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■■ Japan On the Globe(593)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

         国柄探訪: 神宮の気迫、東宮の気概(上)
                                   〜 学習院大学野球部の死闘
               その戦いぶりは、奇跡の高度成長を実現した当時
              の日本人の気迫を象徴している。
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■1.「東洋の奇跡」の幕開けの年■

     昭和33(1958)年、戦後最大の国民的ヒーロー・長嶋茂雄が
    プロ野球にデビューし、皇太子のご成婚が発表されて、ミッチ
    ーブームが起こった。東京タワーもこの年に完成。国民に明る
    い未来を予感させる出来事が続いた年だった。

     その予感通り、それからわずか10年後の昭和43(1968)年、
    我が国はGNPにおいてアメリカに次ぐ世界第二の経済大国と
    なった。戦争直後、一面の焼け野原となった日本が、ここまで
    に発展した事は、「東洋の奇跡」と世界中の人々を驚かせた。 
    昭和33年こそは、その奇跡の幕開けとも言うべき年だった。

     この昭和33年に、もう一つの奇跡が神宮球場で起こった。
    東都大学野球春のリーグ戦で最下位だった学習院大学が、秋の
    リーグ戦で最初の優勝を飾ったのである。それも最終戦で、中
    央、日大と並び、三つどもえの優勝決定シリーズを2回繰り返
    しても勝負がつかず、3回目でようやく優勝を決めるという、
    まさに死闘の末の奇跡だった。

     そして、この間、当時皇太子であられた今上陛下は母校・学
    習院を応援しつつ、御自らは正田美智子様を、民間からの初の
    皇太子妃として迎えようと、必死の努力を続けてられていた。
    再三再四、辞退する正田家と美智子様を、皇太子はついに説得
    されたのである。

     学習院野球部員と皇太子殿下の奮闘は、まさに「東洋の奇跡」
    を実現した当時の日本国民の気迫・気概を象徴している。

■2.「野球部員である前にまず学習院の学生であれ」■

     大学野球と言えば、早稲田、慶応などの東京六大学野球連盟
    が有名だが、実力的には21大学が4部に別れて戦う東都大学
    野球連盟がナンバーワンと言われている。全日本大学選手権の
    57大会中、22回優勝という戦績を見ても分かる。

     学習院が東都で一部入りを果たしたのは、昭和27(1952)年
    のことだった。春期リーグ戦で2部優勝を遂げた学習院は、1
    部最下位の國學院大學との入れ替え戦に臨み、第1戦は一年生
    の草刈廣(ひろし)の快投で、8対1の快勝。第2戦は4年生
    の先発エース永田からリリーフ草刈へとつなぎ、これまた7対
    2の勝利をあげ、悲願の一部入りを果たした。

     1部リーグの日大、中央、専修などの強豪校は、卒業後プロ
    野球に進む有望選手がごろごろしているが、学習院では甲子園
    経験者すらいない。野球部の合宿所も、雨天練習場もない。神
    宮球場での試合となれば、他校の選手たちは専用バスで乗りつ
    けるのに、学習院の選手たちは授業が終わってから、重い荷物
    を抱えて、現地集合した。

    「野球部員である前にまず学習院の学生であれ」という方針の
    もと、学生の本分である勉学には特に力を入れていた。言わば、
    最も大学野球らしい戦いぶりをしていたのである。

■3.草刈と殿下■
    
     1部入りの立役者、草刈が野球を覚えたのは、学習院中等科
    の時だった。草刈は皇太子と同学年であり、学友の一人に選ば
    れていた。ヴァイニング夫人が皇太子の英語の家庭教師をする
    際に、草刈も一緒に教わったのである。皇太子と草刈は「草刈」
    「殿下」と呼び合う親友となった。

     その草刈を野球に導いたのは、皇太子の侍従・戸田康英だっ
    た。戸田は東京帝大で野球部に属していた。そして皇太子や草
    刈にキャッチボールの手ほどきをしたのである。

