大和の出雲人形由来
今より約2千年前、第11代垂仁天皇の御代32年7月に皇后日葉酢媛命が薨去されました。 その葬儀に先立って殉死の遺風を改めようとされた天皇は、当麻蹴速との相撲で出雲の国より大和に召し出されていた野見宿禰の「土の人馬や種々の形を作り、これに変えられては」との意見をお取り上げになりました。 野見宿禰は出雲の国より土部百人を呼び寄せ、土師連(はじのむらじ)として今の櫻井市出雲に住み、土偶製作に当たったと伝えられています。 また、このようにして作られたものが、後の埴輪と言われているものであります。 その後出雲には土偶を作り販売する家がたくさんあり、長谷参りの土産物として非常に喜ばれてきましたが、明治の末期より交通機関の発達するにつれ、当地を訪れる人も少なくなり、製作も途絶の状態で今日に至りました。 この度、窯元であった当家では昔そのままの技術を活かせ、これが再興を図ることになりました。素朴であり野性味に冨み、そして昔を偲ばせる数々の人形は、その源が遠く大和時代の埴輪に始まり連綿として伝わっていることを思えば、誠に誇り高い郷土民芸品と考えられます。 広く鑑賞されますれば幸いと存じ上げます。 |
平成10年春 奈良県櫻井市出雲1208 窯元 水 野 佳 珠 電話 0744−47−7255番 |
この出雲人形の情報は、吉原肇さんからいただきました。
吉原さんのHPは、こちらから