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■■ Japan On the Globe(367)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

         地球史探訪:「日中友好2千年」という虚構

                日本は、中国の冊封体制と中華思想を拒否し、
               適度の距離感を保ってきた。
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■1.2千年の友好関係?■

         余談ながら筆者は1997年に、中国の人民解放軍・国防大
        学を訪問し議論したが、その時、国防大学教官たちは、
        「日中関係は過去2000年間、友好関係にあったのに、日中
        戦争で日本人がこれを壊してしまった」と説明したので、
        筆者は「中国は4000年間にわたって外国人に朝貢関係しか
        認めず、必ず三跪九叩頭を強制してきたのに、これが平等
        な友好関係と言えますか」と反論すると、彼らは一様に気
        まずい顔をして沈黙してしまった。[1,p47]

     三跪九叩頭(さんっきゅうこうとう)とは、中国の皇帝に対
    して、一度ひざまずいては三度頭を地につけ、これを三回繰返
    す礼式である。中国の歴代王朝は自らを文明の中心たる「中華」
    とし、周辺を東夷・西戎・南蛮・北狄などの野蛮国と見なした。
    野蛮国のうち、中国に服属するものは、皇帝がその支配者を
    「王」と認めてやり(冊封、さくほう)、定期的に貢ぎ物(朝
    貢)をさせる。冊封された王が中国にやってきて、皇帝に拝謁
    する時の挨拶が、この三跪九叩頭なのである。

     中華帝国を中心に周辺の野蛮国を服属させるという世界観が
    中華思想だが、現代の中国人もこの中華思想に染まっていると
    考えると、その外交政策を理解しやすくなる。

     冒頭の「日中関係は過去2000年間、友好関係にあった」とい
    う国防大学教官たちは、おそらく、日本も中国の服属国であっ
    た、という冊封体制を前提としているのだろう。だからこそ日
    本の首相に対して靖国参拝を止めろと命ずるのも当たり前であ
    り、ODAという朝貢をさせるのも当然の権利と考えているの
    である。

     しかし、事実に即して日中関係の歴史を辿ってみれば、我々
    の先人は、この冊封体制自体を早くから否定し、そのために2
    千年の日中関係は「友好関係」というよりも、緊張と対峙の歴
    史であった、という事が分かるだろう。

■2.「卑弥呼」への「注目すべき優遇」■

     魏志倭人伝によれば、西暦239年、邪馬台国の卑弥呼が魏の
    皇帝に使節を送り、男女の生口(奴婢) 10人と布を献上した。
    魏の皇帝は、卑弥呼を「親魏倭王」とし、返礼の品物として銅
    鏡100枚などを魏使によって卑弥呼のもとに届けた、という。

    「邪馬台」とか「卑弥呼」などという漢字の使い方自体が、周
    辺国を蔑視する中華思想の現れであるが、卑弥呼が呪術を使っ
    ていたとか、当時倭の諸小国が戦乱を繰り返していた、などと
    いう記述からも、いかにも蛮族の一酋長が、身の程知らずにも
    文明の中心たる大帝国に粗末な貢ぎ物を送り、莫大な返礼を貰っ
    たように受けとめてしまう。

     しかし、この「親魏倭王」の称号は、同時期、中央アジアか
    らインド亜大陸を支配した西方の大国「大月氏国」に与えられ
    た「親魏大月氏王」に比肩しうるものであり、それは明らかに
    中華帝国に次ぐ、周辺勢力の中の第一人者という威信を含んだ
    ものなのである。「注目すべき優遇」というのが、専門家の一
    致した見方である。

     その理由と考えられるのが、当時、魏は南方の呉と緊張状態
    にあり、その東方の海上にあると考えられていた倭と結ぶこと
    によって、呉を抑え込もうとしていた、という仮説である。と
    すれば、倭は魏からも頼りにされるほどの武力を持った戦略的
    大国であった可能性もある。この点は古代史の解明が進めば、
    いずれ明らかになるだろう。

■3.聖徳太子の対等外交■

     中国大陸は魏・呉・蜀の三国時代から、匈奴などが侵入した
    五胡十六国時代、南北朝時代と戦乱が続き、その後、ようやく
    3百年ぶりに隋が大陸を統一した。高句麗・百済・新羅の朝鮮
    半島の三国はただちに使いを送り、それぞれに中華皇帝の臣と
    して官職を授与され、冊封を受けている。

