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        国柄探訪: 中江藤樹 〜 まごころを磨く学問

         馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、
        ひたひたと琵琶湖沿岸から広がっていった。
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■1.「どうしてお礼を貰わねばならないんですか」■

     江戸時代初期の寛永19(1642)年、飛脚の太郎が加賀藩前田
    家の公金二百両を京都へ運こぶ途中、琵琶湖南西岸の榎木の宿
    まで馬方の引く馬に乗った。宿について荷物をあらためてみる
    と、二百両がない。太郎は真っ青になった。自分の首が飛ぶ。
    どこでなくしたのか、必死に考えている所に、宿の主人が「お
    客さん、さっきの馬方が来ていますが」と声をかけてきた。
    
     宿の玄関に出ると、さきほどの馬方の又左右衛門がニコニコ
    笑いながら、包みを差し出した。「これが鞍の間に挟まってい
    ました。お忘れ物ですよ」
    
    (仏の助けだ!)と、思わず太郎は大きな安堵感を覚えた。又
    左右衛門が差し出したのは、必死に探していた二百両の包みだ
    った。その場で中身を調べると、ピタリと全額揃っていた。
    「よかったですね」とそのまま帰ろうとする又左右衛門を太郎
    は呼び止め、自分の財布から15両を出して「お礼です。持っ
    て行っておくれ」と言った。
    
     ところが又左右衛門は「あなたのお金をあなたに届けたのに、
    どうしてお礼を貰わねばならないんですか」と言って受け取ら
    ない。10両、5両、3両、1両と金額を下げていったが、又
    左右衛門は固辞して聞かない。
    
■2.中江与右衛門先生■

    「弱ったな。それでは私の気持ちが済まない」と困り果てた太
    郎を見て、又左右衛門は気の毒になったのだろう。「それでは
    二百文下さい。いったん家に帰って、鞍を降ろしたときに気が
    ついて、またここまで来たので、そのくらいの手間賃なら貰っ
    てもいいでしょう。」
    
     又左右衛門は貰った二百文を宿の主人に渡して、これで泊ま
    っているお客さんたちに酒を振る舞って下さい、と頼んだ。太
    郎と主人は、それならお前さんも仲間に入って、一緒に一杯や
    ろう、と誘ったら、又左右衛門は「そういうことなら、お相伴
    させていただきましょう」と酒盛りが始まった。
    
    「又左右衛門さん、どうしてお前さんは、そんなに美しい心を
    お持ちなのだね?」と太郎が不思議に思って聞くと、
    
         別に美しい心というわけじゃありません。ただ、私の家
        の近くに中江与右衛門先生という学者さんがおいでになっ
        て、塾を開いておいでです。やさしい言葉で、難しいこと
        を教えてくださるので大評判です。わたしは、中江先生が
        塾をお開きになった時からの門人で、毎日仕事が終わると
        塾に通わせていただいているのです。中江先生のところで
        学んでいる連中なら、今日のようなことがあれば必ず同じ
        事をしますよ。私だけじゃありません。

■3.武士と学問■

     中江与右衛門が伊予(愛媛県)大洲藩を脱藩して、生まれ故
    郷の琵琶湖西岸の小川村(現在の滋賀県高島郡安曇川町)に帰
    ってきたのは寛永19(1642)年、35歳の時だった。脱藩は大
    洲藩主・加藤泰興が江戸から連れ帰った儒学者・若山道四郎と
    の学問的対立が発端だった。
    
     若山は、徳川家康に重用された朱子学者・林羅山の弟子とい
    う触れ込みだった。戦乱の世が終わり、家康はこれからは学問
    で泰平の世を築こうとしていた。そして新しい武士のあり方を、
    林羅山を中心とする学問によって実現しようとした。従来の
    「戦う武士」から、行政官僚としての武士への転換である。そ
    こでは行政能力のための「読み書き算盤」が重視された。
    
     さらに戦国の気風を一掃するために、「君、君たらずとも、
    臣、臣たれ」(主君が立派でなくとも、家臣として立派に務め
    よ)という聞き分けのよい官僚を作る事を目標として、林羅山
    の説く朱子学を採用していた。藩主が江戸から若宮道四郎を連
    れ帰ったのも、幕府に対して大洲藩も一生懸命、朱子学を学ん
    でいます、というポーズを示す、という意味もあった。
    
