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日本教 

 放哉・山頭火・顕信と並べて、いずれも宗教(ここでは仏教)とかかわったことで共通がありましょう。山頭火・顕信は一応得度して正式に僧籍にあり

ましたが、放哉は寺男で終わりました。寺男であろうと寺の世話になっていたのですから宗教の世話になっていたことにかわりはありません。

 得度して自宅の1間を仏間にしていた顕信に、

    念仏の口が愚痴ゆうていた

    合掌するその手が蚊をうつ

 があるように、宗教に一途というわけには行かなかったのには、宗教は原理的に一途を求めるものですが、句作者のそれは宗教の埒外に存在すか

らでしょう。山頭火は昭和十一年初頭日記に、「歩く、飲む、作る、一一これが山頭火の三つ物である」と書いていますが「信じる」はありません。放哉も

手紙に、 「御親切に感泣して朝から木魚を叩いて句作する放哉に帰ります」と書いていて、信心は適当だったようです。

 山本七平は、キリスト教・ユダヤ教を対象に、「日本人には日本教といった思想が宿るから、外来の宗教はそのままでは受け入れられない」と述べま

した。仏教も外来の宗教です。

 思想の根底には「ことば」があります。随句が伝統的言葉に基づく以上、随句作家は日本教の信徒なのです。(野火)19−10

 


 

 

 

 

 

 
                                                 
 
 
 想念と実態

                                         野火

  一時定型俳句で「一句二章」なる解釈があって、自由律俳句の一部にもこれに寄り掛かる者がいたりした。

 この解釈の寄って立つところを煎じ詰めると、想念表現に偏る作家が、想念だけでは句が成立しないことから、実態の部分
を加えることで二章と考えたのだろう。定型俳句でいえば実態部分の多くは季題がこれを担う。つまり、季題の存在がなけれ
ば句は川柳と変わらなくなるということであろう。解りやすい解釈ではある。これを「自己」(想念)+対象(実態)と捉え
ても同じようなものである。

  降る雪や明治は遠くなりにけり

 「降る雪」という実態(実景)に、「遠くなりにけり」なる想念を+(プラス)して一句が成るのである。

 基本的に自由律俳句にもこのスタイルを踏襲する部分が存在した。山頭火に、

  やっぱりひとりはさみしい枯れ草

  やっぱりひとりがよろしい雑草

 と、対比してみせたのがある。「やっぱり」の部分は想念であり、「枯れ草」「雑草」は実態である。

 しかし、本来定型にしろ自由律にしろ、想念を見せないことで無条件感覚が成ったはずのものである。これが理想像であっ
たのだが、想念偏重の行き方が主流である流れと、想念にとりつかれた作家とにはこのことが理解されなかった。

 おおまかに言って、想念を持ち込むことは安易であり、且つ俗化の方向を選択することになる。「うまいことを言う」「変
わったことを言う」が評価の対象になってしまい、あるべき理想像からは離れることになってしまう。定型で言えば、これが
芭蕉と一茶、芭蕉と蕪村との差なのだが、大方にはわかってもらえないであろう。(19-3-13)

        

神代から随句

  
   野   火


 角川文庫の『古事記』(武田祐吉訳注)では、神代からの歌謡に歌謡番号を付してい

る。速須佐の男の命が八俣の大蛇を斬り殺したあと、出雲の国須賀に宮作りされた時

の歌、

  や雲立つ 出雲八重垣。
  妻隠みに 八重垣作る。
  その八重垣を。

 を歌謡番号一とし、以下一六まではいわゆる長歌が続く。一六は初代の神武天皇が

畝傍山で即位され、大后とする美人を求められていた時、高佐土野の地に至りそこに

いた七媛女の中に伊須気余理比売を見て、側近の大久米の命が天皇に差し上げた

歌という。

  倭の 高佐土野を
  七行く 媛女ども、
  誰をしまかむ。

 七人のうち、どの媛女がよろしいか伺ったのである。天皇は媛女どもの先に立つ伊

須気余理比売がお気に入りで、

  かつがつも いや先立てる 愛をしまかむ。
                 (歌謡番号一七)

 と歌をもって答えられた。そのことを伊須気余理比売に仲立ちする大久米の命の目

尻の入れ墨を見て、比売は、

  天地 ちどりましとと など鯨ける利目。
                 (歌謡番号一八)

 と歌われた。脚注には語義不明としてある。大久米の命は答えて、

  媛女に 直に逢はむと 吾が鯨ける利目。
                 (歌謡番号一九)

 と歌われたとある。
 ここまでの歌に後代に見る短歌はない。問い歌と返り歌は三節で未だ七五調の固

定はなかったようである。『古事記』に見る限り、短歌に先行して随句があったのであ

る。 倭建 の命の東征に先立ち、出雲建征討に、

  やつめさす 出雲建が 佩ける刀、
  黒葛多纏き さ身無しにあはれ。
                 (歌謡番号二四)

 ここで初めて短歌調らしい歌謡が登場する。更に、東征を終えられて甲斐の酒折の

宮に至り、倭建 の命の歌、

  新治 筑波を過ぎて、幾夜か宿つる。
                 (歌謡番号二六)

 答えて、御火焼の老人の歌、

  かがなべて 夜には九夜 日には十日を。
                 (歌謡番号二七)

 と再び三節の問答歌が登場するのである。倭建 の命の崩りの地、能煩野の思国

歌、

  倭は 国のまほろば、
  たたなづく 青垣、
  山隠れる 倭し 美し。    (歌謡番号三一)

  命の 全けむ人は、
  畳薦  平群の山の
  熊白檮が葉を
  髻華に挿せ その子。     (歌謡番号三二)

 に続いて、

  はしけやし 吾家の方よ 雲居起ち来も。
                 (歌謡番号三三)

 これには「こは片歌なり」とある。問答歌の返りがない歌というのであろうか。
 ここに后たち、御子たちもろもろ下りきまして、陵(白鳥の陵)を作りき、すなはち其地

のなづき田に匍匐ひ廻りて、哭 しつつ歌よみしたまひしく、として四歌、

  なづきの 田の稲幹に、
  稲幹に 蔓ひもとほろふ ところ葛。
                 (歌謡番号三五)

  浅小竹原 腰なづむ。
  虚空は行かず 足よ行くな。  (歌謡番号三六)

  海が行けば 腰なづむ。
  大河原の 植草、
  海がは いさよふ。      (歌謡番号三七)

