ときめきメモリアルショートストーリー

君がいたから・・


目次

第一章『バレンタインデーの出来事』
第二章『新学期』
第三章『練習試合の日』
第四章『決勝戦』
第五章『それから・・』
エピローグ
あとがき
【おことわり】このSSではストーリーの都合上、主人公に“白石智史(しらいしさとし)”という名前を付けています。
 

第一章 『バレンタインデーの出来事』 (1)

「智史くん、ちょっと校舎裏に来て欲しいの。」  バレンタインデーの日の昼休み、学食で白石智史は誰かに声を掛けられて振 り向いた。 「あ、詩織。」  声を掛けてきたのは幼馴染の藤崎詩織だった。 「何か用?」 「うん、ちょっと校舎裏に来て欲しいの。」 「ああ、いいよ。」  ちょうど昼食を終えて食器を下げに行こうとしていた智史は気軽にそう答え た。それを聞いた詩織は安堵したような表情になって、 「よかった。それじゃ、すぐに来てね。」 と、言うとそそくさと学食を出ていった。 『詩織が一体何の用だろう、しかも校舎裏でなんて……。』 と、少し智史は首を捻ったが、やがて今日はバレンタインデーだったというこ とに思い当たった。と、いうことはもしかすると……。 『チョコレートならここで渡せばいいのに、恥ずかしがっちゃって……。』  智史は一人合点して、そんなことを考えながら食器を返しに行った後、詩織 の後を追うように学食を出た。 「おーい。詩織ぃ、きたぞー。」  校舎裏にやってきたものの詩織の姿が見えないので、智史は名前を呼んでみ た。 『こんな所で、もしかしたらチョコレート以外にも……?』  少し期待が膨らみかけたものの、その考えはすぐに放棄した。 『いや、それはないかな。』  待つこと暫し、詩織が現れた。 「あのね、紹介したい女の子がいるんだ。ちょっとここで、待ってて。」  そういうと詩織は校舎の陰に姿を消した。 『はぁ……。詩織の用じゃないのか。でも紹介したい女の子って誰だろう。』 「でもぉ、恥ずかしい……。やっぱり、いいよぉ……。」 「何言ってるのよ。せっかくのチャンスじゃない。勇気を出さなきゃ。」  何か、向こうで話し声が聞こえる。詩織と……、もう一人の声は聞いたこと があるようなないような……。 「ごめんね、待たせちゃって。」  詩織が連れてきたのは前髪にちょっと特徴のある、小柄で内気そうな女の子 だった。なんだか恥ずかしそうにもじもじと下を向いている。 「ほら、メグ。」 「あの……。」  詩織に急かされてその女の子は消え入りそうな声で智史に話し掛けた。 「あ、あたし…、美樹原愛といいます。こ、これ、受け取ってください……。」 「あ、ありがと。」  チョコレートを渡されて、智史が礼を言おうとした途端、美樹原愛と名乗っ た女の子は真っ赤になって走って逃げて行ってしまった。 「あれ? 走って逃げて行っちゃったよ。なんなんだよ、あの子?」 「ごめんなさい、あの子とっても恥ずかしがり屋なの。メグ、ちょっと待っ て!」  詩織はそれだけ言うと智史を置き去りにして愛の後を追いかけて行った。取 り残された形になった智史は少々呆気に取られていた。恥ずかしがり屋と言っ ても程があろうかというものだ。 「恥ずかしがり屋ねぇ……。でも、可愛かったな。」

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「藤崎さんの用ってなんだったの?」  放課後、授業が終わって野球部の練習に行こうとしていた智史に問い質した のは、サッカー部のマネージャーをしている虹野沙希だった。彼女とは一年生 の時、サッカー部に勧誘されたのがきっかけで顔見知りとなった。智史は既に 野球部に入っていたため、勧誘には応えられなかったが、それ以来、時々一緒 に出かけたり、学校帰りに一緒に帰ったりという関係が続いている。はっきり とした恋人同士という訳ではないあやふやな関係だが、きらめき高校では結構 こういう関係のカップルが多い。  きらめき高校には代々伝えられている一つの伝説がある。 『校庭に立っている一本の古木。その樹の下で卒業の日に女の子からの告白で 生まれた恋人達は永遠に幸せな関係になれる』 という伝説である。その為、相思相愛の仲であっても卒業の日まで正式な告白 は行わないカップルが多く、また卒業式までははっきりとした恋人同士になら ずに何人もの異性と浅く広く付き合うことが、なかば公認されているような形 になっている。  このような慣習がある為、智史の場合も付き合っている女の子は沙希一人で はなく、幼馴染の藤崎詩織、親友の早乙女好雄の妹、優美などとも沙希の場合 と同じような友達以上恋人未満のような関係を続けている。  生徒たちの中には公然と二マタ三マタをかけて異性と付き合うことが出来る のを喜んでいる者もいるが、そうおいしい思いをするだけですむ訳ではない。  智史の親友で情報屋の早乙女好雄の話によると、女の子たちの間には広範な ネットワークのようなものがあるらしく、一人の女の子に冷たくすれば他の女 の子にもあっと言う間に噂となって伝わり、女の子たち全体の評価まで下がっ てしまうらしい。  それは男子生徒の間で密かに“爆弾”と呼ばれて恐れられていた。その爆弾 が点灯すると悪い噂が流れ始め、そして爆発するとあまり考えたくない事態に なるとのことだ。  だから、本命でない相手との付き合いもおろそかには出来ない。交際相手を 何人も増やし過ぎた場合には爆弾処理だけでもかなりの神経を使わなくてはな らないことになる。(唯、実際に卒業式の日に伝説の樹の下で告白する女の子 は年に一人いるかいないかだと言うことで意外と少ないらしい。これだけ多く の生徒たちが伝説を強く意識しているにも拘わらず、実際に伝説通り告白する 者の数が少ないのはきらめき高校の七不思議の一つと言われている。) 「ああ、詩織の用ね。美樹原さんって女の子を紹介されたんだ。」  智史は沙希の問いに答えてそう言った。 「藤崎さんが? 智史くんに女の子を?」  沙希は少々疑わしげな視線で智史の顔を見つめている。 「うん。なんでも詩織の親友なんだそうだよ。よくは覚えてないけど、言われ てみれば中学の頃、詩織と一緒にいるのを見掛けたことがあるかも知れないな。 なかなか可愛い子だったよ。」 「ふうん」 『別の女の子を紹介するってことは、やっぱり藤崎さんにとっては智史くんは 幼馴染以上じゃないってことかしら……。』  沙希は智史の言葉を聞いて頭の中で思案を巡らせた。  一年生の時、智史に声をかけた時には“ちょっと根性がありそうな人だな” と思い、サッカー部への勧誘も兼ねて気楽に声をかけただけだった。しかしサ ッカー部への入部は断られたものの、その後、ひたむきに野球に打ち込む智史 の姿を見るうちに、徐々に彼に惹かれていき、今では沙希にとって智史は心の 中で特別な位置を占める存在になっていた。  その沙希にとって智史の幼馴染でもあり、野球部のマネージャーもやってい て、常に智史の近くに見え隠れする詩織は一番気がかりな存在だった。詩織は 成績優秀、スポーツ万能、容姿端麗で“才色兼備”という言葉が誇張ではなく、 ぴったりはまってしまうような少女だった。男子の間でも彼女はE組の鏡魅羅 と並んで注目される存在となっている。  唯、その割りに彼女には浮いた噂もなく、軽い交際が広範に行われているき らめき高校の生徒にしては珍しく、詩織が付き合っているといえる相手は智史 だけだった。その智史とも少し距離を置いた付き合い方をしているように見え る。  詩織の存在は智史をもはや本命の相手と位置付けている沙希にとって不安の 種だった。その詩織が智史と別の女の子の間を取り持とうとしたという。これ は沙希にとって、新たなライバルの出現という意味合いもあったが、それ以上 に詩織が智史に幼馴染以上の感情を持っていないことを示す証拠とも受け取れ る訳で、その意味で少し安心出来る出来事であるように思われた。 「そうそう、これチョコレート」  沙希はカバンの中から奇麗にリボンをかけた包みを取り出すと智史に差し出 した。 「あ、ありがとう。」 「このチョコレートを作るのに朝までかかっちゃって……。」 「あ、朝まで? さっきから眠そうにしてると思ったら……。でもそれじゃ、 勿体なくて食べられないね。」 「でも、食べてもらいたいから、心をこめて……。あ、サッカー部の練習がそ ろそろ始まるからもう行くね。」  そういうと沙希は智史に手を振って小走りに駆けていった。

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 智史はいつも通り野球部の練習メニューをこなし家路についた。その帰り道 で智史が来るのを待っていたらしい詩織が再び智史に声をかけてきた。詩織は 野球部のマネージャーをやっている。当然、帰りの時間は智史と同じくらいに なる。 「あっ、」 「さっきはごめんね。はい、チョコレート。」 「あ、ありがとう。」  詩織から渡されたチョコレートは小さめのどこでも売っているようなもので、 明らかに“義理”としか見えないような代物だった。沙希に渡された手作りチ ョコとは雲泥の差である。 「それにしても智史くんももてるようになったわね。」  詩織は智史の膨らんだカバンに目をやって言った。実際、今日は何人もの女 の子にチョコレートを貰っていたのだ。 「それほどでもないよ。伊集院に比べたら……。」 「あはは、あの人は特別よ。でもあの人のは殆どが義理じゃないかしら。なに しろ理事長のお孫さんだし……。私もお母さんから一応渡しとくようにって言 われたのよ。」 「ふうん。」 「それに単に憧れの対象として見てるだけって人が多いんじゃないかしら……。 あんなお金持ちの人……、現実の恋愛の対象としてはちょっと考えられないじ ゃない。それに比べたらあなたが貰った一つ一つのチョコレートは女の子たち の想いがこもっている筈よ。その方が何百個のチョコレートよりずっと価値が あると思うわ。」 「そんなもんかな。」 「そうよ。そのチョコレートには女の子たちの想いがこもっているのよ。絶対、 人にあげたりしちゃだめよ。自分で食べなくちゃ。」 「わ、わかったよ。」  詩織の目が妙に真剣だったので、智史は茶化すことも出来ずそう答えた。 「それにしても智史くんももてるようになっちゃったし……。私も毎年ボラン ティアのつもりでチョコレートを渡してたんだけど、来年からはもう必要ない かもね。」  詩織は智史に背を向けると少し淋しそうな声音でそう言った。 「メグ、優しくしてあげてね。あの子、恥ずかしがり屋だけど、根はとてもい い子だから……。」 「う、うん。」 「じゃ、私は先に帰ることにするね。一緒に帰って友達に噂とかされると恥ず かしいし……、それじゃ。」  そう言い残して詩織は足早に立ち去った。