     師・林羅山の威を借りて、大洲城内で大勢の藩士たちに学問
    を説く若宮道四郎を、ある時、中江は徹底的に論破し、赤っ恥
    を掻かせた。子どもの頃から神童と呼ばれ、独自に古典を学ん
    だ中江にしてみれば、学問とは立身出世の道具ではない、人の
    生き方を正すものだ、という信念がある。聞き分けの良い行政
    官僚を作るための学問に、多くの藩士が出世を目指して熱を上
    げている気風を批判して、中江は武士の身分を捨て、郷里に帰
    って人としての道を求めようとしたのである。

■4.人間一人一人の心の中にすでにある「明徳」■

     郷里の小川村には老いた母親が一人住んでいた。9歳にして
    祖父に郷里を連れ出され、以来、武士として生きてきたのだが、
    やがて祖父母を亡くし、郷里の父も死んで、今のうちになんと
    か母親に孝養を尽くさねばと思うと、いてもたってもいられな
    い気持ちであった。
    
     そのように母親を思う孝心は、人間としての「まごころ」の
    始まりではないか、と中江は考えた。その気持ちで兄弟が助け
    合い、夫婦が相和し、友だちが信じ合う。そのまごころがさら
    に発展すれば、主従が心を合わせて一国を治め、またそうした
    国々が相和して、天下の平和を保つことができる。「修身斉家
    治国平天下(身を修め、家を整え、国を治め、天下を平らかに
    する)」という儒教の古典「大学」の一節は、まさにこの事を
    示しているのではないか。
    
     とすれば、「国を治め、天下を平らかにする」という政治の
    根本も、まずは人間一人一人の心の中にすでにある「まごこ
    ろ」を磨く所から始めなければならない。「大学」の冒頭には
    「大学の道は明徳を明らかにするにあり」とある。人間が本来
    持っているまごころこそ、この「明徳」なのではないか。そし
    てそれを明らかにすることが学問の目的なのである。
    
     それに対し、林羅山の教える朱子学では、「理(ことわり
    )」は事物に潜んでいるので、それを発見して自分の理とせよ、
    と言う。これでは人間の一人ひとりが持っている明徳は無視さ
    れ、自分の外にある教えに従うことが求められる。官僚的武士
    を量産するには都合の良い教えだが、自分の良心に従うという
    武士の人間性は否定されてしまう。
    
     大洲藩を脱藩して、小川村に帰ってきたのは、土地の素朴な
    人々とともに、自らの明徳を磨くという本当の学問に取り組み
    たいという気持ちからだった。

■5.「心の鏡?」■

     中江が小川村で初めに知り合ったのが、馬方の又左右衛門だ
    った。もう武士はやめようと、刀を又左右衛門に売って貰った
    のだが、頑固として礼は受け取らない。、その姿勢はすでに明
    徳のあらわれだと中江には思われた。又左右衛門の方も、武士
    の地位をなげうって、この地で真の学問に取り組もうとする中
    江を尊敬して、ぜひ塾を開いて自分たちを教えて下さい、と頼
    んだ。夜になると、又左右衛門は馬方仲間の与六と七兵衛を連
    れて、中江の家にやってきた。こうして馬方相手の小さな塾が
    始まった。
    
     中江が「学問の目的は明徳を明らかにすることだ」と説くと、
    又左右衛門は「先生、明徳というのはなんですか」と尋ねる。
    
         それぞれの人が持っている、心の鏡のことです。
    
    「心の鏡?」と又左右衛門は仲間の方を見たが、彼らも首を振
    って、俺にも分からない、という顔をしている。
    
         又左右衛門さんも、与六さんも、七兵衛さんも、それぞ
        れ心の中に立派な鏡を持っておいでです。しかし人によっ
        ては、その鏡が曇ることがあります。鏡が曇ると、物事を
        正しく受け止めることができずに、歪んだ物の見方をしま
        す。そのために、人と人との間に争いが起こります。
        
         鏡を曇らせるのは、人間の欲心です。他人のことを考え
        ずに、自分のことばかり考えていると鏡が曇ってしまい、
        写る事物も歪んでしまいます。歪んだ像を本物だと思って、
        それに対応していきますから人間のおこないも歪んでしま
        うのです。大学でいう明徳をあきらかにするというのは、
        いつもこの心の鏡をしっかりと磨いて、事物を正しい姿で
        写すようにしなければならない、ということです。