  濱つ千鳥 濱よ行かず 磯伝ふ。(歌謡番号三八)

 「みなその御葬に歌ひき。かれ今に至るまで、その歌は天皇の大御葬に歌ふなり」

とある。
 四歌ともに七五調の拘りは殆ど見られない。歌謡番号三八は片歌のようだが、その

断りはない。随句の原形のような歌である。(17・6.16)


 ペ ケ に も 魂   

野 火 

 吉田松陰は松下村塾へ入りたいという若者に必ず勉学の目的を尋ね、読書人になるのではなく、行動する人にな

ることを求めた。「学者になってはいけない。実行する人になりなさい」と言ったという。後代、村塾から学者は一人も

育たず、かわって時代を変革した政治家・軍人・経済人の数多くが育った。たった2年かそこらで日本国をかじ取りし

た実行人を育てたのである。  

山頭火・放哉、最近にいたっては顕信が取り上げられるようになったが、取り上げる人、評論家の多くは実行する人

ではない――自由律俳句作家ではない。自由律俳句作家が注目されだしたのはありがたいことだが、評価の細部

にわたってはうなずけないことも少なくない。そうして、それらの人の言説はそれが絶対であるかの如くで、自由律

俳句そのものを見下げてのものらしいことには憤りさえ感じることがある。 

 その人たちの視点のかなめにあるものは、こういうことがウケルであろうということで、ウケルと想像することをウケ

させて、ご自分をもウケさせるのであるように見える。その人たちの言うことに気をつけてみると、自由律俳句が良い

とはいっていない。自由律俳句は滅びたも同然の状況だが、山頭火・放哉・顕信は別だと言っているのである。

  その人たちは自由律俳句を実行する人ではない。わたしはむしろ、実行できない人であると思っている。そのもの

は作れず(実行せず)、外の目でのみ見ての評価が絶対であるはずがない。野球人がよくファンを神様などというが、

お茶の間批評ならわたしだってする。しかしわたしは実行する人ではない。いわばやじ馬である。ファンに何がわか

るかといわれて当然である。ファンは神様ではない。同じく評論家諸氏も神様ではない。

  友川かずきは顕信の周囲上層はみんなペケだといった。彼の定規に合わないということだが、彼は自由律俳句が

できるか。なんであろうと実行している数少ない紳士淑女を、できない人間の彼がペケと言うべきではない。彼は定

型の西東三鬼・金子兜太の方を崇拝しているとも言った。それほど定型がありがたいなら歌も75調でつくったらどう

だ。

  三鬼・兜太は最初山頭火をあげ、放哉が受けそうだとなったら放哉をあげたのではなかったか。そのうち顕信をあ

げるにちがいない。評論家とはそんなもので、ウケルとみたら乗るような人物の評価をわたしはあてにしない。

  ペケにも魂がある。わたしは松陰に及ぶべくもないが、読書人より実行する人をもとめていることは同じである。                              

(14・6・27)


 
      原   点
       さ が み の 野 火
  
『層雲』3月号(2002-3)の「編集手帳」で鶴田育久氏は以下のように述べている。
  「自由律俳句だからといって、何でも自由ということではありません。勉強会でも提言しましたが、
  自由律俳句とはと云う基本的なコンセプトは、はっきり掲げるべきだと思います。
  <自由律俳句は、一つの段落をもち、一息で言える程度の長さの一行詩>
  紙数が尽きました。とにかく自由律俳句の原点について皆さんのご意見をお聞きしたいものす。」
   
   私にとっては「まだこんなことを言っているのか」で、すでに『随句』でも『随雲』でも述べてきたところである。それを承知でか忘れてか、またぞろ出て
 きて煩わしい。しかし、その後自由律俳句の門をたたいた人もいられることだから、私の方でもまたぞろ言わねばならないのかもしれない。
  
   順を追っていこう。先ず「一つの段落をもち」だが、最短の詩型である自由律俳句に段落がいくつもあるわけはない。当然といえば当然だが、これを強調する
 とやがて俳句2節(章)論に至る。これは俳句(定型を含めて)を文章的に分析する観点からのもので、知識人ぶる人たちの陥りやすい論法である。わかりやす
 く言えば定型だが(乙字などがその論者)、「切れなくしては句ならず」といわれてきた。文章とみればそうなるだろう。しかし句(定型に限らず)は韻文であ
 る。つまり「うた」で、2節に見えても3節に読む(詠む)。定型は17字だが、5−7−5で読む。5-12とか、12-5とかには読まない。2節論者は机上の空論をもてあそぶ者で、
 実作者ではない。あるいは実作を忘れているのである。
  
   次に「一息で言える長さ」だが、これなどは概念の産物で、ひねくれ者がいたなら息くらべの種にするだろう。ジゲムジゲムゴコウノスリキレ………
 を競った自由律俳句が生まれるだろう。こんなものは定義とも基本ともなり得ない。
  「一行の」も同じで、いまは短歌さえ一行に書くのが主流である。短歌も自由律俳句だといったら笑われるだろう。
  
  「詩」とはなにか? それに対する明確な定義が存在するのかはなはだ怪しい。 
 「詩」という概念は明治以降、西洋からのもので、以前は詩といえば漢詩をいった。短歌も俳句も詩なるものに関係なく発生したもので、日本では「うた」とい
 うべき性質のものに近い。西洋かぶれで短歌も俳句も詩だといいだしたから、定型の束縛から脱したのはよかったが、レトリックが主流になった。心にもないこ
 とが評価されることになったのである。『層雲』もその方向にある。
  特に「一行の詩」とあると、自由律俳句は一行詩ということになってしまう。現有の一行詩と称するものがどういうものであるか。そんなものがわれわれの目
 指すものと、どんなに隔絶したものであるかは、知らぬ者は知らぬが知る者は知る。そんなことからであろうが、浜松の役員は私に対して「自由律俳句は一行詩
 だ」と言い張った。聞き捨てにならない言葉である。こうして『層雲』は伝統も失い、一行詩派の下風に立たされようとする。『層雲』の名に対しても冒涜であ
 る。
  