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『ボランティア……、か。つまり詩織にとっては、俺はそういう存在でしかな いってことなんだろうか……。』  詩織の後ろ姿を見送りながら智史は少々複雑な気分だった。隣同士の家に育 ち、子供の頃はいつも一緒に遊んでいた女の子。あの頃、詩織はいつも智史の 後ろをついて歩いていた。智史も詩織がとても大切な存在であることは幼心に はっきりと感じていて、詩織の望みならなんだって叶えてやろうとした。 “私を甲子園に連れてって……。”  そんな智史に詩織が言ったのは小学校の三年生の時だった。その日智史は、 たまたま智史の家に遊びに来ていた詩織と一緒にテレビを見ていた。テレビで は夏の全国高校野球選手権の決勝戦の模様が映し出されていた。  野球になど殆ど関心を持っていなかった詩織は最初のうちつまらなそうだっ た。智史が夢中になって見ているので仕方なく自分も見ているという風だった。 だが選手たちのひたむきなプレイ、応援席の興奮、それらに段々と引き込まれ ていき、いつの間にか智史以上に試合に夢中になっていた。  最後のバッターを討ち取った優勝チームのピッチャーのガッツポーズ、そし て彼の周りに集まってきて喜びを体全体で表現する選手たち。応援席で抱き合 って喜ぶ女生徒たち、そして彼女たちの涙……。それらは詩織に忘れ難い強い 印象を与えた。  そして智史に言ったのだ。“私を甲子園に連れてって……。”、と。  智史が野球を始めたのはそれからだった。近くの少年野球チームに入り、い つか詩織の願いを叶えて甲子園に連れて行ってやりたい……、そんな思いを胸 に秘めひたすら野球に打ち込んだ。  だがそんな智史の思いとは裏腹に詩織との仲が次第に疎遠になっていったの もこの頃からだった。勿論、野球の練習の為に詩織と遊ぶ時間が少なくなった というのもある。チームメイトに冷やかされるのが嫌で少々詩織に邪険な態度 を取ったこともあった。だがそれ以上に詩織の方が段々智史との間に距離を置 くようになっていったのだ。  それまで毎年一緒にパーティーをやっていたクリスマスにも詩織は智史の知 らないうちに他の友達とパーティーの約束をしてしまった。そしてその年以来、 クリスマスを一緒に過ごすことはなくなった。  勿論、隣同士で住んでいるだけに言葉を交わす機会は結構多かったのだが、 幼かった頃とは微妙に心の距離が離れてしまっているのははっきりと感じてい た。  やがて中学に入る頃には詩織は誰もが憧れるような才色兼備の女の子に成長 していた。野球にばかり打ち込んでいた智史は成績もぱっとせず、段々と自分 が詩織に相応しい男であるとは思えなくなってきた。それが余計に詩織との距 離を広げさせる原因になってしまったようだ。  今の智史にとって、野球だけが、そして甲子園へ行くことだけが、心の拠り 所だった。詩織はもうあんな幼い頃の言葉など忘れてしまっているかも知れな い。だが智史にはあの言葉だけが詩織との間に僅かに残された繋がりのように 思えてひたすら野球に打ち込んでいた。

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 智史と別れて一足先に家に帰った詩織は、机に頬杖をついて今日のことを考 えていた。美樹原愛は詩織の中学生の頃からの親友だが、内気で自分の気持ち を半分も言えないような女の子だった。友達もなかなか作れないで昼休みにも 一人でもくもくとお弁当を食べていた愛。そんな愛を見かねて詩織が一緒にお 弁当を食べないかと誘ったのが始まりだった。  それから愛と話すようになり、やがて親友になっていった。人とあまり喋る ことが出来なかった愛も詩織にだけは心を開いてくれた。  その愛に智史のことが好きだと打ち明けられたのは修学旅行の時だった。夜、 ホテルで同室だった他の女の子たちが男の子の部屋に遊びに行ってしまい、特 に付き合っている男の子がいなかった愛と二人だけで部屋に残された。その時、 愛が聞いてきたのだ。 「詩織ちゃんは白石くんのことをどう思っているの?」 「えっ?」  詩織はその問いにドキッとした。智史……、幼馴染で小さかった頃からずっ と自然にそばにいた男の子……。  幼い頃、智史は詩織にとって英雄だった。あの頃の詩織はいつも彼の後ろに ついて歩いていたものだった。智史は詩織の願いならなんだって叶えてくれた し、いつも詩織に優しかった。詩織のままごとにも嫌な顔一つせずに付き合っ てくれた。  近所のガキ大将に詩織がいじめられていた時にも、すぐにかけつけてきて詩 織の為に戦ってくれた。喧嘩ではガキ大将の方がずっと強かったのだが、智史 はやられてもやられても向かって行った。ガキ大将の方も根負けしてしまって それ以来詩織をいじめることはなくなった。  あの頃はごく自然に、大きくなったら自分は智史のお嫁さんになるんだと詩 織は心に思い描いていた。誕生日に貰ったおもちゃの指輪、そしてその時智史 が言ってくれた言葉……。それは今でも詩織の一番大切な宝物だった。いつだ ったか祖母から伝説の樹の話を聞かされた時にも自然と彼の面影が心に浮かん だ。  それがいつ頃からだったろう、彼と一緒に遊ばなくなったのは……。時を経 るにつれ、智史との距離はどんどん離れていった。そしていつしか智史は詩織 にとって一番近くにいるにも拘わらずとても遠い存在になってしまっていた。  詩織にとって智史が今でも一番身近な男の子であることには変わりはない。 そして詩織は子供の頃の想いを胸に抱き続けていた。そのつもりだった。  だが詩織の心の中で智史の位置付けが少しあやふやなものになっていること も否定出来なかった。彼が自分にとってどういう存在なのか? 唯の幼馴染な のか、それともそれ以上の存在なのか? 幼い頃の想い、あれは恋だったのか? それとも幼い頃の唯の憧れだったのか?  彼が言ってくれた言葉。あの言葉は今も有効なのだろうか……。それとも彼 の心の中では子供の頃の単なる戯れとしてしか残っていないのだろうか……。  智史との間に出来てしまった心の距離、それが詩織を迷わせていた。 「詩織ちゃん?」  黙り込んでしまった詩織を見て、愛が不安そうに問うた。 「どう思ってるって言われても……、なんでそんなこと聞くの?」  詩織は愛の問いに直接は答えずに聞き返した。愛は暫くもじもじしていたが、 やがて小さな声で言った。 「実は私……、白石くんが好きなの……。」  真っ赤になってそう告げる愛。だがそれは詩織にもとうに判っていたことだ った。  いつも近くで愛の様子を見ていた詩織は、愛の視線が常に彼の姿を追ってい たことに気付いていたのだ。いつも自分を頼ってくれていた内気な女の子。彼 女を裏切ることは出来なかった。  だから……、自分の心に嘘をついた。幼い頃から抱いていた想い、智史が言 ってくれた言葉、それらは心の奥にしまいこんでしまうことにした。だがそう しても日増しに自分の気持ちがぐらついて行くのがわかった。まるで愛の言葉 に触発されたように胸の中で何かが疼くのだ。  そんな思いを振り払おうとしてだったかも知れない。今日、尻込みする愛を 励まして、智史との間を取り持ったのは……。  思いを巡らせながら詩織は窓の外に目をやった。詩織の部屋とすぐ向かい合 うように智史の部屋の窓が見える。既に眠っているのか、智史の部屋の灯りは 消えていた。彼はこんなに近くにいるのに、心の距離はなんて遠いのだろう… …。
 

第ニ章 『新学期』 (1)

 三学期の期末試験、そして春休みと時は流れやがて新学期が始まった。  智史たちは三年生になった。いよいよ甲子園のラストチャンス、昨年の夏の 県予選では準優勝、秋の県大会ではベスト4といずれも惜しいところでチャン スを逸している。それだけに夏の県予選に向けて野球部の練習は更に熱が入っ ていた。智史たちは毎日夜遅くまで泥だらけになりながら練習に励んでいた。  だがその前に進路に関する担任教師との面談があった。野球にばかり打ち込 んでいた智史は、勉強の方はあまり自信がなかったので面談は少々憂鬱だった。  詩織は一流大学を志望している。愛や沙希もそれぞれ進学を希望しているら しい。智史は……。 「なに? **大学?? 今のお前の成績じゃ浪人してしまうぞ!」  志望校を告げた智史に対して、担任教師の言葉は容赦がなかった。 「甲子園の期待がかかってる分、お前が野球に熱を入れるのは当然だろうが… …、学生の本分はやっぱり勉強だからな。お前も入学した頃に比べたら、随分 成績もあがったし、頑張ってるのは判る。だが**大学となるとお前の今の成 績じゃ、相当頑張らないと入れないぞ。もう少しランクを下げるか、野球で入 学出来る大学にしたらどうだ。」  そう言われるのは判っていた。二年の三学期の期末試験では初めて50番以 内に入るという智史にとっては快挙を成し遂げたのだが、智史が示した志望校 に入れる成績には程遠かった。 で、あるにも拘わらず、智史がこの大学を選んだのは“詩織と同じ学校に行き たい……。”という、中学の時、受験先にきらめき高校を選んだのと同じ理由 からだった。  だが詩織は試験では毎回ベスト5に入る成績を残している。智史の成績が少 し上がったからと言って、同じ大学を志望するのは無謀というものだった。 「ま、夢を大きく持つのは悪いことではないがな。受験まではまだまだ時間が ある。今、最終的な決定をしなくちゃならない訳じゃないが、自分の実力をわ きまえて慎重に選ぶことだ。」 「あら、智史くん。智史くんも面談だったの?」  担任教師から色々説教された後、職員室から出てくるとばったりと詩織に会 った。詩織も先生に呼ばれていたらしい。 「智史くんは進学? 就職? それともプロ野球にでも行くの?」 「うん、一応進学したいと思ってるんだけど……。相当頑張らないと浪人だっ て言われた。」 「ふうん、志望校はどこ?」 「それは……、内緒。」  今の自分の成績を考えると“詩織と同じ大学に行きたい”とはちょっと言え なかった。それに志望校を告げて志望の理由を詩織に悟られることに対する、 気恥ずかしさもあったかも知れない。 「ところで詩織、今度の日曜空いてる?」  智史は話題をそらした。 「えっ? うん空いてるけど……。」 「久しぶりに一緒にどこかへ出かけないか? あまり遠くには行けないけど… …、きらめき中央公園なんてどう?」 「そうねぇ。」  詩織は暫く考えていたが、 「私よりメグか虹野さんを誘ってあげたら?」 「美樹原さんや虹野さんとは春休みに一緒に出かけたから……。」 「そういえば、春休みにメグを動物園に誘ってくれたそうね。どうもありがと う。」 「別に詩織に礼を言われるようなことじゃないけどさ。」 「で、どうだった?」 「んー、猿山を夢中になって眺めたりして結構楽しんでたみたいだよ。でも美 樹原さんっておとなしいから、何を喋っていいか判らなくて困っちゃったよ。」 「そう……。でもあの子おとなしいけど、心の中はとっても優しい子だから… …、長い目で見てあげて。」  まっすぐに智史の目を見上げてそう言う詩織。その瞳になにがしか愁いが宿 っているように思えるのは気のせいだろうか……。それが愛のことを考えてな のか、それとも別の要素があるのかは智史には判らなかったが……。 「それで今度の日曜日……。」 「あ、そうだったわね。もしかして爆弾を気にしてるの?」 「い、いや、そういう訳でもないけど。」 「心配しなくても私は爆弾を点灯させたりしないわよ。でも……、久しぶりだ から一緒に行きましょうか。」 「じゃ、今度の日曜日、中央公園の前で……。」 「判ったわ。遅れないで来てね。それじゃ。」  そういうと詩織は智史に軽く手を振って、職員室に消えて行った。

