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-----Japan On the Globe(167)  国際派日本人養成講座----------
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          _/     国柄探訪: 三島由紀夫と七生報国
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_/ _/_/_/     自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決をするという三島の
_/ _/_/       「狂気」は緻密に計画され、周到に実行された。
-----H12.12.03  30,794部------------------------------------

■1.日本社会への縁切り状■

         私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができな
        い。このままいつたら「日本」はなくなつて、その代わり、
        無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕
        な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るであ
        らう。それでもいいと思つてゐる人たちと、私は口をきく
        気になれなくなつてゐるのである。[1]

     これは殆ど、日本社会への縁切り状ではないか。友人・三島
    由紀夫のこの苛立たしげな文体に一驚した文芸評論家の村松剛
    は、事態が容易でない所まで来ていることに気づき、人を介し
    て、三島と会うことにした。村松の三島との最後の会談は、昭
    和45(1970)年10月7日、四谷で行われた。三島は言った。
    
         自分の家にはいろいろな外国人がくる。彼らが口々に言
        うことは、日本のいちばん美しい部分が失われていくとい
        う失望なんだよ。
    
         昨年までの日本には、世の中にまだ危機意識があった。
        それがこのごろでは、みな危機意識なんか忘れて生活に満
        足している。その安心し切った顔を見ていること自体、俺
        は耐えられない。政治家は左も右も、平和憲法を守りまし
        ょう、文士の話題といえばゴルフの話と、次の文学賞をだ
        れにやろうかという相談ばかりじゃないか。
        
     「昨年まで」というのは、昭和44年には、日米安保やベト
    ナム戦争反対を叫ぶ過激派諸派が都内に6千人を集めて、道路
    上にバリケードを構築し、警察署を襲った。警察は3万2千人
    を投入し、検挙された人数は東京だけで12百人以上にも及ん
    だ。しかし、翌年には、過激派の動きも沈静化に向かい、上述
    のように「昭和元禄」を謳歌する世相になっていたからである。
        
■2.佐藤榮作は、おれを気違いだと言うだろう■

    「それだからといって、三島さんが革命を志してどこかに斬り
    込んでも、天才の文学者が気がふれたといわれるだけですよ」
    と同席していた仲介者が言うと、
    
         そうだろうな、狂気の意味について、くだらない批評家
        がいろいろなことを書くさ。佐藤榮作は、おれを気違いだ
        と言うだろう。[2,p567]
        
     三島が4人の盾の会隊員とともに、自衛隊市ヶ谷駐屯地の東
    部方面総監室に総監を人質にして立てこもり、約1千名の自衛
    隊員にバルコニーの上から決起を呼びかけた後に、隊員の一人、
    森田必勝とともに割腹自殺を遂げたのは、この18日後の10
    月25日。今からちょうど30年前のことであった。
    
     首相・佐藤榮作は、官邸での昼食中にテレビ速報で事件を知
    り、記者団に感想を問われると暗い顔で「気が狂ったとしか思
    えない。常軌を逸している。」と、まさに三島の予言通りのコ
    メントを述べた。
    
     新聞は、「”狂気の白刃”盾の会、自衛隊乱入」、「社説 
    三島事件は”狂気の暴走”」などと、やはり三島の予想通り、
    「狂気」について、いろいろ書き散らした。名うての戯曲家で
    もあった三島由紀夫は、自ら描いた筋書き通りに狂気を演じ、
    首相もマスコミも、その筋書き通りにそっくりのせられたかの
    ようである。

■3.緻密な「狂気」のシナリオ■

     「狂気」のシナリオはきわめて緻密に描かれ、周到に実行さ
    れていった。事件の前日24日の午後、サンデー毎日編集部の
    徳岡孝夫は、三島から電話で、毎日新聞の腕章とカメラをもっ
    て明日の11時にある場所に来て欲しい、と依頼された。徳岡
    は三島がノーベル文学賞の候補にあがった時、バンコクで親し
    くインタビューしたことがあり、旧知の間柄だった。
    
     場所がどこかは、明日10時に電話する、という。翌朝10
    時に三島から電話が入り、自衛隊市ヶ谷駐屯地のそばの市ヶ谷
    会館に11時に来て欲しい、という。そこへ行くと、盾の会の
    会員から、封筒を渡された。
    
     封筒には檄文と三島らの写真、および、手紙が入っていた。
    これから起こることが、自衛隊内でもみ消されないよう、何か
    変化が起こったら、腕章をつけて、駐屯地内に入って報道して
    欲しい、ということだった。
    
        しかし、事件はどのみち、小事件にすぎません。あくまで
        小生らの個人プレーにすぎませんから、その点ご承知置き
        下さい。(中略)事件の経過は予定では2時間であります。
        