     その後、皇太子はテニスを熱心に練習するようになったが、
    草刈は野球に非凡な才能を見せるようになった。快速球を投げ
    たり、大きなカーブも使えるようになった。

     高等科に進んだ草刈は野球部に入り、試合に出るようになっ
    た。皇太子は馬術部に入り、2年生からは主将となった。そし
    て草刈が投げる試合に、皇太子も応援団の中に入って「フレー、
    フレー」と応援をした。当時の『野球少年』という雑誌に、こ
    んなレポートが掲載されている。

         ゲームは熱戦をくりかえしながら進んでいきました。と
        ころが皇太子さまは、相手チームがエラーしたときなどは、
        応援団がさわいでも、ご自分はいっしょに手をたたいたり
        などはなさらないということに気がつきました。

         熱狂すると、敵がエラーでもすれば、ついさわぎたくな
        るものですが、相手にとってみれば気持ちのよいものでは
        ありませんし、スポーツマン・シップからはずれているよ
        うに思います。

         そんな応援をなさらない皇太子さまは、やっぱり日本の
        少年たちの代表だと思いました。[1,p107]

     草刈は学習院大学に進むと、当然の如く野球部に入った。そ
    の活躍で、学習院は昭和27年の春期リーグ戦で2部優勝を遂
    げ、國學院大學との入れ替え戦にも勝って、1部入りを果たし
    た。この試合にも、皇太子は応援に駆けつけている。

     草刈は東都1部リーグの4年間で、23勝34敗という戦績
    を残している。強豪校のプロ入りを目指す強打者たちに対して、
    ピンチに陥るたびに「この一球は自分だけのものではない。学
    習院全体の思いが籠もっている」と自分自身に言い聞かせた。
    この気迫が、エース草刈を支えたのである。

■4.やってきた新監督■

     草刈が卒業した最初のシーズン、昭和31年に、入れ替わる
    ように新監督として登場したのが、島津雅男、42歳だった。
    「甲子園で活躍し、早稲田の名選手として鳴らしたすごい人ら
    しい」という前評判が立っていた。

     島津は早稲田実業のエース兼4番打者として甲子園で名を挙
    げ、早大に進んでからは、早慶戦などでも活躍した。社会人野
    球に入ってからは、プロ・アマ戦で巨人軍の伝説の名投手・沢
    村栄治と何度も対決している。

     しかし、やってきた新監督は、そんな前評判とはあまりにも
    違っていた。にこにこしながら、「さあ、頑張っていきましょ
    う」と言葉も丁寧で、黙々と選手相手にノックバットを振るっ
    た。黙々と、かつ果てしなく続く絶妙のノックに、選手たちは、
    いつの間にか腕を上げていった。

     しかし、この静かな新監督は、ある覚悟を胸に秘めていたの
    である。
    
■5.226事件の朝■

     昭和10(1935)年、島津は招集を受け、半年の教育訓練を受
    けた後、東部第17部隊輜重(しちょう)兵団の第2中隊に入
    営した。輜重兵団は、武器弾薬、食料などを第一線に輸送する
    役割を持っている。

     この第2中隊を実質上、取り仕切っていた中隊長代理の青島
    健吉中尉は陸軍士官学校出の英才だった。昭和11年2月26
    日、すなわち226事件の朝、青島中尉も決起に参加するはず
    だったが、一瞬早く当局に察知され、自宅を取り囲まれた。青
    島中尉は「ことここまで」と割腹し、喉を突いた。

     島津は、陸軍病院に運び込まれた青島中尉の病室を警護する
    よう命ぜられた。病室の前に立った島津に、青島中尉の喉から
    息が漏れるヒューヒューという音が聞こえてきた。島津は耳を
    覆いたい思いで、「中尉殿(の命)は長くない」と考えていた。

     中尉の命が絶えたのは、それから半日してからだった。決起
    に参加した部隊にたまたま所属していた島津の従兄弟は、満洲
    の最前線に送られ、一年も経たないうちに戦死している。青島
    中尉が決起していていたら、自分たちも同じ運命だったろう、
    と島津たちは語り合った。