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「あ、智史くん!!」  詩織と別れた後、教室に帰ろうとした智史は誰かが声をかけてきた。聞きな れた明るい声、この声は……、振り向くとそこにいたのはやはり沙希だった。 「よかった、見つけられて。教室にいないからもう帰っちゃったのかと思っち ゃった。今、藤崎さんと話してたの?」  沙希と智史と詩織が職員室の前で立ち話をしていたのを見ていたらしくそう 聞いてきた。 「うん、ちょっとね。」 「ふうん、どんな話をしてたの?」 「うん、今度の日曜日に中央公園に行こうって。ほら、虹野さんとは春休みに 買い物に行ったし、美樹原さんとも動物園に行ったから、そろそろ詩織も誘わ ないと……。」 「なるほど、爆弾処理って訳ね。」  沙希は少し気にする風だったが、取り合えず納得したように言った。 「で、何か用だったの?」 「うん、実は今日お弁当作ってきたの。私の分と智史くんの分と二人分。口に 合うかどうか判らないけど……、よかったら一緒に食べてくれない?」 「そうだなぁ、食費も助かるし……。」 「良かった……。今日は天気もいいから、外で一緒に食べない?」 「別にいいよ。じゃあ、中庭に行こうか。」 「うん、行きましょう。」 「はい、どうぞ。」  沙希は大きめのと小さめのと二つ持っていた弁当箱のうち、大きい方を智史 に差し出した。包みをほどいて蓋を開けると女の子らしくきれいに御飯とおか ずが詰められたお弁当が現れた。 「これはおいしそうだね。」 「うふふ、味の保証はしないけどね。ね、早く食べてみて。」  沙希は期待と不安の入り交じったような目で智史を見つめている。 「じゃ遠慮なく。」  パクッ、モグモグ、ゴックン。 「ど、どう?」 「う、うっ……。」  期待に目を輝かせて智史の様子を伺っていた沙希の目の前で、突然、智史は 顔をしかめてうなり出した。 「えっ? どうしたの? 大丈夫??」  沙希はびっくりして智史に問い質す。 「うまい!!」  智史はいきなりそう叫ぶと沙希に笑顔を見せた。それまで苦しんでいるよう に見えたのはどうやら、沙希をおちょくるための演技だったらしい。 「び、びっくりさせないでよ! 本当に心配したんだから。」  沙希は少しふくれて見せた。 「で、味はどう?」 「ごめんごめん、でも冗談抜きでおいしいよ。虹野さんって料理の天才だね。」 「そ、そんなことないよ。でもおいしいって言って貰えて嬉しい。早起きして 作った甲斐があったわ。」  沙希は少し照れ臭そうにしながらも心底嬉しそうな顔をしてそう言った。  暖かな日だまりの中で、お弁当を開いて過ごす一時。沙希の明るい笑顔は智 史の心の中にささやかだが、なんとも言えない安らぎを与えてくれた。  沙希は感情表現がストレートな分、自分に想いを寄せてくれていることがは っきりと実感出来る。  これも一つの幸せの形かも知れない……、手が届くかどうかも判らないもの をいつまでも追いかけているよりも、こんな形の幸せの中に埋没してしまいた くなる……。それは沙希と付き合うようになってから何度も智史の心の中に浮 かんでは消えた思いだった。 『そういえば詩織ともこんな風にお弁当を食べたことがあったっけ』  ふと智史の心に昔の思い出が蘇ってきた。あれは小学校一年生の遠足の時だ った。詩織は自分のお弁当を智史に見せて言ったものだ。 「ねえ、智史くん見て見て、このタコさんウインナーは私が作ったのよ。智史 くんに食べて貰おうと思って。」 「わあ、おいしそう。」 「あたしが食べさせてあげるあ〜んして。」 「あ〜ん。」  智史は言われるままに口をあけた。だが詩織はお箸でウインナーを掴もうと して失敗してしまい、ウインナーを芝生の上に落っことしてしまった。 「あ、ああっ」  自分の失敗に思わず泣きそうな顔になる詩織。 「大丈夫だよ、食べられるよ。」  智史はそう言って落っこちたウインナーを拾い上げると、芝の切れ端を払い 落としてぱくっと食べてしまった。 「さ、智史くん……。」 「うん、おいしい、詩織はきっといいお嫁さんになれるよ。」  そう言ってウインナーを食べる智史を詩織はとても嬉しそうな顔をして見つ めていた。  詩織の笑顔を見ることが出来れば、唯、それだけで幸せだったあの頃。その 為ならなんだって出来た。きっと沙希はあの頃の俺達と同じような純粋な気持 ちを持ち続けている人なのだろう……。 「ねえ、どうしたの? 黙り込んじゃって」  沙希に声を掛けられて智史は夢想の世界から引き戻された。 「い、いや、なんでもないよ。本当に俺は虹野さんの手作り弁当が食べられる なんて幸せものだよ。」 「そんなに喜んで貰えるなんて……。じゃ、これから毎日智史くんの分のお弁 当も作ってきてあげようか?」 「えっ? そ、そんな……、悪いよ。」 「ううん、いいのよ、遠慮しないで。どうせ自分の分のお弁当はいつも作って るんだから、二人分になったって大して手間は変わらないわ。」 「本当にいいんだって!」  そう言ってから智史は少々語調が強くなってしまったのを感じて慌てて言い 訳をするように言った。 「あ、あの、その、大して手間は変わらないと言ってもやっぱりそんな迷惑を かける訳には……。」 「そう……。」  そういうと沙希は悲しそうにうつむいた。少し気まずい雰囲気の中で沙希が ポツリと言った。 「きっとあなたはもし藤崎さんが同じことを言ったとしたら断らないんでしょ うね……。」 「そ、そんなことはないよ。詩織だって同じさ。それに詩織は俺にそんなこと は言わないよ。」  沙希の思いもかけなかった言葉に狼狽してしまっているのが自分でも判る。 もし詩織だったら……? ごまかすように言った自分の言葉が沙希の心にどの ように響いたのか……。  沙希は暫くの間黙りこくっていたが、やがて普段通りの明るい表情に戻ると 口を開いた。 「そう、判ったわ。でも時々ならいいでしょ? 私、智史くんに一緒にお弁当 食べてもらえたらとっても嬉しいの。」 「う、うん、時々ならね。」 「じゃ、今日は食べてくれてありがとう。また今度ね。」  そういうと沙希はお弁当を片付けて、校舎に戻って行った。  沙希の後ろ姿を見送りながら、智史は自己嫌悪に陥っていた。詩織への想い にこだわり続けているにも拘わらず、沙希の好意に甘えてしまっている自分。 沙希の想いを知りながら、そのような関係を続けている自分がひどく残酷な人 間に思えた。沙希と過ごす一時は文句なしに楽しいのだが、それでいて沙希が 自分に寄せる想いを重荷に感じてしまう瞬間があるのを否定出来なかった。  一方、沙希も少々淋しい気分にとらわれていた。いつもこうなのだ。智史は 自分に優しく接してくれている。自分の想いを受け入れてくれようとしている ように思える時もある。だがある一線を踏み越えて智史に近づこうとすると、 そこには沙希が越えることを許そうとしない厚く高い壁が厳然と立ちはだかっ ているのだ。  それが何を意味するものなのかはっきりとは判らなかった。だが漠然とでは あるが、その壁の向こうに藤崎詩織の影がちらついているのを、沙希は直感的 に感じ取っていた。  しかし詩織は智史に恋愛感情を抱いているような素振りは殆ど見せず、なお かつ、別の女の子を紹介したりしている。智史自身も詩織に対してはある程度 の距離を置こうとしているのが傍目にも見て取れた。それなのに何故? 彼の 気持ちの中で詩織の存在はどのような意味を持っているのだろう……。

(3)

 次の日曜日、智史は中央公園の前で詩織を待っていた。公園内では春のうら らかな春の陽射しの中で、小さな子供の手を引く若いお母さんや、散歩を日課 にしているらしい老人、それに智史と同じくらいの年頃の若いアベックなどが 思い思いに時を過ごしている。  詩織とは家が隣同士なのだから別にこんなところで待ち合わせをしなくても ……、という気持ちもないではない。だが、なんとなく一緒に家を出るのは気 恥ずかしくていつもデート場所で待ち合わせということにしている。その気持 ちは詩織も同じらしい。 「智史くん。」  暫くすると詩織が現れた。若草色のヘアバンド、白いブラウスの上にピンク の薄いカーディガンという春らしい明るい装いをしている。 「待たせてごめんなさい。ちょっと手間取っちゃって……。」 「いや、今来たところだから気にしなくていいよ。」  実は既に30分は待っていたのだが、そんなことはおくびにも出さずに智史 はそう言った。 「それじゃ散歩でもしましょう。」  二人は公園内に入ると既に花が散りかけて葉桜になりかけている桜の並木道 に足を向けて暫し散策を楽しんだ。 「今日は天気がよくて気持ちいいから、芝生にでも座らない?」 「うん、いいよ。」  並木道を抜けたところで詩織がそう提案したので、智史は詩織と二人、小高 く盛り上がった芝生の上に腰をおろした。芝生からは広い池が見える。何人か の若いカップルがボートに乗って水上を行き来していた。 「あっ、そういえばこの公園じゃない?」  詩織が池を眺めながらふと思い付いたように言った。 「ほら、昔、お父さんとお母さんに内緒で、遠くの公園に行ったことがあった じゃない。」 「そんな事あったかなぁ。」 「あったわよ。よく覚えてるから。」 「例えば?」 「例えばね、大きな池に落ちそうになったこととか……。」 「池に? あっ、思い出した。それ俺だ。」 「そうよ。よく思い出したね。」 「池に落ちそうになって知らないおじさんに助けてもらったんだよなぁ。あの 時は死ぬかと思ったよ。あれ、そんとき詩織は?」 「私は怖くて、見てた……、と思う。」 「助けてくれてもいいのに……。」 「ホント、ひどいよね。智史くんは私の為ならなんだってしてくれたのに……、 私は智史くんが池に落ちた時、見てるだけだった。もしあの時知らないおじさ んがたまたま通りかからなかったら、智史くん、死んじゃってたかも知れない のに……。」 「ちょ、ちょっと、詩織?」  詩織がいきなり沈んだ声でこんなことを言い出したので智史は慌ててしまっ た。 「そんなこと今更いいじゃないか。それに詩織が俺を助けようとして池に飛び 込んだりしてたら、一緒に溺れてたかも知れないし……。」 「でも自分で助けることは出来なくても、誰かに助けを求めることは出来た筈 なのに……。私は驚いて脅えてしまって声を出すことも出来なかったのよ。」 「詩織・・・。」  智史は詩織が子供の頃の小さなエピソードにこれ程こだわりを持ってしまっ ていたのを少々意外に思った。だが詩織にとってこの事件は痛みを伴って思い 出される事件だった。 “自分の存在は智史くんにとって重荷でしかないのかも知れない……。”  あの時、脅えてしまって池に落ちた智史を、唯、見ていることしか出来なか った詩織はそんな思いに苦しめられる結果となった。思い返してみれば、智史 が自分の為にガキ大将と喧嘩してくれた時、遠足の時に地面に落ちたお弁当を 食べてくれた時、それだけじゃない、いつもいつも自分は智史に迷惑ばかりを かけていたのではないだろうか?  その頃、智史が野球チームに入り、あまり詩織の相手をしてくれなくなり、 詩織と一緒にいることを恥ずかしがるような素振りを見せるようになったこと も、智史が自分の存在を疎んじ始めた証拠のように詩織には思えた。  そして思ったのだ。もっと智史に相応しい女の子になりたい。智史の後をつ いて歩くだけでなく、困った時には力になってあげられるような……。そうす れば智史だってまた自分に優しくしてくれるかも知れない……。  その為に勉強にもスポーツにもなんにでも一生懸命に取り組むようになった。 そして……、中学にあがる頃には才色兼備の誰もが憧れる存在、と噂されるよ うになっていた。だがそのことが逆に智史との心の距離を広げてしまう結果に もなってしまった。 「他にも色々あったよね。小さい頃はいつも一緒だったもんね。」 「そうだね。」 「本当に懐かしいわ。もうあの頃のようには戻れないのかしら……。」  詩織が池を見つめながらポツンと言った。 「えっ?」 「あ、ううん、なんでもないの。」  一瞬淋しそうな表情を見せた詩織だったが、すぐに普段通りの表情に戻った。 「小さい頃と言えば……、詩織、あの時の約束、覚えてる?」 「えっ? あの時って?」  何故、急にこんなことを聞く気になったのか、智史自身よく判らなかったが、 詩織の幼い頃の思い出話に触発されたのかも知れない。“私を甲子園に連れて って”あの言葉を詩織が今でも覚えているのかどうか。 「ほら小学校の三年生の時の夏休み・・・。」  言いかけた時、池の方から、 「せんぱ〜い!!」 と、呼び掛ける声が聞こえてきた。見るとボートの上から誰かが手を振ってい る。 「あれ? あそこでボートに乗ってるの、優美ちゃんじゃないかしら?」  詩織が声がした方を指差した。見ると確かに早乙女優美とおぼしき女の子が 男の子と一緒にボートに乗っている。優美たちはこちらに向かって大きく手を 振りながら、ボートの向きを変えこちらに近づいてきた。 「白石先輩と藤崎先輩もデートですかぁ?」 「うん、まあね、優美ちゃんも?」 「そう、あ、この子、同じクラスの男の子なんです。」 「はじめまして。」  優美に紹介された男の子がペコリと頭を下げる。大人しそうだがなかなか聡 明そうな顔立ちをしている。 「ねえねえ、白石先輩、藤崎先輩ばかりじゃなくて、優美もたまにはデートに 誘って下さいよ。」  デートをしている最中に他の男に向かってこんなことを言うのは少々無神経 ではないかという気もしたが、優美のそういう天真爛漫なところが智史は決し て嫌いではなかった。 「うん、判ったよ。そのうちにね。」 「先輩、絶対ですよ。じゃ、楽しみにしてますから。」  そういうと優美は軽く手を振ると遠ざかって行った。 「優美ちゃんっていつも元気で明るくて……、羨ましいわ。私も見習わなくち ゃね。」  詩織が優美たちの様子を見つめながら呟いた。ふと気がつくと日は既に西に 傾き始めていた。 「そろそろ帰ろうか。」 「そうね。」  優美の登場で智史は気が削がれてしまって、約束のことを聞きそびれてしま った。詩織もまた智史が何を言おうとしたのか、心の中でひどく気にかけてい たのだが、それを問い質すのはなんだかはばかられるような気がして聞けずに いた。  二人はそのまま公園を後にした。

