雪娘
雪の夜、公園にて
北風の冷たい夜だった。ここ数日冷え込みの厳しい日が続いていたが、その夜、町はいつもにも増して厳しい寒さに覆われていた。風は唸りを立てて吹きすさび、空気の手触りはまるで肌に就き刺さるような冷たさだ。
人々は寒さから逃れる為に足早に家路につき、通りには殆ど人影は見受けられない。家々では窓を締め切って暖房の利いた部屋の中で、暖かな団欒のひとときを迎えている時間だった。
そんな寒さの中、一人の少年が小さな公園のコンクリート製の滑り台の下にあるトンネルの中で寒さに震えながらうずくまっていた。
既に日はとっぷりと暮れてしまっており、家々にあかりが灯り始めてかなりの時間が経っていた。しんしんと暮れてゆく夜の狭間で、彼はたった一人、家に帰ろうという様子も見せずに座り込んでいた。時々、冷たくなった手を暖めようとするかのように息を吹き掛けたり、手をこすり合わせたりしている。既に公園には人影もなく、周囲の家では人々は夕餉を囲んで和やかな時間を過ごしている頃だろう。
だが彼は腰をあげようとはしない。悲しそうな目をしてじっとうずくまっている。彼は体で感じる寒さよりも心の中に抱いている寒さの方により強い痛みを感じていたのだ。
今日、学校で先日行われた実力テストの答案が返された。72点、普段は平均点に乗るか乗らないかという成績を取るのがやっとの彼としてみれば上々の成績だった。彼はきっと母にも褒めてもらえるだろうと思って意気揚々と帰宅し、母にテストの点数を見せたのだった。
だが母はちらっと点数を見て不機嫌そうにため息をついただけだった。
「ねえ、おかあさん、72点だよ。結構、いい点取れたでしょ?」
母がなにも言わないのを見て、彼は少し不満気に言ってみた。すると母は険しい顔を見せて、彼を睨みつけて吐き捨てるような口調で言った。
「何、言ってるの。72点くらいでいい気になってるなんて情けない。従姉妹の真理ちゃんはいつも100点取ってるじゃないの。近所の奥さんたちの間じゃ、才色兼備の真理ちゃんとうちの馬鹿息子って評判になってるのよ。72点くらいで喜んでるようじゃ、私は外を歩くのも恥ずかしいわ!」
母の言葉は容赦がなかった。彼を憎々しげに睨みつけて吐き捨てるようにこう言ったのだ。母の言う嫌みには慣れていたが、その日の母の言葉にはいつも以上に言葉にトゲが含まれていた。もしかするとその日は何か特別に虫の居所が悪くなるような事情があったのかも知れない。
しかし彼にとっては母の言葉は心にグサリと突き刺さるものだった。彼とて一生懸命頑張ったのだ。いつもいい成績を取りなさい、もっと勉強しなさい、と言われ続けて、少しでも母を喜ばせたいと思って勉強したのだ。担任の先生も今日のテストの得点を見て、“よく頑張った”と褒めてくれた。当然、いつもは文句ばかり言う母も褒めてくれるものと期待していた。しかし彼の期待はものの見事に裏切られた。母の言葉は誉められることを期待していた彼の心に冷や水を浴びせるような言葉だった。
彼はテストの用紙をくしゃくしゃに丸めて投げ棄てると、泣きながら家を飛び出した。母はそんな彼を止めるそぶりも見せず冷たい目で見送った。
冷たい風が頬を撫でる。
「おかあさんなんかだいきらいだ!!」
彼は心の中でそう呟くと膝の間に顔を埋めた。
『どうしたの、こんなところでなにしてるの?』
どのくらいの時間そうしていたろう……。突然、どこからか誰かの話し掛ける声が聞こえて来た。彼は驚いてきょろきょろと辺りを見回した。そんな彼の様子がおかしいのかくすくすと笑う声が聞こえる。どうやら女の子の声のようだった。更にきょろきょろと辺りを見回す。すると公園のベンチに小さな女の子がちょこんと腰掛けているのに、彼は気がついた。
