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■■ Japan On the Globe(302) ■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

               人物探訪:間宮林蔵の樺太探検

          ロシア艦来襲時の敗走者との汚名をそそぐべく、林蔵 
         は命をかけた樺太探検に乗り出した。
■■■■■ H15.07.20 ■■ 37,935 Copies ■■ 877,761 Views ■
 
■1.樺太へ■

         成功せぬうちは、帰ってくることはいたしませぬ。もし
        も、失敗に終わった場合には、樺太に残り、その地の土に
        なるか、それともアイヌとして生涯を終えます。再びお眼
        にかかれるとは思いませぬ。お達者でお暮らし下さい。
        
     間宮林蔵が見送りに来た警備役の津軽藩兵指揮格・山崎半蔵
    にこう言うと、山崎は言葉もなくうなづいた。その眼には、再
    び生きては帰れぬかもしれない者を見送る悲痛な光がうかんで
    いた。
    
     文化5(1808)年4月13日、蝦夷地(北海道)最北端の宗
    谷の地。海はおだやかで空は晴れていた。林蔵はここから18
    里(71キロ)の海を渡って、樺太に出発する所であった。前
    年、蝦夷地の各地を荒らし回ったロシア艦が再びやってくると
    予告していた時期で、もし発見されれば捕らえられる恐れがあ
    った。また樺太には最南端の白主にこそ会所が設けられ、警備
    の一隊が駐在していたが、それより北は地理も分からず、粗暴
    な山丹人が大陸側から交易のために往来しているようだった。
    
     この北辺の地理と住民の状況を明らかにしてロシアの南進に
    備えようというのが、間宮林蔵の樺太探検の目的だった。

■2.蝦夷で生きるには■

     林蔵は、安永9(1780)年、常陸国(茨城県)筑波郡の農家に
    生まれた。子供の頃から土木工事が好きで、堰とめ工事の現場
    に出入りしているうちに、利発さを買われて幕府の普請役雇・
    村上島之允(じょう)の使い走りとして働くことになった。村
    上が各地を測量して地図を作製するのに従って、林蔵は測量技
    術と健脚を身につけた。
    
     村上が蝦夷地での仕事を命ぜられると、林蔵も一緒について
    行った。しかし冬の厳しい寒気と野菜不足で足がむくみ、体調
    を崩した。土地の人から、蝦夷人(アイヌ)は魚と昆布を食べ
    るので、病むこともなく冬を越す、と教えられ、それに従った
    所、むくみもとれて体調が回復した。
    
     これを機に林蔵は、アイヌと同じ生活をしなければならぬ、
    と知り、アイヌ語を習い、しばしばアイヌの家を訪れて衣服・
    家屋・狩猟・漁獲・旅行などについて詳しく調べた。

■3.ロシア来襲■

     林蔵は村上の助手として測地に従事していたが、文化2(180
    5)年、25歳のおりに現在の北方領土である国後島から択捉島
    で海岸線の地図を作り、道路を開くようにとの幕命を受けた。
    
     文化4年4月、林蔵が択捉島に移って仕事をしている最中に
    2隻のロシア軍艦がシャナ湾の会所を襲った。文化元年9月に
    ロシア皇帝の命を受けて長崎港に入港した侍従レザノフは日本
    との交易を求めて6ヶ月も待たされたが、すげなく断られたた
    め、怒って武力で威嚇しようと択捉島を襲ったのだった。
    
     会所には230名もの兵がいたが、役人たちは上陸したわず
    か十数名のロシア水兵に恐れをなして、ろくに戦いもせずに、
    退却してしまった。林蔵は抗戦を主張したが、上役に退却を命
    ぜられ、不本意ながら従った。
    
     ロシア艦が去った後、林蔵も会所の役人たちとともに、江戸
    に送られ、厳しい取り調べを受けた。江戸市中では彼らに対す
    る憤りと蔑みが強かった。幸いにも林蔵は抗戦を強く主張し、
    また退却後も密かに現地に戻って、ロシア艦の動きを探ろうと
    した働きを認められ、唯一人「お咎めなし」との申し渡しを受
    けた。他の役人たちには「不届きの至り」として、免職、家屋
    敷没収などの処罰が行われた。

