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---------------Japan On the Globe(149)  国際派日本人養成講座
        _/_/         
         _/         地球史探訪: 黒船と白旗
        _/          
  _/   _/     ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食
   _/_/      の近代世界システムへの屈服を要求していた。
-----------------------------------------H12.07.30  26,642部

■1.黒船あらわる■

     嘉永6(1853)年6月3日(旧暦、以下同)午後5時、蒸気船
    2隻、帆船2隻からなる米提督ペリーの艦隊が浦賀に姿を現し
    た。錨を卸す前に、日本の警備船の一群が艦隊を取り巻き、う
    ち一艘が旗艦サスケハンナの艦側に来て、乗艦を要求した。
    
     しばしの押し問答の後、乗艦を許された浦賀与力中島三郎助
    とオランダ通詞堀達之助に、ペリーは直接会わず、副官のコン
    テー大尉に応接させた。中島が、外交のことは一切長崎で取り
    扱うことになっているから、そちらに赴かれたしと言うと、コ
    ンテー大尉は次のように恫喝した。[1,p63 ()内JOG注]
    
         提督は決して長崎へは赴かない。(大統領からの)国書
        を相当の礼儀をもって、現在の場所にて受け取るべし。提
        督の本意は和親にあるが、もし万一侮辱にわたるようなこ
        とがあったら、一切容赦はしない。しかも日本の警備船が、
        このように軍艦を取り捲いていることは、怪しからぬこと
        だ。もし早速退散しないのならば、提督は武力で彼らを退
        散させるであろう。
    
     この恫喝により日本の警備船はたちまち米艦隊から離れた。
    ペリーはこれを最初の勝利と考えた。

■2.兵を率いて上陸し、、■

     中島は翌4日朝、上役の香山榮左衛門と共に来艦して、ふた
    たび長崎へ行くよう要請したが、米側は「もし日本政府が、適
    当なる人を選任して、この(ここにて国書を渡すべしという)
    要求に応じない場合は、提督はいかなる重大な結果を招こうと
    も、兵を率いて上陸し、自らこれを皇帝に手交するだろう」と
    答えた。
    
     香山は江戸表と相談するので、4日間の猶予が欲しいと言う
    と、3日間待とう、と通告された。時あたかも各艦から出され
    たボートが浦賀湾を測量していた。香山が、日本の国法に反す
    るので許可し難い、と言うと、「浦賀湾の測量は、米国の法に
    て命ぜられている。米人が米国の法律を遵守するのは、貴君が
    日本の国法を遵守するのと同じだ」と答えた。ペリーはこれを
    第2の勝利とした。
    
■3.降伏を乞いたくば、この白旗を押立てよ■

     この時にペリーは、日本側に白旗2旒と自身の書簡を送った。
    その大意は以下のごとくであった。[2,p46]

         数年来、ヨーロッパ各国は日本政府(幕府)に通商の願
        いを出していたが、日本は鎖国の国法をたてに、これを認
        めなかった。そういったことは「天理に背く」ことであっ
        て、その罪たるや莫大なものがある。それゆえ通商をひら
        くことに不承知ならば、われらは「干戈(かんか、武器)
        を以て、天理に背くの罪を糺(ただ)」さんとするので、
        日本も鎖国の国法をたてに防戦するがよい。戦争になれば、
        勝つのは必ず我等である。日本は敗けるので、そのときに
        降伏を乞いたければ、このたび贈っておいた「白旗」を押
        立てるがよろしい。そうしたら、アメリカは砲撃をやめ、
        軍艦を退かせて、「和睦」することにしよう。そういう意
        図で、この「白旗」を贈ったのである。
    
     「日本政府に恩恵として希願するのではなく、権利として要
    求する」というペリーの方針は、要求が聞き入れられなければ
    武力で決着をつける、という欧米諸国の弱肉強食のルールに則
    ったものであった。

