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-----Japan On the Globe(189)  国際派日本人養成講座----------
          _/_/   
          _/     人物探訪:蔡焜燦〜元日本人の歩んだ道
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_/ _/_/_/        「日本」はあなた方現代日本人だけのものでは
_/ _/_/         ない。我々「元日本人」のものでもある。
-----H13.05.13----33,684 Copies----253,200 Homepage View----

■1.歴史を共有した同じ国民■

     司馬遼太郎は「小生は七十になって、自分は『街道をゆく』
    の『台湾紀行』を書くために生まれてきたのかな、と思ったり
    しています」と言っていた。
    
     台湾の日本統治時代に育った人々の間で、「台湾紀行」はか
    つての祖国・日本が再び台湾に関心を寄せてくれたと大変な熱
    狂を呼び起こした。李登輝前総統の曽文恵夫人は、司馬遼太郎
    が亡くなった時に、次の追悼の和歌を詠まれた。もちろん日本
    語で。
    
        今もなお心にうかぶ台湾紀行夢と希望の国なれかしと
        
     この「台湾紀行」に、ガイド役として登場するのが、蔡焜燦
    (さい・こんさん)氏である。平成5年1月2日、取材のため
    に台北を訪れた司馬を、蔡さんは日本陸軍の「歩兵操典」その
    ままの挙手の礼で出迎えた。終戦時、蔡さんは奈良で陸軍航空
    整備学校に学んでいた。その時の教官が司馬と同期に当たるた
    め、「上官」として敬礼で迎えたのである。
    
     司馬はすこしためらい勝ちに答礼したが、なかなか挙手の手
    を下ろさない。蔡さんは直立不動のまま「司馬先生、そちらが
    上官だから先に下ろしてください」と言わねばならなかった。
    以後、この敬礼は二人だけの挨拶として続けられた。司馬と蔡
    さんはかつて歴史を共有した同じ国民であったのだ。

■2.「日本人」として生きていく道■

     明治28(1895)年5月、日清戦争の勝利により台湾が日本に
    割譲されると、日本軍は住民に2年間の国籍選択猶予期間を与
    え、清国を選ぶものは自由に大陸に引き揚げることを認めた。
    蔡さんの父親はこの時、16歳。一度は祖先の地・福県省に戻
    ったが、そこに住んでいた叔父は、中国社会の腐敗ぶりから、
    せっかく日本人になれる機会を掴んだ蔡さんの父親に「お前は
    こんなところにいるような人間ではない」と帰還をすすめた。
    蔡さんの父親はこうして「日本人」として生きていく道を選ん
    だ。
    
     蔡さんは昭和2(1927)年、台湾中部の清水に生まれた。台湾
    総督府は教育の普及に力を入れており、蔡さんも台湾人児童の
    ための清水公学校に入った。ここでは鹿児島出身の河村秀徳校
    長が、地元の人々の寄付を集めて、16ミリ映画や校内有線放
    送による視聴覚授業など、当時の日本本土にもなかった先進的
    な教育を試みていた。
    
     各校には教育熱心な日本人教師が配置されていた。蔡さんの
    後輩に優秀だが貧しくて中等学校にいけない生徒がいたが、あ
    る日本人の先生はその父親を訪ねて、「私が学校に行かせるか
    ら」と言って5年間の学費を肩代わりしてくれた。日本人教師
    と台湾人生徒の間には強い師弟関係が生まれ、現在も日本から
    恩師がやってくると、台湾中から教え子が集まり、また自分の
    郷里に招こうと恩師の奪い合いになるほどである。
    
     このような形で日本統治下での教育の普及が進み、昭和20
    年での就学率は92%に達していた。ちなみに4百年間オラン
    ダの植民地だったインドネシアでは3%だった。[a]

■3.大地震■

     昭和10(1935)年、台湾中北部を大地震が襲った。当時8歳
    だった蔡さんも、多くの家屋が倒壊し、行き場を失った被災者
    が恐怖にうち震える姿を見た。この時に、昭和天皇から遣わさ
    れた入江相政侍従長が被災地の民家を一軒づつ廻って、お見舞
    い金を下賜された。
    