(4)

 智史たちは気付かなかったが、歩いていく二人をベンチに座ってじっと見て いる人影があった。その人物は帽子を目深にかぶり、新聞を広げて智史たちか ら顔を隠すようにしながら、こっそりと二人の様子を盗み見ている。 『もしかしたら藤崎さんも心の中では彼のことを・・・?』  詩織が言った“もうあの頃には戻れないのかしら……”という言葉の語調に はなにがしか、微妙なニュアンスがこめられていたように思える。  それに幼い頃の約束というのは一体なんなのだろう……。その約束が智史を 詩織にこだわらせ続ける原因なんだろうか……。 「わっ!!」 「きゃっ!!」  いきなり後ろから脅かされてその人物は新聞を取り落とした。 「あ、やっぱり虹野先輩だった。何してるんですか? こんなところで」 「ゆ、優美ちゃん!」 「さては白石先輩と藤崎先輩のデートの様子をスパイしてたんでしょう?」 「ち、違うわよ。わ、私はたまたま……。」  沙希は慌てて言った。実は優美の言ったとおり、智史が詩織を誘ってと中央 公園に出かけると聞いて、気になってこっそりと二人の様子を伺いに来たのだ ったが……。 「そ、それより優美ちゃんこそ何してるの?」  沙希は話をはぐらかした。 「私は今日はデートなんだ。同じクラスの男の子と。ホントは私も一番好きな のは白石先輩なんだけど……、藤崎先輩に虹野先輩がライバルじゃ、勝ち目な いもんね。」 「そ、そんなことはないでしょうけど……。」 「あ、に、虹野先輩ですか?」  その時優美の後ろに控えていた男の子が、突然沙希に話し掛けてきた。 「あ、あの、虹野先輩、僕、実は先輩に憧れてたんです。運動部のアイドルと 言われている虹野先輩にこんなところで会えるなんて感激です。」 「そ、そう? ありがと。」  沙希はそんなことを言われて、優美の手前もあり少々困惑してしまった。 「こらっ!!」  優美がいきなり男の子を怒鳴りつけた。 「私というものがありながら、他の女に色目を使うってのはどういうことよ!」  自分は智史にデートに誘ってくれとせがんでいた癖に、そんなことは棚にあ げて優美は男の子のことを怒りまくっている。 「えっ、あのその。」  男の子は優美の勢いに気圧されてしどろもどろだ。 「そんな奴は制裁してやるっ! 食らえ!! 優美ボンバーッ!!」 「ギエェェェ〜〜ッ!!」  優美のラリアットが男の子に炸裂した。男の子のうめき声が公園内に響き渡 る。沙希は少々男の子のことを気の毒に思いつつも、なんだか微笑ましく思え てきてくすくす笑いながら二人の様子を見つめていた。
 

第三章 『練習試合の日』 (1)

 今日は野球部の練習試合、県立第三高校との定期戦だった。第三高校は甲子 園出場経験はないものの、県大会では毎年のようにベスト8以上に名を連ねて いる実力校だ。  きらめき高校も今までは甲子園とは殆ど縁のない高校だったが、昨年夏の準 優勝、秋のベスト4という県大会での活躍で、今年は甲子園出場が大いに嘱望 されていた。  そのこともあってグラウンドの周りには応援のため、かなりの人数の生徒た ちが集まっていた。勿論、その中に虹野沙希、美樹原愛などの姿もあった。野 球部のマネージャーをやっている藤崎詩織はベンチでスコアブックをつけてい た。  試合は終始きらめき高校がリードする形で進んだ。一回にいきなり2点を先 取し、その後も得点を重ねている。守っては智史のピッチングが冴え、5回ま で第三高校をヒット一本に押さえていた。  美樹原愛は野球部の応援に来ている他の女の子たちからは少し離れた位置で、 芝生に腰をおろして試合を観戦していた。愛の視線は当然のことだがマウンド でピッチングを続ける智史に注がれていた。  野球のルールはいまいちよく判らないのだが、マウンドでボールを投げる智 史の姿は文句なく愛の胸を高鳴らせる。そしてもう一人、ベンチにいる詩織、 時々そちらにも視線を移す。  愛が初めて智史を見掛けたのは中学校の三年生の時、野球部の練習試合を見 に行った時のことだった。と、いっても特に野球に興味があった訳ではない。 幼馴染の男の子が出るからと言って、親友の詩織に誘われて仕方なくついて行 っただけだった。  しかし試合が始まってマウンドに立つ智史の姿を見た時、愛はなんとも言え ず彼に惹きつけられるものを感じていた。その頃の智史はまだ現在のように女 の子たちに騒がれるような存在ではなかったが、ひたむきにプレイする彼の姿 は愛の心を捉えて離さなかった。  その智史が実は詩織の幼馴染の男の子だったと知るのに時間は掛からなかっ た。詩織は他の男の子と比べて智史とは親しくしているようだった。だが、親 しくしてはいたが、なにがしか距離を置いた接し方をしていたのを見て、詩織 にとって智史は唯の幼馴染でそれ以上の存在ではないのだろうと、愛は少し安 心した気分で二人を見ていた。  しかしその詩織が高校に入学してから野球部のマネージャーになった。当然、 智史も野球部に入部している。どういう気持ちで詩織が野球部のマネージャー になったのか、愛は疑心暗鬼に落ち込んだ。  聞いてみようか……、と思ったこともあったが、例え親友の詩織であっても 自分が智史に想いを寄せているということを知られることには抵抗があり、言 い出せなかった。  そして修学旅行の夜、たまたま部屋で二人きりになった時、意を決して詩織 に自分の気持ちを打ち明けたのだ。詩織はその時、一瞬、少し困ったような顔 をしたが、すぐにそんな表情は振り払って、“メグに協力してあげる”と言っ てくれた。 「美樹原さん。」  突然、声をかけられて愛はびくっとした。振り向くと虹野沙希が立っていて 愛に軽く会釈した。 「あ、虹野さん。」 「隣、いいかしら。」 「え、ええ、どうぞ。」  愛は声を掛けられて拒否する理由もなくそう答えた。実は詩織以外の女の子 とはあまり馴染めないこともあって、歓迎していた訳ではないのだが……。  愛の隣に座り込んだ沙希は暫く黙って試合を見つめていたが、やがて唐突に 口を開いた。 「藤崎さんって彼のことどう思っているのかしら?」 「えっ?」 「単なる幼馴染なのか、それ以上の気持ちを持ってるのかってことよ。」 「それは……。」  愛にとってもそれは気になるところだった。修学旅行の時、詩織に気持ちを 打ち明けた時に、智史をどう思っているのか聞いたことはあったが、詩織はは っきりとは答えなかった。愛の気持ちを聞いた詩織はそのことには触れずに愛 を励ましてくれた。その後、何度もそのことを聞こうとしたことはあったが、 結局言い出せないままでいる。 「あ、あの、あたしにも判りません。」 「そう、藤崎さんの親友のあなたなら何か知ってるかと思ったけど……。」 「ごめんなさい。」 「ううん、謝らなくてもいいのよ。でも藤崎さんって判らない人よね。見てる ともしかすると智史くんに気があるかも知れないって思える時もあるし、かと 思えば学校帰りに一緒に帰るのを断ったりあなたを彼に紹介したりして……。」 「そ、そうですね。」 「でも智史くんははっきりと藤崎さんにこだわってる。私には判るの。私がど んなに彼に近づこうとしてもある一線を越えようとするとそこには壁があるの よ。それが何故なのかはよく判らないのだけど。」 「壁・・・ですか?」 「そうよ。あなたは何か感じない?」  そう言われて愛は考え込んだ。確かに智史は愛にもある一定の線以上には近 づいてこようとはしなかった。唯、愛の場合は自分が恥ずかしがり屋な為、デ ートの時も彼を退屈させてしまうせいだと思い込んでいた。だが沙希も同じよ うに感じていたというならそれだけではなかったのかも知れない……。 「私、この間、中央公園で彼が藤崎さんと話してるのを聞いちゃったのよ。二 人の間には小さい頃に交わした何か約束があるんだって。」 「約束?」 「そう、どんな約束だったのかは判らないんだけど、なんだかその約束が彼を 藤崎さんにこだわらせているみたいなの。」 「あ、あの、もしかすると“大きくなったら結婚しようね”、とかそういう約 束かしら……。」  愛は“小さい頃の約束”と聞いて、少女マンガ等でよくあるパターンを思い 浮かべて言った。 「さあ、判らないわ。でもそんなままごとみたいなことを“約束”と捉えてい つまでもこだわってるってのも不自然じゃない? 私はもっと別のことだと思 うんだけど……。」 「そ、そうかも知れませんね。」 「ごめんなさい。変なこと聞いちゃって、藤崎さんの親友のあなたなら何か知 ってるかも知れないと思ったものだから……。知らないんだったら彼に直接聞 く他なさそうね。それじゃ、そろそろ試合も終わりそうだし私は行くね。」  沙希はスカートについた芝生の切れ端をポンポンとはたきながら立ち上がる と、愛に軽く手を振って去って行った。  一人残された愛は少し顔を曇らせて考え込んでいた。沙希の言った“約束” という言葉が愛の心を騒がせる。一体約束ってなんなんだろう……。そして詩 織は智史のことを本当はどう思っているのだろう?  試合は7対1できらめき高校の圧勝に終った。 「はい、智史くん、甲子園に向けて調整は万全ね。」  詩織は智史にタオルを渡しながら言った。 「ああ。」  智史は無愛想にそう答えてタオルを受け取った。“甲子園”、詩織はなにげ なくこの言葉を使った様子だったが、実際、心の中で“甲子園”という言葉が どのような響きを持っているのか……。 「智史くん。」  詩織と話していると沙希が声をかけてきた。 「今日、一緒に帰らない?」 「そうだなぁ。」 「ね、お願い、ちょっと話もあるし……。」 「じゃ、一緒に帰ろうか。」 「それじゃ校門のところで待ってるから。」 「わかった。着替えが終ったらすぐ行くよ。」  それだけ言って立ち去った沙希の後ろ姿を、智史と詩織はそれぞれに複雑な 想いを胸に秘めながら見送った。