■4.樺太は半島か?■

     江戸に送られる前に林蔵は函館の奉行所に、ロシアへの潜入
    調査という大胆な上申書を提出していた。敗走者という汚名を
    そそぐためにも、北辺の防備強化という国益のためにも、とい
    う切羽詰まった気持ちから書き上げたものだった。「お咎めな
    し」と決定した後、この上申書が取り上げられ、林蔵は樺太北
    部の探検を命ぜられた。
    
     当時、完成しつつあった世界地図で樺太は唯一空白部分とし
    て残っており、アジア大陸の東韃靼地方につながる半島だろう
    と推定されていた。イギリス、フランス、ロシアの艦隊がそれ
    ぞれ樺太の西岸を北上して確認しようとしたが、水深が数メー
    トルと浅くなり、やはり半島だろうとして、途中で引き返して
    いた。
    
     林蔵は、宗谷に勤務していた調役下役・松田伝次郎とともに、
    樺太に渡った。冒頭の「成功せぬうちは、帰ってくることはい
    たしませぬ」と悲壮な言葉を残したのは、この時のことである。
    
     4月17日に数人のアイヌ人を案内役として、小舟で北上を
    開始。途中、弓矢や槍をもった住民に危うく殺されかけたりし
    ながら、6月21日には対岸にアムール河(黒竜江)河口が望
    める地点に到達した。そこから先は樺太と大陸との間は広がっ
    ているようで、どうやら樺太は島のように思われた。海面は海
    草に覆われ、小舟ではそれ以上進めなくなった。舟をこぐアイ
    ヌたちは「恐ろしい。帰りましょう」と震える声で言った。
    
     松田もこれでほぼ役目を終えたとして、帰投を決断した。林
    蔵は不満だったが、年齢も役職も上の松田に従うしかなかった。
    宗谷に戻った林蔵は報告書を作成すると、ただちに再調査の許
    可を求めた。自分一人なら危険を冒しても、さらに奥地に行け
    たはずだ、という思いが強かった。

■5.アムール河を望む■

     7月13日、宗谷を再出発し、単身で樺太に渡った。前回の
    危険な探検の有様が伝わっており、案内人に応じてくれるアイ
    ヌを探すのに苦労した。なんとか6人のアイヌを雇い入れて、
    前回よりもやや大きい舟で8月25日に北上を始めた。
    
     9月3日、400キロほども北のトッショカウという土地に
    ついたが、途中で山丹人に食料を奪われ、また寒気が厳しくな
    って、海が凍結すれば魚もとれなくなる。アイヌたちも「南に
    帰りたい」と言い出した。やむなく林蔵は引き返すことを決断
    した。途中まで舟で南下したが、海が荒れていたので、1ヶ月
    以上かけて氷雪に覆われた陸路を200キロも南下し、樺太南
    部のトンナイに戻った。途中、吹雪になると雪洞(ほら)を作
    り、天候の回復を何日も待った。
    
     トンナイで年を越して1月29日、林蔵は再び、渋るアイヌ
    たちを説得して、北に向かった。今度は凍結した海の上を歩い
    ていく。4月9日、ノテトという地に着いた。最南端の白主か
    らは500キロ以上も北である。ここには60人ほどのギリヤ
    ーク人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。アイヌ人が
    通訳をしてくれて、酋長のコーニが大陸にある清国領の役所か
    らカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられている事を
    知った。
    
     コーニは山丹人の作った舟を貸してくれた。そこから先は波
    も荒く潮の流れも急なので、山丹舟でなければ進めないという。
    5月8日、ようやく流氷が去って、ノテトを出発。海は次第に
    狭くなり、対岸の雪に覆われた大陸の丘の連なりが間近に白く
    輝いている。さらに進むと、海が少しづつ広がり、大陸側に大
    きな河口が見えた。アムール河である。

