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_/ _/_/ _/_/_/ 地球史探訪:人種平等への旗手 _/ _/ _/ _/ 〜米国黒人社会の日本観 _/ _/ _/ _/ _/_/ 23,066部 H12.04.02 _/ _/ _/ _/ _/ _/ Japan On the Globe(132) 国際派日本人養成講座 _/_/ _/_/ _/_/_/ _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■1.われわれ黒人は日本に最大の敬意を払う■ 全米1200万の黒人が息を飲んで、会議の成り行きを 見守っている。 1919年、パリ講和会議。第一次大戦の惨禍を再び繰り返すこ とのないよう、国際連盟創設のための議論が進められていた。 米国の黒人たちが注目していたのは、国際連盟規約に「人種平 等の原則」を入れるという提案を掲げて参加した日本であった。 日本の全権使節団がパリに向かう途中、ニューヨークに立ち 寄った時には、「ボストン・ガーディアン」紙の編集長モンロ ー・トロッターなど、黒人社会の指導者4人が、「世界中のあ らゆる人種差別と偏見をなくす」ことに尽力してほしい、と嘆 願書を出した。自国のウィルソン大統領が講和会議の議長役を するというのに、それをさしおいて、わざわざ日本の使節団に 嘆願したのである。 われわれ(米国の)黒人は講和会議の席上で「人種問 題」について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬 意を払うものである。 全米黒人新聞協会が発表したコメントである。人種差別に苦 しむアメリカ黒人社会は、有色人種でありながら世界の大国の 仲間入りした日本を、人種平等への旗手と見なしていた。 [1,p71-76] しかし、本誌52号[a]で紹介したように、日本の提案は16 カ国中、11カ国の賛成票を得たが、議長であった米国大統領 ウィルソンの「全会一致でない」という詭弁によって退けられ た。ウィルソンは、人種平等を盛り込んだ連盟規約が、米国南 部や西部の議員たちの反対で、批准されるはずのない事を知っ ていたのだ。 アメリカの黒人は、自国の政府の措置に怒り、全米で数万人 もの負傷者を出すほどの大規模な暴動が続発した。 ■2.茶色い男たちのパンチが白人を打ちのめし続けている■ アメリカの黒人社会が、日本に期待をかけるようになったの は、日露戦争の時であった。白人の大国に、有色人種の小国が 独立をかけて、果敢な戦いを挑んでいる、と彼らは見た。 米国黒人として最初の博士号をハーバード大学でとった黒人 解放運動の指導者W・E・B・デュボイスは、ヨーロッパに よる支配から有色人種を解放してくれる可能性のもっも高い国 として、日本を支持した。 日本が勝てば、やがて「アジア人のためのアジア」を声高に 叫ぶ日が来るだろう。それは、彼らの母なる大地アフリカに同 じような声がこだまする前兆となる、と米国黒人の指導者たち は考えた。黒人紙「インディアナポリス・フリーマン」は次の ような社説を掲載した。 東洋のリングで、茶色い男たちのパンチが白人を打ちの めし続けている。事実、ロシアは繰り返し何度も、日本人 にこっぴどくやられて、セコンドは今にもタオルを投げ入 れようとしている。有色人種がこの試合をものにするのは、 もう時間の問題だ。長く続いた白人優位の神話が、ついに 今突き崩されようとしている。 日露戦争は、有色人種は白色人種に決して勝てない、という ヨーロッパ人による世界侵略の近代史で生まれた神話を事実と して否定してみせたのである。[1,p53-66] ■3.黒人と日系移民の「連帯意識と共感的理解」■ 1920年代に本格化したアメリカへの日系移民に対して、黒人 たちは温かく接した。「フィラデルフィア・トリビューン」紙 は、次のように述べた。黒人たちは日本人を心から尊敬してい る。同じ『抑圧された民族』であるのもかかわらず、「自分た ちのために一生懸命努力する」日本人の態度は見習うべきもの である、と。 カリフォルニアのオークランドでは、黒人発行の新聞に日系 人がよく広告を出した。「ミカド・クリーニング」、「大阪シ ルク工業」等々。逆に日系人の新聞には、黒人への差別やリン チを非難する記事がたびたび登場した。 