■4.ペリーの野望■

     1846年、ペリー来航のわずか7年前に米国はメキシコからカ
    リフォルニアを奪い、そこから太平洋を横断してシナと結ぶ新
    しい貿易航路が開かれた。当時新たに発明された蒸気船では、
    日本で石炭の積み込む必要があった。さらに太平洋における捕
    鯨業が発達し、日本の港湾を使いたいという必要が出てきた。
    米国の今回の要求とはこのような平和的なものであったが、ペ
    リー自身はさらに遠大な野望を抱いていた。

         我らは海権上の競争者英国の東洋における領土と、その
        武装した港湾が、恒久的に、かつ急速に増加しつつあるを
        見るにつけても、我らもまた速やかにその対策をとる事が
        必須であると勧告する。世界の地図を吟味すれば、英国は
        既に東印度、及び特にシナ海において最も重要なる地点を
        所有している。
        
         ただ幸いなことには、日本および太平洋のその他の諸島
        は、この恥知らずの政府(英国政府)が、なお未だ手を触
        れずにいる。そしてその諸島のあるものは、合衆国にとっ
        て、今後最も重要となるべき大貿易の通路に位置している。
        そうであれば船舶の避難所として十分な数の港湾を獲得す
        べく働きかけるに、一刻も猶予すべきではない。
        [3,p395]

     ペリーは、米国東海岸ノーフォークを出発し、大西洋を横断、
    はるばるアフリカ南端の喜望峰をめぐり、セイロン、シンガポ
    ール、香港などを経由して、ようやく日本にたどり着いた。そ
    の間の重要拠点はことごとく英国の支配下にあった。
    
     英国に対抗して、米国がシナに進出するためには、西海岸か
    ら直接太平洋を横断するルートを開拓しなければならない。そ
    のために、ペリーは合衆国の拠点として、ハワイからシナへの
    航路上にある小笠原諸島、琉球、台湾を指定した。それらを足
    場として、さらにタイ、カンボジア、インドシナ、ボルネオ、
    スマトラに商業的居留地を拡大することをほのめかしている。

     日本との条約締結は、英国に対抗して、太平洋からシナ、東
    南アジアに至る米国の海上覇権確立という壮大な野望の第一歩
    に過ぎなかったのである。[a]

■5.琉球、小笠原諸島占領■

     実際にペリーは、浦賀に姿を現す前に、那覇港に侵入して、
    琉球政府に対し対江戸幕府と同様の強硬な要求を行い、強引に
    王宮に押し入ることまでしている。
    
     ペリーはそこから浦賀に向かい、幕府に来春の回答を約束さ
    せると、また琉球に引き上げた。

         日本政府が協議を拒否し、もしくは我が商船、捕鯨船の
        ため港湾を割り当てることを承知しない場合は、米国市民
        に与えた侮辱と損害との報償として、予は日本帝国の属領
        である琉球を、米国国旗の監視の下におく。そして我が政
        府が果たして予の行動を是認するか、否かの決定を得るま
        では、まずこのまま琉球を押えて置くつもりである。
        [3,396]
        
     ペリーが翌年1月25日、第2回の来航を前に海軍長官あて
    に送った手紙の一節である。
    
     ペリーはさらに小笠原諸島にまで足を伸ばし、アメリカ領に
    編入することを宣言している。これに対しては、英国からすぐ
    に英領であると抗議があり、ロシア艦隊も遠征してきたり、日
    本側もあわてて諸島の経営に着手した。
    
     小笠原諸島と琉球は、ハワイから上海への航路の途中にあり、
    それらを占領しようとしたことに、ペリーの野望がよく窺われ
    る。

■6.日米戦争になったら■

     日本側も、当時の世界情勢や欧米諸国の技術力、軍事力につ
    いて最新の情報を得ていた。たとえば、香山榮左衛門らが乗艦
    した時には、蒸気船の機関を見学して、これは大きさは違うが
    蒸気機関車の機関と同じではないか、と質問したり、パナマ運
    河はもう完成したのか、などと聞いて、アメリカ人を驚かせた。
    
