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■■ Japan On the Globe(621) ■■ 国際派日本人養成講座 ■■ 人物探訪: 中島知久平 〜 「航空立国」の志 富強な白人帝国主義国から日本を護るには、 世界一の航空戦力を持つしかない。 ■転送歓迎■ H21.11.01 ■ 38,397 Copies ■ 3,208,326 Views■ ■1.「あがらないぞえ中島飛行機」■ 群馬県は利根川の河川敷に作られた滑走路の片隅に、傘のお 化けのような骨組みがうずくまっていた。「あれが中島の飛行 機いうもんか?」「けったいな飛行機じゃなあ、発動機が前に ついとるやないか」 見物人たちはそんな事を言いあっていた。 飛行士が操縦席に乗り込むと、プロペラが回り始めた。飛行 機は地上滑走で滑走路の端まで行き、風上である北方の赤城山 の方に機首を向けた。轟音とともに、飛行機は走り始め、全力 滑走に移ると、機体がふわりと浮いた。「飛んだぞ!」見物人 の間から拍手が起こった。 ふいに機が左に傾斜した。北の赤城山から吹いていた風が、 東風に変わったのだ。まだ浮力が十分についていない状態で横 風を受けた飛行機は、そのまま横転墜落してしまった。 一台の車が大破した飛行機に近づき、車から降りた人物が 「おーい。佐藤君、大丈夫か」と声をかけた。幸い、飛行士の 佐藤は軽傷であった。「いやあ、無事でなにより。機はまたで きる。わしも一号機で成功しようとは思わんじゃった」 この人物が日本で最初に民間会社で飛行機開発に取り組んだ 中島知久平であった。知久平は、その後、2号機、3号機と取 り組んだが、いずれも失敗に終わった。 当時は第一次大戦の末期で、日本は未曾有の好景気のもと、 大インフレと米価高騰に見舞われていた。「札はだぶつく、お 米はあがる、あがらないぞえ中島飛行機」という落首が流行り、 これを耳にした知久平は苦笑して、「まあ、見ておれ」と設計 図とのにらめっこを続けた。 ■2.「満洲で馬賊になって、ロシアをやっつけてやる」■ 中島知久平は、明治17(1884)年、群馬県新田郡の富裕な農 家に生まれ、当時の常として愛国少年として育った。ロシアの 三国干渉に憤慨して、いずれ満洲に渡って馬賊になり、これを 日本大陸義勇軍に発展させて、ロシアをやっつけてやると決心 した。遠大な志を立て、それに向かって邁進するという知久平 の性格は、この頃から現れていた。 満洲の馬賊になるには、まず軍人になるのが近道だと考えて、 明治33(1900)年、16歳になった知久平は東京に出て、独学 で陸軍士官学校を目指した。「百姓の子はそんなに勉強しなく ともよい」と祖母が反対したため、2年分の生活費を家の金庫 から無断で拝借して、上京したのである。「お金は何倍にでも して必ず返します」という置き手紙を置いて。 東京での猛勉強の最中、志望を海軍機関学校に変えた。馬賊 になるには陸軍の方が良いが、満洲に集結するロシアの大軍を 討つには、兵員を運ぶ海軍が要ると意見されたからである。 明治36(1903)年、無事に海軍機関学校に合格。反対してい た祖母も、「この中島の家は、元々新田義貞にもゆかりのある 土地柄の家じゃ。海軍将校の卵が出たとは、お国にご奉公でき て、忠臣の義貞公もお喜びであろう」と相好を崩した。 ■3.「よし、次は飛行機だ」■ しかし、知久平が在学中に、日露戦争が勃発し、日本の陸軍 がロシアの大軍を満洲の地から駆逐してしまった。「もう、 おれが馬賊になる出番はない」と思った知久平は、不屈のアイ デアマンとしてすぐ次の夢を見いだした。「よし、次は飛行機 だ。おれの手で日本の空に飛行機をとばして見せるのだ」 その2年前、1903(明治36)年末に、アメリカのライト兄弟 が人類で最初の動力飛行に成功していた。