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■■ Japan On the Globe(293) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■

        人物探訪: 川路聖謨とプチャーチン
                                     〜 幕末名外交官の激突
           通商と国境策定の問題を激しく論じ合う二人の間に
          ひそかな共感が芽生えていった。
■■■■ H15.05.18 ■■ 38,248 Copies ■■ 815,505 Views ■

■1.プチャーチンあらわる■

     嘉永6(1853)年12月14日、長崎の港に4隻の大船が停泊
    していた。中央に陣取るのはロシア使節プチャーチンの乗る旗
    艦「パルラダ号」。左右52門の大砲で港全体を威圧していた。
    
     午前11時、パルラダ号から6艘のボートが降ろされた。随
    伴艦からは祝砲が放たれ、快晴の空のもとで長崎の港を囲む丘
    陵にいんいんとこだました。
    
     やがてボートが次々と波止場につき、軍楽隊を先頭に武装兵、
    ロシア使節と士官、水兵らが二列縦隊で続き、ラッパ・太鼓に
    合わせて行進を始めた。隊列は西役所の前でとまり、使節と士
    官は日本側の役人に案内されて対面所に入る。そこには4人の
    幕府高官が応接掛として待ちかまえていた。
    
     応接掛次席の勘定奉行・川路聖謨(としあきら)は、使節プ
    チャーチンを60歳ぐらいと見た。髪は茶色で髭をたくわえ、
    ゆったりとした表情から、高位の人物であると察せられた。
    
     その川路を随行秘書官で作家のゴンチャロフは「45歳くら
    いの、大きな鳶色の眼をした、聡明闊達な顔付の人物」と後に
    書き残している。

■2.ロシアからの国境策定、通商要求■

     川路聖謨の父・内藤吉兵衛は日田(大分県)の幕府代官所の
    小吏であり、その地で聖謨も3歳まで過ごした。その後、父は
    念願かなって幕府の徒士(かち、騎乗を許されない徒歩の軽格
    の武士)に採用され、江戸は牛込北御徒町に移り住んだ。
    
     その後、聖謨は小普請組(無役の旗本御家人)川路三左衛門
    光房の養子となり、家督を相続して18歳から幕府に出仕する
    ようになった。その後、実力を求められて次々と引き立てられ、
    幕府三奉行の一つである勘定奉行にまで栄進できたのは、聖謨
    自身夢想だにしていなかった。
    
     嘉永6年6月にペリー率いる米国艦隊が来航し、通商要求を
    聞き入れない場合は戦争になるだろうからと、降伏の際に使う
    白旗を送るという露骨な砲艦外交を展開した[a]。回答を受け
    取るために来年に再び来航する、と言い残してペリーが去った
    のが6月12日。そのわずか1ヶ月後の7月18日に今度は4
    隻のロシア艦隊が長崎に入港したのである。
    
     ロシアからの国書には、樺太・千島の日露国境を定め、日本
    との交易を開きたい、という要求が記されていた。幕府老中た
    ちは応接掛として、西丸留守居役・筒井政憲、川路聖謨他2名
    に長崎に下るよう命じた。

■3.困難な綱渡り■

     長い泰平の時代に衰退した日本の防備力では、戦乱と技術革
    新で鍛えられた欧米諸国の敵ではなく、戦いとなればアヘン戦
    争で英国に蹂躙された清国の二の舞になることは明らかだった。
    
     一方、識者の間では開国・通商は世界の大勢として避けられ
    ないと考えられていたが、鎖国論の根強い国内世論を慎重に導
    きながら進めなければ、どのような混乱が起こるやもしれなか
    った。まして領土問題で寸土でも譲歩したら、国内の攘夷派が
    憤激して争乱は必至だろう。外国との戦争か、国内の争乱か、
    一歩踏み誤れば亡国に至る、そういう困難な綱渡りを川路らは
    迫られていた。

     ロシア使節と日本側応接掛の会談は、まず相互の挨拶から始
    まり、ついで昼食に移った。ロシア人たちは初めて見る日本の
    食事にとまどいの色を見せたが、おずおずと口に入れると思い
    がけないおいしさに眼を輝かせた。
    
