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■■ Japan On the Globe(546)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■ 国柄探訪:『論語』が深めた日本の国柄 〜 岩越豊雄著『子供と声を出して読みたい「論語」百章』 『論語』の説く「まごころからの思いやり」は、 我が国の国柄を深めてきた。 ■転送歓迎■ H20.05.04 ■ 37,853 Copies ■ 2,835,527 Views■ ■1.孔子の喜びに弾んだ肉声■ 「孔子は、その思想が当時の為政者に入れられず、不遇の人生 を歩んだ人だ」と思っていたのだが、実は「その内面では学ぶ ことの喜びに充ち満ちた幸福な人生を送った人ではなかったか」 と『子供と声を出して読みたい「論語」百章』[1]を読みつつ 今更ながらに気がついた。 著者の岩越豊雄さんはこう語っている。 私は小学校の校長を退職した後、子供を対象に、江戸時 代の「寺子屋」をモデルに、素読と習字を組み合わせた塾 を始めました。対象は小学生たちですが、喜んで『論語』 を素読しています。リズムの美しい簡潔な文で、読んで心 地よい名文だからだと思います。[1,p31] この本は、岩越さんが子供たちに『論語』の一章ずつを読み 聞かせた内容をまとめたものだが、その文章を通じて、孔子の 喜びに弾んだ肉声が聞こえてくるような気がした。『論語』の 解説書は何冊か読んだことがあるが、こういう経験は初めてで ある。 こういう本を通じて、子供の時から学問の喜びを感じる事が できれば、それはこれからの長い一生を支える「学ぶ力」「生 きる力」となるだろう。 ■2.「学びの喜び」■ 孔子の喜びは『論語』冒頭の第一章から弾んでいる。 [1,p37] 子(し)曰(いわ)く、学びて時にこれを習う。また説 (よろこ)ばしからずや。朋(とも)あり、遠方より来た る。また楽しからずや。人知らずして慍(いか)らず、ま た君子ならずや。 先生がおっしゃった。学んだ時に、よくおさらいをする。 それが自分の身についたものになってくる。なんと喜ばし いことではないか。心知る友が遠くから訪ねてきてくれる。 なんと楽しいことではないか。人が認めてくれなくとも怒 らない。なんと志の高い優れた人ではなかろうか。 この一章を、岩越さんは、子供たちにこう解説する。 「学ぶ」は「まねをする」に由来するといいます。「習」 は雛鳥(ひな)が巣の上で親鳥の羽ばたきをまねて、飛び 立つための練習をしている字形だといいます。 どのようなことでも、練習して初めてできるようになっ た時の喜びは誰でもよく覚えています。例えば自転車に乗 れるようになった時とか、体が水に浮いて泳げるようになっ た時の喜びなどは、生涯忘れられない思い出です。学んだ 時にはそれを何度も繰り返し、練習してできるようになる。 それが「学びの喜び」です。小さな事でも、「わかった」、 「できた」、「やり遂げた」という喜びを体験し、積み重 ねると、自信にもなり、物事に意欲的に取り組めるように もなるのです。 自転車や水泳を例に「学びの喜び」を説くあたりが、いかに も小学生にふさわしい。 ■3.「学び」と「友」と「不足を思わない」■ その後に続く「朋(とも)あり、遠方より来たる」と「人知 らずして慍(いか)らず」については: 学んだことが身につき、自信がつけば自然と互いに心が 通じる友ができ、楽しく語り合うこともできます。そうし た友が、思いがけなく訪ねてくれた時は、本当に嬉しいも のです。 水泳の例で言えば、一緒に水泳を習う友達どうしが、自分は 背泳もできるようになったよ、などと語り合う喜びだろう。 しかし、たとえ自分が学び、力をつけても、他の人がわ かってくれない、認めてくれない時もあります。それでも 怒ったり、不足を言ったりしない。そうできる人は、ほん とうに志の高い優(すぐ)れた人です。 へたくそな泳ぎで、級友も先生もなかなか褒めてくれないが、 別に不満を言ったりしない。自分自身の上達そのものが喜びだ からだ。 「学び」と「友」と「不足を思わない」、この3つの事柄 は、学問の喜びということで一貫しているのです。 岩越さんのこの指摘から、私は初めて、孔子の抱いていた 「学問の喜び」に触れえたような気がした。 ■4.「あれが目の不自由な楽師を助ける作法なのだ」■ さて孔子の志した学問とは、どのようなものだったのか。そ れを孔子の行動を通じて説いた小学生にも分かりやすい一章が ある。[1,p204] 師冕(しべん)見(まみ)ゆ。階(かい)に及ぶ。子 (し)曰(いわ)く、階なりと。席に及ぶ。子曰く、席な りと。みな坐す。子之(こ)れに告げて曰く、某(それが し)はそこにあり、某(それがし)はそこにありと。師冕 出(い)ず。子張(しちょう)問いて曰く、師と言うの道 かと。子曰く、然(しか)り。固(もと)より師を相(た す)くるの道なりと。 目の不自由な楽師冕(べん)が訪ねてきた。先生は自ら 出迎えて案内し、階段に来ると「階段ですよ」と言われ、 席に来ると「席ですよ」と言われた。