[トップページ] [平成10年下期一覧][人物探訪][210.755 大東亜戦争:アジア解放[210.761 戦後:占領下の戦い]
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_/_/   Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(46)
_/_/            平成10年7月25日 発行部数:2,640
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_/_/    人物探訪:「責任の人」今村均将軍(下)
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_/_/           ■ 目 次 ■
_/_/       1.ラバウルの戦犯裁判
_/_/       2.戦犯裁判は戦闘だ
_/_/       3.インドネシア政治犯の歓迎
_/_/       4.スカルノの友情
_/_/       5.マッカーサーの感動
_/_/       6.最後の責任
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■1.ラバウルの戦犯裁判■

 ラバウルの戦犯裁判は、ほとんどがインド人、支那人などの労務
者の虐待容疑だった。たとえば、「衛生勤務者として、インド人労
務隊の患者を虐待した」という理由で死刑にされた酒井伍長は、次
のように今村に語っている。

     インド人患者の多くが熱帯潰瘍か、マラリアにかかっていま
    した。血の一滴ともいわれる貴重なマラリアの予防薬キニーネ
    やアテブリンを、にがいとか胃に悪いと言って捨てているもの
    もいました。そういう者を見つけると、私はこらしめのため、
    平手で頬を打ったことがあるのです。言葉がよく通じませんの
    で....。憎しみの気持ちではなく、早くなおしてやりたかった
    のです。

 インド人やシナ人は賃金労働者として雇われてラバウルに来たの
だが、2年以上も日本軍のために働いたので、連合軍から罰せられ
る事を恐れて、マレー半島や南京で俘虜になって、無理にここに連
れてこられたと言い張ったのである。

 訴えを起こした労務者達は告発状を残して帰国してしまう。従っ
て、弁護側は反対尋問をする機会も与えられていなかった。結局、
ほとんどの裁判で原告側の主張を鵜呑みにした判決が下された。

 片山は処刑の前に戦犯収容所長アプソン少佐あてに、「裁判を呪
う気持ちなど、もう持ってはいない。...最後に、一日も早く豪州
と日本との親善関係が旧に復することを祈る」という遺書を残し、
少佐を感動させた。[1,p57]

 今村は、こういう部下を一人でも救うべく、自ら志願して収容所
に飛び込んでいったのである。

■2.戦犯裁判は戦闘だ■

 今村は、外人労務者は日本軍が賃金で雇ったものであり、戦争捕
虜ではないから、万一虐待があったとしても、それは戦争犯罪では
なく、日本の国内法によって裁くべきこと、それでもなお戦争犯罪
として取り上げるなら、最高指揮者である自分を裁くべきだ、と主
張した。

 最初にこの訴えをしたのが、昭和20年12月、繰り返し回答を
督促し、豪軍側が根負けした形で、今村の収容所入りが実現したの
が、翌年4月28日だった。

 最高指揮官としての今村の裁判は最後に回され、それまで、今村
は部下の一人一人の裁判に徹底的に介入した。「戦犯裁判は戦闘で
あり、作戦だ、勝たねばならぬ」と言って、少しでも被告の有利に
なるよう知恵を絞った。

 たとえば、終戦時にまったく別の島にいた中沢という海軍の軍属
が微罪で告訴されたとき、今村は「君は現役の時、陸軍で中国にい
たそうだな、わしも中国にいた。その時、わしの当番兵だったこと
にして、」とでっちあげて、中沢は現地民を虐待するような兵では
ないと説明した。もともと証拠もない事件だったので、今村の証言
が決め手になって、裁判なしの不起訴とすることができた。
[1,p151]

 また今村側近の参謀長だった加藤中将の裁判では、日頃仲の良い
二人が、「俘虜の不法使役」の件で、お互いにそれは自分の責任だ
として譲らず、大喧嘩をした。加藤は「参謀長通達」を出したのだ
から、自分の責任だと言い、今村は「参謀長には命令権はない。司
令部の書記と同じようなものだ」とまで極論して、すべて自分の責
任だと主張した。結局、裁判では今村の強引な主張が通って、加藤
中将は無罪放免となる。

 今村は自分の裁判では、10年の禁固刑の判決を受けたが、これ
について次のような感想を記している。

     事実、私は監督責任者であり、父老の愛児を預かっていた身
    でもある。処刑される若人たちを見守ることは、これこそ義務
    であり、情においても願われたことである。[1,p103]
    
 判決を受けてすぐ、今村は同時に下された部下への判決に対して、
再審の請願をしている。自分に対する判決については、何もふれず
に。

■3.インドネシア政治犯の歓迎■

 豪軍から10年の判決を受けた後、今村は今度はジャワに護送さ
れた。オランダ軍からの裁判を受けるためである。インドネシアの
独立を目指した政治犯ら1500人が収容されているストラスウェ
イク刑務所にただ一人の日本人として拘留された。

 食事を運んできた現地人の世話人がたどたどしい日本語で言った。

     日本時代の最高指揮官がここにはいったことを、みんなとて
    も喜んでいます。それは今夜7時に、歌であなたに伝わるでし
    ょう。

 その夜、7時の点鐘を合図に、地の底から湧き立つような大合唱
が始まった。それは今村自身が懸賞募集した、日本人とインドネシ
ア人が双方の国語で一緒に歌う「八重潮」であった。