     食事後、プチャーチンが即刻協議を始めることを提案した。
    長崎にて5ヶ月も待っていたので、すでに予定の日限も過ぎ、
    速やかに協議をまとめ、帰国しなければならないというのであ
    る。それに対し川路は、国境策定は両国にとってきわめて大事
    なことであり、慎重な話し合いが必要であるとして、日を改め
    ての協議を主張した。何度かのやりとりの後、主張を曲げない
    日本側にプチャーチンが折れて、ロシア側は引き揚げた。
    
     3日後の17日、日本側が答礼としてロシア艦を訪問。川路
    は、もしそのままロシアに連れ去られたら、ロシア皇帝に直談
    判しようと決心していたが、幸い訪問は穏やかな空気の中で無
    事に終わった。18日にはプチャーチンを西役所に招いて、幕
    府からの回答書を手渡し、第一回協議を20日に開くことで合
    意した。こうした儀礼の間にも、筒井や川路はどう交渉を進め
    るかについて、綿密な打ち合わせを繰り返していた。

■4.協議始まる■

     20日、朝からの激しい雨をものともせずにプチャーチンは
    随員を伴って9時過ぎに西役所につき、協議が始まった。幕府
    からの回答書には、鎖国政策には固執せずに協議には応じるが、
    通商を容認するかどうかは、朝廷の意向を伺い、諸大名の考え
    も質す必要があるので、3年から5年待って欲しい、との趣旨
    であった。以後、数度にわたる協議は紆余曲折があったが、お
    おむね次のように進んだ。
    
     3、5年待てとははなはだ常識を欠く、と不快そうに眉をひ
    そめたプチャーチンに対して、川路は、文化3(1806)年と翌年
    にロシア艦が樺太、択捉、利尻を襲って、放火、略奪、番人拉
    致を行い、8年には国後島に来航したゴロブニンを日本側で抑
    留した事実を指摘した上で、こう続けた。
    
         それ以来50年近く、貴国からは絶えて音沙汰もなく、
        気の長いお国柄であると思っておりましたのに、3、5年
        お待ち下されと申し上げておるのを待てぬとは、何分にも
        合点がゆきませぬ。
        
     川路の揶揄まじりの発言に、プチャーチンはかすかに顔を紅
    潮させて、蒸気船の発明で世界は著しく狭くなり、時勢が急速
    に変化した、などと苦しそうに述べた。
    
     ロシア船が薪、水、食料を絶やして日本の港に入った折りに
    日本側はどう対応するのか、とプチャーチンが聞くと、川路は
    どの国の船であろううと、無償で提供すると答えた。有料にし
    て欲しいとのプチャーチンの要請に対しては、筒井が伏してい
    た眼をあげて「それではとりもなおさず貿易のきっかけを作る
    ことになる。あくまで協定を結ぶことが先決で、そのような事
    は大事の前の小事であり、論じない方がよろしい」と一蹴した。

■5.さてもさても不法なことを申される■

     国境に関しては、川路はゴロヴニンの著書に日本側との間で
    択捉島は日本領という協約を結んだとある事実を挙げ、さらに
    日本の番所も設けられているので、わが国の所領であることは
    いささかの疑いもない、と断言した。プチャーチンは、ゴロヴ
    ニンはロシアの正式の使節ではなく、その著書を協議の参考に
    することは承伏しかねると反論した。
    
     樺太の国境問題では、川路は実地調査をするのが前提であり、
    それには数年を要するので、この会談で決定するのは不可能で
    ある、と主張した。プチャーチンはその意見に理解を示したの
    で、川路はさらに、樺太のロシア守備隊が現地調査に赴く日本
    の役人に無礼な行為を働かぬようプチャーチンから命令書を出
    すことを要求し、了解を得た。
    
     プチャーチンは日本役人を調査に至急派遣する事を要求し、
    来年の3、4月頃までに赴かぬ場合にはロシア人を樺太全島に
    移住させる、と主張した。この言葉に川路はにわかに色をなし、
    
         さてもさても不法なことを申される。(樺太の)アニワ
        湾付近はわが国の古くからの確実な所領であるのに、勝手
        にその地に植民するなどと乱暴なことを申される。そのよ
        うなお気持ちであるなら、協定などむすべるはずはなく、
        協議は一切無用である。
        
