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-----Japan On the Globe(183)  国際派日本人養成講座----------
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          _/    人物探訪:フレッド和田(下)〜祖国への熱き思い
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_/ _/_/_/       祖国日本にオリンピックを、という和田の熱意は、
_/ _/_/       中南米諸国に感動の渦を巻き起こしていった。
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■1.ムチャス グラーシャス■

     東京でのオリンピック開催への支持を訴えるべく、和田夫妻
    が最初に訪れたのは、メキシコのオリンピック委員クラーク将
    軍だった。フレッドは、いきなりスペイン語で挨拶し、スペイ
    ン語の名刺を渡した。
    
     クラーク将軍が頬をゆるめて、「スペイン語ができるのです
    か?」と聞くと、「ロスの店ではメキシカンをおおぜい雇って
    いるので、挨拶ぐらいは自然にできるようになりました。」と
    答えた。将軍は一層気をよくした。
    
     フレッドがメキシコからは野菜や果物を沢山仕入れており、
    自分は大のメキシコびいきだと言うと、将軍も「私は親日家で
    す。改めて握手しましょう」と応える。そして和田が東京オリ
    ンピックへの支持を訴えると、将軍はこう言った。
    
         和田さんの熱意には感服しました。ロペス大統領は私が
        責任を持って説得します。五輪大会と称されながら、アジ
        アで一度も開催されていない点に重きを置くべきですよ。
        アジアで最初にオリンピック大会を開催できる国は日本を
        おいてほかにはないでしょう。
        
     将軍はその場で中南米諸国のオリンピック委員全員に対して、
    東京開催を支持するよう依頼する書状を書いてくれた。和田は
    天にも昇る気持ちで「ムチャス グラーシャス ヘネラル ク
    ラーク(ありがとうございます。クラーク将軍)」とうわずっ
    た声を上げた。
    
■2.革命直後のキューバ■

     メキシコで首尾良く支援の確約をとりつけてから、二人はキ
    ューバに赴いた。革命直後でまだ戒厳令下にあり、空港の至る
    所で兵士達が銃を構えている。オリンピック委員のモインク氏
    は、二人を危険な目に会わせてはならないと、ホテルまで出向
    いてきた。
    
         革命直後のキューバにお出かけいただいただけでも、感
        謝しなければなりません。和田さんご夫妻は、ラテンアメ
        リカを1ヶ月以上もかけて回るそうですね。祖国のためと
        はいえ、そこまでなさる熱意に頭が下がります。
        
     正子が答えた。
    
         フレッドは、「東京オリンピック」に限らず、祖国のこ
        とになりますと、夢中になってしまうんです。
        
     和田の祖国愛に胸を打たれたモインクは、東京への投票を確
    約してくれた。
    
■3.ブラジル日系人の思い■

     ブラジルの委員からは、東京開催を支持するが、総会の開か
    れるミュンヘンまでの旅費2千ドルを援助していただけないか、
    と依頼された。和田は「結構です」と即答した。ブラジルには
    日系人もいるし、もし寄付が集まらなかったら自分で出そうと
    思ったのだ。それを聞いたブラジルの日系人会幹部は言った。
    
         和田さんご夫妻がこんなにご苦労されているのに、われ
        われが手を拱いているとしたら、ブラジル日系人の恥です
        よ。2千ドルぐらい何とでもしますから、われわれにまか
        せてください。
        
     それを聞いて和田は胸が熱くなった。祖国日本に思いを寄せ
    ている日系人は、ブラジルにも大勢いるのだ。
    
     チリでは、オリンピック委員が総出で、空港まで和田を出迎
    えた。祖国のために自費で歴訪している和田の姿は、各国に感
    動の渦を巻き起こしていた。

■4.圧勝■

     5月初めにようやく長旅を終えて、ロスに帰った和田は、そ
    の月末には国際オリンピック委員会総会の開かれるミュンヘン
    に飛んだ。店の方を心配する正子を、5日間だけと、なんとか
    なだめて出てきたのだった。和田は中南米の委員達と食事を付
    き合いながら、それとなく東京への投票の念押しをした。
    
     投票の結果は、1回目で東京が58票中34票の過半数を獲
    得して、招致を決めた。2位のデトロイトが10票で、文字通
    りの圧勝だった。アジアと中南米の票が決め手だった。
    
     日本からのオリンピック委員はホテルで結果を待つ和田に一
    刻も早く知らせようと、会場を出た。駆けつけてきた和田を見
    つけると、バンザイでもするように両手を高く掲げて、こう言
    った。
    
         和田さん、決まったよ。34票もとった。驚いたよ。こ
        んなにとれるとは思わなかった。和田さんのお陰だ。ほん
        とうにありがとう。
        
     二人は抱き合って喜んだ。和田が中南米の委員達の所にお礼
    に行くと、みなが東京開催を祝福してくれた。
    
     和田は日本オリンピック委員会の名誉委員に任命され、引き
    続き、東京オリンピック成功に向けての助力が要請された。さ
    らに同行した東龍太郎・東京都知事が、和田へのお礼として名
    誉都民の称号を与えたいので、このまま一緒に東京に行っても
    らえないか、と聞いた。しかし、正子に電話すると、「男なら
    帰ってらっしゃい。子供が褒美をもらいに行くようでおかしい
    ですよ。」と一喝されて諦めた。

