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-----Japan On the Globe(191) 国際派日本人養成講座---------- _/_/ _/ 人物探訪:栗林忠道中将〜精根を込め戦ひし人 _/_/ _/ _/_/_/ 「せめてお前達だけでも末長く幸福に暮らさせ _/ _/_/ たい」と、中将は36日間の死闘を戦い抜いた。 -----H13.05.27----34,042 Copies----259,667 Homepage View---- ■1.「名誉の再会」式典■ 昭和60(1985)年2月19日に硫黄島で行われた「名誉の再 会」式典に参加した当時高校2年生のマイケル・ジャコビー君 は次のような手紙をレーガン大統領に送った。この手紙は国際 ロータリークラブが行った「平和への手紙」コンテストに全世 界から応募された4万5千点から最終的に選ばれたものである。 しかし、あの時あの場で次に何が起こったかを大統領御 自身に見ていただきたかったと思います。日本軍兵士の未 亡人や娘とアメリカ軍兵士の妻や子供たちが、たがいに近 寄ったかと思うと抱きしめあい、身につけていたスカーフ や宝石などに思いのたけを託して交換しはじめたのです。 男たちも近づいてきて、最初はためらいがちに握手しまし たが、やがて抱き合うや声をはなって泣き出しました。 ・・・・ ふと気がつくと、誰かが私の頭に帽子をのせてくれまし た。かつての日本軍人です。笑顔を見せて自己紹介し、そ の日本軍の作業帽を私にくれると言いました。私の祖父も 近づいて話しはじめました・・・・ 私には余人には知り得ぬなにかがわかったような気がし ました。昨日の敵が今日の友となり得ることを、祖父や祖 父と手を握りしめている旧日本軍兵士によって、全世界の 人々に示してもらいたい、とさえ思いました。・・・・[1,p13] ■2.わが海兵隊がこれまでに戦った最も激越な戦い■ ジャコビー君の祖父は、この硫黄島での40年前の戦いに参 加していたのである。硫黄島はサイパンなどのマリアナ諸島と 東京の中間の小笠原諸島に属する。マリアナ諸島からB29が 日本本土を空襲するためには、日本の航空兵力が駐屯する硫黄 島を占領しておくことが不可欠だった。 徒歩半日で一回りできるほどのこの小島を、米軍は5日間で 占領する計画だったが、2万余の日本軍は36日間持ちこたえ、 大半が戦死したが、7万5千の米軍に死傷者2万6千近い大損 害を与え、実質的には敗戦ではないか、といの一大論争が米国 内に巻き起こった。 海兵隊の最高指揮官スミス中将は「硫黄島の戦いは、わが海 兵隊がこれまでに戦った最も激越な戦いである」と述べた。 ワシントンの国立アーリントン墓地には、6名の海兵隊員が硫 黄島の擂鉢山の山頂に星条旗を押し立てているモニュメントが 設置されている。 日米の軍人が「名誉の再会」をしようとすれば、それは真珠 湾でも、広島でもなく、両軍が互角の死闘を演じたこの硫黄島 こそもっともふさわしい場所であった。 ■3.東京が少しでも長く空襲を受けないやう■ 死闘を演じた日本軍の指揮官は、栗林忠道陸軍中将であった。 中将は戦闘前に、家族に以下のような手紙を書いている。 島の将兵○○(JOG注:機密を守るための伏せ字、「2 万」か?)は皆覚悟を決め、浮ついた笑い一つありません。 悲愴決死其のものです。私も勿論そうですが、矢張り人間 の弱点か、あきらめきれない点もあります。・・・・・ 殊に又、妻のお前にはまだ余りよい目をさせず、苦労ば かりさせ、これから先と云ふ所で此の運命になったので、 返すがえす残念に思ひます。 私は今はもう生きて居る一日一日が楽しみで、今日会っ て明日ない命である事を覚悟してゐますが、せめてお前達 だけでも末長く幸福に暮らさせたい念願で一杯です・・・・ 私も米国のためにこんなところで一生涯の幕を閉じるの は残念ですが、一刻も長くここを守り、東京が少しでも長 く空襲を受けないやうに祈っています。 