     蔡さんの実家が持っていた貸家のうち、全壊は10円、半壊
    は5円が下賜された。蔡さんの父親は、被害にあった借家人た
    ちに見舞金をそのまま与えた。また軽傷を負った蔡さんの母も
    1円を頂戴したが、その1円札は丸い額に入れ、昭和20年ま
    で壁にかけられていた。少年だった蔡さんにも昭和天皇の国民
    への愛情が伝わり、皇室に対する親近感が心の中に芽生えた。
    
■4.立派に戦ってくる■

     昭和16(1941)年、大東亜戦争が始まる。真珠湾でのアメリ
    カ太平洋艦隊殲滅、マレー海戦でのイギリス東洋艦隊撃滅の報
    に台湾民衆も興奮し、内地同様に提灯行列で祝った。14歳に
    なっていた蔡さんも「いつの日にか戦の庭に馳せ参じたい」と
    心に誓った。台中県には海軍の飛行場があり、蔡さんは塹壕堀
    りの動員作業に参加して、生まれてはじめて洋食をご馳走にな
    った。
    
     台湾人には軍人への道が閉ざされていたが、昭和17年、戦
    線の拡大と共に、門戸が開かれた。志願兵制度が発表されるや、
    千人の募集に40万人の志願者が殺到し、中には血書嘆願する
    ものもいた。蔡さんも遅れをとるまいと少年兵募集に応募し、
    昭和20年1月、少年航空兵として陸軍航空学校入学を許され
    た。日本への出発の前夜、蔡さんは友人にこう語った。
    
         チャンコロといって俺をバカにする内地人は嫌いだ。し
        かし俺は日本という国が好きだ。天皇陛下が好きだ。だか
        ら俺、立派に戦ってくる。
        
     蔡さんの父親は、戦費捻出のために金製品の買い上げを呼び
    かける日本政府に協力して、家の金製品を残らず差し出そうと
    した。金の指輪一つだけは残そうとした母親と口論していた父
    親の姿を、蔡さんは思い出す。「ああ、親父は、いい日本人に
    なろうとしているのだ」と蔡さんは誇りに思った。

■5.内地にて■

     蔡さんは奈良市高畑の岐阜陸軍航空整備学校奈良教育隊(現
    在の奈良教育大学)に入校した。そこでは台湾で経験したよう
    な差別はまったくなく、上官達からかわいがられた。教科も飛
    行機整備などの専門分野よりも、数学などの一般教科に多くの
    時間が割かれた。
    
     ここでは伝染病予防のために「ハエ取り競争」という競技が
    あり、負けると夜間の不寝番という罰則が待っていたのだが、
    班長の安原万寿太(ますた)軍曹は、「お前たちは、必死にな
    ってハエなど採らんでもいい。その分しっかり勉強せい。学生
    の本分は勉強だ。罰則の不寝番は俺がやってやるから心配する
    な」と言ってくれた。そんな班長を不寝番に立たせては申し訳
    ないと、蔡さんの班は頑張って常に中隊一位の成績を収めた。
    
     8月、敗戦。ある中隊長から「君たちはまだすぐには台湾に
    帰れないだろうから、軍の払い下げの山で雑木を切って我々と
    一緒に炭を作ろうじゃないか」と誘われた。こうして蔡さんは
    10数名の仲間と一緒に京都の美山町の山奥で炭焼きを始めた。
    地元の人達が「兵隊さん、これをご飯の足しにしてください」
    と大豆や山菜、松茸、山芋などを差し入れてくれた。
    
     12月、連合軍の命令で台湾への帰還を命ぜられ、佐世保で
    船を待つ。「中華民国台湾青年隊」の腕章を与えられ、一躍戦
    勝国民にされたが、複雑な心境だった。
    
     佐世保の復員事務局では「第○小隊第○班50名」と言えば、
    50名分の食事が用意された。蔡さんたちはこの手で食料を余
    分に手に入れて「味噌焼きおむすび」を作り、佐世保や、遠く
    京都にまで戻って、飢えた戦災孤児たちに与えた。

■6.祖国への帰還■

     昭和21(1946)年1月1日、接収された駆逐艦「夏月」で台
    北に到着。しかし出迎えた軍楽隊に続く中華民国の兵士を見て、
    帰還の喜びは心の中で音をたてて崩れた。
    
