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■■ Japan On the Globe(506)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 国柄探訪: 花のお江戸の繁盛しぐさ 江戸っ子たちは粋なしぐさで、思いやり に満ちた共同体を築いていた。 ■転送歓迎■ H19.07.22 ■ 33,922 Copies ■ 2,563,902 Views■ ■1.「ちょっとした思いやり」にあふれた江戸社会■ ある中学生がこんな作文を書いている。[1,p17] その日小雨の降る中、僕は父と一緒に狭い道を歩いてい た。すると向こうから来た人がすれ違う時、僕たちが通り やすいように傘を横に傾けてくれたのである。その人にお 礼を言った後、父は、江戸しぐさがまだ残っているんだね と嬉しそうにつぶやいた。僕はこの「江戸しぐさ」という ことばに興味を覚え、家に着くまでに父に教えて貰うこと にした。 傘を横に傾けて相手に雨の滴がかからないように気を配 る「傘かしげ」、狭い道ですれ違う時に右肩を引いてぶつ からないようにする「肩引き」など、「江戸しぐさ」には いろいろなことばがある。要するに、お互いが気持ちよく 過ごすためのちょっとした思いやりのある行動が江戸しぐ さと呼ばれるものだろう。 僕の住む町、墨田区にはまだその精神が生きている。例 えば、家の玄関先や通りを掃く時、両隣の分もきれいに掃 いたり、体の不自由な人がいれば荷物を家まで持っていっ てあげたりというように。ただ残念なことに、これらの行 動をとっているのはお年寄りの方だけになりつつあるとい う気がする---- こんな「ちょっとした思いやり」にあふれた社会なら、人々 はどんなに気持ちよく過ごせるだろう。花のお江戸はそういう 都会だった。 ■2.世界最大の都市■ 江戸は西南に鈴ヶ森、東北に飛鳥の森と、二大森林地帯に挟 まれ、運河や堀をめぐらした緑と水の美しい町であった。最盛 期には人口100万人に達し、60万人のロンドン、70万人 のパリを凌ぐ世界最大の都市であった。 100万人の内訳は武士と町人が半々だったが、武士は参勤 交代で入れ替わる。町人50万人が江戸の定住人口だった。そ の大部分は、小売商、食べ物屋、風呂屋、大工などの商売人だっ た。諸国から人が集まる大都市の中で、毎日、多くの見知らぬ 人々と行き交い、商売をする。そういう中で、いかに互いに気 持ちよく生きていくか、という智慧が発達した。 幕府には江戸町奉行はいるが、江戸の施政には直接手を下さ ず、江戸町人の総代表として3人の町年寄りが自治を行ってい た。町衆は町内の治安を守るために、自身番の制度を置き、防 犯や防火に努めていた。こうした自治と自由の精神が、江戸町 民の生き方を支えていた。 ■3.「束の間付き合い」と「世辞」■ 江戸では毎日、多くの見知らぬ人と行き交う。そこに「束の 間付き合い」というしぐさが発達した。たとえば船着き場で渡 し船を待っていたら、もう一人、客がやって来た。先客は和や かに軽く会釈をし、「こぶし腰浮かせ」と言って、こぶしをつ いて腰を浮かせて席をつめて、新来の客が座れるようにする。 現代では、電車の中で立っている人がいるのに、2人分くら いのスペースをとってゆったりと座っている人がいる。そんな 所に「すみません」と声をかけて座っても、無言のまま、席も 詰めない無神経な人が少なくない。そんな殺伐とした光景とは 大違いの和やかな付き合いが江戸にはあった。 会話が始まっても、差し障りのない天気の話題などを選んで、 職業や名前、年齢などを聞いたりしないのが決まりだった。 「束の間付き合い」を楽しみつつも、お互いのプライバシーを 尊重して、気持ちよく過ごそうという考えである。 江戸仕草の研究家・越川禮子氏は、こんな体験を紹介してい る。[1,p19] 小春日和のある日、JRのプラットホームに、つつまし い感じのお母さんと4歳くらいの男の子がいました。男の 子はヤクルトを飲んでいて、「おいちい、おいちい」と言っ ています。 その言い方が可愛らしかったので、私から「おいしい?」 と声をかけました。男の子は笑顔で頷きます。お母さんが 男の子に「こんにちは?」と促しました。すると男の子は 「こんにちは」と挨拶し、それから空をぐるりと見渡して いるのです。何をしているのかしら、と不思議に思ってい ると、空から私に目を転じてこう言いました。 「きょうは、いいおてんきですね」 驚きました。これは立派な江戸しぐさです。 