「一刻も長くここを守り、東京が少しでも長く空襲を受けない やう」という一節に、栗林中将の明確な狙いが見てとれる。死 に急ぐのはかえってたやすい。2万の兵に玉砕を覚悟させなが らも、「一刻でも長くここを守る」ために、長く苦しい戦いを いかに続けるか、そこに中将の苦心があった。 ■4.地下からのゲリラ戦■ ワシントンの日本大使館に武官として駐在したこともある中 将は、米国の巨大な工業力を知り尽くしていた。攻めてくる米 軍を水際で迎え撃とうにも、空爆や艦砲射撃ですぐに殲滅され るだけである。そこで全島に強固な地下壕陣地を設け、空爆・ 砲撃をしのぎつつ、上陸してきた米軍を地下壕から自在に出没 してゲリラ戦で消耗を強いるという作戦をたてた。 しかし地下10mでは温度は49度にも達する。兵たちはふ んどし一つの姿で、ツルハシ、スコップで掘っていくのだが、 1回の作業は3分から5分、5人一組で一昼夜掘っても1m進 むのがやっとだった。 さらに将兵を苦しめたのは水不足である。時折の雨水だけで は、一日4人に水筒1個分の水の配給しかできなかった。飯米 は硫黄臭い地下水か海水で炊くが、ひどい下痢で悩まされた。 栗林中将は自らの食事も水も特別扱いを厳禁とし、全島を廻 っては地下壕作りを陣頭指揮した。兵たちは中将の作った「敢 闘の誓い」を口ずさみながら、苦しい作業を進めた。 一、我等は各自敵十人を殪(たふ)さざれば死すとも死せ ず 一、我等は最後の一人となるとも「ゲリラ」に依って敵を 悩まさん・・・ こうして米軍が攻撃開始した昭和20年2月の時点では、総 延長約18キロに及ぶ地下洞が掘られ、島南部の擂鉢山には6 キロの蜘蛛の巣状の地下陣地が張りめぐらされた。 ■5.Black death island! (黒い死の島だ!)■ 2月16日、戦艦7隻を中心とする26隻の米艦隊が硫黄島 を包囲した。その南80マイルには護衛空母11隻が配置され ていた。やがて3日間に及ぶ艦砲射撃と空爆が開始された。硫 黄島戦終了までに打ち込まれた艦砲弾は29万発、1万4千ト ンに達した。着弾で地面が大地震なみに揺れるのを、日本軍は 地下で堪え忍んだ。 上陸を前に海兵隊員たちは双眼鏡で、砲撃の黒煙が上がる硫 黄島を見つめていた。南海の島だというのに、緑の椰子の木も、 白い砂浜もない。見えるのはただ地獄絵図のような擂鉢山と、 黒い海岸だけである。「Black death island! (黒い死の島だ! )」と誰かが不吉な声をあげた。 19日午前9時、水陸両用装甲車500隻が上陸を開始。日 本軍が沈黙を守る中、約3キロの海岸に、3万人の兵員と4万 トンの機材が送り込まれた。1mあたり10人の人間と、13 トンの機材で海岸はごったがえした。 9時29分、日本軍が一斉に砲撃を開始した。前方と左右の 三方から、日本軍の迫撃砲が集中弾を浴びせた。戦車が燃え、 水陸両用車が吹き飛び、胴体や手足が散乱した。長さ1.5m、 直径30センチもの大型砲弾が炸裂すると、周囲20mの人間 を殺し尽くした。まさに阿鼻叫喚の地獄だった。 最初の一日で島の南半分を確保する計画だったが、米軍は海 岸部に釘付けにされ、上陸後18時間で死傷者は2,312人に及 んだ。報告を聞いたルーズベルト大統領は戦慄の余り、息をの んだ。上陸開始51時間後には死傷者は5千人を超え、米国民 は南北戦争でのゲティスバーク激戦以来の大流血にショックを 受け、以後、死傷者数は報道されなくなった。 ■6.「暴走」命令■ しかし勇猛な海兵隊はそれでも前進を諦めなかった。「ここ に転がっていたら、ジャップの射撃のまとになるだけだ。」と 捨て鉢の気持ちになった所に、がむしゃらに前に進め、という 「暴走」命令が発せられた。