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________Japan On the Globe(244)  国際派日本人養成講座_______
          _/_/   
          _/     Common Sense:ワールド・カップと愛国心
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_/ _/_/_/         朝日新聞はスタジアムで日の丸を振ったり、
_/ _/_/          ペインティングしたりしている若者を心配するが。
_______H14.06.09_____38,231 Copies_____469,094 Views________

■1.若者たちは、どちらへ向かうのだろうか■

     サッカーのワールド・カップが始まった。日本チームの試合
    では、頬に小さな日の丸を描いた熱狂的なサポーターたちが、
    「ニッポン! チャチャチャ ニッポン! チャチャチャ」と
    気勢を上げる。大小無数の日の丸が満員の観客席で打ち振られ
    る。こういう時に色鮮やかな日の丸は実によく目立つ。
    
         今夏、「ナショナリズムに戻る日本」と題した特集を組
        んだ米誌「タイム」は、日の丸の扇子を両手に掲げて叫ぶ
        サッカーのサポーターらしき青年の写真を表紙に登場させ
        た。見ようによっては右翼青年だ。果たして日本の若者た
        ちはナショナリズムに目覚めたのか、それとも日の丸・君
        が代の意味が「軽く」なったのか。[1]

     3年前の朝日新聞の記事である。国旗を顔にペイントしたア
    メリカ青年と、「日の丸の扇子」を振る日本人青年とで違いは
    ないだろう。それなのに、ことさらに「扇子」という日本独自
    の道具立てをダシにして、さも日本独特のナショナリズムが育
    っているかのように見せかける報道は恣意的な二重基準である。
    
     そんな記事をさらにダシにして、「ナショナリズムに目覚め
    たのか、それとも日の丸・君が代の意味(軍国主義を鼓舞して
    きた危険な存在、とでも言いたいのだろう)が「軽く」なった
    のか」と、朝日新聞はしたり顔で問いかけ、こう続ける。
    
         スポーツが政治と密接なかかわりを持ってきたことも明
        らかだ。坂上さん(福島大助教授、スポーツ文化論)は著
        書『権力装置としてのスポーツ』の中で、大日本帝国がス
        ポーツを政治に利用しようとしてきた歴史を追う。・・・
        
         二〇〇二年には日韓共催でサッカーW杯が開催される。
        この機会に、日の丸・君が代の強制がさらに進むのではな
        いか。坂上さんはそう予測している。その時、スタジアム
        で日の丸を振ったりペインティングしたりしている若者た
        ちは、どちらへ向かうのだろうか。[1]

     スタジアムから出た若者たちが一斉に銃をとって、中国や韓
    国に侵略に行くとでも朝日は心配しているのだろうか?
  
■2.「政治に利用される」?■

     スポーツが引き出す愛国心を「政治が利用」してきたという
    のは事実であるし、その例もヒットラーのベルリン・オリンピ
    ックから江沢民の北京オリンピックまで事欠かない。だからと
    言って、愛国心を軍国主義に青年を駆り立てる危険な政治手段
    としてタブー視する論法には飛躍がある。
    
    「政治に利用される」のは、スポーツばかりではない。ヒット
    ラーは失業者に職を与え社会政策を充実させて、中産階級の広
    範な支持を集めて、政権を握った。江沢民は外資導入による経
    済発展で国民の不満をそらすことで、中国共産党支配の延命を
    図っている。「政治に利用される」という意味では、社会福祉
    も経済発展も同じである。だから、社会福祉も経済発展も危険
    だと言ったら、その論理的な誤りが明らかになるだろう。
    
     要は愛国心も、社会福祉や経済発展と同様、「悪政に悪用」
    されなければ良いのであって、それ自体を危険視、タブー視す
    るのは間違いなのである。
    
    「スタジアムで日の丸を振ったりペインティングしたりしてい
    る若者たちは、どちらへ向かうのだろうか」などと、下手な文
    学的詠嘆で終わらせるのは、思考停止である。これでは国際社
    会で説得力のある主張をすることも、激変しつつある現代社会
    に対応することもできない。これからの国際派日本人は、こう
    いう思考停止から脱却して、自らの頭と心でたくましく考えて
    いかなければならない。今回はワールド・カップを機に、愛国
    心について考えてみたい。
    
■3.愛国心は国境を超えた共感をもたらす■

     先週、イングランドとアルゼンチンの試合が札幌で行われた。
    両国は82年のフォークランド紛争で戦い、そして前回フランス
    大会ではイングランドのベッカムがアルゼンチンのシメオネの
    挑発に乗って反則を犯して退場となり、チームは敗れた。そん
    な因縁試合の前に、両方のユニフォーム姿のサポーター達が、
    札幌で握手をしている光景がテレビで映し出されていた。
    