■5.日本はこれで一等国になったのや■

     昭和39(1964)年10月10日、東京オリンピック開会式。
    フレッドと正子は、ロイヤルボックスの前方シートに座ってい
    た。やがて全観客が起立して、天皇皇后両陛下、続いてアベリ
    イ・ブランデージ国際オリンピック委員会会長を迎えた。メー
    ンポールに五輪旗、日章旗、東京都旗がはためく中で、君が代
    が吹奏された。フレッドも正子も、君が代を聴くと、いつもな
    がら粛然とした思いと、熱い思いがないまじった身の震えるよ
    うな感動を覚える。
    
     続いて選手団の入場。和田夫妻が東京誘致を働きかけた国の
    一つ、キューバの選手団は、ロイヤルボックスの前で、内ポケ
    ットから日の丸の小旗を取り出し、一斉に振りながら行進して
    いく。拍手と歓声がスタンドにこだました。フレッドはキュー
    バのモインク委員の親日的な態度を思い出した。
    
     続いて、ブランデージ会長が挨拶で「オリンピック大会は全
    世界のものである証左として、ついにここ東洋で行われようと
    しています。」と述べた。引き続き、天皇陛下が開会宣言をさ
    れると、聖火台の下でファンファーレが鳴り渡った。フレッド
    は涙がこぼれてならなかった。
    
         日本はこれで一等国になったのや。戦争に敗れて四等国
        になったが、よう立ち直った。日本人は皆よう頑張った。
        
         天皇陛下とマッカーサー元帥の並んでる写真は忘れられ
        ませんねえ。新聞で見たときパパが悔し涙を流したのを覚
        えていますか?
        
         あたりまえや。あんなショックは生まれて初めてやった。
        マッカーサーはノータイで、シリのポケットに両手をつっ
        こんどった。天皇陛下はモーニング姿の正装だったのに、、
         天皇さんがオリンピックの開会を宣言したことは、日本
        が一等国になった証やと僕は思う。ほんまよかった。

     東京大会でのメダル獲得数は、金16、銀5、銅8と、金メ
    ダル数では、米ソに続く第3位の堂々たる成績を上げた。

■6.「よし、引き受けた」■

     続く1968年のオリンピックでは、和田は東京招致を支援して
    くれたお礼に、2ヶ月近くもメキシコに滞在して、招致活動か
    ら開催までのあらゆるノウハウを伝授した。和田の献身的な協
    力に感動したロペス大統領はメキシコ招致成功の礼状と記念品
    を和田に贈った。
    
     さらに1969年には、ロサンゼルス市長からオリンピック開催
    の協力を求められた。ロス港の港湾委員会委員という要職に任
    命して、その立場からオリンピック誘致を支援して貰いたいと
    いう。和田は快諾し、オリンピックだけでなく、ロス港と和歌
    山港、清水港との姉妹港関係締結などを通じて、日米貿易発展
    に尽力した。
    
     和田は後には、港湾委員会委員長まで務めたが、71年に余生
    を日系人の老人ホーム建設に打ち込む決意を固めて、港湾委員
    会を辞任することとした。ところが、ロス市議会は満場一致で
    和田の留任要請決議を行ったのである。市議会始まって以来の
    椿事だった。ある議員はこんな支持発言をしている。
    
         ミスター・ワダに頼み事をして叶えてくれないことはあ
        りません。どんなことにも、嫌な顔をせず、「よし、引き
        受けた」と言ってくださいます。ミスター・ワダほど誠実
        で心やさしく、実行力のある人をわたしはほかに知りませ
        ん。
        
     市会議員たちが自宅に詰め寄っても、和田の決心は変わらな
    かった。市長は記念の盾と感謝状を贈って、和田の功績を讃え
    た。しかしその後、和田はロサンゼルス・オリンピック組織委
    員の51人の中でただ一人東洋系人種の中から選ばれ、再び、
    日系老人ホーム建設とオリンピック誘致・準備と、多忙な毎日
    を続ける。

■7.日系引退者ホームの父■

     パイオニアとして働いてきた日系一世たちは年老いている。
    いまこそ、お世話になった彼らに恩返しをすべきだ。和田はそ
    う考えて、1961年に日系二世の有力者と相談して、日系社会福
    祉財団を組織し、シティ・ビュー病院を賃借して日系人のため
    の診療を開始した。年取った一世たちにとって、日本語で日本
    人の医者と看護婦に診てもらえることは、何よりの安心だった。
    
     69年には、看護病院の敬老ナーシング・ホームを開設したが、
    施設建設のために、50万ドルの融資が必要となり、和田や他
    の日系人リーダーは、自宅を担保物件として提供した。港湾委
    員長を辞任した71年には、姉妹施設として南敬老ホームの開設
    にこぎつけた。
     
