[トップページ][平成17年一覧][人物探訪][210.67 日露戦争][238 帝政 ロシア]
■■ Japan On the Globe(399)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 人物探訪: 東郷平八郎 〜 寡黙なる提督 (上) 寡黙なる提督に率いられた連合艦隊は、 ロシア旅順艦隊を撃滅した。 ■■■■ H17.06.19 ■■ 33,188 Copies ■■ 1,655,181 Views■ ■1.「かういふやうな長官が来ちや、これは叶わん」■ 東郷平八郎中将が連合艦隊司令長官として佐世保に赴任した のは、明治36(1903)年10月19日だった。その後、日本海 海戦で大勝を収めて「アドミラル・トーゴー」と世界に名を馳 せた東郷は、この時は海軍の一般の将兵にすらほとんど知られ ていなかった。停車場に出迎えたのは、わずか数人の幕僚だけ だった。 何しろその存在さえ判然と頭になかったものさへ少なく なかつた様です。・・・戦争が起こると言ふのに、かうい ふやうな長官が来ちや、これは叶わん、鹿児島の人だから 寄越したのだらう。・・・ さうする中に、いろいろな人が「東郷といふ人は偉い人 だ」といふことを段々いひ出してきた。なンだこいつ等、 どこかでお世話になつたんで、長官を褒めるのだらう。僕 等はさう思ってゐた。さうすると、一ケ月ばかりすると誰 も東郷さんに頭を下げる。水兵までが東郷さんが甲板を散 歩して居つたと感服する。我々もソロソロ妙だなア・・・ と思ふやうになった。[1,p35] 東郷中将の連合艦隊司令長官としての寡黙なデビューであっ た。 ■2.マカロフ中将の登場■ 明治37(1904)年2月8日、開戦劈頭、連合艦隊は仁川港外 にてロシア艦2隻を撃沈。さらに旅順港外にあった戦艦2隻、 巡洋艦1隻を撃破した。ロシア艦隊は旅順港内に逃げ込んだが、 その士気を奮い立たせ、戦局を挽回するために新しい司令長官 として任命されたのが、マカロフ中将であった。 「海軍戦術論」の著作によって、世界的戦術家としての声望を 得ていたマカロフを迎えて、ロシアの全将兵の士気はたちまち 高揚し、旅順艦隊の活動は急に活発になった。 東郷は海軍大学校長であった時、マカロフの著書が出版され るや、ただちに翻訳させ、自ら書き写したり、書き込みをして 研究に余念がなかった。連合艦隊司令長官として赴任した時に も、この著書を携行したと言われている。 マカロフ率いる旅順艦隊は、たびたび港外に出ては、日本艦 隊を挑発し、旅順要塞からの砲撃範囲に誘い込もうとした。し かし、その手に乗る東郷ではなかった。 ■3.「そうだよ」■ 何度かこうした挑発が繰り返されたが、参謀の秋山少佐がロ シア艦隊がいつも一定地点で反転して帰港するのに気がついた。 そこでその地点に機雷を敷設して待ち伏せた。4月13日の明 け方、日本艦隊は敵の駆逐艦1隻が港外に出ているのを見つけ て、すかさず砲撃し、航行不能に陥れた。 マカロフは駆逐艦を救うべく、戦艦ペトロパウロフスクに将 旗を掲げ、旅順艦隊を率いて港外に出てきた。いつもなら機雷 を掃海してから出撃するのだが、この時は急いで駆逐艦を救う ために、掃海の指示を出すのを忘れていた。 艦橋の東郷は、ツァイス双眼鏡を握りしめて、マカロフの座 乗する旗艦が機雷を敷設した海域を進む様子を凝視していた。 その瞬間、巨大な黒褐色の煙が立ち上り、爆発音が耳をつんざ いた。戦艦ペトロパウロフスクは艦首から沈み始め、艦尾が直 立して、スクリューが空中で回転しているのが見えた。やがて、 マカロフの旗艦は、火炎を巻き上げながら、わずか1分30秒 ほどで、海中に沈んだ。東郷はゆっくり双眼鏡をはずした。 「長官、マカロフの旗艦ではありませんか?」と秋山参謀が叫 んだ。肉眼で見ていたために判別できなかったのである。東郷 は静かに微笑して、「そうだよ」と答えた。 「無線電信で弔意を敵艦隊にうちましょうか」と幕僚の一人が 進言したが、東郷は一言「無用」と退けた。後に東郷は「その 気にならなかっただけだ」と説明している。浮かれている場合 ではない。戦いはまだまだこれからだ。 東郷は翌日、旅順港口で機雷を沈める偽の動作をして、敵の 弾丸を消費させよと命じた。敵の意気が沈んでいるときこそ、 さらに一撃を浴びせてなければならない。しかし、敵砲台は全 く沈黙を守って応戦してこなかった。