海藤抱壷

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  海藤抱壷の横顔スケッチ(菊地青衣子)

  海藤抱壷(かいどう・ほうこ)

海藤抱壷(本名寛)は明治35年仙台市生まれ、肺結核のた

め旧制仙台二中(現仙台二高)を中退した。その後自宅で

長期療養生活を送って、昭和15年9月18日、39歳の若さ

で亡くなった。

大正14年から井泉水に師事し、「層雲」に投句を続けた。

この間、昭和9年には句集「三羽の鶴」を出版、同11年に

ははるばる山頭火が病床を見舞っている。

その作品は今も人々の愛唱するところで、昭和55年、牧羊

社から「海藤抱壷句集」が出版された。

 

         月は澄んで氷嚢のま上か

            夢にも匂う桃が枕元

            日に日に薬の紙を手にして三羽の鶴

             白い壁の穴から薬わたされる

            薬瓶にさしてうめもどき

            体温計に小さな輪飾もがな

            母にあくびがうつり雪もつんだらしい

            夕陽なき日も忘れずに目蓋に熱がくる

            わたしがけしの種を包むと粉薬になる

            飛んでゐたと紙にひねった星を貰った

            水薬を盃にして一月一日

 

海藤家は現在仙台市から引き払っていて、墓石も残されて

いないそうである。

しかし昨年暮れになって、鎌倉の荻原邸で、井泉水にあてた彼の書簡13通が発見され、

親しく拝見することができた。これから逐次それに触れていきたいと思う。

これらは、昭和8年から死亡の15年にわたるもので、絶筆になったハガキや、死亡通知

も含まれている。井泉水は封筒の表に内容を朱筆して保管して置いたらしい。句集「三羽

の鶴」の出版経過や、号の由来、病気のこと、信仰のことなど、抱壷を知る上で貴重なも

のばかりであった。

抱壷は仙台にあって、ほとんど外に出ることはなかったらしいが、その彼を慕ってかなり

の層雲人が仙台に足を運んでいたことを知ることができた。中には、あの伊東俊二もい

た。井泉水、山頭火だけではなかったのである。

 


山頭火研究家木下信三氏から、氏が以前「層雲」に連載した「海藤抱壷」の文集をいただいた。このような詳細な研究成果があったことを私は知らないできた。迂闊である。

氏からの手紙によると、抱壷の弟の日出男氏が海藤家を継ぎ、その遺族の方が世田谷区にいられるということである。海藤家墓地は西多摩霊園だそうで、いずれお参りに行きたいと思っている。抱壷自身はクリスチャンだったが、家は浄土宗、葬儀も仏式でおこなわれたらしい。

 


西多摩霊園・海藤家墓