     因縁の相手ではあっても、英国とアルゼンチンからはるばる
    地球を半周して母国チームの応援に駆けつける心情は同じだ。
    「おぬしもやるな。お互いのチームのために精一杯応援しよ
    う」とでも言うような、互いへの敬意と共感とが感じられる光
    景だった。愛国心と言えば、すぐに自国崇拝・他国蔑視につな
    がるように考えるのは、思考停止した者の先入観に過ぎない。
    真の愛国心には、国境を超えて人々を共感させる不思議な働き
    もあるのだ。なぜだろうか?
    
■4.「もっと大きな自己」■

     この疑問を解くヒントを投げかけているのが、篠沢秀夫・学
    習院大学教授の「愛国心の探求」[1]だ。フランス文学者がフ
    ランスと日本を比較しながら、愛国心とは何か、について考え
    た異色の本だが、その中に「もっと大きな自己」という言葉が
    出てくる。この言葉を借りれば、はるばる日本まで応援にやっ
    てくるサポーター達は、自国を自分の一部として感じている、
    すなわち、彼らの「自己」は狭い個人の殻からはみ出して、国
    家にまで拡がっているのだ。
    
     幼児は自分のことだけしか考えないが、成長するにつれ、家
    族や郷里を自分の一部として考えるようになり、さらには自分
    の属する国家を「もっと大きな自己」として感じる。それは人
    間として自然な精神的成長のプロセスである。
    
    「大きな自己」を持つイングランドとアルゼンチンのサポータ
    ー同士は、かつての戦争や因縁試合を乗り越えて、互いに共感
    と敬意をもちうるのだ。この「大きな自己」が、もう一回り大
    きくなれば、地球全体、人類全体のことも自己の一部として感
    じられるようになる。

    「大きな自己」の反対は「小さな自己」である。混み合った電
    車の中で、二人分の座席を占有して平気でいる人間。あるいは、
    電車の中で一心にお化粧している女性。こういう人々は、他者
    の存在を一切無視して、自分個人に閉じこもった未熟な「小さ
    な自己」しか持っていない。こういう人々は、どこの国に行っ
    ても尊敬も共感もされない。
    
     戦後教育では、冒頭の朝日新聞のように、ひたすら愛国心を
    「アブナイ」ものとしてタブー視し、逆に「個人」の「権利」
    ばかりを主張することを教え込んできた。それは子供たちが
    「もっと大きな自己」に成長することを封じることであった。
    戦後教育が大人になっても「小さな自己」しか持たない自己チ
    ュウ人間の大量発生につながったのも当然ではないか。
    
■5.「見ない愛」■

     篠沢教授の示すもう一つのキーワードが、「見ない愛」だ。
    12世紀のプロヴァンス詩人ジョッフレ・リュデルは「遠くの
    愛」という詩を残した。第一次十字軍がパレスチナに作ったキ
    リスト教国の一つトリポリ伯領での伯爵夫人の美徳を伝え聞い
    たリュデルは、居ても立ってもいられず、十字軍に参加してト
    リポリに着くが、病に倒れ、話を聞いて駆けつけた伯爵夫人の
    腕の中で死ぬ。
    
     未だ見ぬ貴婦人への愛に命をかける---それまでになかった
    精神的な愛が、リュデルの詩「遠くの愛」に歌われ、ヨーロッ
    パ文明の「愛」の範囲を拡げた。これをもって「恋愛は12世
    紀にプロヴァンスで発明された」とフランスの歴史家セニュボ
    スは言った。
    
     目の前にいる人や自然を愛するのは「見る愛」だ。それは人
    類の始まりと共にあった。しかし、見えないものを愛するには、
    想像力や抽象的な思考能力がいる。それは人類の精神的発展と
    ともに新たに登場した文明の産物である。偶像崇拝を禁じたキ
    リスト教は、見えない神を信ずる「見ない愛」に基づく宗教で
    ある。精神的な恋愛がキリスト教の中から「発明された」とい
    うのも、けだし当然であろう。
    
     前節で述べた「もっと大きな自己」の中でも、肉親愛や郷土
    愛は目で見える人間や土地を対象とした「見る」愛である。愛
    国心は、目で見えない国家が対象となる「見ない愛」である。
    