死者も負傷者も無視して、海兵達 は半狂乱になって前進した。 22日には、擂鉢山目指して風雨に打たれ、泥の中をもがき はい回りながら前進した。海兵師団参謀W・クラーク大尉は言 う。「あの視界の悪い雨の中で、どうやって狙いを定めるのか、 日本兵の姿は見えないのに、こちらが頭をあげると、とたんに 正確な弾丸が飛んでくる。ジャップが射撃の天才であることは、 われわれの負傷が頭と腹に多いことからも、分かる。」 しかし、雨の中では日本軍の発砲が閃光となって見えてしま う。米軍はそこに砲撃を集中して、塹壕やトーチカを一つづつ 潰し、一歩一歩前進していった。米軍が擂鉢山を攻略し、星条 旗が揚がったのが23日午前10時31分。この写真が翌日、 全米の新聞のトップを飾り、アーリントン墓地の硫黄島モニュ メントとして残されることになる。 南部の擂鉢山を占領し、残るは中北部のわずか数キロ。しか し、今までに数えた日本兵の死体はわずかに1,231に過ぎず、 2万を超す日本兵がその数キロに手ぐすねひいて米軍を待ちか まえていた。 ■7.今までの戦場では見参し得なかった巧みさ■ 日本軍の巧妙なゲリラ戦は、米軍第4師団戦闘詳報に次のよ うに描写されている。 彼ら(日本兵)はわが砲撃の間は地下にかくれ、終わる と外に出て待つ。われわれが近づけば集中射撃を浴びせ、 われわれが損害をうけて釘付けになると、いくつかの銃器 と死体を残して、またトンネルにもぐりこむ。 わが大隊長は、ロケット、火砲の援護を要請して進むが、 たどりついた陣地には敵が置いた銃と死体しかなく、不審 の首をひねっているとまたもや集中する銃弾に包囲される。 負傷者が出て「コーズマン!」と衛生兵を呼ぶと、「コーズ マン」と答えて近づくのは、しばしば米兵の軍服を奪い、衛生 兵に扮装して、銃剣と手榴弾を握った日本兵だった。 何気なく転がっている酒びんや鉄カブトを持ち上げると、仕 掛けられていた爆薬が爆発した。「今までの戦場では見参し得 なかった巧みさ」と米軍戦闘詳報は舌をまく。 ■8.矢弾尽き果て■ こうした死闘を1ヶ月近くも続けた後、日本軍はようやく島 の北辺に追いつめられ、残る人員も約9百人になっていた。3 月16日午後、栗林中将は参謀総長宛に訣別の辞と辞世を電報 で送る。 戦局最後の関頭に直面せり、敵来攻以来麾下(きか) 将兵の敢闘は真に鬼人を哭(な)かしむるものあり・・・ 国の為重き務(つとめ)を果たし得で矢弾尽き果て散るぞ 悲しき 栗林中将はなおも、目的は玉砕することではなく、敵に出血 を強要することだとして、10日間の抵抗を続け、最後の出撃 は26日の夜明けだった。約4百の将兵で米軍の後方部隊を急 襲し、死傷者172人の損害を与えた。中将は攻撃の途中で負 傷し、歩けなくなった所を「屍を敵に渡すな」といい残して、 部下に介錯を命じた。二人の部下は遺体を大木の根本に埋めた 後に、自決したと伝えられている。 ■9.精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき■ 硫黄島が陥落するや、日本本土への空襲が始まった。「重き 務を果たし得で」と中将は詠んだが、その後の歴史の展開に従 って、この36日間の死闘は次第に重い意味を持つようになっ ていく。 2万余の日本軍が守るちっぽけな小島を奪取するのに、米軍 は2万6千近くの死傷者を出した。残る内地237万余、外地 310万余の陸軍兵力が日本全土と広大な中国大陸で、同様の ゲリラ戦を展開したらどうなるか? 硫黄島の戦いでつきつけ られたこの問いを、米国は沖縄戦でもう一度思い知らされるこ とになる。 おりしもこの戦いの直後の4月12日、日本の無条件降伏を 主張していたルーズベルト大統領が急死する。無条件降伏の方 針は実質的に変更され、ポツダム宣言の諸条件が提示された。 