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       人物探訪: 緒方貞子 〜 難民に寄り添った10年間

         難民高等弁務官として10年、緒方貞子さんは世界の
        難民に寄り添って生きてきた。
■■■■■ H15.08.10 ■■ 38,004 Copies ■■ 895,579 Views■

■1.リスペクト(尊厳)■

     2000年10月、ジュネーブの欧州国連本部会議場で、UNH
    CR(国連難民高等弁務官事務所)の執行委員会が開かれよう
    としていた。年に一度、主要加盟国の代表が集まり、予算や活
    動方針を協議する場である。
    
     難民高等弁務官の緒方貞子さんが壇上に現れると、各国の大
    使が歩み寄り言葉をかけた。緒方さんもステージを降りて各国
    代表の席を丁寧に回り、一人ひとりと親しみのこもった挨拶を
    交わす。10年間UNHCRのリーダーを務めた緒方さんの最
    後の執行委員会である。アナン国連事務総長も特別に姿を見せ
    ている。
    
     やがて緒方さんが壇上に立って、10年間の活動成果を詳し
    く分析し、その最後をこう締めくくった。
    
         ある言葉をみなさまにお勧めしたいと思います。UNH
        CRが50周年のキャンペーンのために選んだ歌の中にあ
        る言葉----リスペクト(尊厳)です。
        
         家を追われ、最も貧しい境遇にある人々を守らんとする
        みなさまの献身に尊厳を。難民に寄り添い、前線で人道支
        援に従事する者たちに尊厳を。
        
         そして誰よりも、難民に尊厳を。
        
     スピーチが終わると、会場の人々は総立ちになって拍手を送
    り、緒方さんの功績を讃えた。アナン事務総長はじめ背の高い
    人々に囲まれた小さな緒方さんははにかむような表情で会場の
    拍手を受けとめた。
    
■2.緒方さんのもとで生まれ変わったUNHCR■

     1991年2月、難民高等弁務官に就任してジュネーブの本部に
    着いた時、緒方さんを知る人はほとんどいなかった。上智大学
    教授から日本として最初の女性国連大使を務め、さらに国連児
    童基金(UNICEF)執行理事会議長、国連人権委員会の日
    本代表など、国際機関での要職を歴任していたが、難民救済の
    分野ではもともと日本の影が薄かったという事もあっただろう。
    
     2代前の高等弁務官ジャン=ピエール・オッケは、スキャン
    ダルにまみれて辞任。後任のトールバル・ストルテンベルグも、
    一年もたたないうちにノルウェーの外相に転出してしまい、職
    員の士気は落ち込んでいた。またUNHCRは財政破綻の危機
    に瀕しており、緒方さんが選ばれたのは日本からの財政援助に
    期待したからだ、などという陰口が叩かれた。
    
     しかし大方の予想に反して、緒方さんが率いた3期10年の
    間に、UNHCRは予算、職員数共に倍増し、国連の中心的な
    組織として生まれ変わった。各国政府と民間団体の寄付によっ
    てまかなわれる予算は、年間およそ10億ドル。世界114カ
    国268カ所に事務所を構え、ジュネーブ本部とあわせて約
    5500人が働いている。規模だけでなく、国連人道機関の中
    でももっとも機動力の高い組織に生まれ変わっていた。

■3.就任早々の難題■

     1991年4月、就任したばかりの緒方さんにいきなり難題が襲
    いかかった。湾岸戦争の終結とともに、イラク北部で大量のク
    ルド難民が発生したのである。フセイン政権から長らく迫害さ
    れていた少数民族のクルド人が武装蜂起したのだが、イラク軍
    の反撃にあって敗退、180万人にのぼるクルド人が難民とな
    ってイランやトルコとの国境に押し寄せた。
    
     140万人はイランとの国境を越えて避難したが、トルコ側
    に避難した40万人はトルコ軍に押し戻された。トルコ政府も
    長年クルド人問題を抱えており、大量のクルド人流入を恐れた
    のだった。こうして雪に覆われた荒涼たる山中に40万人のク
    ルド人が取り残されるという事態となった。
    
     UNHCRの活動は国連で決議した「難民条約」に基づいて
    いる。そこでは「難民」とは「迫害を受ける恐れがあるために、
    国外に逃れ自国の保護を受けられない人々」と定義されている。
    国境を越えなければ主権国家内の内政問題と見なされ、UNH
    CRの担当範囲外とされていた。
    
■4.「小さな巨人」■

     従来の慣例に従ってクルド難民を見捨てるのか、条約の定義
    を無視して救済に乗り出すのか、緒方さんは決断を迫られた。
    救済に乗り出しても、イラク国内の内政問題としてイラク軍の
    攻撃にあう恐れもある。当時の官房長ソーレン・ジェッセン=
    ピーターセンはこう証言する。
    
         緒方さんはすべての幹部の意見を辛抱強く聞いていまし
        た。あえて原則を踏み越えるべきだという意見もありまし
        たが、もしそれをやったら非常に危険な前例となると助言
        する者もいました。2,3時間聞いていたでしょうか、緒
        方さんが最後に決断してこう言いました。「私はやること
        に決めました。彼らが国境を越えようと超えまいと、UN
        HCRは被害者とともに、そして被害者の傍らにいるべき
        なのです。」これは緒方さんの最初の大きな決断だと思い
        ます。多くの職員に衝撃を与えました。しかし、とても前
        向きな衝撃だったと思います。
        
