……うめとっては苦い話題ですね。
いまから、6年前札幌から就職で横浜に引っ越して住んだ場所が、
「神奈川新町」
ご存じの通り、快速特急が止まりません。
当時、渋谷まで通勤していましたが、
「快速特急が止まらないないなら京急で東京へ出る必要はない」ってことで、
神奈川新町〜(京急)〜横浜〜(東横線)〜渋谷
のコースでした。(東横線は時間はかかるが座って行けるので良かった)
実は、朝横浜駅までの特急が「2扉2000形」でした。
「座りて〜!!」の思いをよそに約3分すぐに横浜駅に到着します。
うらやましかったです。座って寝ている人、新聞読んでいる人……
いま、その光景は次の世代の車両に受け継がれているでしょう。
うめのように、「指をくわえてうらやましがる人」を横目で見ながら……。
伝言版にも記入しましたが、私の作った
「2000型ファイナルラン音と動画と画像のページ」
にリンクされていませんでした。
皆様にご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
http://www.geocities.com/keikyucreate_jp
京浜急行線利用最後の日(1999年12月20日あたり)に京急蒲田駅より乗ったのが2000形でした、最初は2100形が良いなと思った時もありましたが、やはり、3扉改造車が原形車より比率がアップした時には、2000形が一番良いなと印象も変わってきました、また1996年に初めて京急線で川崎まで行ったのも2000形でした、今でもその時の景色を覚えています、
確か、帰りは夕焼けがきれいで、車内の豪華さはもうを感激でした、「京急って良いな、JRより素敵だし」って思いました。
最後に、京浜急行電鉄の2000系に言葉を言います、「快速特急での2扉車活躍お疲れ様でした、これからも人生があります(3扉車)ので、その活躍も期待しています」。
約1年間、5Dに乗って通学してました(朝、黄金町→金沢文庫。学校は汐入)しかし、1年後に急行も無くなり、2000形も1000形や1500形の普通になりなんか損をした気になったのを今でも覚えてます。また、当時2100形が出始めた頃で(新物好きの僕は、ダイヤを調べて横須賀中央まで乗りに行ったこともあるが)これからどうなるか思っていたら、3扉の話を聞いたときは驚きましたが、いつしか乗れる、撮れると、当時は思っていましたが、とうとう、学校も卒業してしまい、滋賀に引っ越し、それっきりになってしまい、とうとう無くなってしまいましたが、思いでをありがとう。更に書くと、2000出たときは、豪華な車内にびっくりしました(近所の列車で一番)。あまり書けないのでこれで終わりにします。追伸、JR総研の可変軌間車?の車内にある椅子は、どう見ても2000形のようです。
2000形の2扉車無くなってしまって、寂しい限りです。
ラストランの日、仕事で品川を通ったので途中下車して2000を見ました。
乗れる人がうらやましかったです。
2000との出会いは、登場間もない頃だったと記憶してます。
その日、EF58の踊り子を撮影しに横浜駅に出掛けた時のこと。
無事撮影を終えて帰ろうとした時、京急のホームに真新しい電車が。
雑誌で見た京急の新車だなとすぐわかりました。
もちろん、追っかけて撮影しました。
私が当時住んでいた所は、小田急沿線だったので京急は未知の世界。
初めて2000に乗車した時、「特別料金は要らないの?」と思ったことも
ありました。(小田急にはロマンスカーがあるので、そう思ったんです)
この2000を見たのを機に、京急ファンになりました。
特にあの独特のモーター音は感動を覚えます。
幸い、3扉でこれからも活躍してくれるので”音”は楽しめるので
安心してます。
旧600形のラストランに乗車した時、本音を言うと2000を恨んだ
こともありました。でも今は、京急の車種で2000が1番好きです。
ちなみに2100は恨んでません。
いつかは2000も数年経てば形式消滅するでしょう。
その時はぜひ、登場時の姿に復元してと欲しいと思います。
ファン思いの京急さんだから、期待したいところです。
そうなると、旧600の時よりも異常な盛り上りになると
思いませんか?
