[トップページ] [平成11年下期一覧][地球史探訪][237 イタリア][311 地球史における共同体]


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        _/  _/    _/  _/           Japan On the Globe (104)
       _/  _/    _/  _/  _/_/      国際派日本人養成講座
 _/   _/   _/   _/  _/    _/    平成11年9月11日12,729部発行
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_/_/      地球史探訪: ヴェネツィア〜海の共同体
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_/_/           ■ 目 次 ■
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_/_/         1.海の上の街づくり
_/_/         2.ヴェニスの商人
_/_/         3.他の都市国家と比較して
_/_/         4.社会を組織する能力
_/_/         5.貴族の義務
_/_/         6.国民の同胞感
_/_/         7.自由の尊重
_/_/         8.民族全体の記念碑
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■1.海の上の街づくり■

   ヴェネツィアと聞いて、我々がすぐ思い浮かべるのは、ゴンド
  ラとシェークスピアの「ヴェニスの商人」というところであろう
  か。偶然にも、この二つはヴェネツィアの栄光の歴史を見事に象
  徴している。

   西暦452年、ローマ帝国末期。イタリアの北東、ベネト地方に
  住む人々は、押し寄せるフン族から逃れるために、ポー川とピア
  ベ川がアドリア海に注ぐ河口の、葦が一面に茂っているだけの潟
  に移り住んだ。彼らの新天地には、魚のほかには、何一つなく、
  住居を作る木材や石材すら持っていかねばならなかった。

   沼地の浅い部分に2メートルから5メートルほどの杭を大量に打
  ち込み、その上に石材を積み重ねて地盤を作る。さらにその上に
  住居や広場や道路をつくる。沼地の深い部分はさらに掘り下げて、
  河口の水を流し、船が行き交いできるようにする。ゴンドラが通
  る運河とは、陸地を掘って河にしたのではなく、逆に海を埋め立
  てて残った部分なのである。

   本土側から列車で長い鉄橋を渡っていくと、海の上に直接浮か
  ぶように、多くの家々や教会が並ぶヴェネツィアの町並みが見え
  る。千五百年以上もの昔から、何世紀にもわたって、人々が力を
  合わせて、海の上にこれだけの街並みを築いてきた。ヴェネツィ
  アのゴンドラとは、このような偉大な努力の象徴なのである。

■2.ヴェニスの商人■

   もうひとつの「ヴェニスの商人」は、人口わずか十万人程度のヴ
  ェネツィアが地中海貿易の三分の二から、四分の三を独占してい
  たことを象徴する。10世紀頃のヴェネツィアの主要な輸出品は、
  木材と東欧からの奴隷であった。それらをエジプトのアレクサン
  ドリアでイスラム商人に売り、金銀で支払いを受ける。その金銀
  を持ってビザンチン帝国の首都コンスタンチノープルで香辛料や
  布地、金銀の細工品、宝石類などの商品を買い込み、ヴェネツィ
  アに戻る。
  
   途中の寄港地、アドリア海沿岸、ペロポネソス半島、クレタ島、
  キプロス島などには、植民都市を作り、商船隊の保護を行った。
  とくにアドリア海では、スラブやサラセンの海賊を取り締まる警
  察の役割を果たし、その代償としてビザンチン帝国内での自由な
  商業活動を認められた。帝国の首都コンスタンチノープルには専
  用の居住区を設け、約一万人ものヴェネツィア人がいたといわれ
  ている。

   しかし諸民族の入り混じる東地中海で交易を維持するためには、
  他国との絶えざる争いを続けなければならなかった。1204年、第
  4次十字軍の中核として、コンスタンチノープルを征服し、東地
  中海の覇者となると、1258年から約120年間、ライバルの都市国
  家ジェノバとの四度にわたる戦いを続け、さらに1470年からは、
  実に250年間にわたって、宿敵トルコと7度もの死闘を戦い抜い
  た。
  
   当時のトルコは人口1,600万の大国である。北イタリアに
  広がっていた属領を含めてもヴェネツィアは145万、実に10倍
  以上の大敵であった。

   このように激しく戦い続けながら、697年の初代元首就任から、
  1797年ナポレオンにより征服されるまで、実に1,100年間、ヴェ
  ネツィアは独立を維持したのである。

■3.他の都市国家と比較して■

   ヴェネツィアの長寿ぶりは、他の都市国家と比較するとひとき
  わ顕著である。ライバル・ジェノバは1,380年のヴェネツィアと
  の戦いを最後に、独立した海洋都市国家としての勢いを失い、短
  い期間を除いて、フランス王やミラノ公、スペイン王の支配下に
  入った。
  