   要するに、井泉水定義は上面(うわつら)からの概念で、とても自由律俳句を定義し得たものではない。この曖昧な概念を墨守させていて『層雲』の未来はな
 い。それが井泉水絶対視の中から絶対視され、そうして層雲俳句も埋没させられていく。やんぬるかなである。
  上田都史氏はその著書で、自由律俳句は「上限を25字程度にすべきだ」と述べたが、この御仁にしてこの程度、自由律俳句は型から規制したのでは、その時点で
 自由でなくなる。
  井泉水定義も要するに型を見ての発想で、机上の理念でしかない。自由律俳句の本性は、あくまでも内面から発するものに拠らねばならない性格のものである。  
私は随句の原点に「感性のひらめき」をおき、その表出を3節の韻とした。これは自由律俳句の名句が示す実相である。ここで多くを述べ得ないが下記の文章
 を参照されたい。
                              (14-3-18)
 
   *参照 石の声(『つづれ雲』1号)
       偶像(『つづれ雲』3号)
       疑義(『随句」11号)
       定義(同)
         基調(『随句」16号)
       句か詩か(『随句」18号)

 


 

   顕信の意義

             

 放哉につづいて顕信の講演が池畑秀一氏によって行われた。顕信生前の交遊があった自由律俳句作家で、顕信を知ること、この人の右に出る人はいない。

 氏は、俳句は素人といつもいうが、顕信を知ったきっかけも、心酔した経緯も自由律俳句を通じてのものだったから、途中で句作をやめたからといって、自由律俳句作家でなかったということはできない。

 池畑氏は顕信に死の直前までの生き様、死に様を知る唯一の作家となった。講演の中で、顕信がすでに死相のあらわれた顔で、手にはなお句集の草稿を握り締めていたというくだりなどは、聴衆の深い感銘をさそったに違いない。

 顕信の死後、遺句集の出版に傾けた池畑氏の情熱もまた、顕信の情熱そのままではなかったか。その情熱が弥生書房を動かし、出版された句集「未完成」を、こんどは売り込むために情熱を使った。プロの人にできるだけ目を通してほしいと、定型作家や批評家といった人々にも書信をつけて送ったという。ところが、予想に反してというか、多くの人からこれを評価する主旨の返信があり、やがてそれらの人を通じて顕信が知られるようになり、一部ではあるが現在も英語版、仏語版が出され、教科書にも1句が採用されるといった状況になっている。

 池畑氏は、もちろん『層雲』の先輩諸氏にも同様にして「未完成」を送ったが、なぜかこちらの評価は今ひとつといった感じであったという。顕信は未熟、というのが先輩諸氏の標準的な評価であったというのである。

 私にはこれが理解できる。『層雲』(それを引き継いだ『随雲』も)の先輩諸氏、中堅どころを含めて、主流となっているのは技巧派、もしくは「詩ぶり派」で、技巧の巧拙でいったら顕信は未熟ということになろう。まさにそのことが現在の『層雲』主流派の問題点で、その人達にとっては山頭火、放哉だって未熟なのである。だから簡単に山頭火、放哉を超えてとか、山頭火、放哉だけではない(貶める意味をふくめて)などというのである。

 技巧を全く否定はしないが、技巧が全面に押し出てしまうような作品では、山頭火、放哉がインパクトを与えつつあるほどのものは得られない。どこが違うのかは、韻性にかかっている。技巧派は技巧ゆえに部分の末梢にこだわり、文章化の中に埋没する。いっぽう、定型はまがりなりにも575という韻性の中にある。顕信が放哉に心酔して得たものは放哉の韻なのである。放哉が人々に共感を誘うなら、顕信もまた共感を誘う韻性を持つに至ったのであった。

 これが、顕信が定型(俳句評論家を含めて)に評価され、『層雲』でされなかった事情なのである。放哉は明確な3節で、顕信も3節なのである。3節ということになれば定型も575の3節ではないか。固定韻でないだけで互いに親しい関係がある。定型作家が顕信を理解し得るのは当然といえば当然ではないか。

 村上護氏は定型作家との対談で、自由律俳句は滅びたというような主旨の発言をした。これが当時の『随雲』の人々のアタマにきた。山頭火、放哉で稼ぎながら、また『随雲』の寄贈を受けていながら何事か、というのである。私にもどう思うかと聞いてきたから、村上氏は自由律俳句作家ではない、本を書いて売る人である。売れないものは存在しないも同然で、マスコミに乗らないもの(『随雲』など)は感覚的に滅びたというような発言となってやむを得まい。ましてその場が定型なのであると答えたがどうとられたか。「マスコミに乗らないものはダメです」と、これは村上氏と親しい荻原海一氏が私に言った言葉である。村上氏の言葉ととっていいだろう。

 こうのように、一般には山頭火、放哉で自由律俳句は終ったととられている。そこへ顕信が現れた。といっても、池畑氏がいなかったら、顕信も評価の対象になるには余程の時間がいっただろうと思うが。

 それにしても顕信は世に知られるようになった。顕信が評価されるということは、同時に自由律俳句が脚光を浴びることである。こうして自由律俳句は滅んでいなかったことが証明されることになった。顕信を買うひとりに村上氏がいるということは何かの象徴のように思えるのである(村上氏が顕信を知ったのは、池畑氏が「未完成」を送ったからである)。そうして、氏がどのように今後顕信を扱うか、私はひそかに注目している。

 私はマスコミに乗らないものはダメとは思っていない。自由律は今はむろんだが、過去においてもマスコミに乗らない存在であった。真実の門は狭い。入る人は少ない。知る人も僅かというのが自由律俳句、すなわち真なるものの宿命であり、真なるものは万人が共にするようなものではあり得ない(そうなったら堕落だ)。

 たとえ、自由律の火が消えたとしても、感性のヒラメキという極限のポエムに目覚める人は何時かは、どこかで現れるであろう。そういう真理のあかしとしてここに顕信が出た。そこに目覚めれば第二、第三の顕信がこれに続くだろう。いうまでもないが村上氏にも、ほかのマスコミにも関係のないところで。

                             (13・3・24)

 


 

無 条 件  

                 

 私には山登りは出来ないが、登山家には、

  <山に登るときは黙って登る>

 ということがいわれているそうだ。無条件ということだろう。

 よく聞く、「なぜ山に登るのか」と問われて、「そこに山があるから」と答えたということなどもそれだろう。理屈ではいえない何かを、そういう言い方でいったのだと思う。

 随句にもそれがある。何のために作ろうとするのか、などは野暮である。なぜかは理屈で述べてもはじまらないだろう。それを無条件というなら、随句の表すそのものにも無条件がある。

 

   月夜の葦が折れとる                放哉

 

 折れていたからどうしたというものではない。

 

   焼跡のにごり水流れる               顕信

 

