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_/ _/_/ _/_/_/ 地球史探訪:フィンランド、独立への苦闘 _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/ _/_/ 17,963部 H11.12.11 _/ _/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe(117) 国際派日本人養成講座 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.日本とフィンランドは隣国■ 日本とフィンランドはほとんど隣国だ。あいだに国は一つ しかない。 ヘルシンキで聞いたこのジョークは、地政学的に真実を語っ ている。日本とフィンランドは、膨張主義の大国ロシアの東西 に隣接し、19世紀から20世紀にかけて、両国とも独立をかけて 戦ってきた。 しかし日本海という障壁を持つ日本に比べれば、フィンラン ドの立場ははるかに厳しい。ロシアと地続きで1500キロにおよ ぶ国境を有し、首都ヘルシンキはサンクト・ペテルブルグ(ソ 連時代はレニングラード。本稿ではペテルブルグに統一)から バルト海への出口に位置する。ロシアから見た戦略的重要性は 計り知れない。 バルト海をはさんだ南の対岸では、バルト3国から、ポーラ ンド、東ドイツまで、鉄のカーテンの内部に取り込まれてしま ったことを考えれば、フィンランドが自由と独立を保ってきた のは、地球史上の奇跡と言ってよい。この奇跡は、フィンラン ド国民の自由と独立への不屈の意思と、それを導き、体現した 人物、グスタフ・マンネルヘイムのもたらしたものである。 ■2.明治日本から学ぶ■ フィンランドは12世紀から約600年の間、スウェーデン王国 の統治下にあった。その後、ナポレオン戦争の結果、フィンラ ンド大公国として帝政ロシアの支配下に移された。 グスタフ・マンネルヘイムは、1867年スウェーデン系の貴族 の家系に生まれた。長じてペテルブルクの騎兵学校を卒業し、 ロシア皇帝の近衛騎兵となった。1904年の日露戦争では志願し て、満洲の荒野で日本軍と戦った。 規律の良い、訓練の行き届いた日本軍に対して、ロシア兵は 士気も低く、現地人への略奪暴行も絶えなかった。マンネルヘ イムは専制ロシアの奴隷的な軍隊と、開明的な立憲君主国日本 の国軍との違いを痛感した。さらに日本が連勝におごらず、国 力の限界を見極めて講和に踏み切ったことは、彼の心に残った。 後にフィンランドの独立戦争を指揮する際の政治と軍事の見事 な一致は、ここから学んだものであろう。 ■3.ロシア革命勃発■ 1917年、ロシア革命が勃発した時、マンネルヘイムはぺテル ブルグにいた。すでに50歳、中将・騎兵軍団長となり、フィ ンランド出身者としては最高の地位にあった。ペテルブルグで の暴動を見て、マンネルヘイムは革命とは社会を無秩序におと しいれ、一部の野心家が権力を得ようとする暴力行為であるこ とを見抜いた。 フィンランドは、ロシア革命の混乱のさなか、独立を宣言し たが、ヘルシンキではレーニンの指示のもとで、赤色革命政権 を目指す一派が労働者の武装を進めて、「赤衛軍」を組織し、 フィンランド内に駐留していた4万以上のロシア軍とともに勢 力を広げていた。 一方、あくまでフィンランドの自主独立を目指す市民の義勇 警備隊が各地に現れ、「白衛軍」として立ち上がっていた。 マンネルヘイムは、祖国がロシア革命に呑み込まれる危機を 座視できず、帰国した。フィンランド政府の首脳陣は、はじめ ロシア帰りの将軍を疑いの目で見ていたが、祖国の独立を共産 革命から守り、自由で民主的な国家を建設しようとするマンネ ルヘイムの熱情と信念に魅了され、フィンランド国防軍を創設 して、その総司令官となることを要請した。 ■4.白い将軍■ おりしも第一次大戦の最中でドイツ軍はペテルブルグをも 陥落させようという勢いだった。フィンランド政府首脳は、ド イツ軍に援軍を要請した。 マンネルヘイムはこれを激しく怒り、一時は辞職を考えたが、 自分の力でドイツ軍を制する道を選んだ。そして次の二つの条 件を出した。第一に、ドイツからの援軍は自分の指揮下におく こと、そしてドイツ軍はロシア軍とは戦えるが、フィンランド 人の赤衛軍との戦いには参加できない事。 この戦いはフィンランド人による祖国の独立と統一をかけた 戦争であり、同胞民族を外国の軍隊で攻撃しては、大義名分が たたない、とマンネルヘイムは考えたのであろう。 マンネルヘイムは、白い毛皮のマントをまとって雪と氷に凍 てついた白一色の戦線にしばしば現れ、見事な指揮をとった。 