   コロンブスは、ジェノバ人らしい天才的な船乗りであったが、
  彼がスペイン王の援助のもとで、1492年にアメリカ大陸を発見し
  たときには、すでに彼の祖国はフランス王の支配下にあったので
  ある。
  
   もうひとつ、ルネッサンスを代表する都市国家、フィレンツェ
  共和国は、レオナルド・ダ・ビンチ、ミケランジェロ、ラファエ
  ロなどの偉大な芸術家を生み出したが、内紛と外国勢力の干渉に
  より、1530年に滅亡した。

   ジェノバが栄えたのは、11世紀中ごろから、14世紀末まで
  の3百数十年間。フィレンツェは、11世紀後半から16世紀初
  頭の4百年強である。ヴェネツィアは1,100年間と断然たる違い
  を示している。

■4.社会を組織する能力■

   ヴェネツィア史の権威ジョン・ホプキンス大学のレイン教授は
  語る。
  
     長期にわたったヴェネツィアとジェノバの対立の末のヴェネ
    ツィアの勝利は、海軍の力とか海戦の技術とかによるものでは
    ない。ヴェネツィアは、1270年以後、この面での優位をはや持
    ち合わせていなかった。

     勝利を決した因は、別の方面での両国家の能力の差にある。
    つまり、社会を組織する能力である。この能力では、ヴェネツ
    ィア人とジェノバ人の間には、非常な差が存在した。[1,p337]
  
   この結論は、ジェノバとも戦いだけではなく、ヴェネツィアが
  なぜこれだけの長期間繁栄を続けたかについてのヒントも与えて
  いる。
  
   フィレンツェやジェノバは内部での権力闘争が絶えず、そのた
  めに外に向かうエネルギーが相殺されたのだが、ヴェネツィアは
  その1,000年以上の歴史で反政府陰謀が起きたのはたった二回し
  かなかった。それ以外は常に国家が団結して外敵に当たった。レ
  イン教授の言う「社会を組織する能力」とは、この事実からも、
  明らかに窺われる。

■5.貴族の義務■

   ヴェネツィアの政治組織は、君主制と貴族制、そして共和制の
  それぞれの良さを巧みに組み合わせた独特のものであった。国家
  の最高意思決定機関は1,000人から1,500人の貴族からなる共和国
  国会である。この共和国国会から、終身の元首が選ばれる。その
  ほかに外政を担当する元老院、財政を担当する40人委員会、国家
  の非常事態や重大裁判を担当する10人委員会などが、複雑なチェ
  ックアンドバランスを構成していた。

   貴族とはいっても、その特権は国政に参加できるという点だけ
  で、課税においても、法の適用においても、一般市民との差はな
  かった。それどころか、公職についても無給であり、なおかつ、
  十分な理由なしに議会などを欠席すると、高額の罰金を取られた。
  政治を担当する権利を持つ者は、それに応じた義務を持つべきと
  考えていたのである。
  
   貴族の中には、国家のためには、自らの地位や名誉も省みない
  人物にも事欠かなかった。ラニエリ・ダンドロは、第4次十字軍
  の時に元首として、ヴェネツィアの大発展をもたらした英雄、エ
  ンリコ・ダンドロの息子である。彼を次期元首に推す動きが強か
  った。しかし、ラニエリは、一家から2代続けて元首を出しては、
  国内の和を破る恐れがあるとして、他の人物を推し、自分はクレ
  タ島制圧の艦隊司令官として出陣して、その地で戦死している。
  
■6.国民の同胞感■

   ひとたび戦争になると、貴族や金持ち階級の資産に応じて、特
  別課税や国債の強制割り当てで戦費を調達した。それでも足りな
  いと寄付を募る。たとえば、一族郎党を率いて、戦いの終わるま
  で軍務につき、その費用はすべて自弁とする、などと申し出る金
  持ちがでる。一般市民も、戦争終了まで無給で国家に奉仕すると
  申し出たり、女たちは金銀の装飾品を供出したりした。
  
   ジェノバに港を封鎖されて、兵糧攻めにあった時には、元首は、
  食料不足を訴えた人々に向かってこう言った。
  
     貴族の家に行きなさい。彼らは一つしかないパンでも二つに
    割って与えるであろう。
  
   戦争で犠牲になった国民には手厚い保護がなされた。命を落と
  した兵士らの遺族には、年金が支払われる。また戦功をあげて戦
  死した船長に報いるために、その残された娘たちに嫁入りの際の
  持参金が国から支出された例もある。捕虜にされてトルコ人に奴
  隷として売られた者は、国費でその身を買い戻した。これらの費
  用は、戦費と同様、有産階級への課税でまかなわれたのである。
  
