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■■ Japan On the Globe(299) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ The Globe Now: ルーマニア革命 〜 共産主義独裁政権はいかに打倒されたのか? 危険を顧みずに立ち上がった青年たちと、国民を守ろう とした軍の力が、独裁者を倒した。 ■■■■■ H15.06.29 ■■ 39,696 Copies ■■ 856,365 Views ■ ■1.ルーマニアの田舎景色■ 車は2車線のでこぼこ道を80キロほどのスピードで突っ走 っていた。身体が激しく揺すられる。時々よたよた走るオンボ ロトラックに追いつくと、左車線にはみ出しては追い抜いてい く。対向車が近づいているのに、無理矢理追い抜くので、ひや ひやさせられる。時には2頭立ての荷馬車も追い抜いていった。 車窓から見るルーマニアの田舎景色は、地平線まで続く緑の 畑だった。なだらかに起伏する沃野に6月の陽光がさんさんと 降り注ぐ景色は、ワインの産地として有名なカリフォルニア北 部のナパ・バレーを思い起こさせる。ただその広大さだけを何 十倍かにしたようだ。 この豊かな国土で共産主義政権の末期には経済的に行き詰ま り、都市部の人民は食糧確保に疲れ果て、冬には暖房すらでき ずに多くの凍死者まで出したという。この広大な沃野を見てい るととても信じられない。しかし中国では毛沢東の「大躍進」 政策で2千万人が餓死し、また現在の北朝鮮でもすでに2、3 百万人が飢え死にしたと伝えられている事を思いあわせると [a,b]、共産主義独裁政権の恐ろしさ、愚かしさが実感できる。 その共産主義独裁政権をルーマニア人は1989年に自力で打倒 した。ルーマニア人の祖先ダキア人は、古代にはローマ帝国と、 中世以降はオスマン・トルコ帝国と独立をかけて何世紀も戦い 続けてきた。独裁政権打倒を呼びかけたビラの中でも「ダキア 人のごとく立ち上がろう」というスローガンが使われた。自由 と独立を求める民族精神が独裁政権打倒に大きな力を発揮した のだろう。 ■2.共産党一党独裁の始まり■ 第2次大戦中、ルーマニアはドイツ軍に占領され、軍事傀儡 政権が樹立されて、ドイツの同盟国としてソ連と戦った。1944 年8月、東部戦線でのドイツ軍の敗走を追うように、ソ連軍が ルーマニア国境を越えて侵入した。この機をとらえて王室派か ら共産党まですべての勢力が一斉に蜂起して、ドイツ軍を駆逐 した。 ルーマニアは立憲君主制に戻ったが、ソ連軍の圧力のもとで 行われた1946年1月の国会選挙で共産党と社会民主党が圧勝し、 翌47年12月、国王ミハイル一世は退位を強いられ、ルーマニ ア人民共和国が発足した。この年に「ソ連軍帰れ」という大規 模な市民運動が起き、多数のルーマニア人が逮捕されていたの だが、ソ連駐留軍のヴァシンスキ司令官が国王に「退位して国 外に去れ。さもなくば逮捕者を殺す」と迫り、国王はやむなく 国を去ったと伝えられている。 これが共産党一党独裁の始まりだった。北朝鮮の場合も、ソ 連は朝鮮人ソ連軍大尉・キム・ソンジュを伝説の英雄・金日成 に仕立て上げ、共産党独裁政権を押しつけたのだが、その手口 は同工異曲である。[c] ■3.「国民を守る守護者」■ 1968年夏、ソ連を中核とするワルシャワ条約機構5カ国の軍 隊がチェコスロバキアに侵入し、民主化運動「プラハの春」を 戦車で潰しにかかった。「チェコの次は自分たちの番だ」とル ーマニアは、チェコへの侵入に反対して出兵しなかったばかり か、ソ連との国境線に国防軍を配置した。 この時、チャウセスクはブカレストの共産党本部前の宮殿で、 初めての市民集会を開き、バルコニーから群衆に叫んだ。 私は、ソ連軍の一兵たりとも、わが祖国ルーマニアの土地 に足を入れさせない。片足たりとも入れさせない! ルーマニア国民はこれを聞いて熱狂し、「ウラー、ウラー」 とチャウセスクに向かって歓呼の叫びをあげた。