随文・随想

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草原の掲示板より

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<<   作成日時 : 2007/10/22 11:43   >>

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承前、
というわけで、この比類ない瞬間の芸術を正すには、私のような無学で気の弱い男にはよほどの覚悟が要ります。「鬼になろう」、これが傀子という号のスタートでした。鬼の子に人偏をつけたものです。
随句は日本人の魂がこもった芸術です。「魂」は「鬼が云う」と書きます。それは随句の名句が示すもので、名句は鬼の言葉です。今まで随分いろいろと書いてきましたが、私は私自身の意見とは思っていません。すべて先輩が実作で示した名句がそのように叫んでいるのだと思っています。
その模範的な作家が種田山頭火です。私は種田山頭火を知りません。私が「層雲」に入った年(昭和15年)の秋、山頭火は亡くなりました。この年には海藤抱壷も亡くなっています。何か運命的なものを感じています。
それから70年近い年月が経ちました。昭和15年、私は数えで15歳でしたから、数えで85歳は70年目です。当時周囲にいた先輩はもう誰もいません。
当時の人びとと今の人の違うところは、真剣さです。未だ自由律俳句という名称は確定していませんでした。新俳句とか内在律とか言っていたものでした。
間もなく自由律俳句が出版界を中心に一般化しましたが、改造社から俳句全集が出版されたとき、たしか11冊目が自由律俳句集だったと思います。すぐ、俳句(定型)の片隅でいいのかと思ったものです。その答えが「随句」なのです。
 

 

 

help リーダーに追加 RSS 随句の名

<<   作成日時 : 2007/10/21 12:31  

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昨日はクロネコの集配を待ったのですがが、とうとう来ませんでした。「随句社だが」と言いましたら、「あとで行く」との返事でしたから、随句社を知っているものと思ったのですが、それほどの知名度はなかったということです。今朝、リュックを背負って集配所へ行き、「草原」の発送を完了しました。
ところで、その「随句」という呼び方ですが、ネットではかなり広まってきました。この呼び名を言い出したのは20年も前の旧「層雲」誌上でした。旧層雲では一般的でないから使わないでくれと言われたものです。しかし、私のグループでも、未だに「俳句」と言っている人がいます。今の人は定型俳句の体験がないから、いわゆる自由律俳句も俳句と言って平気なのでしょうが、私のように70年も前から定型派とやりあってきた者にとっては、定型と自由律が同じという意識はありませんから異常に響きます。
それに、今流布している自由律俳句は殆どが旧「層雲」がベースとしたものからはみ出しています。つまり詩ぶった文句(ぶんく)です。これを正そうとしたのが随句でしたが、多数の前で成りませんでした。あんな言わば「シビリズム」と同居できませんから飛び出したので、私は自由律俳句という言い方もしたくありません。
ネットのおかげで、少しは知られてきた随句の名を、死ぬまでにどれだけ広められるか、死んだあとに残せるかが私という存在の課題でしょう。
 

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             放哉と寅さん

いつか放哉と渥美清について書いたことがあります。山頭火より放哉に拘泥した渥美の心情には寅さんに象徴されるテキヤ、つまり反社会的要素があるように思われます。反社会は左翼の思想ですから、左翼シンパの監督の作品になったのでしょう。
こういう思想からは放哉の,いわば「すがめ」の視線に親近感が生まれるのでしょう。
「すがめ」つまり暗部。山頭火なら、
    てふてふひらひらいらかを越えた
と、明るいですが、放哉は、
    一日物云はず蝶の影さす
蝶は影で捕らえます。
    墓のうらに廻る
    足のうら洗へば白くなる
    淋しい寝る本がない
    月夜の葦が折れとる
    釘箱の釘がみんな曲って居る
    春の山のうしろから烟が出だした
うら・ない・折れ・曲る・うしろといった「すがめ」が放哉で、左かぶれにはたまらないところなのです。
しかし、左右は別として、そういう捉え方は句作りのヒントになります。印象っぽいといいますか、一つの自己表現でもあるので、新人が自由律にアプローチするきっかけにはなりやすい、ということです。私はそこに顕信を置いているのですが・・・・・・。(「草原の掲示板」19−10より)

