に知れた。驚き、心配。 「するともう十一月以後はエドモンの消息は入りませぬかな?」 「もうはいりません。」 「じゃがその時期のどんな消息が入ったのです? どんなふうな正確さ、本当さなのですかな?」 「公文書が参っております、セラジェヴォのフランス領事の署名がしてございます。」 「言うて下され、消息そのものを伝えて下され。」 「十一月エドモン殿には・・・写真師としてセラジェヴォに到着なされ候。」 「どんどん続けて下さい! つまり写真機を持ってというのですな?」 「行商の写真馬車にて一家、妻と娘一人を同伴、旅行致しおられしものに候。数日間、町の広場にて写真を撮られおり候。・・・」  銀行家は読みにくそうにして、文書の皺をヴュルフラン氏の机のふちで伸ばした。 「書類をお持ちなのだからそれを読んで下され、」とヴュルフラン氏は言った、「もっと早くやって頂きたい。」 「只今読みます、広場で写真屋をなすっておられたと申し上げました、フィリッポヴィッチ広場でして。十一月の初めセラジェヴォを立たれてトラヴニックへ向かわれ・・・」  銀行家はまた文書を色々とすかしてみて、 「この二つの町の間のある村にて、・・・或はその村に着かれる前に、病気に罹られ候。」 「ああ! これはいかん! これはいかん!」ヴュルフラン氏は叫んだ。  そうして両手を組み、顔を歪め、まるで息子の幻が自分の前に立ちはだかってでもいるように頭から爪先までふるえた。 「あなたは強い力がおありです・・・」 「死に向かっては力はない。そうするとわしの息子は・・・」 「さようでございます、恐ろしい事実を御承知にならぬといけません。十一月七日・・・エドモン殿には・・・肺の充血のためブソヴァチァにて亡くなられ候。」 「そんな筈はない!」 「おお! ヴュルフラン様、私もこの文書を受け取りました際にはそんな筈はないと申しました、翻訳文にフランス領事の署名はしてございましたけれど。しかしこのマロクール村(ソム県)出生、三十四歳、エドモン・ヴュルフラン・パンダヴォアヌの死亡証書、これに間違いがないというのは、実に正確なこの情報そのものに基づいているのではございますまいか? しかしなにはともあれ私はこれを信じたくなく、昨日この文書を受け取りますとセラジェヴォのフランス領事へ電報を打ちましたところ、こういう返事でございました、『文書真正、死亡確実なり』。」  しかしヴュルフラン氏は聞いていないようだった。肱掛け椅子に沈みこんでぐったりと、頭を胸の上に垂れて、少しの生気も見せなかった、ペリーヌは気も狂うばかり、胸をいっぱいにして、もしや死なれたのではないかと思っていた。  突然氏は、見えない目から滝のように涙を流しながら顔をあげた、そうして手を伸ばして、タルエル、テオドール、カジミールの室に通ずる伝令のボタンを押した。  激しい呼び方だったのでたちまち三人とも駈けつけて来た。 「来たか? タルエルに、テオドール、カジミール。」  三人とも同時に返事をした。 「わしは息子の死亡を知った。これは間違いない。タルエル、すぐにどこの作業も皆やめさせよ。電話で、作業は明後日から開始、明日はマロクール、サン・ピポア、エルシュ、バクール、フレクセール各地の教会堂で悼*儀を行う旨の掲示を出させよ。」 「叔父さん!」二人の甥は同音に叫んだ。  しかし氏はそれをとめて、 「わしは一人でいたい、構わずにおいてくれ。」  皆出ていった、ペリーヌだけ残った。 「オーレリー、いるか?」  彼女は泣きじゃくって答えた。 「邸へ戻ろう。」  例の通り氏はペリーヌの肩に手を置いた、そうして二人は、作業場を離れる最初の職工たちの人波の中を出て行った。二人は村を通って行った。そこでは早くも噂が戸口から戸口へ走っていた。二人の通るのを見て、果たして氏はこの苦悩に堪えて生き抜いてゆかれるかしらとてんでに考えた。いつもは大変しっかりと歩いてゆかれる氏は、もう体を曲げておられる、嵐のため幹の真ん中から折れた木のように前のめりになっておられる。 しかし右の疑問をペリーヌは更に深い苦しみをもって考えた、なぜなら自分の肩にかけられた手の揺れから、氏が、たとい一言も口には出さなくとも、どんなにひどく打撃を受けているかを感じたからである。  自分の部屋へ導かれると、少女を返して、 「わしが一人でいたいわけを言って聞かしてやれ、誰にも入って来て貰いとうない、誰にも話しかけて貰いとうないからな。」  出てゆこうとすると、 「わしはお前のいうことを信じようとしなかった!」 「何でしたら私・・・」 「かまわずにおいてくれ。」氏は荒くそう言った。 37  一晩中お邸は動きと物音でいっぱいだった、なぜなら次から次へと、パリからはスタニスラス・パンダヴォアヌ夫妻がテオドールに知らされて来たし、ブーローニュからはブルトヌー夫妻がカジミールに通知されて来たし、最後にダンケルクやルアンからは、ブルトヌー夫人の二人の娘が夫や子供を連れて来たからである。誰も気の毒なエドモンの葬儀には欠席しようとしなかった。  その上、葬儀に出かけて行って陣を敷いて、監視し合う必要はなかったろうか? 今や席が空いた、永久に空いた、それを占領するものは誰だ? てんでにあらん限りの精力を傾け、智慧を絞り、陰謀をめぐらし、ここを先途と立ち回らなければならぬ巧妙な駆け引きの時であった。万一この地方の一勢力であるこの工業がテオドールの如き能無しの手に渡ったら、それこそ災難だ! 万一カジミールの如き浅才の徒が支配権を握ったら、それこそ不幸というものだ! そうして両家はいずれも、合同の予知のあること、二人の従兄弟の間で分割もできるということを、認めようとしなかった。一切を自分のものにしたかった。相手には何一つ渡したくない。そもそも相手がどんな権利を振り回せるというのだ。  ペリーヌは、ブルトヌー夫人とパンダヴォアヌ夫人が朝自分のところへやってくるだろうと心待ちしていた、がどちらも来なかったので、少なくとも今のところは自分には用がないと思っているのだと覚った。実際この邸でペリーヌは何程のものであったろう? 今は、ヴュルフラン氏の兄、氏の姉、氏の甥、姪、つまるところ氏の後継者たち、これらが邸の主人だったのだ。  ペリーヌはまた、ギヨームに代わってからこちら日曜日毎にしてきたように教会堂へ引いてゆくようヴュルフラン氏に呼ばれるのを待っていた、が一向その気配はなかった。そうして昨日から十五分毎に弔いの音を響かせていた鐘がミサを報ずると、少女はヴュルフラン氏が、兄の腕に助けられ姉や義姉に伴われて四輪の幌馬車に乗り込み、一方、家族の人々が別の幾台かの馬車に席を占めるのを見た。  そこでお邸から教会堂まで歩いて行かなければならなかった彼女は、ぐずついていることができず、すぐ出かけた。  死の神に覆い布をかけられた邸を彼女は出た。大急ぎで村の往来を通りながら見て驚いたことには、それが日曜日のような様子をしているのである、つまり居酒屋にはいっぱい職工がいて耳も割れるほどの騒ぎの中で喋りながら飲んでいたし、家々ではずっと、おかみさんたちが、椅子や戸口の段々に腰を降ろして話をしていたし、子供らは庭で遊んでいた。すると誰も式には出ないのだろうか。  入れないかも知れないと心配していた会堂に入ってみると、半分はがら空きだった。家族のものは内陣に並んでいた。そこここに村の顔役や、御用商人や、工場の主だった人々が見えた、しかし自分たちに重大な結果を及ぼすかもしれないこの日、自分たちの主人と共に祈ろうと考えてやってきた、職工、女達、子供達は少なかった、実に少なかった。  日曜日はヴュルフラン氏の横に坐るのが習慣だった、がその資格はなかったので、第一期の喪服を着けたお祖母さんと一緒に来ていたロザリーの隣の椅子に着いた。 「何ということでございましょう! 可哀そうなエドモン様はまあ、」と老乳母は泣いて呟いた、「ほんに不仕合わせな! ヴュルフラン様はどうおっしゃってでしょうな?」  しかし式が始まったのでペリーヌは返事をせずにすんだ、もうロザリーもフランソアズも、どんなに少女が胸を乱しているかを見て、言葉をかけなかった。  出ると彼女はベローム嬢に引き留められ、フランソアズと同様ヴュルフラン氏のことを聞かれたので、昨日からお目にかからないと返事しなければならなかった。 「歩いて帰りますか?」と先生は尋ねた。 「ええ。」 「それでは学校まで一緒に参りましょう。」  ペリーヌは一人でいたかった、が断りきれなかった、そうして先生の話を聞かなければならなかった。 「あんなに弱りきって沈んでおられたのでいつももうお立ちになれそうになく思えていたヴュルフラン様が、式の間立ったり腰掛けたり跪づいたりしていらっしゃるのを見て、私がどんな事を思ったかお分かりですか? 今日始めてあのお方が盲目でいらしってよかったと思いましたの。」 「どうしてですか?」 「どんなに会衆が少なかったか、御覧にならなかったのですもの。それに自分の職工達が自分の不幸に無関心だということは、辛いことですわ。」 「大勢でなかったことは事実ですわね。」 「少なくともそれを御覧にはならなかったのです。」 「しかし会堂のひっそりしていることや同時にまた村の往来を通られる時の居酒屋の騒ぎなどで、それとお悟りになりはしなかったでしょうか? 耳で判断なすって当たることはたくさんございますから。」 