     ぼろぼろの綿入れ服に唐傘を背負い、わらじを履いている者、
    天秤棒の竹籠に鍋釜をのぞかせている者、全員が胸のポケット
    に歯ブラシをさし、醤油で煮詰めたような汚いタオルを腰にぶ
    ら下げている。規律正しい日本陸軍とは似ても似つかぬ姿であ
    る。
    
    「俺はこんな連中と一緒になるのはいやだ!」と、共に帰還し
    た二人の戦友は、引き揚げる日本兵に紛れて、日本に戻ってし
    まった。日本軍の制服のまま、日本語を話していれば、疑われ
    ることもなかったのである。

■7.金、金、金の世界■

     中華民国政府による台湾統治が始まると、日本統治時代には
    考えられない不正と汚職がはびこり始めた。大陸から派遣され
    てきた警察官は何の罪もない人々を微罪で捕まえては、保釈金
    を要求した。
    
     蔡さんは従兄弟が校長を務める小学校の体育の教師となった
    のだが、ある日、用務員が警察の備品を便所に投げ入れた、と
    いう疑いで拘束された。ゴム・ホースでさんざん殴りつけられ
    た用務員は、自分がやったと自白させられた上で、蔡さんに命
    ぜられたと苦し紛れの証言をした。
    
     出頭命令を受けて、蔡さんが交番に行くと、用務員はおどお
    どした上目遣いで「蔡先生、助けてください」と言う。蔡さん
    が議論で警官を負かすと、怒った警官が拳を振り上げてきた。
    ちょうどそこに校長がやってきて、警察局長と話をつけて、事
    なきを得た。
    
     教員は業者からノートを安く仕入れては、生徒に定価で売り
    つけるようになり、少しでも裕福な生徒のいる学校に移って身
    入りを多くしたいと県の教育課や校長に賄賂をおくるようにな
    った。すべては金、金、金の世界になってしまった。
    
■8.2・28事件の惨劇■

     1947年2月27日、台北の路上でタバコ売りをしていた老婆
    が、専売局の役人に暴行されたのがきっかけとなって、怒った
    民衆が立ち上がった。翌28日、群衆が旧総督府前の広場に集
    まると、憲兵隊が機銃掃射を行い、十数名が死傷した。各地で
    抗議行動が展開され、ラジオ放送局を占拠した民衆が、台湾全
    土に向けて非常事態を告げた。2・28事件の始まりである。
    [b]
    
     ラジオからは日本語で「元○○飛行隊のものは○○に集結せ
    よ」などと呼集がかかり、軍艦マーチや君が代行進曲が流され
    た。「基隆港に日本からの援軍が上陸したらしいぞ」という噂
    も流れた。
    
     3月2日、蔡さんの町にも暴動が飛び火し、群衆が若い外省
    人の警察局長宅に押し入った。立派な革のトランクがこじ開け
    られると、中には札束がぎっしりと詰め込まれている。民衆は
    この「汚れた金」を燃やしてしまった。
    
     3月8、9日に大陸から送られてきた2個師団が上陸すると、
    報復が始まった。中国兵はトラックに据え付けた機関銃を乱射
    しながら町の大通りを駆け抜け、無差別殺戮を行った。さらに
    医師や教師、弁護士、学者などの知識層が次々と逮捕され、裁
    判もなく処刑されていった。犠牲者は3万とも5万とも言われ
    ている。
    
     蔡さんの知人で基隆警察局の用務員だった人も検挙され、手
    のひらに太い針金を通されて、9人一緒につながれ、銃で撃た
    れて、海に突き落とされた。幸い列の一番端で銃弾が当たらず、
    手のひらの針金を抜いて、九死に一生を得た。また当時17歳
    だった蔡さんの実弟は、北京からやってきた先生に言われる通
    り書いた一枚のメモがもとで、10年の懲役刑を科せられた。
    
■9.日本人よ胸を張りなさい!■

     1968(昭和43)年10月、ジャパンラインという船会社の代
    理店の営業部長として、蔡さんは戦後初めて日本の土を踏む。
    
     案内役の高島嘉道氏に頼んで、靖国神社に連れて行ってもら
    った。かつて共に戦い、祖国に殉じた2百数十万の英霊に鎮魂
    の祈りを捧げたかった。ここには台湾人戦没者2万7千余柱も
    祀られている。その一人が李登輝氏の実兄で、海軍機関上等兵
    としてフィリッピンで戦死した李登欽氏(改姓名・岩里武則)
    である。
    