国体護持を求めて本土決戦を主張する陸軍にも「最終的の日本 国の政府の形態は・・・日本国国民の中に表明する意志により 決定されるべきものとす・・・」との連合軍回答が矛を収める きっかけとなった。[a,b] 鈴木貫太郎首相は、昭和天皇の御聖断をてこに、ポツダム宣 言を受け入れ、綱渡りの終戦を実現した。硫黄島と沖縄での日 本軍の死闘がなければ、無条件降伏要求の方針は変更されず、 歴史は本土決戦へのコースを辿っていたかもしれない。「せめ てお前達だけでも末長く幸福に暮らさせたい」という中将の念 願は、より大きな形で果たされたのではないか? 平成6年2月、小笠原諸島復帰25周年を記念されて、天皇 皇后両陛下は硫黄島に行幸され、鎮魂の御製・お歌を詠まれた。 精根を込め戦ひし人未だ地下に眠りて島は悲しき 慰霊地は今安らかに水をたたふ如何ばかり君ら水を欲( ほ)りけむ (文責:伊勢雅臣) _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「栗林忠道中将〜精根を込め戦ひし人」について 石本さん(アメリカ在住)より 5月28日はアメリカではメモリアルデーで、今話題になっ ている「パールハーバー」という映画を見ました。戦闘シーン は、30分以上続く、大きなスケールですごい迫力でした。そ の戦闘シーンは、一般的に「日本軍は負けた=弱かった」とい う考えに反するものだったと私は思います。 日本軍の戦闘機が始めに真珠湾に着たとき、操縦者は、目下 で「何だろう」と不思議な顔で見上げている、アメリカ人の子 供や人々に「逃げろー」と叫ぶシーンからそれが言えます。ま た、反撃として、関東に落とす爆弾に、アメリカ軍人が親友の フィアンセ(真珠湾で亡くなった)の名前を書いたりしている シーンもありました。 この戦争に関わった全ての人々は、個人でそれぞれの想いを 抱いて戦っていたんだと思いました。最終的にはアメリカが勝 った、と言われる戦争ですが、映画の最後の言葉でもあるよう に、「本当の勝利」というのはなかった、と私も思いました。 そして、この映画が伝える大きなことは、その戦争というもの の、無残さ、残酷さ。私達が想像できないようなことが現実に 起こること。そういうものを、アメリカという国に、教えてく れていると思いました。 私は、このJOGで第2次世界大戦に関わった多くの日本人の 記事を読んできました。学校では学ばなかった歴史的な人々の 強さ、国に対する忠誠心を忘れない日本人に、私はなりたいと 思います。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 米国内で反日ムードを盛り上げているといわれる映画ですが、 日本軍のパイロットが一般市民に「逃げろー」と叫ぶシーンが あるとは初耳でした。確かに軍艦や軍事施設に絞った(今で言 う)ピンポイント攻撃を目指したと言われています。この点が 一般市民への無差別攻撃を行った原爆攻撃や、空襲とは本質的 に異なります。先の大戦に関する日米それぞれの思いと歴史観 があって、しかるべきだと思います。 ■リンク■ a. JOG(101) 鈴木貫太郎(下) b. JOG(151) 阿南惟幾 〜軍を失うも国を失わず ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 平川祐弘、「米国大統領への手紙」★★★、新潮社、H8 2. 児島襄、「将軍突撃せり」★★、文藝春秋、S45 3. ビル・D・ロス、「硫黄島」★★、読売新聞社、S61 ============================================================ mag2:28,070 melma!:1,892 kapu:1,842 Pubzine:1,306 Macky!:932© 平成13年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.