これからも、まだ第一線で活躍する2000の益々の繁栄を
祈願し、話を終えたいと思います。
そういえば、先日大阪で部長に会ったとき、2000形の話は何もしなかったですね(^^;
最初に2000系の存在を知ったとき、私は小学校5年生、上大岡の日能研に通っていました。
屏風ヶ浦−上大岡を通っていた私には2000系なんぞ無縁、非冷房の1000系、700系が主な利用列車でした。
日能研から帰るときに下りホームで普通列車に乗って発車を待っていると、まだ、数少なかった2000系が
丁度上りホームに来たため、毎日のようにヨダレをたらしながら眺めていました(笑)
そんなある日曜の夕方、日能研のテストの帰りにいつものように上大岡で普通列車に乗って発車を待っていると、
2000系の快速がやってくるではありませんか!これは2000系に乗るチャンスだ、次はいつ乗れるかわからない、
よしっ、文庫まで乗っちゃえ!と思い、迷わず2000系に乗車、しかし混んでいて座れない。がっかりしたのを
覚えています。なんだかんだで文庫着、文庫で降りる人が多かったので空席が結構出来た。
中央まで乗って座ろうかなぁ、だけど、中央までの切符を持っていないから見つかったらどうしよう?などと、
小学生ながらにも不正乗車をしているという自覚があったもんで、結局、空席に数秒座って文庫で降りました(爆)
結局、小学校のときは毎日のように京浜急行に乗っていながら2000系には1度しか乗れなかったのを覚えています。
中学と高校は、東京タワーの近くの学校に通ったため、通勤ルートは「磯子−浜松町」「屏風ヶ浦−御成門」の
二通りが選択出来ました、京急に乗れば2000系が乗れるという魅力がありましたが、京浜急行はキチガイのような
朝ラッシュだったので、JRで通っていました。しかし、倖1のときに通学途中に京浜東北線でホモのチカン被害に
立て続けに2回遭い、これを契機に京浜急行に通学路変更しました。
高校生活の後半1年半は、通学時には朝一の通勤快速(野茂部長の言う久里浜発6:24のやつでしょうか?)と
帰宅時の3時過ぎの快速特急で2000系にお世話になりました。
大学に入ってからは、通学では屏風ヶ浦−横浜の利用であったため、来た電車に乗っていましたから、
2000系の利用は週に1〜3回程度でしょうか、それもほとんど立って乗っていたとい思います。
最後の乗車は昨年10月でしたが、通学で何度も利用しましたし、それで充分です。
2000形というとあくまで快速特急のイメージが鮮烈な人が多いと思いますが、僕の場合「特急」ですね。金沢文庫始発7:37の三崎口行きで、90sの始まりの3年間横須賀の高校へ通いました。クロスシート沿いのカーテンを半分ぐらい閉め、漫画誌を読んだり、単語集をめくったり、侍従川を渡るあたりで誰かのことを考えたり・・・続行する列車はみな大混雑だったのですが、文庫から楽に座っていけるなんて、贅沢が過ぎるのかなという気持のときもありました。朝日を浴びたままトンネルの闇を突き抜けるようなあの走りは、「今日もがんばるぞ。おまえも、自分を今日もしっかり運転しろよ。」と、語りかけていたかのように思えます。かけがえのない思い出をありがとう2000形。これからもお世話になると思いますが、ふとした偶然でクロスに座ることがあったら、きれいな思い出を呼び起こしてください。「金沢文庫〜横須賀中央」、快適な通学をありがとう。
小学校5年生のときに、三浦海岸へ行くときでした。品川駅で1番線で待っていた時でした。2番線には、7時04分着の回送電車が入線したときでした。私の心が動きました。これは!!これこそ2000形でした。こんな豪華な電車は、特急券がいるのだろうと思っていましたところ。なんと、1番線の7時10分発の特急・三崎口行き(土曜日)がこの電車ではないですか。京急に初めて乗ったのは、この時でした。
そうです。2000形2扉が無くなってしまうんですね。悲しい限りです。名古屋から杉田へ引っ越してきたのが3歳でした。もうその頃は2000は、京急の顔として、快特運用についてました。横浜・品川へ行くときは、上大岡で、乗り換え必ずと言っていいほど、この電車にお世話になりました。