マカロフを失った衝撃が あまりにも大きく、敵は沈みきっているようであった。 ■4.「ありがとう、ペケナムさん」■ しかし、ロシア艦隊にも作戦家がいた。日本艦隊が要塞砲の 射程距離外を旋回して、ロシア艦隊をおびき出そうとする作戦 を繰り返しているのを見て、その地点に機雷を敷設したのであ る。 5月14日、戦艦初瀬と八島が相次いで機雷に触れ、二隻と も沈没してしまった。6隻しかなかった戦艦のうち、2隻をわ ずか一日で失ってしまったのである。九死に一生を得て、救助 された初瀬の中尾艦長らは、東郷の顔を見るなり、男泣きに泣 き出してしまった。「お許しください」との声がようやく艦長 の口から出た。 東郷は「ご苦労だった」と一言いったきりで、卓上にあった 茶菓を全員に勧めた。翌日も、いつものごとく、東郷が童顔を にこにこさせて、甲板を散歩する姿が見られた。 観戦武官として乗艦していたイギリスのペケナム大佐は、散 歩中の東郷を見つけると、手を差し伸べて弔辞を述べたが、東 郷は「ありがとう、ペケナムさん」と何か、ささやかなプレゼ ントでも貰ったように礼を述べて、固い握手を返した。 後に東郷はこの時の心境を聞かれて、「彼我(ひが)勢力の 転倒なきを考え自信を有したり」と簡潔に答えている。沈んで しまった戦艦の事をくよくよ考えていても、事態が変わるわけ でもない。まだまだ我が方が優勢であって、自信を持って今後 の戦いに望もう、という静かな闘志である。 こうした東郷の姿に、連合艦隊は士気を取り戻し、旅順港封 鎖を続けた。いささかでも動揺の気配を見せたら、ロシア艦隊 が日本の封鎖を突破して、旅巡から脱出する危険があったが、 常と変わらぬ日本艦隊の姿に、絶好の好機を逃してしまったの である。 ■5.「司令塔は外が見えにくうてなあ」■ 旅順要塞を背後から攻める乃木の第3軍は、8月7日から旅 順旧市内に砲撃を行った。港内を見渡せる203高地がいまだ 確保できず、推量による砲撃だったが、旧市内に大火災を起こ し、また戦艦数隻にも命中弾が出た。 これ以上、艦隊を損傷させてはならないと、皇帝から「旅順 の艦隊を率いてウラジオストックに向け出向せよ」との命令が 下り、8月10日の夜明けに戦艦7隻、巡洋艦3隻が出港した。 単縦陣でなんとかウラジオストックに逃げ込もうとする敵艦 隊に対して、東郷率いる連合艦隊はT字型に敵の行く手を遮り、 さらに3千メートルまで接近して、猛撃を浴びせた。黄海海戦 の始まりである。 敵艦隊の陣形が崩れたが、その反撃も凄まじく、特に旗艦三 笠は狙い打ちされて20余発の命中弾を受けて、死傷者が続出 した。東郷は前艦橋に立って指揮を続けたが、近くにも一弾が 炸裂し、すぐそばの伊地知艦長や参謀たちが負傷した。東郷は 鮮血のしぶきを浴びながら指揮を続けた。 島村参謀長は「長官! 司令塔内に入ってください」と叫ん だ。司令塔は厚い鋼鉄で覆われ、はるかに安全である。東郷は 「司令塔は外が見えにくうてなあ」と答えたきりだった。その 間にも砕けた砲弾が近くを飛び交う。 結局、ロシア艦隊は戦艦1隻、巡洋艦3隻を失い、残る艦船 も無惨に変わり果てて、旅順港に戻った。 12月5日、乃木軍は死闘の末、旅順港内を見渡せる203 高地占領に成功した。そこから観測しながら、ただちに港内へ の砲撃を開始し、8日までにはほとんどの敵艦船を沈めた。 ■6.「誓って敵の増援艦隊を撃滅し」■ 12月30日、連合艦隊主力は呉に帰着し、東郷らは汽車で 上京した。新橋駅には数万の群衆が押しかけ万歳を連呼したが、 東郷は時々手を挙げて応えるだけで、その表情は硬かった。ロ シアのバルチック艦隊が極東に向けて出発していたからである。 東郷は宮中に参内して、天皇皇后両陛下に拝謁した。天皇か らバルチック艦隊を迎え撃つ方策について御下問があると、東 郷は簡潔にこう奉答した。 誓って敵の増援艦隊を撃滅し、宸襟(しんきん、天皇の お心)を安んじ奉ります。 その言葉を聞いていた山本権兵衛・海軍大臣が「平八どん、 ようもはっきり言いもしたなぁ」と感心し、伊東祐亨・海軍軍 令部長が「撃滅できんときゃあ、これじゃ」と腹を切る格好を してみせたが、東郷は確信があるのか、黙ったままでいた。 明けて明治38年1月7日、日比谷公園で東京都民による大 祝賀会が開かれた。東郷も断り切れずに出席した。東郷が紹介 された瞬間、7万余人の歓呼が会場に充満した。 東郷はただ頭を下げ、答礼を繰り返すのみだった。