先祖譲りの勇 猛な独立精神が呼び起こされたのであろう。これ以降、チャウ セスクは「ソ連の脅威」をちらつかせては、国民を守る守護者 として自らを宣伝し、共産党書記長、大統領、軍の最高司令官 と、次々に権力を握っていった。 1973年には東欧諸国で初めて米国大統領を受け入れ、市民は ニクソンを歓呼して迎えた。チャウセスクはさらに日本をはじ めとする諸外国を歴訪して、多くの借款を手に入れ、西側から 石油精製、石油化学、製鉄などの大型プラントを買いあさって、 工業化路線を突っ走った。 ■4.暗黒の始まり■ 1974年に世界を襲った石油危機に、チャウセスクの工業化路 線はあっけなく崩壊した。77年、石油価格の高騰する中で、ル ーマニアは石油の輸出国から輸入国に転落。対外債務も急増し ていった。79年2月に伊藤忠商事のブカレスト駐在員として赴 任した松丸氏は、空港も市内への道路も宿舎のホテルも、電力 の節約のために真っ暗だったのに驚いた、と語っている。 本来ならここで工業化路線の見直しをすべきだったが、すで に独裁者となっていたチャウセスクは自分に異議をとなえる者 は左遷し、イエスマンばかりで周囲を固めていた。 たとえば松丸氏が81年に日本からの大型工作機導入に携わっ た時の事である。機械の据え付けのために日本から技術者が来 たが、据え付け地として指定された場所は地盤が弱く、機械が 傾いてしまう。場所を変更しなければ工作精度が出ないと日本 の技術者が主張したが、現地人技術者は「変更できない」の一 点張り。 「どうして技術的に駄目なことが分からないのか」と日本人技 術者が詰め寄ると、実はチャウセスクが工場視察した時に、こ こに機械を据え付けよ、と命令したので、変更できないという。 その時も工場長がチャウセスクにここは適地ではない、と反対 したが、その場でクビにされたという。 こんな調子では、石油ショックがなくとも、工業化路線はい ずれ頓挫したであろう。独裁者が有能な人間を遠ざけ、無能な イエスマンばかり周囲においたら経済が破綻するというのは、 現代の北朝鮮にも共通する現象である。 ■5.「もう一つの暗黒」■ 77年は「もう一つの暗黒」の始まりだった。国家保安委員長 パチェパはチャウセスクにクビを切られ、米国に亡命。チャウ セスクは自ら秘密警察を作り始めた。 松丸氏は赴任した当初、前任者から「1ヶ月は尾行されるか ら、注意せよ」と言われていた。その言葉通りに、3週間もあ る男につきまとわれた。レストランでもバーでも、その男は松 丸氏の近くに座り、様子を窺っている。 89年2月に再赴任した際は、以前、6年間も勤務した元運転 手が自宅に招待してくれた。自家製のワインとパンをふるまっ てくれたが、肉料理はない。そのうちに一人の婦人がやってき て、ワインを飲みながら談笑の環に入り、しばらくして帰って いった。「誰?」と松丸氏が聞くと「隣のおばさんが、誰がお 客に来ているのか調べに来たのよ」と元運転手の妻が説明して くれた。 秘密警察の情報提供者であった。こういう手先を含め、秘密 警察が200万人いると言われていた。ルーマニアの人口23 00万人の1割近い人数である。経済がうまくいかなくなると、 独裁者は秘密警察を使って、人民の不満を押さえ込もうとする。 そして秘密警察のような非生産的な仕事に人口の1割も使って は、経済はますます困窮していく。そういう悪循環にはまりこ んでいった。 1984年は厳冬で零下20度に下がった。チャウセスク政権が 債務返済のために暖房に必要な燃料まで輸出に回したため、凍 死者が続出。多くの外国人は西側に避難した。チャウセスクに 対する国民の不満は爆発寸前であった。そんな時、妙な噂が街 中に広がった。「チャウセスクが重病で、死にそうだ」という。 もう少しの辛抱だ、と多くのルーマニア人は信じて、厳冬を堪 え忍んだのであろう。これは秘密警察が意図的に流した噂であ った。 ■6.