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---------------Japan On the Globe(156) 国際派日本人養成講座 _/_/ 人物探訪:リカルテ将軍 _/ 〜フィリピン独立に捧げた80年の生涯 _/ _/ _/ わしはフィリピンに星条旗がひるがえっている _/_/ かぎり、その星条旗の下に帰ろうとは思わない。 -----------------------------------------H12.09.17 26,712部 ■1.気がつけばアメリカの植民地■ 1898年4月25日、アメリカはスペインに宣戦布告し、極東艦 隊がスペイン艦隊を撃破してマニラ湾に入った。「フィリピン 革命軍を援助する」と宣言したアメリカ軍を、民衆は歓呼して 迎えた。 アメリカの参戦で勇気を得た革命軍は、いたるところでスペ イン軍を撃破した。しかし8月13日にマニラが陥落した時アメ リカ軍司令官アンダーソンはマニラ市内の約4千の革命軍に撤 退を命令し、翌日米軍のみによるマニラ入城式が行われた。 10月1日からアメリカとスペインの講和会議がパリで開かれ た。前年に誕生したばかりのフィリッピン革命政府のアギナル ド大統領はパリに特使を派遣したが、アメリカはその出席を拒 否し、勝手に講話条約を締結してしまった。 講話条約の中にはスペインはフィリピンをアメリカ合衆国に 譲渡するという一項があり、マッキンレー米大統領はこの条約 と同時に「アメリカ軍はフィリピンにとどまり、その独立の日 まで撤退しないだろう。それまでフィリピンの主権はアメリカ にある」と発表した。 こうして300年以上もスペインの支配下にあったフィリピン は、独立した途端にアメリカの植民地にされていたのであった。 ■2.革命軍総司令官アミルテオ・リカルテ■ 当初、革命政府は独立さえ認めてくれれば経済上の優先権や 駐兵権はアメリカに認めるという低姿勢で交渉に臨んだ。しか しアメリカは8万もの大軍を上陸せしめ、フィリピン群島を完 全なる軍事制圧下に置いた。この時にあたって革命軍総司令官 として独立戦争を開始したのが33歳のアミルテオ・リカルテ であった。 リカルテは、1868年ルソン島最北端のラオアグという町の大 きな農家の二男坊として生まれた。1890年、名門サント・トー マス大学を24歳で卒業。スペイン本国への留学にあこがれる のが当時の青年たちの常であったが、リカルテは一生を民族主 義教育に捧げる決心をして、マラボンの小中学校の校長になっ た。 1895年頃から、スペインの暴政に対して、民衆の憤りが高ま り、独立を目指すカティプナン党が急速に勢力を広げた。リカ ルテも入党して、指導的な地位についた。1896年8月27日、 カティプナン党とスペイン軍との戦いが始まり、翌年3月、リ カルテは「国軍総司令官」に任命された。この時以来、リカル テの生涯はフィリピン独立のための戦いに捧げられる。 スペインを破った後に豹変したアメリカに対して、リカルテ は再び革命軍総司令官として二度目の独立戦争を開始した。 独立は戦いとるべきもので、たとえアメリカであろうと、 スペインと戦ったように、戦い取ってこそはじめて真の自 由と独立をうることができるのだ。 ■3.日本からの武器弾薬供与■ リカルテは革命政府外務長官のマリヤノ・ポンセを日本に送 り、アジア主義者の宮崎滔天に武器援助を仰いだ。ポンセの依 頼は、アジアの独立運動に深い同情と理解を持つ陸軍参謀総長 川上操六大将にもたらされた。おりしも、アメリカ国務省から 日本外務省にあてて、フィリピンへの武器密輸を取り締まって くれという要請が届いていたが、川上は青木外務大臣の反対を 押し切って、陸軍からの兵器払い下げを決定した。川上は宮崎 らにこういった。 フィリッピン独立といっても、なかなか容易ではないと 思う。わが国としてもお援けしてさしあげたいが、まだそ の余力はない。・・・同じアジアの民として、困ったとき には助け合う、武士は相見互いだ。国の力が及ばないとき には、君たち有志に期待するほかない。しっかり頼むぞ。 約300トンもの武器弾薬が、布引丸という古い貨物船に乗 せられ、上海に送る石炭と鉄道枕木だと偽って、フィリピンに 送られることになった。明治32(1899)年7月19日に布引丸 は長崎港を出港した。日本人の義勇隊3名と道案内のためのフ ィリピン人2名が乗船していた。しかし、翌日夜、台風に襲わ れ、暴風雨と戦うこと約20時間、ついに布引丸は武器弾薬と ともに東シナ海の藻屑となった。 (約80年後の昭和53年、フィリピンのマルコス大統領は、 この時に武器弾薬を宰領して遭難した益田忍夫の孫、益田豊夫 妻を独立記念日の6月12日に招待し、フィリピン独立功労者 の遺族という最高級の栄誉を授与している。) ■4.義勇隊来る■ 布引丸に先行して、5人の陸軍予備役将校と1名の民間人か らなる義勇隊が、独立軍支援に赴いていた。