[トップページ] [平成10年下期一覧][地球史探訪][210.75 大東亜戦争][253.073 アメリカ:太平洋戦争]
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_/_/   Japan On the Globe 国際派日本人養成講座(54)
_/_/            平成10年9月19日 発行部数:3,089
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_/_/         地球史探訪:無言の誇り
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_/_/           ■ 目 次 ■
_/_/       1.マニワ夫妻のこと
_/_/       2.開戦直後の日系人逮捕
_/_/       3.10日間で財産をすべて売り払え
_/_/       4.収容所の生活
_/_/       5.祖国アメリカとは
_/_/       6.平等への長い道のり
_/_/       7.無言の誇りを支えたもの
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■1.マニワ夫妻のこと■

 もう16年も前の事である。筆者が、カリフォルニア大学バーク
レー校に留学した時、ホスト・ファミリーとして何かと面倒をみて
くれたのは、マニワさんという日系人の夫妻だった。

 夫のヒトシおじさんは2世で、戦前に日本に帰って大学を出た。 
郷里は広島との事だった。夫人のエイミーおばさんは、3世である。 
二人はお互いに日本語で会話する。ヒトシおじさんの英語は、日本
語訛りが強く、私よりひどい発音だった。エイミーおばさんは、
1ドル20セントを1円20銭などと言っていた。

 マニワ夫妻には3人の子供がいた。3人ともバークレーを卒業し、
すでに自立していた。長女は英文学の修士課程を修了して、ロサン
ゼルスで高校の教師をしていた。次に生まれた長男は建築家、次男
は弁護士となっていた。

 聞いた話では、アメリカでの民族別の所得水準では、日系人はユ
ダヤ人についで、第2位とのこと。ユダヤ人は大富豪がいて平均値
を引き上げているのだが、日本人は皆社会で立派な職業についてい
て、貧乏な人がほとんどいない由である。マニワ家の子供たちをみ
ていると、さもありなん、と思われた。

 またある白人に聞いた話だが、アメリカ社会では日系人は犯罪を
犯さないと信じられており、社会的に尊敬されている、との事であ
った。

 マニワ夫妻は戦時中、日系人の収容所で知り合って、結婚したと
いう。二人は、当時の収容所の事をほとんど話さなかった。しかし、
それは祖国を離れた日本人が異国で味わったもっとも過酷な境遇の
ひとつであった。

■2.開戦直後の日系人逮捕■

 真珠湾攻撃の翌日、12月8日にルーズベルト大統領による対日
宣戦布告がなされると、FBIは数日間のうちに1290名の日系
社会の有力者、リーダーを逮捕した。日本人会、学校関係者、組合
の世話役、漁船の持ち主などである。FBIは開戦を予想して、検
挙リストをすでに用意していたのだ。銀行の預金は封鎖され、移動
の自由も制限された。[1,p42]

 翌1942年2月19日、大統領令第9066号が発令され、すべて
の日系人は収容所へと送られることになった。ダニエル・スティー
ルのベストセラー小説「無言の名誉」から、その時の様子を紹介し
よう。

■3.10日間で財産をすべて売り払え■

 スタンフォード大学の政治学部長だったタケオは、10日間のう
ちに、財産をすべて売り払い、一家揃ってサンブルーノにあるタン
フォラン競馬場跡の「集合センター」に出頭せよ、との命令を受け
た。

 荷物は衣料などの生活用品を各自で持ち運べる分だけに限られた。
金銭、宝石類、カメラ、ラジオなどはいっさい持ってきてはいけな
い、ピアノなどの重量物は、政府が用意した倉庫に預ける事ができ
るが、損害があっても保証はされないという。

 タケオは70917という番号札を渡された。以後、日系市民は
名前を無視され、番号で扱われるようになる。

     タケオの屋敷は千ドルで売れた。ほかの日系人たちの家が百
    ドルかそれ以下に叩かれているのを見れば、これはましな値段
    と言えた。日系市民の不幸を食い物にする血も涙もない人間は
    大勢いた。チャンスとばかりに二束三文の値をつけてくるハイ
    エナのような仲介者もうようよいた。(略)

     一家は持ち運べない家財道具の特売を家のガレージを使って
    催した。思い出のウエディングドレスがたった3ドルで引き取
    られていくのを見たとき、(妻の)レイコは悲しくて涙をこら
    え切れなかった。[2,p267]