「こんにちは」などの挨拶の後に、「今日はよいお天気ですね」 とか「寒くなってきましたね」などと「世辞」をいうのが、江 戸しぐさである。「世辞」とは今で言う「お世辞」ではなく、 人付き合いを円滑にする応対の言葉であった。 ■4.対等の付き合いが原則■ 「束の間付き合い」や初対面の人に対して、名前や職業、年齢 などを聞かないのを「三脱の教え」という。それは都会的に他 人と距離を置く、という意味ではない。 「人間はすべて仏の化身」と考え、身分や職業、年齢に関わら ず、互いに対等の付き合いをすることが原則だからだ。そうい う外的なものよりも、人間としての品格の方が江戸社会では大 切にされた。だから、自分が大店の旦那で、相手が小僧風情だ からといって、偉ぶって威張った口をきいたり、自分をひけら かすような自慢をするのは、下品なこととされた。小僧風情の 相手が「おはようございます」と挨拶すれば、旦那も「おはよ うございます」と対等に応えるのが、江戸しぐさだった。 相手の身分によって態度を変えるのは、はしたない振る舞い だった。初対面の時に対等な口をきいた後で相手が身分の高 い人だったと分かって「そんなに偉い人とは知らず、失礼しま した」などというのは、禁句である。それでは偉くない人には 失礼にしてもいいということになってしまう。 そして相手と会うのも、今生でこれっきりかもしれない、と いう「一期一会」の気持ちで、人と接する。相手との生涯に一 度の、しかも一瞬のつきあいを、いかに美しいものにするか、 そこから「束の間付き合い」というマナーが発達した。 ■5.往来しぐさ■ 花のお江戸は路上で行き交う人も多い。その往来を気持ちよ くするために、様々な江戸しぐさが生まれた。道路は「江戸城 に続く廊下」と考えられ、ゴミを捨てたり、唾を吐いたりする のは、とんでもない行為とされた。歩きながらタバコを吸うこ ともなかった。混んだ道を早く走ることは危険なので「韋駄天 しぐさ」と言って禁じられた。韋駄天とは、仏教での足の速い 守護神である。 横に並んで話しながら歩く「とうせんぼしぐさ」や、往来の 中で「仁王立ち」して、他人の邪魔をするのは御法度。「七三 の道」と言って、自分は道路の片側3分を歩く。こうすれば、 急ぎの人も、また怪我人を戸板に載せて運ぶ(今の救急車と同 じ)際も、追い抜いていける。 冒頭の作文で紹介されたように、狭い路地を歩いていて、向 こうから人が来た場合には、互いに体を斜めにしてすれ違う 「肩引き」をする。雨の日には「傘かしげ」で、しずくが相手 にかからないようにする。 こうしたすれ違いの際には、互いに目でちょっと挨拶し合う 「会釈のまなざし」で、心が和む。雑踏の中で人に足を踏まれ た場合、踏んだ方は当然謝るが、踏まれた方も「こちらこそ、 うっかりいたしまして」と「うかつあやまり」をする。 すれ違いの際にも、「袖擦り合うも他生の縁」という気持ち からの思いやりによって、心和む付き合いができるのである。 ■6.粋(いき)な江戸っ子■ 江戸っ子は「粋(いき)」の良さを尊んだ。船着き場で人が 来たら「こぶし腰浮かせ」で席を詰め、「お暑うございます」 などと世辞を言う。そんなしぐさがさりげなく出来るのが、粋 な江戸っ子である。 粋の反対が「野暮」だ。往来で他人の迷惑を考えずに「とう せんぼしぐさ」や「仁王立ち」するのは野暮な人間のすること である。 「粋(いき)」は「息」でもある。二人以上の間では「息が合 う」のが大切だ。狭い道では互いにすっと「肩引き」してすれ 違い、軽く「会釈のまなざし」をする。そんな息のあったすれ 違いは、なんとも粋である。 さらに「粋」は「生き」「活き」「意気」にも通ずる。「い きが良い」というのは、威勢のよい江戸っ子への賛辞だが、不 機嫌や体調不良などを表に見せて他人を不愉快にするのは「野 暮」の骨頂。年をとっても「耳順(60代)のしぐさ」と言っ て「己は気息奄々(きそくえんえん)、息絶え絶えのありさま でも他人を勇気づけよ」「若衆(若者)を笑わせるよう心掛け よ」と、やせ我慢でも元気はつらつ、かつユーモアを忘れずに 生き生きと振る舞うのが、意気のいい江戸っ子ぶりであった。 こうして日常生活のマナーが、美的な感性にまで高められた のが「粋な」江戸しぐさであった。 ■7.自治と自由の場■ 自治都市として、町民たちが寄り合い、何が問題か、どうす れば良いかを議論する場が「講」であった。今で言う町内会の ようなものだろう。また、この場で、手とり、足取り、口移し で江戸しぐさを教えた。「講」は江戸を支える話し合いの場で あり、教育の場であった。 講ではメンバーが円をなして座る。これが「講座」である。 その際に尻に敷くのが「座布団」。