     米国の強硬な要求を突きつけられた老中・阿部正弘は水戸の
    前藩主・齊昭(なりあき)公に対応策を相談した。
    
         このたび来航してきたアメリカは、わが国の鎖国という
        禁制を知りながら、浦賀に乗り込んできて、戦争になった
        ら「和睦」を乞うべき合図のための「白旗」をさしだすな
        どして、無理やり通商の願書をおしつけている。それのみ
        か、わが国の内海へ入り込み、空砲を打鳴らすばかりか、
        (国際法違反の)他国の領海の測量などさえしている。そ
        の驕傲無礼なること、言語道断であり、わが国にとっては
        開闢以来の「国恥」ともいうべき事件である。[2,p55]

     齊昭公はこのように怒りをあらわにしながらも、
    
         打ち払いをすれば、戦争になり、たとえ勝って黒船を浦
        賀から追い払っても、伊豆の島々、八丈島等を勝手に占領
        するであろうし、さらに日本周辺の島々を勝手に奪うのは、
        鏡に映すように明らかである。[1,p133]
        
     との予測を行っている。ペリーの野望は日本側に正確に認識
    されていたのである。こうした考えから、幕府は「一時の権策
    (応急処置)」として、国書を受け取ることにした。
    
     アメリカ側が要求を出して、それを聞き入れなかったら「天
    理に背くの罪を糺さん」と恫喝するのに対して、日本側が「一
    時の権策」で要求を呑んで、当面の危機を乗り越えようとする
    交渉パターンは、今日の日米貿易交渉にまで共通する基本形で
    ある。
    
■7.吉田松陰の「開国・攘夷」大戦略■

     幕府のその場のしのぎのやり方に対しては、日本国内で批判
    が高まり、幕府の権威は大きく失墜した。たとえば、吉田松陰
    は「対策一道」の中で、次のような主張をしている。
    
         まず航海や交易は、「祖宗の遺法」(歴代天皇の残され
        た方針)であり、国家戦略の上からも当然必要なことであ
        る。鎖国は徳川幕府の一時の政策に過ぎない。ただ現時点
        で開国を唱える者は、ペリーの恫喝に屈して、戦いを恐れ
        るからに過ぎない。
    
         アメリカが「日本のため」と言いながら、自分の利益の
        ために我が国を支配下におこうとしているのは明らかであ
        る。「祖宗の遺法」に従って開国しつつ、我が国3千年の
        独立不羈の歴史を護るにはどうすべきか。
    
         まず大艦を建造し、身分や家柄などに関わらず人材を抜
        擢して、樺太から琉球までさかんに航海練習と海洋調査を
        行わせ、航海技術を修得する。その後、朝鮮、清国、オー
        ストラリア、喜望峰などに赴き、商館を建てて、通商を行
        いつつ、国際情勢の情報収集を行う。3年程度でこれらの
        ことは達成できる。
    
         その後で、カリフォルニアに赴き、ペリー来航の回答と
        して、和親条約を結ぶ。こうすれば、国威を発揚し、人材
        を育成し、我が国3千年独立不羈の国体を維持できる。
    
     実際に、吉田松陰は自ら鎖国の禁を破って、ペリーの船に乗
    り込み、アメリカに連れて行って欲しいと懇願したのだが、そ
    れもこの構想を一個人の立場で実現しようという考えだったの
    であろう。その気概は当時の欧米諸国民に「日本人侮るべから
    ず」との強烈な印象を与えた。[b]
    
■8.攘夷のための開国■

     吉田松陰は後に刑死する際に、次のような歌を残している。
    
        討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇(あが)めて夷
        (えみし)拂(はら)へよ
        
     この「君」、孝明天皇は次のような御製を残されている。
    
        あさゆふに民やすかれとおもふ身のこゝろにかゝる異国
        (とつくに)の船
        すましえぬ水にわが身はしずむともにごしはせじなよろづ
        国民
        
     一歩間違えば、インドが英国に収奪され、清国がアヘン戦争
    で蹂躙されたように、我が国民は欧米勢力の支配下で塗炭の苦
    しみを味わうことになる。自分の身はどうなっても国民の安寧
    をひたすらに願う、というのが孝明天皇の御心であった。
    