     プチャーチンはしばし黙っていたが、真意は速やかにこの問
    題を解決したいからであり、御気分をそこねられたことをお詫
    びする、と言った。
    
■6.敬意と親愛の情■

     川路はプチャーチンと話しているうちに、アメリカ使節ペリ
    ーが終始、武力を背景に恫喝的な態度をとり続けたのとは対照
    的に、川路の主張にもよく耳を傾け、日本の国法国情を尊重し
    て冷静に協議を進めようという姿勢を見てとった。そしてひそ
    かにプチャーチンに対して敬意と親愛の情を抱き、日記に「こ
    の人、第一の人にて、眼ざしただならず。よほどの者也」と記
    した。
    
     一方、プチャーチンの秘書官ゴンチャロフは川路をこう評し
    た。
    
         川路を私達はみな気に入っていた。・・・川路は非常に
        聡明であった。彼は私たち自身を反駁する巧妙な弁論をも
        って知性を閃かせたものの、なおこの人を尊敬しないわけ
        にはいかなかった。彼の一言一句、一瞥、それに物腰まで
        が----すべて良識と、機知と、炯眼(けいがん)と、練達
        を顕していた。
        
     協議はあくる年1月4日まで続けられ、条約締結は当面拒絶、
    択捉島は日本領、樺太は実地調査の上で再協議という日本側の
    主張の線で決着した。唯一、日本が他国との通商を結んだ場合
    には同条件をロシアに許すという事で、プチャーチンは満足し、
    北方の地を巡回した後に再び来訪すると言い残して、8日に出
    港していった。

■7.大地震■

     2月にはペリーが再び来航し、日米和親条約が結ばれた。通
    商は認めないが、下田・函館を開港し、そこでの物品の購入は
    認められた。川路はわが国の信義のためにも、同様の内容をロ
    シア側に許す必要があると老中阿部正弘に上申して、許可を得
    た。
    
     プチャーチンは10月14日、新鋭の「ディアナ号」で下田
    にやってきた。すでに英仏との間でクリミア戦争が勃発してお
    り、ディアナ号は英仏艦の攻撃に備えて臨戦態勢をとっていた。
    筒井、川路らが江戸から駆けつけ、協議は11月1日から始め
    られた。
    
     翌2日午前8時過ぎ、大地震が襲った。川路が泊まっていた
    寺では樹木が折れ、塀がすべて倒れた。津波が来るとの警報に
    川路らは裏手の山に駆け上った。海面が盛り上がって、田畑や
    家並みに襲いかかり、その上に大きな船が投げ出された。津波
    が引くと下田の町は消滅し、あたり一面、泥に覆われていた。
    
     ディアナ号も何度も回転し、左右に大きく傾き、沈没こそ免
    れたものの、船の背骨にあたる龍骨が折れ、浸水が激しかった。
    水兵たちが交替で排水に努めて、なんとか沈没を免れていた。
    そんな中でも、ロシア側は海に投げ出された老女と水主2名を
    救助し、手厚い看護をして川路らに感銘を与えた。

■8.善良な、博愛の心にみちた民衆よ!■

     ロシア側の要請により、ディアナ号を20里ほど離れた戸田
    (へだ)村の砂浜で修理することとし、11月26日朝に下田
    を出港したが、途中で風が強くなり、激浪の中で船は沈下し始
    めたので、プチャーチンは退避を命じた。逆巻く激浪の中をデ
    ィアナ号から降ろされたボートは浜辺を目指した。浜辺でそれ
    を見つけた日本の漁師たちは波の中をボートに泳ぎ着き、その
    太綱を掴んで引き返した。浜に待ちかまえていた大勢の男女は
    太綱でボートを引き寄せた。この救助作業により500人の乗
    組員全員が無事救助された。
    
     司祭ワシーリイ・マホフはこの時のことを次のように航海誌
    に記した。
    
         善良な、まことに善良な、博愛の心にみちた民衆よ! 
        この善男善女に永遠の幸あれ。末永く暮らし、そして銘記
        されよ----500人もの異国の民を救った功績は、まさし
        く日本人諸氏のものであることを!
        