謙虚な東 郷の態度に参会者はかえって感動したのだが、国民が熱狂すれ ばするほど、東郷の心は醒めて、来るべきバルチック艦隊との 決戦を思うのだった。 ■7.バルチック艦隊はどこを通るか?■ 日本海軍が頭を悩ませていたのが、バルチック艦隊がどのよ うな経路をとって、ウラジオストックを目指すか、という点だっ た。この時点でバルチック艦隊は、地中海から大西洋を南下し、 アフリカ大陸の南端・喜望峰を回って、マダガスカル島に到達 していた。この後、インド洋を東進し、シンガポールを経て、 東シナ海に入るだろう。 ここから朝鮮海峡をまっすぐ北上するか、日本の太平洋岸か ら津軽海峡、または宗谷海峡を抜けるか。いずれにしろ、バル チック艦隊がウラジオストックに逃げ込む前に、これを捉え、 撃滅しなければならない。 山本海相・伊東軍令部長・東郷の三者会談が開かれた。山本 が、地図で太平洋の真ん中あたりを指先で示して言った。 シンガポールから真っすぐ東に進み、わが小笠原諸島の 一部を占領し、北上の機会をうかがうかもしれんと、イギ リスシナ艦隊の幹部は考えとるそうな。 ■8.「これで、きまいもしたぁ」■ 東郷は重い口調でこう返した。 イギリス人は、非常の頭が良うごわす。それにじっくり 勝機をつかむまでのねばり強さも持ちょいもす。敵がイギ リス艦隊じゃったら、おそらく、小笠原諸島を狙うかもし れもはん。じゃが、ロシア人は、大体において、朴訥で、 男気で、大ぼっかいな所がごわす。皇帝の命令に忠実に従 い、祖国のためには生命を投げ出して戦いもす。ほんに勇 敢でごわした。[2,p314] 山本はテーブルをどんと叩いて言った。「実戦で得た、これ は貴重な意見でごわすっそ。伊東どん。これで、きまいもしたぁ」 山本の指先は、地図の上で仏領インドシナからまっすぐ北東 にのび、東シナ海から朝鮮、対馬の両海峡まできて、ぴたりと 止まった。 ■9.「我が一門は彼の三門と対抗するを得べし」■ この間に連合艦隊は各艦の補修を急いでいた。呉のドックに 入った戦艦・霧島は特に損傷がひどく、技術官は修理に2ヶ月 半はかかると見ていた。艦長はバルチック艦隊との決戦に間に 合うか、気を揉んでいた。 ところがいざ修理が始まると職工たちは昼休みも休まず、食 事も手足を動かす合間に握り飯を頬張るだけで働き続けた。乗 組員の方が気を使って、茶を運んだり、間食を振る舞ったりし た。こうして2ヶ月半の予定がわずか半分で修理を完了した。 職工たちもロシアとの戦いに参加していたのである。 2月21日、東郷率いる連合艦隊は朝鮮南岸の鎮海湾根拠地 に入り、猛訓練を開始した。戦艦、巡洋艦は砲撃の命中精度を 上げるべく訓練を重ね、駆逐艦、水雷艇は魚雷発射の訓練を続 けた。東郷は連日の猛訓練に弁当持参で立ち会い、着弾距離と 命中精度を頭の中に叩き込んだ。 バルチック艦隊は主力艦の数では、連合艦隊と同数の12隻 だったが、旗艦スワロフ以下4隻は新鋭戦艦であり、また30 サンチ、25サンチの主力砲は33門と、連合艦隊の17門に 対して2倍近かった。 しかし、東郷は砲の数などよりも、乗務員の士気と技量こそ、 勝敗を決める鍵であることを、これまでの歴戦の経験から掴ん でいた。東郷は次のような訓示を行った。 我が砲数少なき場合に於いても、其の照準発射迅速確実 なるときはあたかも我が砲数を倍加せるが如し。黄海海戦 に見るに我の三発する間に彼一発するの比例なりし故に、 我が一門は彼の三門と対抗するを得べし。いはんや我が射 撃の連度ははるかに敵に優るあるに於いてをや。[2,p331] 東郷は冷静にバルチック艦隊を迎え撃とうとしていた。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(236) 日本海海戦 世界海戦史上にのこる大勝利は、明治日本の近代化努力の到 達点だった。 b. JOG(386) 救国の軍師・児玉源太郎(下) まさに児玉は国を救うために、天が遣わした軍師であった。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 下村寅太郎、『東郷平八郎』★★★、講談社学術文庫、S56 2. 真木洋三、『東郷平八郎 下』、★★★、文春文庫、S63© 平成16年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.