 このようにして、12万人の日系人が収容所に入れられた。その
3分の2は、アメリカの市民権を持っていた。ドイツ系やイタリア
系には、このような措置はとられず、日系人だけが隔離されたので
ある。

■4.収容所の生活■

 収容所の生活はどうであったか。実体験者の証言を聞こう。

     1942年、私たち家族、父と母、子ども5人はアリゾナ州のポ
    ストン収容所に入れられましたが、まだ建物は未完成で、屋根
    と壁があるだけでした。

     一つの建物には3家族から5家族が入りますが、ベッドやテ
    ーブルはもちろんのこと、隣との仕切りもありませんでした。 
    とりあえず袋にワラを詰めてベッドを作りました。(略)

     キャンプに入った当初、母が病気になって、熱が下がらず苦
    しみました。まだ病院もなく、何度もキャンプ内の店に氷をと
    りにいきました。(略)

     最初の冬は、暖房や冬の服などなんにもなかったので兵隊用
    の古い毛布や衣類をもらって寒さをしのぎました。収容所はど
    こも山間の僻地に作られていましたから、冬は零下30度にも
    なる寒さで、いつも強い風が吹いていました。逆に夏は焼けつ
    くような暑さになりました。夏は暑いうえに強風が吹いて埃が
    ものすごいのです。開ければ埃、閉めれば猛暑という状態でし
    た。[ジャック・フジモト、1,p87]

     最初はトイレにも扉がないなど、ひどいものでした。もう風
    が強くて、いつも埃がまいあがっていました。蛇が多いところ
    で、トイレに行くのが本当にこわかったです。[ミヨコ・エシ
    タ、1,p104]

■5.祖国アメリカとは■

 日系人を苦しめたのは、物質的生活環境ばかりではない。特に2
世はアメリカで生まれ、市民権を持ったアメリカ人として育ち、ア
メリカに忠誠を誓ってきた。そのアメリカ政府に、日系人という理
由だけで裏切られたのである。タケオの長男ケンはアメリカ政府に
怒りをぶつける。

     どうなっているんだよ、この国は!お父さんは日本国籍だけ
    ど、ぼくはここで生まれて、アメリカの市民権を持っているん
    だ。来年には徴兵されるんだぜ。家族みんなが国に虐待されて
    いる最中に、ぼくは国のために命を捧げているかもしれないん
    だ。

 しかし、ケンはこの予想通り、多くの日系人青年と同様、祖国ア
メリカへの忠誠を証明すべく、家族を収容所に残したまま志願兵と
して出征していく。日系兵士からなる部隊は、ヨーロッパ戦線で勇
猛な戦いぶりを見せ、また多くのユダヤ人をナチスの収容所から救
い出す。このテーマについては、また別の機会に譲ろう。

 ケンはヨーロッパ戦線で戦死する。タケオはまだ50歳代なのに、
失意のうちに衰弱死する。日系人が収容所から解放されたのは、19
44年12月だった。2年半の収容所生活の間に夫も息子もなくした妻
レイコには、さらに悲しい知らせが待っていた。連邦政府の倉庫に
預けていた家財道具はほとんど略奪されていた。

     レイコは預けておいた写真や記念品のことを思って泣いた。 
    ケンやタケオの大切な思い出がなくなってしまったのだ。彼女
    の結婚式の写真も、ケンが生まれてから成長するまでの写真も
    みな一緒だった。レイコは、息子の写真がハワイで撮影された
    軍服姿の一枚だけになってしまったのを知って、泣かずにはい
    られなかった。[3,p209]
    
■6.平等への長い道のり■

 日系人に対する差別政策が解消するまでには、さらに長い年月が
必要だった。

 日系人を「敵国人扱い」した法律が廃止されたのは、1949年、終
戦の4年後である。52年には移民帰化法が成立し、日系1世に市民
権を持つ道が開かれた。56年にはカリフォルニア州の外国人土地法
が廃止され、日系人がようやく正式に土地を所有できるようになっ
た。

 日系人はその後も粘り強く、戦時中の強制収容に関する謝罪と補
償を求める運動を続け、ついに1988年、レーガン大統領によって
「市民の自由」法の署名にこぎつけた。これにより収容者への謝罪
が行われ、2万ドルの補償金が支払われた。

■7.無言の誇りを支えたもの■

 収容所を出たマニワ夫妻も無一物の状態から、再出発したのであ
る。そして戦後も残る人種差別と戦いながら、力を合わせて、子ど
も達を大学に入れ、立派なアメリカ国民に育て上げた。