     ディアナ号はまだ波の上に浮かんでおり、プチャーチンの要
    請に応えて、百艘もの漁船、荷船で曳航しようとしたが、その
    途中で突然の風雨に襲われて、ついに沈没してしまった。
    
     プチャーチンはこの不運にもくじけずに、戸田村で50人乗
    り程度の洋船を建造し、それで迎えの船を呼びに故国に戻るの
    で、資材や大工道具を提供して欲しいと日本側に要請した。
    
     日本側は資材と大工のすべてを無償で提供する事とし、近隣
    の船大工40人がロシア人の指示に従って、洋船建造に取り組
    んだ。日本人大工は洋船の設計・建造が和船とまるで違うこと
    に驚き、ロシア人は日本人大工の優れた技量に感嘆の声をあげ
    た。この中の棟梁の一人、上田虎吉は後に洋船の国産化の中心
    人物となる。
        
■9.国は違候へども、志に於いては兄弟の如く■

     洋船建造の間も、プチャーチンは下田で川路らと談判を続け
    た。激しい協議の結果、千島列島については択捉島以南は日本
    領、樺太はこれまで通り国境を定めないが嘉永5(1852)年まで
    に日本人と蝦夷アイヌ人が居住した土地は日本領とする、通商
    はアメリカと同様にいまだ認めず、ただ函館または下田でロシ
    ア領事駐在を認めることとした。これらはほぼ日本側の主張に
    沿った妥結だった。
    
     故郷を遠く離れて11年間も極東海域でさすらい、さらに船
    を失いながらも、なおも祖国の国益のために尽くすプチャーチ
    ンの姿に、川路は真の豪傑だと感じ入った。
    
         使節格別の人物なる事も相知れ、且つ各主君の為に忠を
        尽くさんと思ふ処は同じなれば、国は違候へども、志に於
        いては兄弟の如く睦くも存ずる事に候。
        
     協議の場では激しく言い争っても、それは互いの主君ひいて
    は祖国への忠誠を尽くさんがためであって、その志においては
    兄弟のように親睦の情を覚える、という。第一級の外交官どう
    しの共感が二人の間に育っていた。
    
     戸田村で建造されていた洋船は3月15日に完成し、プチャ
    ーチンは謝意を込めて村の名から「ヘダ」号と名付けた。16
    日、プチャーチンは日本滞在中の幕府の好意を深く感謝する書
    簡を送り、23日に出港した。川路は交渉が終わって、すでに
    下田を離れていたが、長く激しい談判を続けてきたプチャーチ
    ンにもう二度と会うことはあるまいと思うと寂しい思いをかみ
    しめつつも、航海の無事を祈った。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(149) 黒船と白旗
   ペリーの黒船から手渡された白旗は、弱肉強食の近代世界シス 
   テムへの屈服を要求していた 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 吉村昭、「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」★★★、講談社文庫、
   H11
2. 松本健一、「日本の近代1 開国・維新」★★★、中央公論社、
   H10
   
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「川路聖謨とプチャーチン」について

                                                  宏さんより
     幕末から明治初期にかけて、何故こんなにも優秀な人が出て
    きたのか? とても不思議です。私の勝手な想像ですが、江戸
    時代には、国と言う観念はそれほど強くなく、国より藩という
    感覚だったと思っていました。

     でも、今の外務官僚よりはるかに明確で、確固とした国家観
    をもって何が国益かを命がけで考えています。こういう文章を
    読むと、今の国家公務員に爪の垢でも煎じて飲ませてやりたい
    と思うのは、私だけでしょうか?
    
                          鈴木さんより(在日ロシア大使館あて
                                    弊誌を紹介されたお手紙)
     貴国ロシアと日本は、現在心からの信頼交流が実現できてい
    ないのが残念ながら率直な実情です。この原因はいろいろある
    でしょうが、日露戦争や第二次大戦後の抑留問題などが絡んで
    おり、とくに日本側から見ればスターリン体制下のソ連時代の
    不信感がもたらした部分が大きいと私は思います。

     イデオロギーに囚われない本来のロシア人と本来の日本人と
    の双方の国民性から見れば、もともと両者は信義を重んじ相手
    との相違を乗り越えてその存在を認め合う度量をもった民度・
    文化の高い民族同士だと考えます。

     現在の両国の関係をより信頼感のあるものにするために、是
    非読んでいただきたい歴史があります。それは両国が始めて国
    交交渉をした1850年代のことです。日本代表川路聖謨とロ
    シア代表プチャーチンのことを書き記した伊勢雅臣氏の論文を
    以下にコピーしますので是非お読みくださり、両国の信頼醸成
    の一助にしてください。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     外交の力は、祖国への忠誠心と相手国への誠実さと、この二
    つの「誠」から来るのでしょう。

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