「そうだとすればそれはなお、あの気の毒なお方に必要のない苦痛ですわ、しかし・・・。」  彼女は言いかけたことをやめるために間を置いた、が決して思ったことを隠さない人だったので、続けて、 「しかしそれは教訓になりますわ、大きな教訓になりますわ。だって何ですからね、私たちは、自分の苦しみを他人にも苦しんで貰いたいと思うなら、自分から他人の受ける苦痛や悩みに加わってやらなければなりませんからね。そういうことは言える訳です、厳粛な真理を言い表していますから・・・。」  声を落として、 「・・・それは決してヴュルフラン様はなさいませんでした。職工たちに向かっては正しいお方でして、職工として正当だとお考えになるものは与えておやりになる、しかしそれだけなのです。この世の基準として正当さだけ、これでは十分でありません、ただ正しいだけということは不正だということです。ヴュルフラン様が、自分は職工の父であるはずだということを一向お考えにならず、大きな事業に引き込まれ没頭なすって、ただその優れた頭脳を仕事にばかり使われたということは、残念なことです。お手本をお示しになることによって、−−それはここだけでも既に大したものではありましょうが−−ここだけでなく到る所で、どんな善いことをなされたことでしょう。もしそうだったのでしたら、・・・今日のようなことを見ないで済んだろうに、とあなたもきっと考えるはずです。」  なるほどそうだったろう、がペリーヌには、この言葉の持つ道理の値打ちがはかれなかった。この言葉は、それの言う内容からしてまたそれが自分の忽ち敬愛するようになったベローム嬢の口から聞かされたということからして、不愉快に感じられたのである。他の人がそんな意見を吐いたのなら、いい加減に聞き流したろうと思われた、しかしそれが自分の深く信頼している女性の言葉だったので苦しむのであった。  学校の前まで来たので、ペリーヌは急いで別れようとした。 「どうして入りませんの? 一緒にご飯を食べましょう、」とベローム嬢は、この生徒が家族の食卓につくはずはないことを見越して言った。 「有難うございます、ヴュルフラン様の御用があるかも知れませんから。」 「ではお帰りなさい。」  しかしお邸に帰ったが氏の用事はなかった、どころかてんで忘れられていた。バスチアンに階段で逢うと、氏は馬車から降りると部屋に閉じこもり、そこには誰も入れないのだと言ってくれたからである。 「今日のような日にあなた、家の方々と御一緒にお食事さえなさらぬのですからなあ。」 「家の人達、うちにずっといらっしゃるの?」 「いえ、さようではござりません、お食事がすむと皆お立ちになります。親戚の方々のさようならをお受けになるのさえ厭がっておられるように存じます。いやもう! ほんとに沈んでおられます。わし共は一体どうなることやら、ほんにえらいことですなあ! お互いに力になり合わぬことには。」 「私なぞに何ができましょう?」 「あなたは大したことができますわい、ヴュルフラン様はあなたを頼りにしておられるし、愛しておられるし。」 「愛して!」 「わしは自分が何を言うか心得ておりますわい。大したことですぞ、それは。」  バスチアンの言った通り一家のものは皆昼食後立ってしまった、がペリーヌは夕方まで自分の部屋にいた。氏は呼ばなかった。寝る少し前になってやっとバスチアンが来て、御主人が明朝いつもの時刻にお伴の用意をしておれとおっしゃった旨を告げた。 「仕事を始めようとなさるんで、しかしおやりになれますかなあ? 仕事が何よりなんですからな、仕事があのお方の生命ですからな。」  翌日定刻に、毎朝の通り広間でヴュルフラン氏を待った、するとまもなくバスチアンに引かれて前屈みに歩いてきた。バスチアンは黙って悲しげな身振りをして昨夜のよくなかったことを告げた。 「オーレリー、いるか?」と何か病気の子供のような変になった哀れな弱い声で聞いた。急いで前へ行って、 「はい、おります。」 「車に乗ろう。」  質問をしてみたがったがその勇気がなかった。氏はひとたび馬車に腰を降ろすや、ぐったりとして頭を前へ垂れ、一言も言わなかった。  事務所の階段の下で、タルエルは待ち構えていて、氏を迎え、手を貸して降ろした。へつらうような物腰であった。 「察しますに大丈夫だとお感じになってお出かけになりましたんで、」と憐れみ深い声で言った、この声はその眼光とは正反対のものだった。 「わしは少しも大丈夫だとは思わなんだ、が来なければならぬから来たのじゃ。」 「私もさように存じておりましたから・・・」  この言葉を氏は遮ってペリーヌを呼び、自分の部屋へ引いてゆかせた。  程なく手紙開きが始まった、二日分溜まっていたのでたくさんあった。氏はそれを人にやらせ、まるで聾で眠ってでもいるように、意見も命令もただの一言もいわなかった。  続いて課長会議があり、その日は、工場の利益に重要な関係のある大問題を決めることになっていた。つまり工場の現在の製造力にとって当分どうしても必要なだけを残して、印度及び英国に貯蔵してある多量の麻を売り払ったがよいか? それとも新しく買い込んだがよいか? 一口でいえば下落に投機(やま)をかけるか、それとも買い煽るか。  普通この種の事務は、誰にも相談する厳密なやり方で取り扱われた。年の若い者から始まって順々に自分の意見を立て、理由を述べる。ヴュルフラン氏は聞いていて最後に、自分のこうしようと思うその断案を伝える。こうしようというのはしかしそうするということではなかった、なぜなら半年か一年後になってみると、氏がその言ったこととは正に反対のことをすることが一度ならずあったからである、しかしともかくも社員が感嘆するほどにはっきりと宣言し、いつも議論はおさまるのであった。  その朝、討議は平常通りに運ばれ、めいめいは売るという理由、買うという理由を説明した、がタルエルの番になるとこの男の言い出したのは確定ではなくて疑いであった。 「私はこんなに困ったことはございません、売るのにもいい理由があるが、その反対にもしっかりした理由がありますので。」  困ったというこの告白は本当のものだった。という訳はこうだ、一体この男は、話す者の口からよりもずっと主人の顔色から議論を聞き取り、主人の顔色の具合で自分の意見を決めるというのが常であった。この男は長いことそれを実行しているので、何を主人が考えているかについては迷いもせずにその顔色が読めるようになっていた。しかも、秤にかけてみた時なんで自分の意見の方を重んずることがあったろうか、向こう側の皿に自分の乗せるものは主人へのお世辞になるのであり、また主人の意見の先手を打つことは万事につけていつも必要なのであるのだからには。ところが今朝主人の顔は、ひどい不決断以外はてんで何も見せていなかったのである。買いたいのか? 売ろうというのか? 実際をいうとどちらも気にしていないらしかった。放心して、事務とは別の世界に逃げ入り、そこに迷いこんでいた。  タルエルがすむとなお二つの結論が述べられた、次に判決を下すのは主人だ。いつものように、いやいつもよりもずっとよく敬意のこもった沈黙が起こり、一方眼は主人の方へ注がれた。  皆待った、そうして主人が何も言わないので互いに眼で尋ねあった。主人は理解力を、それとも現実感を失っているんじゃなかろうか?  ついに氏は腕をあげて言った。 「言うてしまうがわしはどう決めてよいか分からぬ。」  どんなに皆びっくりしたことだろう! 驚いた、聞いておられたのだ!  皆が氏というものを知って以来始めて、氏はためらいを見せた、いつもはあんなに果断であり、あんなに自分の意志を思うままに支配する氏が。  先程まで互いに探り合っていた皆の眼は今は互いに出会うのを避けた。ある人々は同情したからであったし、またある人々、殊にタルエルと甥たちは、化けの皮が剥がれるといけないからであった。  氏は重ねて、 「いずれ後で考えよう。」  そこで各人は一言もいわず、行きながら自分の考えを語り合いもせずに、引き下がった。  氏は、小さな机から動かずそこについていたペリーヌと二人きりになったが、社員らの退出を注意していた風もなく、ずっとその沈み切った様子を続けていた。  時は流れた、彼は動かなかった。これまでに彼女はしばしば、彼が開いた窓の前でじっとしてその思いに或はその夢にひたっているのを見てきた、そうしてその様子は、その不活発な無言と同じように、肯きうるものであった、だって彼は読むことも書くこともできなかったのであるから。しかしその時の様子は今の様子と似てもつかないものであって、もし耳を澄ましている彼をよく見るならば、工場の物音を聞きながらまるで眼で見張ってでもいるかのように、作業場という作業場、庭という庭の仕事を監視している様子が、彼の動く表情の上に読み取れるのであった。織機のばたばたいう音、蒸気のほとばしり、管捲機の唸り、ヴァルスーズの悲鳴、貨車の掛け外し、トロッコの走る音、機関車の汽笛、操作の命令、更に砂利を敷いた道をぞろぞろ通る職工の木靴の音まで、どんなものも彼は聞き分けた、そうして全体を正しく了解した、その為に、何が行われているか、どんなに活発にまたはどんなにいい加減に行われているかを知ることができたのである。  しかしながら今は、耳も、顔も、表情も、動作も皆、像みたように石化しミイラ化しているように見えた。