(2)

「メグ、待たせてごめん。さ、帰りましょう。」  試合の後片付けを終えた詩織が、一緒に帰る約束をして待っていた愛のもと へ漸くやってきた。 「あ、詩織ちゃん。白石くんは?」 「ん? 彼は虹野さんと一緒に帰っちゃったみたい。残念だったね、メグ。」  屈託もなくそういう詩織。こういう時の詩織は智史への密かな想いなど微塵 も感じさせない。 「う、ううん、それはいいんだけど……。」  そう答えながら、愛は思いを巡らせていた。 『虹野さんは彼を誘って帰ったのね。あのことを彼に聞くつもりかしら……。』 「どうしたの? 少し顔色が冴えないみたいだけど……。」  少し沈んだような顔つきをしている愛の様子に気付いたらしく詩織が聞いて きた。 「う、ううん、なんでもない。」 「そう? それじゃ早く帰りましょ。」 「う、うん。」  帰り道。近所の公園に差し掛かった時、愛は思い切って詩織に聞いてみた。 「あ、あの、詩織ちゃん。詩織ちゃんは白石くんのことをどう思っているの?」  沙希に言われた言葉が気になっていたこともあり、どうしても聞いておかな くてはならないと思ったのだ。 「え? どうしたの急に?」 「だ、だって修学旅行の時、そのこと聞いたけど詩織ちゃんははっきり答えて くれなかったでしょう? だから、いつか聞こうと思ってて……。」  愛は正面から詩織の目をまっすぐに見据えて詩織の答えを待っている。修学 旅行の時は適当にごまかしたが、今度はそうは行かないのを詩織は感じていた。 「どう思ってるか? と言われても……。」 「唯の幼馴染なのか、それともそれ以上の感情を持っているかってことなんだ けど……。」 「そ、それは……。」  詩織はすぐには言葉が出なかった。詩織自身の心の中にも迷いがある。智史 は唯の幼馴染なのか、それともそれ以上の存在なのか……。気持ちが揺れてい た時に愛から智史が好きだと告白されて、あの時は小さい時から心の中にくす ぶり続けている自分でもはっきりとは説明出来ない想いは心の奥に封印した。 だがその時以来、自分の心の中の迷いが更に深まってしまっていることは詩織 自身が一番よく知っている。とはいえ、今更愛にそんなことを言える筈がない ……。 「た、唯の幼馴染よ。そうよ、そうに決まってるじゃない。」 「本当?」 「ほ、本当よ。」   詩織はそう答えたものの自分の声が上擦ってしまっているのを感じていた。 いつになく真剣な調子で聞いてくる愛の口調に少々気圧されてしまっている。 「詩織ちゃんが野球部のマネージャーをやってるのは、白石くんがいるからじ ゃないの? それとも唯の偶然?」 「そ、それは・・・・。」 “違う”・・とは言えなかった。 「今日試合の途中で虹野さんと話したの。虹野さん、この間中央公園で詩織ち ゃんが智史くんと話していたのを聞いちゃったんだって……。その時小さい頃 の約束の話をしてたって。白石くんはその約束に凄くこだわってるんだって。」  小さい頃の約束……。あの時智史が何を言おうとしていたのか、詩織にもは っきりとは判らなかった。誕生日の日、智史に指輪を渡された時に言われた言 葉、あの約束のことなのか、それともガキ大将と喧嘩した時、“詩織の為なら なんだってしてやるよ。”と言った約束なのか、それとも……。 「詩織ちゃん、詩織ちゃんがもし本当は白石くんが好きで、なのにあたしに遠 慮してそれを言えないんだとしたら……。」 「そんなんじゃないわ。」 「でも……。」  今までずっと自分の心に嘘をつき続けてきた。それが愛の言葉に共鳴して詩 織の心に思わぬ波紋を広げていた。自分の気持ちの抑制が利かなくなっていく のが判る。心の中でもやもやと渦巻いていたものが、音を立てて崩れて行くよ うな感覚だった。そして気がついた時、思わず叫んでしまっていた。 「判らないのよ、私にも!! 自分で自分が判らないの!!」 「し、詩織ちゃん……。」 「小さい頃はそんなこと考える必要もなかったわ。彼はごく自然にそばにいて、 私はごく自然に彼のことを大好きでいられたし、あの頃は大きくなったら智史 くんのお嫁さんになるんだって信じて疑わなかった。なのにいつの間にか智史 くんは遠い人になってた。私の気持ちも……、あの頃を凄く懐かしんでいる癖 にどうしても素直になれなくなった。メグに智史くんが好きだと言われた時、 本音を言うとショックだったわ。でも私は自分が本当に智史くんのことが好き だという気持ちを持ってるって自信がなかったの。智史くんは幼馴染で……。 小さい頃の約束って言われても、あの頃はいくつも他愛のない約束をしたもの よ。でもそれが今でも有効なのか、それとも唯の小さい頃の戯れでしかないの か、それさえ私には判らないわ!」  初めてみる詩織の取り乱した姿に愛は戸惑いを感じていた。いつも颯爽とし ていて自信に溢れているかのように振る舞っていた詩織。そんな詩織に憧れて、 いつも頼りにしてきた愛には、詩織が心の中にこんな激しい感情を隠していた とは思いもよらなかったのだ。 「あ、あの、詩織ちゃん・・・。」  愛は恐る恐る声をかけてみた。詩織はうつむいて顔を背けている。もしかす ると泣いているのかも知れない。 「お姉ちゃんたち、ケンカしてるの?」  いきなり声を掛けられて詩織はびくっとして声の主を見やった。小さな女の 子が心配そうに詩織と愛を見上げている。 「ううん、なんでもないのよ。」  詩織はしゃがみこむと女の子に向かって言った。 「でもお姉ちゃん泣いてるみたい……。」 「え、あっ。」  詩織は女の子に言われて慌ててごしごしと顔をこすった。 「これはちょっと目にゴミが入っただけ。心配しないで、ね。」 「うん。」  我ながら間抜けな言い訳だと思ったが、女の子は詩織が笑顔を見せたことで 安心したのか、詩織にニコッと笑いかけると再び砂場で遊んでいる友達のもと に戻って行った。  暫く詩織は子供達が遊んでいる様子に目をやっていたが、やがて愛の方を振 り返ると言った。 「ごめんなさい、メグ。あなたにあんなこと言うなんて……、私、どうかして るわ。」 「う、ううん、あたしの方こそ変なこと聞いてごめんなさい。」  愛は詩織に謝られて、慌てて自分の方からも謝った。 「メグが謝ることないのよ。私は逃げてただけなんだから。だからメグに言わ れたことで思わず取り乱してしまったんだわ。本当言うとね、私はあなたがう らやましかったのかも知れない。私はメグのように自分の気持ちに素直になれ ないでいるから……。」 「詩織ちゃん……。」 「でもさっき言ったことは本当よ。私にも判らないの。智史くんが自分にとっ てどういう存在なのか……。メグに申し訳ないって気持ち、確かにあったかも 知れない。でもそんなの唯の思い上がりよね。私は自分の気持ちを真正面から 直視するのが怖くて、メグの気持ちを自分が逃げるための口実にしてたんだわ。 それをメグの為に何かしてあげてるつもりになっていい気になってたなんてお 笑い草よね。」 「そ、そんなことない。詩織ちゃんがあたしの気持ちを口実にしてただけなん てそんなことない。詩織ちゃんは優しいから……。」  愛は一生懸命な口調で言った。詩織の沈んだ表情を見て、なんとか元気づけ てあげたい……、という感情が湧いてきたのだ。勿論、詩織の智史に対する気 持ちも気にはなっていたが、それ以上に“こんな詩織ちゃんは見たくない、こ んな詩織ちゃんはあたしの好きな詩織ちゃんじゃない……。詩織ちゃんにこん な顔をして欲しくない……。”という気持ちの方が強かった。 「ありがと、メグ。でも私の中にそういう気持ちがなかったとは言えないもの。 でもいつまでも逃げてばかりじゃいけないわよね。メグだって勇気を出して、 彼が好きだってこと私に言ってくれたのに……。バレンタインの日、メグに “勇気を出さなくちゃ”なんて言った癖に私は勇気がなかった。私もメグを見 習わなくちゃいけないわね。私、考えてみるわ。智史くんが私にとってどうい う存在なのか……。このままずるずると迷っているだけじゃ仕方ないもの。」 「うん。」

(3)

