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 国柄探訪: 台風娘の町興し(下) 〜 老舗蔵元の再出発

         セーラは伝統の根っこから新たなエネルギー
        を引き出し、老舗蔵元を再出発させた。
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■1.「蔵人が丹精込めて造る酒に、レトルトの料理は合いますか」

 セーラが国際北斎会議の招致活動に本腰を入れていた平成8(1996)年、社長・市村次夫は小布施堂の親会社・桝一酒造場の古い酒蔵を、レトルト食品を出すローコストのレストランに改築する案を発表した。桝一酒造場は長年、赤字が続いていたが、17代250年にわたる市村家の根幹事業を潰すわけにもいかず、苦し紛れの利益稼ぎに考えた案だった。

 ところが、その案に猛然と反対したのが、セーラだった。「蔵人が丹精込めて造る酒に、レトルトの料理は合いますか」と、セーラは市村と顔を合わせるたびに、激烈な疑問の嵐をぶつけてきた。

 市村は「口出ししないでくれ」と突っぱねたが、そのうちにセーラの言い分の方が理が通っている、という気持ちになってきた。苦渋の末に、市村は建築会社に酒蔵改造工事の撤回を継げた。着工予定のわずか5日前のことだった。


■2.日本酒が体現する日本文化の奥深さに感動

 セーラが猛然と反対したのは、桝一酒造場の蔵人たちの作業を見ていたからだった。日本酒は12月から2月の終わり、一年のうちで寒さが一番厳しい時期に仕込み作業が行われる。手が痺れるほど冷たい水に、酒米をなんども漬け、洗う。次に巨大な釜で蒸し上げる。蒸し器から立ち上がる高温の水蒸気に、上半身裸の蔵人たちが汗を流しながら、作業を続ける。

 桝一の大杜氏(おおとうじ)、15歳のときから60年以上も酒造りに関わってきた遠山隆吉は「金髪の外国人が物珍しいと思って来たのだろう」と気にも留めなかったが、セーラはその光景を見て、日本酒が体現する日本文化の奥深さに、深い敬意を抱いた。[1,p94]

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 酒蔵の内部は神秘的な空間で、そこで働く蔵人は、とてもカッコよかった。手間をかけて人が酒を造ること、その心と精神に私は感動したんです。
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「蔵人が丹精込めて造る酒に、レトルトの料理は合いますか」という反対の裏には、こういう感動があったのである。


■3.「来週、香港に行きます」

「モーフォードさんが興味を持ってくれたようなので、来週、香港に行きます。社長もご同行をお願いします」と、セーラが市村に言ってきたのは、それからしばらく後のことであった。

 モーフォードとは、香港在住のアメリカ人デザイナーで、その先鋭的な感覚と仕事の確かさは世界的な評価を受けていた。東京新宿の高級ホテル「パークハイアット東京」の内装を手がけており、セーラは、上京の折に訪れたこのホテルの居心地の良さに強い印象を受けた。そこで桝一酒造で新しいレストランを始めるには、モーフォードに建物の監修を頼もうと考えたのだった。

 市村はセーラからこの案を聞いていたが、世界的な評価を受けているモーフォードが、日本の田舎町の小さな仕事を受けてくれるかどうか、極めて懐疑的だった。

 しかし、セーラは直接モーフォードに電話をし、小布施の町と小布施堂の説明をし、酒蔵の再生について、自分の思いのたけをぶつけた。そして、香港で事業のプレゼンテーションをする約束を取りつけたのだった。

 しかし、セーラが市村に言ってきたのが金曜日で、「来週」とは月曜日のことだった。市村は急遽、若い社員を動員して、小布施の町と小布施堂界隈の町並みをビデオに収めた。

 海外にはまったく知られていない日本の酒蔵の改装という小さな仕事だったが、モーフォードは小布施の蔵や木造屋敷が並ぶ光景に、並々ならぬ興味を示した。そして、このプロジェクトを受諾したのである。


■4.「それはノーです」

 新しい和食レストランは、酒蔵の一部を使うから「蔵部(くらぶ)」と命名された。モーフォードのデザインで、酒蔵の改装工事は、平成8(1996)年10月から始められた。

 モーフォードは、日本の伝統的な建築様式を生かした中で、客にとって居心地のよい空間作りを目指した。外壁や内装の色合い、材質にも本物にこだわり、工事主任を務める北野建設の小島義明施行者を悩ませた。

 たとえば外壁の枠に使う木材の色は「市村本宅の屋敷門の色」と指定してきた。小島が、「あれは年月がたったから出た色、難しくてできませんよ」と文句を言うと「あきらめずにチャレンジしなさい」 職人がいろいろな塗料を調合し、様々な塗り方を試して、サンプルを作り続けた。

 そんなモーフォードの本物主義を徹底的に擁護したのがセーラだった。小島は言う。[1,p101]