それは胸も凍るばかりだったので、ペリーヌは沈黙の中で身に一種の恐怖の染み透って来るのを感じ、気も滅入っていた。  突然氏は両手を顔に当て、自分一人しかいないつもりで、というよりはむしろ自分のいる場所とか聞いている人とかを忘れて、大声で言った。 「おお神様、神様、あなたは身を引いてしまわれた。いったい何のとがで私をお見捨てになったのでございます?」  次にまたしいんとなった。それはペリーヌにとっていよいよ重苦しい、いよいよ陰気なものだった。彼女は、氏の示した絶望の広さと深さとを余すところなく計り知ることはできなかったけれど、この叫びに気も転倒していた。  実際、自分の拵えた大きな財産や自分の占めている地位などからしてヴュルフラン氏は自分を一特権者、いわば神様がこの世を導くために選んでお用いになる人間だと信ずるようになっていた。初めはあんなにも低かったものを、もし自分の知力だけしか使わなかったのなら、どうしてこんな高いところへやって来られたろう? してみれば全能の御手が大いなる事柄のために自分を人々の群れから選び出してくれたのだ、そうしてその後は確実に導いてくれたから、いつも自分の考えは至高の霊感に従い、自分の行いは無謬の指図に従った。自分の願ったことはいつも成功した。戦えば自分はいつも勝ち、相手はいつも負けた。しかしながら、突然、彼の最も熱望したこと、彼のかち得ると確信したことは、初めて実現しなかったのである。彼は息子を待った。彼はやってくる息子にやがて逢おうとしていることを知った。その後彼の全生活はこの会合のために向けられた。そうして息子は死んだのである。  するとどういうことになるのか?  彼は分からなかった−−過去も現在も。  どうだったのか?  どうなっているのか。  本当に過去は四十年間自分の信じていた通りであったのに、何で現在はそうでなくなってしまったのだろう? 38  この落胆は長引いた。これに健康の災厄が加わった。気管支炎と心悸昂進とは悪化し、肺の充血さえ起こり、ためにヴュルフラン氏は一週間部屋にこもり、工場の全支配を勝ち誇ったタルエルに任せた。  こうした災厄は遠のいた、が精神の衰弱は回復してゆかなかった。数日後にはもうそれだけが医者の気がかりであった。  たびたびペリーヌは医者に聞いてみた、がリュション先生は女の子なぞの好奇心に興味を持つ人でなかったから、ろくに返事をしなかった。幸い先生はバスチアンやベローム嬢とは比較的打ち解け夕方の往診の時たびたび会うので、心配な少女はこの老僕と教師とから、どうやらこうやら様子を知らして貰った。 「お命に別状ありません、」とバスチアンは言うのだった、「だってリュション先生は御主人に仕事をなすったらとおっしゃるんですからな。」  ベローム嬢はもう少し詳しかった、そうしてお邸に教えに来て医者と喋った時は、自分の聞いたことを進んで生徒に伝えた、それはしかし一口にいえばいつもこういう事になった。 「ぐんと一つ震動を与える必要があるのです、精神の機械仕掛けは停まっているけれど大きな弾機(ばね)は折れていないらしいので、これに活を入れてやるようなものが。」  長い間皆はこの震動を恐れてきた。むしろこの震動が不意に起こるのを気遣ったからこそ、一般の状態ならたぶんやれた白内障の手術を幾度ものばしてきたのである。ところが今はその震動が望ましいのだ。それが起これば、これに押されてヴュルフラン氏は再び事業に仕事に、すべて彼の生活であったところのものに興味を持ち、そのうち、たぶん近いうちには、きっと首尾よく手術がやれるであろう、殊に、手術の専門的立場から見てどちらも恐れなければならない息子の帰国とか死亡とかに伴う激しい感情はもう心配ないのであるから。  しかしどうしてそれを起こすか?  考えたが解決はつかなかった、それ程彼は万事と没交渉のように見えた。部屋に閉じこもっている間はタルエルをも甥たちをも引き入れようとせず、また日に二度、朝と夕方、うやうやしく指図を聞きに来るタルエルには、いつもバスチアンに返事させるほどだった。 「一番よいように決めてくれ。」  寝床を離れて事務所へ戻っても氏はろくにタルエルの決めたことを自分に分からそうとはしなかった、もっともタルエルは十二分に達者で、巧妙で、慎重だったから、工場主自身が採るに違いないような方策をちゃんと決めていた。  氏はこのように熱がなかったが、相変わらず毎日ペリーヌは、従来通り氏を工場へ連れてまわるのであった。しかし途中は黙り込んだままで、時々彼女の述べる意見に対しても大抵返事をしなかったし、工場についても監督らの報告に耳を傾けることは殆どなかった。 「一番よいように、」と氏は、繰り返すのだった。「タルエルと相談してくれ給え。」  こんなことがいつまで続くのだろう?  ある日の午後、工場巡回からの帰途、眠ったような老馬の足取りでマロクール近くまで来ると、そよ風がラッパの響きを伝えた。 「停めてみよ、火事のラッパを吹いているらしい。」  馬車が停まると音ははっきり聞こえた。 「火事じゃ、何か見えるか?」 「もくもくとした黒い煙が。」 「どの方角じゃ?」 「ポプラの並木越しで分かりません。」 「右か? 左か?」 「左の方でしょうか?」  左手なら工場の方だ。 「ココを駆けさせましょうか?」 「いや、しかし急いでやってくれ。」  近づくとラッパの音はずっとはっきりしてきた、が道は、ふちにポプラの生えた気紛れな池のままに曲がるので、ペリーヌは、煙の昇っている正確な場所を決めることができなかった。どうも村の真ん中らしく、工場ではないようだ。  そう述べたが氏は答えなかった。  この見方を確かにしてくれたことには、ラッパの音は今や全く左手の方に、つまり工場の近傍に聞かれた。 「火事の場所では鳴らしはしませんから。」 「それはもっともな理屈じゃ。」  しかし氏はこの返事をほとんど無関心な口調で言った。火事なぞはどこでもよいというふうだった。  村へ入って始めて確かな事が知れた。 「ゆっくりおいでなせえ、」と一人の百姓が叫んだ、「火事はお邸じゃあございません、ラ・チビュルスのうちが焼けてるんで。」  ラ・チビュルスというのは、託児所へ入れるのには幼い子供達を預かっている飲んだくれの老婆で、学校の近くの庭の奥にある古ぼけて崩れかけた惨めな藁家に住んでいた。 「行ってみよう、」と氏が言った。  駈けている人々の後をついて行きさえすればよかった。もう家々の上から煙と火炎が渦を巻いて立ち上るのが見えた。焦げ臭い匂いがした。野次馬どもを轢きたくなかったら手前の方で停まるよりほかはなかった。野次馬どもはどんな事があっても動こうとしなかったのである。そこで氏は馬車をおり、ペリーヌに引かれて人だかりの中を通った。家の入り口に近づくと、消防夫を指揮していたので鉄兜をかぶったファブリが、やって来た。 「火災は消し止めました、が家は丸焼けです、なお悪いことに子供が何人か、五人か六人ほど、だめです。一人は下敷きになり、二人は窒息死、後の三人はどうなったか分かりません。」 「どうして火事になったのじゃ。」 「ラ・チビュルスめが酔っ払って寝ちまいまして−−まだ眠っているんですが−−、年嵩の子供らがマッチを持って遊んでおりましたんで。そこいら中が燃え出したものですから子供らは逃げ出す、ラ・チビュルスもたまげて逃げ出し、揺りかごの中の幼児は忘れちまったんです。」  庭手に騒ぎが起こり、叫び声がこれに続いた。氏はそっちの方へ行こうとした。 「向こうへは行かないで下さい、窒息した子供の母親が二人、泣いているんです。」 「誰々じゃ?」 「工場の女工です。」 「言葉をかけてやらなくては。」  ペリーヌの肩に手をかけた、引いてゆくようにと言うのだ。  ファブリが先へ立って道をあけさせ、彼らは庭に入った。庭では消防夫らが、立ったままでいる四つの壁の間に崩れ落ちた家の残骸の中に沈みこんでいた。ほとばしり出る水の下では火炎の渦がパチパチ音を立てて勢いよくこの炉から上がっていた。  聞こえていた叫び声は、向こうの隅の女達のいっぱいいるところから出ているのだった。ファブリは人の群れをかき分け、ヴュルフラン氏はペリーヌの後から、子を膝に抱いている二人の母親の方へ行った。神の救いを信じていたらしい方の母親は、その救いが現れたとみた。そうしてそれが工場主に過ぎないのを知ったので、脅すように腕をその方へ伸ばして、 「人がお前さんのために、くたくたになって働いていりゃあそのひまに、うちの子供はこの始末だよ、見ておくれ。お前さん、生き返してくれるとでもいうのかい? おお! 可哀そうに、可哀そうに!」  そうして子の上に身をまげて激しく叫び泣きじゃくった。  ちょっと氏はためらっていた、それからファブリに向かって、 「なるほどな。行こう。」  彼らは事務所へ帰った。もう火事の話は出なかった、しかしついにタルエルが来て、ヴュルフラン氏にこう知らせた、六人死んだと思われていたがその中の三人は気違いのようになりかけた時分に連れ出され、近所の家で無事にしていることが分かった、従って実際は三人しか犠牲者はなかったのだ。埋葬式は明日に決まったと。  タルエルが戻ると、帰途についてから工場まで深い思いに耽っていたペリーヌは、決心して話し掛けた。 「そのお葬式にはお出かけになりませんか?」彼女は声をふるわせてそう聞いた。感情を昂ぶらせていることがその声で知れた。 「何でわしが出かけるのじゃ?」 