 説明して分からせようとするものでも、分かるものでもない。それでいて分かるのである。だから無条件なのである。

 

   くろあげは頭の上を通りすぎる           敬雄

 

 説明しようとしないから、句はそのものズバリの表現になる。文章でなく韻になるのだ。これは句がだらだらと長くならないという性格を作る。だらだらと長くては焦点がぼけてしまう。

 

   ゴミが動いたコオロギが飛んだ           操子

 

 ズバリ表現では韻となり、文章の断片にはならないはずのものなのだ。それだけ読者に訴えるものが強くなる。佳い句が記憶に残るのはそういったことからでもある。着飾って長くなったものより短的なものの方が印象に残るのは当り前である。

 

   小さな魚群れて紅葉が回る             明人

 

   あの日の紅葉本から落ちた             芳江

 

   泰山木見下す車窓にいる              渓子

 

   水面にくぼみ六つでアメンボ浮かぶ        由紀子

 

 ズバリ表現、読者に訴えるもの、といっても、何も強調して相手を引きずることではない。反対に、何も言わない(よけいなことを)ことで、相手にしみじみと伝わることなのである。

 山に登るときは黙って登る。句も黙って作る(出来ていく)ことに神髄があるとすべきであろう。

 しかも、山登りには危険が伴うが、句作りに危険はあまりない。誰にも迷惑がかからず、本当の意味での自己表現がそこにはある。句作りは金にならないが、金に換えられない無条件があるのである。

 

   また雨音の葉の音                 傀子

 

                             (13・2・23

 

 


 

    著 作 権

                   

 いま、アメリカの音楽界では著作権をめぐって業者とインターネットのナップスターというホームページとのあいだで抗争中という。

 ナップスターが曲を無料で聴けるサービスを開始し、4300万人がアクセスしたそうで、だれでもタダで楽曲が聴けるようになっては、音楽家、会社はたまったものではないと訴え、現在、裁判中だそうだ。

 ところが2社がこの原告から下りることにしたという。これからの世の中はバーチャルの世界になる。若者たちには知的財産は共有されるべきものという思想があり、業者も今後のバーチャル世界の行方を想定するとき、いつまでも既得権益に固執していてよいものかどうか、とにかく4300万人の存在を無視できないということで、ナップスターとの妥協点を模索することにしたというわけである。

 将来を考えるなら、著作権・特許権が絶対という行き方が残れるかどうか。少なくとも反省の時期にきているというのが、評論家の意見であった。バーチャルの場では既存のルールもゆらぐのである。

 

 随句・俳句の作品そのものに著作権はない。一般にもそれをとやかくいう意識がなくて今まではきた。それで問題もなかったのである。

 しかし、あれだけ音楽界(のみならず各界)で著作権、チョサクケンと叫ばれるなら、随句・俳句もこのままでいいのかという意見が出てもおかしくない。

 たとえば某人の句の1字を代えて、作品を主張していいのか。全く同じ句が時と場所を異にして存在した場合、平成7年の作者は平成9年の作者に対して著作権を主張したらどうなるのか、あるいは主張できるのかどうか。短詩系文学では似た作品、同じ作品の存在も有り得るのである。

 むかし、「菊の香や明治は遠くなりにけり」に対し、「降る雪や明治は遠くなりにけり」が既にあったと問題提起されたことがあったように記憶している。結局、有名人作のほうが残ったらしいが、それでよいのかどうか。

 亡くなった自由律俳人、というより一行詩作家の某氏からその句集の贈呈に預かったことがある。中に、

 

   死の近しか青木の実は赤ききわみ

 

 の1句があった。これは何かの間違いではないかと思ったが、間もなく同氏の死去のため質すことができないでしまった。この句は海藤抱壺の名句である。それがどうしたいきさつでか、他の作家の句集に載ることになったわけで、こういったケースもあり得ないことではないと思われる。

 いっぽう、同じような句があるということに熱心のあまり、そういう句はすでにあるということばかりに目が届き、前進ができないでいるような場合がある。あれとこれとはここが似ているから認められないという(あるいは評価を落とすべきだという)。

 また、出来たは出来たが、どこかにありそうだというので捨ててしまう。同じような作品を同工異曲というが、そのことにばかり頭の中を占めて身動きできないようでは困る。 短詩型ではそういうことになりがちで、それは自分自身の中にも起こる。作った句がすでに何年も前に作った句だったという例で、長年やっていると私のような者などにもあった。数か月前の作を忘れていて、また作って出すようなことである。

 このように、自分で過去の作品を忘れるというのは珍しいことではない。他の人から、こういう句がありましたねと言われて、そういえばと思い出す。なにしろ何十年も、毎月50句も作ってきたのだから、忘れて当然かもしれない。自作ですらそうなら、某氏のごとき例があって不思議はないのである。

 今のところ随句・俳句に著作権は馴染まないようだが、もし同じ作品があった場合、先に作った作者の方を優先するなら、作品は発表されることが重要になる。それも、できるだけ大勢の目に見える場が好ましいことになる。

 そしてもうひとつ、これからの世の中ではバーチャルの場を大きく視野におさめておかなくてはならない。いかにそういった世界に載せていくか、ということも考慮されなくてはならないだろう。

                               

 以上は他の文学や音楽の世界でそれほど著作権が問題になるなら、としての話である。短詩文芸ではあまり問題にならなくてきた著作権。それで済む世界があるのだから、他の部門でも今ほどに厳しい掟でいつまでも続けていいのかどうか、考え直す必要があるだろう。

 当の作家が亡くなって、別に協力もしなかった家族、子孫が長年にわたって権益を主張することを可能にした現況は、社会環境がまったく異なった今、これに応じた対応が求められるのは当然である。むかしは著作権などなかった。著作権問題があるために、アーカイブの記録、公開が進まず、せっかくのIT展開が滞ったりしたのでは、社会の指弾を浴びるに至るだろう。

 能の野村万作氏は自分のホームページで、手の内、用具、教材のすべてを無料公開するという。こうした勇気ある対応が、この古典的舞台を明日に繋げるのである。

                            (13・1・4)

 


  

  『層雲』復帰をめぐって

                    

 『随句』36号で述べたように、『随雲』が『層雲』に戻ることになったようである。当然なことで、随雲の名の示すように、これは一時の便法のようなものであった。

 それを、『随雲』100号記念とかいって盛大にイベントを組もうとするから、では、『層雲』の名はどうなったのかと、私は言いたかったのである。『層雲』を井泉水墓前にお返しする、などという完吾の言い分がペテンであることは見え透いたことであったのを、荻原家が申し入れたということで、役員はこれに従うことにしたのだろう。では、実際に井泉水墓前にお返しするということが行われたのだろうか。