そこで「講師」が「講義」 をする。そのための建物が「講堂」であった。 講は原則として、月に2回開かれた。その日は商売はお休み である。準備は明け六つ(午前6時)から、茶碗を熱湯で四半 刻(約30分)ほど、煮沸消毒する事から始まる。風邪などが 流行らないようにするための用心である。子ども達は、そこで 茶碗の洗い方、畳の掃き方、廊下の雑巾がけなどを、見よう見 まねで習い覚える。 講では、武士の悪口であろうと、役人の批判であろうと、何 でも自由に言えた。それが江戸っ子の批判精神を育てた。 また、男は先に着いても、玄関で履き物を脱ぐときに、1、 2列分開けた。後からくる女性のためである。男は足を広げて 跨げるが、女性はそれができないからだ。江戸時代の初期は男 の出稼ぎが多く、女性が少なかったので、大切にされた。 ■8.「世辞が言えたら一人前」■ 子どもたちの教育は主として寺子屋で行われた。親は商売人 のため、子供を教える時間がない。そこでお金を出し合って、 寺子屋の師匠に子供たちを預けた。お金の不自由な家の子は、 師匠が面倒を見た。子供のない人も、子供が立派に育つことは 江戸のためになることと、いくばくかのお金を出したという。 必要最低限の読み、書き、算盤をマスターした後、子供たち は、9歳までには「さようでございます」「お暑うございます」 などの大人言葉を学ぶのが必須だった。「世辞が言えたら一人 前」とされた。 入門してきた子供たちに、師匠はこんなふうに語ったという。 私たちが生まれ、育ち、住まわせて貰っているこの大江 戸は、日本一、世界一の町です。何が一番かというと、しっ かりした「講」があるということです。 講は、人と人とが手を取り合って、住み良い暮らしを考 えるおおもとです。講がしっかりしていれば、人間は安心 して住むことができます。 また、講はおつき合いの場です。人間がおつき合いして いる世の中を「世間」といいます。だから、講は世間とい うことができるでしょう。 皆さんもこの寺子屋で、人と人とがしっかりと手を取り 合ったおつき合いができる人間となるよう勉強してくださ い。そして、日本一のお江戸で、人の心がわかる商人を目 指してください。 講や寺子屋、広くは江戸全体で目指していたのは、金儲けや 立身出世ではなく、「人の心がわかる」人間であり、そのよう な人々が「しっかりと手を取り合ったおつき合い」をしている 「世間」だった。そうした社会なればこそ、「花のお江戸」と いうほどに経済も繁盛したのだろう。江戸しぐさは、繁盛しぐ さとして、全国の商人に広がっていった。 ■9.「なぜ僕らにこの美しいしぐさを教えなかったのですか」■ 埼玉県の教育委員会で江戸しぐさのビデオを作成したことが あった。それを観た中学2年生の男子生徒が感想文に「なぜ大 人たちは僕らにこの美しいしぐさを教えなかったのですか」と 書いた、という。 東京都台東区の忍岡中学校では、平成16年から道徳の時間 に「傘かしげ」や「肩引き」を取り入れた寸劇を先生たちが披 露するなど、江戸しぐさを教えてきた。その劇は生徒たちの喝 采を浴びているそうだ。 同校では「あいさつ運動」も実施している。上級生から下級 生に「おはよう」と積極的に声をかけると、下級生も真似して 挨拶するようになる。「挨拶するとやっぱ気持ちがいい!」 地域の住民からも「道を広がって歩く子が減った」「挨拶する 子が増えた」という声が聞こえるようになった。 江戸しぐさは企業の社員研修でも取り入れられている。ディ ズニーランドでは、社内に「江戸しぐさ研究会」を設置して、 数百人がセミナーを受講した。「こんなすばらしいものが日本 にあったなんて知らなかった」「これさえきちんと身につけて いれば、自分に自信がもてる」「ここに来られたお客様に、私 たちのしていることをお持ち帰りいただければ最高」などとい う感想が寄せられている。 美しい国への道は、ご先祖様がすでに示されているのである。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(030) 江戸日本はボランティア教育大国 ボランティアのお師匠さんたちの貢献で、世界でも群を抜く 教育水準を実現した。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 越川禮子、林田明大『「江戸しぐさ」完全理解 ―「思いやり」に、こんにちは』★★★、三五館、H18 2. 越川禮子『江戸の繁盛しぐさ』★★★、日本経済新聞社、H18© 平成19年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.