「それがあの気の毒な女の人の非難に対してあなたのなさる、一番ふさわしい答になりましょうから。」 「女工どもはわしの息子の式に来たか?」 「あの人達はあなたと一緒に悲しみませんでした。あなたの方はあの人達を襲った悲しみを一緒に悲しんでおやりになる、これは一つの答えでございます、それは分かることでしょう。」 「お前は女工というものがどんなに恩知らずかということを知らぬ。」 「何の恩を知らないとおっしゃるのでしょう? 貰ったお金の恩をとおっしゃるのですか? それならば恩知らずも出ると存じます。その訳はたぶん女工というものがその貰うお金を、それの支払者と同じような見方では見ないからです。自分の稼いだ金を自分がどうしようと勝手だと女工は考えているのではないでしょうか? あなたのおっしゃるような忘恩はたぶん実際にございましょう。しかし利得の印に対する忘恩と、愛情の助けに対する忘恩とは、同じ物とお考えになりますか? 愛情を起こさせるものは愛情でございます。人というものは自分を愛してくれていると思うものを愛するものでございます。自分が他人の友達になってやれば、他人も自分の友達になってくれるように思われます。不幸な人々の貧乏を救ってやるのは有り難いことです、しかしその人々の苦痛を・・・自分も共に分け合って慰めるのは、どんなに更に有り難いことでしょう!」  この意味のことをもっと沢山いいたいと少女は思った、が氏は何も答えなかったし聞いているようにさえ見えなかったので、続ける勇気がなかった。いずれまたそのうちにこの話題をとらえよう。  邸へ帰りがけタルエルのベランダの前を通る時、氏は足を止めて、 「牧師様に予め言うておいてくれ、子供の埋葬費はわしが引き受ける、適当な式をして下さるよう、それからわしはそれに出かけるとな。」  タルエルはびっくりして反り返った。 「明日教会堂へ行きたいものには誰にでもその暇をやると掲示をさせてくれ。あの火事はひどい不幸じゃ。」 「私共の責任ではございません。」 「それは直接ではないが。」  ペリーヌが驚いただけではなかった。翌朝、手紙開きと課長会議の後、氏はファブリを引き留めて、 「君は、やりかけの急ぎの用事は何もないと思うが?」 「はあ、ございません。」 「では、ルアンへ行ってくれ。よそで立派にやったことを適用してある模範的な託児所が、そこに建ったということをわしは聞いた。いや、市で建てたのではない、もしそうなら競争があったろうし従って型通りのものになったろう。ある個人がその愛する人々のよい記念となるようにというので建てたものじゃ。君はこの託児所を、構造から、暖房から、通風、元価、維持費、あらゆる詳細に亙って調査するんだ。次にその建造者はどこどこの託児所から感銘を受けたかを尋ねてそれらの託児所をも調べに行って、できるだけ早く帰ってきたまえ。三ヶ月以内に、わしの全工場の入り口に保育所を開かなけりゃあならんのでな。一昨日起こったような災難はもう起こしとうない。頼むぞ。お互いにあんな責任は負わぬようにしたい。」  ペリーヌはこの大きな知らせを熱心なベローム先生に語ったが、その夜、勉強は、書斎へ入って来たヴュルフラン氏のために妨げられた。 「ベロームさん、わしは、わし及びこの土地の住民に代わって一つお力添えを下さるようあなたにお願いに来ましたのじゃ、−−それの起こす結果からいえばこの上もなく重要な、じゃがわしもその点をよく認めているようにあなたからも大きな犠牲を要求しているそういう大きなお力添えをばのう。というのはこうなのですじゃ。」  自分の設けようとしている五つの保育所の監督に当たるために辞表を出して欲しいというのだった。自分も色々考えてみたけれど、こんな重い業務をうまくやり遂げることのできる賢い、強い、勇敢な女の人は彼女をおいて見つからなかった。保育所が開かれたら、自分は永久の維持費を供給するに十分な資本をつけてこれらをマロクール、サン・ピポア、エルシュ、バクール、フレクセールの村々に提供するつもりだ、そうしてこれが提供の条件としては、これならば確かに自分の事業を成功させ持続させてくれるに相違ないと十分信頼する人をいつも保育所の所長にしておくという義務のほかは要求しない、」というのだった。  そう頼まれてみると承諾しない訳にはゆかなかった、が胸の張り裂けるばかりの苦痛がないのではなかった。氏の言ったように、先生にとって犠牲は大きかったからである。 「おお! あなたは教育というものがどんなものか御存じありません、」と先生は叫んだ。 「子供らに智慧を授けること、これは結構なことで、わしもそれは心得ておる、が子供らに生命を与え健康を与えることも、これまた有り難いことで、これはあなたのなさるお仕事ですわい。お断りになるほど小さな事じゃありませんぞ。」 「それに私も、自分の都合ばかり考えておりますと、あなたに選んで頂いただけの値打ちのないものになってしまいますから・・・では結局私も生徒になりましょう、学ぶ事柄はたくさんできましょうし、そうすれば教えたいという私の要求ももっと広い意味で満たされるというものです。私は心からあなたを信頼しております、そうしてこの心は、外に表せないほど感動しております、感謝や驚嘆の念でいっぱいで・・・。」 「感謝ということをおっしゃるのなら、その言葉は、私にでなくあなたの生徒にかけて下さい。この娘が、その言葉や暗示で、わしのそれまでに知らなかった考えを呼び起こしてくれ、これから歩かにゃならぬ道程に比べたらものの数でもないほんの二、三歩しか未だ歩いておらぬ一つの道へ、わしを引き込んでくれましたのじゃからな。」 「まあ! ヴュルフラン様、」とペリーヌは喜びと誇りに元気付いて叫んだ、「では、更にもう一歩お歩きになったら。」 「どこへ行くのじゃ?」 「どこか今晩私の御案内致しますところへ。」 「さてお前という奴は何も危ぶまぬのじゃな。」 「ああ! 危ぶまないでいられましたらどんなにいいでしょう。」 「ではわしを疑うのか?」 「いいえ。自分を疑っているだけでございます。でもそれは、今晩どこかへ御案内致したいというお願いとは何の関係もございません。」 「しかしどこへ今晩つれてゆこうというのじゃ?」 「ほんの二、三分間いらっしゃるだけで非常な結果が生まれるそういう場所でございます。」 「その分からぬ場所がどんなところか、もう一つ言って貰えぬかな?」 「それを申し上げますと、お出かけになることから私の当てにしている結果がふいになってしまいますの。今晩はお天気で暖かそうですから、風邪をお召しになる心配はございません、決心なさいませ。」 「御信頼なすってもよさそうですわ、」とベローム嬢が言った、「どうもこの申し出の形が少しばかり・・・妙で子供らしゅうございますけれど。」 「じゃあ、お前のいうようにしよう、わしは今夜お伴をする。出かけるのは何時にする?」 「遅いほど結構ですわ。」  宵のうち氏はたびたびこの外出のことを語った、がペリーヌを決心させて訳を言わせることはできなかった。 「お前はわしの好奇心をそそるようになった、お前気づいているか?」 「たといそのくらいの事しかできなかったに致しましても、それでもう大したことではございますまいか? あなたは昨日願っていらしったことを悲しんで茫然としていらっしゃるよりも、じきに明日にも起こるかもしれないことを夢見ていらっしゃる方がよくはございませんか?」 「明日というものが今わしに在るなら、そりゃあその方がよかろう、しかしどんな将来を夢見よというのじゃ? それは空虚じゃから、過去よりもなお寂しいわ。」 「いいえ、寂しいことなんかございません、もしほかの人々の将来をお考えになるなら。子供の時分・・・不仕合わせな時には、よく私たちは、何でもできる魔術師に、−−どんな願いでもただ思いさえすれば実現できる魔法使いに出くわしたら、何でもかでも頼んでやろうと思いますわね、しかし自分自身が魔法使いだったらその人は幸福でない人々を−−それが子供であろうとなかろうと−−幸福でない人々を幸福にしてやろうと考えないものでしょうか? その力を持っているのですからそれを使うのは面白いことではございませんか? 私たちは今お伽噺の国にいますから私は面白いことではと申し上げましたが、現実には別の言い方がございましょう。」  こんな話をして宵は過ぎた。氏は何度も出発の時刻ではないかと尋ねた、が彼女はそれをできるだけのばした。  ついに彼女は出かけてよいことを告げた。夜は予想通り暖かく、風もなく靄もなかった、が遠くにいなびかりが立って暗い空をしきりに照らした。村に着くと、村は眠っていた。締まった窓には一つの灯火もついていず、どんな物音もなかった、ただ川の堰を落ちる水音だけ。  盲人は皆そうだが、ヴュルフラン氏も夜自分がどこを行くかを知ることができた、お邸を出てからまるで見ているように道を跡づけていた。そのうちに氏は言った。 「ここはフランソアズの前じゃな。」 「実はそこへ参りますの。さあ、どうぞ、口を利かないように致しましょう。手を引きますわ。申し上げておきますけれど、階段を上らなければなりませんの、楽なまっすぐな階段ですわ、上ったところで扉を開けて、入りましょう。そこでお好きな間だけじっとしていましょう、一分でも二分でも。」 「何を見せようというのじゃ、わしが見えもせんのに。」 「ごらんにならなくてもいいのです。」 「では何で来た?」 