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________Japan On the Globe(264) 国際派日本人養成講座_______ _/_/ _/ 国柄探訪: 楠木正成 〜 花は桜木、人は武士 _/_/ _/ _/_/_/ その純粋な生き様は、武士の理想像として、 _/ _/_/ 長く日本人の心に生きつづけた。 _______H14.10.27_____40,109 Copies_____609,938 Views________ ■1.正成一人いまだ生きて有りと聞こしめされ候はば■ 鎌倉武士の近ごろの悪逆非道ぶりは、すでに天道のとが めを受けるほどでございます。その衰え乱れ、弱りはてた のに乗じてこれに天誅を加えるのに、何の困難がございま しょう。ただ天下統一の業が成功するには、武略と智謀と のふたつが必要です。・・・ 勝敗は合戦のつねでございますから、一時の勝負を必ず しもお気にかけられるには及びません。この正成(まさし げ)ひとりがまだ生きているとお聞きくださいましたら、 帝の御運は必ず最後には開けるものとお考え下さい。[1] 元弘元(1331)年8月27日、再度の倒幕計画が漏れ、後醍醐 帝は奈良北東山中の笠置寺に逃れられた。そこで夢の中に大き な常磐木の南に伸びた枝が勢いよく張って、玉座を守っている という夢を見られた。木に南と書けば、「楠」となる。「この あたりに楠と称する武士はおらぬか」とお尋ねになって、早速 召し出されたのが、河内の国金剛山の西麓に領地を持つ楠木正 成であった。 すぐに参上した正成が、天下統一のための策略について問わ れ、申し上げたのが冒頭の答えであった。最後の一節のみ太平 記の原文で味わっておこう。 正成一人(いちにん)いまだ生きて有りと聞こしめされ 候はば、聖運つひに開かるべしと、おぼしめ候らへ。 地方の一豪族からの天下の鎌倉幕府への大胆不敵な宣戦布告 と言えよう。それから2年後の元弘3(1333)年5月の鎌倉幕府 滅亡を経て、5年後の延元元(1336)年5月の湊川での自刃まで、 正成のこの言葉通りの獅子奮迅の戦いぶりは、武士の理想像と して、その後の日本人の心に長く生き続けた。 ■2.赤坂城の戦い■ 笠置寺は幕府の京都数万の大軍に攻められ、後醍醐帝は幕府 に捕らえられてしまった。正成は河内の領内に聳える赤坂山に 城を構えて5百の兵とともに立て籠もって旗揚げしていたが、 関東からはるばるやって来た数万の軍勢が残る赤坂城に迫った。 急拵えの赤坂城は堀も満足になく、わずか1,2町(1〜2 百m)四方にやぐらを2〜30ほど建てただけの粗末なものだ った。寄せ手は、せめて一日たりとも持ちこたえてくれれば、 恩賞に預かれるものを、と願った。 寄せ手の侍千人ほどが崖をよじ登り、塀にとりついて乗り越 えようとした所、塀が倒されて崖下に転げ落ち、さらに上から 大木大石を投げられて、7百余人が討たれてしまった。塀は二 重になっていて、外側は見せかけだったのである。 翌日は用心して残る塀に熊手を投げかけて破ろうとした所、 上から長いひしゃくで熱湯をかけられ、2、3百人が負傷した。 寄せ手は攻めあぐんで、兵糧攻めに切り替えた。包囲が20日 も過ぎると、正成は城内に大きな穴を掘り、先の戦いで塀の中 で倒れた2、30の死体を中に入れて、10月21日の風雨の 夜に城に火を放って、脱出した。 「城が落ちたぞ」と勝ちどきを上げて、城内になだれこんだ 寄せ手は「なんと哀れなことだ。正成はとうとう自害して果て た。敵ながら弓矢とる武士として立派に死んだものだ」と褒め 称えた。 ■3.正成、再起■ こうして死んだと思われていた正成が突如、姿を現したのは、 それから1年以上も経った元弘2年12月であった。すでに後 醍醐天皇は隠岐に流され、側近たちの多くも死罪流罪に処せら れていた。 そこに突如現れた正成は近隣の幕府方地頭を襲い、降伏した 武士たちを自軍に従えた。さらに年が改まると、紀伊や河内和 泉の幕府方所領を襲って、降伏するものはすべて麾下につけ、 たちまちに2、3千騎の勢力に膨れあがった。