白衛軍の将兵は、彼を「白い将軍」と呼んで歓声を挙げ、ロシ ア軍や赤衛軍は「白い悪魔」と呪った。 ■5.首都入城■ マンネルヘイムの指揮のもと、白衛軍は約半年で勝利を得た。 赤衛軍の大半は降伏したが、革命政府の首脳はほとんどペテル ブルグに逃亡した。1918年5月16日、フィンランド軍の勝利 の式典が首都ヘルシンキで行われ、マンネルヘイムは白衛軍を 率いて、大勢の市民の熱狂の中を行進した。 この時のマンネルヘイムの乗馬像が、ヘルシンキ中央のその 名も「マンネルヘイム通り」に建っている。あごを引き締め、 前方をまっすぐに見据えた像で、勝利の喜びなど、どこにも感 じられない。独立への戦いはまだ道半ばという覚悟が偲ばれる。 内戦の後、マンネルヘイムは国民の和解と統一を進めるため に、戦争孤児の救済と志願兵による国民自衛軍の創設に尽力し た。 ■6.ソ連軍侵攻■ 1939年9月、スターリンはナチス・ドイツと秘密協定を結び、 両国でポーランドを分割占領した。そして11月30日、つい にフィンランド侵略に踏み切った。ソ連軍は、26〜28個師 団約50万人の大兵力で、1000キロ以上に及ぶ国境線全面に渡 る侵攻作戦を展開した。「一週間でヘルシンキを占領し、全フ ィンランドを制圧する」とスターリンは豪語した。 元帥となっていたマンネルヘイムは、即日フィンランド国軍 総司令官に任命され、その命令第一号として「この戦争は独立 戦争の継続であり、その最後の総仕上げ以外の何ものでもない。 」と宣言した。冬戦争の始まりである。平時の3個師団(兵力 1万8千)に、志願義勇兵9個師団、合計31万5千が動員さ れた。これは総人口の8.6%にあたる。成年男子の三、四人 に一人は従軍したわけで、実質的には国家総動員体制である。 重装備のソ連軍が南北に広く分散して、道路も不備な山野で 行き悩んでいる所を、地理地形に精通したフィンランド兵は身 軽な独立小部隊を編成して、スキーで迅速に移動し、各地で敵 を分断攻撃した。平時から研究・訓練してきた戦法である。 ■7.吹き荒れる嵐の中に■ 小国フィンランドに対するソ連の侵略は、西側諸国の憤激を 買い、国際連盟はフィンランド政府の提訴に基づいて調査委員 会を開き、ソ連代表の出席拒否のまま、理事会でソ連の追放を 決議した。 さらにフィンランド軍の意外な抵抗力を見て、英仏の指導者 たちは、フィンランド救援を目的として北欧に戦線を形成し、 スウェーデンからドイツへの鉄鉱原料輸送を遮断して、対独戦 を優位に進めようと考えた。 マンネルヘイムは英仏の支援は、到底間に合わないと考えて いたが、これを取引材料に、防御戦を戦いながら、ソ連との休 戦交渉を進めた。 3月13日、講和条約が成立した。民族の故郷カレリア地方、 および、ヘルシンキの眼前にあるハンコ岬の割譲が条件である。 独立は保ったものの7万人の将兵を失い、またカレリア地方の 43万人が難民となった。 4月にはドイツがデンマークとノルウェーに侵攻、6月には バルト海対岸のエストニア、ラトビア、リトアニア3国が、ソ 連に併合された。ヒットラーのドイツとスターリンのソ連には さまれ、中立国スウェーデンとともにフィンランドは孤立した。 戦争が終わって、マンネルヘイムは国民にこう呼びかけた。 君たちの奮戦は、世界中の称賛を呼び起こしたが、3ヵ 月半の戦いの後、今我々は吹き荒れる嵐の中に一人ぽっち で立ち続けている。 ■8.継続戦争■ 1940年7月、ドイツは、ソ連侵攻を念頭において、フィンラ ンドへの接近を図り、ソ連から攻撃を受けた場合、援助するこ とを約束した。フィンランド大統領のリチは、攻撃を受ければ 単独でも戦うが、外部からの援助は歓迎すると答えた。 翌41年6月22日、ドイツはソ連侵攻を開始した。フィンラ ンド政府は中立を発表したが、ソ連は即座にフィンランドの軍 事施設や都市を爆撃した。25日、リチ大統領はソ連に宣戦布 告する。 マンネルヘイムは、この戦争は「たまたま、ドイツ軍と共通 の敵に対して、同じ戦場で戦う共同戦争ではあるが、フィンラ ンドは、自らの独立を守る防衛戦争を行うのである」と考えた。 そしてこの戦争を「継続戦争(The Continuation War)」と呼ん だ。1918年の独立戦争、39-40年の冬戦争に続く、独立防衛戦 争の継続という位置付けを国民に明確に示したのである。 ■9.休戦への苦闘■ マンネルヘイムは、冬戦争時の約1.5倍、47万5千の兵 力を投入して、ソ連に奪われた旧領土の回復を目指した。12 月には、カレリア地方とハンコ岬を奪回し、そこで攻勢を止め た。ドイツはさかんにペテルブルグ攻撃を要求したが、マンネ ルヘイムは聞かなかった。 