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     _/    _/_/      _/_/_/  地球史探訪:日本・ベルギー交流史
        _/  _/    _/  _/         〜埋もれた国際交流史を掘り起こす〜
       _/  _/    _/  _/  _/_/                           16,244部 H11.11.13
 _/   _/   _/   _/  _/    _/  Japan On the Globe(113)  国際派日本人養成講座
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   台湾大地震の際には、改めて、日本と台湾の友好のきずなが確
  認されましたが、やはり非常の時の助け合いこそ、真の友情を発
  揮する機会なのでしょう。同様の交流が日本とベルギーの間にも、
  ありました。
  
   福岡県の高校教師・占部先生から、本誌102号で日本・トルコ
  の交流を描いた「エルトゥールル号事件のこと」に続く、第2弾
  です。

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   わが国の近代外交史に関する教科書記述の大半は、いわゆる
  「脱亜入欧」の方針のもと欧米列強と同様の帝国主義路線を邁進
  し、ついに第二次世界大戦によってその野望は破綻したと見る図
  式が基調をなしていると見てよかろう。
  
   そうした物差しを当て嵌めて近代史を見てしまうから、わが国
  が近代の当初に、列強とはひと味違う国々に国作りの手本を求め
  たり、また親密な交流の歴史を刻んでいた史実などは切り捨てら
  れて顧みられないのである。
  
   わが国はけっして大国志向だけの路線を突っ走ってきたわけで
  はない。近代化のための様々な選択肢を模索しながら二十世紀を
  生き抜いてきたのである。以下に紹介する史実は教科書が教えな
  い交流史であり、また国際化の現代において新鮮な視座を提供し
  てくれる父祖の歴史でもある。
  
■1.有島生馬が描いた一放の絵■

   東京墨田区にある東京都復興記念館には、有島生馬が描いた一
  枚の絵が掲げられている。どす黒い煙が上がる暗い色調の中で傷
  ついた人々がうごめき、地面には多くの死体が横たわり、キャン
  バスの右脇には一台の車が停車。その側に双眼鏡を手にした山本
  権兵衛首相が描かれている。
  
   この絵は言うまでもなく関東大震災を描いたものだが、山本首
  相の傍らに白い夏服を着た外国紳士と赤い服の小さな女の子が立
  っている。いったいこの二人は何者であろうか。有島生馬は誰を
  描いたのだろう。じつはこの疑問を解明していくとき、近代日本
  の知られざる横顔が見えてくる。

   周知の通り、大正12年9月1日、関東一帯を襲ったマグニチ
  ュード7.9の巨大な地震は未曾有の被害をもたらした。とくに
  東京・横浜の被害は目を覆うばかりで、全壊したり焼失した家屋
  は約50万戸、死者・行方不明者は10万人を超え、その他の被
  災者は約240万人以上にものぼったという。この大震災の二ュ
  ースは世界各国に報道され、諸外国から援助の手が差し伸べられ
  ることになるが、群を抜く支援活動を見せたのがべルギーだった。
  
   9月3日に報せを受けたべルギー本国では、5日には「日本人
  救済べルギー国内委員会」が結成されて活動を開始。上智大学教
  授の磯見辰典氏によれば、「音楽会、講演会、バザー、さらに
  『日本の日』が各地で催された。・・・新聞はもとより、カトリ
  ック教会もこのキャンぺーンに積極的に参加した。この活動の結
  果、約264万2千フランを集めて日本に贈ったが、これはアメ
  リカ、イギリスに次ぐ多額の援助金となった」(「文芸春秋1997
  年4月)という。
  
   このときべルギー国内で配布された「元兵士へ」(1923年)と
  題する日本への支援を訴えた文書を見ると、9年前の第一次世界
  大戦の際、ドイツ軍の侵略と戦うべルギー軍兵士に対して数々の
  援助を尽くしてくれた日本人への賛辞が述べられ、べルギーの元
  兵士はこのときの恩義を今こそ日本に返そうではないかという趣
  旨が書かれているのである。
  
   これがべルギーが関東大震災に見舞われた日本に惜しみなく最
  大級の援助を施した歴史的背景にほかならない。ではわが国は第
  一次世界大戦中のべルギーにどのような支援をしていたのだろう
  か。
  
■2.苦難のべルギーを支援した大正日本■

   周知のように第一次世界大戦に際してロシアおよびフランスと
  戦うことになったドイツは、フランスを一気に叩くためにべルギ
  ー領内を通過して攻め入ろうとした。当然、永世中立を標榜する
  べルギーはドイツ軍の無法に対して立ち上がったが、圧倒的優位
  を誇るドイツ軍の前に国内は蹂躙されていった。それでも、当時
  の国王アルべール一世は、フランス国境のフェルヌに近い寒村に
  踏み止まって抵抗を続けた。
  