     緒方さんはイラク側に「安全地帯」を作って、そこに難民の
    キャンプを設置するという決断を行った。UNHCRの世界中
    の職員を北イラクに集めて、多国籍軍と協力してキャンプを設
    営した。アメリカを中心とする多国籍軍は早く引き揚げたいと
    いう思惑を持っていたが、緒方さんはブッシュ大統領に謁見し
    て、「そんなに早く撤退させないでくれ」と頼みこんだ。
    
     国連安全保障理事会は「決議688」を採択して、多国籍軍
    とUNHCRの行動を正当化した。最初の2週間で20万人が
    キャンプに収容され、その後も流れは続いた。テント、毛布、
    水や食料などが30カ国から提供され、航空機200機、兵員
    2万人以上が動員された。軍と人道機関がこれほど密接に協力
    したのはかつてない事だった。
    
     前例を打ち破って、クルド難民の救援を始めた緒方さんは一
    躍世界の注目を集めた。ピーターセンは語る。
    
         彼女が、へとへとになって現場から戻ったときのエピソ
        ードを今でも覚えています。
        
         ヘリコプターで、高地にあるイランとトルコの国境地帯
        を訪れ、一日中歩き回り、次々と到着する難民に話しかけ
        ていたのです。本当に疲れきっていました。しかし午後9
        時にテヘランに戻り、記者会見を開く必要がありました。
        多くの記者が集まっていたのです。その会見は見事なもの
        でした。政治的にデリケートな問題についても決然として
        答えていきました。就任してまだ日が浅く、12時間以上
        も歩き回ったあとですよ。次の日、地元紙は彼女を「小さ
        な巨人」と称した見出しを付けました。「小さな巨人」と
        いうあだ名は、その後すっかり定着しましたよ。

■5.サラエボへの大空輸作戦■

     翌92年3月末、さらに大きな問題が起こった。冷戦とともに
    分裂した旧ユーゴスラビア連邦で民族対立が一気に火を噴き、
    ボスニア・ヘルツェゴビナで独立を求めるムスリム人と、反対
    するセルビア人の間で激しい内戦が始まったのである。セルビ
    ア系武装勢力は多くのムスリム人を追い立てて虐殺し、「民族
    浄化」を進めていた。
    
     ムスリム人は国内の6カ所の飛び地に孤立した。その中の一
    つ、首都サラエボでは40万人が、連日の砲撃にさらされ、道
    路を封鎖されて、食料や水の補給を必要としていた。
    
     緒方さんは空輸によって援助物資を届けるという作戦に乗り
    出した。国連は安保理決議758を採択して、サラエボ空港に
    国連保護軍を派遣し、空港を国連の管理下においた。ジュネー
    ブのUNHCR本部に空輸のための司令部が作られ、緒方さん
    の指揮のもと、各国から派遣された空軍将校たちが合同チーム
    を組んで空輸作戦を練り上げていった。UNHCRにとって、
    軍と共同の空輸作戦は史上初めてのことだった。
    
     イギリス空軍から派遣されたアンガス・モリス中佐はこの時
    の経験をこう述べている。
    
         軍の輸送能力をいったん認めると、緒方さんの要求はど
        んどん高くなり、われわれの力を最大限に引き出そうとし
        ました。緒方さんが現れると、部屋の空気が少しだけ高揚
        するのです。人々の命が私たちの仕事にかかっているとい
        う事実、それが私に力を与えてくれました。
        
     1992年7月3日、最初の空輸機がサラエボ空港に着陸した。
    空輸開始の5日後、緒方さんは厳戒態勢のサラエボ空港に降り
    立った。防弾チョッキを着て、国連保護軍のマッケンジー司令
    官と並んで歩く小柄な緒方さんの姿が世界中のメディアに報道
    された。旧市街ではサラエボの市民が窓から手を振って、緒方
    さんを迎えた。
    
■6.「ショック療法」■

     しかし、援助だけでは対処療法にはなっても、問題の解決に
    はならない事はあきらかだった。各国政府の動きは鈍く、殺戮
    が続く中で、援助だけが続いていた。各国政府は本格的解決が
    できないので、とりあえず援助だけを続けて体裁のいいアリバ
    イを作っているのではないか? 緒方さんはいらだった。
    
     緒方さんは1992年11月、歴代難民高等弁務官として初めて、
    国連安全保障理事会に招かれた。この席で緒方さんは、いつま
    でも人道援助のみ続けるのは不可能だと訴え、安保理が一刻も
    早く政治解決に乗り出すよう強く迫った。
    
     年が明けた1993年2月、ボスニア東部のムスリム人居住地域
    を包囲していたセルビア系武装勢力が道路を完全に閉鎖し、援
    助物資を積んだトラックがまったく進めなくなるという事態が
    起こった。ムスリム側は即座に首都サラエボで援助物資をボイ
    コットし、いわば自らハンガーストライキによって国際社会に
    訴えようとした。
    
