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        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (25)
       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座
 _/   _/   _/   _/  _/    _/    平成10年2月21日 2,128部発行
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_/_/   人物探訪: 自立共栄の人・クロネコヤマト小倉昌男
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_/_/                 ■ 目 次 ■
_/_/    1.宅配便のなかった世界
_/_/    2.いいサービスをすれば客はついてくる
_/_/    3.規制との戦い
_/_/    4.市場競争と価値創造
_/_/    5.小倉昌男、第二の挑戦
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■1.宅配便のなかった世界■

 現代の日本で宅配便のない生活を想像できるだろうか? ヤマト
運輸が、「クロネコヤマトの宅急便」をスタートしたのが、昭和51
年、30代後半以上の方は記憶があろう。

 当時は国鉄が鉄道小荷物というサービスをしていた。大きな駅に
しか取り扱い場所がなく、送るにも、受け取るにも、そこまで行か
なければならない。田舎からりんご一箱送ってきた、などというと
取りに行くのに半日仕事である。送る方も何日かかるか分からない
ので、急ぐものや腐るものは始めからあきらめる。

 また当時の国鉄は労働組合の力が強く、まるで共産圏の国営企業
のようで、接客態度などまるでなってなかった。筆者も荷物を受け
取りにいって、半分中身の飛び出した段ボール箱を目の前に投げ出
された記憶がある。国鉄は労働者の見方ではあっても、消費者の見
方ではなかったのである。郵便小包にしても、不便さは同じ様なも
のだった。

 それに対して、宅急便の便利さはどうであろう。電話1本で自宅
まで荷物を取りに来てくれ、ほとんどの地域で確実に翌日には届け
られる。受け取りも戸口まで運んでくれ、不在時でも、帰宅してか
ら電話をすれば、2,30分で届けてくれる。

 帰省時や旅行時に荷物・おみやげを別送する、スキーやゴルフに
手ぶらで行く、お中元お歳暮で生鮮食品を低温で贈る、本やCDも
電話注文で数日内に届く、明日の朝10時までに重要書類を地方支
店まで届ける、などという事ができるようになったのも、宅急便の
お陰である。

 宅急便がスタートした昭和51年の鉄道小荷物が6470万個、
郵便小荷物が1億7880万個であったのに対し、現在はヤマト運
輸だけで、7億個(鉄道小荷物は昭和63年に廃止)。便利な、信
頼性の高いサービスによって、需要が拡大し、それだけ消費者の生
活が豊かになり、かつ日本経済全体の成長に貢献しているわけであ
る。

 しかし、この市場創造は決して平坦な道ではなかった。クロネコ
ヤマト前会長小倉昌男による積極果敢な挑戦がなければ、今も「宅
急便のない生活」が続いていたはずである。

■2.いいサービスをすれば客はついてくる■

 ヤマト運輸(昭和57年までは大和運輸)は、大正8年創業、日
本で2番目に古いトラック輸送会社の名門である。日本全体でトラ
ックが204台しかなかった時代に、4台の車両で輸送業をスター
トした。しかし高度成長期のトラック長距離輸送の波に乗り遅れ、
さらに石油ショックのあおりを受けて、5千人の社員を4千人に減
らし、それでも倒産する恐れのある「危ない会社」と言われていた。

 小倉昌男は創業者の父の後を継いで、昭和46年に社長に就任し
た。昭和49年に「ヤマト運輸を救うには、これしかない」と役員
会に宅急便の構想を提案したが、一人を除いて、全員の反対を受け
た。1個数百円の家庭貨物などいくら集めても儲からない、ここで
下手な冒険をして、会社が潰れては、という考えが大勢だった。

 しかし「座して死を待つよりは乾坤一擲の勝負をかけよう」とい
う小倉の熱意が役員会を説得して、関東地方から事業を開始した。 
その最初の日、昭和51年1月20日には、2個しか荷物がなかった。 
それにもかかわらず小倉は都市部でも過疎地でも、どんどん営業所
を増やしていく。赤字の営業所が続出した。

 しかし不思議なもので、「宅急便は電話1本で毎日でも集荷にや
ってくる」という噂が口コミで広がると、しだいに荷物が集まるよ
うになる。「いいサービスをすれば客はひとりでについてくる。逆
にサービスをほどほどにするといつまでたっても儲からない」、こ
れが小倉の信念であった。[1,p62]

■3.規制との戦い■

 拡大期の宅急便の障害となったのは、運輸省の許認可であった。 
ある地方で宅急便を始めようとすると、まず輸送路線の認可を運輸
省に求めなければならない。小倉と二人三脚で宅急便を確立した都
築は語る。