隊長は元台湾総督 付参謀の原禎で、「フィリピンの独立を救援しなければ、アメ リカは必ずこの地を占領し、東亜の自由と発展を害するや必せ り」として、自ら軍籍を退いて、この挙に加わったのである。 6人は下級労働者に変装して、フィリピン独立軍を包囲する アメリカ軍陣地を突破した。6人を迎えた大統領アギナルドは、 こう言った。 日本からはるばるフィリピン独立のために、身を挺して 馳せ参じてくださった皆さんの義侠に対して、何と感謝申 し上げてよいかその言葉も知らないほどである。 6人はアギナルドの軍事顧問や、前線部隊の作戦参謀の任に あたった。同時にフィリピン在留の日本人約300人も、独立 軍に参加して、ともに戦った。日本から義勇隊が来たというの で独立軍の志気は大いにあがった。 ■5.革命軍の敗北■ やがて布引丸の悲報が伝わった。米国は日本政府に抗議を申 し入れてきた。さらに革命軍に日本人が加わっていることを知 って、日米関係は険悪になった。 武器弾薬に乏しいフィリピン軍にとって、布引丸の沈没は致 命的であった。革命軍はゲリラ戦や夜襲によって抗戦を続けた が、8万ものアメリカ軍に次第に追いつめられていった。 1900年6月、リカルテは蛮刀で武装した特殊工作部隊を自ら 指揮して、米軍本陣に斬り込み、捕らえられた。続いて翌年3 月、アギナルド大統領が逮捕され、二人の指導者を失った革命 軍は米軍に屈服した。1899年2月から3年5ヶ月におよぶ独立 戦争はこうして失敗に帰した。 1901年には600人ものアメリカ人宣教師がマニラに到着し、 英語での教育が広められた。すでに大部分がキリスト教徒とな っていたフィリピン人の若者たちには、母国語や母国文化に代 わって、急速に英語文化が注入されていった。ご用政党のフェ デラル党のごときは、アメリカの一州になろうという運動まで 起こした。 元革命政府大統領のアギナルドも、アメリカに忠誠を誓い、 報奨として豪壮な邸宅と多額の年金を与えられた。 ■6.故郷を目前にして■ アメリカに買収されることを拒否したリカルテ将軍は、軍事 裁判の結果、90名の同志と共にグアム島の岩窟牢に入れられ た。コレラやマラリアなどの風土病のため、90人の同志が流 刑3年目には28名に減ってしまった。 当局は、アメリカに忠誠を誓うなら、無罪放免するとして、 28名の囚人を船でマニラ湾まで連れてきた。3年ぶりで見る なつかしいマニラの街並み、故郷の山河が目の前に広がる。 一人一人アメリカ合衆国に忠誠を誓う誓約書にサインをして、 上陸していった。去っていく同志の後ろ姿を見ながら、リカル テは、サインを迫る米軍法務官に向かって「星条旗のもとには 帰りたくない」と言い切った。 リカルテは再び、国外追放の処分を受け、香港に移り住んだ。 そこでイギリス人の経営する印刷会社で働いて、印刷術を修得 し、「現代の声」という新聞を発行して、フィリピンの革命同 志や学生に独立運動を呼びかけていった。 ■7.アギナルド君、起とう!■ 明治37(1904)年に始まった日露戦争を、リカルテは祖国独 立の好機と捉えた。日本が勝てばアジアの諸民族は白人帝国主 義に抵抗し、独立・解放の機運を高めるだろう。 日本に勝たせたいという願いはフィリピン民衆も抱いていた。 日本海海戦でバルチック艦隊がほとんど全滅したとのニュース が伝わると、民衆は我が事のように喜んだ。日本の戦勝を祝福 する挨拶がかわされ、マニラでは旗行列まで行われた。 リカルテはカトリック僧に扮して、祖国に潜入し、元大統領 のアギナルドを訪ねた。 この秋(とき)起たずんばいつの日にか好機があろうか。 アギナルド君、起とう。日本がロシアを破ったように、わ れわれもアメリカと戦い、アメリカから其の独立を勝ち取 るのだ。・・・ ロシアを負かした日本も、われわれの独立戦争を決して 見殺しにするようなことはないと思う。ぼくも3年間の準 備工作で自信は十分できた。アギナルド君。一緒に起と う! しかし、アメリカからの年金で贅沢な生活を送っていたアギ ナルドは、往年の独立への情熱も覇気も失っていた。リカルテ は怒り、「国亡びて個人の栄達何するものぞ」と言って去って いった。 ■8.再度の「ノン!」■ リカルテ将軍はバターン半島の一角に砦を構え、再び独立戦 争の狼煙をあげようとしたが、賞金目当ての裏切り者がアメリ カ軍に密告した。砦はアメリカ官憲に急襲され、同志のあるも のは射殺され、あるものは捕らえられて、完全に壊滅した。19 05年5月24日のことである。 リカルテは捕らえられ、法廷に臨んだ。彼はアメリカの占領 以後の欺瞞に満ちた政策と非人道的行為を痛烈に批判した。香 港での地下工作の間に、彼の「独立宣言」文がアメリカの新聞 に大きく取り上げられた事もあって、米国世論は同情的であっ た。これが圧力となって、法廷は極刑を避けて、禁固6年の刑 を言い渡した。 6畳程度の独房で、家族との面会はおろか、読書や手紙の執 筆すら禁ぜられるという厳しい監禁生活にリカルテは耐え、つ いに6年の刑期を終えた。