   ヴェネツィアがトルコのような人口10倍もの大国に250年
  間も戦い抜けたのも、このように貴族・富裕階級が率先してその
  負担に耐え、さらに国家のために命を捧げた兵士の遺族には、手
  厚い保護を加えることで、国民が内的な平等感と同胞感を持ち、
  一致団結して、外敵にあたることができたからである。
  
   こうして一致団結して、自らの意思で祖国のために立ち上がっ
  たヴェネツィアの国民は、王の命令で無理やり徴集され、使い捨
  てにされるトルコ兵とは、戦闘意欲において大きな差があったろ
  う。
  
■7.自由の尊重■

   国家として良くまとまりながらも、ヴェネツィア人は、自由の
  尊さをわきまえていた。航路の防衛、国有船の運航などは、国家
  として取り組んだが、商品の売り買いは個々の商人に任せた。

   国有船には、誰でも輸送料を払えば、商品を積み込める。特に
  船乗りには、自分の商品を積み込む権利を認めていた。この制度
  により、貧しい家の出でも、自分の才覚によって大きく飛躍する
  道が開かれていた。そして富を蓄えて、戦時に多額の寄付をすれ
  ば、貴族や国会議員にもなれたのである。と言っても、上述の如
  く、報酬は名誉だけであったが。

   カトリック教国ではあったが、法王庁の支配を拒否し、中世ヨ
  ーロッパを戦乱に巻き込んだ法王派と皇帝派の争いや、狂信的な
  異端裁判・魔女狩り、カトリックとプロテスタントとの抗争から
  逃れていた。
  
   ヴェネツィアでは、イスラム商人、ユダヤ商人、プロテスタン
  トのドイツ人学生、ギリシャ正教の船乗りなど、多様な宗派が平
  和裏に共存し、交易で栄えていた。
  
   さらに出版の自由も保証され、ヴェネツィアの出版業は、当時
  のヨーロッパの中心であった。

■8.民族全体の記念碑■

   ヴェネツィア共和国が独立を失ったのは、1797年、ナポレオン
  率いるフランス革命軍の征服によってであった。
  
   この頃、すでに東地中海は貿易圏としての意味を失い、ヴェネ
  ツィアは、イタリア本土の属領を基盤とした農業国となっていた。
  ヨーロッパの片隅で、非武装、非同盟政策のもとで、平和に暮ら
  していたヴェネツィアには、戦うすべもなく、ナポレオンに降伏
  するしかなかった。

   フランス軍の命令により、「自由、平等、同胞愛」(fraterni
  tyは、「博愛」と訳されるが、「友愛」、「同胞愛」の方が原義
  に近い。)の立て札が、サン・マルコ広場の中央に立てられた。
  しかし国家を失ったヴェネツィア人には、もはや「自由」も、
  「平等」もなかった。
  
   その後、オーストリアとフランスの間の条約により、ヴェネツ
  ィアはオーストリア領とされ、1805年には皇帝となったナポレオ
  ンが再び支配化のイタリア王国に編入するなど、自分の意思に関
  わりなく、何度もフランスとオーストリアの間で、とったり、と
  られたり、が続く。そして1866年、ようやく統一イタリアに編入
  された。

   独立を失う10年前にヴェネツィアを訪れていたゲーテは、お
  そらく、壮麗なサン・マルコ広場や、ヴェネツィア派巨匠による
  壁画・天井画と歴代元首の肖像画に囲まれた壮大な国会会議場を
  見てのことであろう、次のような言葉を遺している。

     わたしを取り囲んでいるものすべては、高貴さに満ちている。
    これらは、ひとつにまとまった人々の努力によって生まれた、
    偉大で尊敬を受けるに値する作品である。この見事な記念碑は、
    ある一人の君主のためのものではない。この民族全体の記念碑
    なのである。[1,p22]

   ヴェネツィアの達成した「自由、平等、同胞愛」の水準は、当
  時のヨーロッパでも群を抜いており、このスローガンをイデオロ
  ギーとして振りかざして、熱狂のあまり200万人とも言われる
  犠牲者を出したフランス革命の遠く及ぶ所ではない。
  
   ヴェネツィアの栄光の歴史をたどれば、その「自由」と「平
  等」とは、「同胞愛」で結ばれた民族の叡智と努力と献身により、
  賢明に運営された独立国家のもとで、長い歴史をかけて着実に実
  現されていったものである事がよく分かるのである。
  
■ 参考 ■ (以下は、中公文庫版もあり)
1. 「海の都の物語」、塩野七生、中央公論社、S55.10
2. 「続・海の都の物語」、塩野七生、中央公論社、S56.11

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