一同が座ると、「誰 それはそこに。誰それはここに」と一人ひとり丁寧に教え られた。師冕が帰った後で子張が「あれが楽師に対する作 法ですか」と訪ねた。先生が答えられた。「そうだ。あれ が目の不自由な楽師を助ける作法なのだ」 ○ 目の不自由な者の身になって、きめ細かに対応する孔子 の温かな配慮が伝わってきます。相手の身になって行動す る、まさに仁者の在り方を具体的に学べる章です。 子張が質問したのは、一盲目の楽師に対して、孔子の取っ た対応があまりにも丁寧で、礼に過ぎるのではと思ったか らです。「然(しか)り。固(もと)より師を相(たす) くるの道なりと」ときっぱりと答える孔子の言葉に、まご ころからの思いやり、「忠恕」を「一以て之を貫いた」孔 子の確信ある生き方を髣髴(ほうふつ)とさせます。 目の不自由な人を導いてあげることは小学生でもできること である。そういう誰にでもできる「まごころからの思いやり」 が、孔子の学問の核心であった。 ■5.「人を尊び、まごころから思いやる」■ 「忠恕」を「一以て之を貫いた」とは、次の一章に出てくる言 葉である。 子曰く、参(しん)や、吾(わ)が道、一(いつ)以 (もっ)てこれを貫(つらぬ)く。曾子曰く、唯(い)と。 子出(い)ず。門人、問うて曰く、なんの謂(い)いぞや。 曾子曰く、夫子(ふうし)の道は忠恕(ちゅうじょ)のみ。 先生が曾子に呼びかけておっしゃった。「参(曾子)よ、 私の生き方は一つのもので貫かれているのだが」と。曾子 はただ「はい」と答えた。先生は部屋を出て行かれた。門 人たちが「何を言いたかったのですか」と尋ねた。曾子が 言った。「先生が貫かれている生き方は、人を尊ぶまごこ ろからの思いやり、それに尽きる」と。 ○ 「忠恕」の字の作りは、「中と心」と「如と心」です。 「中心」とはまごころのこと、「如心」とは、自分の心の 如く人の心をおしはかるという意味です。つまり「人を尊 び、まごころから思いやる」ことです。『論語』でしばし ば触れられる「仁」にも通じます。それは孔子の一貫した 生き方でした。 ちなみに「仁」については、こう解説されている。 「仁」とは「人」と「二」を組み合わせた漢字です。つま り、人と人との人間関係における倫理・道徳の基本である、 「まごころから人を思いやる」ことです。[1,p40] 孔子の学問は、誰でもが持つ「まごころ」「おもいやり」を いかに引き出し、発展させるか、という所にあった。 ■6.「素直な社員は良く伸び、仕事もできる」■ 「まごころ」と「おもいやり」を伸ばすために、孔子は次のよ うに若者に教え諭している。 子(し)曰(いわ)く、弟子(ていし)、入りては則 (すなわ)ち孝、出でては則ち悌(てい)、謹みて信あり、 汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行いて余力有らば、 則ち以(も)って文(ぶん)を学ばん。 先生がおっしゃった。若者よ、家では、親孝行、外では 目上の人に素直に従う。何事にも度を過ごさないように控 えめにし、約束を守る。多くの人を好きになり、善き人に ついて学ぶ。そうした上で、まだゆとりがあるなら、本を 読んで学んでいけばいい。 ○ 「親に孝行することや、人に素直であること」と「勉強す ること」と、どっちが大切かと問えば、今は親も子も大抵 は「勉強すること」と答えます。でも、孔子は逆だと言っ ています。 一流大学を優秀な成績で卒業しながら、違法な株取引で逮捕 されたり、エセ宗教にひっかかって人を殺めたりする人間は、 勉強ばかりしていて、「まごころ」や「おもいやり」を磨かな かった人間失格者であろう。 本当に優秀な人は大抵、素直です。経営の神様といわれ た松下幸之助も「素直な社員は良く伸び、仕事もできる」 と言っています。[1,p46] 親孝行、素直さ、謙虚さ、謹み、信頼、こうした人格的基礎 を土壌として、その上に知識や技術が花開くのである。 ■7.『論語』が深めた我が国の国柄■ 『論語』は16百年ほど前に、海外から我が国にもたらされた 最初の書物であった。そしてその「忠恕」や「仁」を核とする 思想は、民を「大御宝(おおみたから)」と呼び、すべての生 きとし生けるものが「一つ屋根の下の大家族」のように仲良く 暮らしていくことを理想とした我が国の国柄[b]には、まこと に相性の良いものであった。 そして我が先人たちは『論語』に学びつつ、我が国の国柄を 深めていった。岩越さんは、その歴史を簡潔に振り返っている。 聖徳太子は、『論語』の「和」を深めて、「十七条憲法」の 第一条に「和を以て貴しと為す」と説いた。鎌倉時代の「曹洞 宗」の開祖・道元禅師は、世を治めるのは『論語』がよいと推 奨していたという。 江戸時代には『論語』研究が盛んになり、中江藤樹[c]、山 鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠などが独自の思想を発展させた。 こうした学問の系譜から、吉田松陰、西郷隆盛など幕末の志士 が生まれ、明治維新への道を開いていく。 ■8.「素読」の合理性■ こうした歴史を俯瞰した上で、岩越さんは語る。 偉人や学者だけではありません。江戸時代は一般の武士 も庶民も『論語』を学びました。各藩の藩校はもちろん、 庶民の子弟の教育が行われた寺子屋では、『論語』等の素 読が行われていました。 「素読」とは、文章を意味はさておき、声を立てて暗唱で きるまで、繰り返し読むことです。「読書百遍、意自ずか ら通ず」という言葉があります。声を出して何度も読んで いくうちに、自然にその意味が表れてくる、分かってくる、 そうした読み方を言います。[1,p28] 「意味もわからない文章を丸暗記させるなど、なんと封建的な」 と考える人も多いだろう。それに対して、岩越さんは小林秀雄 の次の言葉を引用する。 (素読を)暗記強制教育だったと、簡単に考えるのは、悪 い合理主義ですね。『論語』を簡単に暗記していまう。暗 記するだけで意味がわからなければ、無意味なことだと言 うが、それでは『論語』の意味とは何でしょう。それは人 により年齢により、さまざまな意味にとれるものでしょう。 一生かかったってわからない意味さえ含んでいるかも知れ ない。それなら意味を考えることは、実に曖昧な教育だと わかるでしょう。丸暗記させる教育だけが、はっきりとし た教育です。[1,p30] ■9.『論語』の言葉を胸に、人生を歩んでいく■ 「朋(とも)あり、遠方より来たる。また楽しからずや」とい うような言葉も、少年時代、壮年時代、そして熟年時代と、人 生経験を積むにしたがって、自ずからその味わいも深まってい くだろう。素読とは、そのような言葉の種を幼児期から心に埋 め込んであげることである。 小学生にたわいのない英会話を教えるよりは、はるかに高級 な人間教育ではないか。そこから、しっかりとした精神的バッ クボーンを持った日本人が育っていくだろう。 すでに大人になってしまった人でも、『論語』の中の心に響 く一節を暗記して、それを時々反芻しながら、自らの人生を歩 んでいく、という生き方も良いのではないか。 ちなみに天皇陛下は「忠恕」という言葉がお好きだそうだ。 ひたすらに国民の安寧を祈られる陛下ならではの言葉である。 『論語』の言葉を胸に抱いて人生を歩んでいくのが、我が先人 たちの生き方であった。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(488) 中国の覚醒(下) 〜 日本で再発見した中国の理想 中国で根絶やしにされた孔子の理想は、日本で花開いていた。 b. JOG(074) 「おおみたから」と「一つ屋根」 神話にこめられた建国の理想を読む。 c. JOG(324) 中江藤樹 〜 まごころを磨く学問 馬方や漁師を相手に人の生き方を説く中江の学問が、ひたひ たと琵琶湖沿岸から広がっていった。 ■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け) →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。 1. 岩越豊雄『子供と声を出して読みたい「論語」百章―人の品格 を磨くために』★★★、致知出版社、H19 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「『論語』が深めた日本の国柄」に寄せられたおたより ヤマトさんより 深い深い思想・宗教を生んだ国とそれが実行される国は決し て同一ではない。 むしろ反対ではないかと思えてきます。人権という言い方に 替えてみれば、人権がないがしろにされている所ほどその反動 で深い思想と高尚な宗教が出現してくる。儒教の国・中国では 伊勢様の指摘のような惨状ですし、キリスト教の出現地域では 何千年も殺し合いを続けています。仏教の出現したインドでは 人権という言い方では最低のカースト制度がそれこそ何千年も 根をはったままです。 学問的体系が完成されていることは重要な事ですが、より重 要なことはそれが実行される社会を目指して実行してきた歴史 があるかではないでしょうか。 薫風さんより 古いものは何でもよくないと、決めつけた教育界における一 つの風潮が、若人を傷つけたきらいがあると思います。そして、 今日私たちの世代(60歳代)が感じることは、若い世代との コミュニケーション・ギャップというものです。 次の世代の教育においても、別居している年寄りが、違和感 を感じても、そのことをしっかりと話し、伝えることができな い、時間的なゆとりもない状況だと思います。 素読や読経などは、祖父母が教えられることだと思いますね。 それは良いことだと思うのです。そうしたことは周囲の大人が やって見せてこそ、教育できることだからです。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 学問も教育も、千の理論より一つの実行ということでしょう。© 平成20年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.