正月19日には 難波にまで進出して、幕府方5千の軍勢をさんざんに破った。 正成は謀略の面でも優れた才能を発揮した。近畿の交通の要 所にはそれぞれ数名単位の山法師姿の部下を送り、聖徳太子の 「未来記」には、「後醍醐帝が戻られて幕府が滅びる」と予言 されている、と触れ回らせて、人心を動揺させた。 ■4.天嶮・千剣破城■ 正成の再起に、鎌倉方は動揺した。ほっておけば、幕府に不 満を持つあちこちの輩が蜂起して、手に負えなくなるであろう。 そうなる前に正成を討たなければならない。幕府は5万の大軍 団を正成討伐のために送り込んだ。 正成はかねて準備していた千剣破(ちはや)城に立て籠もる。 赤坂城からさらに10キロもの山奥にある金剛山の支峰であっ て、四方を50mから100mの深い断崖に囲まれた険阻な孤 峰であった。周囲4キロばかりの頂上に、本丸、二の丸、三の 丸、四の丸と階段状に何重もの砦が築かれていた。 食糧は十分貯え、空き地には野菜を作ってある。水は自然の 湧水以外にも、大木をくりぬいた水槽を2、3百も作って、陣 屋の雨樋から雨水を貯めこむ。籠城が何百日続こうと、水と食 糧に関しては困らない用意が出来ていた。 ■5.千剣破城の攻防■ このような奥まった所に、5万もの大軍が津波のように押し 寄せ、周囲4キロにも足りぬ孤峰をぐるりと取り囲んで、千剣 破谷を埋め尽くした。先手の一群が、まるで蟻の大群が砂山を 登るように、びっしりと崖一面を埋め尽くして這い登り始めた。 しかし城中からは何の防戦もしてこない。やぐらに翻る楠木の 菊水の紋がはっきり見える所まで近づいて、「よし、一番乗り じゃ」と言った所で、大岩数十個が土煙を上げて転がり落ちて きた。 わざと各所に登りやすそうな道筋を拵え、そこに大岩を貯め ておいたのだから、たまらない。圧死し、あるいは負傷した者 の数は6千人にも上ったという。寄せ手は警戒して、兵糧戦に 出た。城内から必ず水を汲みに降りてくるだろうと、名越(な ごや)越前守が手勢3千人で近くの谷川に陣を張って待ちかま えたが、一向その気配がない。3日経って気も緩んで寝込んで いる所を、早朝の濃霧に紛れて、正成の手勢が急襲した。 たちまち数百人の死傷者が出て、他のものは命からがら逃げ 延びた。その後、城中のやぐらに名越の紋所を染めた旗が立っ て、「やよ、寄せ手の方々、これこそ名越殿より頂戴つかまつ った旗でござる。名越家の方々、これへおいで候うて、お持ち 帰り願いたい」と大音声で呼びかけて来た。 名越越前守は「たとえ一族全滅するともこの恥辱をそそがぬ わけには参るまい」と、大将以下5千人がまたもや断崖を上り 始めた。そこに今度は直径3尺(1m)もありそうな大木が何 十本となく降ってきて、4、5百人が押しつぶされ、浮き足だ ったところを上から矢が降り注いで、大半が討ち取られてしま った。 ■6.兵糧攻め、梯子攻め■ 寄せ手は再び兵糧攻めの戦術に戻った。しかしいまだ4万も の大軍である。持参した米俵が次第に乏しくなってきて、河内 の国のあちこちで現地調達をしようとしたが、売ってくれる者 がいない。すでに正成によって買い占められていたのである。 やむなく、隣国の大和の国で糧食を調達して、千剣破まで運 ぼうとすると、正成のあやつる山伏などに襲われる始末。かえ って包囲している幕府方の方が、兵糧不足で苦しめられること となった。 そこへ鎌倉の執権から急使が来て、「怠けておらず早々に城 を攻め落とせ」という叱責の声が伝えられた。単なる力攻めで は犠牲を重ねるだけだ、何か良い戦術はないか、と軍(いく さ)評定をしていると、中国の戦史に出てくる雲梯(うんてい、 雲のかけはし)を作って、直接山上に突入しようという案が出 た。移動式の巨大な梯子(はしご)なら、どこに架けるか分か らないので、敵も大石や大木を準備する時間がないはずである。 早速、京から5百人ばかりの工匠を呼び寄せ、幅1丈5尺 (4.5m)、長さ20丈余(60m)もの大梯子を作らせた。そ れを何十本という太綱で吊り上げ、木車を使って、絶壁にかけ る。「それっ」と寄せ手が一気に駆け上がろうとした所を、城 内から大きな水鉄砲で油を浴びせかけた。滑って転落するもの が続出した。