しかし43年3月には、東部戦線のドイツ軍はソ連軍の反撃を 受けて、全面崩壊の様相を呈した。ソ連軍はカレリア地峡の大 攻勢を開始した。フィンランド政府は狼狽して、休戦交渉をし ようとしたが、マンネルヘイムはまずドイツの援助を得て、ソ 連の攻勢を押し止めることを主張し、それに成功した。 44年8月4日、マンネルヘイムは大統領に就任し、ソ連との 交渉を再開した。ソ連は前回は圧倒的な攻勢中だったので6億 ドルの賠償金を要求するなど、高飛車だったが、今回は降伏の 要求はせず、まず2週間以内にドイツ兵の領土内撤退を条件に、 交渉に応ずると答えた。 マンネルヘイムは、ドイツ軍に撤退を要求し、大半は平穏に 去ったが、北部ラップランド駐留の9個師団は2週間では撤退 不可能で、やむなくかつての友軍と戦わねばならなかった。 ■10.独立の代償■ 44年9月19日休戦協定が結ばれ、フィンランドはようやく 独ソ間の戦争から離脱することができた。しかし、国境は1940 年の冬戦争後に戻され、カレリア地方はふたたびソ連のものと なった。 さらに3億ドルの戦時賠償も要求された。これは戦後数年間 はGNPの5〜6%を占めた。現在の日本で言えば、一人あた りの年間総所得は4百万円程度なので、国民一人一人が毎年 20数万円相当の賠償金を払わされたという感覚になる。 ことの発端は、39年のソ連による一方的侵略開始だったのだ が、フィンランドはその侵略国に領土と賠償金を奪われたので ある。 さらにソ連は戦争指導者の裁判を要求した。リチ大統領以下 8人が告発されたが、フィンランド人の検察官と裁判官による もので、結局裁判後3年で全員が釈放され、議員や政党党首と して活躍した。 ■11.自らを守りえない小国を援助する国はない■ 大きな代償を払ったとは言え、フィンランドはかろうじて独 立を全うすることができた。そしてその成功要因は、独立戦争、 冬戦争、そして継続戦争と、いずれも、フィンランド国民が自 らの力で、圧倒的なソ連の力に立ち向かい、何とか持ちこたえ たという点にある。3回の戦争のうち、一度でも全土を制圧さ れていたら、ポーランドのように鉄のカーテンの内に取り込ま れていたであろう。 そしてフィンランドは、英仏やドイツの力を借りることはあ っても、決してそれに頼り切りはしなかった。あくまで自分自 身の独立意思と武力を中心においた。マンネルヘイムの自主独 立にかけた姿勢は、次の言葉に要約される。 自らを守りえない小国を援助する国はない。あるとすれ ば、何か野心があるはずだ。 マンネルヘイムの家は、ヘルシンキの南方、フィンランド湾 を見下ろす高台の上に今もある。絶好の見晴らしは、ヘルシン キの海上防衛を指揮するかのようである。現在、その家はマン ネルヘイムの遺品を飾った博物館になっている。 著者が訪れた時には、小学生の団体が神妙な態度で、説明者 の声に聞き入っていた。マンネルヘイムと彼に率いられたフィ ンランド国民の自由と独立への意思は、こうして子々孫々に継 承されていくのだろう。 ■参考■ 1. 「グスタフ・マンネルヘイム」、植村英一、荒地出版社、H4.2 ■リンク■ ★ JOG(095) スイス、孤高の戦い 中立は口先だけでは守れなかった。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■松井さんより 沢山のプッシュメールを配信してもらってますが全部読み切れ ないときでもこの、配信は欠かさずよんでます。私も以前から自 国の民族、歴史に誇りを持たず、自国の民族を辱め陥れる輩に大 変腹立たしさを覚えている者です。 私自身、職場の人間が明確な民族意識を持ってないことに気づ き民族として当然の思想理念を話したりしますが、最初の頃は大 きな反発を買いました。 特に団塊の世代はどうしょうもなく朝日新聞的な思想に染まっ ている人が多いのですが、ここのレポートを何度かプリントアウ トして読ませ、いかにあなた方が間違った情報を信じてきたかを、 得々と話しましたところ5人いる団塊の世代の中の4人まではも う朝日新聞は信じないとの考え方に変わったようです。 日本では職場で思想、信条を明確に言うのは避けられてきまし たが、それが恐ろしく無思想で無関心な人間を造り、挙げ句の果 ては無責任な朝日新聞、共産党的な人間を造ってしまうのではな いかと思ってしまいます。 これからも、面白いレポートお待ちしてます。 ■ 編集長・伊勢雅臣より ありがとうございました。職場の話のネタになるような形で、 発信を続けていきます。
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