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 セーラも言いだしたら聞かなかったし、また行動が突拍子もなくてねえ。現場の言い分をモーフォードさんに通訳してくれって頼んでも「それはノーです」って返されると、「おめえに聞いてるんじゃねえやっ」って、こっちも熱くなって。でもそういう対決をすべてセーラが背負ったから、モーフォードさんの考えがすべて生かされたんだね。こっちも施主が(市村)次夫さんなら、という信頼で最後まで付き合えた。26年間の経験のなかでいちばん思い出深い仕事です。
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 セーラは蔵部で働く人々の姿にもこだわった。短く刈り込んだ頭に鉢巻きをキリリとしめ、襟に「桝一市村酒造場」の文字を染め抜いた藍の印半纏(しるしばんてん)に股引き。そんな粋な男衆がきびきびと働く姿こそ、この店に、ふさわしい。


■5.「ありゃあ一匹狼なんだと思ったねえ」

 工事が進む間に、セーラはこの蔵独自の銘柄酒を新たに造り出す計画にも着手した。酒蔵での仕込みの風景に感動したセーラは、自ら日本酒の勉強をして、欧米人では最初の「利き酒師」の資格をとり、日本酒に関しては並の日本人よりもはるかに深い知識と造詣を得ていた。

 セーラにとって、日本酒の味わいは、それぞれの蔵元の特徴と料理との組み合わせで違ってくる。それなのに、大吟醸ブームのように、みんなが同じような造り方を真似するのは「違うんじゃないかなあ・・・」とセーラは考えていた。

 そこで、大杜氏(おおとうじ)の遠山隆吉には、原料には長野産の「美山錦」を使い、大吟醸ブームの逆をいく本醸造か純米酒で行きたいと伝えた。遠山に異論はなかった。

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 とにかく、気が強いというか・・・。いや、気が強いだけじゃなくて、酒のことを本当によく勉強してるんだ。ただのアメリカ人の女だと思ったら大間違いで、ありゃあ一匹狼なんだと思ったねえ。[1,p123]
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「杜氏集団も一匹狼の集まり」と言う遠山は、セーラを自分たちと同類の人間と認めたのである。

 遠山が手がけた新銘柄は、江戸時代に桝一が使っていた□の下に一と書く「ますいち」を英語読みして、セーラが「スクウェア・ワン」と命名した。


■6.ハンマーを振るう台風娘

 蔵部の工事が進むに連れて、セーラはそれにあわせて桝一の店舗そのものもリニューアルが必要だと考えた。5人ほどの従業員が働く事務所部分が、店部分よりもはるかに広くとってあり、セーラはお客さまのためのスペースを増やしたいと考えたのだった。

 市村も、蔵部と店の統一感を出すために改築が必要と考えていたが、古手の社員の説得が大変だと、逡巡していた。だからセーラが提案しても、曖昧な返事しか返さなかった。

 しかし、セーラはそれを「イエス」と解釈した。店舗部分の責任者で、市村次夫の「はとこ」にあたる専務の市村憲彦は、セーラが店舗改築を告げにきた時のことをこう語る。[1,p132]

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 私たちは帳場で一生懸命、数字をつけていたんですよ。そこに例のごとくいきなりやってきて「明日から隣の米蔵を仮店舗にしますから、ここの場所を片付けてください」って言い出したんです。あの時はさすがにカッときてね。「こちらも大事な用事をやってんだ!」って言い合いになりましたよ。
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 店舗の人たちが動かないと見ると、セーラは実力行使に乗り出した。自ら鉄製のハンマーで、内壁をぶち壊し始めたのである。皆は唖然としたが、そこまでやられると、「やれやれ」といった気配の中で、事務所の移転作業が始まった。この時から、セーラは台風娘と呼ばれるようになった。


■7.「日本の職人技、本物を残したい」

 新生店舗の改築はこうして始まったが、セーラはさらに本物の看板が欲しいと思った。つてを辿って、九州の書道家に躍動感ある「蔵元 桝一市村酒造場」という字を書いて貰った。それを木彫りの看板にして貰う工房を探し歩いたが、どこも機械で文字を彫っており、それでは「男性的なたくましい書の流れ」が出ない。

 セーラがついに見つけたのが富山県高岡市にある工房「三佳(さんよし)」だった。一人やって来て、涙まで浮かべながら、自分の思いを訴えるセーラの姿に、応対した漆(うるし)職人の川口幸子は心動かされた。[1,p143]

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 なにしろセーラさんが一途でねえ。私よりひとまわり以上年下のアメリカの方が、日本の職人技、本物を残したいと言うのに、私たちが協力できないというのは、自分でも納得できない。そんなモノ作りに携わる者の気持ちを、セーラさんは強力に押してきたんですね。
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 大きなヒノキの板に文字を手彫りし、5回、漆塗りを繰り返して、一月ほど乾燥させた後に、プラチナの箔を張る。川口は木彫り職人とともに細かな点まで気を配った。改築の納期に間に合わないと心配する川口に、セーラはこう言った。

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 今の時代は納期さえ守ればすべてよしで、ニセモノがまかり通ってしまいます。期限を切ってよくないものを作るのではなく、時間をかけていいものを作りましょう。[1,p144]
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 開業から半年遅れでようやく完成した、苦労の多い仕事だったが、川口は「看板を作っている時は最高に幸せでした」と語っている。