   こうした連日の報道に接した日本人は、勇敢に戦い続けるべル
  ギー国民を激励するために支援活動に立ち上がる。朝日新聞社長
  村山龍平は「中立を蹂躙せられ国歩艱難を極めつも親しく陣中に
  在はして将卒と共に惨苦を嘗め給へる白耳義皇帝アルバート陛下
  の勇武を欣仰」(大正3年11月7日付大阪朝日新聞)して、愛
  蔵の日本刀一振りを口ンドン駐在の特派員杉村楚人冠を通じて献
  上している。
  
   かくして日本国内の新聞各紙をはじめ雑誌その他の刊行物を通
  じて、苦衷に立つべルギーへの支援活動が日本国内で熱烈に展開
  されていく。わが国の近代史に際立つ光彩を放っている史実であ
  る。
  
   前述したごとくべルギーが関東大震災に見舞われた日本にあら
  ん限りの援助を尽くした背景には、あらまし以上のような史実が
  あったからなのである。
  
   そのことを有島生馬は熟知していたに違いない。だからこそ、
  当時両国の間に立って奔走した日本駐在べルギー大使バッソンピ
  エール男爵とその姪を、日本支援の象徴としてキャンバスに描い
  たのである。
  
■3.虐殺事件の嘘を暴いたべルギー公使■

   そもそもべルギーと日本との本格的な交流は、1866年の日本国
  白耳義国修好通商及び航海条約の調印に始まるが、とりわけ明治
  26年から43年のあいだ日本公使を務めたアルべール・ダネタ
  ンが、敢然として明治日本の名誉を守った史実も特筆にあたいす
  るものである。
  
   例えば日清戦争での日本軍による旅順港占領の際に、無事の住
  民に対する虐殺が行われたとする記事が諸外国の新聞に報道され
  たことがある。ダネタンは事の真偽を確かめるべく調査に乗り出
  し、結局米国記者によって捏造された「虐殺事件」がまぼろしだ
  ったことを突き止め、べルギー本国政府に対して注意を促す次の
  ような報告書を提出している。
  
    「旅順港において日本軍によって行われたと伝えられる残虐行
    為は、新聞報道者、特に二ューヨーク・ワールド紙の記者によ
    って多分に誇張されたものであった。私はそこに居合わせたフ
    ランス武官ラブリ子爵に会ったが、彼は私にこう断言した。殺
    された者は軍服を脱いだ兵士たちであり、婦女子が殺されたと
    いうのは真実ではないと。旅順港占領の数日前にほとんどの住
    民は避難しており、町には兵士と工廠の職工たちだけであっ
    た」(磯見辰典・黒沢文責・桜井良樹著「日本・べルギー関係
    史』)

   こうした史実はほんの一例にすぎないが、いずれにせよ、日本
  に対する偏向や捏造の記事を次々に修正し、公平な情報を送信し
  て列国の誤った対日観を是正したべルギー公使アルべ−ル・ダネ
  タンを知己とした明治日本の幸福を思わざるを得ない。
  
   ダネタンは特命全権公使のまま日本の地で死去、雑司ケ谷墓地
  にこの日本の名誉を守った恩人の墓が立っている。
  
■リンク■
★ JOG(102) エルトゥールル号事件のこと
 難破船救助から始まった日本とトルコの友好の歴史。
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/★★読者の声★★_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
                        岡田さんより

   先日のNo.113では、私の大伯父有島生馬の震災の画にふれられ、
  いつにも増して興味深く拝見いたしました。

   描かれた白人男性がバッソン・ピエールであることは承知をし
  ておりましたが、ベルギーでの「日本人救済べルギー国内委員
  会」など援助の運動や、第一次世界大戦の背景など彼が描かれた
  理由はよく存じておりませんでした。

   さて、些末なことですがお間違いかと思う点を一点、申し上げ
  ます。

  >    そのことを有島生馬は熟知していたに違いない。だからこ
  >   そ、当時両国の間に立って奔走した日本駐在べルギー大使バ
  >   ッソンピエール男爵とその姪を、日本支援の象徴としてキャ
  >   ンバスに描いたのである。

   バッソンピエール男爵に手を引かれている真っ赤な服を着た少
  女は、バッソンピエールの姪ではなく、生馬自身の姪、皎子(き
  ょうこ)の筈です。肌の色や髪型など明らかに日本人の子供であ
  ることは絵を見ますとすぐにわかります。

   皎子は有島兄弟の末弟行郎の長女で私の母の姉にあたります。
  結婚して大島姓となりましたが、若くして病死し現在はこの世に
  おりません。生きていれば七十を少し越えた歳だと思います。

   生馬伯父の画には、しばしば一族の子供が登場いたしますが、
  この絵を描いたとき、どんなつもりでわざわざバッソンピエール
  男爵に手を引かせたのか、考えてみますとたいへん興味深いこと
  です。

   ちなみにその二人の左、画の中央に馬に乗っているのは生馬自
  身です。馬は「生馬」の象徴でしょうから、必ずしも馬にまたが
  って町の様子を見て回ったということではないと思いますが、画
  の中央に主観視点を置いた構図的にも面白い画で私の気に入って
  いる作です。

   その作品の背景に、日本とベルギーの深い歴史があったことを
  お教えいただき、たいへん勉強になりました。ありがとうござい
  ました。

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