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■■ Japan On the Globe(278) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■■

        The Globe Now: 日本銀行 〜 現代の「関東軍」!?

                日本銀行は、政府の意向にも従わずに、国民経済
              を自由に操る実権を握っている!?
■■■■ H15.02.02 ■■ 39,308 Copies ■■ 708,136 Views ■■

■1.「人民の自由にとっての脅威」■

         公的に通用するお金を発行する民間中央銀行の存在は、
        人民の自由にとって常備軍よりもさらに大きな脅威である。
        
     アメリカ独立宣言の起草者、トーマス・ジェファソンの言葉
    である。アメリカ合衆国は大英帝国の圧政から独立しただけに、
    その指導者たちは人民の自由に関してはことのほか鋭敏だった。
    
     たしかに中央銀行が通貨をコントロールして、自在にインフ
    レを起こしたら、国民の貯蓄は知らないうちに目減りしてしま
    うわけで、これは私有財産の略奪にあたる。さらに、もし中央
    銀行がその通貨政策によってバブルを発生させたり、破裂させ
    たりできるとすれば、自由に経営者を破産させたり、従業員を
    路頭に迷わせたりもできるわけで、たしかに人民の自由にとっ
    て「大きな脅威」だと言えよう。
    
     日本経済は80年代後半からのバブルとその崩壊後の苦難の
    時期が続いている。ドイツ人エコノミスト、リチャード・ヴェ
    ルナーの「円の支配者」は日本の中央銀行たる日本銀行こそ、
    その真犯人であると告発した書である。
    
■2.金細工師の錬金術■

     まず、中央銀行が市中の通貨量をコントロールする方法を見
    ておこう。ヴェルナーは13世紀のヨーロッパで誕生した紙幣
    を例にして、次のように巧みな説明をしている。
    
     当時の豊かな商人たちは、金を金細工師に預け、預かり証を
    受け取っていた。やがて商人たちは、仕入れをして代金を支払
    う際に、いちいち金の現物を渡さなくとも、預かり証を渡して
    しまえば良い、と気がついた。こうして金の替わりにその預か
    り証が商売の決済手段として受け入れられるようになった。こ
    の預かり証が紙幣の原型である。
    
     まもなく金細工師は、一つのトリックを思いついた。預かり
    証は市中に出回っているが、肝心の金は、彼の金庫に眠ったま
    まだ。その同じ金で二重に預かり証を作り、それを他の商人に
    貸し出して、金利をとってもいいのではないか。
    
     こうして金細工師は、自分の保管している金の量以上の預か
    り証を発行できる事を発見した。しかし、この事は秘密である。
    預かり証を持ったすべての商人たちが同時に金に換えてくれと
    要求したら、彼は立ち往生してしまう。しかし、商人たちが金
    細工師が預かり証をいつでも金に換えてくれると「信用」して
    いる限り、そんなことは起こらない。その信用が続く限り、預
    かり証は、価値あるものとして商人たちの間でやりとりされる。
    こうして金細工師たちは、預かり証という「紙切れ」から金を
    生み出す「錬金術」を発明した。現代の中央銀行は、預かり証
    を刷る金細工師の役割を果たしているのである。

■3.金細工師の「志」■

     金細工師のたとえ話を続けよう。ある中世ヨーロッパの都市
    で営業する金細工師は、自分が預かり証を大量に発行して貸し
    出しを増やすことで、街中の商売を活性化し、市民を豊かにで
    きる事に気がついた。そこで商人たちに貸し付けを大幅に増や
    してやろうと持ちかけたのだが、商人たちは現状の取引に必要
    な資金は十分に借りているので、もうこれ以上の貸し付けは必
    要ないと答えた。しかし金細工師は、利子はぐっと安くしてお
    くから、もっと借りてくれと迫った。
    
     むげに断ると、今後、資金が必要になった時に、貸してくれ
    なくなるかもしれない、仕方ないからおつきあいで借りよう、
    と商人たちは決心した。しかし、本来の商売の方は、狭い都市
    の中のこと、急に資金をつぎ込んだからと言って、これ以上、
    売り上げを伸ばす余地も限られている。
    