そこに城内から火矢が浴びせかけられて、雲梯は たちまち燃え上がって、寄せ手の勇士たちを炎で包んでしまっ た。 ■7.各地で宮方の旗揚げ相継ぐ■ しかし、こうしていくら堅固な城に立て籠もっていても、い ずれは大石・大木も無くなり、矢種も尽き、食糧も食べ尽くし てしまう。籠城戦には時間を稼ぐことで達成される戦略目的が なければならない。 正成は千剣破城で、じっと待っているものがあった。これだ けの幕府の大軍が、千剣破城に集結している事で、日本の各地 の防御は手薄になる。そこを狙って、後醍醐天皇に心を寄せる もの、幕府に恨みを持つものが立ち上がるに違いない、という のが、正成の籠城戦に出た読みであった。 幕府方の大軍が攻め寄せたのが2月22日だったが、その翌 日、山陰地方の交通交易を握って隠然たる勢力を持つ名和一族 が後醍醐帝を密かに隠岐の島から救出して、船上山に設けた行 在所(あんざいしょ)にお迎えしたという急報が届いていた。 雲梯が燃え上がった数日後には、帝をいただいた東征軍が京 への進軍を開始したという知らせが届いた。また播磨の国で宮 方の命を受けた赤松則村の軍勢は、幕府軍を打ち破って、京都 に迫った。四国では伊予の豪族・土居道増、得能通綱が兵を挙 げて、瀬戸内海の航路を押さえた。こうして西国での宮方の旗 揚げが続くと、千剣破城を包囲していた幕府軍にも動揺が広が った。 ■8.鎌倉幕府滅亡■ この中で宮方の勝利に決定的な働きをしたのが、足利高氏で あった。足利氏は代々、将軍家・北条氏と婚を通じ、幕府にお ける最高の一族として遇せられていたが、源頼朝の系統が絶え て後はほとんど唯一の源氏の嫡流であり、代々天下を取ること の宿願としていた。 赤松の軍が京都に迫って、高氏は京の防衛を命ぜられたが、 後醍醐天皇に使いを派遣して帰順を近い、密書を各地の豪族に 送って協力を求めた。そして赤松と連携して、京都六波羅の幕 府の館を襲って、討ち滅ぼした。 六波羅陥落の報が届くと、千剣破城を包囲していた幕府軍は 退却し、正成の軍はここに百日以上に及ぶ籠城から解放されて、 今度は意気盛んに追撃戦に入った。 さらに関東では、これまた源氏の一族、新田義貞が兵を挙げ て、鎌倉を襲った。これにより、鎌倉幕府150年、北条氏9 代の権勢は滅び去った。 ■9.正成の一途さ■ わずか千人程度の手勢で、幕府数万の大群を千剣破の山奥に おびき寄せ、百日余にわたる籠城を成功させた正成は、まさに 天才的な武将と言うべきであろう。 しかし、それよりも顕著なのは、時代の趨勢を見通す政治的 見識であった。北条氏が元寇の際に示した無私な為政者として の姿勢を失い[a]、尊大にして富貴に驕(おご)り、その政治 は腐敗して公正を失っていた。天下の人心は鎌倉幕府から離反 して、政治の刷新を期待していた。正成はこの情勢を正確に見 通していた。笠置寺に逃れられた後醍醐帝の召命に即座に応じ、 帝が隠岐に流されて、倒幕の見込みもまったく失せたと思われ た時にただ一人反抗の狼煙を上げたのも、この正確な情勢判断 があったからであった。 しかし、正成がその後の日本人の心に長く生き続けたのは、 その軍事的才能と政治的見識もさることながら、自らの名誉も 富も顧みることなく、後醍醐帝に仕えた一途さにあった。 埋もるゝ身をばなげかずなべて世のくもるぞつらき今朝の 初霜 とは、後醍醐帝が隠岐に流された時の御歌であろう。遠島に 埋もれる御身よりも、世の曇りがつらいと、ひたすらに民を思 う後醍醐帝の大御心に仕えまつることこそ、乱れた世を直し、 民の安寧を実現する道と正成は信じたのであろう。 ■10.七生報国■ 後に、高氏が後醍醐帝に背き、九州に落ちた時、正成は高氏 との和解を勧めた。源氏の頭領として、やがて高氏が権力を握 るだろうとの、これまた正確な情勢判断だった。この献策が入 れられず、京都に迫る高氏の軍を、正成は兵庫・湊川にて迎え 撃つ。それは死を覚悟した戦いだった。 もし正成が名利を思ったら、この時に高氏について、室町幕 府の大豪族として、栄華富貴は思うがままであったろう。しか し、正成の誠忠はそれを許さなかった。