「青年たちが撃たれた」■ 1989年12月21日、ブカレストの宮殿広場でまた官製の集 会が開かれ、チャウセスクが演説を始めた。その途中、パン、 パンと爆竹が破裂したような音がした。同時に堰を切ったよう に広場から群衆が逃げ出した。うずくまって動けなくなる人が いる。「人殺し、人殺し」と叫ぶ声が聞こえる。 群衆の一部、学生・青年を中心とした数百人の集団が、1ブ ロック離れたニコライ・バルチェスク通りに集結すると、また たくまに多くの群衆が加わって通りを埋め尽くした。 先頭に立った青年たちは、群衆を率いて共産党本部へ向かっ た。戦車2台、装甲車3台、完全武装の兵隊20名ほどが現れ、 青年たちの前に立ちはだかる。ドーン、ドーンと爆弾が破裂す るような音が二度して、「青年たちが撃たれた」という叫び声 がした。顔中に血を流した青年が護送車に引きずり込まれる。 若い女性が髪を引っ張られて連れ去られていく。発砲を命じら れても撃たなかった兵隊は、その場で銃を取り上げられ、路上 に腹這いにさせられている。 しかし群衆は「独裁者を倒そう!」「自由を!」と叫びなが ら戦車や兵隊に向かっていく。5時を過ぎて暗くなると、私服 の秘密警察がデモ隊の人間をごぼう抜きにして、建物の中に連 れ込み、ナイフで刺し殺した。12時を過ぎると、戦車が群衆 を蹴散らしにかかった。逃げる群衆を反対側から護送車から逮 捕していく。逮捕者は2千人に及んだという。群衆は「明日ま た集まろう」と声をかけあって、散っていった。 ■7.「人民に発砲はできない」■ 翌22日、朝早くから通りはデモ隊であふれかえり、その先 頭は軍隊と対峙していた。戦車の砲がデモ隊の方に向いている。 11時過ぎに「国防大臣が自殺した」というニュースが入った。 その直後、「軍隊が市民の側についた」との知らせが流れ、実 際にデモ隊と対峙していた戦車が砲身の向きを180度変えた。 市民が戦車の上に鈴なりになって、一緒に共産党本部に向かっ た。 実はこの前日の会議で、チャウセスクはミレア国防大臣に人 民への発砲を命じたのだが、大臣は「国防軍は人民を守るため の軍隊であり、人民に発砲はできない」と命令を拒否。チャウ セスクは激怒して部屋を出て行った。そして翌朝の会議でチャ ウセスクは「ミレア国防大臣は自殺した」と発表した。国防大 臣は自らを犠牲にして国民を守り、これが契機となって軍が反 チャウセスクに立ち上がったのである。 軍が反旗を翻しては、勝ち目はないと思ったのであろう。チ ャウセスクはヘリコプターで共産党本部を逃げ出した。しかし その晩、子飼いの秘密警察がブカレストのみならず、国内の各 都市で反撃に転じ、軍との戦いが始まった。ブカレスト市内で も「秘密警察が水道に毒を入れたので、水道水は飲むな」とい う注意が流された。 ■8.チャウセスクの最期■ チャウセスクはヘリコプターでブカレストの南80キロのボ テニィに行き、そこの地下秘密飛行場から国外脱出しようとし ていた。しかしヘリコプターは軍のレーダーに捉えられ、着陸 しなければ撃墜すると警告を受けた。着陸したチャウセスク一 行は、車を奪って逃走する所を警察に逮捕され、近くの軍事基 地内に収容された。23日の事である。 ところがチャウセスクの時計と奥歯には特殊な発信装置が仕 組まれており、その居場所は秘密警察に伝わっていた。秘密警 察側はチャウセスクを奪還しようと、ヘリコプターで落下傘部 隊を送り込み、戦車まで繰り出した。 12月25日、銃撃戦の中でチャウセスクは軍事裁判にかけ られ、エレナ夫人とともに銃殺刑に処せられた。6万人にのぼ るルーマニア国民を殺した事、国民経済を崩壊させた事、10 億ドル以上を外国銀行に預金し国外逃亡を企てた事などが罪状 としてあげられた。当初はブカレストに連れてきて、まともな 裁判をする予定だったが、チャウセスク奪還を目指す秘密警察 の攻撃のもとではその余裕はなかった。27日に裁判の一部が テレビ放映され、独裁者の最期が全世界に伝えられた。 ■9.