 一方その頃、沙希と智史は学校の校舎裏にいた。校門のところで待ち合わせ て帰る約束になっていたのだが、沙希が話があるからと言って智史を校舎裏に つれてきたのだ。 「話があるって言ってたけど、一体何?」 と、切り出したのは智史だった。 「うん……。」  沙希はそれだけ言ってなかなか、次の言葉を口にしなかった。が、やがて意 を決したように言った。 「智史くん、約束って何?」 「えっ? 何のこと?」 「藤崎さんとの小さい時の約束……。」 「なんで急にそんなこと……。」  いきなりこんなことを言われて智史は戸惑ってしまった。一体、沙希は何を 聞こうとしているのか……。 「私、この間中央公園であなたが藤崎さんと話してるのを聞いちゃったの。あ の時、藤崎さんに聞こうとしてたでしょ? 小さい時の約束を覚えてるかって。 優美ちゃんのおかげで話は中断しちゃったみたいだったけど……。」 「あ、あの時・・。」 「ね、小さい時の約束って一体なんだったの? 智史くんが藤崎さんにこだわ っているのはもしかするとその約束のせいなの?」 「別に詩織にこだわってなんか……。あの時言ってた約束ってのは単なる子供 の頃の思い出話だよ。」 「嘘よ。あの時のあなたの藤崎さんを見る目、それに雰囲気、唯の思い出話っ て感じじゃなかった。」  沙希は責めるような視線で智史を見つめている。その視線の圧力に抗しきれ ずに智史は思わず視線をそらした。 「ね、私には言えないことなの?」 「ごめん。」 「判ったわ。」 「虹野さん。」 「やっぱりあなたの心の中には藤崎さんが住んでいるのね。私はあなたの心に どうしても越えられない壁があるのを感じるの。その壁の向こうは藤崎さんの 為の場所なのね。」 「そ、そんなことは……。」 「本当? 本当にそう言い切れる? 智史くん。私の目をまっすぐに見てそう 言い切れるの?」 「それは……。」 「やっぱり言えないでしょう? 私には判っているのよ。あなたの心の中には 藤崎さんが隠れてる。でも藤崎さんはあなたを想ってはいないわ。もしあなた のことを想っているんだとしたら、どうしてあなたに美樹原さんを紹介したり、 学校帰りに恥ずかしいからと言って一緒に帰るのを断ったりするの?」  沙希は鋭い口調で智史に問う。智史は段々沙希の真剣なまなざしに抗しきれ なくなってきた。心の中に渦巻く思い。それを鋭くついてくる沙希の様子にも はやごまかしきれないものを感じていた。そして言った。 「詩織がどう思っているかは俺にも判らないよ。でもそんなことは関係ない。 俺はあの約束を果たすと心に誓ったんだ。だから……。」 「そんなに大切な約束だったの?」 「白状するよ。実は小学三年生の頃……。」  智史は話した。詩織と一緒に高校野球中継を見ていた日のことを。そしてそ の日、詩織が“私を甲子園に連れてって”と言ったことを……。 「俺が野球を始めたのはそのことがあってからだ。あの頃の俺にとって詩織が 全てだった。詩織の願うことならなんだって叶えてやりたいと思ってた。だか ら、決めたんだ。いつか必ず詩織を甲子園に連れて行ってやろうって。」 「そうだったの……。」  暫くして沙希が言った。 「でも詩織がその言葉を覚えてるかどうかは判らない。詩織にとっては唯の戯 れでしかなかったかも知れない。それにその頃から詩織は俺から距離を置くよ うになったんだ。」 「藤崎さんが覚えていない筈はないわ。だって忘れているなら野球部のマネー ジャーなんてやってる筈がないじゃない。」 「それはどうかな。」  自嘲気味に言う智史を沙希はキッと睨みつけて言った。 「マネージャーって見た目程、楽な仕事じゃないのよ。私もサッカー部でマネ ージャーやってるから判るけど、部室の掃除とかグラウンドの整備、練習試合、 公式戦のの申し込み、取り決め、それから試合ごとについていって選手の世話、 体調の管理、対戦相手の情報収集、ユニフォームのほころびを繕ったり、背番 号を縫い付けたりって仕事もあるわ。それに選手が怪我をした時の応急手当、 合宿の時には選手の食事の世話なんかもやるわよね。野球部やサッカー部は花 形クラブだから希望する人は多いんだけど長続きする人は少ないのよ。私は人 の世話をするくらいしか取り柄がないからやってるんだけど、藤崎さんだった らそんな裏方に回らなくても、体育系のクラブでも文化系のクラブでもどのク ラブに入ってもスターになれる人だわ。成績は抜群だし、スポーツでも彼女の 右に出るのは水泳部の清川さんくらいよ。その彼女がマネージャーなんて裏方 の仕事をやってるってだけで、その理由は明白じゃないの。」 「でもそれなら何故、美樹原さんを俺に紹介したりしたんだ? これは君が言 ったことだよ。」 「それは……、私にも判らないけど、もしかすると藤崎さんは智史くんとの約 束を負担に思っているのかも……。」 「えっ?」 「だってそうじゃない、甲子園だなんて……。一体、どのくらいの人が甲子園 を目指して野球をしていると思うの? 何も判らない子供の頃なら簡単にそう いう夢を口に出来るかも知れないけど、実際にそれがどれほど大変なことだか 判る年頃になったら……、そして必死になってそんな子供の頃の無責任な願い を叶えようとするあなたの姿を見たら……。嬉しいには違いないだろうけど、 その反面、重荷になってしまうんじゃないかしら……。」 「それじゃ、詩織が俺から距離を置こうとするような態度を取るのは俺のせい だってことか?」 「さあ、これはあくまで私の憶測よ。でも藤崎さんが智史くんのことを強く想 っていればいる程、自分が智史くんに重荷を背負わせてしまったことに、苦し んでいるのかも知れない……。」 「そんなこと……、考えたこともなかった……。」  沙希に言われたことは智史にとって衝撃だった。詩織を甲子園に連れていく こと。唯、それだけを心の支えにして苦しい練習を積んできたのだ。それがか えって詩織の心の負担になっているなんて、想像もしたことがなかった。 「でも……、だからと言って今の俺には……。」 「行きなさいよ、甲子園。」 「えっ。」 「だってそうでしょう。今更、どうにもならないじゃない。甲子園に行くこと が出来ればきっとあなたたち二人はその重荷から解放されるわ。」 「重荷か……。」  甲子園、智史は今までそれだけを目標に頑張ってきた。勿論、甲子園に行く ことが出来れば、詩織との関係になにか進展があると確信を持っていた訳では ない。唯、それだけが詩織との間に残された僅かな繋がりであるかのように思 えて、遮二無二野球に打ち込んできたのだ。  だがそれが智史にとって重荷でなかったとは言えない。子供の頃は無邪気に 詩織の願いを叶えてやりたい、と思っていただけだった。しかし野球を始めて それが生半可なことで達成出来ることではないことを知るのに時間はかからな かった。ある意味で“甲子園”という呪縛にがんじがらめに囚われてしまって いたと言えないこともない。もし甲子園に行くことが出来れば、沙希の言うよ うにその呪縛から解放されるのかも知れない。 「虹野さんの言うとおりかも知れないな。」  智史はポツリと呟いた。 「重荷から解放されて、その後どうなるかは保証しないけどね。」 「あ、ああ・・・でも……。」 「でも、何?」 「でももし甲子園に行けなければ?」 「さあ、なんで私にそんなこと聞くのよ。私に判る筈がないじゃない!」 「それはそうだけど……。」 「私は、私は……、あなたを誰にも渡したくないのよ! でも“藤崎さんとは うまくいきませんでした、それじゃ代わりに”なんて言われるのはごめんだわ。 あなたの心は誰よりも強く藤崎さんのことで占められているんだもの……。決 して他の誰もその代わりになんてなれやしないのよ。」  そういうと沙希はくるっと背をむけた。 「虹野さん……。」 「智史くん、今までつきあってくれてありがとう。本当に楽しかったわ。でも もういいの。あなたと藤崎さんの本当の気持ちが判ってしまったから……。藤 崎さんとうまくいくように祈ってるわ。……さよなら。」  そう言うと沙希は駆け出した。後に残された智史は苦渋に満ちた表情を浮か べて立ち尽くしていた。 「私……、馬鹿みたい。」  家に続く道をとぼとぼと歩きながら、沙希はポツリと呟いた。智史の気持ち を問い質そうとして、結局、彼と詩織の絆の強さを思い知らされてしまったの だ。だがそれは智史に尋ねる前から心の奥ではとうの昔に気がついていたこと だったかも知れない。  自分は智史が一生懸命に野球に打ち込む姿を見て彼を好きになった。だが彼 に頑張る力を与えていたのは幼い頃の詩織の一言だった。その一言に全身全霊 をあげてこだわらなくてはならない程、智史にとって詩織の存在は大きなもの だったのだ。 “もし、甲子園に行けなければ?” 智史の言葉に沙希の心は疼いた。もし智 史が甲子園に行けなければ、自分にもチャンスは残っているのだろうか……。 だが沙希は彼の頑張る姿に惹かれて彼を応援してきたのだ。今更、智史が予選 で負けることを祈るようなことは出来なかった。  それに……、もし負けたとしても二人が心の底に持っている強い絆、それが 断ち切られるとも思えなかった。  彼と過ごした二年と少しの思い出が走馬灯のように頭に浮かんでくる。いつ か彼と一緒に食べたお弁当。修学旅行の時には寝込んでしまった沙希を見舞い に来てくれたこともあった。中央公園、プール、買い物、プロ野球観戦、色々 なところに智史と一緒に出かけた。沢山の思い出が沙希の心に蘇ってきて、胸 が締め付けられるような思いだった。 「やだ、涙が止まらない。」  沙希は乱暴に両手で顔を拭った 「でも私頑張ったよね。智史くんが誰を選ぶにしても……。自分を誉めてあげ なくっちゃね。」  沙希は自分の肩を抱きしめるようにしていつまでも肩を震わせていた。
 

第四章 『決勝戦』 (1)

 七月に入っていよいよ夏の甲子園に向けての県予選が始まった。きらめき高 校でも学校あげての応援が繰り出され大いに盛り上がっていた。  詩織も智史もそれぞれに複雑な思いを抱えたまま予選を迎えることとなった。  練習試合の日以来詩織は愛と話したことをずっと考え続けていた。智史は自 分にとってどういう存在なのか……。唯の幼馴染なのか、それとももっと別の 特別な存在なのか……。  だが心の中を探れば探る程、色々な雑念が生じてきてしまい、余計に自分の 気持ちが見えなくなってしまう。ちょうど予選が始まり、野球部のマネージャ ーとしての仕事に忙殺されていたこともあり、そのことは取り合えず胸にしま って、自分の仕事に没頭することにした。  智史もまた自分が曖昧な態度をとっていた為、沙希を傷つけてしまったこと を気に病んでいた。だが予選が始まったこともあり、沙希に言われた通り、 “今の自分は野球に全力を尽くすしかないんだ”と気持ちを切り替えて試合に 臨んだ。  きらめき高校は順当に勝ち進んで行った。そしてついに決勝に進出した。い よいよ今日の一戦で高校生活三年間の、いや智史にとっては小学校の三年生の 夏“詩織を甲子園に連れて行こう”と決意した時から九年間の努力が報われる かどうかが決まるのだ。  決勝の対戦相手は昨年夏、そして今年春と二期連続して甲子園に出場し、春 の選抜ではベスト4まで進んだ袖竜高校。言わずとしれた強豪だ。エースで四 番の番長之介(ばん・ちょうのすけ)はプロも注目する超高校級の選手である。  智史にとっても袖竜高校は甲子園出場を目の前にして立ちはだかる大きな壁 だった。昨年夏の県大会決勝、そして秋の県大会準決勝でいずれも袖竜高校の 前に涙を飲んできた。この相手を倒さなければ甲子園への道は開けないのだ。  だが袖竜高校も春の選抜の準決勝では優勝したQL学園をあと一歩のところ まで追い詰めながら涙を飲んでいる。彼らの甲子園に対する執念も相当なもの だろう。  きらめき高校の先攻で始まった試合は息詰まるような投手戦となった。智史、 そして長之助ともに県下でも屈指の好投手と言われていた。速球を主体に力で 押してくる長之介、そして絶妙のコントロールと精緻な投球術で打たせて取る ピッチングの智史。決勝戦は二人の意地のぶつかり合いといった様相を呈して スコアボードには0が並んでいった。  しかし九回表ついに均衡が破れた。ここまで安定したピッチングで凡打の山 を築いてきた長之助だったが、九回、先頭バッターを四球で塁に出し、送りバ ントによってそのランナーが二塁にまで達した。そしてツーアウト後、打順が 回ってきた智史のタイムリーで一点が入ったのだ。智史のバットがボールを捉 えた瞬間、“しまった”という表情が長之介の顔に浮かんだ。緊張感の中で投 げ続けていただけに九回に来てほんの少し心に隙が出来てしまった。それがき らめき高校の一点に繋がってしまったのだ。  一点リードして迎えた九回裏、智史は熱い決意を胸にマウンドに向かった。 この回を無得点に押さえれば、夢にまで見た甲子園への道が拓けるのだ。そし て沙希の言った通り、小学校三年生の夏休み以来の詩織とのぎくしゃくした関 係にも決着をつけられるのかも知れない……。だがその思いが逆にプレッシャ ーとなってしまった。  二人のバッターを簡単に凡打に討ち取り、あと一人で甲子園というところま で漕ぎ着けたところまではよかった。だがその後がそう簡単にはいかなかった。 いよいよあとアウト一つで甲子園という瀬戸際になって、九回の表に長之介の 心に僅かな隙が生じたのと同じように智史の心にも隙が生じ肩に力が入ってし まった。それが微妙なコントロールの狂いを招き、ヒットを許した後、連続フ ォアボールでニ死満塁というさよならのピンチを招いてしまったのだ。そして、 迎えるバッターは袖竜高校の四番打者、番長之介。  一発出れば逆点、その時点で甲子園の望みは絶たれてしまう。塁が埋まって いる為、四球を出すことも出来ない。絶体絶命の大ピンチだ。  ここが正念場だった。智史はボールをギュッと握り締めて気持ちを引き締め 直す。ちらっと三塁側ベンチに目をやると、詩織はスコアブックをつけながら 心配そうにこちらを見つめていた。  バッターボックスに視線を移すと長之介も必死の面持ちで智史を睨みつけて いる。  智史はゆっくりと振りかぶると第一球を投じた。長之介はやや振り遅れたの か、ボールは一塁側のファウルグラウンドに矢のような勢いで飛んでいった。 一塁側応援席の歓声がため息に変わる。智史はふうっと息をつくと気合を入れ 直し、キャッチャーのサインを確認して第二球を投げ込んだ。ボールは僅かに 外よりに外れてボールとなった  長之介の執念も相当なものだった。それはそうだろう。甲子園を目指して今 まで必死に頑張ってきたのは何も智史ばかりではない。長之介とて優るとも劣 らない努力を重ねてきたのだ。しかも春の選抜準決勝では優勝したQL学園に 対して9回表まで3−0とリードしながら、9回裏に逆転さよなら打を食らっ てジ・エンドとなった。彼にとっても甲子園はもう一度借りを返しに行かなく てはならない場所なのだ。  智史はコースを丹念についたピッチングでなんとか討ち取ろうとしたが、長 之介はきわどい球はファウルで逃れ、狙い球が来るのを待っている。やがて七 球目を投げた時、ボールカウントは2ストライク3ボールとなった。  段々と疲労が蓄積していく。それでなくとも準々決勝の日から真夏の暑さの 中での三連投。今日の試合も相手が強豪ということで最初からかなり飛ばして いた。これが最後の最後であるだけに気力を振り絞っての投球であったが、フ ァウルで粘られているうちに段々、タイミングが合ってきているのが判る。  第八球目、投げた瞬間、智史は“しまった”と思った。手元が狂い、内角を 狙った球がやや真ん中に入ってしまったのだ。長之介のバットがボールを捉え る。ボールは高々とレフトスタンドに向かって舞い上がった。一塁側の袖竜高 校の応援席がどっと大歓声に包まれる。だがボールは僅かにポールの左側を通 過してファールとなった。歓声がため息に変わる。

