[トップページ] [平成12年一覧][人物探訪][116 学問論][210.75 大東亜戦争][223 東南アジア][319 国際親善(アジア)]


--Japan On the Globe(164)  国際派日本人養成講座-------------
          _/_/   人物探訪:敗者の贈り物
          _/    〜シンガポールの博物館を護った田中舘秀三博士
       _/_/                      
_/ _/_/_/      私の心を激しく打ったのは敗けてもなお、後世に
_/ _/_/       受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さだった。
--H12.11.12  30,361部---------------------------------------

■1.シンガポール国立博物館にて■

     数年ぶりに立ち寄ったシンガポール国立博物館では、太平洋
    戦争回顧展が開催されていた。"The Singapore Story"という
    3D映画は、いきなり画面から飛び出した零戦が観客席の上で
    イギリス空軍戦闘機スピットファイヤーを追い回し、ついには
    撃墜する画面から始まっていて驚かされた。
    
     日本軍の占領は過酷だった、という描写はあるものの、当時
    の植民地支配者の英国と挑戦者・日本の戦いを公平に見ており、
    日本軍による虐殺しか記述しない日本の歴史教科書などより、
    はるかに客観的である。
    
     シンガポールは、華僑を中心に、マレー人、インド人から成
    り立つ。日本軍が弾圧したのは華僑のゲリラ勢力であり、彼ら
    が戦後は共産党ゲリラとして治安を脅かした事、そして英国支
    配下で搾取されていたマレー人は日本軍に優遇され、また英国
    からのインド解放を目指したインド国民軍が日本軍の支援を受
    けて、シンガポールで創設された事もあって、一方的に日本軍
    を悪者視する史観は、この多民族国家では通用しないのだろう。
    [a]
    
     大戦中の展示物の中に、この博物館の建物の前で日本人とイ
    ギリス人数人が、並んで立っているパネル写真があった。
    戦時プロパガンダのポスターや、悲惨な戦災光景写真の中で、
    日英両国人が一つのチームのように仲良く写っている情景は、
    他から浮き上がって、どこかほっとさせる雰囲気を醸し出して
    いた。実は、この博物館自体が、これら日英の科学者たちの心
    を合わせた協力によって戦火から護られたのである。
    
■2.そうだっ、やらなきゃならん!■

     E・J・H・コーナー博士が、日本軍の占拠するシンガポー
    ル市庁舎を訪れたのは、昭和17(1942)年2月18日、イギリ
    ス軍無条件降伏の3日後であった。
    
     博士はケンブリッジ大学で生物学を学び、卒業以来シンガポ
    ールに移り住んで13年間、ラッフルズ植物園で熱帯植物の研
    究をしてきた。博士は植物園と博物館に保存されている標本や
    論文が日本軍や現地人の略奪によって破壊されることのないよ
    うに、イギリス総督の使者として日本軍に依頼していたのであ
    る。
    
     この日、シンガポールの文化財を護るために日本から一人の
    学者が来ることになっていたので、その人に会うためにコーナ
    ー博士は再び市庁舎を訪れたのだった。
    
     紹介された人物は、長い鼻、不釣り合いに大きな眼鏡、乱れ
    た髪、くしゃくしゃの洋服と、いかにも貧相な五十男だった。
    東北帝国大学に奉職し、日本における火山学、湖沼学の先駆
    者・田中舘秀三博士である。
    
     田中舘博士は、植物学者であられる天皇陛下がシンガポール
    の文化財、研究・教育機関の安否を気遣っておられ、陛下の名
    代として実態調査に来た、と述べた。コーナーはこの言葉に
    「これでシンガポールの文化は助かった」と感動でしびれるよ
    うな思いをした。
    
     コーナーが博物館と植物園、図書館などの文化施設が危険な
    状態になっていることを説明し、その保護を願うと、身を乗り
    出して聞いていた田中舘は、突如立ち上がり、腕を振り上げて
    大声で叫んだ。「そうだっ、やらなきゃならん!」

■3.これが戦争というものか・・・■

     田中舘はコーナーに案内されて、すぐに博物館と植物園を見
    て回った。南洋植物の収集・研究で世界的に有名な植物園では、
    日本兵がオーストラリア部隊の残していったおびただしい武器
    弾薬、ドラム缶などを片づけていた。イギリス人の園長と数人
    の部下がかろうじて研究室や標本室を守っていたが、広い園内
    は現地人が自由に出入りして、勝手に木を切ったり、物を持ち
    出したりしていた。
    
     田中舘は、ナプキンに赤インクで即席の日の丸を作り、立ち
    入り禁止との札とともに、建物に貼った。ちょうどそこに、官
    舎が現地人によって荒らされている、との知らせが入った。コ
    ーナーが研究室として使っていた場所であった。
    