     そこで商人たちが目をつけたのが都市の周辺に広がる土地で
    あった。その土地を商人たちが借りた金で買い始めると、たち
    まち地価が値上がり始めた。値上がった所で土地を売ると、莫
    大な値上がり益が懐に転がり込むことを商人たちは知った。こ
    うなると商人たちはさらに金細工師から金を借りて土地買いに
    走る。土地の値段はますます上がった。バブルである。
    
    「確かに景気はよくなったが、これでは土地や資本を持つもの
    ばかりが豊かになるだけで、一般市民は家も買えない」と金細
    工師は気がついて、貸し出しに急ブレーキをかけた。金細工師
    から金を借りられなくなっては、商人たちも土地転がしができ
    ない。土地の買い手は急に姿を消し、この時点で高値の土地を
    持っていた商人がババを引いた。残ったのは、値段の暴落した
    土地と、金細工師への借金の山であった。多くの商人が破産し、
    その後、不況が長く続いた。

■4.窓口指導によるアクセルとブレーキ■

     ヴェルナーは日銀がこの金細工師と同じことをしたと、いく
    つかの事実を挙げて告発している。日銀は戦後まもなくの頃か
    ら、市中銀行への貸出をコントロールする仕組みを作りあげて
    いた。毎月、日銀総裁と営業局長が融資総額の伸び率を決め、
    各銀行に割り当てを配分する。そして各銀行の幹部は文字通り、
    日銀の窓口カウンターで融資割当額を告げられるので、この仕
    組みは「窓口指導」と呼ばれるようになった。
    
     この窓口指導は各銀行の貸し出しを極めて厳格にコントロー
    ルした。割当額を超過しても、未消化でも、次回の割当額が減
    らされてしまうからだ。ヴェルナーがインタビューした銀行の
    日銀担当者は次のように証言している。
    
         割当枠は、銀行によって完全に費消されるものと想定さ
        れていた。もし、それを下回ったら、われわれの割当枠は
        競争相手にくらべて減らされてしまう。だから完全に使い
        きったのだ。それは食べないといけないお弁当のようなも
        のだ。
    
     1980年時点で企業の資金の87%は銀行からの借り入れであ
    り、さらに各銀行への貸出しを日銀が窓口指導でコントロール
    していたので、事実上、日銀は日本経済のブレーキもアクセル
    も握っていたことになる。

■5.日銀はバブル期に融資拡大をうながした■

     高度成長期に企業の資金需要が旺盛だった頃、窓口指導は資
    金供給を適切に抑えてインフレの過熱を防ぎ、かつ銀行間の過
    当競争を抑えるという役割を果たしていた。しかし80年代に
    入って、アメリカの貿易赤字と財政赤字が大きな問題となり、
    日本の機関投資家の対米投資によって穴埋めしようと、87年
    10月から89年5月まで2年3ヶ月にわたって、2.5%と
    いう超低金利政策がとられた。[a]

     この際に日銀はさらに窓口指導をアクセルとしてふかした。
    ある日銀職員はこう証言している。
    
         日銀はバブル期に融資拡大をうながした・・・いまから
        (1980年代を)振り返ると、それはまちがいだったことが
        わかる。私の個人的意見だが、金利を引き下げたときに窓
        口指導の貸出増加枠を引き下げるというポリシー・ミック
        スをとれば、このようなバブル・エコノミーにはならなか
        ったと思う。しかし実際には、金利を非常に下げて、窓口
        指導を極端に上げてしまったから、マネー・サプライは
        10%から13%近くまで上がったりした。・・・
        
         どの銀行も、貸出増額の割当枠をマキシム・レベル(最
        大限)まで使おうとし、一生懸命融資を伸ばした。そうし
        ないと次の期に貸出をけずられる。それは融資担当者にと
        って非常に不名誉なことだった。・・・
        
         しかし、融資は鉄鋼や自動車などまともな企業には向か
        わず、建設業や(不動産投機に手を出していた)ノンバン
        クに向かった。これでバブルになった。[1,p212]
        