(2)

 智史は疲れきっていた。炎天下の陽射しの中段々と意識が朦朧としていく。 そんな自分を叱咤して九球目を投げ込んだ。 “ファール!”  球審の声がこだまする。ボールは長之介のバットを僅かにかすめてファール グラウンドに転がった。気を取り直してバッターボックスで構える長之介。  一球、一球、長之介を討ち取ろうと、これが最後の一球のつもりでボールを 投げ込んできた智史。だが長之介もしぶとく食らいついてくる。長之介の集中 力も相当なものだ。肩にかかる重圧、そしてギリギリの緊張感がボールを投げ るたびに智史の体力を絞りとってゆく。気力だけで長之介に立ち向かってきた が、その気力さえもはや切れかかっている。  智史は限界を感じていた。自分は何の為にこんな苦しい思いをしてボールを 投げ続けているのか、その理由さえ頭の中には殆ど残っていない。そんなこと より早く試合を終らせたい、この緊張感から解放されたい。そんな思いが頭の 中を支配してゆく。 『もう駄目だ。次の球は打たれる。』  そんな思いが智史の心を横切った。 『長之介を討ち取るだけの球はもう投げられない、そんな力はどこにも残って ないんだ。結局、俺の力はここまでだったんだろう。詩織を甲子園に連れて行 きたいなんて、そんな一人よがりな思い上がった夢を抱いたことがそもそもの 間違いだったんだ……。』  気持ちがなえ始めるともはや押さえがきかなかった。坂道を転がるように智 史の気持ちはどんどん崩れていこうとしていた。 その時、、 「智史くん、がんばって!! 私を甲子園に連れてって!!」  ベンチから叫ぶような声が聞こえてきた。大声援の中、半分かき消されては いたが、その声は確かに智史の耳に届いた。智史ははっとしてベンチに目をや った。詩織が立ち上がって悲痛な面持ちで智史に向かって叫んでいた。  智史の脳裏に幼い日の情景が蘇る。あの夏の日、二人で見た高校野球のテレ ビ中継。そして二人で過ごした懐かしい日々。 『詩織……。覚えていた……、やっぱり詩織はあの時のことを、あの約束を覚 えていてくれたんだ……。』  詩織もまたあの日感じたのと同じ興奮に包まれていた。マウンドで一人で戦 っている智史。もはや疲れ果ててしまっているのが、傍目にもはっきりと判る。 きっと立っているのもやっとなのだろう。しかし彼は気力を振り絞って投球を 続けている。その姿が詩織の心の中で何かを弾けさせた。そして気がついた時 には立ち上がって叫んでいた。  時が戻ってゆく。球場包む歓声が徐々に遠ざかっていく。いつの間にか二人 はしんと静まり返った不思議な二人だけの空間に包まれていた。そしてその空 間の中で智史は詩織を、そして詩織は智史の存在だけを認識していた。  遠い日、二人で過ごした日々、詩織の為ならなんだって出来た、ガキ大将だ って野良犬だって、怖いものは何もなかった。唯、詩織の為なら……。  思いが蘇ってくる。智史は自分の為ならなんだって願いを叶えてくれた。そ して今も……、幼い頃の自分の無責任な言葉に必死になって応えようとしてく れている。  その瞬間、確かに詩織の想いと智史の想いが一つになったことを二人は自覚 していた。長い時間の中でいつの間にか互いに見失いかけていた想い。二人の 心に呼び覚まされたその想いが切れかけていた心の糸を再び結び付けた。  不思議な力が智史の体にみなぎってくる。もう投げる力は残されていないと 思っていた体に詩織との間に繋がれた心の糸を通じて新たな力が流れ込んでく るようだ。それはとても暖かで安らかな感覚だった。  やがて二人を包み込んでいた不思議な空間は遠ざかり、再び球場内のざわめ きが戻ってきた。真夏のまぶしい日差しと球場を包み込む歓声の中で智史は改 めてセットポジションに入った。  智史は不思議に自分がリラックスしているのを感じていた。詩織の心が確か に自分と共にあるという安心感。それが新たな力になっているように感じられ る。  詩織の想いを胸に感じながら智史は最後の力を振り絞り、キャッチャーミッ トめがけて白いボールを投げ込んだ。智史と詩織の二人の想いを乗せたボール がうなりをあげて、キャッチャーミットを目指して飛んで行く。  ふと我に返ると大歓声が球場全体を包み込んでいた。 「ストライーーク!! バッターアウッ!! ゲームセットッ!!」  主審がコールする。智史は放心したような表情でそのコールを聞いていた。 長之介のバットが空を切ったのだ。キャッチャーがマスクを投げ棄てて駆け寄 ってくる。そしてナインの一人一人が喜びの声をあげてマウンドに走ってくる。 ナインにもみくちゃにされながら、智史の目はベンチの詩織の姿を追っていた。  詩織は安堵したような笑みを浮かべて智史の姿を見つめていた。その頬を一 筋のきらりと光る透明な雫が伝っていた。
 

第五章『それから・・』 (1)

「お〜い、智史。」  休み時間、親友の早乙女好雄が智史に声をかけてきた。あの暑い夏の記憶も 既に遠ざかり、季節は冬、1997年も残すところあと僅かになっていた。 「なんだ?」 「なんだじゃないよ。おまえ期末試験の成績発表もう見てきたか?」 「いや、まだだけど。」 「そうだろうと思った。行こうぜ。」 「お、おい待てよ。」  好雄に引っ張られて智史は教室を出た。 「ほらみろよ。おまえの順位?」 「あれ? 俺の名前が……。」 「ば〜か、どこ見てんだよ。もっと上だよ、上。」 「えっ? あっ!」  今までの成績が成績だっただけに50位近辺を一生懸命探していたのだが、 見つからない筈だった。なんと智史の名前は6位にランクされていたのだ。 「まさか、何かの間違いじゃ……。」 「何、言ってんだよ。そんなに疑うなら一発殴ってやろうか? ひょっとする と全然痛くないかも知れないぜ。」 「智史くん。」  その時、後ろから声をかけられて智史は振り向いた。 「あ、虹野さん。」  そこに立っていたのは虹野沙希だった。あれ? 一緒にいるのは……。 「智史くん、6位だなんて凄いじゃない、相当頑張ったのね。」 「う、うん、そうだけど、虹野さん、一緒にいるのは確かサッカー部の……、 三杉?」 「え? うん、まあね。」  沙希は少し照れたような顔をして言った。三杉はサッカー部のキャプテンで ある。噂ではJリーグ入りが既に内定していて、今は冬の全国高校サッカー選 手権に備えて毎日練習に励んでいるということだ。 「甲子園での優勝は見事だったな。俺達もおまえたちに負けないように国立目 指して頑張るよ。」  三杉が智史に声を掛けてきた。同じ運動部ということで二人は旧知の間柄だ った。 「ああ、ありがとう。頑張ってくれよ。」 「それにしても白石、本当にプロ野球に行かないのか? ドラフトではいくつ もの球団から一位指名されてたってのに……。」 「ああ、取り合えず甲子園が目標だったからな。今は大学受験の準備でそれど ころじゃないよ。」 「それにしてももったいないな、お前程の奴が。でも野球よりも愛しい彼女を 取りたいっていうお前の気持ちは判らないでもないけどな。」  そう言って三杉はちらっと沙希の方を見た。 「ちょ、ちょっと待て。虹野さん、三杉に何か言ったな!」 「え? わ、私は何も言わないわよ。」 「本当かなぁ。」  疑わしげな目つきで沙希を睨む。 「もし言ったとしてもほんのちょっとだけよ。それに私が言わなくてもあなた たちのことは誰でも知ってるじゃない。」 「そういうことだよ。白石、照れることはないじゃないか。」  三杉は智史の肩をポンと叩いてそう言った。智史は少しふてくされたような 顔をしてそっぽを向いた。 「でも智史くん、本当に頑張ったわよね。野球部もやめて勉強頑張った甲斐が あったわね。」 「ま、まあね。」 「それじゃ、私達はそろそろ行くね。」 「うん、それじゃ。」 「虹野も随分、お前に執心だったようだけど、今は三杉とうまくやってるよう だな。」  去ってゆく二人の背中を見送りながら好雄が言った。 「ま、あれだけお前の勉強に協力してた藤崎を見れば、流石の虹野も諦めざる を得なかったってとこか。」 「う、うん。」  智史は曖昧に頷いた。それだけではないことは流石に情報に聡い好雄も知ら ないことだ。 「三杉くん、今日はお弁当を作ってきたのよ。一緒に食べよ。」 「え? 本当かい。」  遠ざかってゆく沙希たちの話す声がちらっと智史の耳に入ってきた。春のう ららかな陽射しの中、沙希と一緒にお弁当を食べた日のことが懐かしく思い出 される。 「そろそろ行くか、授業が始まるぜ。」 「ああ。」  智史は胸に浮かんだ微かな痛みを振り払って教室に戻って行った。

(2)

