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随句の考え方 自由律俳句は自由律というが、どうでもいいような野放図なものではなく、ちゃんとしたベースのあるものです。 1.随句の原点は「感性のひらめき」にあります。感性とは五感で、視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚をいいます。これらの体感覚は瞬時にして自覚されるもので、これが「ひらめき」です。人間は何十億といますが、たとえ海外にいても、知人に会えば瞬時にしてそれと識別できます。「ひらめき」が瞬時であるところから、随句は「最短の詩型」をとるのです。 2.随句は感性の所産であります。理性とは基盤を異にし、理屈、感想、意見などを述べるものではありません。だから、文章の形を取らず、韻を成すのです。「最短の詩型」は「最短の韻」でもあります。 3.五感は実感で、実在であるはずです。したがって随句は実体感を表出するはずであります。観念、抽象といった実体のないものの表現は本来のものとは言えないと考えます。 4.随句を機能させるのは日本語(本来の日本語で、大和言葉という人もいる)の特色によります。随句の韻性は3つあり、それは数韻・音韻・意韻です。大和言葉はそれらを具備した言葉です。 5.随句は3節です。「最短の韻」という「最短」は句の長さではなく、句を成す節(フレーズ)数の最少数をいいます。それが3です。句の韻は節相互の共鳴・循環・反響によって、そこに書かれた語内容を超えるものです。 「随句とは」とは、以上のことがらを説明することで、以下順を追ってできるだけ具体的に述べることにします。
足の裏
久しぶりの東京句会(平成9年)、招待いただいたので出かけた。浜松から幹部某氏も来ていたし、例の反傀子のI氏もいた。穏やかには済むまい雰囲気だったが、結果、そういうことになった。 それはどうでもいいが、句会あとの一杯のあと、Mさんの家が近いということで、皆と一緒にうかがったのだが、そこでの話。放哉の「足の裏洗えば白くなる」とか「墓の裏に回る」なんて今でもどうかと思う。と幹部氏が発言して、そう思う派と思わない派で意見が割れた。 単純な作品だから、説明しやすいので取上げてみよう。 足の裏洗えば白くなる 「なんだ、こんなの、洗えば白くなるなんて当たり前じゃないか」とはたいへん正直な告白だと思う。当たり前と取るのはこの句を2節で読むからで、言い換えると文章として読んでしまったからだと思う。2節では、 足の裏洗えば_白くなる または、 足の裏_洗えば白くなる で当たり前となるのだ。 随句は3節ということが頭にあれば、3節に読む。 足の裏_洗えば_白くなる である。韻に数韻・音韻・意韻があることはたびたび述べた。数韻は5・4・5である。真ん中の4だけ変化して5はもとの5に帰る。575と似た韻である。音韻は語頭音に従うから、3節はア・ア・シの音で、陽・陽・霊である。意韻ではこれらが相互に反響し合うのだが、数韻で5・4・5の各節は同じパワーであろうとするので、5に比べて4はゆっくり読まれようとする。4から5に移るとその分、5は早足となる。早足は最初の5に突き進んでいく。「足の裏」へ突っ込むとそこに「裏」が存在する。「足の裏」とある節の主体は「裏」であったのだ。 2節目の「洗えば」も単なる動作だけではないであろう。洗うには水・冷たい・流れるなどの属性を含む。こうして句全体が洗われてみると、3節の意韻は、裏_水_白であることがわかる。 /\ 白 / \ 裏 /_________ \ 洗う(水)
裏_水_白の反響、共鳴、循環がこの句の無条件感覚、つまり感性のひらめきなのである。白から裏に至るとき、「!?」があるのだ。
墓の裏に回る も2節に、墓の_裏に回る もしくは、墓の裏に_回る と呼んだら「なんだ、つまらない」ということになってしまう。3節に、 墓の_裏に_回る と読まなければならない。数韻、3・3・3である。これは足の運びだ。音韻はア・ウ・アで、陽・陰・陽である。これは陽中陰を含む。意韻は
/\ 回 / \ 墓 /________\ 裏 である。「!?」、回れば裏も墓であった。墓もまた回るのである。 それにしても、足の裏といい、墓の裏といい、放哉は裏の人ではあった。 この2句を馬鹿馬鹿しいという人にも当然ながら人間として感性を所持する。ただし理性の勝った人ではあるだろう。そういう人にも感性があるなら、口では罵倒していても、心のどこかでは何かを感じているはずである。感性は感性へひそかに浸透しているであろう。理屈で罵倒できるものではないのだ。
だから、私は随句作家とは3節に読み、詠む人だと思っている。2節の棒読みする人は句を文章としか見ていない。そういう人のご高説などは知れたものである。これは私だけの意見ではない。放哉・山頭火その他の、随句で今も心打たれる作品として語り継がれ、読み継がれている作品が示すものである。 |