■6.日銀は「もっと使いなさい!」と言った■

     日銀によるアクセルに関しては銀行側の証言も一致している。
    
         バブル期には、われわれはある程度の貸出はめざしてい
        たが、日銀はそれ以上をわれわれに求めていた。1985年以
        降、日銀は「もっと使いなさい!」と言った。ふつうなら、
        こちらが欲しいだけの枠をもらえることはない。・・・19
        86年から87年にかけてはとくに、日銀は、もっと使いなさ
        い、不況なんですから、と言った。・・・実際、われわれ
        は、これはちょっと多すぎる、と考えた。しかし、与えら
        れた枠を使い残すことはできなかった。もし、使い残せば、
        同じような枠を受けているほかの都銀に負けるかもしれな
        い。[1,p207]

     日銀の窓口指導でアクセルを踏まれた銀行は、必死に貸出を
    増やす。80年代末の銀行の貸出総額の伸びはほぼ12%程度に
    達していた。実際の経済活動による国民所得の伸びはその半分
    程度でしかなかったから、残りのマネーは土地や株の投機に流
    れ込み、バブルを生んだ。85年1月から89年12月までに、株
    価は240%、地価は245%上昇した。日本の地価総額は、
    26倍もの国土を持つアメリカの4倍にも達した。
    
     89年半ば、銀行がとつぜん貸出額の伸びを抑え始めると、半
    年後に株価や地価の暴落が始まった。90年だけで、株式市場は
    32%下落し、商業地域で投機対象となった地価は70%以上
    も下落した。銀行はそれまでの99兆円ものバブル融資が不良
    債権化することを恐れ、バブルとは何の関係もない中小企業へ
    の貸出まで減らした。雇用の70%を占める中小企業は銀行か
    らの融資を制限され、倒産や失業が増加していった。

■7.「国際協調のための経済構造調整」■

     本誌78号[a]では、歴史的な低金利をバブルの原因とする
    説を紹介したが、この低金利に日銀の窓口指導による貸出増加
    が加わって、バブルが発生したと考えてよさそうだ。しかし、
    まだ謎として残るのが、なぜ日銀が市中銀行に無理な貸し付け
    を強要したのか、という点である。
    
     ヴェルナーは、歴代日銀総裁の言動から、この謎に迫ってい
    く。バブル期の日銀総裁は澄田智だったが、日銀のライバル大
    蔵省から来た澄田は窓口指導についても何も知らされてはいな
    かったとヴェルナーは指摘している。窓口指導の実権を握って
    いたのは、前総裁・前川春雄とその愛弟子である副総裁・三重
    野康という二人の生え抜きの日銀マンであるという。
    
     前川は1986(昭和61)年4月にまとめられた「前川レポー
    ト」で有名である。このレポートは当時の中曽根首相が前川を
    座長として設置した「国際協調のための経済構造調整研究会」
    の報告書としてまとめられ、輸出主導から内需主導の経済成長
    への転換を求めていた。翌年5月にさらに具体的内容を追加し
    た「新前川レポート」がまとめられたが、その時には三重野も
    メンバーに加わっていた。
    
     規制緩和と内需拡大、それらを通じた輸入拡大、貿易黒字の
    縮小はまさにアメリカの望んでいた内容であったが、その後の
    日銀の窓口指導は、まさに前川レポートと軌を一にしていた。
    前川や三重野は自らの日銀での権限を利用して「国際協調のた
    めの経済構造調整」を実現しようとした、というのが、ヴェル
    ナーの主張である。
    
■8.前川レポートの「10年計画」■

     89年12月に日銀総裁になった三重野は、公定歩合を引き上
    げてバブルを破裂させた。バブルは富の不平等をもたらすと主
    張し、生涯に株を一度も買ったことがないと誇らかに言う三重
    野を、マスコミは「貧しいものの味方」と囃したてた。
    
     その後、大蔵省は経済回復のために数度にわたって公定歩合
    を引き下げるよう日銀に要求し、政府も92年から94年までに合
    計4回、総額45兆円もの追加予算を支出したが、景気は回復
    しなかった。日銀が通貨供給量の引き締めを続けていたからで
    ある。人々は不況にあえぎ、96年はじめには失業者数が5百万
    人を超えた。
    
