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        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (63)
       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座
 _/   _/   _/   _/  _/    _/    平成10年11月21日 3,890部発行
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_/_/       地球史探訪:日泰友好小史(上)
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_/_/           ■ 目 次 ■
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_/_/         1.英語の通じない国
_/_/         2.王室と独立維持
_/_/         3.王室への深い尊崇の念
_/_/         4.西洋植民地主義との闘い
_/_/         5.国民の一致団結
_/_/         6.近代化への道
_/_/         7.日本との同盟
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■1.英語の通じない国■

 タイの最初の印象は、「英語の通じない国」であった。空港につ
いて、会社の差し向けてくれた車に乗ったのだが、まずその運転手
がいっさい英語を話さないのに面食らった。同じ東南アジアでもシ
ンガポールやマレーシアとは大違いだ。あとで現地の日本人駐在員
と一緒に車に乗ると、彼らの方がかなり流暢にタイ語を話すのであ
る。

 ホテルでは、朝エレベータで現地人の客から「サワディーカ」と
にこやかにタイ語で挨拶をされた。これには逆に好感を抱いた。

 考えてみれば、東南アジアで、日本人と現地人が話すのに、なぜ
わざわざ地球の裏側の英語を使わねばならないのか、そちらの方が
よっぽどおかしい。外国人がタイに来たのだから、タイ語で挨拶す
るのが、本来の姿だろう。当方も外国に行くときは、かならず「こ
んにちわ」と「ありがとう」は現地語を覚えていくので、「サワデ
ィーカ」と挨拶を返す。朝から清々しい気分となる。

■2.王室と独立維持■

 タイで英語が通じないのは、この国が植民地になったことがない
という単純な理由からである。この点、英語下手な日本人と良く似
ている。英明な君主のもとで、植民地化の危機を乗り越え、自力で
近代化を図ったという点もそっくりだ。

     東南アジア諸国の王たちが、過度の外征、下手な外交、ぜい
    たく、無為などによって、次々と独立を失っていったなかで、
    タイのバンコク朝だけが独立を保ちえた事実は注目にあたいす
    る。もちろん運のよさもあるが、歴代の王たちの賢明な統治を
    まず原因の一つにあげなければなるまい。[1]

 現在、世界に君主制の国家は28カ国ある。このうち、人口1億
2千万の我が国は、世界最大・最古の君主国であるが、それに次ぐ
のが、英国(5700万人)、タイ(5500万人)である。日本
とタイとはアジアの大国の中で、植民地とならず、君主制を維持し
得た、たった二つの国なのである。[2]

■3.王室への深い尊崇の念■

 独立を維持しえたのは、王室の英邁な指導者のお陰だという事を
知っている国民の王室への尊崇の念は深い。

 空港に出迎えに来てくれた会社の車には、バックミラーに、国王
の写真入りのペンダントがぶる下がっていた。会社の正面玄関受付
には、天井近くの高いところに、国王の「ご真影」が飾られている。 
オフィスの女性たちの机の上には、王室の方々の写真入りデスクカ
レンダーが置かれていた。

 バンコクの歴史博物館では、現在の国王ラーマ9世がいかに民生
向上につくされているか、写真入りで紹介している。国王は、精力
的に国土を廻られて、農業振興などにつくされている。

 国民が王室を敬愛し、そのもとでよくまとまっている姿というの
は、和気藹々(あいあい)とした家庭を見るようで、何とも心の暖
まるものである。

■4.西洋植民地主義との闘い■

 西洋諸国の侵略との闘いは、1851年に即位したラーマ4世モンク
ット王に始まる。王は27年間、僧として生活し、自ら一つの宗派
を開かれたほどの碩学だ。欧米の宣教師達と交際し、英語、ラテン
語、数学、天文学などを修めた。英語の知識から、西洋文明を取り
入れて近代化しなければ独立は危ういと、大勢の外国人を雇った。

 ミュージカル「王様と私」は、この時のイギリス人家庭教師の手
記を脚色したものだ。映画ではユル・ブリンナーがタイ国王を演じ
ていたが、西洋諸国の侵略を前に、「近代化に賭ける王の悲願はこ
の中に描かれたような面白半分のものではなかった」という。[1]

 ラーマ4世は1868年にマラリアで急死する。ちょうど明治元年で
ある。16歳の王子チュラロンコーン王子はただちに即位し、ラー
マ5世と称する。「王の生没年および在位期間は日本の明治天皇と
ほぼ重なり、国の近代化につくした役割においてもよく似ている」。 
タイの明治天皇と言われる。[1]

■5.国民の一致団結■

 幕末から明治にかけて、東南アジアは次々と欧米の植民地となっ
ていく。

    1819 シンガポール(イギリス)
    1826〜86 ビルマ(イギリス)
    1862〜84 ベトナム(フランス)
    1863 カンボジア(フランス)
    1898 フィリッピン(アメリカ)
    1909 マレー(イギリス)