    「なるほど、そういうことか」と七兵衛はつぶやき、与六の肩
    を叩いて「おい、与六、おまえの心の鏡は始終曇っているぞ。
    少し磨け」と言った。与六も負けずに「何を言うか。お前の心
    の鏡こそ曇っている。だからいつも仲間と争いばかり起こして
    いる。」

■6.「この村の人間は一体、どうなっているんだ」■

     中江は家の前に流れる溝に魚を飼いたいと思った。塾にやっ
    てくる人々の心を和ませたいと思ったからである。それを聞い
    た又左右衛門は、漁師の加兵衛を連れてきた。加兵衛は生け簀
    (す)を作って、琵琶湖で捕った鯉を飼っているという。加兵
    衛が持参した3尾の鯉は、溝に放たれると住み慣れた自分の居
    場所のようにゆったりと泳ぎだした。「これなら大丈夫です。
    絶対にここからよそへは行きません。」と加兵衛は請け合った。
    
     しかし、翌朝、中江が溝を見ると鯉はいなかった。溝の中に
    しつらえた盆栽もなくなっている。盗まれたのだ。夕方になる
    と加兵衛がまた鯉を持ってやってきた。「盗まれてしまった。
    不行き届きで申し訳ない」と中江が謝ると、加兵衛は、
    
         いいんですよ。鯉はまだまだ沢山います。だれでもあの
        鯉を見れば欲しがるのは無理はありません。この鯉もまた
        盗まれるかもしれませんが、そうなったらそうなったで、
        また持ってきますよ。
        
    と、屈託がない。しかし、その鯉もまた翌朝には盗まれていた。
    
     又左右衛門は「二度も鯉を盗むとは、この村の人間は一体、
    どうなっているんだ」と息巻いた。中江は鯉が盗まれるのは、
    自分の学問がまだまだ至らないからだと落胆した。ひとり、加
    兵衛はじっと黙って、憤りを抑えていた。

■7.「なぜ人のものを盗るのか」■

     その夜、中江は又左右衛門や加兵衛らに対して「親孝行」の
    話から始めた。

         わたしたちは、親によってこの世に生まれました。その
        恩は計り知れません。ですからまず、自分を生んでくれた
        父母を敬い愛することは大切です。しかし考えてみれば、
        その父母も祖父母から生まれました。そうなると祖父母に
        対しても愛敬の念を失ってはなりません。その考えを推し
        進めていくと、わたしたちはご先祖様に対しても、孝を尽
        くす義務があります。
        
     中江は皆の理解を確かめるように見渡したが、なかでも漁師
    の加兵衛は食い入るように中江の話に聞き入っていた。
    
         が、それだけではありません。わたしたちは一人で生き
        ているわけではありません。かならず、他人との関わりが
        あります。世の中との関わりがあります。恵みや慈しみを
        くださる方々に対しても、われわれは愛敬の念を持たなけ
        ればなりません。つまり、他人や世の中に対しても孝を尽
        くさなければならないのです。
        
         他人や世の中に対して愛敬の念を持てば、他人のものを
        盗んだり、みだりに自分の欲望を満たそうなどという考え
        は消えるはずです。そういうことをする人は、他人から受
        けた恩を全く知らない人です。

■8.「すまなかった。二度と盗まないよ」■

     その夜更け、中江の家の前に二つの人影があらわれた。「ち
    っ、もう鯉はいない。二度も盗まれたんで、さすがに腹を立て
    たんだろう。ここの学者先生も案外、けちな男だな」と低く笑
    った。そこに加兵衛が飛び出して、言った。
    
         お願いです。二度と鯉を持って行かないで下さい。鯉は
        中江先生が、溝の縁を通る人々を楽しませようと、放した
        ものです。鯉がなくなると、中江先生が何よりもお悲しみ
        になるのです。私は先生の悲しいお顔を見るのが辛くて、
        耐えられないのです。鯉が欲しければ、私の生け簀に来て
        下さい。ただで差し上げます。中江先生を悲しませないで
        下さい。お願いです。この通りです。
        