「ただ参りますために。申し忘れていましたが上る時は音を立てても一向構いませんの。」  事は彼女の言っておいたように手筈されていた。内庭に着くと、いなびかりが階段の上り口を見せた。彼は上った。ペリーヌは例の扉をあけ、氏をそっと引き入れ、扉をしめた。  すると暑い、きつい、息詰まる空気に包まれた。  舌の回らぬ一つの声が言った、 「誰だい?」  手を押さえて、返事をしないようにとヴュルフラン氏に注意した。  同じ声が続けて、 「寝なさいな、ラ・ノアイエル。」  今度は氏の手が外へ出ようとペリーヌに言った。  彼女は扉をあけて降りた。背後から呟き声がついてきた。  往来へ出て始めてヴュルフラン氏は口を開き、 「お前は、お前がここにやって来て最初に泊まった共同部屋をわしに知って貰おうとしたのじゃな?」 「私は、マロクールやその他の村にあってあなたの女工たち男や女や子供達の泊まる共同部屋の一つを知って頂きたかったのです、たった一分間でもそこの悪い空気をお吸いになったら、その空気がどんなにたくさんの気の毒な人達を殺しているかを調べさせてみようとなさるだろうと思いまして。」 39  どんな事が身に起こるかしらと考えながら希望をなくした惨めなペリーヌが輝かしい日曜日マロクール村に着いたのは、ちょうど一年一ヶ月前の今日だった。  今日も輝かしいお天気だったが、ペリーヌも村も昨年とは似てもつかなかった。  足下の低地に広がる村や工場がどんなところかを分からせようとしながら、丘の上の小さな森の外れに寂しく坐って一日の残りを過ごしたあの場所に、今は建築中の建物がある。土地の全貌を見晴らし、マロクールに住むもしくはそこに住まなくなるヴュルフラン氏の工場の女工を収容する、空気もよく景色もよい病院である。  土地の変化はこの病院によって最もよくうかがうことができる。その変化は、殊に過ぎた時の短さからいって、稀有のものである。  工場そのものには著しい変わりがなかった。ずっと昔のままだ。完全に発展しきっているから、もうただ厳密に整えられた全てのものの規則正しい歩調を続けてゆくばかりだというふうだ。  しかしその正門に近いところ、昔、二、三ヶ月前焼けたラ・チビュルスのと同種の二軒の託児所になっていた哀れなあばら屋が潰れかけていたところに、ヴュルフラン氏がこの崩れかけたあばら屋を買い取って取り壊してそこに建てさせた保育所の燃えるように真っ赤な屋根と、半分は薔薇色で半分は青い玄関が見えた。  あばら屋の持ち主に対する氏のやり方は、はっきりしていて正直なものだった。氏は持ち主を呼んで、自分の女工の子供が火事に遭ったり、預けられている家の不行き届きから起こるあらゆる種類の病気に倒れたりするのはもう我慢がならぬゆえ、保育所を建ててそこに子供らを引き取り、三歳になるまで無料で養育しようとしている旨を説明したのである。氏の保育所と彼らの託児所とが揉めるはずはなかった。売りたいと言われるなら定額と終身年金とで買い取ろう、売りたくないならそのまま続けていて貰うだけのこと、当方に土地がないわけではないのだから。翌日十一時までに決めて頂きたい、正午になったらもう後の祭りですぞ、と、こういうのだった。  村の中央に、ずっと高く、ずっと長く、ずっと堂々たる別の赤屋根がそびえている。それは独身の男女工のためにここの部屋、食堂、レストラン、酒保、糧食倉庫を設けた落成に近い一むれの建物の屋根である。この建物についても氏は保育所の時と同じ買い上げ法を取った。  以前そこには沢山の古い家があって、職工の泊まる共同部屋や私室に、どうやらこうやらの状態で、しかし本当からいえばおよそ不完全な状態で当てられていたのである。氏は家主らを呼んだ、そうして既に述べたのと似たり寄ったりの言葉を彼らに述べた、 「あんたがたがわしの職工を泊めていなさる共同部屋をわしは大分前から甚だ遺憾に思うておる。大勢のものが胸の病気や腸チフスで死ぬのは宿の設備の状態が悪いからじゃ。わしはもう我慢がならぬ。それで独身の男女工どものため一と月三フランで各人専用の部屋をあてがうよう宿舎を二つ立てることに決めた。同時に階下を食堂とレストランにして、スープと、シチューか焼肉と、パンと、林檎酒(シードル)とからなる夕食を七十サンチームで出す。家を売りたいと言われるのならわしはその家跡にこの宿舎を建てる。売りたくないならそのまま持っていなさるがよい。わしはあんた方の為になるように計画しておる、なぜというにわしは遥かに安価で立つ地面をほかに持っているのじゃから。明日十一時までに考慮して頂こう、正午だともう遅すぎる。」  殆ど到るところに散在しているその地面には新しい瓦の別の屋根が見える、これらはごく小さい、そうしてその清潔さと赤の色彩とが、苔やべんけい草のいっぱい生えた古い屋根と際立った対照をしている。建ち始めたばかりの職工の家だ。どの家にもぐるりに小庭が出来ており、もしくは出来ることになっており、家族の食べるに必要な野菜はそこで作られ、年百フランの家賃で、物質上の幸福と、自分の家にいるという自尊心とを持つことが出来る。  しかし一年間マロクール村を留守にしていたであろう人を何より強く驚かせ、茫然とさえさせたに違いない変化は、ほかでもないヴュルフラン氏の邸のうち、芝生となってこの邸をくりひろげながら幾つかの池まで降りていってこれらと一つになってしまっている部分、これをくつがえした変化であろう。それまで殆ど自然のままにしてあったこの低い部分は、溝囲いで邸から仕切られて、今はその中央に、木造の大きな別荘が建ち、まわりに小屋やあずまやが幾つか並んでいて、全体として公園のような様子を見せていた、そうしていよいよそれに違いないことには、あらゆる種類の遊び道具がそこにあった。遊動木馬があり、ブランコがあり、体操用具があり、球遊び、柱倒し、弓、弩(おおゆみ)、騎銃や小銃撃ち、マスト登り、ローンテニス場、自転車練習場、操り人形の劇場、音楽師の演奏台があったのである。  実際そこは公園だった。各工場全部の職工たちを遊ばせてくれる公園だったのだ。ヴュルフラン氏は、他のエルシュ、サン・ピポア、バクール、フレクセールの村々に対してもマロクールと同じ諸設備をすることを決めたけれど、お互いのつなぎとなるような総括的関係を生ずる会合と娯楽の場所だけは全体に対してただ一ヶ所にしたいと思ったからである。そうして最初のうちは単に図書館でも建てるつもりでいたのが、どういうことに影響されたのかあまりよく分からないままにこの広大な遊園地に変わってしまい、中央の大別荘を占めている読書室と会議室とのまわりに、こうしたいろんな遊び場が集まったのである、そうしてその発展は氏の邸の一部をさえ要求した、それゆえ現在では労働者クラブがお邸をかばい、お邸は妬まれなくなっている。  こうした変化は大変急速に取り入れられ実現されたから、この土地に激しい不安を、さては一種の紛擾を引き起こさずにはいなかった。  一番敵意を抱いたのは下宿屋、居酒屋、商店の亭主らで、これは圧迫だ、これでは立ちゆかぬと叫んだ、大体人に競争を仕掛けて来て、これまでずっと、自由な人間にふさわしくなるべく儲かるようにと続けて来たその条件では商業をやらしてくれないというのは不正ではないか、社会的罪悪ではないか? というのだった。工場の創設当時と同様、百姓らは、工場のお蔭で土地の働き手は不足するし働き手の給料を上げてやらなければならなくなるといって工場に反対したし、小商人らはこれと一緒に口を揃えて不平を鳴らすのだった。ヴュルフラン氏がペリーヌをつれて村の往来を通るとき、人が背後から二人に悪人みたようにして嘲罵を浴びせかけないのは、これは全く理のあることなんだ、あの盲目の老人は、未だ十分金持ちになりきれないものだから、惨めな連中を零落させようとしているのさ! 息子が死んだって、あの人は親切気も同情心も起こしはせぬ! だから、ああしたことをやる目的というのはただもう、職工どもをいよいよ固く鎖で繋いで右手で渡すように見せかけては左手で取ってしまう為に過ぎないんだ、これの分からない職工は馬鹿な奴等だ、と。幾度か集会は開かれた。どうしたらよいかが論議された。それらの席上一人ならずの職工は、自分がほかの大勢の仲間たちのように馬鹿ではないことを証拠立てた。  ヴュルフラン氏の親しい人達、というよりはむしろその一家の間でも、この改革は不安と非難とを招いた。気でも狂うのだろうか? 自分自身をつまりは我々を、零落させようというのか? 止させるのが賢明ではなかろうか? あの娘の思い通りになっているという氏の弱み、これは明らかに、氏が年寄ってもうろくしている証拠だ、裁判官たるものの詮議せずにはすまされぬところだ。と、そこで敵意という敵意はこの危険なあばずれ娘の上に集まった、あの娘は自分のすることをわきまえておらぬ、金なんぞ、自分の物ではあるまいし、無茶苦茶に使ったからとて何の事があろうと思っているのだ。  この怒りからしょっちゅう直接間接に少女は攻撃を受けた、が、幸いにも少女は愛情に守られた、そうしてこれが自分を元気付け慰めるのを感じた。  例のように、成功者の御機嫌取りタルエルは少女の側に立った。少女はその企てに成功した。自分の思うことを悉くヴュルフラン氏にさせた、そうして甥らの敵意と戦っている。これはタルエルが公然とペリーヌの味方となるのに十二分であった。