     孝明天皇の御心に沿って、外国勢力を打ち払って独立を護ろ
    うとしたのが「攘夷」であり、そのためには「開国」が必要だ、
    というのが、松陰の考えであった。松陰の「攘夷」とは、我が
    国を神国とし、他国を野蛮として見下す宗教的妄想などではな
    く、当時の弱肉強食の国際社会の中で、国家の独立と国民の安
    寧を侵略勢力から護ろう、ということであった。
        
■9.近代世界システム■

     西洋諸国による人種差別と植民地化による世界支配を「近代
    世界システム」と呼ぶ。17世紀初めに我が国はスペイン、ポ
    ルトガル勢力を駆逐して、近代世界システムから離脱し、25
    0年間もの平和で豊かな国民生活を実現してきた。[c.d]
    
     ペリーの黒船は、いよいよ近代世界システムが地球全体の支
    配を完了させようとして、最後に残された東アジアにやってき
    たことを意味していた。そしてペリーのつきつけた「白旗」は、
    我が国の独立への挑戦であり、近代世界システムへの屈服要求
    であった。
    
     やがて松陰の遺志を継いだ志士たちは「一時の権策」しかで
    きない幕府を倒して明治新政府を組織し、開国後に通商を通じ
    た富国強兵策をとる。それは松陰が「対策一道」で述べた大戦
    略の実行であった。こうして日本は近代世界システムの荒波に
    こぎ出したのである。
    
■リンク■
a. JOG(014) Remember:アメリカ西進の歴史
   アメリカは、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化すること
  によって、文明をもたらすことを神から与えられた「明白なる天
  意」と称した。
b. JOG(038)  欧米から見た日本の開国−吉田松陰
   ペリーの船に乗り込んで海外渡航を目指した吉田松陰の事件は、
  スティーヴンソンをして「英雄的な一国民」と感嘆させた。
c. JOG(090) 戦争の海の近代世界システム
 海洋アジアの物産にあこがれて、ヨーロッパと日本に近代文明が
 勃興した。
d. JOG(091) 平和の海の江戸システム
 日本人は平和的に「自力で栄えるこの肥沃な大地」を築き上げた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「近世日本国民史 開国日本(二)」★、徳富蘇峰、講談社学術
  文庫、S54.4
2. 「白旗伝説」★★、松本健一、講談社学術文庫、H10.5
3. 「近世日本国民史 開国日本(三)」★、徳富蘇峰、講談社学術
  文庫、S54.5
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■横山さん(ブラジル在住)より

     外国かぶれが嵩じて現在はブラジル・サンパウロ在住です。
    外国の歴史等には一通り頭に詰め込み、現地人相手に自分の知
    識を自慢し、外国人(この場合は現地人ですが)になったつも
    りで居た事も有ります。特に”おまえはまるで○○○人だ、生
    まれる国が間違っていたんだ”と現地人に評されては悦に入っ
    ていたようです。

     しかし、経済が良くない・政府は無能と自らの国を卑下しな
    がらも、自分の国が大好きと胸を張って自慢する外国人の友人
    が増えるに従い、少しづつ考えが変わっていきました。

     自分と自分の両親やその育ってきた文化を自信をもって主張
    できる外国人と、自分の国の良い所すら知ろうとしないで外国
    に住んでいるだけの人間を比較した時、自分の悲しさに気がつ
    いたのです。

     その後いろいろ有り、相変わらずの外国かぶれですが、日本
    の大好きな所を外国人に披露できる程度には国際的な感覚が身
    に付いたようです。

     今思い返しますと、自分が最も多感だった中学生の頃(ほぼ
    20年前になります)の教育・情報はかなり日本の歴史を自虐
    的に捉えたものが多く、御誌”国際派日本人養成講座”のよう
    に子供が自分の歴史・文化に自負心を抱けるようなものは少な
    いか、右翼的として白眼視されていたように覚えています。

     今後更に日本の国際貢献が奨励される機運の中で、自分・自
    分の両親・自分の育った文化に自信が持てる子供たちが増える
    ように、御誌の今後に期待致します。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     国内でしか通用しない自虐思想から脱出するには、一度海外
    から我が国を見てみるのが効果的です。海外旅行、駐在、留学
    の増加と、最近の教育や思想の正常化傾向とは、比例している
    のではないでしょうか。

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