 この歌はジャワ島の町から村へと広がり、日本の将兵と現地人が
同席すれば、かならず歌われたという。獄中の今村は感動に目を潤
ませた。[1,p409]

■4.スカルノの友情■

 やがて今村は約700人の日本人戦犯容疑者を収容しているジャ
カルタ市内のチビナン刑務所に移され、裁判にかけられた。

 ある日、百二、三十人いる現地人政治犯の中のインドネシア独立
軍の将校二人が今村の房にやってきて、言った。

     これは(インドネシア)共和国からの指示です。もしあなた
    の死刑が確定したら、共和国政府は、刑場に行くあなたを奪回
    します。その場合は、ためらわず共和国側の自動車に乗り移っ
    て下さい。

 日本統治時代に協力し、今は独立軍を指揮するスカルノは、何と
しても今村を助けたかったのである。しかし今村はその好意に感謝
しつつも、申し出を断った。

 日本の武士道では、そのような方法で生きのびることは不名誉と
されている。まして私を救うため、独立軍とオランダ兵が鉄火(銃
火)を交え、犠牲者が出るようなことは絶対に避けたい、と。
[1,p419]

■5.マッカーサーの感動■

 幸い、オランダによる裁判では、今村の紳士的な態度に共感した
裁判官により、無罪の判決が下った。そこにラバウルに収容されて
いた戦犯230名が、マヌス島に移されたという知らせが入った。 
赤道直下の酷暑炎熱の小島で、重労働と粗食、不衛生な宿舎のため、
病人が続出し、半数は生きて帰れないのでは、という悲惨な状況で
あった。特に今村が去ってからは、豪軍監視兵の虐待、暴行が甚だ
しいという。

 今村は、豪軍裁判による刑期を努めるべく、ただちにマヌス島に
自分を送還するようオランダ軍に申請したが、激しい独立軍との戦
闘に疲弊し、撤退を決めていたオランダ軍は日本人戦犯700人を
すべて巣鴨拘置所に送ることにしており、今村の申し出は聞き入れ
られなかった。

 かくして、今村は、昭和25年1月、7年3ヶ月ぶりで日本に帰
還した。今村は到着早々、巣鴨刑務所長に何度もマヌス島送還を依
頼したが、どうしても応諾してくれない。

 ついには、つてを探して、マッカーサー司令部の高官に直接マヌ
ス行きを申請した。これに対し、マッカーサーは次のように言った
と伝えられている。

     私は今村将軍が旧部下戦犯と共に服役するためマヌス島行き
    を希望していると聞き、日本に来て以来初めて真の武士道に触
    れた思いだった。私はすぐに許可するよう命じた。[1,p452]

■6.最後の責任■

 かくて、昭和25年2月21日、今村は横浜からマヌス島に送ら
れた。齢すでに63歳である。今村がマヌス島につくと、その人格
力で豪兵の日本人に対する取り扱いも好転し、今村の作ったネギを
もらった将校がタバコを返礼として届けたり、トマトを与えた現地
人の子供が椰子の木に登って実を落としてくれたりと、なごやかな
生活を送った。

 昭和28年7月、豪軍はマヌス島の刑務所を閉鎖し、全員を日本
に送還した。オーストラリア政府は、戦犯達が何も言わないように
日本政府に約束させており、今村もそれに従った。同時に帰国した
一人は、帰国の喜びを「赤い戦犯服、乾いた灼熱の太陽、強制労働、
ゴムの鞭、それらはもうない。虐待、うめき、銃殺、それらはもう
ない。」と記している。[1,p470]

 帰国後、今村は軍人恩給だけの質素な生活を続ける傍ら、厖大な
回想録を出版した。その印税はすべて、戦死者や戦犯刑死者の遺族
のために使ったという。[1,p199]

[参考]
1. 責任 ラバウルの将軍今村均、角田房子、新潮文庫、昭和62
   年、新田次郎文学賞受賞

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■JOG(36) インドネシア国立英雄墓地に祀られた日本人たちJOG(45)  「責任の人」今村均将軍(上)

■ おたより: 早苗さんより

非常に感動しました。

このテーマには沿わないかもしれません。
小さいころは戦争というと、空襲で逃げ惑う日本人の姿や
原爆しかなく、日本は被害者、敗者というイメージしかあ
りませんでした。

少し大きくなってから、南京事件や度重なる政治家の失言
の謝罪、撤回を通して、日本人の東南アジアの暴挙だけが
印象に残るようになりました。

インターネットを通して初めて、戦争のスローガンがアジ
アにおける西洋人から植民地開放・民族解放であったと知
りました。 実際のところ、日本軍における圧政も事実で
あったと思いますが、それでも何だか救われた気持ちにな
りました。

現在、海外で生活する身になって、より日本人を意識せざ
るえない状況になり、日本にいる日本人の愛国心の欠如に
寂しさを覚えてしまいます。このホームページが海外にい
る日本人同様、多くの日本人に読まれることを願います。

■伊勢雅臣より

 今村将軍のような人がいたという事を知るだけで、元気が出てきますね。
特に海外で生活するには、そういう元気が大切です。


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