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                天草の復興に努めた鈴木正三・一族

                                                   伊勢雅臣
■転送歓迎■ No.1283 ■ H19.05.07 ■ 8,916 部 ■■■■■■■


      今週号のJOGで、鈴木正三[a]を取り上げたが、その補足
     として言及しておきたいことがある。それは正三が寛永19
     (1642)年から足かけ2年間、64歳の高齢をおして、島原の
     乱[b]後の荒廃した天草に赴いて、復興の手助けをしたという
     事である。

      島原の乱に際して、正三の弟・重成は鉄砲奉行として乱の
     平定に加わった。乱の後、天草は幕府直轄地となり、重成が
     初代代官として、現地の復興を進めた。正三は弟・重成の助
     言者として、現地に赴き、補佐に努めた。

      激戦の続いた天草は、住む人も少なく荒廃の極みにあった。
     そこで正三と重成は、農村組織を再興し、他地域からの移民
     を受け入れ、またキリシタンによって破壊された寺社の復興
     に努めた。正三の属する曹洞宗の寺院だけで32寺が建立さ
     れた。またそれ以外の宗派にも「布教勝手たるべし」と、伝
     教の自由を保障したので、広く仏教が行き渡ることとなった。

      いかにも正三らしいのは、キリスト教の教義を批判した
     「破吉利支丹(は・キリシタン)」を著し、自ら筆写して各
     寺院に納めた事である。

      その中には、こんな一節もある。

         破して言う、デウス、天地の主にして、国土、万物を作
        り出したまうならば、何としてそのデウス、今まで無量の
        国々を捨ておいて、出世したまわざるや。

     本当に全知全能というなら、なぜ今頃、のこのこと日本に現
    れて来たのか。キリストの教えに帰依せずに死んだ人は地獄に
    堕ちると言うが、キリシタンが日本に伝わる前に亡くなった日
    本人はどんな善人でも地獄に堕ちるというのも、全能の神らし
    からぬ手落ちではないか。

     日本の神仏の教えのように、生きとし行けるものは、すべて
    「神の分け命」であるとか、仏様から億分の一の「仏性」を与
    えられている、という方が、現代の遺伝子理論にも親近性があ
    り、よほど合理的だろう。

     また正三は、キリシタンは奇特(奇跡)を尊び、これで民衆
    をたぶらかすとして、

         破して言う、奇特なること尊きならば、魔王を尊敬すべ
        し。この国の狐狸も奇特をなす。・・・経にいわく。三世
        の諸仏を供養せんより、一箇無心の道人を供養せんにはし
        かじと説きたまえり。仏道修行の人は、この道を学ぶなり。
        さらに奇特を用うることなし。

     奇跡を尊ぶというなら、魔王や狐狸も奇跡を行う。仏道修行
    は、一心に道を求める人を供養する道を学ぶ。万人が自らの職
    業に打ち込むことで、自身に内在する仏性を開発するのが、仏
    行である。別に奇跡など持ち出す必要もない。中世的なキリス
    ト教信仰に対する正三の近代的合理性に基づく批判である。

     正三が天草を去った後、法兄として尊敬していた名僧・中華
    珪法が後を継いで、17年も仏法復興の仕事を続けた。その赴
    任の直後、代官重成の配慮によって反乱者を含む犠牲者の供養
    碑が建てられることになり、その碑文を中華珪法が撰んだ。そ
    の碑文の最後には、次のような一節がある。

         仏様の前では、敵だ味方だ、賊軍だ官軍だなどと、そう
        いったものはいっさいない。死んでから先まで何の罪があ
        るか。そんなものは何もない。[1,p213]

     異教徒を殺害し、その寺社や墓を破壊することが神に奉仕す
    る道であるとしたキリシタンの教えよりもはるかに近代的な考
    え方である。(もっとも、現代でも、靖国神社に「A級戦犯」
    を祀ることを怒る前近代的感情を持つ近隣諸国もあるようだが。)

     重成はさらに天草の石高4万2千石を半減して、住人への税
    を軽減しようと、幕府に上申を繰り返したが、聞き入れられず、
    ついに承応2(1653)年、自邸にて切腹自害した。

     重成の思いに心動かされた幕閣の重臣がいたのであろう。本
    来ならば、お上の意向に逆らったものとして、お家断絶にされ
    ても仕方がない所であるが、重成の死は病死として扱われ、そ
    の子の重祐(しげすけ)が家督を相続することを許された。

     しかし、重祐はまだ23歳で、問題の多い天草の代官を継ぐ
    のは荷が重すぎるので、無難な大和の代官に任ぜられた。かわ
    りに選ばれたのが、正三の実子ながら、その出家の後、重成の
    養子となっていた47歳の重辰である。

     ところが重辰は2百石の家禄で天草の代官にするには格が低
    すぎる。そこで重辰はしばらく京都の御所造営などを任され、
    5百石に加増された上で、天草の第2代代官に任ぜられた。こ
    の間、2年間、天草の代官は空席とされていたという。なんと
    も周到かつ温情あふれる措置ではないか。

     重辰は養父・重成の悲願を受け継いで、幕府に年貢半減の上
    申を繰り返し、ついに万治2(1659)年にその許可を得た。養父
    ・重成と実父・正三が天草に赴いた年から数えて、実に17年
    後である。

     天草の人々は、「自分たちの暮らしがあるのは、鈴木様のお
    陰」として、島内の各地に鈴木大明神とか、鈴木塚を設けて祀っ
    た。さらに正三・重成・重辰を祭神として、天草地方最大の境
    域を持つ鈴木神社を造営したのである。

■リンク■
a. JOG(495) 禅僧・鈴木正三 〜 近代資本主義の源泉
   士農工商、いずれの事業も仏行なり
b. JOG(435) 島原の乱 〜 持ち込まれた宗教戦争の種子
    欧州から持ち込まれた宗教戦争の種子が突然、日本の地で芽
   を出した。

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