■6.「自分はこれまでになんのために生かされてきたのか」■

     その後、島津は6年間も中国戦線に従事した。自動車隊を率
    いて、上海から南京、そして武漢へと転戦した。

     6年間で5人の連隊長に仕え、温厚で几帳面な性格と、まじ
    めな仕事ぶりが気に入られて、なかなか除隊を許されなかった。
    輜重部隊は敵と交戦することは少なかったが、敵の待ち伏せ攻
    撃や奇襲攻撃を受けることも多く、同僚の中で戦死者も少なく
    なかった。

     ようやく昭和18年に日本に帰れたが、6年もの軍務経験が
    あったために、なかなか再応召にならなかった。先に招集解除
    された同僚達は、そのほとんどが再召集されて、南方や沖縄な
    どで戦死していた。

     しかし、国内にいても東京大空襲に会い、家を焼き払われた
    が、これもなんとか生き延びることができた。

     学習院大学野球部の監督となった島津は、時々、半生を振り
    返って、自分はこれまでになんのために生かされてきたのか、
    考えることがあった。多くの先輩、学友、戦友らが戦死していっ
    た中で、九死に一生を得て生きながらえた自分。何かをしなけ
    れば、死んでいった人たちに申し訳ない。石にかじりついても
    優勝する、-島津はそんな覚悟を胸に秘めていた。
    
■7.新しいエース根立光夫■

     だが、強豪校のひしめく1部リーグで、しかもエース草刈が
    抜けた学習院は苦戦を続けた。島津が監督に就任した最初の昭
    和31年春季リーグ戦では最下位。秋季リーグ戦では、ようや
    く4位に浮上した。翌年の春季リーグ戦は、6勝6敗と勝率5
    割で、Aクラス入りを果たした。

     学習院は島津監督の狙い通り「1点を凌ぎきる」チームに成
    長しつつあった。もっとも大きかったのは新しいエース根立
    (ねだち)光夫の成長だった。6勝はすべて根立があげたもの
    である。

     根立は高校時代に野球を始めた。当初は一塁手だったが、学
    習院に入ってから、180センチを超える長身を買われて、ピッ
    チャーへの転向を命ぜられた。

     そのハンディを跳ね返すべく、根立は練習に打ち込んだ。夏
    休みで無人となったグランドで黙々と走り込み、バックネット
    のコンクリート部分にチョークでストライク・ゾーンを描き、
    ボールを一球一球投げ込んでいった。

     そんな根立に島津監督は、意外な指導を行った。「根立君、
    ボールを生かすためには、より遅いボールをうまく使うことが
    大事だよ」。その指導に従って、根立は長身にまかせて速いボ
    ールを投げようとするのではなく、遅いボールを有効に使って
    バッターを打ち取る投球術を身につけていった。
    
■8.2部転落の危機■

     しかし、その根立を不運が襲った。Aクラス入りのご褒美と
    して、その夏、北海道遠征が組まれた。旭川から釧路に向かう
    夜行列車は満員で、根立はデッキで新聞紙を敷いて横になった。
    そして連日の疲れで朝方まで眠り込んでしまった。

     北海道遠征から東京に帰った根立は、胸から背中にかけて呼
    吸が出来ないほどの痛みに襲われた。夏とはいえ、北海道の夜
    の冷え込みに、肋間神経痛にかかってしまったのである。

     一球投げるたびに、「ビリッ」と音がするような痛みが走っ
    た。しかし、身体の不調を訴えるような弱音を吐くことは、根
    立の頭の中にはなかった。

     秋のリーグ戦は、根立はなじみの医者に試合前に麻酔を打っ
    てもらいながら、投げ続けた。9試合に登板して、なんとか3
    勝をあげた。春の6勝に比べれば半分に過ぎないが、学習院は
    なんとか4位で面目を保った。