     日本も120余年の断絶を経て遣隋使を送った。しかしその
    姿勢は朝鮮3国とは全く異なったものだった。607年の第2回
    遣隋使に託して聖徳太子が送った国書には「日出ずる処の天子、
    書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや」という文
    言があった。これによって聖徳太子は冊封体制を完全に無視し、
    日本を中国と対等な独立国家である事を宣言していたのである。

     この冊封体制を無視する国書に、「帝、之を覧て悦ばず」と
    皇帝は機嫌を損ねた。中華帝国の建前から言えば、このような
    蛮夷からの無礼な書には、制裁の軍を送るべきなのだろうが、
    皇帝は自制した。「蛮夷の書、無礼なる者あり、復(ま)た以
    て聞する勿れ(二度とこのようなものは私に見せるな)」と、
    部下に命じただけだった。

     実は隋は598年から始まる4回の対高句麗戦争で100万も
    の大軍を送っていた。そのうえに日本と事を構える余裕はなく、
    できれば日本を味方につけておきたいという事情があったので
    ある。その弱みを見透かして、聖徳太子は独立対等外交を展開
    したのである。[a]

     聖徳太子以降、日本の対中政策は冊封体制を無視して、対等
    外交を原則とするようになる。唯一の例外が15世紀初頭、足
    利義満が明王朝から「日本国王」への冊封を受け入れいた数年
    間のみで、この行為は日本国内で激しく批判され、以後、その
    ような例は皆無となった。

■4.唐の日本冊封の野望■

     しかし、中国も唯々諾々と日本の対等外交を受け入れたわけ
    ではない。高句麗との戦いで崩壊した隋の後を受けた唐は、高
    句麗を滅亡させ、さらに新羅と組んで百済を攻めた。百済から
    救援を求められた日本は水軍を送るが、663年、白村江の戦い
    で敗北する。

     天智天皇は九州・大宰府に水城(みずき)、各地に山城(さん
    じよう)を造り、さらに667年には都を近江の大津に移し唐の襲
    来に備えた。

     671年、天智天皇10年の11月、唐からの使節が総員2千
    人、船47隻を率いて来日した。明かな威圧外交である。この
    時の国書には「大唐皇帝敬(つつし)みて倭王に問うの書」な
    るものがあったという。蛮国の王に中華皇帝が書を送る、とい
    う中華思想のスタイルそのままである。軍事的優勢の好機に、
    再び日本を冊封体制に取り込もうという狙いがあった、と考え
    られる。

     翌年、日本では壬申の乱が起こり、政権をとった天武朝は中
    華との対峙と大陸からのより明確な文化的離脱をめざすべく、
    律令国家体制構築を進めていく。

     おりしも唐は新羅の反乱に直面し、673年から新羅討伐が始
    まる。唐は新羅と日本が結ぶ可能性を恐れねばならなくなり、
    対日圧力は劇的に弱まって、日本冊封の野望は潰えた。701年
    に30年ぶりに遣唐使が送られた時には、唐はもはや冊封に応
    じない日本に圧力をかけようとはせず、文化移入を目的に入唐
    する日本の留学生を受け入れていった。その遣唐使も894年を
    最後に廃止され、以降、日本は独自の国風文化を築いていく。

■5.蒙古、襲来■

     唐が907年に滅亡すると、五代十国の内乱の時代を経て、979
    年に宋が統一を果たすが、北方の遼、西方の西夏の侵略を受け、
    多額の銀と絹を送って、懐柔に努めた。宋と日本との貿易は盛
    んに行われたが、公式の外交関係は結ばれなかった。

     1271年、元を建てて大都(北京)に都を定めたフビライは、
    日本を服属させようと、たびたび使者を送ったが、その国書の
    一つには「大蒙古国皇帝、書を日本国王に奉る」とあった。再
    び、中華皇帝が日本国王を臣従させるという中華思想そのまま
    である。

     鎌倉幕府の執権・北条時宗は使者を追い返したり、帰国に応
    じない使者は切り捨てたりした。フビライは1274年と1281年、
    船で大軍を日本に送ったが、鎌倉武士の勇猛果敢な奮戦により、
    上陸を阻まれた所に台風に襲われて壊滅した[b]。