事実上工場の財産を増加させるあの莫大な金額をヴュルフラン氏が出すということは、タルエルとしては実は一向構わない事だった。自分がその金を払わされる訳ではない、ところで工場は大抵そのうちに自分の物になってしまうからである。だからタルエルは、新規の改良が研究されているなと見抜いたらヴュルフラン氏をつかまえて、『察しますに』今がそれを実現させる好都合の時で、とやる機会を見逃しはしなかった。  しかしこれよりもずっとペリーヌの嬉しかった別の友情は、リュション先生やベローム嬢やファブリの友情だった、また諸施設の監査役を設ける為ヴュルフラン氏の選ばせた職工たちの友情だった。  医者は、どんなにその『あばずれ娘』がヴュルフラン氏に道徳上精神上の力を与えたかを見て態度を改めた、そうして今は父のような愛情を持って、尊敬を持ってさえ、ともかく大切な人物として少女に臨んだ。「あの娘は薬以上のことをした、」と医者はいったものだ、「実のところあの娘がいなかったらヴュルフラン氏はどうなったか、わしには分からぬ」。  ベローム嬢は別段改める態度とては持っていなかった。嬢はペリーヌが御自慢だった、そうして毎日稽古中の数分間は、隠さず自分の心からの意見を吐いた、もっとも嬢の告白したところによるとそれを表現する言葉は、『先生が生徒に』いうのだからあまり正確なものではなかったが。  ファブリはといえば全ての仕事にあまりにも近く関係していたから、彼女とは調子の合わない訳がなかった。この男は、初め彼女を注意しなかった、が彼女はたちまち工場で大きな威力を持ってしまい、もう彼女の手中の道具でしかなくなってしまった。 「ファブリさん、あなたはノアジエルへ労働者の家を調べにいらっしゃるんですよ。」 「ファブリさん、あなたは英国へ労働組合の調査にいらっしゃるんですよ。」 「ファブリさん、あなたはベルギーへ労働者クラブを視察にいらっしゃるんですよ。」  ファブリは出かけた。興味をひいた事柄はどんな事もゆるがせにしないで指示されたことを調査した。帰ると、長い事ヴュルフラン氏と議論した後、いろんな計画を立てた。この計画は、つい最近工場で一番重要になったファブリの事務所に詰めている建築技師や工事監督らによって、ファブリの指図の下に実行された。決して彼女はその議論に加わらなかったし口を挟みもしなかった、しかし彼女はそれに出席した。この議論を準備したものは彼女であった。それを力付けたものは彼女であった。要するに主人の頭の中にまたは胸の中に彼女の投げ込んだ種が、芽を出し、実を結んだのである。本当の馬鹿でない限り、そのことはうなずけた。  仲間に選ばれた労働者たちもファブリと同様、ペリーヌの役割を見とめた。労働者らの会議でペリーヌは一言もいわず身振り一つしなかったとはいえ、極めて当然にも彼らは、ペリーヌの及ぼす影響を熟慮する事ができた。彼女が味方だということは、彼らの安心と自尊心とにとっては大きな事柄だった。 「あれは管捲機にいたんだぜ。」 「管捲機から修行してかからなくって、今みたような娘になれるか?」  この連中が前にいる時、村の往来を通るペリーヌを冷やかそうなどと言おうものなら、ひどい目に逢ったろう。冷やかしかけても急いで無理矢理に喉の中で噛み殺してしまわなければならなかったろう。  その日曜日は、ちょうど、ヴュルフラン氏がペリーヌに言わなかったむしろ内証にしておきたそうな素振りさえ見せたある調査事のため幾日か前に出かけていたファブリの帰る日で、皆はこれを待っていた。朝ファブリは次のような数語しか述べていない一通の電報をパリから打った。 「情報完全、公文書、正午着く。」  零時半だったがファブリは着かなかった。その為にヴュルフラン氏は苛立った。例にない事だ、いつもならもっと落ち着いているのだが。  氏は昼食をいつもより早くすませてペリーヌと一緒に自分の部屋へ行った、そうして絶えず庭に向かって開いた窓へ行って耳をすました。 「ファブリの着かぬのはおかしい。」 「汽車が遅れたのでしょう。」  しかし氏はこの理由に屈伏しなかった、そうして窓辺にいた。少女は氏を窓から引き離したかった。氏に知って貰いたくない事柄が庭や公園で行われていたからである。植木屋どもはいつもより元気よく花壇に四つ目垣をめぐらし終えていた、一方では芝草の上に散在する珍しい植物を運び出している植木屋もいた。入り口の柵門は大きく開いており、溝囲いの向こうでは、職工クラブに旗や小旗が掲げられ、海の微風にはためいていた。  突然氏は給仕を呼ぶベルを押した、そうして給仕が現れるとこう言った、「誰か来てもわしは引き入れぬぞ。」  一体日曜日は、子供でも大人でも話したいという人達をみんな引き入れるのが習慣だったから、いよいよペリーヌはこの命令に驚いた。思うに氏は普通の日は、話をひどく節約して金銭で見積もることの出来る時間を潰すまいとした、が反対に、自分の時間も他人の時間もそういう日と同じ値打ちでなくなる日曜日には、喜んで喋った  ついに池の道、つまりピキニから来る道に馬車の音が聞こえた。 「ファブリが来た、」と氏は同時に心配そうで嬉しそうな、調子の変わった声で言った。  果たしてファブリだった。急いで部屋へ飛び込んで来たが、これまた常にない様子に見えた。そうしてまず最初ペリーヌの方へ投げた眼差しに、ペリーヌは何かしら胸騒ぎがした。 「機関の故障のために遅れまして。」 「着いたらそれが何よりじゃ。」 「電報で前以ってお知らせ致しましたが。」 「うむ、君の電報はひどく簡単で、ひどくぼんやりしたものだったが、わしは希望を得た。確実さということがわしには必要なのじゃからの。」 「それはもうあなたのお望みになれるだけ確かなものでございます。」 「では話をしてくれ、早く話をしてくれ。」 「このお方の前で構わないんですか?」 「かまわん、それがもし君のいうようなものなら。」  ファブリが、任務を報告する時それをペリーヌの前でしていいかどうか尋ねたのは、これが初めてだった。彼女は早くも不安な気持ちになっていたからそう用心されて、ヴュルフラン氏とファブリの言葉、二人の興奮、そのふるえを帯びた声などが引き起こしていた少女の胸騒ぎは、いよいよひどくなるばかりであった。ファブリはペリーヌの方を見ないで話した、 「あなたが捜査を依頼なすった代理人の予想通り、−−何度も足跡が分からなくなりましたが、−−そのお方はパリへおいでになりました。そこで死亡証書を調べてみますと去年の六月にエドモン・ヴュルフラン・パンダヴォアヌ氏未亡人マリ・ドルサニという名前の証書を見つけました。これがその証書の正本でございます。  彼はそれを氏の震える両手に渡した。 「読みましょうか?」 「名前は確かめたか?」 「それはもう。」 「では読まんでよい、後で見よう、話を続けてくれたまえ。」 「私はその証書だけではすまさずに、そのお方の亡くなられた家の持ち主、鹽爺さんというのにも問いましたし、またその気の毒な若い御婦人の臨終に立ち会った侯爵夫人という町の唄うたいや、古靴屋の黙り屋さんなどという連中にも会いました。疲労と衰弱と欠乏とのためにお倒れになったのでした。私はまたそのお方を看取ったリブレット町のシャロンヌに住んでいるサンドリエ先生にも会いました。病院に入れようと思ったが娘と別れるのを拒まれたのだそうで。最後に、この人々はシャトー・デ・ランチエ町のラ・ルクリという屑屋のうちへ私を案内してくれまして、私の調べはつきました。その屑屋には昨日田舎から帰ったのに会ったばかりのところです。」  ファブリは一息ついた、そうして始めてペリーヌの方に向いて丁寧に挨拶した、 「お嬢様、パリカールにも会いましたよ、元気にしておりました。」  既にこのちょっと前にペリーヌは立ち上がっていた、そうして茫然として眼をそそぎ耳を傾けていた。涙が滝のように流れた。  ファブリは続けて、 「母に相違ない事が決定しますと、後はその娘御がどうなられたかを知らなければなりませんでした、これはラ・ルクリが教えてくれました、シャンチイの森で一人の娘が可哀そうに飢えて死にかけていたところをその娘の驢馬が見つけて、会ったのだということで。」 「これお前、」とヴュルフラン氏は、頭から爪先までふるえているペリーヌの方に向いて叫んだ、「言わぬのか、何でその娘は名乗って出なかったのじゃ? 説明してくれぬのか、若い娘の気持ちをよう知っておるお前?」  彼女は一、二歩前へ出た。  氏は続けて、 「何でその娘はわしの広げた腕の中に来ぬのじゃ? お祖父さんの・・・」 「おお!」 「腕の中に。」 40  ファブリは、祖父と孫娘とを差し向かいにしたまま、引き下がった。  しかし二人はひどく感動していたから、何も言わず手を取り合い、ただ愛情の言葉を交わすだけだった。 「わしの娘、わしの可愛い孫娘!」 「お祖父様!」  ついに、二人が気も転倒した混乱からやや我に返ると、氏は尋ねた、 「お前はどういう訳で自分を知らそうとしなかったのじゃ?」 「幾度も致しましたわ。いつでしたかついこの前私がお母さんと私との事をそれとなく申し上げた日に、『今後は決して、よいか、今後は決してあの情けない奴等のことを言うのではないぞ』とおっしゃった事を思い出して下さい。」 「まさかお前がわしの娘じゃと思えたろうか?」 「もしもその娘が正直にあなた様の前へ名乗って出たら、耳も貸さずに追っ払っておしまいにはならなかったでしょうか?」 