「詩織ちゃん、一緒に帰りましょう」  放課後、愛が詩織を誘いにきた。 「あ、ごめん、メグ、今日は……。」 「あ、智史くんと帰るの? じゃ、今日は一人で帰る。」 「メグ、ごめんなさい。」 「ううん、いいの。智史くんと仲良くね。」  愛は軽く手を振ると去って行った。愛と別れた詩織は智史を待つ為に校門の 前にやってきた。  智史を待ちながら詩織は決勝戦の日のことを思い出していた。確かに智史と 自分の心が一つに結ばれたのを感じることが出来たあの暑い夏の一日。あの瞬 間、迷っていた気持ちが吹っ切れた。今でも智史は幼い頃と同じように自分に とって一番大切な相手なのだと、はっきりと自覚することが出来たのだ。  優勝を決めた智史に詩織は嬉し涙を流しながら“おめでとう”と言った。詩 織はこんなに素直に智史に“おめでとう”と言えたことに、自分自身でも内心 驚いていた。  甲子園から帰ると詩織はすぐに愛に会いに行った。そしてはっきりと判った 自分の気持ちを愛に告げた。そして今まであやふやな態度でいたことを愛に謝 った。そんな詩織に愛は安心したような笑顔を見せて言った。 「詩織ちゃん、おめでとう。きっとそうなると思っていたわ。そりゃ、白石く んのことはあたしも好きだったけど……、でも詩織ちゃんもあたしにとっては とても大切な親友だから……。心から祝福してあげることが出来る。」 「メグ……。」 「あたしの智史くんが好きっていう気持ちはもしかすると恋というよりも憧れ だったのかも知れないって気がするの。それにあたしはデートに誘って貰って も智史くんを退屈させるだけだったし……。あたしももう少し頑張って、もっ と自分に自信を持てるようになったら、そうしたらまたいつか新しい恋を見つ けたいわ。」  そう言う愛の姿はかつての内気なだけだった少女から、一皮剥けたような清 々しさがあった。あの練習試合の日、詩織が初めて愛の前で弱みを見せたこと で、愛の中で何かが変わったようだ。いつも自信に溢れて、どんなことでも完 璧にこなしていたように愛の目には映っていた詩織。だが心の中には愛と同じ ように不安定な部分を持ち、悩みを隠していた。それを知ったことで詩織が今 まで以上に自分にとって身近な存在になったような気がした。  勿論、愛の心の中で智史に対する気持ちが消え去った訳ではなかったが、そ れ以上に詩織は自分にとってかけがえのない親友なのだと自覚することが出来 たのが嬉しかったのだ。  そしていつか自分も詩織に負けないような女の子になって、詩織と同じよう に素敵な恋を見つけたいのだと詩織に告げた。  そんな愛を詩織は驚きの目で見つめていた。今まで内気で自分の気持ちを半 分も言えない女の子だった愛は、詩織にとって守ってあげなくてはならない存 在だった。だが今の愛はそんな姿から脱皮したかのように見える。詩織はそん な愛の変化を感じ取って、今までとは違う本当に対等の親友同士になれたよう に思えた。  そんなことを思いながら詩織は校門の前で智史を待っていた。暫くして校舎 から出てくる智史の姿が見えた。 「あっ、智史くん」 「あ、詩織。どうしたの」 「家もお隣同士だし、たまには一緒に帰ろうと思って……。」 「よし、一緒に帰ろう。」  智史は快く承諾して二人は肩を並べて校門を出た。 「そういえば成績発表見たわよ。よく頑張ったね。おめでとう。」 「うん、詩織が勉強に協力してくれたおかげだよ。」 「うふふ、でもやっぱり智史くんが頑張ったからよ。」  詩織は嬉しそうに言った。 「もう今年も終わりね。今年もいろいろあったよね。」 「うん、長いようで短かったようで……。」 「でも今まで18年間生きてきたけど、一番思い出に残る一年だったかも知れ ないわね。」 「うん。」  詩織と智史の脳裏をあの暑い夏の思い出が掠めていた。県予選の決勝戦、二 人の気持ちが確かに一つになったのを感じたあの瞬間。  甲子園での智史はまるで肩から何か重い荷物を降ろしたように、のびのびと したピッチングを見せた。超明訓高校との決勝戦でもそれは変わらず見事に全 国優勝を手にしたのだった。  大会終了後、智史は野球部を退部して、今度は勉強に集中した。甲子園とい う目標を達成した後、すぐに“詩織と同じ大学に行きたい”という次の目標に 向かって邁進し始めたのだ。詩織も智史と一緒に毎日のように図書館に通い、 智史の勉強に協力した。 「ねえ、冬休みは何か予定あるの?」 「特に予定はないけど……。でも冬休みは勉強しないと。一回くらいテストで 成績がよかったと言っても今の俺じゃ、少しさぼったらすぐに元に戻ってしま いそうだから……。」 「そっか。もう追い込みの時期だもんね。でも一日くらいなら息抜きしてもい いんじゃない? 初詣に行きましょうよ。合格祈願も兼ねて……。」 「う〜ん、そうだなぁ。」 「きらめき神社は御利益があるので有名なのよ。」 「よし、一日くらいなら。」 「じゃ、決まりね。」  詩織はそう言うとはちきれんばかりの笑顔を見せた。
 

〜エピローグ〜

 卒業式の日、智史は教室の机の中から“伝説の樹の下で待ってます”という 内容の差出人の名前のない手紙を見つけた。智史は一緒に帰ろうという好雄の 誘いを断ると、“もしかしたら……”という思いを胸に伝説の樹の下へと向か った。  きらめき高校の校庭に立つ伝説の樹。幼い頃、詩織は祖母によってその伝説 を教えられた。その時言われた言葉。 『詩織、おまえも大きくなって本当に好きな人が出来たら、この樹の下で思い を告げるといい。わしらと同じようにきっと幸せになれる。』  その言葉を胸に抱きしめて、今、詩織は伝説の樹の下で彼を待っている。  祖母もまた伝説の樹の下で結ばれた経験を持つ人だった。祖母が祖父に告白 したのはまだきらめき高校が創立される以前のことで、卒業式の日ではなかっ たが、祖父が出征する前日、二人が別れ別れになってしまう危機に見舞われた 日のことだったという。そして伝説だけを心の支えとして愛しい人の帰りを待 ち続けた。  伝説がきらめき高校の創立によって“卒業式の日”というように置き換えら れるようになったのは、一種の方便だったのではないか? と詩織は思う。伝 説の悲恋の娘が帰らぬ人となったのは春まだ浅い頃だったと言われている。ち ょうど今で言えば、卒業式が行われる頃だ。そして卒業というのは別れの時で もある。それらの要素が伝説に多少の脚色を加えたのかも知れない。  例え別れの危機を迎えても大切な人との絆が切れることのないように、永遠 の幸せが得られるように、伝説の娘のような悲しい想いを繰り返さずに済むよ うに……、この地で生きたさまざまな人々のそんな願いが伝説にはこめられて いるのだろう。  そして幼い頃、祖母に伝説を聞かされた時に心に思い浮かべた通りに、今、 自分はこの樹の下で彼を待っている。彼は自分が待つこの樹の下に来てくれる だろうか……。  幼い頃からずっと自分のそばにいて、詩織の願いならなんだって叶えてくれ た人。そしていくつもの時を重ねて、やはり自分にとって一番大切な人なのだ と漸く気付くことが出来た唯一人の人……。  校庭に出た智史はまっすぐに伝説の樹を目指した。樹の下に誰かが立ってい る。遠目にははっきりとはそれが誰なのか判らなかったが、智史は心の中で何 かに急き立てられたかのように駆け出した。  伝説の樹に近づくにつれてその人影が段々とはっきりしてきた。さらさらの ストレートのロングヘアーにヘアバンド。彼女は卒業証書を手に持ち、そこに 立っていた。 『詩織・・・。』  自然、伝説の樹に向かう彼の足は速まった。  詩織は息を切らせて伝説の樹の下へやってきた智史を優しいまなざしで見つ めていた。膝に手をついてハアハアと息を切らせていた智史が漸く顔を上げた。  見つめ合う視線が絡み合う。長い長い時を越えて抱き続けてきた想いが二人 の胸の中を去来する。   そしてきらきらと梢の間からこぼれ落ちてくる木漏れ日の中で、二人の時が 流れ始めた。                            <Fin>
  初出 1996年10月24日〜10月27日   PC−VAN アーケードゲームワールド   #3−6ときめきメモリアル #2556〜#2557,#2570〜2571                 #2574〜#2576,#2582〜2584   このSSは上記のボードに掲載されたものに、一部加筆修正を加えたもの   です。
 

あとがき


 えっとあとがきです。  このSS、元々の発想は『神様の魔法』の後書きでも書きましたように、と きメモの主人公と詩織の関係って『タッチ』の上杉達也と浅倉南の関係に似て るなぁ、と思ったのが着想の発端です。  それでそれを形にするに当たって“子供の頃は仲良く遊んでいたのに、ある 時期を境に素直になれなくなった……。”という、詩織の主人公に対するどこ か一歩引いたような接し方、それに理由付けを試みました。  パターンは色々考えたのですけど、例えば『タッチ』のように昔、主人公と 野球で、また詩織を巡ってもライバルだったもう一人の幼馴染がいて、そのラ イバルが事故にあって……、みたいなパターンも考えていたのですが、あまり にも露骨に『タッチ』のぱくりになってしまいそうで、そのパターンは没。 で、柊あおいさんの『星の瞳のシルエット』というマンガでの香澄ちゃんのよ うな“親友と自分の恋との間に立って、自分の心を素直に出せなくなる……” というパターン、ここからヒントを頂て、詩織と美樹原さんの関係というのを 考えたのですが、美樹原さんをそのまま真理子と同じようなキャラにしてしま うというのは、どう考えても無理がありましたので、詩織の気持ちに迷いがあ ったところへ登場した美樹原さん、という形にしました。  それらにゲーム中のエピソードやオリジナルのエピソードを色々織り混ぜて SSに仕立てあげたという感じですね。  しかし今まで書いたSSと違って、智史、詩織、虹野さん、美樹原さんとそ れぞれの登場人物について一人一人、心情を描写しながら話を進めようなどと 無茶なことを考えてしまった為、非常にしんどかったです。(しんどいのはい つものことではあるんですけど。)  すらすらと書ける場面も勿論あったのですが、たったの数行をどう書いたら いいのか判らなくて呻吟した場面も数知れず……、しかも一つ解決したと思っ たらまた次の難問が待っているという……。それに書いていく内に辻褄が合わ なくなってくるという状態にも何度もぶち当たってしまって……。自分の表現 力の幅の狭さに絶望的な気分になってました。  特にしんどかったのが第三章で、詩織と愛、智史と沙希がそれぞれぶつかり 合う場面。どのように持っていけばいいか迷って迷って一時は途方に暮れてま した。  普段、小説とかマンガとか何気なく読んでますけど、作者さんはやっぱり苦 労して書いているんだろうなぁ、というのを擬似体験出来たような気がしてい ます。  それとも才能のある人はもっとすらすら書けるんでしょうか……。判りませ んけれど……。 あと色々補足説明。  爆弾の設定は智史が詩織や虹野さんや他の女の子と広く浅く付き合っている ことの理由付けとしていれたのですが、後半なんだか意味がなくなっちゃいま したねー。(^_^;) あの時点で虹野さんと別れてしまったら一体爆弾はどうな るんだろう……。(無理矢理理屈をつけようと思ったらつけれないことはない のですけど……。)  第三章の中の虹野さんの台詞、マネージャーの仕事に関する部分なのですが、 私にはマネージャーの経験もそういう経験を持っている友人もいないもので、 半分はマンガや小説の中でマネージャーの仕事について書いてある部分からヒ ントを貰ってきて、あとの半分は想像で書いてます。  実際にマネージャーをやったことのある人が見ると“こんな仕事ないぞぉ” というのがもしかするとあるかも知れませんが、いい加減ですみません。(あ くまでこのSSはフィクションです。(^_^;))  最後の一文はピンときた方も多いと思いますが、『二人の時』の歌詞を流用 してます。この一文があった為に最初はSSのタイトルも『二人の時』としよ うかとちらっと考えたのですが、こういうタイトルをSSにつけてしまうのは 反則かなぁ、という気がしまして、結局『君がいたから・・』というタイトル に落ち着きました。 と、いうことで最後まで読んで下さったみなさん、どうもありがとうございま した。ではでは。                       1997/08/16 眠夢

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