     加兵衛は泣きながら、精一杯頼んだ。二人とも黙り込み、加
    兵衛の誠意に打たれて、やがて「すまなかった。二度と盗まな
    いよ」と言って、去っていった。
    
     溝の側には大きな藤の木がある。その陰に中江は隠れて、一
    部始終を見ていた。「加兵衛さん。ありがとう」と呟く中江の
    目も濡れていた。

■9.藤の樹と鯉■

     溝に鯉を飼い盆栽まで置いても誰も盗まない、という話は近
    隣でも評判になり、それを聞いて、中江の塾で学問をしたいと
    いう人々が増えていった。馬方や漁師、農民から、商人、武士
    と身分を超えて、ともに人としての生きる道を学ぶようになっ
    た。
    
     慶安元(1648)年、中江はわずか41歳にして亡くなった。小
    川村に帰ってきてから、まだ6年しか経っていなかった。中江
    は塾の敷地内の大きな藤の木を愛していたが、そこからこの塾
    は門人たちに「藤樹書院」と呼ばれるようになり、また中江自
    身も死後に「中江藤樹」先生と呼ばれるようになった。
    
     中江藤樹の学問は、又左右衛門や加兵衛たちの行いによって、
    琵琶湖の波のように静かに、ひたひたと周辺地域に広がってい
    き、いつしか、中江を「近江聖人」と呼ぶようになった。しか
    しそう呼ばれたら、中江は草場の陰で、「とんでもない。馬方
    の又左右衛門さんや、漁師の加兵衛さんこそ、本当の聖人だ。
    わたしなどはまだまだ。」と苦笑いすることであろう。
    
     現在も、藤樹書院は滋賀県安曇川町に完全に保存されている。
    大きな藤の木は藤棚には季節になれば紫色の花をたわわにつけ
    る。溝には鯉が泳いでいる。
                                          (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(130) 上杉鷹山 〜ケネディ大統領が尊敬した政治家〜 
    自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的 にも
   美しく豊かな共同体を作り出した。
b. JOG(144) 細井平洲〜「人づくり」と「国づくり」
    ケネディ大統領が絶賛した上杉鷹山の「国づくり」は、細井平
   洲の「人づくり」の学問が生みだした。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 童門冬二、「小説 中江藤樹 上」★★★、学陽書房人物文庫、
   H13

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■前号「中江藤樹 〜 まごころを磨く学問」について

                                                秀樹さんより
     私は滋賀県の出身なので、今回の中江藤樹のお話はとても懐
    かしく読ませていただきました。滋賀県では今でも近江聖人中
    江藤樹を慕う人は多く、かくいう私も小さい頃は両親から中江
    藤樹とその母堂の話をよく聞いておりました。
    
     冒頭の馬方の話は後日談があります。ある日中江藤樹の家に
    一人の若者が尋ねてきました。備中岡山藩池田家の元藩士だっ
    た熊沢蕃山という浪人です。人づてにこの馬方の話を聞いて私
    の師匠はこの方しかないと弟子入りをしに来たのです。しかし
    藤樹は「私は弟子を持てるような立派なものではありません」
    と断ったのです。が蕃山はなおあきらめずに2日2晩藤樹の家
    の門前に座り込んで頼み込んだ。
    
     見るに見かねた藤樹の母堂が藤樹にこんな提案をします。
    「そなたの気持ちも分かります。そこで師弟ではなく共に学問
    を求める仲間として迎えたらどうですか」 深く首肯した藤樹
    は蕃山を自宅に迎え入れ、それ以来、蕃山は藤樹の元で学問を
    励む事になったのです。
 
     さらに後日、熊沢蕃山は岡山藩への帰参を許され、池田家に
    再び仕えることになりました。池田家の当主、池田光政は蕃山
    から中江藤樹の話を聞いて、藤樹も藩士として迎えたいと思い、
    再三再四要請します。ついには自身が直接藤樹に会って頼み込
    むのですが、中江藤樹は「殿には熊沢殿がおられるではありま
    せんか」と笑って謝絶したそうです。

     その後、中江藤樹が若くして他界した事を聞いた池田光政は
    深く悲しみ、藤樹の3人の子を始め、多くの門弟を藩士として
    迎えたと言います。
 
     このような話を聞くと、伊勢さんが「藤樹が『わたしなどは
    まだまだ』と苦笑いするだろう」と指摘されたのは、私もまっ
    たく同感です。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     熊沢蕃山の事は紙数の関係で、割愛していました。ご紹介あ
    りがとうございました。

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