 
                       国民性と写実

 

 『正論』3月号に古田博司という人のエッセイがあった。題名は「愛国の季節」である。 
<日本文明の精髄は、森羅万象のことごとくを細かくかつ生き生きと描写しようとする「写実性」である>

 として、源氏物語絵巻・信貴山縁起絵巻・伴大納言絵巻・鳥獣戯画をあげ、この伝統が北斎漫画となり、現代のアニメ文化に引き継がれている。こうし
てリアルを描くために、日本人の手先は器用になり、表現は精緻になっていった。この文明の特徴は、古代からずっとそうであった、とある。対照的に
海外の例として中国人は頭の中の風景を現実化し、どこにもない風景を描く。つまり現実をゆがめるのだという。

 日本でも漢画の影響を受けて南画・北画が流行し雪舟や狩野派の山水画を生んだが、底流には写実尊重があったのだろう。「うた」の世界でも発句と
いう極めて単純化された中で、無条件感覚の表出としての芭蕉を生み、近代に至って子規の写生俳句を生み、これが土壌となって自由律俳句を生んだのだ
った。

 随句は、この日本文明の精髄である写実性を感性、すなわち五感に見出だしたものである。森羅万象に対する日本人の心情は「ことば」にある。古来
何千年引き継がれた言葉をベースとしてリアルな感情を集約的に作品化するものである。

 ところが日本のいまの世情、特にマスコミは、幻想の写実に陥ってゆがめられた目でしかものごとを見ようとしない。これは本来日本人の伝えてきた
体質に合致しないはずであろう。エッセイの骨子はここにあった。

 古田氏は韓国の大学で日本語教師をしていた。そこで目にした韓国人の偏頗な態度に、「ああ、日本人でよかったな」と率直に思った。「韓国より日本
が好きならなぜ韓国に住むのか」と言われて以来、絶対日本に帰ろうと思ったという。

 最後に古田氏は日本の現状に警告して、「写実の民が現実に目覚め、大本営の悪夢を二度と繰り返さぬことを、現実性と写実性の狭間でさらに自国の
文明を豊かにして行くことを、日本国とその文明を愛する筆者の提言としたい。」と結ばれている。
海外にいて初めて日本が見えるということであろう。

    
リズム論について

 

 『俳句界』( ・7)の、「なぜ、自由律俳句を詠むのか? 自由律とはなにか?」における俳論に、『層雲』選者のS氏が井泉水のリズム論をあげて
いるので所感を述べる。 リズム論というのは、定型の575韻を捨てた自由律俳句が依って立つ韻性を説明しようとしたものだが、自由律の韻性の一面
は示したものの、すべてを解き明かしたものではなかった。リズムは展開して成るものだから、リズムだけでは集中が成り立たない。自由律俳句が短的で
あることの要因が説明できない。従って、S氏の論説は「自由律とはなにか?」の答えになっていないのである。


 『新俳句入門』という井泉水の名著があった。小生はこの本によって『層雲』の門をたたいた者だが、当時は未だ「自由律俳句」の名は確立していな
かったことが分かる。それはともかく、ここで井泉水は「調べ」としてリズム論を展開している。上げられた例句に秋兎死(光利氏はこの号であった)
の、
 
   麦は刈るべし最上の川のおしゆく光り
 がある。これを、

 ムギハ(三)カル(二)ベシ(二)モガミノ(四)カハノ(三)オシ(二)ユク(二)ヒカリ(三)と分解、

 このうち「ムギハ」の「ハ」、「モガミノ」の「ノ」、「カハノ」の「ノ」はテニオハであるから軽く読まれるので、大体としては三・二・二という調
を以て繰り返したのだが、「ハ」「ノ」は軽いから二音を基調としたものとして聞こえるとし、最上川が悠々としかも一つの力を以てグングンと押してゆ
く、この力がこの言葉の調を以て如何にも如実に表現せられている。ここにこの句のいいリズムがあるとし、その上で、最上川(五)を「最上の川」(二
音基調)としたので全体の調がよくなったとされている。さらに、定型では5にするために不要な一字を入れたり必要な一字を省いたりするが、それが如
何に馬鹿らしいことかが解ろう、とある。

