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俳句と随句
私は自由律俳句を「随句」と称して久しい。自由律を「随」、俳句を「句」と
しての「随句」で、「随句」すなわち自由律俳句である。
私は「俳句」という名が嫌いだ。俳句の「俳」が嫌なのである。
「俳」の字を辞書で見ると、解字には形声とあって、
<人が意符、非は音符で、また、そむく意で、たわむれ・おどけの意にも用い
る。>(「新漢和辞典」大修館書店)
とある。「俳句」はもと発句と呼び、たわむれ・滑稽を旨とした俳諧連歌の発
句から子規が選んだ名だという。どちらにしても真面目さとか真剣さといった感
情にそぐわないものである。
その形の中に、芭蕉が真剣な意識を注ぎ込んで、芸術的なレベルに高めていっ
た。しかし、大衆化は俗化で、もともとが俳諧から起こったものだったから俳諧
も発句も俳句も、流行は常に俗化と隣り合わせであった。
事情は今も変わらない。自由律俳句にしたって、俳論などという場では俳味な
どといって俗化を擁護する論調さえある。
むろん、俗をとる方向もあるわけで、それが好みである人々もいることだから
それはそれで仕方がないが、少なくとも、私たちはまともに考えて随句を選んだ
のだから、指導者が俳味主導であって欲しくはない。
俳味というのはどういうことかというと、卑俗な感情の表出で、「やせ蛙負ける
な一茶これにあり」のようにである。子規は卑俗を嫌って「月並」といったが、
月並みは今もあり、大いにある。さらに俳味をPRするにおよばない。
われわれの場に引き合わせてみると、感情過多の表現はたいてい月並みである。
随句の極意は芭蕉の極意で、無条件感覚は同じである。つまり、理屈・情緒を排
除した場にそれを見るものである。随句では叙情さえないのだ。
情感を加えていくと、句は際限なく長くなる。戦後の一時期、ロマン派とかい
われて(私もその一翼であったかも知れないが)、若者の嫋嫋たる作品に人気が
あったことがある。むしろ、月並みでない行き方であったが、なぜか行詰まった。
長くなればなるだけ韻性が欠けるのである。
その反省が私を沈黙させた。句は短的であらねばならない、という思念が離れ
ず、作品が生れなくなったのである。
これが戦中の時期。復員してから、それでは作品が成らないので若干戻し、相
応の作品が認められて賞も頂いたが、短的であろうとすることから字数揃えに陥
った。今の山陰の作家諸氏と同じである。それが嫌になってこの世界から離れ
(別の事情もあったが)、十数年にわたってそれが続いた。
私は当時職業でも苦境にあって、山間のボロ家で単身赴任生活であった。飲め
ない酒にスイートワインから入って、石油ストーブに手をかざしながら句作を続
けた。が、それらの作品を発表したことはない。
そんな卑俗な生活の中から、山頭火・放哉に突き当たった。というより、彼ら
の句に突き当たったのである。私は、随句の真髄をそこに見たのであった。
それからぼつぼつ、その方向でできるようになった。放哉・山頭火を真似たの
ではない。真似てできるようなものでないと分ったことで、芽生えがあったのだ
ろう。
「層雲」に復帰したのは「柳」の唐沢隆三氏が、私の知らない間に社に推薦し
たからである。層雲賞受賞者は他の同賞受賞者の推薦があれば同人になれる内規
があったようだ。
間もなく私は「層雲」に「自由律俳句の名称について」の一文を書いた。「俳
句」の名の壁を破ることは今もって出来ていないが、その信念は変わらない。昨
今はパソコンやホームページの場で「随句」を使っている。ニフティに限っての
話だが、ここでは「随句」がかなり通用するようになった。秦野には「随句の会」
という句会も出来、「随雲」でもそのまま掲載されている。
(13年1月「随雲」は「層雲」にもどり、13年7月、「随句の会」は「かもめサイト」に合流した)
私は、自由律俳句=随句のつもりだが、最近の自由律俳句には私の信じる方向
と合わない、というより、山頭火・放哉が示した方向が無になるような傾向が主
流になった。これをさらに詩的にもっていこうとする指導者の意識が見え、この
傾向は今後一層助長されるであろう。
こうして自由律俳句はまっとうなものでなくなっていく。言い換えれば、自由
律俳句=随句ではなくなっていくということだ。
私の宿命は、その流れの中で、まともなものを残していくことだ。それを共有
できる、特に若い人々を集め育てていくことであろうと思う。少数であってもそ
の根を絶やさないことが重要なのである。
先に延べたように、俳句には俗化の性格があるのだから、多数化、大衆化は必
要ない。今の、この辺りがよく、またこの場(放哉・山頭火その他との歴史を共
有できるという意味で「層雲」)がよいと思っている。別の集団を持って、お山
の大将になる気はない。
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