     「よし、行こう」と田中舘はすぐに走り出した。コーナーは
    暴徒が武器をもって向かってきたら、と不安を抱いたが、田中
    舘はそんな事は思ってもいないようだった。二人が官舎につい
    た時、数人の現地人がコーナーの部屋から、標本や私物を持ち
    出している所だった。田中舘が日本語で叫んだ。「そこに置け
    っ。さもないと殺すぞ」
    
     日本語が通じるはずもなかったが、田中舘の気迫に侵入者は
    縮み上がった。彼らは、最初の略奪者はオーストラリア兵で、
    自分たちも物を持ち出してもよいのかと思った、と弁解した。
    
     コーナーは私物には目もくれずに、四つん這いになって踏み
    にじられた自分の論文を、宝石でも集めるように一枚一枚泥を
    落としながら拾い上げた。その有様に、田中舘は「これが戦争
    というものか・・・」とつぶやきながら、論文を気遣うコーナ
    ーを、本物の学者だ、と見て取った。

■4.これから山下に会いに行く■

     田中舘は、この上は一刻も早く強力な手を打たなければなら
    ない、と思い、「コーナー君、これから山下に会いに行く。そ
    して文化財の保護を頼む。君も一緒に来るんだ」と言った。
    
    「ヤマシタ? その人は誰ですか?」と聞くコーナーに、田中
    舘は「シンガポールの支配者・山下奉文軍司令官だ」と、こと
    もなげに答えた。「オー、ノー」コーナーは怯えるように首を
    ふった。
    
     山下司令官は開戦と同時にマレー半島に上陸し、約3万5千
    の兵力で、8万の英豪軍を蹴散らしつつ、わずか2ヶ月余りで
    1千キロ以上を南下し、遂にシンガポール占領を成功させた武
    功輝く将軍である。
    
     「心配ない、山下と僕とは大学の同窓だ。学生時代からの親
    友さ」と田中舘は笑った。これはコーナーを安心させるための
    方便であったようだ。
    
     田中舘は、総督官邸にいる山下に会い、二人だけで2時間も
    話し込んだ。会見が終わって出てきた田中舘は、コーナーに
    「大成功だった。山下将軍は、できるだけの援助をしようと言
    ってくれた」と語った。コーナーは後にこう書いている。
    
         その後、教授は私に東条首相より発令された命令のこと
        を伝えてくれた。それは占領下にある東南アジアの国々の
        博物館、図書館、総ての科学標本のたぐいは、その国の国
        民のために保存さるべきことを軍上層部に命じたものであ
        る。その後ろに山下将軍の進言があったことは言うまでも
        ない。

■5.いかに英人学者や現地人雇用者を食わせていくか■

     田中舘は、山下将軍から口頭で博物館と植物園の責任者に任
    命されたが、書面の辞令がなかなか届かず、その間の財政的援
    助は一切得られなかった。田中舘は無給の館長であったが、現
    地人の園丁や雇い人はそういう訳にもいかない。悪い事に、主
    事ヘンダーソンがシンガポール陥落の2、3日前にからすべて
    の金を持ち逃げしていたので、植物園の金庫はからっぽだった。
    
     やむなく田中舘は、私財をはたいて当面の支出をまかなった。
    不足分はその特異な政治的手腕を使って、食糧や金をどこから
    か掻き集めていた。この時期の田中舘の主要な任務は、いかに
    コーナーら英人学者や現地人雇用者を食わせていくか、という
    ことだった。
    
     田中舘はシンガポールに来た時の服を何ヶ月も着たままなの
    で、ぼろぼろになってしまった。博士は平気な顔をしていたが、
    コーナーは気の毒に思って、空き家で見つけた上着やズボンを
    プレゼントしたが、大きすぎて、いかにもおかしかった。
    
     そこまでしてシンガポールの文化財を守ろうとする田中舘や
    コーナーらの努力に感謝して、こっそり資金援助をしてくれる
    華僑も出てきた。

■6.学問への深い敬意■

     山下将軍の軍政顧問としてシンガポールにやってきた徳川義
    親侯爵は、自身が生物学者であり、田中舘らの活動に深い理解
    を寄せた。侯爵はチャンギー刑務所に収容されていたイギリス
    人学者たちを引き取って、博物館と植物園に配属させ、各自の
    研究を続けさせた。
    
     それを聞いて、日本軍の憲兵が飛んできて、「スパイされた
    ら、どうします?」と問うと、「少しくらいスパイされて、負
    けるような日本軍なのか?」と叱って、追い返した。侯爵は後
    に、博物館と植物園を兼ねた総長に就任し、田中舘を全面的に
    バックアップした。
    
     マレーのジャングルの研究では第一人者と呼ばれるC・F・
    シミントンは、コーナーの友人であり、マレーの林務官と植物
    学者のための手引き書を数年がかりで書き上げていたが、出版
    前に戦争となり、原稿はクアラルンプールの出版社に置かれた
    まま、彼は行方不明となっていた。
    
