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■■ Japan On the Globe(357)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 地球史探訪:同胞4万救出作戦 内蒙古在住4万人の同胞をソ連軍から守ろうと、 日本軍将兵が立ち上がった。 ■■■■ H16.08.15 ■■ 33,209 Copies ■■ 1,266,553 Views■ ■1.蒙古での玉音放送■ 昭和20年8月15日、張家口第2国民学校6年生の富田豊 は、強い日射しの照りつける校庭に級友たちと土下座していた。 夏休みだったが、正午に天皇陛下の玉音放送があるというので、 登校を命じられていたのだった。 張家口は蒙古連合自治政府の一都市で、北京から2百キロほ ど北西、万里の長城の関門にあたる。8月9日、ソ連軍が日ソ 中立条約を破って、満洲と同時に北方から内蒙古にも侵入して くると、これらの地域に住んでいた邦人が、内蒙古の最南部に ある張家口に逃げ込んできていた。 玉音放送は雑音が多く、言葉も難しいので、小学生にはよく 分からなかった。校長先生も沈痛な面持ちで「大変な事態にな りました」と言っただけだった。訳がわからないまま、不安を 抱きつつ家に帰ると、母のいとが泣きながらミシンを踏んでい た。「どうしたの」と豊が聞くと「日本が戦争に負けたのよ」 ■2.「これに対する責任は一切司令官が負う」■ その15日夜、駐蒙軍司令官・根本博中将は、張家口の宿舎 で眠れない夜を過ごしていた。ソ連軍はその前日には張家口北 西44キロの張北にまで迫っていた。満洲に侵入したソ連軍に 関する情報ももたらされていた。 ソ連軍は、在留邦人に対して、婦女子は手当たり次第に 暴行したり、着ている衣服や腕時計まで掠奪している。拒 否するものは容赦なく射殺するなど、暴虐の限りを尽くし ているらしい。 日本は降伏したが、このまま手を拱いていて、ソ連軍が張家 口に侵入すれば同じ地獄絵図が繰り広げられる。北方27キロ にある丸一陣地にてソ連軍を食い止めつつ、時間を稼いで、邦 人4万人を北京・天津方面に脱出させなければならない。 日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら、罪に問われるであろう。 その時は、一切の責任を負って自分が腹を切れば済むことだと、 覚悟が決め、根本中将は丸一陣地の守備隊に対して、命令を下 した。 理由の如何を問わず陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅 すべく、これに対する責任は一切司令官が負う。 「軍司令官は、たとえ逆賊の汚名を受けても4万人の同胞を救 うためには、断乎としてソ連軍を阻止する決意だそうだ。」そ ういう噂が口伝えに広がると、陣地内の将兵の士気は、一挙に 高まった。 ■3.ソ連軍、現る■ 迫りつつあるソ連軍は、外蒙騎兵を含め、総員4万2千。戦 車・装甲車4百輌、砲6百門を持つ機甲部隊である。それに対 して丸一陣地を守るのは約2千5百名。重火器としては迫撃砲、 速射砲など数門づつあるのみだった。陣地とは言っても、小高 い丘を利用して所々にコンクリート製の機関銃座を設け、その 前面には幅6メートル、深さ4メートルの対戦車壕があるだけ だった。 8月19日、未明。細雨のなか、低くたれ込めた朝霧の彼方 から無数のエンジン音が響いてきた。煌々ととライトを照らし た敵装甲車軍が朝霧の中から現れた。 陣地前面の鉄条網付近には「ワレ抗戦セズ」という意思表示 の白旗が掲げられていたが、それを無視してソ連軍は戦車砲、 迫撃砲、機関銃による猛射を始めた。 日本軍陣地の方は積極的戦闘は禁止されているので、応射は 厳禁していた。第一線将兵のはらわたは煮えくりかえっていた。 