■6.この地の北は荒海しかない■

     2日後、ノテトから110キロ北のナニオーという地に着い
    た。ギリヤーク人が数家族住んでいる。コーニがつけてくれた
    通訳を介して聞いてみると、この地の北は荒海しかない、とい
    う。確かにアムール河の河口を過ぎると、潮流は二分し、北に
    も流れていた。これは北側が半島で遮られているのではなく、
    広い海が開けていることを示している。
    
     歓びが胸にあふれた。林蔵は世界で初めて、樺太が島である
    ことを確認したのだった。さらに一歩進めて、舟で樺太の北端
    を回り、東海岸を南下して出発地に戻りたかった。しかし、ギ
    リヤーク人はこう言った。
    
         海は絶えず怒り、波がさかまいている。舟など出せば、
        たちどころにくつがえり、砕け散ってしまう。
        
     丘に登って北方を見渡すと、広い海には一面に白波が湧いて、
    怒濤が荒れ狂っている。たとえ山丹舟でもひとたまりもないだ
    ろう。林蔵はあきらめてノテトに戻った。酋長のコーニは、
    「よくそんな所まで行ったな」と驚きの声をあげた。

■7.「大陸に連れて行ってくれ」■

     樺太が島であることは確認できたが、林蔵はさらにこの地が
    どのように清国に支配されているのかを知りたいと思った。北
    辺の防備を固めるには、この情報がぜひとも必要だ。そこでコ
    ーニ酋長にしばらく村に滞在させてくれと頼んだ。
    
     林蔵は釣りや薪作りを手伝って、コーニから食料を分けて貰
    った。同時にギリヤーク語を学んで、コーニからこの地の状況
    をいろいろ聞き出した。海を隔てた東韃靼(だったん)のデレ
    ンという地に清国の出張役所があり、コーニも村の代表者とし
    て定期的に貢ぎ物を持って行っているという。その地には山丹
    人、ギリヤーク人、オロッコ人など多くの種族が混住しており、
    すべて清国の支配下にある由。
    
     林蔵は、清国とロシアの国境がどうなっているのか調べたい
    と思い、コーニに一緒に大陸に連れて行ってくれ、と頼んだ。
    コーニは、林蔵の顔からすぐに異国人と判り、粗暴な山丹人に
    必ず殺されてしまうだろう、と断った。しかし林蔵は言った。
    
         あなたの好意を嬉しく思う。しかし、私は、死を覚悟し
        ている身だ。あなたの言われるとおり、東韃靼へ入れば殺
        されるかも知れないが、私は悔いぬ。ぜひ、私を連れて行
        って欲しい。
        
     コーニは無言で林蔵を見つめ、長い沈黙が続いた。それから
    息をつくように言った。「それほどまでに言うなら、連れて行
    こう」

■8.突如出現した大集落■

     6月26日、10メートルほどの山丹舟にコーニと林蔵を含
    めて8人が乗り込み、貢ぎ物や交易品を積んで、東韃靼に向か
    った。6月なのに風が驚くほど冷たく、濃霧が立ちこめて、衣
    服が濡れた。林蔵は持参した羅針で西を示した。14キロほど
    進むと、ようやく霧の中に陸影が現れた。コーニが「東韃靼の
    モトマル岬だ」と言った。
    
     近くの湾に舟を着け、そこから舟をかついで2キロほどの山
    を越えると、アムール河に出る。そこから数十キロも河を遡っ
    て、ようやくデレンに着いた。そこには無数の小屋に囲まれて、
    巨大な柵の中に奇異な建物が建っていた。「清国の出張役所
    だ」とコーニが教えてくれた。荒涼とした大陸に突如出現した
    大集落に林蔵は夢を見ているようだった。
    
     コーニとともに建物の中に入ると、絵で見た清国人と同じ服
    装をした役人たちがいた。林蔵が日本から来たと言い、漢字を
    書いて見せると役人たちは驚いた。清国以外の野蛮人が文字の
    読み書きができるとは信じられないふうだった。「日本はどの
    地で清国に貢ぎ物をしているのか」と聞かれて、「貢ぎ物はし
    ていない。長崎の地で貿易をしているだけだ」と答えると、さ
    らに疑わしそうに首をかしげた。林蔵が「ロシアとの国境はど
    こか」と尋ねると、「国境などあるはずがない。ロシアは清国
    の属国だ」と答えた。