 私などには、最上川をわざわざ「最上の川」とするほうが不自然で馬鹿らしく思えるがリズム重視ではこんな解釈になるのであろう。私の3節論でいく
と、「の」があるために、
    麦は  刈るべし

    最上の  川の

    押しゆく  光り

 となり、句は6節に読まれる。節が二分されて焦点がぼける。確かに麦と川に視線が割れて感じられるのである。リズム重視が不自然であることの標本
のようなものだ。

 リズム論はやがて、

   りんごの隣の隣もりんごの赤いりんごをお買いなさんし

 というような句を生んだ。面白いという人もいるだろうが、この調子ですべてが貫かれたらどうなる。句は際限もなく長くなり、阿呆陀羅経のようにな
る。つまり俗謡化するであろう。リズムが自由律の基調だとするのは所詮無理なのである。

    
口語俳句

 

 非定型俳句に「口語俳句」という一派がある。定型を口語表現すれば自由律俳句になるということらしいが、そんなやりかたで山頭火も放哉も句をつく
っていたわけではない。これは、まことしやかだが底の浅い主張で、自由律俳句そのものの本質をいうものでもない。

 『層雲』では、自由律俳句という名称の前に内在律という言い方があった。内在律にしろ自由律俳句にしろ、「律」ということを「口語俳句」は無視し
ている。定型の数韻を捨てて自由数を選んだからには、韻性をどう扱うかが焦点になるべきだったのに、口語俳句の諸君は経過を知らぬ年代だからであろ
う。韻性に関心がないようだ。

 もう十数年も前だったと思うが、たしか青磁というような作家から『主流』が送られてきたことがあった。当時から口語俳句を称していたと思う。今は
知らないが中に文語体の句もあったから、これをどう説明するのかと思った記憶がある。しばらくして秋田の人からも『主流』を送られた。失礼とは思っ
たが、こういう無韻の意味のわからない作品に賛成しないと返事をした。その後、その御仁があの返事の直後に死亡されたことを知って、悪いことをした
かと後悔したこともあった。いまも続いているところをみると資金は潤沢らしい。

 たしか浜松の鶴田育久氏の亡くなった夫人はこの一派にいたことがあると聞いた。それかあらぬ、育久氏が大会で田中陽氏の句

   自殺について知っていることを書きなさい

 をあげて、「どう思うか」と会場に意見を求めたことがあった。小生は「こんな韻性無視の、文章の一節にすぎないようなものを自由律俳句とは認めな
い」と発言した。ほかに発言はなかったから、おおかたは浜松に同調したのだろう。

 『俳句界』(06−7)の、「なぜ自由律俳句を詠むのか? 自由律俳句とはなにか?」の設問における田中陽氏の答えに、口語とは現代の日本語とあ
る。現代の日本語でない自由律俳句があるのか。また、そう言い立てるほどの価値があるのか。とにかくこれでは説問の答えになっていない。多くが自社
PRの作品だが、無韻の文句で、これが「主流」では山頭火、放哉は泣くだろう。

                         
                         言霊について
 言霊ということをよく聞く。大和言葉には言霊があって、発した言葉が現実になるとかいう信仰のようなものがあったとい
うのである。そのほかにも言葉に霊魂がこもっているというような解釈もあるらしい。しかしこれらは抽象的で、神がかった
印象でしかないように思う。