数万の高氏の軍と6時 間余に渡る激戦を続けた後、正成は弟・正季と差し違えて自刃 する。二人がからからと笑いながら交わした最後の会話は、次 のような内容だった。 七生までただ同じ人間に生まれて、朝敵(朝廷に敵対す るもの)を滅ぼさばや(滅ぼしたい)とこそ存じ候らへ この七生報国の精神は、太平記に語り継がれ、遙か後代の吉 田松陰や坂本龍馬など幕末志士、そしてさらには特攻隊員に受 け継がれていく。正成の国を思うまごころは幾たびも日本人の 心の中に生まれ変わってきたのである。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(207) 元寇 〜鎌倉武士たちの「一所懸命」 蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を 惜しまない鎌倉武士たちだった。 b. JOG(167) 国柄探訪: 三島由紀夫と七生報国 自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹自決をするという三島の「狂気」 は緻密に計画され、周到に実行された。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 山崎正和訳、「太平記 上下」★★、河出書房新社、S63 2. 「太平記」全5巻、新潮日本古典集成、S63 (なお、小説版としては以下の2つをお勧めする) 3. 吉川英治、「私本太平記」全8巻★★★、吉川英治歴史時代文庫、 講談社、H2 4. 山岡荘八、「新太平記」全5巻★★★、山岡荘八歴史文庫、 講談社、S61 5. 植村清二、「楠木正成」★★、中公文庫、H1 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「楠木正成 〜 花は桜木、人は武士」について 今回のお話を読んで、真っ先に思い出したのが、以前この講 座で読んだ栗林中将の話でした。それにしても、私など生まれ てから平和な時代に育ったのでこのような状況は想像もつきま せん。死の恐怖をどうやって克服したのかとか、自分が同じ立 場に立ったら小便ちびるだろうなと思いますね。 確か以前谷沢永一さんが本で書かれてましたが戦後なぜ誰も 責任をとろうとしない、勇気のない社会になったのかその原因 をこう分析されてました。 BC級戦犯として処刑された人の中には、自分は無実だがこ こで私が逃げると他の人に迷惑がかかるからと言って、処刑さ れた人が沢山いるそうです。このような勇者を尊敬せず、唯の 要領の悪い人間として切り捨ててきたつけが今の無責任社会と なっているのではないだろうか? 楠木正成が最近あまり話題にならないのも、上記のような事 が原因なのだろうかと考えてしまいますね。 (匿名希望さんより) ■ 編集長・伊勢雅臣より 過去の歴史を断罪しようとするあまり、過去の偉人たちの生 き様まで否定したことが、今日の道徳崩壊につながっているの でしょう。歴史と道徳はつながっています。 ■「楠木正成 〜 花は桜木、人は武士」について 前回の大楠公・楠木正成、正行の話は母がよくしていました。 青葉しげれる桜井の里のわたりの夕まぐれーー子供の頃よく歌 ったものです。日本人の魂が歌われていると思います。日本弱 体化政策ーー忠臣蔵も楠公さんも曽我兄弟も話されなくなって 久しいですね。本年神戸ーー湊川神社、盛大まつりが行われま した。 伝統が復活される事はうれしいです(商業主義はこまります が)。拉致被害者をささえる故里のみなさんに日本の古き良き 時代を再現してくださり、私達までこころやすらぎます。あの ような日本をとりもだしたいです。 自衛隊での体験搭乗・体験乗艦の体験記をホームページに掲 指しました。 http://homepage3.nifty.com/47576-inaka/ 美智子さんより ■ 編集長・伊勢雅臣より 私も、拉致被害者の故郷での様子を伝えるニュースに、心安 らぐ日本の故郷を思い出しました。© 平成14年 [伊勢雅臣]. 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