     まるで、これから友人同士で小さな劇を演ずるから、見に来
    て欲しいとでもいうような、こともなげな文章である。
    
■4.畢生の雄叫び■

     徳岡氏が会館の屋上から、駐屯地を見ていると、パトカーや
    ジープが猛スピードで突入していった。毎日新聞社の腕章をつ
    けて、正門からグランドに入ると、すでに100人ほどの自衛
    官がいた。「総監が人質にとられた」という声が聞こえた。
    
     盾の会の若者が、バルコニーの上から檄文を撒き、垂れ幕を
    おろした。自衛官が垂れ幕に飛びついて引きずり降ろそうとし
    たが、ジャンプしても手が届かないよう計算されていた。「三
    島さん、綿密に計画したなあ」と徳岡は感嘆した。
    
     三島と森田がバルコニーに姿を現した。集まった自衛官はす
    でに約千人に達していた。
    
         日本は経済的繁栄にうつつを抜かして、精神的にはから
        っぽになってしまっているんだぞ。それがわかるかッ!
        
     頭上8mからの三島の声は、張りも抑揚もある大音声で、実
    によく聞こえた。徳岡は後にこう書いている。
    
         三島のボディービルや剣道は、このためだったんだな、
        と私は直観した。最後の瞬間に備えて、彼はノドの力を含
        む全身の体力を、あらかじめ鍛えぬいておいたのだ。畢生
        の雄叫びをあげるときに、マイクやスピーカーなどという
        西洋文明の発明品を使うことを三島は拒否した。[3,p259]

     三島の呼びかけは、自衛隊が憲法改正に立ち上がる、という
    ことだったが、そんな可能性は三島のシナリオにはみじんも考
    慮されていなかったことは、事件が2時間の「個人プレー」で
    終わる、という徳岡への手紙でもあきらかである。
    
     約20分の演説を終えると、三島は「天皇陛下万歳」を三唱
    して、総監室に引っ込み、森田必勝とともに、古式に則って、
    真一文字に腹を切り、盾の会隊員の介錯を受けた。

■5.栄誉の絆でつなげ菊と刀■

     いまだに誤解する人が多いが、三島は戦前右翼的な軍国主義
    や、天皇親政を目指したわけではない。かえって、天皇は日本
    文化の中心に位置し続けてきたのであって、その時々の政治権
    力に密着すれば、その政治を超越した立場は損なわれる、と考
    えていた。明治憲法下での天皇制を「天皇陛下を政治権力にく
    つ付けたところに弊害があった」と明言している。[5]
    
     天皇は「われわれの歴史的連続性・文化的統一性・民族的
    同一性の、他にかけがえのない唯一の象徴」であり、
    
         われわれはこの天皇の真姿を開顕するために、現代日本
        の代議制民主主義がその長所とする言論の自由をよしとす
        るものである。なぜなら、言論の自由によって最大限に容
        認される日本文化の全体性と、文化概念としての天皇制と
        の接点にこそ、日本の発見すべき新しくまた古い「国体」
        が現れるであろうからである。[4]
        
     結局、三島の描いた理想とは「栄誉の絆でつなげ菊と刀」と
    いうある論文のタイトルに凝縮されていると言えるかもしれな
    い。「菊」とは日本の文化伝統である。そして「刀」とは「
    武」の伝統、武士道である。武なき文は自立しがたく、文なき
    武は正義なき暴力に堕する。文武両道こそが、人にとっても、
    国家にとっても、目指すべき理想であった。そしてこの両者が
    天皇という国家の神聖な根源において結ばれている所に、わが
    国の「国体」がある。そこから名誉や正義という価値が湧出す
    る。
    
     冒頭の「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、
    富裕な、抜け目がない、或る経済大国」とは、経済的繁栄を至
    上の価値として「文」を置き去りにし、自衛隊を継子扱いし、
    外国軍隊に国防を依存して「武」による名誉と自立心を忘れ去
    った現代日本への批判なのである。
    
■6.ぼくの死から一滴の水がしたたったら■

     上述のような正統的な理想を、三島ほどの思想家が、我慢強
    く説き続けて今日に至っていれば、一般国民の間にも受け入れ
    られた可能性は高い。ソ連や中国の共産主義体制を目指して、
    数万人が首都で騒乱を起こすという当時の革命思潮がいかに常
    軌を逸したものと言え、いや、それだからこそ、なおいっそう、
    なぜ三島は当時の人々から「狂気」としか見られない行動をと
    って、あたらその天才を散らしめたのか?
    
     徳岡孝夫氏は、三島由紀夫の魂との会話を思い浮かべる。
    
    −なぜ切腹を?
    
         日本の文化と伝統に根を持つ死に方だからです。
        
    −アナクロニズムじゃないですか。あなた一人が死んで、日本
    が変わると考えたのですか?
    