彼らの目標はアメリ カ陸軍に飛行機を採用してもらう事だった。フランスやドイツ でも、軍事利用を目的として飛行機の開発競争が始まっていた。 日本海海戦の歴史的な勝利で、大艦巨砲主義が盛り上がって いたが、知久平はその先のことを考えていた。次の相手はアメ リカだと言われているが、アメリカ相手に建艦競争をしても敵 うはずがない。しかし1隻8百万円の戦艦も、1機5万円の飛 行機20機が魚雷攻撃で沈めてしまえば、差し引き7百万の得 となる。 級友達は「人間が乗るのがやっとの飛行機が、どうして何百 キロもある魚雷を運ぶことができるんだ」と笑ったが、知久平 は「おれがその魚雷を落とす飛行機を作ってやる」と答えた。 ■4.飛行機の国産を目指す■ 明治40(1907)年、海軍機関学校を卒業した知久平は、少尉 候補生として巡洋艦「明石」での実務練習についた。その後、 様々な艦への異動を命ぜられながら、少尉、中尉と順調に昇進 していったが、その間にも飛行機の研究は怠らなかった。 明治43(1910)年、ロンドンで開催される日英博覧会の視察 に巡洋艦「生駒」が派遣されることとなり、ちょうど「生駒」 に勤務していた知久平は、この時とばかり、フランスの航空界 を視察することを上官に願い出た。この頃は、フランスが飛行 機開発の最先進国であり、アンリ・フェルマンが4時間6分で 184キロを飛んで、速力と距離の世界記録を更新していた。 艦長は知久平の願いを聞き入れ、マルセーユ入港後、行方不 明として視察に行き、帰国途上で復艦せよ、という大胆な許可 を出した。知久平も大喜びで「行方不明」となり、フランスの 飛行機会社の機体工場や発動機工場を見学して、無事、マルセ ーユで帰艦した。 帰国して間もない頃、陸軍の徳川好敏大尉がフランスから輸 入した飛行機で、3.2キロを飛び、これが日本最初の飛行と 認められた。知久平の飛行機熱に対して、同僚たちが「徳川大 尉が飛んだと言っても、フランスの飛行機だ。日本が自分で飛 行機を製造するには、まだ相当の時日がかかる」というと、知 久平はこう答えた。 日本が日清戦争で清国の海軍を破った時、国産の軍艦は ほとんどなかった。しかし、日本海海戦では国産の「明石」 「須磨」が活躍し、その後、戦艦に近い巡洋艦として、 「筑波」「生駒」も呉の海軍工廠で建造されるようになっ た。我が国の造船能力は日進月歩で、これは飛行機にも当 然言えると思う。日本海軍にも国産の飛行機が採用され、 勇壮な戦隊を組んで、敵の戦艦戦隊を空から攻撃する日も そう遠くないとおれは思う。[1,p93] ■5.飛行機開発に着手■ こうした言動から知久平の名は、海軍で有名になっていった。 一中尉の分際で、飛行機で戦艦を雷撃するなどと夢のようなこ とをいう飛行機狂としてだったが。 しかし、陸海軍の中で飛行機に対する関心は少しづつ高まり、 知久平は29歳にして、海軍機の国産を目指して新設された飛 行機造修工場の主任に任命された。知久平は大正2(1913)年7 月、海軍最初の国産水上飛行機を完成させ、自身で試験飛行を 行った。 翌年、第一次大戦が勃発すると、中国・青島のドイツ軍要塞 攻撃に、飛行機からの爆撃を試してみようということで、4機 の水上機を運搬船に乗せて近海まで運び、クレーンで海面に降 ろして発進させた。4機は49回出撃して、約200発の爆弾 を落とし、うち6発は確実に要塞に命中したということで、初 戦としてはまずまずの成果を得られた。 その後も知久平は飛行機の開発を続けた。特に、今までの飛 行機のほとんどがエンジンを後部につけた方式であった所を、 知久平は前部につけた牽引式を考案し、その後の航空界はこの 方式が主流になっていった。