参謀の辻田新太郎少佐が停戦交渉をしようと、4人の軍使に大 きなシーツで作った白旗3本を持たせて陣地から送り出すと、 その白旗をめがけて撃ってくる。軍使の一人が耳たぶを打ち抜 かれて倒れた。「何という軍紀のない敵か」と辻田少佐は激怒 して、軍使たちを引き返させた。 ■4.「一時避難」のニセ命令■ 20日午後、富田家に隣組を通じて通達が来た。「今晩一晩、 情勢が悪いので一晩分の非常食を持って、国民学校の校庭に集 まれ」という「一時避難命令」だった。いとは、わずかな着替 えと1食分の弁当を持って、豊と清美(8歳)、章三(5歳) の手を引き、2歳の伊久代を背負って、夕方、差し回しのトラッ クに乗った。夫は市内警備に動員されていたが、どこの家も同 様に男手は徴集されて女子供だけだった。 トラックは学校でなく、駅に向かった。何千というほとんど 母子のみの群衆が押し合いへしあい、貨物車に乗り込んでいた。 子供はみなで尻を押し、引っ張りあげた。実は「一時避難」と はニセ命令だった。引き揚げ命令を出せば、少しでも多くの家 財道具を持って逃げようとする。そのために集合が遅れ、また 持ち込んだ荷物で駅前は大混乱になる。短期間で4万人を脱出 させるための駐蒙軍の苦肉の策であった。 満洲では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画した が、居留民会が数時間での出発は不可能と反対し、11日になっ ても誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗 せざるをえなかった。これが居留民の悲劇を呼んだのである。 夜になっても、なかなか列車は出発しない。雨のそぼ降る中、 無蓋汽車にすし詰めの母子たちは濡れ鼠になって出発を待った。 その頃、張家口から数十キロ南方の線路では、八路軍(中国 共産党軍)に爆破されて脱線した機関車と客車数両を日本軍の 一隊が必死になって取り除こうとしていた。4,5時間かかっ て、車両を線路横の谷間に落とした。「これで汽車が通れるぞ」 「居留民たちが、やっと帰れるぞ」 疲れきった兵士たちの中 から声があがった。 夜10時頃、北の大地の遅い夕闇の中を居留民を満載した一 番列車が通る。線路際に立って見送る兵士たちに、無蓋汽車の 上から両手を合わせて頭をたれる婦人の姿が、シルエットとなっ て浮かんだ。 ■5.白兵戦■ その頃、丸一陣地にソ連軍が侵入を開始していた。約2百人 が対戦車壕の西端を回り込んで、背後に回ろうとした。その近 辺を守っていた増田中尉は、ただちに中隊の先頭に立って、 「突撃」と大声で呼号した。 そのとたんに、機関短銃を打ちながら前進してきた敵兵と鉢 合わせとなり、反射的に軍刀を横になぐと、敵兵の首はころり と落ちた。それから後は無我夢中だった。倒れた敵兵の死体を 飛び越えて突進し、血刀を振るって斬りまくった。 8人目を斬り伏せた時、その後ろにいた敵の中隊長らしき人 物が何か叫んだ。「後退せよ」とでも言ったのだろう。敵は潮 の引くように一斉に退却した。増田中尉がほっとして腰をおろ したとたん、全身に激痛が走り、立ち上がれなくなった。身体 の数カ所に銃弾が貫通して、血だるまになっていた。軍刀はひ んまがって、鞘に入らなかった。 陣地最右翼からも、ソ連軍が侵入してきた。手榴弾の投げ合 いのあと、日本軍は白ダスキをかけた銃剣突撃で、敵を撃退し た。 ■6.「元気で帰れよ」■ 豊の弟、5歳の章三は出発前から風邪気味だったが、列車の 中で40度もの熱を出した。母のいとは夜は自分の身体で雨か ら守り、昼は手ぬぐいを顔にかけて烈日を少しでも遮ろうとし た。持参した弁当もすでにない。 駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦 心していた。17日頃から軍の倉庫にあった米や乾パンを沿線 の各駅にトラックで大量に輸送していた。