     しかし、翌昭和33年春季のリーグ戦では、根立は一勝もあ
    げられず、3勝9敗の最下位となってしまった。3勝は次のエ
    ースとして育ちつつあった井元(いのもと)俊秀があげたもの
    だった。

     学習院は2部優勝の芝浦工大との入れ替え戦に臨んだ。これ
    に負ければ、草刈の活躍でようやく這い上がった1部から、6
    年で転落してしまうことになる。

■9.「2部に落としてたまるか」■

     第1戦、学習院は井元を先発に立てて、2対0とリードした
    が、7回、疲れの見えた井元が打ち込まれて逆転負けを喫した。

     いよいよ後のない第2戦、井元が連投し、7回から根立が肋
    間神経痛をこらえながら力投して、3対1で1勝1敗に追いつ
    いた。

     いよいよ最終の第3戦、学習院は井元先発でスタートしたが、
    島津監督は早めに根立に交替した。最上級生の「2部に落とし
    てたまるか」という執念に掛けたのだ。根立は鬼気迫る投球で、
    何度もピンチを迎えながらも、あと一本を許さず、0対0のま
    ま、延長10回で引き分けとなった。

     再戦となった第4戦。島津監督は2年生の秋山を先発に立て
    たが、荷が重かった。一回裏、1、3塁のピンチを迎え、早く
    も根立に交替。しかし、その根立も四球と連続安打を許して、
    いきなり3点を取られてしまう。

     2回表、学習院も必死に食い下がった。先頭打者が右中間2
    塁打を放つと、2死後、根立が渋いライト前ヒットを打って1
    点。バックホームの間に2塁に進んだ根立は、次のバッターの
    ライト前ヒットで一挙にホームを突いた。

     ライトからの返球をかいくぐって、野立はホームベースに滑
    り込みタッチ。3対2の1点差に追いついた。しかし、舞い上
    がった土埃の中を立ち上がった根立は、右腕全体が痺れている
    のを感じた。指先がずきずきしている。

     ベンチにもどった根立は誰にも気づかれないように、右手を
    水道で洗った。親指の爪がほとんど剥がれ、血が流れ出ている。
    根立の様子を不審に思ったマネジャーが「どうした、根立」と
    近づいたが、その親指を見て、仰天した。

    「大丈夫だ、黙っていろ」。ちょうど次打者が倒れて、チェン
    ジになった所だった。野立はそう言うと、黙ってグローブを持っ
    て、マウンドに向かった。

    「このまま自分の代で2部に落としたら、1部に引き揚げてく
    れた草刈さんに合わせる顔がない」。根立は心の中で、そう唱
    えながら、力投を続けた。
                             (次号に続く、文責:伊勢雅臣)


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
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1. 門田隆将『神宮の奇跡』★★★、講談社、H20

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
■「神宮の気迫、東宮の気概(上)」に寄せられたおたより

                                     「照山 紅葉」さんより
     去る4月9日の昼休み、桜見物で通りがかった乾門の所で、車
    で皇后陛下がお帰りになるところに居合わせました。皇后陛下
    は車の窓を開けられ、にこやかに手を振っていらっしゃいまし
    た。お元気そうな様子で、上品でとても気さくな印象を受けま
    した。やはり居合わせた桜見物のおばちゃんたちが「おめでと
    うございまーす!」と黄色い声を張り上げているのと対照的で
    した。ははは。

     翌日はお祝いのご記帳に行きましたが、宮内庁前では皇宮警
    察の音楽隊が張り切って演奏していました。和田蔵噴水公園で
    は警察の音楽隊が演奏し、天皇皇后両陛下の歩みの写真展が開
    かれて、多くの人が足を運んでいました。

     今のような、人を思いやる気持ちが希薄な時代にこそ、皇室
    の強い求心力が生きてくると思います。今の社会には、胡散臭
    い人間が多すぎます。皇室の皆さんを見ていると安心します。

■ 編集長・伊勢雅臣より

     国民に安心感を与えるのも、皇室の重大な御使命ですね。 

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