ロサンゼルスの日系病院の医師のうち、二人が黒人だったこ とについて、「カリフォルニア・イーグルス」紙は次のように 述べている。 ほとんどの病院が黒人に固く戸を閉ざしている昨今、日 系人の病院がどの人種にも、門戸を開放していることは本 当に喜ばしい限りである。同じ人種の医者に診てもらうこ とができる安心を患者は得ることができるのだから。 黒人を差別しない日本人というイメージは、このようなメデ ィアを通じて、またたく間に西海岸に広まった。「連帯意識と 共感的理解」、この言葉が両者のつながりを示すのによく用い られた。[1,p82-89] ■4.日本人を救え■ 1923年の関東大震災の報に接したある黒人は「シカゴ・ディ フェンダー」紙に「アメリカの有色人種、つまりわれわれ黒人 こそが、同じ有色人種の日本人を救えるのではないか」と投書 し、それを受けて同紙はすぐに日本人救済キャンペーンを始め た。 たしかに我々は貧しい。しかし、今、お金を出さなくて いつ出すというのか。 同紙の熱心な呼びかけは、多くの黒人の間に浸透していった。 万国黒人地位改善協会は、「同じ有色人種の友人」である天皇 に深い同情を表す電報を送り、また日本に多額の寄付を行った。 「シカゴ・ディフェンダー」紙のコラムニスト、A・L・ジ ャクソンは、長い間白人たちの専売特許だった科学や商業、工 業、軍事において、飛躍的な発展を遂げようとしていた日本が、 震災で大きな打撃を受けたことにより、黒人もまた精神的な打 撃を受けた、と分析した。日本人は「それまでの白人優位の神 話を崩した生き証人」だったからだという。[1,p82-86] ■5.日本のエチオピア支援■ 1936年のイタリアによるエチオピア侵略に対して、アメリカ の黒人たちは、アフリカ唯一の黒人独立国を「最後の砦」とし て支援しようとした。アメリカ政府の消極的な姿勢に比べて、 日本が国際連盟以上にエチオピア支援を訴えた事は、アメリカ の黒人たちの心を動かした。 「シカゴ・ディフェンダー」紙は、日本の宇垣一成大将が、 「イタリアとエチオピアの争いでは、日本は中立になるわけに はいかない」「エチオピアの同胞を助けるためには、いつでも 何千という日本人がアフリカに飛んでいくだろう」と明言した ことを伝えている。 「ピッツバーグ・クリア」紙は、エチオピアに特派員を送り、 エチオピア兵が日本でパイロット訓練を受けたこと、戦闘機の 提供まで日本が示唆していたことを特ダネとして報じた。 そして何よりも黒人たちを感激させたのは、エチオピアのハ イレ・セラシェ皇帝の甥、アライア・アババ皇太子と日本の皇 族・黒田雅子女史の結婚の計画であった。これは実現には至ら なかったが、日本がエチオピアとの同盟関係に関心を寄せてい た証拠であった。シカゴ・ディフェンダー紙は「海を越えた二 人の恋は、ムッソリーニによって引き裂かれた」と報じた。 [1,p96-103] ■6.日本での「忘れがたい経験」■ 1936年、黒人運動の指導者デュボイスは、満洲に1週間、中 国に10日間、日本に2週間滞在して、「ピッツバーグ・クリ ア」紙に「忘れがたい経験」と題したコラムを連載した。 デュボイスが東京の帝国ホテルで勘定を払っている時に、 「いかにも典型的なアメリカ白人女性」が、さも当然であるか のように、彼の前に割り込んだ。 ホテルのフロント係は、女性の方を見向きもせずに、デュボ イスへの対応を続けた。勘定がすべて終わると、彼はデュボイ スに向かって深々とお辞儀をし、それからやっと、その厚かま しいアメリカ女性の方を向いたのだった。フロント係の毅然と した態度は、これまでの白人支配の世界とは違った、新しい世 界の幕開けを予感させた。 「母国アメリカではけっして歓迎されることのない」一個 人を、日本人は心から歓び、迎え入れてくれた。日本人は、 われわれ1200万人のアメリカ黒人が「同じ有色人種で あり、同じ苦しみを味わい、同じ運命を背負っている」こ とを、心から理解してくれているのだ。[1,p109-118] さらに、この旅で、デュボイスは日本人と中国人との違いを 悟った。上海での出来事だった。デュボイスの目の前で4歳く らいの白人の子どもが、中国人の大人3人に向かって、どくよ うに言った。すると、大人たちはみな、あわてて道をあけた。 これはまさにアメリカ南部の光景と同じではないか。 上海、この「世界一大きな国の世界一立派な都市は、なぜか 白人の国によって支配され、統治されている。」それに対して、 日本は、「有色人種による、有色人種の、有色人種のための 国」である。 ■7.日本人と戦う理由はない■ 日米戦争が始まると、黒人社会の世論は割れた。「人種問題 はひとまず置いておいて母国のために戦おう」という意見から、 「勝利に貢献して公民権を勝ち取ろう」、さらには「黒人を差 別するアメリカのために戦うなんて、馬鹿げている」という意 見まで。 デュボイスは、人種戦争という観点から捉え、「アメリカが 日本人の権利を認めてさえいれば、戦争は起こらなかったはず だ」とした。 黒人たちは、白人が日本人を「イエロー・バスタード(黄色 い嫌な奴)」、「イエロー・モンキー(黄色い猿)」「リト ル・イエロー・デビル(小さな黄色い悪魔)」などと蔑称をさ かんに使うことに、ますます人種戦争のにおいをかぎつけた。 アメリカは日本兵の残虐行為を理由に、「未開人」という日 本人イメージを広めようとやっきになっていた。それに対して、 「ピッツバーグ・クリア」紙は、ビスマーク沖での海戦で、ア メリカ軍は多数の日本の艦船を沈めた後、波間に漂っていた多 くの日本兵をマシンガンで皆殺しにした、本土爆撃ではわざわ ざ人の多く住んでいる場所を選んで、大人から赤ん坊まで無差 別に殺した、さらに「広島と長崎に原爆が落とされた時、何万 という人間が一瞬にして殺された。これを残忍と言わずして、 何を残忍と言おう」と主張した。 軍隊の中でさえ差別に苦しめられていた黒人兵たちにとって、 白人のために、同じ有色人種である日本人と戦わなければなら ない理由は見いだせなかった。ある黒人部隊の白人指揮官は、 隊の95%は戦う気力がまったくない、と判断を下した。黒人 兵の間では、やりきれない気持ちがこんなジョークを生んだ。 墓石にはこう刻んでくれ。白人を守ろうと、黄色人種と 戦って命を落とした黒人、ここに眠ると。[1,p120-140] ■8.日系人強制収容を黙って見過ごすのか?■ 大戦中、日系移民は、米国の市民権を持っている人々までも、 強制収容所に入れられた。米国の黒人は大きな衝撃を受けた。 第一に、日系アメリカ人だけが収容され、ドイツ系もイタリ ア系も収容されなかったのは、あきらかに人種偏見のせいでは ないか、という点。第二に、アメリカの市民権を持っている日 系人さえもが強制収容されるなら、黒人にも同じ事が起こる可 能性がある、という点であった。 11万5千人もの人々(日系人)が、一度にアメリカ人 としての自由を奪われるのを、われわれ黒人は黙って見過 ごすというのか。 ロサンゼルス・トリビューン紙のコラムニストが全米黒人向 上協会に呼びかけ、協会の代表はそれを受けて、次のような決 議文を提出した。 われわれは人種や肌の色によって差別され、アメリカ人 としての当然の権利を侵害されることには断固として反対 していかねばならない。 戦後、黒人社会は、収容所から解放されて戻ってきた日系人 を歓迎し、温かく迎えた。彼らは、日系人のために仕事を探し たり、教会に招いたりしてくれた。[1,p140-152] ■9.歴史上、日本人が持ち得たもっとも、親しい友人■ [1]の著者、レジナルド・カーニー博士(黒人史専攻)は次 のように我々日本人に呼びかけている。 歴史上、日本人が持ち得たもっとも親しい友人、それが アメリカ黒人だった。・・・この本を読んでいただければ、 日本の政治家や知識人たちが黒人を差別する発言を繰り返 したときに、なぜ黒人があれほどまでに怒り悲しんだかを、 心から理解してもらえるはずである。 かつて、黒人から同じ有色人種として敬われていた日本 人。そんな日本人が、今ふたたび、その尊厳と親愛の念を 取り戻せることを、私は心から祈って止まない。おごりの ない、謙虚な日本人−それが私の願いである。[1,p26] ■リンク■ a. JOG(053) 人種平等への戦い 虐待をこうむっている有色人種のなかでただ一国だけが発言に 耳を傾けさせるに十分な実力を持っている。すなわち日本で あ る。 b. JOG(054) 無言の誇り 12万人の日系人が収容所に入れられた。その3分の2は、ア メリカの市民権を持っていた。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. ★★★「20世紀の日本人 アメリカ黒人の日本人観 1900-19 45」、レジナルド・カーニー、五月書房、H7.8
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