(これが「軍が先に 逃げたとの誤解を与えたらしい。) トラックに乾パンを満載して、陸橋の上で待ちかまえ、通過 する列車に次々と乾パンを投げ入れた。駅で停まると国防婦人 会の人たちが炊き出しのおむすびを差し入れた。 豊の乗った列車が、一面のリンゴ畑を通ると、警備の日本兵 たちが駆け寄って、「元気で帰れよ」と口々に叫んでは、リン ゴをもいで列車に投げ入れてくれた。豊はその一つを受けとめ た。赤いリンゴを噛みしめると、甘酸っぱい果汁が歯に染みた。 ■7.「兵隊さん、これ食べて頑張って下さい」■ 八路軍の鉄道襲撃は執拗だった。周囲の山から居留民を満載 した無蓋汽車に銃を撃ちかけてくる。北京から急遽、救援にか けつけた第118師団の将兵も、防戦に駆けずり回った。 8月21日、張家口から約40キロ東南の宣化の駅では、広 い駅構内の何本もある引き込み線に引き揚げ者を満載した列車 20本ほどが一時停車していた。物資輸送のために山本義一軍 曹と部下20人がそこを通りかかった時、八路軍が襲撃してき た。 山本軍曹は「こりゃ、エライこっちゃ。どうせ死ぬなら、日 本人のために死のう」と部下たちに呼びかけ、応戦。やがて3 百メートルほど離れた川岸まで撃退した。 しかし、八路軍は何度も襲撃してくる。撃ち合って二日目、 疲れ果てて、もう持ちこたえられん、とあきらめかけた時、 5、6歳のイガグリ頭の男の子が、大きなカバンをひきずるよ うにして小走りに走ってきた。その子を目標にして、八路軍の 追撃砲弾が周囲に炸裂する。山本軍曹は思わず、その子を横抱 きにして窪地に飛び込んだ。 「兵隊さん、これ食べて頑張って下さい」と、男の子はカバン の中からいくつもの焼きお握りを取り出した。山本軍曹の顔は 泥と涙で、目の下が真っ黒になっていた。男の子の励ましに疲 れも吹き飛んで、まもなく八路軍を撃退させた。 ■8.堂々たる行進■ 20日夕刻から始まった張家口からの4万人脱出は駐蒙軍と 鉄道関係者の必死の努力で、21日夕刻にはあらかた完了した。 丸一陣地にもその知らせがあり、辻田少佐はその夜、闇にまぎ れて撤退しようと決心した。19日未明からのまる3日間ソ連 軍を食い止めて、消耗の極みに達し、もう一日ともたない状況 だった。 まずトラックで、負傷者を送り出す。その後、1箇小隊づつ 隠密に陣地を離脱した。幸いにもソ連軍はすぐには追撃してこ なかった。夜間の白兵戦で日本兵の強さに恐怖感を抱き、その 夜も夜襲を恐れて、前線から後退していたために、日本軍の撤 退に気がつかなかったのである。また3日間の戦闘で予想外の 大損害を受け、積極的進撃の意欲を失っていた。 一行は山中を歩き、ようやく6日後の8月27日に万里の長 城にたどり着いた。長城のもとでは、一行の到着を知った中川 ・駐蒙軍参謀総長以下の将官等が出迎えた。一行は疲労を隠し、 堂々と胸を張って行進した。戦死者約70人の遺体から切り取っ た遺髪や小指を、飯ごうや図のうに入れての行進である。出迎 えた中川参謀総長はこう手記に書き残した。 暫くの後、後衛(帰着した一隊)、整々たる縦隊を以て 帰着す 士気旺盛なるも、長き頭髪と髭とは無言に長期の 労苦を示す 小官感極まり落涙あるのみにして、慰謝の辞 を述ぶる能わず ■9.緑したたる森に赤い鳥居■ 富田母子を乗せた列車は、ふだんなら10時間ほどで着く所 を3昼夜もかけて24日午後、天津に着いた。そして日本租界 の中の小学校に収容された。熱を出していた章三は、市内の病 院で手当を受けたが、翌日、亡くなった。9月に入って、よう やく合流した父は、それを聞いてがっくり力を落とした。 蒙古政府の日本人官僚たちは、天津でも引き揚げ者たちへの 食料や衣服などの供給に必死の働きをした。丸一陣地で戦った 将兵の一部も、武装解除された後に、天津で帰国の船を待って いたが、旧日本軍の物資倉庫に忍び込んでは、米や毛布を盗ん で、引き揚げ者たちに差し入れた。