     社に向かうと、高島氏が胸ポケットの定期入れから一枚の写
    真を取り出して、言った。「蔡さん、これ・・・私の兄です。
    フィリピンで戦死しました。蔡さん、今日は本当にありがとう
    ございます。」「この時、高島氏と私の心が一つになった」と
    蔡さんは語っている。
    
     戦後の価値観で、過去を批判する現代日本人に、蔡さんは次
    のように語りかけている。
    
         日本統治時代、日本人教師達は、我々台湾人に「愛」を
        もって接してくれた。そして「公」という観念を教えてく
        れたのだった。愛された我々は、日本国家という「公」を
        愛し、隣人を愛したのである。[p198]
        
         どうぞ心に留めていただきたい。「日本」はあなた方現
        代日本人だけのものではない。我々「元日本人」のもので
        もあることを。[p245]
        
         台湾には、日本がいまこそ学ぶべき「正しい日本史」が
        ある。どうぞ台湾に正しい歴史を学び、自信と誇りを取り
        戻していただきたい。そして誇りある日本が、アジア地域
        の安定と平和を担う真のリーダーたらんことを願う。
        
         日本人よ胸を張りなさい![p247]
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(108) 台湾につくした日本人列伝
b. JOG(062) 台湾史に見る近代化の条件

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 蔡焜燦、「台湾人と日本精神」★★★★、日本教文社、H12(JO
   G注:本書は、3万部と売れ行き好調にもかかわらず、著者の意
   に反して、販売中止となりました。どこからかの圧力に屈した
   のでしょう。「日本人よ胸を張りなさい!」と語る蔡さんに対
   し、日本人として恥ずかしい限りです。
  平成13年8月、小学館文庫より再刊されました。 
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「人物探訪:蔡焜燦〜元日本人の歩んだ道」について

                                   片倉さん(台湾在住)より
     今回の蔡さんの回も興味深く読ませていただきました。私自
    身、蔡さんとは親しくおつきあいいただいており、結婚式の際
    には乾杯の音頭をとっていただいたりしました。台湾に残る日
    本統治時代の遺構を探し歩いて、その記録を写真と文章で紹介
    しています。 http://katakura.net/

                                              中山さんより
     涙があふれてしかたがありませんでした。なんと素晴らしい
    われわれの先人たち!誇りに思います。またわれわれ日本人は、
    蔡さんのような方がおられることに感謝しなければいけません。
    蔡さん、ありがとう。ありがとう。ありがとう。日本の良いと
    ころを認めてくださってありがとう。
    
                                    今岡さん(上海在住)より
     過去の偉人たち ふつうの人たちが知らない偉人の方々。彼
    らの残した大きな大きな足跡があればこそ今の日本があったと
    思います。私たち、海外に勤務する日本人も、偉人たちの心を
    見本として、少しでも自分の足跡が残るように心がけるべきと
    おもいます。異国で聞く日本人の心、これに勝る心のリハビリ
    はありません。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     今回頂いた多数のおたよりは、片倉さんにお願いして、蔡焜
    燦さんに送っていただけることになりました。

■書籍版購入の方々からのお便り

     中学校の社会科教師です。昨年から今年にかけて、2年生の
    歴史で「過去の日本・日本人を誇りに思う」立場から授業をし
    ました。もっと聞きたいというような目で前傾してくる生徒た
    ちをみて、社会科は日本を愛する教科でなくてはならぬとしみ
    じみ思いました。この講座がどれだけその授業を豊かに肉付け
    してくれたか計りしれません。
                                                            
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     こんにちは。いつも国際日本人養成講座のメルマガを興味深
    く読ませていただいています。中二の女子で、まだまだひよっ
    こですが同じ日本人としてさきにこのような方々がいられたこ
    とは私の誇りです。人はみな感謝の念がなければ社会において
    共同生活を営むことができないと思います。このような素晴ら
    しい先人がいることに感謝し、願わくば自分もできるだけ近い
    ようになりたいとも思います。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     第2巻発売開始以来、400人以上もの方々からお便りをい
    ただき、感激しています。特にこれからのわが国を担う青少年
    の志を引き出す上で多少なりともお役に立てているなら、本当
    に嬉しく思います。

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mag2:27912 melma!:1885 kapu:1856 Pubzine:1156 Macky!:875 

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