 いつかの大会で、私は、井泉水墓前に参詣して『層雲』の名をお返ししてもらったらどうか、と言ったことがある。冗談ぐらいにしかとってもらえなかったが、だいたい、お返しするだの何だのが冗談と同質ではないか。

 完吾が『層雲自由律』を出すといったとき、荻原家は約束が違うと断ったが、完吾は聞かず強行した。このことが『随雲』に報じられたとき、私はこの際、『随雲』は『層雲』に戻る行動を起こして当然と思った。

 その後、荻原家を訪ねることがあったとき、それとなく、その話を海一氏に打診した。まだ機が熟していない感じで、次のときは、村上護氏との問題で、『随雲』と荻原家のあいだがおかしくなりかけていて、「まだ早い」とのことであった。

 その後も、完吾ひとり「層雲」の名を使って雑誌の発行を続け、ほうぼうへ『層雲自由律』を売り込んでいる。

 こういうことが許されるなら、私も、『層雲ネット』の名に『随句』を改める計画をもっている、と、そのことを海一氏に通じておいた。別に返事をいただくつもりもなかったが、いただく必要も感じなかったのである。そのなかで、私は次のように述べた。

 <『随雲』によれば、来春はその100号とかで祝賀企画がなされているようです。しかし、その中に『層雲』の名を失ったことについての反省のよ『層雲』で育った私どもにとって残念なことであり、異端者に『層雲』の名をほしいままにされている現状も苦々しくてなりません。

 今までの経過を見れば井泉水墓前への名の返上とは伊藤完吾の謀略であったことは明らかで、『層雲』の産みの親である先生が、『層雲』の消えることを望まれるわけがなく、一般会員が望むはずもなかったのであります。> 渡野辺朴愁氏からの電話では、『層雲』の名に戻してはどうか、という荻原海一氏からの話で、役員会を開いて決めたそうで、『随雲』から提起して実現したのではなかったということであろう。

 このへんが、私と役員(特に浜松)との認識差のあるところで、私は『随雲』100号は喜ばしいが、それは、「層雲」に繋げるまでの経過としての功績であって、『随雲』の名がいつまでも続くことを望んでいるのではなかった。『随雲』は『層雲』であると思えばこそ、われわれは結集したのであって、これが、浜松の『随雲』なら、何もその指に止まらねばならぬことはなかったのである。

 これでやっと、『層雲』が再生した。『随雲』100号といっても、その間にどれほどの作家、作品を生み出し得たか。その反省をも踏まえて、栄光の名を辱めない成果と行動が求められよう。そのために如何にあるべきか、が、われわれの双肩にかかっている。

                       (H12・11・19)

 


 

  『層雲』の名

                     

 『随雲』が100号になるとあって、新年号で大々的にイベントを行うようである。早いもので、そのこと自体はまことに結構と言わねばならないのだが、いま一つ気乗りしないのは、では『層雲』の名はどうなったのかということである。

 周知の通り、完吾は『層雲自由律』の名の雑誌を発行していると聞く。「層雲」という名を使用しない、ということについては荻原家と完吾のあいだで悶着になったことが報告されたところであったが、完吾に反省はなく、「層雲自由律」は大手を振って「山頭火ふるさと会」でも、『俳壇年鑑』でも登場している。苦々しい限りだ。

 経過をみれば、「層雲」の名を井泉水墓前に返すというのが、完吾のペテンであったことは明白であろう。ペテンにかかったということは、当時の幹部の落ち度でもあったということになるはずだが、そのことについては一切なにもない。過ちなら直せばいいと思うのだが、それもない。

 『層雲』が『随雲』にならざるを得なかったというので、当座われわれも従ったが、今や、『随雲』は随雲で『層雲』に関係がないといわれそうだから、ひとこと言っておきたい。

 『随雲』は『層雲』だと思えばこそ、われわれは随雲会員になったのである。これが、浜松の『随雲』なら、加入する義理はなかったのだ。それが、名だけに限らず、編集方向も『層雲』(完吾編集は別として)に似もつかぬように見えるに至った。会員の皆さんはこれでいいのだろうか。

 『層雲』の名を大事に思うのは、層雲の中に自由律俳句の精髓があったからで、これが山頭火・放哉を生んだのであった。この土壌は大切にしたい。層雲の歴史を振り返れば、曲折はあったにしろ、自由律俳句の根幹は他派にはなかったことが知れる。現在でも、他派の状況や作品を見れば、今のところ層雲系に「まとも」がある。他派におもねいて、それが大方に認められたと考えるようでは情けないのである。層雲の先輩たちに対して申し訳ない――というより、先輩に及ばぬと悟るべきであろう。

 浜松の総会で、『層雲』の名が駄目ならせめて自由律俳句の名をとどめて、完吾のような短詩だとか、一行詩とか、口語と限らぬ口語俳句とかに走ることのないよう、「自由律俳句」の名を『随雲』の表紙に使用することを提案したのであった。それも、今や怪しくなって、そういった他派に近付いて仲良くなどという行き方になった。『層雲』の、井泉水健在のうちにはそういうことはなかった。『海紅』『多羅葉樹下』『碧』、名前は忘れたが吉岡禅寺洞・内田南草といった人々が派を立て雑誌を出していた。別に仲良くしなかったのではない、明確に一線が引かれていたのである。

 わたしは、この際、『随雲』は『層雲』に返すべきだと思う。100号も続いたのは随雲の功績だが、その中には、それを支えた会員がいる。会員の心の中には『層雲』があったのだ。むしろ、層雲が随雲を支えたのだと思うべきである。

 100号に達して『随雲』に慣れてしまった、というなら、『層雲』に戻して慣れるのはもっと早いだろう。早くしなければ完吾のほうで『層雲』を出すかもしれない。荻原家にもしものことがあったら、証人はいないのである。

 こういうことをいうと、また浜松から嫌われるだろうから、私は予感があって『随句』を始めた。

 また、この際、層雲の名を使わせてもらって「層雲ネット」をこの場に設けることにした。層雲の名を完吾の独占にしたくないのである。心の中に「層雲」を持つ人々の協賛を得て、『随句』を読者参加のものに改装したいと考えているのでよろしく。

                          (12・10・21)