     そう考えるとサッカーのナショナルチームを応援するという
    のは自国に対する「見る愛」であるが、国家の行く末を案ずる
    というのは「見ない愛」である。「見る愛」が「見ない愛」よ
    りも劣るということはないが、抽象的思考能力や想像力に欠け
    る人間には「見ない愛」は抱けない。愛国心を危険視すること
    は、「見ない愛」を伸ばす機会を子供たちから奪うことになっ
    てしまう。その結果は、想像力や抽象的思考能力の欠落につな
    がりかねない。

■6.彼らは我々を愛していた■

     1960年のパリ。留学中の篠沢青年は、学生街の映画館で一人、
    太平洋戦争のドキュメンタリー映画を見ていた。
    
         沖縄戦で、特攻機突入のシーンがあった。翼がバラバラ
        になり、海に落ちていく。対空放火の曳光弾が全画面を覆
        う。火を噴いて宙返りになって海に突っ込む。初めて見る
        ので息を呑んだ。そのとき低空で突っ込んだ一機が敵艦の
        腹に命中、猛烈に爆発した。その瞬間、驚いた。全館のフ
        ランス人がどっと拍手したのだ。思わず「メルシー! メ
        ルシー!」と呟いてしまった。隣の青年がびっくりしてわ
        たしを見た。日本人がいるとは知らなかったのだろう。
        [2,177]
        
     特攻が狂信的な、あるいは、軍国主義に騙された上での行為
    だと決めつけるのは、これまた思考停止の一つである。単なる
    狂信なら、他国民の共感は呼ばない。篠沢教授は言う。
    
         愛だったのだ。「見ない愛」だ。特攻の心は「見ない
        愛」だったのだ。彼らは我々を愛していた。父母への「見
        る愛」はもちろんあった。それを超えた、見ない天皇への
        愛、見ない祖国の多くの人々への愛、まだ生まれていない
        未見の同胞への愛。[2,p175]
    
     フランスの元・文化大臣、アンドレ・マルローも次のように
    語っている。

         日本の純真な若い特攻隊員たちは、ファナチック(狂信
        的)だったとよくいわれる。それは違う。彼らには権勢欲
        とか名誉欲など露ほどもなかったし、ひたすら祖国を憂え
        る貴い熱情があるばかりであった。
    
         代償を求めない純粋な行為、そこに真の偉大さがあり、
        逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人
        間はいつでも偉大さへの志向を失ってはならないのだ。
        [a, 3]
        
     特攻隊員の「ひたすら祖国を憂える貴い熱情」、彼らの「見
    ない愛」は、「まだ生まれていない未見の同胞」、すなわち私
    達、戦後生まれの日本人にも注がれていたのである。彼らの
    「もっと大きな自己」は、いまだ生まれていない我々をも、そ
    の中に抱いていた、と言うべきだろう。[b]

■7.ネイション(クニ)とステイト(国家)■

     愛国心の対象たる国家にも、様々な次元がある。中でも歴史
    や言語、文化を共有した共同体としてのネイション(クニ)と、
    行政・権力機構としてのステイト(国家)とは分けて考えた方
    が良い。
    
     たとえば、今回のワールドカップに参加しているイングラン
    ドは、英国全体を代表しているチームではない。その他に北ア
    イルランド、ウェールズ、スコットランドのチームがあるのだ
    が、これらは予選で敗退している。英国という一つのステイト
    は、これら4つのネイションから成り立っているのである。そ
    の北アイルランドに住む人々のかなりの部分は、歴史的にアイ
    ルランド共和国を同じネイションと感じているのだが、不幸な
    歴史の過程から今も英国というステイトから抜け出せないでい
    る。それに不満な一派が今も独立闘争を続けている。
    
     ネイションとの矛盾が最も甚だしいステイトの一つが中華人
    民共和国であろう。チベットやウイグルなどのネイションは、
    中国の土地面積の65%を占めていたのだが、漢民族の移民に
    よって土地を奪われ、少数民族に転落しつつある。そのための
    独立闘争が絶えない。また漢民族と言っても、北と南では言葉
    も通じず、同じネイションと呼べるのか、大いに疑問である。
    
     またアメリカの黒人やメキシカン、ドイツのトルコ人労働移
    民なども、ネイションとステイトの矛盾を抱えていると言える。
    
■8.ネイションとステイトのつながった幸福■

     こう考えると、日本はネイションとステイトがほぼ一致した
    現代世界でも希有な存在と気がつく。現代の多くの紛争は、ネ
    イションとステイトとの矛盾対立から起こる。両者がほぼ一致
    している日本は、そんな紛争を心配する必要のない幸福な共同
    体である。
    