警備のアメリカ兵たちは見 て見ぬふりをしてくれた。 10月に入って、引き揚げ者たちの間で発疹チフスが流行し、 富田家でも栄養失調で体力の弱っていた清美(8歳)と伊久代 (2歳)が相継いで亡くなった。 10月16日、引き揚げの第一船、江ノ島丸に乗船。弱って いた豊は父の背におぶわれてタラップを登った。船中でも安心 感から、急速に病状を悪化させて水葬に付される人が相継いだ。 豊が「ボクも死ぬんだろうか」と母に聞くと、「何を言ってま すか。もうすぐ内地ですよ。日本ですよ。」と励まされた。 江ノ島丸が対馬沖にさしかかると、緑したたる森に赤い鳥居 が見えた。引き揚げ者たちはデッキに鈴なりになって泣いた。 生きて帰れた、という実感が湧いた。 ■10.35年目の初対面■ 昭和56年1月25日、愛知県豊川市。古い農家の一室から、 耳慣れぬモンゴルの歌声が響いた。 アルバン トングル チルクデ ナルジョー 歌っているのは、47歳になった富田豊。ピンと背筋を伸ば してそれに聴き入っている老人は、元陸軍少佐・駐蒙軍独立混 成第2旅団参謀、辻田新太郎、71歳だった。昭和20年8月 20日の夕刻、豊は母に連れられて、張家口の駅の引き揚げ者 の渦の中にいた。辻田少佐はその時、丸一陣地の戦闘司令所で、 どうしたら引き揚げが完了するまでの3日間を持ちこたえるか、 考えてあぐねていた。 それから35年目にして、ふたりは始めて出会った。辻田が 旧陸軍軍人の親睦雑誌に書いた記事が、偶然、富田の目にふれ、 一読、感動を抑えきれずに、辻田への感謝の手紙を書いたのが きっかけだった。 いや、下手な歌をお聞かせいたしました。こんな歌を今 うたえるのも、あの時、辻田さんたちに頑張って頂いたお かげですよ。 歌い終わって深々と礼をして、こう言う富田に、辻田は答え た。 いえいえ、私どもは、軍人としての義務を果たしただけ です。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(203) 終戦後の日ソ激戦 北海道北部を我が物にしようというスターリンの野望に樺太、 千島の日本軍が立ちふさがった。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) 1. 稲垣武、「昭和20年8月20日 内蒙古・邦人4万奇跡の 脱出」★★★、PHP研究所、S56 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「同胞4万救出作戦」について しらゆきひこさんより 「同胞4万救出作戦」を驚きと感動で読ませていただきました。 実は、文章に紹介されている冨田豊は私の義父であり、70歳 になりますが、元気です。母のイトも94歳で健在です。引き 揚げの苦労話は今までも聞いたことはありましたが、それを命 がけで護ってくださった方達の御存在を初めて知り、深い深い 感謝の念でいっぱいになりました。 義父をはじめ、家族も大変、喜んでおりました。義父や祖母 の、孫やひ孫への慈悲に満ちたまなざしの奥には、命がけの脱 出、逃避行があり、幼くして逝った者達への哀惜の念があるの かもしれません。祖母の長寿なのは、幼くして亡くした3人の 子供の分も生きようとしているからかもしれません。 義父や祖母を助けてくれた方達のお働きなくして、今の自分 の家族の存在さえ考えられないことに、あらためて思いをいた しています。歴史を築いてこられた先人への感謝、身を捧げて 同胞を護ってくださった英霊への感謝を決して忘れてはならな いと思いました。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 奇しき縁(えにし)に驚かされるとともに、我々は歴史につ ながっている、との思いをあらたにしました。© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.