あるとき、2000に乗っていると私の目の前の席が空きまして、私の父が、座りました。まだ幼かった私は、席がないのに気がつき「僕の席は?」と泣いてしまいました。すると隣に座っていたオジサンが席を譲ってくれたという、思い出があります。あれから16年も経つのか…
母と乗ると必ず、進行方向側じゃないと座らないという2000集団お見合い式ならではのおもいでもあります。
始めてみたときの思い出は、ちょっと…覚えていません。しかし、ほとんどの快特が2100になった今でも、品川駅で快特に並ぶ時は、ついついクセで、車両の後ろ側(座るとき、進行方向に向ける位置)にいまだ並んでしまうんですよね。(笑)
6歳の時に現在住んでいる六浦に移り、逗子線沿線になって、高校生になって東京のほうの学校に行くようになり、土休日(特に休日)金沢八景での接続の特急が2000であることを、楽しみにしていた頃もありました。
そういえば、逗子線直通の最後から2番目の急行電車にも、2000形2扉で走りましたね。
2000形2扉の椅子は座りごこちもよく、大好きな電車です。
それは、今でも変わりません。今後の活躍を期待しています。
最後にありがとう、「2000形2扉編成」
私が2000形の存在を知ったのは、小学生の時初めて買った京急電車の本が確か保育社のカラー
ブックス京浜急行(吉村光夫氏・著)で、その中に「900系電車まもなく登場!」と云う見出し
とともにペン画のイラストと新車・900系(仮称)の簡単な紹介がありました。当時は快特の
約半数が1000形で残りが600形(先代)でしたから、別によく乗る訳でもないのに大変嬉しく
思ったものです。
その後(半年位してからか?)本屋で鉄道ファン誌(83年3月号?)の表紙を見ると900系が!
高い雑誌だが買おうと手にとってよく見ると表紙には2000形とあり少々意外な感じがしました。
900形というのは計画時の形式名だったのですね。そういえば、カラーブックスにも900系(仮称)とあったなぁ…。
もう当時買った本は手元にありませんが(従って記憶違いがあるかもしれません)、そんな訳で
個人的には未だに2000形=900形と思っているのです。(ぉぃ)
その2000形も3ドア・ロング(正確にはセミロングか?)に改造されてしまいますが、内外装共
にとてもいい感じになってますね。外観では側窓の大きさがアンバランスなものの先頭部が原型
のままという事もあり中々精悍で気に入っております。内装では端部にクロスシ−トが残されて
いのが嬉しいところ。勿論120km/hの走行性能も維持されてますから、性能・内外装共に18m
3ドア車としては最も優れた車両の一つと云えます。
今後の汎用車の車内レイアウトはこの2000形改造車が基本なるのでしょう。
いずれにせよ末永い活躍が期待されます。
私が初めて2000を見たのは、大学の研修寮の帰りに生麦で普通電車を待っていたときに反対側のホームを通過する姿を見たときでした。一瞬にして「かっこいいなぁ」なんて思ってしまいました。
そして、その後、10月に初めて乗りましたが、それが何とさわやかギャラリー号で、(’95年のことですので2011でした。)私にとって思い入れのある編成でした。それ以来京急のスピード感に取りつかれてしまい、気が付くと京急ファンになっていました。でもあるとき鶴見の後輩から「2000が通勤仕様(三扉)に改造されるよ」と聞いた時はショックでした。そして、現物を雑誌で見た時は「何これ?」と言う感じでした。
でも、98年の7月に初めて三扉の2000を見た時は、顔付きは2000のままで、側面が1500というスタイルにはしてやられたなぁと言う感じでしたが、車端部にクロスが残っていたのはうれしかったです。そして、その「車端部クロス」が気に入ってしまいました。(^^)
二扉の2000には、7月に友人たちととともに乗ったのですが、その時にはまだまだ頑張って欲しいなぁと思っていました。でももうお別れなんですね・・・・・・・最後まで残った2051と言えば、学生時代に「Wing1号」で乗った編成でもあります。2000系ありがとう。