 大和言葉の言霊をいうなら、私は、いままで述べてきたような言葉の成り立ちに求めたい。それこそ古代人の感性(思い)
がこめられている言葉だからである。一言にして言えば、「あ」という単音の、それ自体に感覚がこもっていることによって
知れる。大和言葉で「あ」は陽気で明るい性格を持つ。これは万年不変の原則で、日本語は今も変わっていない。このように
単音にに感覚を抱く民族は日本民族以外にいない。これこそ言霊ではないか。

 日本語は単音を続けて成る。「あ」に「き」を続けて「あき」、さらに「ら」を続けて「あきら」、「か」を続けて「あき
らか」となる。だが後続の言葉の意識は先頭の「あ」が代表し、「秋」も「明」も「明らか」も陽性である。大和言葉はこの
「ア」音を中心に展開した言葉である。反対の陰性は「う」の音である。また、神聖で、霊的な性格が「い」の音である。す
でに度々述べてきたのでここで詳記はしない。

 大和言葉はこの三つの音階を中心にしたものであった。これに後代、「お」の音。「エ」の音が加わったと思う。

 日本国内に人間が住んだ痕跡は石器次代にさかのぼるから、数万年前にはこの国に人間がいたことになる。原始日本人であ
る。彼らが黙っていたわけはないだろうから、当時からなにがしかの言語は交わされていただろう。原始日本語はこの「あ・
い・う」が基本だっただろう。それは「お」、「え」が域外から加わったとみえるからである。次代は縄文後期から弥生時代
だったろう。古墳時代・飛鳥時代に至って漢語が入ってきて、政治の中心を覆ったが大和言葉は古来の基本を喪失しなかった。
この漢語を栄養にして学術の進歩を将来したのだったが、結果、日本語は書かれた文面によらないと意思の通じがたい言語に
なった。さらに近年、テレビを中心とした情報の氾濫が、日本語の急激な変貌を生みつつある。語彙の喪失、発音の変調、用
語の単純化、日常生活に200語しか使えない年齢層が一般となった。言霊もなにもあったものではなくなってしまった。こ
れでいいのか、というのが現代日本人へ求められている問いである。(19-2-9 野火)

随文・随想

(目次)

  1.湖畔の女性たち  2.ふんどしと腰巻  

 


 

            湖畔の女性たち                                       さがみの野火

 

 

  天正元年(1573)8月、浅井長政の小谷城が陥落した。長政に嫁いでいた信長の妹お市と3人の娘(茶々、はつ、とく)は木下秀吉によって救出され、秀吉は戦功によって浅井の旧領の江北3郡12万石と小谷城が与えられた。晴れて一国一城の大名になった秀吉は姓を羽柴と改め、城を今浜に築くことにした。

 今浜は古くは京極氏の砦のあった場所で、琵琶湖に突き出た交通の要所にあたっている。長浜の名に改めたのは知将竹中半兵衛の進言によるそうで、長浜駅近くに巨大な石碑がある。秀吉は小谷城下の民衆を集団移転させ、城下町を整備し、多くの寺院を移転させた。 天正3年から4年にかけての入城にあたって、母なか、妻ねねのほか側室南の方も同時に入城させている。南の方の出生は不詳だが、公家の娘だという噂もある。秀吉は37歳、ねねも若かったから、かなり焼き餅を焼いたらしい。信長がねねを呼んでたしなめたという。

 この南の方に秀吉は男女2児を生ませている。本妻ねねに子のなかった秀吉は、長男に あたる石松丸の誕生がよほど嬉しかったのだろう、「内祝いじゃ」と町民に気前よく金銭を振る舞ったそうだ。町民たちは、これを基金に、氏神長浜八幡宮の例祭に「曳山」を建造して城下を曳きまわした。今に残る「曳山まつり」のはじまりである。

 残念なことに、石松丸(秀勝と命名)は2歳で病没(女児も夭折)、小谷から移した寺の一つの妙法寺に葬ったという。案内書にも地図にもなかったが、町内で聞いて歩いて尋ねた。なるほど、これでは地図にもなかったはず、というほどの荒れ寺で、境内だったと思われる堂前は駐車場である。堂というより町外れの集会所といった感じで、わずかに山門だけが残されていて、こぼれ種か矮性のヒマワリが一本花を見せていた。