ブカレストからのテレックス■ 私たちの自由な国から、最初のテレックスをお送りする この幸せ! その名はルーマニア----簡素で、清らかで、 美しい名。もう共産主義とも社会主義とも付かないのです。 私たちはみな、目に涙を浮かべ、悲喜こもごもです。6 万4千もの人々が、あの世界一凶悪なテロリスト、チャウ セスクの放ったテロリストたちに殺されたのですから。 今や、共産党の首脳部は一掃され、複数の政党で来年4 月に自由選挙が行われます。 すでにご承知のように、チャウセスクと彼の"最愛の"妻 は裁判にかけられ、処刑されました----クリスマスの日、 1989年12月25日に。あたかもイエス・キリストが、神 の敵にみずから罰を下されたかのようです。 12月28日、ウィーンに避難していた松丸了氏に、事務所 の秘書たちが連名で送った英文テレックスの出だしである。喜 びが弾んでいる。 この喜びをもたらしたのは、生命の危険を顧みずにデモ隊の 先頭に立った青年たちと、国民を守ろうと立ち上がった軍の力 である。彼らがいなかったら、たとえ経済は完全に破綻しても チャウセスクの独裁はまだまだ続いていたであろう。ちょうど 今日の金正日・独裁政権のように。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(109) 中国の失われた20年(上) 〜2千万人餓死への「大躍進」 b. JOG(072) 温室の隣の飢餓地獄 人口2300万人の北朝鮮で、すでに3百万人の国民が餓死、 病死したと推定されている。 c. JOG(281) 金日成 〜 スターリンのあやつり人形 スターリンは、朝鮮人のソ連軍大尉を伝説の英雄・金日成に 仕立て上げ、朝鮮戦争を仕掛けた。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 松丸了、「ルーマニア革命」★★、東洋経済新報社、H2 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■前号「ルーマニア革命」について Szagami(さがみ)さんより 私の住むハンガリーもルーマニア同様に旧共産圏でしたが、 私利私欲ためだけに共産主義を利用しつくした独裁者、チャウ シャスクが行った経済失策の深い痛手を未だ負ったままのルー マニアは、ハンガリーやその他東欧旧共産国と経済的に益々離 されてしまい、痛々しく見えます。 大義名分を失って指導者の都合のいいように解釈された“主 義主張”は共産主義であろうと資本主義であろうといったん崩 壊すれば、その枠内で暮らす人々が最終的に今までのつけを払 うことになります。そのインパクトの大きさが際立っていたの が、ルーマニアであり、旧ユーゴではなかったかと感じます。 幸いにもハンガリーは一部指導者たちに国民の利益を搾取さ れつくされていなかったために今のところ順調に経済は回復し ておりますが、経済白書や大企業のレポートでは見られない市 井レベルでの弊害は、本来のハンガリー人の力をまだまだ押さ えつけたままです。 来年5月のEU加盟後も、既存国の生活レベルまでハンガリー が追いつくまで100年かかると試算されているほど、共産主 義時代の空白の40年の痛手は大きなものでした。EU加盟も今 回は見送られたルーマニアの未来はまだまだ暗澹とするものが あるのでしょう。 追伸:弊メールマガジンでルーマニアのことも配信しましたの で(12,14,16,18,20号)、お時間があるときにでもご一読して いただければと思います。 ホームページ: ハンガリー良いとこ一度はおいで! メールマガジン:我が愛すべきハンガリーのジレンマ ■ 編集長・伊勢雅臣より 旧東ドイツやルーマニアなど旧共産圏諸国を訪れて、わが国 が共産化されなかった事の幸福をしみじみと感じました。これ も左翼勢力に屈しなかった我等が父祖のお陰です。© 平成15年 [伊勢雅臣]. 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