■8.「おじいちゃん、カッコイイ」

 平成10(1998)年10月、蔵部が開業し、翌年3月には桝一酒造場が新装開店した。しばらくすると、両店の客層は目に見えて広がっていった。蔵部では、若いカップルや家族連れの客が目立つようになった。新しい銘柄酒「スクエア・ワン」も若い女性に好評で、店舗での自社銘柄酒の売り上げを20倍に伸ばした。

 大きな改革をやり遂げたという達成感が、従業員の誇りと連帯感、桝一への愛着心へとつながっていった。

「桝一市村酒造場」と染め抜いた印半纏(しるしばんてん)と股引(またひき)姿の従業員は、はじめは恥ずかしがったり、ぎこちなかったが、やがて「桝一」の名前を羽織って、おのずと立ち居振る舞い、言葉遣いも磨かれていった。

 年配の営業マンは、印半纏姿での外回りを恥ずかしがっていたが、その姿を見た孫から「おじいちゃん、カッコイイ」と言われて、抵抗感なく着るようになった。雨の日はビニール傘ではなく、セーラが長野オリンピック用に作った和傘を使うようになった。

 町並みや建物、看板だけでなく、こうして昔ながらの印半纏姿できびきびと働く人々の姿も、地域文化の有り様なのである。

■9.「昔のものを大切にしながらイノベーションを重ねていける町」

 台風娘セーラの活躍で、小布施の町では、昔ながらの景観だけでなく、そこでの生活にも仕事にも伝統という根っこから新たなエネルギーを得て、生き生きとした改革が続いている。セーラは言う。 [1,p224]

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 小布施には今、生きている人たちが、自分たちの生活を大事にしながら人生を楽しむ姿があります。私は古い町並みが大好きですが、古いものだけに価値を置くと、暮らしは窮屈になってしまいます。昔のものを大切にしながらイノベーションを重ねていける町が、私にとってはいい町です。小布施のような田舎の町には、そんな豊かな生活ができる条件が揃っているんです。
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 日本全体が小布施のように「昔のものを大切にしながらイノベーションを重ねていける」国になったら、国民ももっと心豊かな生活ができるようになるのではないか。

 セーラと小布施の人々の挑戦は、我々にそんな問いかけをしている。

(文責:伊勢雅臣)

■リンク■
a. JOG(636) 台風娘の町興し(上) 〜 セーラと小布施の人々
 長野オリンピックと国際北斎会議を機会に、セーラは伝統文化による町興しに邁進した。

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 清野由美『セーラが町にやってきた』★★★、日経ビジネス人文庫、H21


■「台風娘の町興し(下) 〜 老舗蔵元の再出発」に寄せられたおたより

■哲也さんより

 セーラさんが小布施の町おこしを、伝統を活かしつつも本物を追及し、形にして行くその心と行動力は、見習わなければならないと強く思いました。

 この不況の中、「不労収入」や「FX投資」など、実が伴わない、目先の利益を追い求める話しをよく見聞きします。

 昨日は、私が15年来末席を汚させて頂いている空手道場で、毎月2回行われる勉強会の日でした。師範から論語の講話があり、「子曰く 利に依りて行えば怨み多し」里仁第四(十二)が題材の一つでした。

 利益を求めることは悪いことではないし、必要であるが、問題はその方法です。目先の利益、自分だけの利益を考え行動すれば、関係する人は無論、周囲の人からも怨まれたり、信頼を失ったりします。

 今ここで、目先の利益、私利私欲に走れば、我々が「100年に一度の不況」と言われながらも、食うに困らない社会を築いて来てくれた祖先と、我々が行った事を背負って生きて行かなければならない子孫から、怨まれる事になります。

 セーラさんのように、汗をかき、苦労を惜しまず、恥じることのない仕事を、精一杯、私も行っていきたいと思います。

■泰さんより

 外国人に日本の本物のよさを見つけてもらう、というのも情けないですが、日本文化は日本人だけのものではなく、世界の共通の財産としていけば、よいのだと思います。

 パリも京都も戦災を受けませんでした。さすがのナチスドイツや連合軍もこれら、人類の共通遺産を壊してはいけない、という最低限の良心は持ち合わせていたということでしょう。)

 日本は、経済的にはこれ以上トップにはいけないが、欧州のように長い文化の力で、外国人をひきつける国を目指せ、というのは、30年も前に日下公人さんが、力説されていたことですが、低成長のなかで、ようやくその兆しが見えてきたようです。

 昨日TVを見ていたら、留寿都にはじまった外人のスキーブームは、長野県の昔ながらのスキー場に及んできたそうです。たしかに、北海道の方が雪はよいかもしれませんが、昔ながらの温泉街も楽しめる長野県の方が外国人にとっては数倍面白い。はるばる日本にきた甲斐がある、ということでしょう。

■編集長・伊勢雅臣より

 伝統文化は観光資源であると共に、我々の先祖から継承し、子孫に伝えていくべき宝物ですね。
 

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