 秀勝墓地は別の場所である。矢印を細い路地の奥にたどって見つけた。松の木(保存指定、樹齢400年の黒松)があって、数基の墓塔の突き当たりの小廟がある。中に幼児の墓らしく小さく可愛い感じの石塔が見える。五輪塔を崩して位牌の形に近い。正面にお題目と「朝寛霊位」の文字、右側面に天正六年、左側面に十月十四日の文字がある。

HIDEKATU.jpg (26121 バイト)

(秀勝の墓)

秀吉はこの子が忘れられなかったらしく、のち、迎えた養子の複数に「秀勝」と名乗らせている。

 天正10年(1582)6月、明智光秀は本能寺を襲い、信長を自殺させた。その上で各地の諸将に誘いをかけたが、多くが誘いに乗らなかった中に、誘いに応じた武将もいた。若狭の武田元明と近江の京極高次である。高次の妹竜子は武田元明に嫁いでいたので、二人は義兄弟のあいだがらだった。

 光秀に応じた二人は、ともに当時の没落大名で、高次の京極家は先々代のころから悪政のため家臣団の反逆に遭い、家臣団の代表となった浅井氏に実権を奪われていたのだった。その後は羽柴秀吉が北近江を領して長浜に居城したが、この頃は備前にあって、城には母なかや妻ねねのほか僅かな手兵しかいない。京極高次はこれを攻め、なかやねねは美濃の広瀬村に難を避けた。

 一方元明は、城主丹羽長秀不在の防備の手薄な佐和山城を襲い、これを手中にした。佐和山城は佐々木定綱の6男時綱が最初に手掛けた城で、街道筋の要害であったが、無人では仕方がない。

 山崎で光秀を敗った秀吉と長秀は、勢いに乗って佐和山城を奪い返し、秀吉は更に兵を進めて長浜に至った。城兵らは逃げ去っていたが、その後武田元明、京極高次は行方が知れなかった。

 信長なきあとをどうするか、諸将が清洲で談合した。秀吉と柴田勝家とが対立したが、光秀を討った秀吉の意見が大勢をしめ、秀吉が長浜へ帰った翌日、武田元明が近江の山中で捕まった。秀吉の調べに対し元明は、高次の行方も妻竜子の行方も知らぬと言い張り、斬首された。

 やがて竜子は、京極の家臣山田某の敦賀の家にかくまわれていたことが判明、秀吉は高次のありかを聞き出そうとして、訊問に引き出させた。竜子は、「自分の身はどうなってもかまわないが、高次が斬られると名門京極家が絶えるので」と助命を嘆願した。ところが竜子を見て、噂では承知していたが竜子があまりに美貌であったため(秀吉が憧れてやまなかったお市にそっくりだったからともいわれる)、心を動かし、「女ながらも殊勝である」とかいって嘆願をいれることにした。そのまま行方の探索もうやむやのまま、いつか竜子は秀吉に抱かれる身分となっていた。側室松の丸さまといわれたのが竜子である。 

 お市をひそかに恋していた秀吉だったが、夫を殺した上に、風采の上がらない秀吉は嫌われ、清洲会議で柴田勝家に譲らざるをえなかった秀吉。あずかった3女のうち、長女の茶々に情欲を満たすことになった。淀殿といわれて、あまたの側室のうち、この女性だけに子を授かったのは皮肉だが、それだけ燃え立たせたものがあったのだろう。

 天下人となった秀吉は豊臣秀吉となり、関白となった。正室ねねは「豊臣吉子」の名を賜って「北政所」、生母なかは「大政所」となった。しかし、ねねの中には子を成した茶々への複雑な気持が捨てきれなかったようである。

 3女のうち、次女のはつを秀吉は京極高次に与えた。いつの間にか高次は許されて近江国高島郡大溝に所領を与えられていたのである。秀吉は竜子の松の丸をもっとも寵愛して、小田原役にも九州名護屋にも淀殿とともに伴って行った。