     しばらくデレンの地に留まっている間に林蔵は周囲から情報
    を聞き出した。清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、
    支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。結局ロ
    シアは敗退し、1689年に結ばれた条約でこの地方から完全に手
    を引いたという。120年前の事であった。林蔵はデレンで二
    度ほど山丹人に取り囲まれて暴行されかかったが、危うい所を
    コーニたちに救われた。
    
     貢ぎ物と交易が終わると、林蔵の提案でアムール河を舟で下
    って河口まで帰ることとした。数日かけて河を下り、河口に到
    着すると樺太の北端が見え、その先には果てしない海が広がっ
    ていた。林蔵は樺太が島であることを自分の目で確認したのだ
    った。8月8日にノテトに帰り着いた。3日後に遊猟で南下す
    るギリヤーク人の舟に載せてもらい、9月15日、樺太最南端
    の白主の会所に帰着。再出発してから1年2ヶ月が経っていた。

■9.輝かしい栄光■
    
     林蔵は松前に戻ってから、旅行中の日記、野帳をもとに紀行
    文「東韃地方紀行」、および樺太の地誌「北夷分界余話」をま
    とめ、さらに樺太と東韃靼の地図「北蝦夷島図」を作成した。
    地図は詳細をきわめ、つなぎ合わせると縦6尺(1.8メート
    ル)、横2.7尺(0.8メートル)に及んだ。翌文化7(1810)年
    11月、幕府への報告のため、林蔵は江戸にのぼった。
    
     単身で樺太北部から東韃靼まで探検をしたという話は、日本
    国内で大きな話題になっており、江戸までの各地で藩士や商人
    たちにもてなしを受け、宿を提供されることも多かった。林蔵
    が提出した地図と紀行文は、幕府の老中たちの間でも大評判で
    あった。厳しい旅で健康を害していたため、林蔵がお役御免を
    願い出ると、加増の上、生涯、特定の仕事をしなくとも良いと
    の沙汰があった。3年前に江戸にのぼった際には、林蔵はロシ
    ア艦来襲時の敗走者という汚名を着せられていた。今回はその
    時とはうって変わって、輝かしい栄光に包まれているのを感じ
    た。
    
     林蔵の樺太探検は、1832年にシーボルトが出版した「ニッポ
    ン」の第一巻で欧米社会に紹介された。シーボルトは林蔵が樺
    太が島であることを発見した世界最初の人物であると記し、そ
    の証拠に日本滞在中に入手した林蔵の地図を挿入した。さらに
    東韃靼と樺太の間の海峡を、間宮海峡と名付けた。これによっ
    て林蔵の発見が世界地図の上に永久に残ることになった。
    
     林蔵の探検はわが国の国益にも寄与をなした。40余年後の
    嘉永6(1853)年に始まったロシア使節プチャーチンと勘定奉
    行・川路聖謨(としあきら)による日露国境策定交渉において、
    ロシア側は樺太がロシア領だと主張した。川路が、林蔵が樺太
    ではただの一人もロシア人を見かけなかったという事実をもっ
    て反論すると、プチャーチンはおおいに狼狽した。結局、国境
    交渉は、樺太の国境はこれまで通り定めないが、嘉永5(1852)
    年までに日本人と蝦夷アイヌ人が居住した土地は日本領とする、
    という実質的には日本側の主張で決着したのである。[2,p231]
    [a] 
                                          (文責:伊勢雅臣)
■リンク■
a. JOG(293) 川路聖謨とプチャーチン 〜 幕末名外交官の激突 
   通商と国境策定の問題を激しく論じ合う二人の間にひそかな共
   感が芽生えていった。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
1. 吉村昭、「間宮林蔵」★★★、講談社文庫、S62
2. 吉村昭、「落日の宴 勘定奉行川路聖謨」★★★、講談社文庫、H11

   
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