         ぼくはそういうふうに問題を考えない。効果の有る無し
        は問題にならない。他人に同じ行動を勧めようなどという
        意思も毛頭ない。人間内面のモラルは昔も今も不変だし、
        魂の問題だから時代とともに変わりようがない。ぼくは、
        やりたいことがあっても我慢してきた。そして最後に爆発
        した。それも無駄に、汚名を着せられてね。
        
    −しかし昭和元禄の真っ只中で起きたあなたの行動は、マスコ
    ミから徹底的に叩かれましたよ。
    
         マスコミを通じて自分の考えを広めようなんて、最初か
        ら考えていません。ぼくの死から一滴の水がしたたったら、
        その水を心に受けて考えてごらんということです。
        [3,p31]
        
■7.葉月も末の夕空に、弓張月を見るときは、■

     三島の最後の戯曲となった「椿説弓張月」は、死の前年昭和
    44年の11月に国立劇場で上演された。英雄・源為朝は平清
    盛を倒すべく水路京都に向かうが、嵐にあって琉球に漂着し、
    そこで琉球王朝のお家騒動を解決して、わが子舜天丸を王位に
    つける。
    
     しかしその7年後には、平家は滅び、「君父の仇亡びては、
    われ亦誰を仇として討つべき」と嘆く為朝は、いまは讃岐院上
    皇の御陵に詣でて腹を切ることが武士としての「のこる望み」
    だという。為朝は一同に別れを告げる。
    
         もはや、これまで。必ず嘆くな。葉月も末の夕空に、弓
        張月を見るときは、この為朝の形見と思いやれ、舜天丸、
        さらば。
        
     国立劇場のプログラムの「作・演出のことば」に、三島は次
    のように書いた。
    
         英雄為朝はつねに挫折し、つねに決戦の機を逸し、つね
        に死へ、「枯忠への回帰」に心を誘はれる。彼がのぞんだ
        平家討伐の花々しい合戦の機会は、つひに彼を訪れないの
        である。
        
     為朝に託して、三島は自分を語っているようだ。葉月も末、
    すなわち旧暦八月の夕べの空にかかる、弓の弦を張ったような
    細い月とは、まことにあじわいの深い光景である。
    
■8.七生報国の伝統■

     わが国の歴史には、日本武尊、源義経、楠木正成、吉田松陰、
    西郷隆盛、乃木希典と、生前の武功もさることながら、その悲
    劇的な一生によって、後世の日本人の心に生き続けた武人が時
    折出現する。
    
     楠木正成は兵庫の湊川の地で足利尊氏と戦い、最期に「七生
    報国」(七度生まれ変はって、国に報ひむ)を誓って自刃した
    のだが、その忠節はその後も長く日本人を奮い立たしめ、その
    時々の国難を乗り越えさせる原動力となってきた。そういう意
    味では、「七生報国」の言葉通り、その精神は何度も生まれ変
    わって、この国土を護ってきたと言えよう。三島も決起の時、
    「七生報国」と書いた鉢巻きをしていた。
    
     「碧山日録」という当時の人の日記に、正成の孫が捕らえら
    れて斬首の刑に処せられた時に、それは正成が幾万もの無辜の
    民を殺戮した積悪の報いである、などという悪罵が投げつけら
    れた。三島の行動を「狂気の白刃」などと評した現代日本と変
    わらない。やがて歴史は、このような悪罵や冷笑を洗いさり、
    三島由起夫は楠木正成や吉田松陰などと並んで日本人の心の歴
    史の中に位置づけられる時代が来るだろう。
    
     「生命尊重以上の価値の所在を諸君に見せてやる」と言って
    自決した男の事を思い起こせば、我々は利己と保身と物欲に流
    される凡夫たりと言えども、時には国家公共のことも考えねば、
    という報国の心を思いおこす。葉月も末の夕空の弓張月の如く
    に、三島は静かに我々を照らし続けている。我々がそれを見上
    げようと、否とに関わりなく。
    
■リンク■
a. JOG Wing No.0122 三島由紀夫の『文化防衛論』
b. JOG Wing No.0253 三島由紀夫氏の死を思う
c. JOG(038)  欧米から見た日本の開国−吉田松陰
   ペリーの船に乗り込んで海外渡航を目指した吉田松陰の事件は、
  スティーヴンソンをして「英雄的な一国民」と感嘆させた。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「果たし得てゐない約束」、三島由紀夫、サンケイ新聞、S45.7
   [2,p564]より再引
2. 「三島由紀夫の世界」★★、村松剛、新潮文庫、H8.11
3. 「五衰の人」★★、徳岡孝夫、文春文庫、H11.11
4. 「反革命宣言」、「生きる意味を問う」所収、三島由紀夫、
    人物文庫、H9.9
5. 「栄誉の絆でつなげ菊と刀」、三島由紀夫、[2,p475]

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