                       『随句』36号掲載予定

 


           

         随句は最短の韻文        

  随句(自由律俳句)が短い詩型であることについては、誰も異存のないところであろう。おそらく、世界の詩のうちで最も短詩型だろうと思われる随句の、なぜそうなのかについてはあまり注意が払われていないのではないか。                   

 私はこれを「感性のひらめき」ゆえとするが、「ひらめき」を思い付きぐらいに取られて多くの理解が得られていない。これは現存の、既有の場からは得られそうにないので、無駄な反論はしない。     

                   

 随句が韻文であるべき、という認識はもっとあやうくなっている。                      

 随句にはワクがないので、何でも自由だという考え方が次第に大勢を占めてきているのである。実は、自由律だからこそ韻性が重大なのだが、そういう大勢からはそれこそ思い付きの文片しか生れない。随句は文章の断片ではないということが、特にインターネットを通じて随句をめざそうとする若者には最初から欠如している現状なのである。

 短いということと、韻文ということを習得するには3節の韻、いわば口癖を身につけるのが速い。

 実作で2節にとどまっても、4節以上に崩れても句は文章化するのだから、である。

 こういったことは、この会では耳にタコができるほど言ってきたことだが、まだまだ充分の理解が得られているとはいえないようだ。

 「感性のヒラメキ」といったが、これは知識や意見のヒラメキではないということで、そうでないと句は川柳や警句や標語やコピーのようになってしまう。これも文章の範疇にあるもので、韻性からの逸脱となる。

 最近では、「感性の」ということが誤解されやすいので、「五感の」と言い換えているが、視覚・聴覚・触覚・嗅覚・味覚をいい、実感表現である。

 実感表現であるということは、実体表現でもあることで、感覚として相手の感性に再現される。それが3節であることによって書かれている内容を超えた感覚となり、作者のクリエーション(独創)が伝導される。

 こういうことをいうと、以前あったアバンゲールとか、アプレゲールといった自然主義・現実主義に聞こえるかもしれないが、わたしの主張はもっと切実に、人間本体に還元したところから発生するそのものをいう。単なる主義主張を超えてそれは実存するのである。

 そういう実体は、説明を求めない。だから無条件であり、だから韻なのである。したがって句は文章に背を向ける。

 句が文章のごとくなることを忌むのは、そこに感性を認めがたいことからで、先人たちが散文と称して忌み嫌った表現であったが、前記のように俳句というものに洗礼を受けていない若者には理解されていないので、今のインターネットの場では「ふざけ」やコトバ遊びが主流になってしまっているのである。

 「自由律俳句の部屋」のちょっと見だが、

   ヨメドスルハリコックル

   謹呈静電気

   どうかつうかつどん

   るつぼにはまるうらみください

   明日2×8アッ今は6×9

   カドミスロンドリュッ

 これで、正気で褒め合っているのである。

 こういう場からは、どうせまともなものは生まれるはずもないのだから、取り合う必要はないが、メイト(われわれの仲間)ではまじめに、自然に、世間の騒ぎに惑わされないで、自己の本性をうたうことにしたい。

                         (12・9・28)

 


危機意識の本質         

「旧態依然の作句態度を是としていたら、それは、停滞を意味し進歩はありません」(『随雲』8月号「編集手帖」)

                       

 「K御身安泰Lといっただけの在り方では俳壇他派も注目する様な作家も作品も生まれて来ないから「随雲」の将来が無い…」(渡野辺朴愁氏の書信)

 今回の麗日集自選4句、麗日集・香風林の選句圧縮と「試作欄」拡大は、一種の危機認識と取れる。現状に対する危機認識は結構である。それが場合によっては分裂、分派に立ち至ることがあっても、これは『層雲』で度重ねたことであった。ムラ意識に固まった他派の状況にない『層雲』の伝統であったとしてもよい。初めに主張ありき―これが発足以来の『層雲』を『層雲』たらしめたものであった。

 自選4句と「試作欄」については、「しばらく見て欲しい」とのことであったからここに言及はしない。問題は何が危機意識を持たせるに至ったか、である。そのことの実態が追及されないできたから、過去の『層雲』で行われたマンネリ打破は掛け声だけに終わることが多かった。分派も面子や形式で争っての分派であった。分派のその後がめぼしい作家も作品も生まず、形式だけの珍奇の追及に終わっている現状がある。

 私には『随雲』指導者の危機意識が本質を認識しない中に浮き上がったものに見える。何となく変化がないから何とかしなくては―程度のものに見えるのである。無理も無い。過去における危機意識はほとんどそうであった。しかし、だから今もそうであっていいわけではない。

 『随雲』の危機と言わず、マンネリという状況の因って来たるところはレトリック(修辞)中心の行き方にあると思っている。うまい表現、巧みな構成、形容、技巧。そういったレトリック中心主義にはいつもマンネリの宿命があるのである。その雰囲気からは何等精神的なものは生れてこない。精神性など求めるのではないが、自然に付随する精神性が貴重なのである。

 このことに気付かずしての危機意識だから、その打破を、同じレトリックの「試作」に求めようとするのだ。外形の珍奇によって改革が成ると考えるのは幻想にしても危険過ぎる。そこには大きく分裂の素因があり、しかもいわれのない、感情的な分裂を醸成することが過去にはあったのである。

 「さがみの・随句」に危機意識などなかった。生き生きとした生命感の中にあった。最近は域外のインターネットの場で、われわれの作品が注目されてきている。われわれの作品を見せ合っていたり、句集の問い合わせや紹介が短歌の場や、もともと定型だろうと思われる場で交換されているのも見た。『随雲』では片隅だが、顕信に続く作家として幸生を評価し、山頭火・放哉・顕信・幸生を自由律俳句の生んだ宝物だとする論者も現れた。

 すでに「新しき酒」も「皮袋」も生まれているのである。レトリック至上主義にはそのことが見えない。いや、見たくないのかも知れない。大会の席上で「さがみの」の作家に対し「ひらめきだけでは足りない」などと説得を試みる幹部がいたそうである。「試作」どころか生える芽を摘んでかかるのだから前途が知れている。そういう場に『随雲』が停滞していたら、いくら危機を叫んでも未来は無い。

 私はわれわれの考え方や作品が世に取り上げられるのは五十年先だと思っていた。それが意外に早くウエーブとなりはじめているのに驚いている。現代感覚を私も見くびっていたのである。世界は確実に変化してきている。ITの多くは遊びだと今も思っているが、そうでなく、何か本質的なものを求めている分子も確かに存在しているのである。

