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                     夕陽丘の聖徳太子

                                                   伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1097 ■ H18.02.20 ■ 8,272部 ■■■■■■■

     大阪に「夕陽丘」という地名がある。ミナミの日本橋を東に
    行くと、上町台地の高い崖にぶつかる。その急な坂を登った所
    が夕陽丘町である。通天閣がほとんど目の高さに見える。

     古代には崖の下あたりまで海が入り込んでいた。海から夕陽
    が燦々と当たっていてこの名がついたのであろう。

     その夕陽丘のすぐ東南に四天王寺がある。593年に聖徳太
    子が建立を始めたとされる最古の官寺だ。伽藍は何度も焼けた
    が、位置は今と同じだという。完成までの間、太子は何度もこ
    の地を訪れた。そして美しい夕陽を挑め、潮騒を聞いたことだ
    ろう。

     その夕陽の沈む海のはるか彼方に中国大陸がある。そこに随
    という強大な国が出現した。随とどう付き合おうかと、太子は
    夕陽の沈む方を眺めながら、思いを巡らせていたに違いあるま
    い。

     思案の結果、「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致
    す、恙なきや」という書を小野妹子に持たせて、随の楊帝に送っ
    た。「日没する処の天子」とは、沈む夕陽を見ながら大陸に思
    いを馳せた太子の実感かもしれない。同時に、それは「天日を
    共にする両国」として、対等な親しみを込めた表現ともとれる。

     楊帝は中華思想を真っ向から否定する太子の国書を喜ばなかっ
    たが、妹子に答礼使までつけて帰した。隋は当時、朝鮮半島の
    高句麗と抗争中で、日本を敵に回すわけにいかなかったのだ。
    国際情勢を的確につかんだ太子の見事な外交だった。

     現在の日中外交でも、中国が要求する靖国参拝反対などの要
    求に唯々諾々と従っているだけでは、服属国として見下される
    だけだろう。真の友好関係の基礎として、まず対等な外交姿勢
    が必要なのだ。

    参考: 産経新聞H17.11.11「浪速の夕陽が生んだ外交」

    JOG(311)  聖徳太子の大戦略
     聖徳太子が隋の皇帝にあてた手紙から、子供たちは何感じ取っ
    たのか? 
 

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