     両者がUNHCRの人道援助を政治的駆け引きの道具として
    使ったのである。緒方さんは「怒り心頭」に発して、それなら
    援助を停止すると発表した。これが安保理でも大問題となって、
    「なぜ緒方にそんなことをする権限があるんだ」という声があ
    がった。ジェッセン=ピーターセン官房長はこのときのことを
    こう語る。
    
         緒方さんの目的は、すべての勢力に明白なメッセージを
        送ることでした。いわばショック療法のようなものです。
        同時に、人道援助機関の限界を国際社会に訴えるためでも
        ありました。
        
         安保理は、緒方さんの決断に対して非常に動揺していま
        した。それは、安保理が本来やるべき仕事を彼女が肩代わ
        りしていたからです。人道援助が止まってしまうと、他の
        選択肢は何もありませんでした。
        
     問題が大きくなるに従って、メディアも「なぜ援助が停止さ
    れたのか」という問題を競って報道するようになった。当然の
    ことながら、最初に人道援助を妨害したセルビア側指導者に批
    判が集まり、またそれに満足したムスリム側も数日後にボイコ
    ットの停止を表明した。緒方さんの「ショック療法」が奏功し
    たのである。
    
■7.平和の構築■

     「援助停止事件」の後、国連はボスニア国内の飛び地を「安
    全地帯」に指定し、国連保護軍に対して「自衛のために、武力
    行使を含む必要な手段をとる」権限を与えた。
    
     7月6日、ボスニア東部の町スレブレニツァでセルビア系武
    装勢力がムスリム男性、少年およそ7千人を虐殺するという事
    件が起こり、ことここに至ってNATO軍がボスニアのセルビ
    ア系勢力の拠点に激しい空爆を行った。2週間の空爆の後、セ
    ルビア側が停戦を受け入れて、和平協議が始められ、1995年1
    2月に平和協定が調印された。ボスニア・ヘルツェゴビナ共和
    国の存続を認める一方で、その国内にセルビア人共和国を置い
    て、事実上の棲み分けを行うというものである。
    
     戦争が終結した時点で、ボスニア・ヘルツェゴビナの人口
    440万人のうち、死者20万人、国内避難民130万人、国
    外への難民120万人という有様だった。UNHCRはこれら
    の難民の帰還作業を担当することとなった。
    
     さらに緒方さんは帰還した住民たちの生活を再建するために
    さまざまなプロジェクトを立ち上げた。その一つが「ボスニア
    女性イニシアチブ」である。内戦で夫を亡くしたムスリム人、
    セルビア人の寡婦たちが力を合わせて、人形作りをする事業な
    どを支援している。過去の憎しみを乗り越えて、共生の世界を
    作っていかなければ、真の平和と安定にはつながらない、とい
    う考えである。
    
■8.平和は受け身で行動しているだけでは得られない■

         そんなに平和ないい世界に住んでいるんじゃないんです
        よ・・・・20世紀が終わってもね。[1,p111]

     クルド、ボスニア、さらにコソボ、ルワンダと10年間、難
    民に寄り添ってきた緒方さんのため息が聞こえてくるようだ。

         世界の平和は、受け身で行動しているだけでは得られな
        いのです。[1,p9]
        
     安全で豊かな日本列島の中で「戦争反対」を唱えているだけ
    では世界平和は得られない。平和とは汗を流して構築すべきも
    のだ。そして国際貿易に依存して生きるわが国にとって、世界
    の平和と安定は、国家安全保障の前提条件である。
    
         日本の若い方でも、本当の僻地で働いてくださっている
        方が、ずいぶんいるんですよ。そのことを、もっともっと
        日本社会が評価してほしい。私は何も、一生NGOの仕事
        をして僻地で働いてほしいなんて思っていません。若い方
        たちのある成長段階においてそういう経験を積むことは、
        その人たちにとっても大事だし、日本の社会にとっても大
        事なんじゃないかなと思います。[1,171]

                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(032) 現代青年の威厳−中田厚仁さん
    カンボジアでの自由選挙に命を捧げた青年ボランティア。
b. JOG(075) 秋野豊さん
    シルクロードの平和構築に命を捧げた行動派学者。 

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 東野真、「緒方貞子 難民支援の現場」★★★、集英社新書、H15

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「緒方貞子 〜 難民に寄り添った10年間」について
                                               静香さんより

     仕事でクタクタに疲れていても、人間関係で悩んでいる時で
    も、スランプで苦しんでいる時でも貴メールマガジンを読むと
    勇気が湧いてきます…
    
     今も仕事を辞めようかどうか迷っている時なので本当に苦し
    い毎日ですが、緒方貞子さんのことを読んで自分の恵まれた環
    境に気づいたのです。『諭された』という表現の方が当たって
    いるかもしれません…
    
     自分の目指すものと仕事のギャップ、どうしたら解決できる
    のか前向きに考えて答えを出します。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     わが国の長い豊かな歴史は、我々を勇気づけてくれる偉人・
    偉業に充ち満ちていますね。

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