「わしがどうしたかそんなことは分からぬ!」 「それで私はお母さんのすすめに従って、自分が愛されるようになる日まで名乗って出る事は止そうと決めましたの。」 「随分待ち方が長かったのじゃのう! しょっちゅうわしの愛情のしるしを受けていたではないか?」 「父としての愛情だったでしょうか? そう信ずる勇気はございませんでした。」 「もっと早く言ってくれたらそんな必要はなかったのにわしはひどく逆らったり躊躇したり希望を持ったり疑ったりした揚げ句、わしの推測に間違いはない事になったので、ファブリを使うという事になったのじゃ、お前をわしの腕へ飛び込ませるためにのう。」 「唯今のこの嬉しさから見ますと、その方がよかったのではございますまいか?」 「まあま、よいわ、そのことはおこう、そうしてお前の隠しておった事を、−−わしに捜索をさせながら隠しておった事を聞かしてくれい、お前が一言いってくれたら得心がゆくところじゃったのに・・・。」 「腹蔵なくねえ。」 「おまえの父親の話をしてくれ。何でセラジェヴォに行ったのじゃ? どうして写真屋になったのじゃ?」 「印度での私たちの暮らしがどんなだったか、あなた様は・・・。」  氏は口を挿んで、 「あなたといえ、お前はお祖父さんに話しているのじゃ、ヴュルフラン氏に話しているんじゃない。」 「あなたは、あなたのお受け取りになったいろんな手紙で、私たちの暮らしがどんなだったかは大体御存じです。そのことは後でお話し申し上げましょう、植物採集のことだの狩猟のことだのと一緒に。そうしたらお分かりになりますわ、お父様の勇敢だった事、それからお母様の健気だった事が、だって私お父様のことを申し上げれば必ずお母様のことも話さずにいられませんから・・・。」 「今し方ファブリがその人のことを知らしてくれて、入院したら助かるかも知れぬのにそれを拒んだ、それはお前を離したくなかったからだというのを聞いて、わしが感動せなんだと思ってはならぬ。」 「お母様を愛してあげて下さい、愛してあげて。」 「その人の話をするがよい。」 「・・・いずれ私はあなたにお母様を知って頂きますわ、愛させますわ。だからその事には触れないでおきましょう。フランスへ帰るため印度を立ちましたが、スエズに着きました時、お父様の持ってこられたお金はなくなってしまいました。実業家たちに巻き上げられておしまいになったのです。どうした訳か私には分かりません。」  ヴュルフラン氏はわしには分かるというような身振りをした。 「お金が無くなりましたのでフランスへ行かずにギリシャへ向かいました。その方が旅費が安かったのです。写真器械を持っていたお父様はアテナの町で人々の写真を撮り、これで私たちは暮らしました。お父様はそれから家馬車と、私を救ってくれた驢馬のパリカールとを買い、道々写真を撮りながら陸路をフランスへ帰ろうとなさいました。ところがまあ、写真を撮る人の少のうございましたこと! それに山の道のひどうございましたこと、大抵悪い細路しかなくてパリカールは一日に何度も死ぬところでした。お父様がブソヴァチァで御病気になられた事は申し上げました。お亡くなりになった様子もお許しを得てお話ししないでおきます、できますまいから。お父様がいなくなられても旅を続けてゆかなければなりませんでした。お父様がいて人々に信頼をさせ写真を写す決心をおさせになっていらしったときでも収入は少なかったのですから、私たちだけになった時どんなにそれは減ったことでしょう! だんだん貧乏になっていってそれが冬の盛り十一月から五月まで、パリに着くまで続きましたことも、後でお話致します。あなたはお母様が鹽爺さんの家で亡くなられた次第を今ファブリさんからお聞きになりました。お母様の亡くなられたことや、ここへ来るようにというお母様の最期のお言いつけのことも、後でお話し申し上げましょう。」  ペリーヌの話している間に、漠然とした人声が庭から起こって伝わって来た。 「あれは何じゃ?」  ペリーヌは窓へ行った。芝生や細路は、晴衣を着た職工たち、男や女や子供達で真っ黒で、彼らの上には旗や幟がひるがえっていた。六、七千人の人々が詰め掛け、その群は公園の外へ、クラブの庭へ、道へ、野原へと続き亙っており、この群集から人声は湧きあがっていた、そうしてこれが、ヴュルフラン氏を驚かせ、ペリーヌの物語にはひどく興じていたのにそこから注意をそらせたのである。 「いったい何じゃ?」と氏は繰り返した。 「今日はあなたのお誕生日です、それで全工場の職工がああしてあなたにしていただいたことを感謝してお祝いしようと決めたのでございます。」 「ああ! なるほど、なるほど!」  氏は窓辺へ行った、まるで職工らを見ることができるかのようだった、が職工らは氏を見とめた、すると程なく群れから群れへと歓声が走った、そうしてそれは次々に長引いていって、物凄いものになった。 「これは驚いた! この連中がわしらに楯突くのだったらどんなに恐ろしいことじゃろう。」  師は初めて自分の命令下にある群集の威力を知って呟いた。 「そうですわ、でもあの人達は私達の味方ですわ、私達があの人達の味方なんですから。」 「それも、孫娘や、お前の御陰じゃ。お前の父様のために空っぽの教会堂で式をしたのも、今日からすると大分遠いことになったのう!」 「会議で決まった式の順序はこうです。私があなたを正二時に玄関前の石段のところへ御案内致します。そこであなたは群集を見渡すことができ皆はあなたを見ることができます。工場のあるそれぞれの村から一人の職工が石段に上がり、一同に代わってガトア爺さんがあなたに短い演説を致します。」  そのとき時計が二時を打った。 「お手をどうぞ。」  二人は石段の上に来た、すると大きな喝采の声がひびきわたった。それが制せられると代表者らが石段に上がった、それから麻の刷手(すきて)であるガトア爺さんが仲間たちから一人三、四歩前へ進み出て、朝から十編も練習させられていた演説をやった。 「ヴュルフラン様、我々は貴下に対し慶賀の意を表するため・・・我々は貴下に対し慶賀の意を表するため・・・。」  しかしガトア爺さんは、両腕を大きく広げたまんま詰まってしまった。群集はこの雄弁な身振りを眺めて、演説をやっていることと思っていた。  爺さんは数秒間努力をしながらその間に、まるで麻を梳くような具合に頭を掻いて、白毛を幾掴みかむしったが、それから言った。 「実はこうなんで。わしはあなた様に演説をやることになっておりました、ところが一言も思い出せねえ、いやもう面白くもねえこって! つまりそのあなた様にお慶びを申し述べたい、一同を代表しましてあなた様に心からお礼を申し上げようとこう言うんで。」  爺さんは重々しく片手を上げて、 「右宣誓す、ガトア。」  この演説は、筋道の立たぬものだったが、それでも、文句などに拘泥しない心の状態にいたヴュルフラン氏を感動させた。氏は相変わらずペリーヌの肩に手をかけたまま石段の手すりまで進み、群集の見ている演壇に立つようにしてそこに立ち、 「諸君、」と強い声で言った、「諸君の友情の祝辞をわしは嬉しく思う。それを述べてくれた日がわしの生涯中一番幸福な日、わしがわしの亡くした息子の娘、孫娘を見つけた日であるゆえにひとしお嬉しい。諸君はその娘を知っておる、諸君はその娘の働いておるのを見た。この娘が我々の共同してなした事柄を継続させ発展させてくれると確信していて欲しい、そうして諸君の将来、諸君の子供の将来は良き手に守られていると思っていて貰いたい。」  そう言って氏はペリーヌの方へ身をかがめ、有無を言わさず、未だ丈夫なその両腕に彼女を抱き取って、持ち上げ、群集に示して、これに接吻した。  すると喝采が何千という男や女や子供達の口から起こり数分の間続いた。次に、祝賀の順序はよく整っていたから、まもなく行列が始まり、めいめいは老工場主とその孫娘との前へ来ると、挨拶したり、お辞儀したりした。 「あの愉快そうな顔を御覧になれたら、」とペリーヌが言った。  しかし確かに晴れやかでない顔もあった。式がすんで自分の『従妹』に祝辞を述べる甥たちの顔であった。  この甥たちと喜んでぐるになりたい一方ではどうしても早めにこの工場の跡継ぎにお上手を言っておきたかったタルエルは言った、 「私はもうずっとこうだろうと察しておりました。」  かような感動がヴュルフラン氏の健康によいはずはなかった。誕生日の前日は、それまでの長い間と比べて良好で、もう咳も出ず、息苦しくもなく、よく食べ、よく眠った、ところがその翌日は、咳も息苦しさもひどくぶり返したので、せっかく苦心して取り戻していたことがみんな、また駄目になったように見えた。  程なく医者のリュション氏が招かれた。 「私が孫娘を見たがっておることは御了解のはずじゃ。なるべく早う手術に耐えられる容態にして頂きたいものですな。」 「外へ出てはいけません、乳養法をとって、安静にして、話をしないようになさい、そうすれば唯今はいい時候ですから、胸苦しいのも、動悸も、咳も鎮まり、しくじる心配は少しもなく手術ができます。請け合いです。」  リュション先生の予想は実現した、そうして誕生日から一ヶ月経つと、パリから呼ばれた二人の医者は、大体の容態が手術をするのに十分よいことを認めた。必ずうまくゆくとは言えなかったとしても、その率は非常に多かったし、肝腎の点はこっちのものだった。