知久平の先見の明が窺われる。 ■6.民間事業として飛行機開発を進める■ 知久平はさらに重い魚雷を運ぶために二つのエンジンを搭載 した双発水上機を開発し、また魚雷落射機も設計したが、上層 部に却下された。知久平がことある毎に、大艦巨砲主義を批判 していたので、不愉快に思う高官も多かったようだ。 こうした事から、知久平は海軍を去って、民間の事業として 飛行機製作を進めたいと考えるようになった。大正6(1917)年 12月、知久平は30代なかばの若さで、予備役編入の願いを 出し、海軍を去った。『退官の辞』と題した挨拶状には、こん な一節があった。 我が目標は一貫して国防の安成にありて、野に下るとい えども官にあると真の意義において何等変わるところなし。 吾人が国家のため最善の努力を振るい、諸兄の友情恩誼に 応え得るの日はむしろ今日以降にあり。[1,p164] 知久平は海軍で志を共にする数人の技術者と一緒に、郷里の 群馬県太田の利根川の河川敷を借りて飛行場を作り、そこで飛 行機の設計に取り組んだ。資金は自らの海軍の退職金と、知久 平の心意気に感じた富豪からの出資のみだった。 当初、飛行機研究所と名乗っていたが、大正7(1918)年には、 会社名を中島飛行機製作所とした。知久平は、工場の2階の小 さな部屋に寝起きし、酒も煙草もやらず、炊事婦の作る粗末な 食事だけで、朝から晩まで設計に打ち込んだ。 こうして出来上がった試作機は冒頭に紹介したように、失敗 続きで、地元の人々からも「あがらないぞえ中島飛行機」と揶 揄されたのだが、ついに大正8(1919)円2月、4号機が高度 100メートルで飛行場の上を一周し、見事に着陸を果たした。 この成功によって、知久平は陸軍航空部から一挙に20機の 初注文を受けて、一息つくことができた。 ■7.世界最大の飛行機メーカー■ 大正9(1920)年は中島飛行機製作所にとって飛躍の年だった。 三井物産との資本提携が成立し、資金面の心配はなくなった。 「ようし、日本一の飛行機会社になったるぞ!」と胸を叩いた ところに、陸軍から大正9年度分として、100機もの追加注 文が入った。海軍も、水上機を30機買いたいと言ってきた。 大正10(1921)年、ワシントン軍縮条約が成立して、当分の 間、建艦競争は中止となり、飛行機の方は制限されてなかった ので、逆に集中的な開発が続けられた。中島飛行機は次々と名 機の開発に成功し、大量の飛行機を陸海軍に納め続けた。 陸軍最初の国産戦闘機として採用された91式戦闘機は、そ の後、97式、「隼」などにつながっていく。97式はノモン ハン事件の最初の6日間で、ソ連の最新鋭戦闘機175機を撃 墜し、日本の飛行機の性能を世界に示した。[a] 海軍でも国産最初の90式艦上戦闘機を初めとして、65機 種を開発した。大東亜戦争勃発と共に真珠湾の米大艦隊を壊滅 させて、世界の航空常識を覆した「零戦」は、原設計は三菱で あるが、エンジンは中島製であり、また生産された合計1万余 機のうち、6千5百機ほどは中島で作られたのである。[b] 中島飛行機製作所は、戦時中の昭和19(1944)年には、中規 模以上の工場だけでも100カ所を超え、人員数は約26万人 という世界最大の飛行機メーカーとなっていた。 飛行機でお国のために尽くす、という知久平の志は、立派に 実現されたと言える。 ■8.「航空立国」■ 昭和5(1930)年、知久平は衆議院選挙に立候補し、群馬県で 最高得票で当選した。「飛行機の中島」と言えば、群馬県で知 らない者はいなかったので、選挙運動をする必要もなかった。 知久平は政治の世界で出世しようという野心はなかった。米 英など富強な白人帝国主義国から日本を護るには、大艦巨砲主 義ではなく、あくまで航空戦力による国防でなければならない と訴えることが、政治家となった動機であった。