     一部に沖縄やアイヌ、在日韓国人・朝鮮人の差別問題をこと
    さらに取り上げる輩がいるが、これらの人々のほとんどは、す
    でに同じネイションとして受け入れられており、北アイルラン
    ドや、チベット、ウイグルのような独立紛争が起こる気配は全
    くない。
    
     また愛国心を政治的に利用するのは、もっぱらステイトであ
    る。その代表的な例が、現代中国で、様々な少数民族によるネ
    イションの独立闘争を押さえ、また国内を一つのステイトとし
    てたがを嵌めておくために、中国政府は反米反日をテコとした
    民衆の愛国心にさかんに訴えている。愛国心を危険だと言う輩
    は、まず中国政府に対してそう主張すべきなのである。
    
     ネイションとステイトが無理なくつながっている場合は、ネ
    イションへの郷土愛、同胞愛が、ステイトへの国家愛に自然に
    つながる。日本はネイションとステイトとの違いに気がつかな
    いほど、両者が無理なく一体化した共同体である。そしてその
    事による世界でも希有な幸福を自覚していない。その事に気が
    つけば、また自然な愛国心に目覚めていくだろう。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(080)  ミラー大尉の残したもの
  話題作「プライベート・ライアン」などに見る自己犠牲の精神。
b. JOG(153) 海ゆかば〜慰霊が開く思いやりの心
   慰霊とは、死者のなした自己犠牲という最高の思いやりを生者
  が受け止め、継承する儀式である。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 朝日新聞、「日の丸(日本は変わったのか第2部「国民」意識
   は今:1)」、H11.11.26、大阪夕刊、7頁
2. 篠沢秀夫、「愛国心の探求」★★★、文春新書、H11
3. 「特攻」とは何だったのか、明日への選択、H7.12
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「ワールドカップと愛国心」について

     先日のワールドカップ、日本ーロシア戦、バンコク中心部の
    デパートの屋外広場に設置された特大スクリーンに試合が衛星
    中継され、それを多くのタイ人、また、青色のユニホームを着
    た日本人が観戦いたしました。 小生の娘もゼッケン5番のユ
    ニホームで声援を送っておりました。

     ほとんどのタイ人は、日本贔屓で、日本のチャンスには声援
    が、ピンチには悲鳴のような嘆息が漏れました。当初、場所柄
    もあり、拍手程度で応援していた日本人も、試合が白熱するに
    従い、日本語で声援を送り、笛の音頭で、「ニッポン、チャチ
    ャチャ・・・・・・・」の大応援となりました。稲本がゴール
    を決めた瞬間には、日本人は、総立ちで歓呼し、喜び合いまし
    た。

     試合終了の笛で、歓声が沸き、抱き合って喜んでいると、タ
    イ人が、祝福の握手を求めてきました。異国の軒先で、あまり、
    はしゃいではいけないと遠慮する必要などまったくなかったの
    です。今回のテーマにもありました、「愛国心は国境を超えた
    共感をもたらす」は、真にその通りだと思います。
                                  (匿名希望、バンコク在住)

     先日のイングランドのアルゼンチン戦での勝利は、金曜の午
    後(こちらの現地時間で)にあったもかかわらず、数百万人の人
    が観戦したそうです。街中はワールドカップが始まって以来、
    白地に赤十字の旗が、家々の窓から、車のアンテナまで、そこ
    そこでなびき、人々は、代表のユニフォームを着、恐らくは、
    開催国日本以上の盛り上がりであったに違いありません。
    
     私個人、日本のベルギー戦での観客席で、日本の国旗が沢山
    掲げられている様子をテレビで拝見し、君が代が流れた瞬間に
    思わず目頭が熱くなってしまいました。
                                      (吉岡さん・英国在住)

     列島を覆う嵐のような「ニッポン!」の歓喜の声を聞きなが
    ら所沢高校を思い出していました。あの子たちはどのような思
    いでワールドカップを見ているのでしょうか。スポーツ観戦ま
    でも一部の特定思想を持った教員に左右され、「生徒の自主
    性」の名の下に反W杯を強要されているのでしょうか。

     国旗が描かれたユニフォームを交換する各国代表選手、そし
    て同様に交換し合うサポーター達。ここには敬意の交換があり、
    国の印として国旗が扱われています。国旗国歌法制定に反旗を
    翻した人たちは、ワールドカップを見ながら「あの法律はそう
    いうことだったのか」と気づいてもらいたいものです。
                                                (門田さん)

■ 編集長・伊勢雅臣より

     国民が一体となって応援する所から、国民同胞感が実感でき
    ます。この同胞愛が共同体を維持・発展させていく基盤です。

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