その女の子はおかっぱに髪を揃え、白いワンピースを身につけてベンチにちょこんと腰掛けていた。彼の方を見て透き通るような白い色の顔に小さな笑みを浮かべている。
「君は……、誰?」
彼は女の子の方に近づいて行って問いかけた。
『あたし? あたしは雪娘よ。』
「ゆきむすめ??」
『そうよ。町から町へと飛び回って雪を降らせて回るのが仕事なの。』
彼は女の子がおかしなことを言い出したので思わず吹き出した。
「まさか、そんなのいる訳ないじゃないか。君は近所の子? 見掛けたことはないけど。」
『まあ、信じてないのね。じゃ証拠を見せてあげるわ。』
彼が信じてくれないのに少し気を悪くしたのか、不満そうにそういうと女の子は立ち上がって奇妙な踊りを舞い始めた。ふわふわと漂うような、それでいて心を奪われそうになるような美しさを秘めた不思議な踊り……。そしてその踊りに歩調を合わせたかのように、空からひらひらと白い雪のかけらがひとひらふたひらと舞い落ちてきた。
彼は驚いて空から落ちてくる雪のかけらを見つめていた。手を広げてその雪を受け止めてみる。雪は彼の掌の上に落ちるとすぐに溶けて消えた。
「この雪、君が降らせたの?」
『そうよ、これであたしのこと信じた?』
女の子は得意げにそう答えた。
「うん、信じるよ。でも凄いな雪を降らせることが出来るなんて」
『うふふ、ありがと。でもあたしはまだ小さいからあんまりうまく降らせることが出来なくて、おかあさんに叱られてばかりいるんだけどね。』
女の子は少し淋しそうな笑顔を見せて言った。
「それなら僕と同じだ。僕もテストの点が悪いって言っていつもおかあさんに怒られてるんだ。」
「ふうん、そうなの……。うふふ。」
「でも君はこんなにきれいな雪を降らせることが出来るじゃないか、凄いよ。」
「すごくなんかないわよ、あたしなんてまだまだ……。でもいつかお母さんたちみたいな立派な雪女になりたいとは思ってるけど。」
「君ならきっとなれるよ。」
彼は女の子を喜ばせてやりたい一心で、一生懸命な口調でそう言った。女の子の自信なげな様子に、今の自分、成績優秀な従姉妹と比べられて惨めな気分になっていた自分の姿を重ねあわせていたのかも知れない。だから……、自分と同じような気持ちを持っているらしい女の子を励ましてやりたい、という気持ちが湧きあがってきたのだろう。
「ありがと。ほんとにそうなれたらいいな。」
「絶対なれるよ。今でも君はこんなにきれいな雪を降らせることが出来るんだもの。」
「じゃ、あたしが一人前の雪女になったらまた会ってくれる?」
女の子は少し嬉しそうな、でもちょっぴりはにかんだような口調で言った。
「うん、約束。」
そう言って少年は女の子の目の前に小指を差し出した。
「指切りしよう。いつかきっとまた会おうね。」
「うん。」
女の子もまた俺に促されて小指を差し出した。
「ゆ〜びき〜りげんまん、うそついたらはりせんぼん、の〜ます!」
二人は楽しそうに約束を交わした。
「君の指本当に冷たいね。」
「だってゆきむすめだもん。あんたの指はとってもあったかいね。」
彼の手は凍えてかじかんでいたのだが、それでも雪娘には暖かく感じられたらしい。
「じゃあたしはそろそろ帰るわ。あんまりぐずぐずしてるとまたお母さんにお目玉を食うから……。」
「うん、それじゃまた。」
女の子は彼に向かってにっこりと微笑むとすう〜っと空に浮かび上がった。
「絶対に約束だからね〜!!」
空から彼に向かって叫ぶ。彼は空に向かっていつまでも手を振っていた。雪娘は心の中になんだかくすぐったいような嬉しいような気持ちを抱いて北風に乗ってささやき山の方向へ飛んで行った。
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