2000形で思い出すのは、「鉄道ファン」誌の新車ガイドですね。当時、京急関係はロング
おじさんこと吉村光夫氏が担当されていて、「ミスター2000に聞く!」というインタビュー
形式の車両ガイドが印象に残っています。確かこれより前に、800形がデビューした時も
「ミスター800に聞く!」が掲載されましたが、ミスター○○に聞く!は2000で打ち止め
となり、1500の時は見向きもされませんでした。
大学時代、よく城ヶ島のバイトの帰りに、わざわざ三崎口から乗った電車を久里浜で乗り
捨て、2000の快特に乗り換えたのが懐かしい思い出です。
自分の鉄道写真がなんとか人に見てもらえる水準になったのを、初めて実感できる写真が撮れたこともあって、私の好きな電車の一つになりました。
野茂部長さんもアップしてある、京急長沢〜津久井浜間で撮影したものでした。
この区間での撮影には苦労が多く、順光で撮れるのは「回送」の表示だけだったのを、思い出します。
2100形が登場したとき、嫌な予感がしたので、ここ数年2000形の2ドア車は意識していたものの、去年は予定してた場所が工事のためススキがきれいに刈り取られてしまったため、2000形2ドア車の最も印象的な写真は一昨年が最後になってしまったのが、とても残念です。
2000形のシートは座り心地が良かっただけに、ちょっとさびしいです。
2000形登場当時、私は小学校3年生だったのですが、たまたま
出かけたときに、京急インフォメーションに「2000形登場」の記事があるのを
見つけ、「すごく豪華な電車が走るんだなぁ」と子供心にワクワクしていたのを覚えています。
そして、早速2000形で運行された初日1号にて初乗車。思ったより窓が大きく、
椅子もカラフルで座りやすいというのが第一印象でしょうか。当時クロス車といえば
旧600形のみでしたので、座り心地については文句なく良かったと思います。
その時から私は2000形の虜?になり、学校の作文では2000形の感想を書き
図工の時間は2000形のオルゴール、彫刻、絵画、銅版画などなど作ったりしたようです。
よほど2000形が気に入ったのでしょうね。
小学校時代、唯一京急に乗るチャンスが北久里浜の水泳教室に通う時だったのですが、
帰りの北久里浜−堀ノ内間を乗るためだけに北久里浜駅で30分近く[特急][品川]
(当時夕方1本だけ品川行C特が運転されていた。)を待ったこともあります。
その後あまり2000形を利用することがなかったのですが、高校入学後、通学で
17B(浦賀発7:57の通勤快特)を利用することとなり、高校時代約2年半の間
「快適通学」することができました。また、浪人時代も1B(久里浜発6:24の通勤快特)
利用でしたので、車内での受験勉強もはかどりました。
浦賀をはなれて一人暮らしをして時はあまり京急に乗ることがなかったのですが
たまにウィング号で帰省するときなど利用し、「やっぱり慣れ親しんだ電車の車内は
落ち着くなぁ」なんて思ったこともあります。
2100形が登場したとき、またまた快適な車両を作ったもんだなぁと感心したと同時に
2000形の今後についても気になっていたのですが、わずか3年足らずで全て改造されて
しまうとは、非常に寂しい限りです。
最近ではこないだのダイヤ改正前まで休日の7C(浦賀発7:30の特急)に2051Fが
充当されており、通勤時に利用して最後の名残乗車をしたばかりでした。
座席も登場当時に比べだいぶ色あせましたが、17年前に登場したとは思えないほど
現在の特急車両と遜色ないデラックスなアコモデーションは今でも自慢できる特徴の
1つだと思います。
8/27にラストランが行われるようです。残念ながら私は仕事のためラストランを
見送ることができませんが、その前にもう1度名残乗車をして、「数々の想い出を
ありがとう」と声をかけようと思います。
期間限定で惜別・2扉2000形掲示板を開設しました。
皆様の2扉2000形の想い出などを書き込んで下さい。
テスト