    「山梨では、松本まで走るために八王子・塩尻間の免許申請を
    行った。山梨の(輸送)業者は、国道20号線をヤマトに走ら
    れては困るという。こっちは、天下の大道を走って何が悪い、
    と免許を申請したら、14,5の地元業者が反対運動を起こし
    て政治家を使って圧力をかけてきた。運輸省も認可するわけに
    いかなくて4年くらい待ったをかけられた。」[1,p96]

 こういう場合にも、小倉はあくまでも正攻法である。地元業者を
何度も説得し、反対運動をやめてもらう。一部の業者がどうしても
反対を貫くと、公聴会で討論をし、さらには行政不服審査請求を行
い、最終的には訴訟までいったケースもある。

 路線申請の他にも、規制があった。たとえば、現在20万店以上
もある取次店。米屋や酒屋に頼んで、取次店になってもらおうとし
たが、道路運送法では、すべて荷扱い所としての認可を受けなけれ
ばならない。

 また運賃についても、道路運送法でミニマムチャージが「重量5
0kg、距離50km」となっている。これでは大きすぎて宅急便
にはあわない。宅急便という新しい概念の商品を出すためには、こ
うした既存の商品向けに考えられた法律、規制が障害となる。

    「ヤマトには政治力なんか何もない。あっても使いたくはない。 
    根回しは下手クソだ。すべて正攻法、正面突破で押しまくった。 
    うちの進出に反対する業者からは『ヤマトは大衆を錦の御旗に
    して勝手なことをやる』といわれたが、マスコミは好意的だっ
    た。宅急便運賃が認可されたのも、マスコミの援護射撃が相当
    効いている。読売の社説にも掲載されましたからね。」[1,p10
    0]

■4.市場競争と価値創造■

 宅急便の登場によって市場競争が生まれた。鉄道小荷物はジリ貧
を続け、ついに昭和61年、宅急便登場の10年後に廃止となった。 
郵便小包もしばらく低迷を続けたが、その後「ゆうパック」など、
対抗サービスを開始して反撃に出た。郵便局も昔に比べれば、接客
態度もぐっと良くなり、てきぱき働くようになったという感じがす
る。

 またヤマトの成功に続けと、宅配便市場への新規参入が続く。ク
ロネコに加えて、ペリカン、ダックスフント、カンガルー、つばめ、
と、動物園ができそうな勢いだ。ヤマトも決して先行だからと言っ
て、気を抜けない。クール宅急便、スキー宅急便など、次々と新し
い商品を開発し、市場を開拓している。宅急便を特許申請する事も
できたのだが、小倉はそうしなかった。同業他社の挑戦を受けたこ
とで、競争が活性化し、市場全体が大きく成長したのである。

 ヤマトが次に狙っているのは、郵政省が独占している郵便市場で
ある。全国99%強を自社ネットワークでカバーした自信で、

    「年賀状をわが社でやらせてもらえるなら、1枚20円で配達
    してみせる」[2,p69]

と豪語する。郵便法第5条には、はがきなどの信書を運送者が「送
達」してはならない、と決められている。ヤマトはこの規制をなく
せと主張している。第二電電があるのだから、第二郵便があっても
おかしくない。宅配便市場と同様、郵便にも新規参入を許して、市
場競争を活性化すれば、消費者のためにより低価格・高信頼性のサ
ービスが生まれるだろう。

■5.小倉昌男、第二の挑戦■

 小倉昌男は平成6年にヤマト運輸会長を退き、私財24億円を投
じて、ヤマト福祉財団を設立、全国に4000カ所を超える精神・身体
障害者のための無認可小規模事業所の支援に立ち上がった。そのや
り方が、いかにも小倉流だ。

 無認可小規模事業所は、資産も不十分な為、厚生省の援助もごく
わずかである。月5,6万円の給与で、障害者の世話をしながら、木
工品や紙細工を教えている職員も多い。

 小倉昌男は自分の経営ノウハウを、これらの職員に教え、さらに
より高付加価値の事業の提案をしている。たとえば、障害者達が事
業所で焼きたてのパンを作り、販売店に供給する。補助金で国の世
話になるのではなく、障害者が自立できる事を目指しているのであ
る。ある関係者は語る。

    「障害者施設のために金を出してやろうという企業家は多い。 
    しかし、将来のために自立を促進させようと本気で経営のアド
    バイスをしてくれた経営者は小倉さんがはじめてではないか。 
    」[2]

 官の規制や行政に頼らず、常に自立を目指す、そして市場競
争の中で、独自の工夫を通じて、自ら栄え、顧客にも貢献する。 
「自立共栄」を目指す小倉昌男の生き様は、まさに21世紀の国際
派日本人のモデルと言えよう。

[参考]
1.「これがクロネコヤマトだ!」、倉石俊、ダイヤモンド社、
   平成元年
2.日経ビジネス、平成8年10月13日号、p74

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