 ある新人は私に、「将来雑誌による結社や派閥は無くなるのではないか」と言った。これが新しい感覚なのである。

 今、マイカーを持たない家庭はなく電話のない家もないが、三十年前はどうだったか。時流のスピードは前年の比ではない。パソコンが各家庭に行き渡るのはあと1年だろう。政府によって各人にインターネットのアドレスが支給されたら、結社はどう対処するのか。そうなってのウエーブの中で、新人だの若者などの判別が問題なのか。そこでまた、それらのすべてを受容する体制があるのかが問われる今日なのである。

 本質を見誤った危機意識からは何ものも芽生えない。これもまた歴史が証明することだ。吹けば飛ぶような野火などの言うことではない。

                         (12・8・7)


 

泡沫論

                                   最近、作家がマンネリに陥っているという言われ方が登場しているらしい。マンネリねえ。懐かしいようなコトバだ。そう言えば、花鳥風月という言われ方も聞いたような気がする。花鳥風月ねえ。五十年ひと昔というが、変っていないものだ。五十年前にもそういうことが言われ、蝶よ花よなどいいかげんにせよ、などとののしる人がいたものだ。いや待て! 自分もそのクチだったたかも知れないぞ。それでどうなったか。どうもなりはしなかった。

 古い新しいという言い方も同じだ。自分では新しい方にあるものとして、「古い」とする(多分に恣意だが)ものを非難した。名指しをするのではなく、年齢層の高い者を一把ひとからげにしてだ。その果ては? 何より自分自身が古くなった。仕方がない。誰も若いままではいないのである。

 こういう主張を私は泡沫論という。泡の如く消え去るワンパターンだからである。消え去るのは、ものごとの本質がその場にないことによる。泡は結局ビールの本体ではないということだ。

 題材などはどうでもいい。蝶で、花で、感激したならそれでいいではないか。いまどき蝶は見られなくなってきていた。それが東京のビルの谷間でひらひらしていたら、1句あろうものではあるまいか。花を愛でない人はいない。品種も多様で世界各地の名花が目を楽しませてくれる。むかし、ある作家が難病であと何か月の命を宣告され、その毎日を牡丹を眺めあかして過ごしたという。花という題材が問題ではないことがわかるだろう。

 今や、自然環境の維持がグローバルな問題となりつつある。花鳥風月も見直される世情にあるのである。つまり、随句・自由律俳句が求められる状況にあるということだ。私のいう随句は自然と感性に両足を踏まえて立つものだからで、決して飛躍した述べようではない。

 今朝、早朝の草刈りに出掛けた。暑熱の時期は早朝に限るのである。まだトンボも飛んでいないが、そのトンボは稲の葉にとまって寝ているのだった。鳴かないカエルがぴょんぴょん跳ねていった。こういう世界が、私が生きている間、続いてくれることを祈るのである。

 夕方の作業では、汗で見えない目に昇り始めた月を見ることがある。花鳥風月ねえ私はもう一度つぶやくのだ。問題の本質はそれを眺める、ということよりもそれを生きるということにあるのではあるまいか。

 古いということなら、私などは格好の標的だ。が、私が問題にするのは、何がまともか、何が自然かということで、それがたまたま「新しい」と自認する皆さんに気に入らないというだけだろう。誰かが、「新しいものは(コトバであったか)、その新しい部分から腐る」と書いていたがその通りで、五十年前のナウいハイカラな言い回しやコトバは消えてなくなった。しかし、「古い、新しい」でわめく泡沫は次々現れる。やんぬるかな。

                                           (12・7・20)

 


 

自由律俳句誌「随雲」の麗日集自選出句が、5句から4句に減らされたことについて私見。

何が改正か  

           

 自分では気付かなかったが例会の席上指摘されて、投稿規定の改正が『随雲』の裏表紙に載っていることを知った。これが「改正」なのかどうか?  そう言えば、大会の席上、5句というところを4句に絞って出してもいい、というようなことを代表が発言されたことを思い出した。それが、麗日集自選だけを標的にしたものだったとは、迂闊に気付かなかったのである。しかも「改正」として決め付けられてしまった。

 1句2句にこだわるわけではないが、こういう方針はどこから出てきたのであろうか。おそらくは、麗日集自選が最近目立ってきたからであろう。自選投句者が少なかった段階では問題にされないできたのである。多くなったのは「さがみの随句」会員の増加によるのだから、標的はこれにある。選者選より自選が増えては目障りなのだ。

 それで自選を1句減らさせて格差をつけ、選者選を目立たせようとは狭量な選択ではないか。ほかに方法もあろうに、減らす、押さえるとは、会員を増やしたい、新人を獲得したいという運動に水をぶっかけるようなものであろう。

 たしかに「さがみの随句」は会員を増やすことに尽力したつもりである。自選が増えたのは小生の責任だといえなくもない。責任はとるが、しかし、押さえる発想にはなにか「やっかみ」の臭いがする。「そんなことはない」と言われるに決まっているが、事実は押さえることなのだから、鈍感な小生でも他人から指摘されてみればその通りと思う。

 そもそも、「さがみの随句」会員を会費の多い社友にさせ、作品には小生が目通しして責任を持つということで、編集室の了解を得て「さがみの随句」は自選をスタートさせた。新人を励まし、勢いを失いかけた者の背を叩いて、欄を1人でも多く賑やかにと、投句も小生が仲立ちして努めてきたのであった。

 それが目障りととられるようであれば、仲立ちも勧誘も一切止める。今月は仕方がないが、来月の投稿分から皆さん自身で投稿するように通知を出した。

 「マンネリということではないですか」と誰かが言ったが、マンネリなら旧人にこそある。なにも麗日集自選に限らない。それで「試作欄」を充実させるのだそうだが、「試作」は「試作」で変わったことや目立つことをやってみせることだ。インターネットのフォーラムでさんざお目にかかったことである。それで何が生まれたかというと、ひとりよがりだけで、まともなものの入り込む余地など無くなってしまったのである。