■6.不信と猜疑の冊封体制■

     1592年、秀吉は明を征服しようと日本軍を釜山に上陸させた。
    秀吉の動機については諸説あるが、最近では、スペインやポル
    トガルの中国征服への対抗策であったという説が出されている。
    スペインがメキシコやフィリピンのように明を征服したら、そ
    の大艦建造技術と大陸の経済力が結びついて、元寇の時を上回
    る強力な大艦隊で日本に襲いかかってくる事を恐れたという。
    [c]

     朝鮮は北京の明皇帝に救援の要請をした。本来なら中華帝国
    は冊封国を外敵から守ってやるのが建前であるが、実態はそう
    単純なものではなかった。明は日本軍の動静観察の名目で使節
    を派遣するが、その真意は「日本と朝鮮が陰で結んでいるので
    はないか」という疑いからだった。

     明は薩摩に住む明の商人などを通じて、その前年に朝鮮の使
    いが密かに日本に渡っている事を掴んでいたのである。このよ
    うに冊封体制の実態は、相手がいつ裏切るかもしれない、とい
    う不信と猜疑に満ちたものだった。

     さすがに日本軍がソウルを陥落させ平壌に迫ると、明も自ら
    の安全のために、出兵した。しかし、北方のモンゴルからの侵
    攻にも備えなければならなかったので、朝鮮側にはまったく無
    断で、朝鮮分割を含む対日講和交渉さえ始める始末であった。

■7.冊封体制の消滅■

     明が日本軍と戦っている隙に、勢力を拡げた満洲の女真族は、
    明が飢饉と農民の反乱で滅亡した後を統一して、1644年に「清」
    を打ち立てた。ここからまた3百年にわたる異民族支配が始ま
    る。清はさらにチベット、モンゴル、ウイグルに版図を広げて、
    大帝国となった。

     しかし、1842年、イギリスとのアヘン戦争に敗れて香港を奪
    われたのをかわきりに[d]、西洋諸国に次々と領土を奪われ、
    中華帝国の名誉はずたずたにされていった。その最終的なとど
    めを刺したのが日清戦争であった。

     明治日本の指導者達は、アジアに押し寄せてくる欧米勢力か
    ら、国家の独立を守るには、内に近代的な国民国家を作り上げ、
    外に開国して早急に近代的経済力・軍事力を身につける必要が
    ある、と考えた。そしてさらに朝鮮も清の冊封体制から独立さ
    せて、近代化を進めさせようとした。しかし朝鮮は、日本から
    の国書に「皇上」「奉勅」など、中華皇帝しか使ってはならな
    い文字があるとして、受け取りすら拒否する頑迷ぶりを見せた。

     清も朝鮮をあくまで冊封体制に留めようとして、ここに日清
    戦争が始まった。この戦争に清国は敗北し、朝鮮という最後の
    服属国を失ったことで、中華帝国による冊封体制は完全に消滅
    した。日本は7世紀初頭の聖徳太子外交以来、中華帝国による
    冊封体制を拒否してきたが、奇しくもそのとどめを刺す役回り
    を担ったのである。

■8.中国は中華思想から脱却できるか?■

     実態としての冊封体制は消えたが、観念としての中華思想は
    中国人の脳裏にその後も長く生き残っている。毛沢東は著書
    「中国革命と中国共産党」の中で次のように言っている。

         帝国主義諸国は中国を打ち負かしたあと、中国に属する
        各国を占領した。日本は朝鮮、台湾、琉球、澎湖島、旅順
        を占領し、イギリスはビルマ、ブータン、香港を、フラン
        スは安南を占領した。

     朝鮮や琉球(沖縄)、ビルマ、ブータン、安南(ベトナム)
    などは、服属国として「中国に属する」と考えているのである。
    チベットは第2次大戦後に植民地化された唯一の国であるが、
    毛沢東にしてみれば、他国を侵略したわけではなく、「中国に
    属す」べき服属国を冊封体制に取り戻した、というのだろう。

     2003年に、国家主席の地位についた胡錦濤は、同年12月の
    「毛沢東生誕110周年を記念する講演の中で、こう言ってい
    る。

         社会主義の現代化と中華民族の偉大な復興を実現するに
        は、和平崛起(くっき、平和裡に世界の超大国としてそび
        え立つ地位につくこと)という発展の道を堅持しなければ
        ならない。