     75年には、3エーカーの土地と大小13棟からなるユダヤ系
    老人ホームを100万ドルで購入し、日系引退者ホームを開い
    た。資金は和田がリーダーとなって、わずか5ヶ月の募金活動
    で調達した。一世たちは体が言うことをきかなくなると、日本
    人の生活に戻りたくなる。日本食をとり、日本語で仲間と語り
    合う生活こそ、望みなのである。
    
         しかし、老人たちを救うだけが目的ではありません。三
        世、四世の若者達に後顧の憂なくアメリカ社会で仕事をし
        てもらうためにも、引退者ホームは必要なんです。・・・
        ビジネスの世界で失敗するとお年寄りの面倒が見切れない
        とか、老後が心配だとかいうので、お前たちが失敗しても
        大丈夫なように、おまえたちのお年寄りは全部面倒見てや
        る、だから失敗を恐れずに思い切って仕事をやれと僕は言
        うとるんです。

     和田の考えは、常に前向きである。

■8.アメリカで根付いた日系社会■

     1989年3月17日、5階建て収容人員154名の日系引退者
    ホーム新館が完成し、オープンセレモニーが開かれた。新館建
    設のための募金活動は日本でも行われ、和田は何度も来日して、
    各方面に働きかけた。今まで和田にお世話になったスポーツ関
    係者や政財界が和田の呼びかけに積極的に応え、日本での寄付
    総額は4億36百万円に達した。
    
     式を前に、広場で新館を見上げる和田夫妻の目は潤んでいた。
    正子は言った。
    
         この施設は、アメリカ全体の日系社会のシンボルになる
        と思います。そして3世、4世へと時代を超えて受け継が
        れてゆくんです。
        
         うん。僕たちの苦労は報われたのや。
    
         パパは7人、私は5人兄弟で、わたしたちの従兄弟は2
        6人おるけど、それぞれがファミリーを持って、二世、三
        世へと扇のようにひろがってくるんですねえ。日系社会は
        アメリカで根づきましたが、われわれを受け入れてくれた
        アメリカに感謝しなければなりませんねえ。
        
     二人はいつのまにか、老人達の輪の中にいた。和田に向かっ
    て手を合わせる老人もいる。寄る辺のない日系老人達にとって
    和田は拝みたくなるような存在だった。「元気そうやねえ」と、
    和田に優しく手を握られ、涙ぐむ人も多かった。
    
    「誠実、勤勉、奉公」など戦前の日本人が大切にしていた生き
    方を台湾では「日本精神」と呼ぶが[a]、和田に代表される日
    系人たちは、その生き方で北米や中南米の地に受け入れられ、
    しっかりと根をおろしたのである。
    
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(062) 台湾史に見る近代化の条件
   李登輝総統:植民地というのはトクな面がある。その本国のい
  ちばんいい所が植民地で展開されるからだ。
b. JOG(016) 国際親善をそこなうマスコミ報道
   ブラジルの地に根付いた日系人の心を知らせない日本の報道陣

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 「祖国へ、熱き心を」★★★、高杉良、講談社文庫、H4.5

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                                        Italia_keikoさんより

     早いものでイタリアに移り住んで16年、当初、日本人の集ま
    るレストランに入り浸り、イタリアに住みながらも日本人観光
    客の目でイタリアを見ておりました。後にイタリア人の夫を持
    ち、息子が誕生してもさほど変わらなかったように思います。

     それが、夫が勧めてくれたインターネットによって変化しま
    した。つまりネット上で貴殿をはじめ日本の記事をいろいろ読
    み始め、それまで自分がイタリアのことを吸収することばかり
    に時間を費やしていたのが、主人をはじめとする身近なイタリ
    ア人に日本のことを話したくなったのです。貴殿の紹介してく
    ださる誇るべき日本人の歴史を知るにつれて、黙ってはいられ
    なくなったというところでしょうか。
    
     今日も息子のラグビーの試合について行ったのですが、応援
    の合間に宗教の話になりました。息子は9歳で、未だどの宗教
    にも属していないので、そのことを説明し、加えて神道や仏教
    がほかの多くの神々に見る生贄を欲さなかった事、組織に縛ら
    れずに、自分がお参りしたい時にお参りすればいいことなど、
    自分にできる範囲で説明しました。その場にいたイタリア人み
    んなが賞賛してくれて、うれしくなりました。

     縁合って知り合ったイタリアに恋をして住み着いた私ですが、
    あくまでも日本は私の母国、主人と母が仲良くしてくれたら、
    こんなにうれしいことはありません。外国に住む多くの人が同
    じような板ばさみの状態で生活していると思います。何も奇麗
    事ばかりを紹介するつもりではありませんが、自分の母を誇れ
    るというのは実に喜ばしいことです。どうぞ末永く、我々日本
    人にこれまで知らされていなかった我々の誇るべき先輩の話を
    語り継いでください。  
■ 編集長・伊勢雅臣より

     イタリアも長い歴史を持ち、個性豊かな国です。豊かな個性
    ある国ほど、他国の個性を尊重しうるのでしょう。
    
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まぐまぐ28,371 Melma!1,852 カプ1,819 Macky!845 Pubizine789 

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