そして、陸海 軍から空軍を独立させ、世界一の航空戦力を持つ「航空立国」 を訴えた。 知久平の政治家としての活動のハイライトは、昭和17年 (1942)秋に構想した『必勝戦策』であろう。これは後に「富岳」 と命名される超大型重爆撃機を開発し、これをドイツ占領下の フランスから出撃させて、米国東部に集中する製鉄所、アルミ 工場などを全滅させようという雄大な構想だった。すでに知久 平の耳には、米国で開発されつつあるB29の情報が届いてお り、これで日本が爆撃される前に、米本土を叩こうと考えたの だった。 軍部は、そんな夢のような飛行機は実現不可能ではないかと 疑ったが、知久平は重役会議の席上、次のように言って、自社 での開発を進めさせた。 中島飛行機は金儲けのためにあるのではない。国家のた めに存在しているのだ。軍のワカラズ屋どもが何をいおう とも、国が危機に直面している時、安閑として祖国の国難 を傍観していることができるか! ・・・そのために会社 は大損してもかまわぬ。[1,p389] 知久平は東条首相を直接説得して、「富岳」の開発をスター トさせた。しかし、この計画は新しくできた軍需省の航空兵器 総局長官・遠藤三郎中将によって中止させられてしまった。遠 藤中将は、飛行機を一機でも多く必要とする前線のために、現 有機の増産を優先させたのである。 ■9.「心理的な敗北感をいつまでも持たない」■ 知久平は戦後まもない昭和24(1949)年10月、享年66歳 で世を去ったが、その直前、次のような言葉を残していた。 日本は今は焼け野原である。・・・しかし、私は日本の 復興は意外に早いと思う。日本の民族は優秀である。特に その科学的技術において、決して欧米のエンジニアに劣る 者ではない。必ずや近い将来に日本の産業は復活する。 何よりも大切なことは、精神的にまいらないことだ。 ・・・もし対等の資源を与えられたならば、少なくとも中 島飛行機の技術はアメリカには負けていなかったと思う。 したがって、負けたからだめだ、というような心理的な敗 北感をいつまでも持たないで、早く自分の気持ちを復興さ せることだ。[1,p411] 知久平の遺言に励まされた如く、その後、日本の産業は奇跡 的な復興を果たし、その後の高度成長時代には、いくつもの分 野でアメリカを凌駕していった。 (文責:伊勢雅臣) ■リンク■ a. JOG(355) ノモンハン 〜 大平原での日ソ激戦 日本軍は侵入してきた数倍のソ連軍を痛撃して、スターリン の野望を打ち砕いた。 b. JOG(475) 零戦 〜 世界の航空常識を覆した3日間 1941年12月8日からの3日間に、世界の航空史は新しい時 代を迎えた。 _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ ■「中島知久平 〜 『航空立国』の志」に寄せられたおたより 樵さんより 「心理的な敗北感をいつまでも持たないで、早く自分の気持ち を復興させることだ。」正に、今の日本に日本人に必要な言葉 だと鳥肌が立ちました。 戦後半世紀以上が過ぎ、経済的には復活したにも拘らず、今 の日本の世界との関わる時の姿勢、国内の様々な問題を考える と、戦前の日本人の伝統精神が戦後からまだ復興していないと 思います。 家族のため、社会のため、国のために自分の人生を使う。 現在は偏向された個人主義、権利の主張が善とされています。 その結果が、今の国内の悲しくなる事件や外国から軽んじられ る状況を招いたと思います。 精神的な復興が必要だと強く感じました。 ■ 編集長・伊勢雅臣より 経済的には復興しましたが、精神的な復興はこれからですね。© 平成21年 [伊勢雅臣]. All rights reserved.