     前川レポートは日銀の内部では、当時も今も「10年計画」
    と呼ばれている。86年当時、「国際協調のための経済構造調
    整」という前川レポートの主張は、一部の国際主義者を除いて
    は、国民の間にはほとんど説得力を持ち得なかった。しかし、
    バブル崩壊後の危機を通じて、96年にはもはや日本のシステム
    は時代遅れだとして、規制緩和、構造改革、グローバル・スタ
    ンダードの大合唱が始まっていた。国民は危機を通じて「10
    年計画」の洗脳を受けたのである。
    
     日銀のライバル・大蔵省はバブルとその崩壊後の不況の責任
    を問われ、規制緩和のかけ声の中で許認可権は縮小され、また
    金融機関に関する監督権も、独立した金融監督庁に奪われた。
    一方、日銀は97年6月に成立した改正日銀法により大蔵省から
    の独立を達成した。
    
■9.現代の「関東軍」■

     ヴェルナーの告発は、前川や三重野が「国際協調のための経
    済構造調整」という自らの理想を実現するためにバブルとその
    崩壊後の不況という危機を作り出し、さらにその過程でライバ
    ル・大蔵省を解体させ、日銀の独立を勝ち得た、というもので
    ある。その主張にはいくつかの事実の裏付けがあり、相当の説
    得性があるが、なお異論の余地もあるだろう。
    
     ただし、故意か過失かは別にして、日銀の政策がバブルの発
    生と崩壊、その後の長期不況の原因である、というヴェルナー
    の告発に対して、改正された日銀法では、もはやその責任を問
    うことはできない。日銀の理念は「物価の安定を図ることを通
    じて国民経済の健全な発展に資すること」と定めているので、
    バブルが起ころうが、破裂して不況が長続きしようが、物価が
    安定さえしていれば、それ以外の事について責任を問われる筋
    合いではない、と答えることができる。なにしろバブルをはさ
    んだ86年から96年までの期間のインフレ率はわずか1.2%と
    極めて優秀な成績を残しているのだから。
    
     そして首相が言うことを聞かない日銀総裁を更迭しようにも、
    それはできない。日銀法第25条では「日本銀行の役員は、
    ・・・在任中、その意に反して解任されることがない」と定め
    られている。
    
     日銀の中で窓口指導を行う営業局の権限は非常に大きく、
    「関東軍」と呼ばれていた。前川や三重野が政府の意向を無視
    して、バブルの発生から崩壊、その後の不況まで、日本経済を
    引っ張っていったのだとしたら、確かにその姿は戦前の関東軍
    とだぶってくる。そのような中央銀行は「人民の自由にとって
    の脅威」であるとするジェファソンの警告は今も生きていると
    言わざるを得ない。
                                          (文責・伊勢雅臣)
    
■リンク■
a. JOG(078) 戦略なきマネー敗戦
   日本のバブルはアメリカの貿易赤字補填・ドル防衛から起きた。
   http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h11_1/jog078.html

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. リチャード・ヴェルナー、「円の支配者」★★、H13

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■総集編をダウンロードされた方々より

     このメルマガの記事の内容は、私たち市民が「当たり前」と
    思い込んでいたり、「なぁなぁ」にしてしまっている点に実に
    鋭い指摘がなされているな、といつも感じます。ただ、いつも
    それが正しいとは思いません。感銘を受けることもあれば、苛
    立つこともあります。そんなことよりも、このメルマガで指摘
    されたことを機に、そのものごとを自分なりに熟考するチャン
    スを与えてくれたことが、私には大きな実りです。(20代、
    男性、学生)
    
     これを読むようになってから、日本の歴史や世界の歴史にす
    ごく興味が広がっていきました。これからも、自分の視野を広
    げていきたいと思っています。(30代、女性、教育関係者)

     海外時事ネタを読むことができ、大変うれしく思います。海
    外に出て、初めて世界からみる日本を見ることができ、もっと
    グローバルな視点で物事を見ることに興味を覚えました。そう
    いった意味で、本メールマガジンは非常に有効だと感じており
    ます。(30代、男性、アメリカ在住)

■ 編集長・伊勢雅臣より
    
 

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