 この松の丸と淀殿とのあいだに、秀吉からの盃をめぐって争いがあったという。醍醐の花見の席である。この日の女輿の順序は1番が北政所、以下側室の2番に西の丸(茶々)、3番に松の丸、4番に三の丸(織田氏)、5番に加賀(まあ、前田利家娘)と続き、最後に前田利家の室(まつ)が従ったという。

 盃争いというのは、北政所が秀吉から受けた盃を味わったあと、松の丸が「お流れを頂かせて」と所望したのを茶々がとらえ、自分の方が順序だと言い掛かりをつけたことをいう。気の強い松の丸は、たとえ1子を成したとはいえ、自分の方が先輩である。まして、茶々の父系の浅井氏はもとをただせば京極の家臣ではないか、という思いもあったであろう。しかし、「子も成さない身では、お役にたったとはいえますまい」との茶々の言葉は松の丸だけでなく、北政所をはじめ居並ぶ側室たちの胸をも抉るものであった。この白けた座を、利家がとりなして、「その盃、うちのババどのにいただかせてもらえまいか」と言い、ねねも、「まあ、そうでした。お客人を忘れていました」と盃をまわして、なんとかおさまった、ということである。(「太閤記の女たち」佐竹申a著・光風出版)

 3女のごうは、最初嫁いだ夫が凡将であったため、秀吉は姉の子で養子としていた秀勝に娶せたが、これも朝鮮役で戦傷死。寡婦となっていたのを徳川秀忠へ嫁がせたていた。この結婚は成功で、ごうは長女千姫をはじめ2男6女に恵まれたのである。

 秀吉が没して、江戸、大坂のあいだが剣呑になった。これは1面では女の戦いでもあった。北政所は淀のいる大坂を背にして家康に親近し、子飼いともいえる武将たちへ家康に味方するように諭した。結果、家康の東征に従った武将の多くが秀吉恩顧の大名だった。 これに対して、大坂方についたのは近江衆といわれる、石田三成、益田長盛、長塚正家などであった。

 2女はつは姉(淀殿)と妹(ごう)のあいだをとりもって、なんとか和睦に持ち込もうとしたが家康にその気はなく、ついに成功しなかった。

 慶長5年9月、石田三成を首謀とする西軍と家康の東軍が関ヶ原で激突するが、夫の高次は当時大津城主となっていて、最初大坂方について出陣して行った。しかし余呉まで行ったところで東軍に寝返り、船で大津へ引き返した。

 大津城には、妻はつのほか、妹の竜子(松の丸、秀吉死後剃髪して芳寿院といった)も一緒にいた。これを西軍の1万5千が取り囲み、大砲を打ち掛けた。天守閣に命中した1弾で、松の丸の侍女2名が倒れ、自身も一時気を失っていたという。それでも城兵はひるまなかったが、外堀を埋められ、二の丸、三の丸が陥ち、本丸だけとなって、和睦を勧める高野山僧や淀殿、北政所の仲立ちもあり、15日早朝ついに開城し、高次は兵、老人,女、子供、2300人を伴って園城寺へ退去した。この日、関ヶ原では死闘が繰り返され、東軍が勝利をおさめたのであった。戦いを左右することになった小早川秀秋の裏切りは、北政所の示唆によるものだったようで、北政所はそのわずか前に甥の秀秋を呼び、家康に味方するよう諭したらしい。当時から家康が上洛のたびに北政所を訪れるので、両者の仲を疑う者がいたそうだ。まさか家康が淀殿、秀頼を殺すようなこともしまい、と疑ってもみなかったようだが、結果をみれば甘かったというしかない。