 それにおべっかを言って煽るような他派の人物もいたが、さすがに今は姿を見せなくなった。勝手にやらせればそういうことになる。その現実がインターネットのフォーラム(ここではニフティ、このフォーラムが一番大きい)には現れているのだ。これは、インターネットのフォーラムを覗いたり、参加した経験のある人なら先刻ご承知のはずである。『随雲』作家でも何人か登場した人を見たが、現在ほとんど立ち去っている。まるで次元が違うのだ。 小生は、そういう場にあいそが尽きて別の場を作った。ニフティにはパティオという制度があって、月500円を支払えば、個室を作ってくれるのである。個室だから、本来は契約者の承認がなければ入れないが、小生の部屋(随句の場)は開放している。したがって、「さがみの随句」を去った人でも小生らが今、どんな活動をしているかをかいま見ることができる。反対意見の人でも見ようと思えば見られるのである。しかし、自然、まじめにやろうとする者だけが書き込むようになってきているが……。

 「試作」にまともなものが期待出来ないことは、骨身に沁みている。にもかかわらず、まともにやろうとしている者を押さえ、ふざけや手慰みを今のトレンドだと考えている者に紙面を回すというのは賢明な方向ではない。

 憎まれることを承知でいえば、マンネリとは『随雲』幹部の心根の中にあるのではないかと思う。

                         (12・7・11)

 

 


 

最近のパソコンのフォーラム「自由律俳句の部屋」は実にひどいていたらくになった。投句を見ると諧謔、語呂合わせ、文字遊び、ふざけがほとんどといっていい状態である。無秩序に、勝手な「自由」を振り回してこのようになる。自由に、のびのびと、楽しくやりましょう、という結果である。

    いのちは元気で筋肉だるい

    早春いちご人間もいちご

    ミレ・ミレニアムナミダブツ

    ス見カ芽ソ経ク露キ輪ム(すみかめしへくろきわむ)

    ポックリ肉まん爆竹ババンバンババアン

    ミニレアム・プレニドレて余韻

    ゼロみっつキリストのナ・ミ・ダ

句点を中に入れたもの(「層雲」の時空間にもあった)、☆などの記号を使ったものもある。まともにとりあっていられる雰囲気ではない。

部屋の発足当時は、まじめに取り組もうとしたものだったはずが、そういう発言が批判や非難と取られて、真剣な追求が隠れてしまった。「楽しく」と「遊びごころ」がすべての世界になった。真剣さとかまともさというものはパソコンでは通じない。誰かが、あるいはみんなが、そういう世界にしてしまったのである。

もともと、俳句は俳諧から出発した。俳句(もとは俳諧の発句)の「俳」は俳優の俳、つまり「わざおぎ」であり、「おどけ」や「滑稽」の意もある。俳諧の「諧」は諧謔の諧、「おどけ」であり、「しゃれ」「ふざけ」の類いである。俳句の根にはそういった概念が存在するのであり、パソコンの現状もその延長線上にあるものといえよう。

よく、「俳味」を追求しようなどといった発言があるが、安易に言うものではない。もし、まともにこの道を究めようというのであれば、上記のような諸事情を知った上でのことにしてもらいたいものだ。

芭蕉は「俳諧」のスタイルの中に「まともな」筋を見つけて「わび」「さび」「しおり」といったが、彼が実作で得た「無条件感覚」のありようを示したものだった。私は(今となっては)これでも不適確であると思っている。人間の感性を制限するようでは充分ではない。むしろ簡単に「五感のひらめき」で良いのである。

上のように誤解を招く呼称「俳」を嫌って、私は「自由律俳句」を「随句」とした。今、俳味なるものを追求するあまり、自由律俳句がパソコンの場で見られるような崩壊を来すなら、私は「自由律俳句」も止めて「随句」一本で行きたい。自由律などに古い歴史があるわけではなく、この名に執着するのも「慣れ」にすぎない。発句を俳句としたのは子規だが、流れと慣れで主流になった。定型で俳句の名が主流になれるなら、自由律俳句などといった長たらしい呼称より随句で流れが作れるだろう。と、私は思うのである。

自由律俳句での主流は荻原井泉水だが、井泉水は自ら「随翁」と称し、「随」という個人誌を発行したりした。もう一歩進んだら「随句」もそばにあったであろう。井泉水が「随句」を旗印に掲げたら、大方は追随しただろうに残念である。これが名もない傀子だからいけない。本当は傀子などといった吹けば飛ぶような分子に言わせてはいけなかったのである。傀子では古株も若手もついてこない。

したがって、やるなら個人で、これからの若者を育てて「わかる者」のエリアを拡大していくしかないと思う。名前などどうでもいい、といったものでは決してないのである。そこには明白な「筋」が存在し、旗印は流れを導くものだからである。

パソコンの自由律俳句が崩れてしまい、その名が崩れの場になっては、本物の場を別に作る必要に迫られる。私は同じターミナルのパティオに「随句の場」を設けた。この場はふまじめな態度で入り込む者を排除する。真剣に取り組もうとする者だけが共有する場にしたいと思う。最初は指定したパスワードがないと入れない場であったが、今は自由に入れるようになっている。入りたいと思う人には相応の意志があるものと考えるからである。

随句は人間感覚の根底に根差す文芸である。私に実力はないが、随句そのものには実力がある。本物の随句が示す大道を、誰がいなくても歩いて行くつもりである。

                                   野火(12・2・3)

 


 

決定的瞬間

「われわれは発明してはならない。発見でなければならない」

数日前の教育テレビでカルチェ・ブレッソンを見た。ブレッソンが91歳でまだ活躍しているとは知らなかった。報道写真家ロバート・キャパと同時代の写真家で、キャパのほうはたしかベトナム戦争の取材で亡くなった。ブレッソンはキャパより年長だったと思っていたから、もう亡くなったものと思っていたのだった。

ブレッソンを有名にしたのは「決定的瞬間」という言葉だった。なつかしい言葉だ。

私も一時期写真に凝ったことがあって、月に30本も撮っていた。暗室も作り現像、焼き付け、伸ばし、すべて自分でやった。カラーフィルムが出て、素人では手におえなくなり、業者任せでは自己の出番はないので面白くなくなって止めた。

瞬間に何かを発見するという立場は、随句にも共通するところがある。写真は絵画よりも随句に近距離に在るのかも知れない。発明という、作ることでなく、発見という受象に生命をかける場が共通なのだろう。

彼はインタビューに答えて、感受性と直感を強調していた。瞬間の喜び、それ! よし! というのである。それは一瞬と永遠が出合うことだとも言っていた。これは「証言であって、考えていることを言うのではない」と彼は言う。まさに随句の無条件ではないか。頭で考えることを拒否して「ひらめき」に生きる。われわれもまた発見に生きるものである。

 

                                                   野火 11-10-12