暗室で調べてみると氏は網膜の感覚を失わずにいることが確認された、これは手術をするのに欠くべからざる条件だった。医者は虹彩切除術−−つまり虹彩の一部を切り取る手術を決心した。  麻酔をかけようとすると、それを拒んで、 「要りませぬ、ただしわしは孫娘に頼んで勇気を出してわしの手を握っていて貰います。その方がわしをしっかりさせてくれることがお分かりになりましょう。ひどく痛みますかな?」 「痛みはコカインで弱まります。」  手術は行われた。患者はたちどころに視力を回復するのではなかった。圧抵包帯をした目の傷が癒合しかけるのに五、六日かかった。  眼科医は自分で必要な手当をするためにお邸に残ったのであったが、この医者が好ましい保証をしてくれたにもかかわらず、希望の日は祖父と娘にとってどんなに待ち遠い事だったろう。しかし眼科医のいうことが絶対ではない。気管支炎が再発したならばどうなるか? 急に咳が現れたら、くさめが出たら、全ては危うくなりはしまいか?  再びペリーヌは、父や母の病気中彼女を苦しめたあの不安を覚えた。死に別れてまたしてもこの世でひとりぼっちになるためにのみお祖父様と巡り合ったという事になるのではなかろうか?  心配するような併発症もなく時は流れた、そうして氏は、鎧戸を下ろしカーテンを閉めた部屋の中で、手術した眼を使うことを許された。氏は少女をじっと見つめた後こういった。 「ああ! もし眼が開いていたら、わしは一遍でこれはわしの娘じゃと覚ったに相違ない。してみると、おまえが父親に似ているのに気付かずにいたとはあれどもも間の抜けた連中じゃのう? タルエルが、こうだろうと『察していた』と言ったのは、あれは本当のところを言ったのじゃろう。」  しかし医者はそういつまでも胸の思いの湧くままを語っていることを許さなかった。感動を覚えてもいけなかったし、咳をしても心悸亢進を起こしてもいけなかったのだ。 「ではまたあとで。」  二週間目に圧抵包帯はゆるい包帯と取り替えられた。二十日目には手当はすんだ。しかし医者がパリから戻って来て、読書もできるし遠方を見ることもできる凸面の眼鏡を選ぶことに決めたのは、やっと三十五日目であった。普通の患者だったら事の捗り方はもっと遅かったに違いない、ヴュルフラン氏ほどの金持ちでいて、極度に行き届いた手当もせずたびたびの旅行もしなかったとするなら、それは愚人に違いない。  孫娘を見た今ヴュルフラン氏の最大の望みは、作業を見に出かけることだった。しかしそれは新たな用心を必要とし、新たな延期を招いた、なぜなら氏はガラスでかこった幌馬車の中に閉じこもることをいとい、氏の古い無蓋馬車を使い、ペリーヌに駆らせ、ペリーヌと自分とがみんなに見えるようにしようとしたからである。そのためには、太陽もなく、また風もなく、寒くもない日を選ぶことが大切であった。  とうとうその誂え向きの日がやって来た。暖かで薄曇りで空は薄い青色をした、この地方でたびたび見られる天気だ。朝食後ペリーヌはココを無蓋馬車につけるようバスチアンに命じた。 「すぐ致します、お嬢様。」  バスチアンのこの返事の調子とその微笑とに彼女は驚いた、が、寒い目にも暑い目にも合わないようお祖父様に着物を着せるのに忙しかった彼女は、それを別段注意しなかった。  やがてバスチアンは戻って来て馬車に馬をつけたことを告げた。二人は石段の上へ出た。ペリーヌは一人で歩くお祖父様から目を離さずに一番下の段まで来た、するとびっくりするようないななきがしたので彼女は顔を向けた。  こんなはずはないが! 馬車には一匹の驢馬がつけられていてその驢馬がパリカールに似ている、もっともパリカールといっても、つやつやして、手入れの行き届いた、木靴も立派で、青い小総のついた黄色の美しい馬具をつけている、そうしてそれが、頸をのばして絶えずいななき続け、侍童におさえられながらペリーヌの方へ来ようとしている。 「パリカール!」  頸へとびついて頬ずりした。 「ああ! お祖父様、うれしい不意打ち!」 「それはわしではない、ファブリじゃ、ファブリがラ・ルクリから買い取ったのじゃ。事務員一同が昔の仲間に贈り物をしたいと言うんだよ。」 「ファブリさんは親切なお方ね。」 「そうとも、そうとも、あれはお前の従兄どもの気づかぬことを思いつきおった。わしも一つ思いついたよ。パリカール用のすてきな二輪馬車をパリに注文したのじゃ、二、三日中に届くじゃろう、そうしたらパリカールだけにそれを引かせよう、この無蓋四輪馬車(ファエトン)では無理だからな。  彼らは馬車に乗り込んだ。ペリーヌは手綱を取った。 「どこから参りましょう?」 「どこからじゃと? 隠れ小屋からじゃあないか? お前の暮らした、お前の巣立った住居をわしが見たくないとでも思うておるのか?」  小屋は、去年引き払った時のままで、誰にも手をつけられず、時の流れにさえ守られて、乱雑に茂り放題の植物とともに、そこにあった。時の流れはただ小屋の特質をいっそう深めていただけであった。「お前が、文明の真ん中の、労働の大中心地のすぐ近くにいて、こんなところで未開の暮らしをしたとは珍しいことじゃ。」 「印度では全く未開の暮らしをしながら何もかも私達の所有物でしたが、ここの、文明生活では何の権利も私は持ちませんでした、私はよくその事を考えたものでした。」  隠れ小屋の次に氏のまず訪れようと言ったのはマロクールの保育所だった。  氏は、その設計を長いことファブリと論じ合って決定したのだから、十分保育所を知っているつもりだった、がその入り口に立って、ほかの全ての部屋を−−つまり赤ん坊が男女の性にしたがって薔薇色か青色の揺りかごに寝かされている寝室や、一人歩きする幼児の遊んでいる養育室や、料理場や、洗面場を一瞥したとき氏は、建築家が、保育所というものは母親たちが玄関の部屋からその立ち入ってならない部屋々々の様子をすっかり見ることのできるように本当のガラスの家でなければならないというこの課せられた困難な理想を、巧みな間取りとガラスの大扉とで実現したことを見とめて、驚いた、そうしてうっとりした。  二人が寝室から養育室へ来ると、子供らはラッパや、豆太鼓や、木の馬や、牝鳥や、人形などのおもちゃを手に持ってこれを差し出しながら、急いでペリーヌの方へ駈け寄った。 「おまえを知っておるのじゃのう、」とヴュルフラン氏が言った。 「知っておりますどころでは!」と二人について来ていたベローム嬢は言った、「慕っている、心からなついているとおっしゃって下さいまし、お嬢様はこの子らの小さなお母様なのでございます。お嬢様ほど上手に子供達を遊ばせる方はありません。」 「覚えておられるかの、」とヴュルフラン氏は答えた、「自分に必要なものを拵え出すことができるというのは何よりの性質だとあなたはいわれた、わしはもう一つのもっと立派な性質が在るように思う、それは他人に必要なものを作り出すことができるということです。まさしくこの事をわしの孫娘はやりおった。しかしお嬢さん、わしらはまだほんのやりかけですわい、保育所を建てる、職工の住宅やクラブを建てる、これは社会問題のイロハで、そんなことくらいでこれの解決がつくものではない。もっと先へもっと深くやってゆきたいものですな。わしらは出発点におるに過ぎんのですからの。やがてお分かりになる、やがて。」  入り口の部屋に戻ると一人のおかみさんが子に乳を飲ませ終わっていたが、急いでその子を起こしてヴュルフラン氏に差し出し、 「この子を見て下さい、ヴュルフラン様、立派な子でしょう?」 「うむ・・・立派な子じゃ。」 「この子はあなた様のものです。」 「そうかい?」 「私はもう三人子供がございましたが亡くしてしまいました。この子の死なずにいるのは、どなたのお蔭でしょうか? この子があなた様のものだということがお分かりでしょう。神様がどうかあなた様と可愛いお嬢様とにお恵みをお与えなさいますように!」  保育所の次に職工たちの住宅、次に宿舎、レストラン、クラブをまわり、マロクール村を出るとサン・ピポア、フレクセール、バクール、エルシュの村々へ行った。道々パリカールは、馬車に乗るときは決まって自分を抱いてくれ、ラ・ルクリよりはずっと優しい手を持った自分の御主人に駆られているのを得意にして、嬉しそうに走って行った。−−御主人のこの愛撫に驢馬は耳を動かして答えたものだがこれは、それの意味を読み取ることのできる人にとっては実に巧みな言葉だった。  これらの村々では建築はマロクール村ほどに捗っていなかった、しかしもう大体その完成の時期は見当がついていた。  一日はよく満たされた。彼らは日の暮れ前をゆっくりと帰っていった。すると丘から次の丘へ移りかけたとき、彼らは、もくもくと煙を吐く高い数々の煙突を囲んで到るところに新しい屋根の見えるこの地方を見渡すことができた。ヴュルフラン氏は手を伸ばして、 「見よ、お前の仕事を、あの設備を。わしは事業熱に引きずられてああいう設備のことは考える暇もなかったわい。しかしあれを継続させてゆこうとするなら、お前は夫を持たなければならぬ。お前にふさわしい、そうして、わしらのためにも皆のためにも働いてくれるという夫をな。それ以外に望む条件とてはわしらにはない。ところでわしは、わしらに必要な気性のよい男が見つかるつもりじゃ、そうしたらわしらは幸福に・・・家庭を作って暮らすことができる。」 −−をわり−−