 湖畔にはもう一人、運命に弄ばれた女性がいた。明智光秀の娘玉子である。玉子は細川忠興に嫁いだが、光秀の反乱後、細川家は光秀に就くか秀吉に就くかで迷ったという。が、父幽斎の意見で中立を取ることにしていた。そこへ光秀からの勧誘の使者が来たが、この者が以前の玉子の想い者だったことから嫉妬した忠興はこれを斬り、反光秀を宣言したという。玉子はほとぼりの冷めるまで幽閉され、秀吉の命があって後、忠興は玉子と復縁した。が、玉子は運命を哀しんでか、侍女の勧めでキリシタン信者となり、洗礼をうけてガラシャの名になっていたのであった。

 関ヶ原役の前、細川忠興は東北の上杉討伐に向った家康に従っていたが、三成は大坂にあったそれら将兵の妻子を人質にしようと、留守宅に兵を向け、妻子を城内に取りこめようとした。ガラシャはこれを恥辱として家に火を放ち、家臣の刃に自らの命を絶って果てた。キリシタンは自殺を禁じていたからである。玉子の経歴をみると、このようないきさつがなくても死処を求めていたのではなかったろうか。

 お市の3女のうち、2女はつも実は隠れキリシタンだったという。夫高次は、大津城で西軍1万5千を釘付けにし関ヶ原の戦いに貢献したとして、家康は高野山から高次を呼び、若狭小浜に8万5千石を与えた。奇しくも妹竜子(松の丸)が嫁いだ武田元明の故地でもある。

 高次はここに築城を始めたが、完工を見ずに没した。はつは剃髪し、常高院となり、小浜に常高寺を建立して夫婦の菩提寺としたが、この寺は隠れキリシタン寺であった。夫の母(つまり浅井長政の姉)も信徒で、高次も信徒だったという。高次とはつの間に子はなく(いとこ同士で近親結婚だった)、庶子の忠高に妹ごうの生んだ子(秀忠の子)を嬰児のうちに貰い受けて育てた養女(名はやはりはつ)を娶せた。しかし子のないまま25歳で亡くなり、これを悼んだ秀忠が養母はつを呼び詰問する場面が「葵三代」(NHK)にあった。高次がある催しのためにその臨終に立ち会わなかったことを難じたのである。

 高次が築城を始めた小浜城は、忠高が引継ぎ、34年間かかって天守閣の土台が出来たところで忠高が松江に転封になり、そのあとに酒井氏が入って更に41年、寛永19年に完成した。その後明治に至って解体、跡は小浜神社となり、今は周囲に石垣を残すのみとなっている。

 

     天守跡の鳶の羽拾っておく    傀子

 

 元和2年5月7日、京都東山の養源院で大坂の陣戦没者の供養が行われた。施主は高台院湖月尼となった北政所のねね。これには京極の誓願寺(秀吉の命で京極氏が諸堂建立)に閑居中の芳寿院(松の丸竜子)と、常高院(はつ)が列席した。ねねと彼女らのあいだで、どんな会話がかわされたことであろうか。

                               (12・12・1)

 

 


 

  ふんどしと腰巻

                               さがみの野火

 

     まだのこっていたふんどしの跡       さとみ

 

 作者はいまどき珍しく「ふんどし」愛用者らしい。それ程年配というわけではないので、よほどの動機があるのだろう。

 ふんどしにも種類があって、キリリと締めるふんどしなら六尺だろうが、それについて井泉水は昭和12年6月渡米したとき(ハワイに1か月、北米に1か月滞在)、六尺を多数用意して行ったことを書いている。その随筆では、当時アメリカ人はパンツのようなものは穿かず、ワイシャツの裾で局部をくるんでいたという。六尺のサラシで幾重にも締めると臍下丹田、心身が締まって、なるほどキリリの感じであろう。

 ふんどしといっても、いまでは相撲のまわしで見るだけだが、軍隊ではみなふんどしで、それも「越中ふんどし」というものであった。これは三尺のサラシに紐をつけただけのもので実にシンプル。あれではキリリとはいかない。私の場合は痔の手術のときも越中をはかされた。病院の売店で売っていたものである。

 

     いきなご商売ですかといわれたふんどし   さとみ

 