 フィリッピンやマレーが植民地になったのは、明治に入ってから
で、20世紀初頭の第一次大戦前まで欧米帝国主義は猛威をふるっ
ていた事が分る。

 タイは、東のベトナムから攻め寄るフランス、西のビルマ、およ
び南のマレー半島から忍び寄るイギリスのちょうど中間に位置した。 
英仏両国は、直接対立を避けるために、タイを緩衝国家(バッファ
ー・ステイト)として、手を出さないでおこうという取り決めを交
わした。これはタイにとって非常な幸運であった。この点も、日本
が極東に位置して、侵略勢力が来るのが遅かったという運の良さに
似ている。

 しかし、フランスは東から、イギリスは南から領土の蚕食を続け
る。

     タイ国の地形は象の横顔によく似ているが、現在インド象く
    らいしかない耳はもとアフリカ象の耳ほどに大きく、また鼻も
    もう少し長かったのである。[1]

 こうして領土を失いながらも、独立を維持できたのは、ラーマ5
世のもと、国民が一致して団結してきたからだろう。外国勢力を引
き入れて、自ら権力を握ろうという野心家がいたとしたら、一挙に
独立を失っていたであろう。この点も、幕府と薩長が対立しながら
も、外国勢力を引き入れることのなかった日本とよく似ている。

■6.近代化への道■

 西洋勢力の侵略を防ぎながら、タイは国内の近代化を急ピッチで
進めなければならなかったのも、明治日本と同じである。1883年の
郵便事業の開始、94年の市電の導入(これは多くのヨーロッパ都市
よりも早い)、1914年の水道設備建設、等々、日本と同様の文明開
化が試みられた。[3,p81]

 アジアで残されたただ二つの独立国として、我が国とタイは、早
くから交流を始める。明治15年に東伏見宮殿下が、バンコックを
訪問され、国交関係樹立について会談された時がその始まりである。

 タイが欧米各国から招いた20数名の法律顧問の首席だった政尾
虎吉博士は大正2年までの16年間、タイにとどまり、新法制と法
典編纂の事業に取り組んだ。博士が大正10年に亡くなられた時は、
タイ政府は国葬の礼を持って遇した。[4,p228]

 また、近代女子教育のために設立されたラーチニー(皇后)女学
校では、国王の意向で、イギリス人教師を雇う従来の習慣が変えら
れ、日本人女性、安井てつが事実上の校長として招かれた。1904年
から、3年間、安井は当時の貴族名門の子女約200人ほどを教え
た。それから再度のイギリス留学の後、帰国後は東京女子大学学長、
東洋永和(現・東洋英和)の校長を務め、日本とタイ両国の女子教
育に大きな足跡を残した。[5,p43]

 現在の日本では、発展途上国の法律顧問首席となったり、女子大
の学長になったりする人はまずいない。開国したばかりの明治期の
日本は、国際貢献が叫ばれている現代日本よりも、はるかに、スケ
ールの大きな人的貢献をしていたのである。

■7.日本との同盟■

 タイとの友好関係は、昭和に入っても変わらない。欧米植民地主
義に対してともに戦ってきたという立場からは、日本の行動に対し
て、欧米諸国とは異なった見方をした。

 満洲建国で、真っ先に満洲国を承認したのは、タイであった。そ
の後も、タイ政府は国際連盟の日本非難決議に唯一棄権をして世界
を驚かせた。

 シナ事変が始まった時に、38歳で総理の座についたピブン首相
は、日本がABCD包囲網で軍事物資の不足に悩んでいる時に、タ
イで生産される生ゴムと綿の全量を日本に供給してくれた。
[1,p227}

 大東亜戦争勃発後、ピブン首相は日本との同盟条約を結ぶと同時
に、蒋介石に対して、「同じアジア人として日本と和を結び、米・
英の帝国主義的植民地政策を駆逐すべきだ」という勧告電報を打っ
ている。さらにタイ国内のインド人、ビルマ人にそれぞれの祖国の
独立運動を奨励している。ボース率いる自由インド独立連盟も、オ
ン・サン率いるビルマ独立軍も、バンコックで編成される。

 昭和17年1月8日、米英はタイが日本と同盟したというので、
タイの地方都市の空襲を始めた。そこでピブン政権は、米英両国に
宣戦布告する。

 東条首相が開いた大東亜会議には、王族であるワンワイタヤコン
殿下が出席され、その返礼もあって、昭和18年7月に東条首相は
バンコックを訪れ、イギリスやフランスにもぎ取られた旧領地をタ
イに戻した。タイ国民は躍り上がって喜んだという。[1,p238]
(続く)

[参考]
1. 「東南アジアの歴史」、永積昭東、講談社現代新書
2. 「飛躍する日本・持続する日本」、高森明勅、まほろば、H4.10
3. 「バンコクの歩み」、マイケル・スミシーズ、学芸出版社、H5.5
4. 「アジアに生きる大東亜戦争」、ASEANセンター編、展転社、
    S63.10
5. 「バンコク歴史散歩」、友杉孝、河出書房新社、H6.11

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