     中国は国際社会の単なる一員、普通の国ではない。周辺に多
    くの冊封国、服属国を抱え、外には世界の超大国としてそびえ
    たつ、それが「中華民族の偉大な復興」なのである。中華思想
    は回帰すべき理想として、現代の中国人の心中に根強く生き残っ
    ている。

     こう考えると、今まで中国共産党政権としては一度も支配し
    たことのない主権国家・台湾を執拗に「一つの中国」として
    「統一」を主張したり、北朝鮮を服属国であるかのように庇護
    する理由も分かってくる。

■9.中国に対する適度の距離感■

     現代世界は多くの主権国家が対等な立場で条約を結んだり、
    国際機構に加盟したりする事を前提としている。そして自立し
    うる力のある民族は、自ら主権国家を構成するのが望ましいと
    考えられている。

     しかし長く冊封体制を続け、中華思想を抱いてきた中国人に
    は、この世界は居心地の悪い世界である。俗な喩えで言えば、
    今までやくざの親分をやっていた人間が、急に町内会の一員に
    なるようなものである。今後、心がけを改めて、国際社会の平
    等な構成員としてやっていくには、相当な心的葛藤を克服しな
    ければならないだろう。異民族を多く抱え、また国家統合の求
    心力として中華思想しか持たない中国にとって、これは国家の
    存立を揺るがしかねない問題である。

     それに対して、我が国の方は古代から中国の冊封体制を拒否
    し、自主独立の国としてやってきた。明治以降、近代の国際社
    会にすんなり溶け込めたのも、対等な主権国家間の外交という
    経験があったからである。

     我々の先祖は1300年も前から「中華思想」や「冊封体制」
    という中国側の建前を拒否し、大陸との接触を文化的・経済的
    なものに限って、大陸の戦乱に巻き込まれる事を極力避けてき
    た。日中関係がほとんどの期間、平和に保たれたのは、友好と
    いうより、日本側が中華帝国に対して適度の距離感を保ってき
    た事が原因である。結果的に見れば、それは大成功だった。こ
    の先人の知恵を我々は継承すべきであろう。
                                         (文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(311)  聖徳太子の大戦略
    聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取っ
   たのか?
b. JOG(207) 元寇 〜鎌倉武士たちの「一所懸命」
    蒙古の大軍から国土を守ったのは、子々孫々のためには命を
   惜しまない鎌倉武士たちだった。
c. JOG(154) キリシタン宣教師の野望
    キリシタン宣教師達は、日本やシナをスペインの植民地とす
   ることを、神への奉仕と考えた。
d. JOG(173) アヘン戦争〜林則徐はなぜ敗れたのか?
    世界の中心たる大清帝国が、「ケシ粒のような小国」と戦っ
   て負けるとは誰が予想したろう。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。
1. 杉山徹宗、「真実の中国4000年史」★★★、祥伝社黄金文庫、
   H16
2. 中西輝政、「帝国としての中国」★★、東洋経済新報社、H16


_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「『日中友好2千年』という虚構」について 

                                               門田さんより
     よく、中国3000年だとか4000年だとか能天気に言ってい
    る人たちがいますが、かつてユーラシア大陸のほとんどをモン
    ゴル帝国が支配し、日本にも襲撃してきたことは誰もが知って
    いることです。それでは「中国4000年」とは何なのでしょうか?
    この時期は問わない事になっているのでしょうか?

     土地の歴史と国の歴史を混同するからいけないのであって、
    中国は4000年の土地の上に建国50年の人工国家が建って
    いる国なのだということがわかれば物事がもっとスッキリと見
    えてきます。日本人は現エジプト人と古代エジプト帝国とが同
    じ時間軸の中にあるとは思わないわけですから、「中国」に対
    しても同様に対処できるはずです。

     私の場合、中国の人たちに「君たちの国は若い共和国だから」
    とハッキリ言っています。これで問題になったことはありませ
    ん。私たちは先人の聖徳太子にならい、堂々と澄ましていたい
    ものです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

    「中国4千年」とか「日中友好2千年」など、歴史事実を政治
    的都合に合わせて曲げるのは、中国の伝統ですね。

© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.