 あけぼのの大地しっかと踏みしめて遠くわれは呼ぶ祖国よ立てと

 昭和22年に昭和天皇の強い御意思で戦後最初の歌会始が再開さ
れた。これはその入選歌で、ロサンゼルス市の高橋勝平さんの作で
ある。選者の斉藤茂吉は「この歌は茂吉がいのちにかけて選んだもの
である」と語った。[4]

 戦後の日本は奇跡的な復興と高度成長を遂げ、日本企業がアメリ
カに進出してきた。バークレーの湾岸にも、小松製作所が大きなビ
ルを建てた。サンフランシスコから、ベイブリッジを渡ってバーク
レーに入ると、ビルの上に「KOMATSU」と書いた巨大な看板
が一際目立つ。

 このビルができたときほど、嬉しかった事はないとエイミーおば
さんは言っていた。異邦の地で、日系人の「無言の誇り」を支えた
のは、このような祖国日本への思いであったのだろう。

[参考]
1. 戦争と日系アメリカ人、山本耕二、草の根出版会、H07
2. 無言の名誉・上、ダニエル・スティール、アカデミー出版、H10
3. 同・下、H10
4. 御歌集「瀬音」と美智子皇后の「癒し」、辺見じゅん、
  文芸春秋、H9.7

■おたより: 森田さん(カナダ在住)より

 今現在私はカナダにすんでおり、先日「THE THIN RED LINE」と
言う映画を見にいきました。第2次世界大戦の内容で、アメリカ対
日本の戦争を描写したものでした。その映画の日本兵は恐ろしく醜
く描写されており、まさにイエローモンキーでありました。表情、
演技のさせ方、あれほどまでに対戦国を醜く描いている映画を私は
見たことがありません。

 その映画に出ている日本人は恥を知って欲しいし、その映画を見
ても不愉快にならない日本人が居たとしたらそのことの方が私を不
愉快にさせます。このような映画、日本で公開されるのでしょうか。

 なぜ自分の国で生まれたこと、日本人であることを誇れないので
しょうか。これは逆に日本のために命を懸け、守るために戦った、
私たちの祖先に対して侮辱していることになると私は思うのです。
私の父親も戦争にいきましたが、自分の肉親を否定されているよう
な気分にさせられます。

 相手のことを批判することはとても簡単ですが、これほどまでに
愛国心を持たない日本人を見ると情けなく、とても不愉快に思うの
です。今の私には何も出来ないが、自分達の国に対し誇りを持って
いきることは出来ます。

 読ませて頂いた日系人の方のように日本人であることを誇りに思
える人間になっていきたいと思うのです。

■編集部より: 世界でただ一人、アメリカ本土を爆撃した
日本軍パイロットが、その町に招待され、大歓迎を受けました。
誇りある人は、尊敬されます。

■ おたより: 田中孝明さんより

第二次世界大戦中にアメリカで日系人の方たちが、
このような不当な差別を受けていたことは学校では教えて
もらえるものではなく、とても勉強になりました。
みんなでこういった悲しい歴史を語り継いで、2度と繰り返されることが無いようにしたい。


■ おたより: Takayuki Matsumotoさんより

 私は現在、オーストラリアに住んでいて、日本または日本人につ
いて考えさせれる機会がよくあります。

 わたしもそうでしたが、普段なに不自由なく暮らしていける日本
では「民族の誇り」とか「人間としての尊厳」なんて言葉は、遠い
絵空事のような気がします。が、一歩外に出て海外で暮らしてみる
と、その言葉の持つ重要性を身にしみて感じます。何か自分のアイ
デンティティーを目の前に突きつけられている、といったようなも
のです。自分の国に対して誇りがなければ、どうやって他の国の人
たちを尊敬しながら仲良くやっていけるのでしょうか。

 たまに同じように他の国から来ている人と言い争いになったりす
るのですが、何を言われても自分の祖国に対してゆるぎない自信と
誇りがあれば、争いを理知的にコントロールできると思うのですが、
どうでしょう?

 連載のなかでも述べられていましたが、虐待されても誇りを失わ
ず最後には相手国民からも尊敬を受けるようになった日系のアメリ
カ人には頭が下がる思いがしますし、ぜひ見習わなければならな
い点だと信じます。

 これからも、忘れられた歴史に光を当てることによって、私たち
がこれから何をすべきかということに対するよきヒントを与えて下
さい。


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