 というのが同じ作者にある(句集『火輪』)。いきな商売とはテキ屋といわれる、早くいえば柴又のトラさんなども入るのだろうが、そういう職業ではまだふんどしだろうと想像させるものがあるのだろうか。場面の印象の出ている作品である。

 相撲以外では見ないといったが、今でも神社の祭礼などで神輿を担ぐ若者がふんどしを締めているのを見ることがある。当地座間でも、鈴鹿明神社の祭礼で神輿を担ぐ若者の白丁(ふんどし)を洗う場としての湧水があり、その名を「神井戸」という。いまではそういうしきたりは失われて見ることはできない。

 

 ふんどしといえば、こしまきにふれないでは片手落ちだろうが、コシマキという地名が座間にある。鈴鹿明神社に程近い、現在は小学校の敷地内に残る地名である。こしまきは女性の下着だったが、腰を巻くので「腰巻」と書く。ここの地名は「輿巻」と書き、鈴鹿明神社の神輿をこの場所でくるくる回してはやすので輿を巻くとしての輿巻である。

 コシマキの本来は山裾などで、山(または丘)を取り巻くような地形の場所をいい、字も「腰巻」と書く。ただし、「巻」は「牧」からきたと思える地名もかなりある。座間はもと「伊参」(いさま)といわれていたが、イサマのイが脱落してサマ、ザマとなったという説があり、伊参なら奈良時代に駅家(うまや)のあったところで、ウマヤはつまり馬をおく場所であっていいわけで、コシマキは「越牧」かもしれない。「越」は何かを越すことで、この地では川か沼だったろう。

 千葉県市原市の腰巻はどうも古代の「小島牧(コジマノマキ)」だったらしく、今の古牧橋(コマキバシ)は明治のころまでは腰巻橋(コシマキバシ)といわれたという。地名の漢字に当て字の多い実例である。埼玉県越谷市の越巻は「腰」の字を嫌って越谷の越をとったものと思える。また、群馬県中之条町に数ヵ所ある「腰巻」は窪地を取り巻く洗い場で、女性が汚れものを洗う場所からその名になったということである。

 腰巻をコシマイ、コシマエという地方があるよしだが、ミコシをぐるぐる回したというなら輿舞い(コシマイ)のほうがよさそうだ。「輿舞」と書く地名はないが、腰舞、越前(コシマエ)という地名ならある。

 コシマキは女性の下着で、下帯などと書かれるのも同じらしい。若い女性は赤、老いては白であった。むかしの女性はみなこれで、昭和初年、洋装が流行しだしたころ、田舎でも都会帰りの女性などが赤いスカートで歩いているのを見ると、コシマキのまま歩いているようで異様であった。

 私の叔母は、若い頃は美人だったので、近所の菓子屋の男と情事事件を起こした。男のほうは首を吊って死んだが、叔母は九十歳を越えて昨年亡くなった。家は私の生家の隣だったから子供のころは自分の家のように行き来した。

 私が東京に出て3年目過ぎで病気になって帰っていた当時、家裏の上がりガマチに腰掛けていたら、叔母がやってきて、いきなり裾をまくって赤いコシマキのお尻で私の膝に座った。度肝を抜かれて声も出なかったが、以来、私は女性のコシマキに甚だ弱くなった。 つまらないことを書いてきたが、コシマキの作品は見たことがないので、

 

    女の裾の水色がうちわをまたいだ     傀子

 

 をあげておく。

 

 私のホームページを見たといってメールをよこし、昨年の後半からは、毎日のようにメール交換するようになったグレース(ハンドルネーム)は、叔母の孫娘である。彼女はカナダに2年間いたそうで、グレースはあちらの友人がつけてくれた名だそうである。

 彼女にはなにも言っていないから、あんなことは知らないだろう。それにしても、その孫というのがもう40歳にもなるおばさんなのである。そしてまだ会ったこともないし写真も見たことがないので、どんな女性なのかわからない。しかし、弟の話によると美人だそうである。

                      (13・1・2)(「随句メイト」4号より)