リカルテは再び、法廷につれて行か れ、アメリカ合衆国に忠誠を誓えば、アギナルドのように豪壮 な邸宅と多額の年金が約束されるとさえほのめかされたが、リ カルテはきっぱりと、「ノン!」と叫んで、首を横に振った。 リカルテは再び、国外追放を命ぜられ、香港の近くのほとん ど無人の小島に流された。 ■9.星条旗の下に帰ろうとは思わない■ その後、リカルテは大正4(1915)年に脱獄し、日本に亡命し た。陰で日本人の支援があったと推測されている。しばらく名 古屋に潜伏した後、台湾民政長官だった後藤新平などのはから いで、大正12年に横浜に移住した。 1934年、アメリカの主権下でフィリピンは憲法を制定し、か つての将軍の部下ケソンが大統領に就任した。ケソンはリカル テに対し、栄誉ある勲章と、終身年金を申し入れて、帰国を促 した。リカルテの答えは再び「ノン!」であった。 昭和15(1940)年、ケソン大統領は訪米の帰途、横浜に立ち 寄り、自らリカルテを訪ねて、帰国を求めた。リカルテはこう 答えた。 わしはフィリピンに星条旗がひるがえっているかぎり、 その星条旗の下に帰ろうとは思わない。わしが祖国に帰る 日は、祖国が完全に独立し、むかしわれわれが立てたあの 革命旗が、堂々とだれはばかることなく立てられる日だ。 ■10.最後の一人となるとも、アメリカと戦うつもりだ■ その翌年、大東亜戦争が勃発し、リカルテは参謀本部の要請 を受け、占領後の独立の約束をとりつけた後、75歳の老躯を 駆って祖国に戻った。群衆は歓呼してリカルテ将軍を迎えた。 1943(昭和18)年10月14日、日本軍の軍政が撤廃され、 正式に「フィリピン共和国」として独立の日を迎えた。対スペ イン独立戦争時から愛唱されてきた歌を国歌として制定し、そ の演奏とともに、アギナルドとリカルテが革命旗をもとにデザ インされた国旗を掲げた。(これらの国号、国旗、国歌は現在 まで引き継がれて、この時に就任したラウレル大統領は、現在 でも第2共和国の大統領として、マラカニアン宮殿に歴代大統 領と並んで肖像画が飾られている。) 米国の反撃が始まると、山下奉文大将はリカルテ将軍に日本 への再亡命を勧めたが、将軍は「わしは最後の一人となるとも、 アメリカと戦うつもりだ。わしの80年の生涯は、ただこのた めにあった。」と断った。 日本軍とともに逃避行軍すること3ヶ月、80歳の将軍はあ る朝、眠るように亡くなっていた。遺骨の一部は遺言にしたが って、第二の故郷である日本に持ち帰られ、東京多摩の霊園に 祀られた。昭和46年にはフィリピン協会により、横浜市山下 公園にリカルテ将軍記念碑が建立されている。 ■リンク■ a. JOG(014) Remember:アメリカ西進の歴史 アメリカは、自らが非白人劣等民族の領土を植民地化すること によって、文明をもたらすことを神から与えられた「明白なる 天意」と称した。 b. JOG(149) 黒船と白旗 ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シス テムへの屈服を要求していた。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 「アジア独立への道」★★★、田中正明、展転社、H7.5 2. 「昭和の戦争記念館 第4巻 大東亜戦争その後」★★★ 名越二荒之助編、展転社、H12.5_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「人物探訪:リカルテ将軍」について 綾子さん(中2)より こんにちわ。フィリピンのリカルテ将軍のこと、とても興味 深く読ませていただきました。日本がフィリピンを支援してい たということも驚きでしたし、フィリピンが独立戦争を何回も していたということも驚きでした。 私は中2ですが、何故、このようなことは学校で教えられな いのでしょう?いろいろな高校の社会の参考書を見てもこのよ うなことは書かれていませんでした。私の周りにはこのような ことを語り合える人はなく、授業でも教えられません。 これからの日本をになう若者にもこのようなことをおしえる べきです。日本では国際政治学や地政学など、少しでも戦争に かかわるものはとても軽んじられていますが、私は、大切だと 思います。 このようなメールマガジンがあって私はとても嬉しいです。 これからも読ませていただきますので、がんばってください。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 綾子さんのように自分の頭で考え、自分の心で感ずる若者が あちこちにいるかと思うと、我が国の将来にも希望が持てます。 このようなお便りをいただいて、私もとても嬉しいです。
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