     この件をコーナーから聞いた田中舘は、「それは大変な事
    だ」と驚き、すぐに山賊やゲリラの徘徊するマレー半島を無防
    備の車でクアラルンプールまで北上し、ゲラ刷りの原稿を発見
    した。原稿は、徳川侯爵と田中舘が費用を負担して、500部
    印刷された。コーナーは後にこう記している。
    
         著者のシミントンは、自分のライフワークが戦火の中を
        生き残り、敵国日本人によって救出され、出版され、そし
        て敵国人からも同胞からも高く評価されたことを知ること
        もなく、失意のうちに亡くなった。(中略)
        
         侯爵と教授が自腹を切り、大金をはたいて英国人の一業
        績を出版したのは、学問への深い敬意があったからにほか
        ならない。戦争の真っ最中、敵国人の仕事を英語で出版し
        ていかなる利益があるというのか。

■7.何か高貴な力に守られている■

     その年の12月も押し迫った頃、田中舘は一時帰国すること
    となり、コーナーの著書「マレーの路傍の木」をトランクに入
    れながら、「これは献上するつもりだ」と語った。「献上」と
    は何を意味するのか、コーナーには分からなかった。
    
     翌年1月、田中舘は博物館に帰任すると、コーナーを館長室
    に呼んだ。彼は突然立ち上がり、直立不動の姿勢をとり、「起
    立! 気をつけっ」と大声で号令をかけた。びっくりして立ち
    上がったコーナーに、田中舘は続けた。
    
         賢くも大日本帝国天皇陛下には、マレーの写真と貴殿の
        著書「マレーの路傍の木」をご受納あらせられ、ことのほ
        か感謝しておられる。これは余が献上申し上げた故である
        が、漏れ承ったところによれば、貴殿の本は陛下がお床の
        中で読まれた唯一の本である。終わり。着席。
        
     コーナーは唖然とした。教授の話が本当かどうか疑いつつも、
    忘れがたい印象を受けた。
    
         その話は博物館中に知れ渡った。その時から私とバート
        (同僚)は自分たちが比較的自由に博物館の仕事をしてい
        られるのは何か高貴な力に守られているからだという気が
        してならなかった。

■8.敗者の贈り物■

     徳川侯爵が総長となり、また日本から二人の学者が、植物園
    長、博物館長として赴任してきた。田中舘教授の仕事はほとん
    どなくなり、日本の学術研究会議から教授に帰還命令が出され
    た。田中舘は昭和18年7月に寂しく祖国に帰っていった。
    
         田中舘秀三教授がいなかったらシンガポールの博物館と
        植物園と図書館は跡形もなく滅び去っていたであろう。若
        き世代に残すべきものを失い、自分達の時代を子供たちに
        誇り高く語って聞かせることもできなかったであろう。た
        とえ一粒の種は小さくとも、一粒の塩は無に等しくとも、
        それは人類を救う大きな力になりうる。教授は傷つき、寂
        しく島を後にした。だが私たちは彼の遺志を受け継ぎ、希
        望の灯を高々と掲げ続けたのである。

     昭和20年8月、日本軍が降伏し、9月には英軍が上陸した。
    英人捕虜が釈放されるのと同時に、博物館と植物園に残ってい
    た日本人学者達が抑留された。コーナーは英軍司令部に占領中
    の彼らの功績を説明して釈放を願い出たが、日本人学者達は同
    胞と共に収容所に留まる道を選んだ。
    
     コーナーはその夜、ただ一人、植物園の庭を歩きまわりなが
    ら、占領中の思い出に浸った。
    
         私の心を激しく打ったのは勝った日本人科学者の思い遣
        りや寛大さというより、敗けてもなお、これだけ立派で、
        永久に後世に受け継がれてゆく業績を残した彼等の偉大さ
        であった。
        
         敗残者は今や勝利者である敵性人の心に大いなる勝利の
        印を刻みつけた。敗けてなお勝つということはこういうこ
        とを言うのだ。私はその大きさに圧倒され、夜空の下でい
        つまでも立ちすくんでいた。国家も、政府も、そして民族
        も、繁栄しては衰退し、そして破局を迎える。だが、学問
        は消して滅びない。私はこのことをシンガポールで、日本
        人科学者との交流を通じて学んだのである。
        
■リンク■
a. 002 国際社会で真の友人を得るには
 「インド独立の為に日本人が共に血を流してくれたことを忘れま
    せん」
    http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h9/jog002.htm

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「昭南島物語 上下」★★★、戸川幸夫、H2.7、読売新聞社
   
     

[トップページ] [平成12年一覧][人物探訪][116 学問論][210.75 大東亜戦争][223 東南アジア][319 国際親善]

© 平成12年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.